虎の威 第6話
長い、長い夢を見ていた。
それは小さい頃の夢だったような、つい最近の夢だったような、体験した事もない出来事の
夢だったような気がするけれど、恐らくそれら全ての夢を見たのだろう。
睡眠と覚醒を繰り返し、夢の現の間をうろつきまわり、熱に浮かされ、寒さに震え、渇きに
喘いで得た水分を嘔吐して、起き上がれぬまま三日が過ぎた。
実際は千宏に日付の感覚は無かったのだが、常識的な高熱レベルまで熱が引き、ぼんやりと
した意識の中で誰かと交わした会話の中で、三日も寝込んでいたんだぞ、と聞かされた。
もう大丈夫だ、と言って頭を撫でてくれた大きな手は、たぶんアカブのものだっただろうと思う。
何か食べられるか、欲しい物は無いかと聞かれ、千宏は困らせるだけだと分かっていながら
熱のせいにしてプリンが食べたいと答えた。
数時間後、当たり前のように手作りプリンが出てきた時には驚愕したが、ありがたく頂いた
ところ、母の手作りプリンよりもはるかに濃厚で美味である事に二重に驚愕した。
四日目には立ち上がらなければ普通にしていられるようになり、五日目には室内を歩きまわ
れるまでに回復した。
ベッドから出ているとアカブが怒るのでやはり大半はベッドの中だったが、暇を見てはアカ
ブやパルマが部屋に来てくれたので、寂しさや退屈に押しつぶされると言う病人特有の症状に
悩まされる事は無かった。
二週間に及ぶ闘病生活の中で分かった事が二つある。
一つは、この世界にも元の世界と同じような食べ物が多くある事。
もう一つは、この世界の人間用の薬はどれも千宏には強すぎて、用量を間違うと逆に毒にな
るという事である。
そろそろ完治するかに思われた七日目の夜、頭痛がひどくてパルマに頭痛薬をねだった時、
パルマはカプセルに入った薬を二錠千宏に差し出した。
アカブがくれる薬はいつも水に溶かしてあったので不自然さは感じたが、元の世界でも馴染
みのあるカプセル薬に警戒心は覚えなかった。
与えられるままに呑み、そして十分後に猛烈な眠気に襲われて意識を失った。
後で聞いた話によると、一瞬心停止まで行きかけたらしい。
パルマは泣き腫らした顔でごめんなさいを連発し、よほど走り回ったのだろう、アカブとバ
ラムは疲労困憊とばかりにぐったりとへたり込んでいた。
しかしその強力なショック療法のおかげかそれ以後の体調はすこぶるよく、二週間めを迎え
た朝、千宏は誰かが食事を運んで来る前にベッドを降り、着替えを済ませて部屋を出た。
千宏の部屋は二階にある。
数多くある客間の一つをあてがわれているらしく、廊下には千宏の部屋と同じような扉がい
くつも並んでおり、それらは全て空き部屋のようだった。
そう言えば、興味を持ったはいいが結局聞いていない事がいくつかある。
例えば、たった三人と数人の下働きしかいないのに、何故ゆうに数百人は収容できそうな要
塞染みた建物に住んでいるのか――とか、何故従姉妹のパルマがこの家に住んでいるのか――
とか、そういった類の事である。
一応、王から土地を与えられた領主なのだと言っていたが、それにしては領民もいないし、
第一領主が森に入って資材を集め、それを市場で売って生活しているなんて聞いた事が無い。
それとも、この世界ではそれが普通なのだろうか。
字が読めないので書物を漁って調べる事も出来ないため、それを確かめる術はやはり本人達
に訊くしかない。
だが、内容が内容だけに、それがこの世界では地雷的質問である可能性もおおいに考えられ
るため、千宏はやはりもうしばらく、そのことについては触れずにいようと考えていた。
「おはよう」
挨拶と共に食堂へのドアを開けると、揃っていた三人が一斉に振り向いた。
「チヒロ!」
叫んだのはパルマである。
今正にかぶりつこうとしていた骨付き肉を放り出し、ぴん、と尻尾を立てて駆け寄ってくる。
「おま……! この馬鹿!」
「なに勝手に起きてんだ!」
罵ったのはアカブで、怒鳴ったのはバラムである。
パルマが心配そうに額や首筋にぺたぺたと手を当てて熱を計り、どこか痛い所は無いかとう
るうると瞳を潤ませた。
「大丈夫。たぶん、完治した」
「ほんと? ほんとにほんと?」
「うん。一昨日辺りから普通に元気なんだ。そろそろ部屋に閉じ込もってる方が辛いよ」
パルマ達の心配そうな視線がくすぐったく、居心地が悪くて苦笑いを浮かべてみせる。
「お腹すいちゃった。あたしの分もある?」
心配をかけた分努めて明るい声を出し、千宏は率先して食卓に腰を下ろした。
千宏用に用意しておいたと思われる、食べやすいように細かく切った肉料理や、適度に冷ま
したスープが千宏の前に並べられる。
本当に空腹だったのでありがたく食事に取り掛かると、その様子にほっとしたように三人も
食事を再開した。
パルマが嬉しそうに尻尾を揺らしながら、いっそ清々しささえ覚える豪快さで次々と料理を
片付けて行く。
「よく食べるね……」
と思わず零した千宏の言葉に、パルマはだってさぁ、と唇を尖らせた。
「もうすぐ発情期だよ。ちゃんと体力つけとかないと、とてもじゃないけどもたないよ」
「はつ――」
がちゃん、とフォークを皿の上に落下させ、千宏は目を見開いた。
パルマが音に驚いて尻尾を逆立て、どうしたの? 具合でも悪くなった? と心配そうに身
を乗り出す。
「は……発情……期?」
「あ、わかんないか。えっとね、種族によるんだけど、定期的に発情期って言うのが来てね、
その期間は――」
「いい! いやいい! 分かる! 知ってるからいい!」
慌ててパルマの言葉を制し、青ざめてバラムとアカブに視線を移す。
虎の発情についてはよく知らないが、猫のメスが定期的に発情するのは知っている。
オスは発情するのだったか――いや、犬と同じで、メスの発情に合わせて“その気”になっ
たように思う。
だとすると、パルマが発情するとこの二人も――なんと表現しようか、“もよおす”のだろう
か。その場合、パルマ一人でこの二人の相手をするのだろうか。いやまさか。まさかそんな事
はないだろう。
「へぇ――チヒロの世界にもあったんだ。発情期。じゃあチヒロも――」
「人間は発情しないから! いや、この世界ではヒトか! ヒトは発情しない生き物だから!」
「いや、常に発情してるんだろ」
がりがりと骨をかじりながら、アカブが当たり前の事のようにそう言った。
愕然と振り返り、何を言い出すのかとあんぐりと口を開く。
「いや、自分の意思で発情できるんだろ?」
スープをすすりながらバラムが言う。
そうだったっけか、と骨をかじりながら立ち上がり、アカブは一冊の本を開いてぱらぱらと
ページを捲った。
「交配教本じゃねぇからさすがにそこまでは乗ってねぇな。あー……そう言えばよ。ヒトって
やらなくても排卵するんだろ? チヒロ。おまえ月経っていつくるん――!」
「馬鹿ぁあぁ!」
たまらず赤面して手元のナイフを振りかぶり、思い切りアカブに投げつける。
咄嗟に身を引いたアカブの頬すれすれをナイフが飛んで行き、そして完全な沈黙が訪れた。
「な……なんで怒ってんだ?」
スープの器を手に持ったまま、バラムが恐る恐る口を開く。
あぁ、そうか――と、千宏はがっくりと肩を落として手の平で顔を覆った。
「ごめん……なんでもない。ちょっとあっちの世界の常識にしがみ付いてた」
「ル・ガル製の生理用品買ってきてあるよ。お店で売ってた」
それはなんとも、切実にありがたい話である。
「あの……ヒトは、まぁ、常に発情って言うよりは、自分の意思で……っていう方が正しいと
思うよ。うん。たぶん……」
「へー。本当は私達ももう、わりと自分の意思でその気になれるから、別に発情期とかいらな
いんだけどね」
「発情期のおかげで夫婦仲上手くいってる奴らもいるんだ。一概にいらねぇとも言えねぇだろ」
アカブの言葉に、それもそうだね、とパルマがうなづく。
なんとも常識からかけ離れた会話過ぎて、逆に頭が冷めてきた。
昔、飼っていた猫の発情について調べた事がある。
発情期とはすなわち繁殖期であり、猫はその期間以外に子供は作らない。単独行動をしてい
る猫たちは、種の保存のために発情期が必要なのだと書いてあったが、しかしこの世界の虎人
間達は明らかに群れているし、先程のアカブの言葉から察するに結婚して夫婦になったりもす
るのだろう。
名残り――という事だろうか。この世界にもきっと進化はあったのだろう。
大昔には結婚なんて制度もなく、個人が単体で狩をして過ごし、そして発情期に出会い、子
供を作り、育て、そしてまた一人に戻る――そんな、正に千宏の世界にいる野性の虎のような
生活をしていたのかもしれない。
いやしかし――だが、それにしたって――。
「でも、あの、パルマって……いまいくつなの? 十代? 二十代?」
少し、若すぎるのではなかろうか。
確かに千宏のいた世界でも、十八やそこらで子供を産んでいる少女はいたけれど――。
「歳? 今年で百十二歳だよ」
ひゃ――。
「ひゃ――?」
「ちなみにバラムは百七十で、アカブが百六十八」
気が――遠くなってきた。
意識を失う前兆ではない。そうか、これが、思考が停止すると言う事か。
「チヒロ? どうしたのチヒロ。チヒロ?」
「まぁ――ヒトの寿命は長くて百年短くて五十年らしいからな。そりゃ、知らなきゃびびるだ
ろうなぁ」
食事を終えたバラムがテーブルの真ん中に置いてあった酒瓶の栓を開け、まるで水のように
喉の奥に流し込む。
落ち着け、落ち着け、考えろ。
頭の中でそんな言葉を繰り返し、千宏は緩やかに復活しつつある思考回路を最大限に働かせ
て極単純な計算式を導き出した。
寿命の比率換算式である。
パルマの外見は明らかに、千宏と同い年あるいはそれより二つか三つ上程度である。
背も千宏より高いし乳房や尻の発達も明らかにパルマが上だが、あどけない顔立ちとその言
動や行動から、まだ少女という印象が強い。
そしてバラムの容姿だが、どんなに上に見ても三十か二十九か、そのあたりだ。普通に見れ
ば二十代半ばだろう。アカブの肉体年齢を予想する事は千宏にはまだ不可能である。
そのパルマが百十二歳。そしてバラムが百七十歳。
パルマの年齢と千宏の年齢の比率を算出すると、その差およそ六倍。
それから導きだされる結果はつまり――。
「な……何百年生きるの……君達」
ヒトの平均寿命を八十として考えると、単純計算でその六倍の寿命を持つと推測される。
少なくとも四百八十年は生きてもおかしくない。
だがそれはそれ、世の中計算式だけでは成立しないのが常である。なによりここは異世界だ。
あるいは二百歳くらいまで生きると、どこかの漫画の戦闘種族よろしく急激に老けて老人にな
るのかもしれない。
人間、自身の限界の倍程度の範囲なら、割とすんなりと許容できる物である。
ヒトの寿命が百年ならば、トラの寿命が二百年でも別段驚く事は無い。
「普通は四百年くらいかなぁ……長くて五百」
そうか、最低でも四倍か。
なんとなく投げやりなような、捨て鉢な気分になるのを止められない。
百歳を超えていると言うのなら、発情しようと子供を産もうと倫理的にどうという事は無い
だろう。
いや、むしろ千宏の世界の倫理をこちらに当てはめて考えようとするから衝撃を受けるのだ。
共通点を見出そうとすると相違点の大きさに目が眩むだけである。
「この世界の人――って言っちゃいけないのか。なんだ。えーと。人間? って、みんなそん
なに長生きなの?」
「ううん。トラは特別長い方。ネズミなんかは百年で死んじゃうし、イヌも二百年くらい」
よかった――何がよかったのかよく分からないが、とにかく純粋にそう思った。
「体の大きさに比例するの?」
「そうでもないんじゃないかな。ネコは六百年とか生きるし」
もう、四百年も六百年も大して変わらないような気がしてきた。相当に重症である。
種族によってそんなにも年齢や成長速度が違うのならば、重要なのは実際の年齢ではなく、
結局そこにある個人の外見や性格、知識や教養なのだろう。
歳をとっているから偉い――という年功序列の概念は、きっと異種族間では成立しないに違
いない。
年齢にこだわるのはやめにしよう、と千宏は思考を切り替えた。
元々は何の話をしていたのだったか――。
「しかし発情期か――そろそろ薬の調合に入った方がいいかもしれねぇなあ」
「今日辺りからそれ系の薬草の採集を始めよう。パルマ。帰りに市場で小瓶大量に買って来い」
アカブの呟きに同意して、バラムがパルマに指示を出す。
そうだった――発情期の話をしていたんだった。
また熱を出して寝込みそうである。
聞かなくても想像はつくが、一応後学のために聞いておこう。
「それ系の薬草とか薬って……なに?」
「媚薬」
「避妊薬」
「精力増強剤」
三人が一つずつ、見事なテンポで実にわかりやすい商品のラインナップを教えてくれる。
千宏が頭を抱えると、三人は不思議そうに顔を見合わせた。
***
まだ寝ていた方がいい。
人混みは体に触るから――という三人の反対を押し切って、千宏はパルマについて市場に行
くと言い張った。
パルマは純粋に千宏の体調を案じていただけだが、バラムとアカブは先日の事件内容を知っ
ているため、別の意味でも引き止めていたのだと思う。
だが、だからと言ってずっと家に引きこもり、役立たずの無駄飯食いの奴隷にさえなれてい
ないペットに甘んじているは耐えられなかった。
二週間も床に臥せって迷惑をかけ、心配をかけ、それでも迷惑がる様子もなく必死に看病を
してくれた三人に、出会った当初より遥かに信頼が生まれていたのも理由の一つだ。
誰かがずっと手を握っていてくれた。
寝ずにタオルを代えてくれた。
死なないで、死なないで、と泣きながら付き添ってくれたパルマの声も覚えている。
それにこの、性に関してあけっぴろげで、発情期まであるという人々の中で、自分一人で元
の世界の常識にしがみ付き、犯される事に怯えるのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。
愛する人にのみ操を立てる貞節な処女なんて、この世界では望まれない。望まれないという
事は、そうあるべきだと必死になり、それを奪われる事に怯える必要がなくなったと言う事だ。
確かに痛いのは嫌だ。
乱暴に扱われたら壊れてしまう――と言うのも、想像するだけで恐怖に竦む。
だが、痛みが伴うのは強姦に限った事ではないわけで――。
「なんか、二週間も生死の境さまよったら吹っ切れちゃった。何もしなくたって病気や事故で
死ぬかも知れないんだしさ」
「いや、確かにそうだがよ……」
「あ、でも包丁借りてっていい?」
「包丁?」
何に使うんだ? ときょとんとするアカブに対し、千宏は意識して無邪気に微笑んだ。
「今度襲われそうになったら刺してやるの」
だってトラはその程度じゃ死なないんでしょ、と言うと、アカブはさっと表情を硬くして絶句した。
「あと、辛い香辛料ないかな。唐辛子っぽいのがあるといいんだけど……」
今度はもう、何に使うのかは聞かれなかった。
包丁の刃に唐辛子をぬっておけば、さすがにトラといえど激痛に悶絶するに違いない。
「あ、もちろん率先して刺したりはしないよ? 自衛手段ってやつ。催涙スプレーと同じ」
「い、いや、しかしなチヒロ。さすがにヒトがトラに怪我をさせるのは、社会的に問題が……」
アカブがいい難そうに言葉を濁す。
その言葉と態度に、千宏はすぐに察しがついた。
「そっか……飼い主が罪に問われるんだ」
「チヒロ!」
あえて使った飼い主という言葉に、アカブが鋭く声を荒げた。
「いいよアカブ。だって、社会でのあたしの立場が奴隷ってのは事実なんだから、受け入れな
きゃ。あたしの世界でも、ペットが人様に噛み付いたら飼い主の責任だし――」
「人間に危害を加えたヒトは研究所に収容される決まりになってる」
飼い主の責任だし――ペットは保健所で殺処分にされる。
そう、続けようとした千宏の言葉をこの世界の言葉に置き換えて、バラムが悲痛さと真剣さ
に彩られた表情で静かに言った。
「あぁ……」
千宏はかりかりと頬をかき、
「そう」
と、ひどく間の抜けた声を出す。
自分で言おうとした言葉を他人に言われただけなのに、その言葉が妙に重たくて――。
「そっか……だよね。あー、そりゃそうだわ。うん。ごめん変な事言って」
犬が家の軒先に縛られていて、学校帰りの子供が嫌がる犬を無視してべたべたと撫で回して
いるのを見た事がある。
迷惑そうにしながらばしばしと尻尾をふって、しかし堪えていた犬の尻尾を、一人の子供が
面白半分に乱暴に引っ張った。
ぎゃん、と叫んだ犬が怒って、子供の腕に噛み付いて――そして、それ以来その家の軒先に、
犬の姿はなくなった。
「チヒロ、ねぇ、そんなに心配しないで? ちゃんと私が守ってあげるし、登録してしっかり
首輪つけてれば、さらわれたって見つかる事もあるし――」
「大概、すでに壊された状態で見つかるがな」
その、バラムの静かな言葉に怖気が走った。
ぐ、と吐き気がこみ上げてくる。
「――アカブ。チヒロの首輪をはずしてやれ」
ぎょっとしたように目を見開き、アカブがバラムを凝視した。
どうして、とパルマも声を上げる。
「おまえ――そりゃ、野良ですって言ってるようなもんだろうが! 本気でさらわれるぞ!」
「首輪なんざしててもさらうやつはさらうだろうが。登録してた所で“戻ってくる可能性”が
上がるだけで、襲われたりさらわれたりするのを防止できるわけじゃねぇ」
「そりゃそうだが――!」
「だったら、俺はチヒロの所有権を捨てる。野良のヒトはこの世界の事を何も知らない。何も
知らないから、何をしても許される。何より、登録をしてないヒトは初めから存在していない
のと同じだ。それなら例え人間に危害を加えても、逃げきれさえすりゃどうにでもなる」
何者に保護されず、限りなく無知。
それ故に抵抗が許される絶対的な弱者。
「俺のナイフをやろう。ちと大振りだが、包丁よりは扱いやすい」
「お、おいバラム――!」
「ただし、いいかチヒロ。誰にも所有されないって事は、必ず誰かがおまえを所有しようとす
る。抵抗する権利が与えられる代わりに、狙われる確立は確実に上がる。だからヒトだってば
れねぇようにしろ。仮にばれて、それで襲われそうになったとしても、このナイフは最終的な
自衛手段だ。使わない事が大前提の最後の牙だ」
ちょっと――ちょっと待ってくれと言いたかった。
どうしてそんな大げさな話になる。
ただ、ただ自分は――。
「殺されそうになった時だけ、ナイフを抜け。犯されても耐えろ。出来るなら無力を装って、
媚びてでも自分を守れ」
「バラム! てめぇ自分が何言ってるかわかってんのか!」
「家族として扱うなら、チヒロは自由であるべきだ。だが自由にすれば必ず危険に晒される。
もちろん守れる範囲では守る。だがその範囲外では自分で自分の身を守るしかねぇだろう」
無力な鳥がサバンナで、開いた鳥かごの扉の前に止まっているような錯覚を覚えた。
自由が欲しいのだったら、安全なかごから出なければならない。
だが、かごを出て飛び立てばそこは猛獣の巣窟で――。
腰に下げていたナイフをベルトシースごと腰からはずし、バラムは無言で千宏に差し出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ! 別に、私が一緒に行くんだからさ、そんな、大げさにし
なくたっていいじゃない! ナイフなんか持たなくても、出かけるときは誰かが一緒に――」
「これは誇りの問題だ。抵抗する権利を得るか、得ないか。首輪をするか、しないか。俺達の
行動は変わらない。守れる範囲でチヒロを守る」
一人で生きる力が欲しいと――千宏は確かにそう言った。
それは、誰かの保護が無くても生きられる力だ。生活力の話だけではない。この世界では、
一人で生きるためには、命を守る必要があるのだ。
「俺は、おまえがずっとこの家から出ないで、安全に生きていく事を望んでる。たまに俺や、
アカブやパルマが連れ出しても、決して側を離れなければおまえは絶対に安全だ」
だが、と短く言葉をつなぎ、バラムはすぅ、と瞳孔を細めて金色の虹彩を輝かせた。
「首輪をつけて、飼いヒトとして登録すれば、おまえは一切の抵抗の権利を奪われる。もし仮
に、まかり間違っておまえが俺達の保護を一瞬でも離れた場合。そして誰かに襲われた場合、
殺されそうになった場合、お前が選択できるのは大人しく殺されるか、相手に危害を加えて逃
げ延びて、結果研究所に送られて実験に使われて一生を送るかだ」
抵抗する権利。
そんなこと、考えもしなかった。当然ある物だと思っていた。
奴隷とは、ペットとは、つまりは抵抗する事を許されない――言語を解する道具なのだ。
もし、バラムが差し出すナイフを取れば、千宏はその権利を得られる。奴隷ではなく、ペッ
トではなく、だがいつ殺されてもおかしくないヒトという種族として、当然あると思っていた
ものを当然のように取り戻せる。
だが、それがどれだけ恐ろしい事か――。
「どうする、チヒロ」
取るな――と、言っているような口調だった。
それは、一生守ってやるという宣言に近い、ひどく甘い誘惑のように思われた。
このナイフを取って、抵抗する権利を得て――それでどうなるというのだ。
権利を得た所で、抵抗した所で、確実に助かると言うわけでもないのに――。
「誇りなんかあったって、助かる確率が上がるわけじゃない……」
心持ほっとしたように、バラムが小さく溜息を吐くのが聞こえた。
そうか、そうだな、と呟いて、すっとナイフが下ろされる。
そしてそれが完全に降ろされる直前に――千宏はそれをひったくった。
「でも、誇りがなきゃ生きていけない――生きていけないんだ! なんでもいい、一つでいい
から、なにか誇れる物がなきゃ壊れちゃうんだ! そういう生き物なんだ!」
尊厳が欲しいと思った。
奴隷なんて嫌だ。ペットなんて嫌だ。
そう思い続けなければ、とても正気を保っていられない。
「守ってもらわなきゃいけないから、一緒にいるなんて嫌だ。一緒にいたいからいるんだ。そ
うやって思わなきゃ、変になる」
「……そうか」
「大体、ペットとして登録したって、しなくたって、襲われる可能性があるのは同じじゃない
か! それなのに襲われたらもうアウトなんて冗談じゃない! 襲われたって逃げ出すチャン
スくらい欲しいじゃんかよ! たとえ可能性ゼロコンマいくつだってさ!」
「そうだな」
「そうだよ!」
「チヒロ」
カチン、と首輪の外れる音がした。
するりとそれが引き抜かれ、涙で張り付いた前髪を、バラムが指先でそっと払う。
「だったら働け、穀潰し」
に、と意地悪く笑う。
その言葉に、表情に、千宏はしばし唖然とし――堪えきれずに吹き出した。
***
全体的にゆったりとしたローブのような服の上から、更にだぼっとしたフード付のケープを
かぶると最早首輪の有無どころではなく、千宏の種族は愚か性別さえ分からない有様だった。
生地が薄手なので暑くて死ぬ――ということは無いが、これが中々に鬱陶しい。
私が絶対に守ってあげるからね、と意気込むパルマについて二週間ぶりに市場を訪れ、やは
り変わらず獣臭いという印象を受ける。
しかもパルマが店を開くのは、トラの中でも飛びぬけて大柄と思しき連中の徘徊する一角である。
バラムとは違い業者から移動式の簡易屋台を借り、パルマはそこに獣の爪やら牙やら鉱石や
らのサンプルを並べ、それらの前に値札を置いて設営を完了した。
その設営の完了を待ってましたとばかりに、一人の虎が寄ってくる。
黄色に黒の縞模様。少し、腹部に広がる白い毛の部分が多いだろうか。アカブよりも若い印
象がある。
「ようパルマ! この前頼んでおいた薬草、どうなってる」
「入ってるよ。グラム五十センタ。上限は千グラム」
「五百もらおう――新しい下働きか?」
その、若い虎男が千宏を見止め、胡散臭そうにヒゲをひくつかせた。
「新しい家族。チヒロって言うの」
「チヒロぉ? なんだ、キツネか?」
「なんで私がキツネなんかと家族にならなきゃいけないんだよ! 親戚だよ親戚」
だろうな、だと思った、と男が笑う。
「パルマぁ! カッシルの爪五十本取り置きしといてくれ!」
雑踏のどこかからそんな声が上がる。
「パルマ! リーンバルの粉末が入ってねぇか!」
間髪いれずに、別の所から声が上がる。
ふりふりと尻尾をゆらして在庫を確認しながらそれらの声に返事を返し、パルマは頼まれて
いた薬草とやらを男に渡して代金を受け取り、売り上げ袋に押し込んだ。
「なんつー熱気……いや、殺気」
「この辺りじゃうちの森でしか取れない品もあるからね。割と争奪戦だったりするんだ」
「リーンバル鉱石とか?」
「そうそう。そんなの」
リーンバル鉱石は非常に硬い鉱石で、硬すぎて物品への加工はまず不可能であると言う。
だがその堅さゆえに脆く、砕いて砕いて粉末にすると高級研磨剤として役に立つ。
その粉末でコーティングした物は丈夫で錆びにくく長持ちするらしく、需要に対して常に供
給が足りないらしい。
「で、グラム三百センタもするんだっけ」
「研ぎ師には垂涎物だもん。国境市だと倍以上の値が付くよ」
それは凄まじい差である。というか凄まじい高級品である。
雑誌を見た限りでは一セパタで安物の服が一着買えることも少なくないのだから、百グラム
で三十セパタは相当な物だ。
更にその倍ともなれば――。
「お嬢さん、リーンバル鉱石の粉末を売ってるのかにゃ?」
不意に、パルマを照らしていた日が翳り、そんな甲高い声が頭上から降ってきた。
見上げた先には――これは、なんと言う生物だろう。
猫――いや、毛むくじゃらのトロルだろうか。でっぷりとしていて、もさもさとしていて、
たまらなく可愛らしい。ぬいぐるみ然としている。
「是非売って欲しいにゃぁ。あれは中々手に入らないレア物にゃ」
にゃ――てなんだ。何故語尾ににゃがつくんだ。わざとか。癖か。それともこのトロル猫も
どきは語尾ににゃをつける習慣があるのか。
下らない事をぐるぐると考えながら、唖然とする千宏を他所に、パルマはあからさまに不快
そうに巨大なぬいぐるみを睨み上げた。
「お生憎様。私詐欺師に売る商品はもってないの」
「詐欺! 失礼にゃー! 私がいつ詐欺を働いたにゃ!」
「ちょっと、このあたりで有名になってるの知らないの? わけの分からない落ちモノ商品で
ブツブツ交換持ちかけてきたり、物価が変動したとか大嘘付いて半値以下でもってったり!」
「それは物の価値の分からない奴が悪いにゃ。物価が常に変動するのも商人なら知ってるはず
にゃ! だけどリーンバル鉱石は常に高級品にゃ。グラム百センタは出すにゃー」
「信じられない! 国境市でいくらで売られてるか知らないとでも思ってるの? 話にならな
い。商談決裂」
「まま、待つにゃ! 今のは冗談、冗談にゃー。ちょっとお嬢さんを試してみたにゃ。そっち
の言い値をまず言うにゃー」
「グラム八百センタ」
平然とふっかけたパルマに、千宏はフードの奥でぎょっとした。
「は、八百! 冗談じゃないにゃ! そんなんじゃ足が出るにゃ!」
「だったら買わなければいいじゃない」
「そう言われると弱いにゃー。わかったにゃ! グラム三百は出すにゃ!」
規定値である。
しかしパルマはつんとそっぽを向き、一切話を聞こうともしない。
ふっかけて規定の値段を払わせようとしているわけではなく、パルマは純粋に取引をするつ
もりが無いのだ。
「常識的に考えるにゃー! 八百なんて値で仕入れたら例え一セパタで売れたって大した儲け
にはならないにゃ! 手間賃を考えたら明らかに損にゃぁ!」
もふもふと肉と毛の塊が地団駄を踏む。
「だから、だったら買わなければ――」
「だって、この市場にはもともと他の物を買う予定で来てたんでしょ? 最初からリーンバル
の買い付けに来たわけじゃないんだよね。だったら足なんか出るわけないじゃん。もののつい
でにレア物を買って、もののついでに国境市で売りさばけばいいんでしょ? 棚から牡丹餅。
めっけもんじゃん」
さっさと追い払おうとするパルマをそっと制し、千宏はずいと巨大なぬいぐるみの化物の前
に歩み出た。
「しし、しかしそんな値段で普段から取引してるのかにゃ? こんなど田舎にそんな値段で大
量に買いつけ出来る客がいるとは思えないにゃー」
「田舎だからこそ、大量に買うんじゃないか! 国境市までわざわざ行くのにどれくらい費用
がかかると思う? その分の費用を購入にまわせるんだから、国境市で買うより大量に購入で
きる。これって当たり前の理論じゃん」
「し、しかしだにゃー。国境市での相場がこの位だから、ここで八百で買うと――」
「別に国境市で売る必要も無いと思うけどね。例えばここで八百で買っておいて、国境市では
売らずに国境からすごーく遠い地域に持っていけば、リーンバルの入手難易度はぐっとあがる
わけじゃない? そこでだったら千五百や、二千くらいでも売れるかもしれない。割高に、ち
ょっとずつ、だけど沢山の人に売るってわけよ」
立て板に水である。
トロル猫のぱちぱちとはじき始めた見慣れたそろばんを失敬し、千宏は例えばグラム八百セ
ンタで購入し、二千センタ――つまりは二セパタなのだが――で売りさばいた場合の売上総益
をパチパチと弾いて示して見せた。
これでも珠算は一級である。
「大量には要らないし、国境市まで行く気力はないけど、もしも持ってきてくれる人がいて、
ちょっとだけ売ってくれるなら喉から手が出るほど欲しいって人は、きっと沢山いると思うよ。
これは旅の商人じゃなきゃ出来ないけどね。おいしい話だと思うけどなぁ」
む、むむむむ、とぬいぐるみが短い尻尾をぴくぴくと動かす。
「じゃあ分かった! あんたには負けたよ。初回得点で今回に限り七百五十で売ってあげる」
「にゃに! つ、つまり百グラム買った場合五セパタもお得にゃ! 怪しいにゃー。その値引
きには裏があるにゃね!」
「あぁー。ばれたか! 実はあんたが持ってるって言う、怪しげな落ちモノ商品に興味がある
んだ。それ、見せてくれない?」
にぃいい、とトロル猫が歯をむき出して嬉しげに笑う。
そうかにゃそうかにゃ、見たいかにゃ、とうきうきと担いでいた袋を下ろし、それを千宏の
前で広げて見せた。
「あたしはちょっと落ちモノ商品には詳しいんだ。マニアってやつでね」
「実は使い方が分からない物も結構あるにゃ。例えばこれ! ドーナツみたいにゃ。使い方は
不明にゃけど、キラキラで綺麗にゃ。沢山つなげてぶら下げると、とってもお洒落にゃー」
CDである。しかも、恐らくデータ未挿入の、パソコン専門店で売ってるような上書き不可
のカラフルなディスクメディアである。
なるほど、確かに使い方など皆目検討も付かないだろう。
「そしてこれ! こーやって紐をつけて振り回すと音がなるにゃ。ひょっとしたら楽器なのか
もしれないにゃ」
ハーモニカである。この世界には無いのかと、少々意外だった。
しかしそれもそうか、とも思う。この世界の男の容姿があれでは、口に咥えるタイプの楽器
はなかなか普及しないだろう。
「それ、使い方違うよ」
「にゃに!」
ぶんぶんとハーモニカを振り回してご機嫌だった猫の顔が、驚愕に彩られた。
「じゃ、じゃじゃぁ、どうやって使うにゃ!」
「教えてあげたら、何か一つただでくれる?」
「それは無いにゃー。それはひどいにゃー」
「じゃあ教えない。その上値引きもしてあげない」
「あんた悪魔にゃ! 商売に魂を売り渡した生粋の商人にゃ! でも嫌いじゃないにゃー」
悔しげにしながらも、嬉しそうににやにや笑う。
それじゃあお願いするにゃと差し出されたハーモニカを受け取って、千宏は舌で舐めて唇を
湿らせた。
蝶々くらいしかふけないが、まぁそれで十分だろう。
ファミミレララ――が出だしだったように思う。ファの位置は何処だったか――。
汚れている口部分をローブの袖でごしごし拭い、千宏はかぷりとそれを咥えて音を確かめる
ように端から端へと順に息を吹き込んだ。
おおおお、と歓声が上がる。
今気が付いたが、大量の野次馬が出来ている。
固唾を呑んで見守る群集の中、緊張で心臓が高鳴るのを聞きながら、千宏は一世一代のハー
モニカの演奏会を開始した。
単調なリズムで数フレーズ。
ちょうちょ ちょうちょ なのはにとまれ。
なのはに あいたら さくらにとまれ。
さくらのはなの はなからはなへ。
とまれよあそべ あそべよとまれ。
少し失敗したが、まぁふけた。
ハーモニカから唇を離して顔を上げる。
瞬間――地を揺るがすかと思う喝采に飲み込まれ、千宏は思わずフードの上から耳を覆った。
「す――素晴らしい! 素晴らしいにゃ! まさかこんな素晴らしい楽器だったとは思いもし
なかったにゃ!」
「すごーい! チヒロ凄い! 凄い凄い! なあに今の曲? 凄く可愛かった!」
「いいもん聞かせてもらったにゃー! なんでも好きなの持ってくがいいにゃ!」
「は、はぁ……」
蝶々だぞ。ただの。しかも音を繋げただけの単調な演奏だぞ。
度を過ぎた賞賛のあらしにやや仰け反りながら、千宏はありがたく袋の中身を物色した。
それにしても、見事にガラクタばかりである。
「うげ」
ガラクタに埋もれた奥の更に奥の方に、漫画や映画で見慣れた黒い輝きを発見し、千宏は思
わず手を引いた。
拳銃である。
「うわ……こんなのも落ちるのかよ」
誰がどんな状況で落としたのかは知らないが、落としたのが警察官で無い事を祈っておこう。
一応。その警察官の将来のために。
「って。なんだモデルガンか」
リボルバータイプのモデルガンだ。シリンダーの弾を込める部分に金属でふたがしてあり、
弾を込めても打ち出せないようになっている。
モデルガンを袋の中に丁寧に戻し、ふと、千宏はかわいらしい布張りの小箱を目に留めた。
手にとってみると、ずしりと重い。
ひっくり返してみると、裏にまいてくださいと言わんばかりのネジまきがあるのだが――残
念ながらつまみが折れていてまわせそうに無かった。
だが、間違いなくオルゴールの小箱である。
「これでいいや。この箱頂戴」
「にゃ。それの何処に魅力があるにゃ。後学のために知りたいにゃー」
「ただのオルゴールだよ」
「にゃに! だって音なんかならなかったにゃ!」
「ゼンマイが切れてるし、ねじまき折れてるからね。これもらうよ」
「そ、そんにゃ……」
落ちモノオルゴールなんて絶対高値が付くのにぃ、と猫が泣きそうな声を出す。
ションボリとしながらも、しかしどこか嬉しそうに弾みながら、猫のぬいぐるみは千グラム
のリーンバル鉱石とハーモニカを手に野次馬をかき分けて去っていった。
なんだなんだ、もう終わりか、と野次馬達がざわめきだし、わらわらとばらけて行く。
手に入れたオルゴールをどうやって鳴らそうか考えをめぐらせていると、突然パルマが感極
まって悲鳴を上げた。
「すごい! 本当にすごい! 信じられない! チヒロって商人だったんだ!」
「え? いや……ただの学生だったけど……」
確かに、受けた大学は国立の経済学部ではあったけど――。
「あの嫌なネコ商人に高値で売りつけてやっちゃった! すごくいいきみ!」
あぁ、やはりあれは猫なのか。
猫の獣人はもっとスマートで、もう少しまともにネコっぽいのを想像していたのだが――。
「でも、さっき言った通りにすれば普通にあのネコ儲けると思うよ」
「ええ! そうなの?」
「高級なものを大量に買えないから、ちょっと割高でも少しだけ買うって人は、絶対にどこか
に――しかも結構な人数いるはずだから」
「そっかぁ。そうだよねぇ。チヒロ頭いいねぇ」
パルマがしきりに感心する。
これは千宏の頭がいいと言うより、元の世界では商売の常套手段だ。
この世界ではその手段が未だに普及していないのか、それともトラが商売に疎いだけなのか
千宏には分からなかったが、まぁ恐らくは後者だろう。
「おい」
興奮冷めやらぬといった様子でうきうきと仕事に励むパルマの横で、細々とした雑用をこな
していると、不意に野太い声が頭上から降ってきた。
首を反らせて振り仰ぎ、凶悪な虎男と数秒間見詰め合う。
「――なにか?」
首をかしげると驚いたように目を見開き、虎男は急に不審な挙動を取り出してわたわたと背
後を振り返った。
ちょっと来いと合図するようにしきりに手を振り、そして二人の虎がかけてくる。
これでどうだと言わんばかりに、最初の男が千宏を見下ろした。
全く意味が分からずに再び首をかしげると、そいつは明らかに困惑した様子で背後の二人を
振り返り、ぼそぼそと相談し始めた。
やっぱり違うんじゃねぇか、だとか。
だってパルマと一緒にいるぞ、だとか。
ショックで記憶を失ったんじゃ、だとか。
聞こえてくる言葉も全く要領を得ない。
「あの――商談だったらあたしじゃなくてパルマに――」
「二週間前――市場の外れで会っただろう……」
ぞく、と背筋が凍りついた。
思わず足がじりじりと後退する。
その様子にようやく確信を得たように、三人は自信を持って頷きあった。
「ちょっとあんたたち! でかい図体三つ並べてか弱い女の子を囲むなんてどういう神経して
るわけ? チヒロ怖かってるじゃない!」
異変に気付いたパルマが千宏の前に立ちはだかり、威嚇するように低く唸る。
青い顔で三人を凝視する千宏のその眼前で――唐突に、三人が一斉に膝を折った。
「すまんかった!」
虚をつかれて面食らい、何事かとパルマと顔を見合わせる。
真ん中の男――他の二人よりも大柄だろうか――が顔を上げ、悲痛といおうか、今にも首を
くくりそうな表情で千宏を見た。
瞳の色が吸い込まれそうなほど、鮮やかに青い。
「あんたにも生活があったんだよな、家族がいたんだよな。俺たちそんなこと考えもしねぇで、
あんたがヒトってだけでよぉ。飼って奴隷にすんのがあたりまえみてぇに思っててよぉ」
う、うぅ、と涙ぐみ、ついにはおいおいと泣き始める。
もらい泣きとばかりに背後の二人もぐすぐすと泣き始め、千宏は再び周囲から注目が集まり
はじめるのを意識して狼狽した。
「ちょっと! なんであんた達チヒロがヒトだって――」
「パルマ! しー! しー!」
頼むから市場の真ん中でヒト、ヒトと連発するのはやめてくれと懇願すると、パルマはいけ
ない、と口元を押さえ、あんたたちのせいだからねと虎男達をげしげしと足蹴にした。
「俺たちぁアカブに殺されかけて目が覚めた! きっかけは確かにあいつの言葉だが、これは
脅されての行動じゃねぇ! 俺達の誇りにかけて、あんたのこの市場での安全は俺たちが保証
する!」
「えぇ! い、いいよ別に。いらないよ! っていうかよるな! 近づくな!」
立ち上がってずいと距離を詰める男から大慌てで距離を取り、パルマの背後で縮こまる。
アカブの言っていた“手を打っておいた”とは、つまりこういう事か。
「いいんだ。怯えられてる事は分かってる。許してくれとは言わねぇ。俺たちは取り返しの付
かないことをやっちまったんだ」
その、妙に聞き分けのいい態度をやめてはくれないだろうか。
こんなにも潔く謝られ、清々しく自身の非を認められては、許さなければまるで千宏の方が
心の狭い悪者である。
「チヒロ。ねぇ、こいつらに何されたの?」
こそこそと声を殺して聞いてくるパルマに、
「強姦されかけた」
と簡潔に答えると、パルマは尻尾を逆立ててきっと目を吊り上げた。
「信じられない! 最低! 最悪! チヒロが二週間も寝込んだの、絶対あんたたちのせいだ
からね! 本当に死んじゃう所だったんだからね!」
「うう、すまねぇ! 本当にすまねぇ!」
二週間のうちの一週間は、明らかにパルマの頭痛薬が原因なのだが――。
そろりと、バラムにもらった腰のナイフに手を伸ばす。
その、千宏の小さな手ではひどく握りにくいグリップをしっかと握り、千宏は意識して呼吸
を整えながら三人の虎男達を見下ろした。
千宏に虎人間の美醜はよく分からない。
だが見下ろした三人の虎達は千宏から見ればどう見ても虎で、かわいい猫の巨大版である。
そんな虎たちが、まるで雨の日に捨てられた仔猫のような目で千宏を見つめ、許しを請う。
反則では無いか――反則だ。これはずるい。
「――名前は?」
ぴくん、と、長くて立派な尻尾が嬉しげに跳ね上がる。
「許してくれるのか!」
「別に、もともと怒ってるわけじゃないから……怖いけど」
「ちょっとチヒロ!」
「だって、冷静に考えてみれば申し出はありがたいし、アカブに何か脅されてるんでしょ?」
「そうなんだ。もしも市場でチヒロが誰かに襲われたら、俺達全員の目玉くりぬいて目の前で
食ってやるって――」
「黙ってろカアシュ!」
後ろで平伏していたやや――本当に極僅かに小柄な虎を、手前の虎が怒鳴りつける。
「さっきも言ったが、この際あの野郎の脅しは関係ねぇ。俺は俺達の誇りにかけて、あんたを
守ると誓うんだ。こいつぁ償いだ!」
なんとも暑苦しい限りである。
「守ってくれるって言うなら、素直に好意は受け取るけど……でも条件がある。まだあんた達
見ると体が竦むし、吐き気するから、あたしの半径三メートル以内に近づかないで」
「かまわねぇさ。十分だ! 俺たちゃイヌの軍隊よりも頼りになるぜ!」
「三人纏めてアカブにのされたくせに」
立ち上がって胸を張った男に対し、パルマが冷たく言い放つ。
あいつは犬の軍隊よりもつえぇんだよ、とぎゃあぎゃあと怒鳴りあう二人を放置して雑務に
戻った千宏の唇にうっすらと笑みが刻まれていた事は、フードに隠され千宏自身も気付く事は
なかった。
***
別に区別をつける必要も無いだろうと思ったのだが、名前を聞いてしまった以上はやはり覚
えるのが礼儀だろうという妙に律儀な性格ゆえ、千宏は三人の特徴と名前をメモに取って持ち
歩く事にした。
カアシュ――と怒鳴られたやや小柄な虎は随分と陽気な性格で、きっちりと三メートルの距
離を保ったままあれこれとヒトの世界の事を聞きたがった。
リーダー各と思しき大柄な虎はカブラといい、バラムに向かって“ケツに突っ込んでやる”
と言った強者だ。
最後の一人はブルックと名乗り、肉食獣の化け物の分際でバードウォッチングが趣味だとぬ
かすふざけた男である。
そう言えば、とふと思い、あれがあたしのファーストキスだったんだよねと呟くと、ブルッ
クは愕然と硬直し、他の二人およびパルマにぎたぎたにされながら「俺は性根の腐っただめな
野郎だ」と繰り返した。
どうやらヒトにとってファーストキスが重要な意味を持つ事は、全員知っていたらしい。
日が暮れ始めて店を畳み、馬車まで移動する間まで三人は律儀についてきた。
守られているというよりも狙われている、監視されているという印象が強いのは、やはりマ
イナス方面の先入観が強いせいだろう。
バラムと市場に来る時も側にいるのかと問うと、カブラはあたりまえだと頷いた。
バラムの不機嫌顔が目に浮かぶようである。
家に帰り着いて荷を降ろし、パルマは早速今日の出来事を洗いざらいすっかりとアカブに向
かって並べ立て、チヒロったら本当に凄いんだからとまるで自分のことのように胸を張った。
バラムが袋にぎっしりと怪しげな薬草を詰めて帰ってくると同じように事の顛末を話して聞
かせ、しまいにはハーモニカが欲しいとまで言い出した。
そんなパルマの話にアカブとバラムは微笑ましく耳を傾け、言葉少なに、しかし心から千宏
を労い、よくやったと褒めてくれた。
それがひどくくすぐったくて、だけど妙に嬉しくもあり、なんとも言えず心地よかった。
ネコの商人から巻き上げたオルゴールをバラムに見せ、つまみの部分が折れているんだとう
ったえると、バラムは箱を持ったまま一人で倉庫に向かい、数十分もしないうちに戻ってきて
直ったぞとオルゴールを千宏に手渡した。
裏を見てみると言葉どおり、簡素ではあるがちゃんとネジまきが付いている。
どうやって直したのかと聞くと、水をかけると金属のように硬くなる粘土があるのだと言う。
建築物の接着剤にも使われる事があるらしく、強度は折り紙つきだとバラムは笑った。
パルマにせがまれてつまみを回し、蓋を開けた瞬間に流れる安っぽい旋律。
所々針が折れ、歯抜けになったメロディー。
「なんか楽しい曲だね」
うきうきと尻尾を揺らしてパルマが言う。
「なんて曲かわかるか?」
バラムの問いかけに、千宏は迷うことなく頷いた。
曲も、曲に付随する物語も大好きなバレエ組曲。
「くるみ割り人形」
パルマがきょとんと目を見開き、変な名前、と唇を尖らせる。
「音楽で物語が作ってあるんだ。クララって女の子が夜の十二時に小さくなって、悪い奴らが
やって来て、くるみ割り人形が動き出して玩具の兵隊といっしょにそいつらをやっつける。最
後は悪玉のボスとくるみ割り人形の一騎打ち。危なくくるみ割り人形が倒されそうになった所
をクララが助けに入って、悪い奴は倒される」
オルゴールの旋律にあわせ、くるみ割り人形の物語を語る。
やってきた悪い奴らはネズミの大群なのだが、この世界的にその表現はまずいだろう。
「そしたらくるみ割り人形は王子様に変身して、クララは一緒にお菓子の国に旅に出るんだ。そこで色んな妖精に会って、歓迎されて――」
そして、自分の世界に帰るのだ。
オルゴールの旋律が徐々に緩やかになっていき、針がのろのろと、だらだらとプレートを弾
いて最後に引っかかるようにして止まる。
こん、とオルゴールを軽く叩くと針にひっかかっていたプレートが弾け、調子の外れた一音
だけを叫んで沈黙した。
「歓迎されて、どうなるの?」
不思議そうにパルマが聞く。
静かにオルゴールを胸に抱きこんで、千宏は平然と笑って見せた。
「王子様とお菓子の国で、末永く幸せに暮らしましたとさ」
さして不思議がる風もなく、ふうん、とパルマがふりふりと尻尾を振る。
「もし私が男だったら、チヒロの王子様になってあげたのにな」
「おまえが男だったら、そもそもこの家にいねぇだろうが」
呆れたようなアカブの言葉に、ああそっか、とパルマがとぼけた声を出す。
誰からともなく明日以降の予定の話になり、パルマがお腹がすいたと騒ぎ出し、食事をして、
風呂に入り、千宏はオルゴールと共に自室に戻ってきた。
かちかちとつまみを回し、ベッドの脇にある小さなサイドテーブルに金属で縁取られた布張
りの箱をちょこんと据え置く。
蓋を開けて溢れ出したくるみ割り人形の物語に浸りながら、千宏はベッドに身を沈めた。