猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

虎の威07

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虎の威 第7話

 
 
 千宏がフードをかぶって市場に出るようになってから、一ヶ月と半分が過ぎようとしていた。
 文字の習得は遅々として進まなかったが商人としての成長は目覚ましく、ネコやキツネの商
人の相手は千宏にさせた方がいい――という結論に達するまでそれ程時間はかからなかった。
 元々、バラム達はネコやキツネが好きではない。
 好きではない者に相対すれば冷静さを欠くし、何せ相手は最初から騙しにかかってくる。そ
して騙しあいになれば、トラが敗北するのは目に見えているのである。
「ほほーう。クッキーに媚薬を混ぜるとは考えたわね」
 店の正面にしゃがみ込み、おいしそうなクッキーの袋を片手に感心しているのは金髪トラ女
のイシュである。
 常連客だとは聞いていたが、実際にバラムが店を出すとイシュは絶対に姿を見せる。
 なんでも香水の調合を手がけているらしく、バラムに香りの元になる植物の採取を頼む事も
多いらしい。
 当然と言おうか千宏は最初この女が苦手だったのだが、カブラがイシュを“万年発情女”と
罵り、イシュに「どんなに発情しててもあんたとだけはごめんだわ」と返されて落ち込む姿を
繰り返し見ているうちに、いつの間にか普通に話せるようになっていた。
 そんな風にこの世界に馴染むうちに、気付かなくてもいい事にも気付くようになってくる。
 例えば、下働きの虎男たちが、夜な夜な千宏を妄想のおかずにしているだとか。
「ねーぇ? この媚薬ってヒトにも効くの? ちょっと試してみてもいい?」
 例えば、イシュに貞操を狙われているだとか。
「最近バラムが相手してくれないから欲求不満なんだものぉ。知ってるチヒロ? マダラとの
キスってもう本当に蕩けちゃうんだから」
 例えば、バラムは気が遠くなる人数の女と寝ているだとか。
「ねーぇ。いつもの倍出してもいいからさぁ。今夜は付き合ってよ。ね? そこの路地でいい
からさぁ」
 例えば、その対価に金銭を得るほど求められているだとか。
 この世界のマダラとは、つまり女性のような容姿をしている、とび抜けて美しい男性だ。千
宏から見れば筋骨隆々の間違いようもない男でも、中性的という分類になるらしい。
 さすがにバラムほどの体格があれば女性と間違われる事は無いが、ネコの国で大人気だと言
うマダラネコの少年アイドルを雑誌で見せてもらった時には、柄にもなく悲鳴を上げて「超可
愛い」と絶叫してしまった程である。
 その、綺麗な綺麗なマダラと一発やれるならいくらでも金を積む――と言う女性がいても、
なんら不思議は無い。
 しかしどことなく、なんとなく、本当に主観的な価値観で、元の世界の常識に照らし合わせ
て考えると、千宏からすればあまり気分のいい話ではない。
 不潔だ――と思ってしまう。そう思う事がいかに失礼で非常識で馬鹿げているかという事は
理解できても、十八年間培われてきた価値観は一ヶ月そこそこでは変わらないようだった。
 実際、開き直ったつもりでいながらも、千宏は未だに処女である。
 襲われて犯される可能性がある事が分かっている以上、安全な道をとってバラムかアカブに
処女を奪ってもらうのがベストだと頭では理解しているのだが、どうにも踏ん切りがつかない。
 せめて向こうから襲ってくれればいいと思うのだが、バラムははじめての夜に千宏に猛烈に
拒絶された事を気にしているらしく、日が落ちてからは一人で千宏の部屋に現れないし、アカ
ブはなにせあの姿なので、千宏の方がその気にならない。
 虎に欲情できるほどには、まだこの世界に合わせて歪んではいなかった。
「あたしにも発情期ありゃよかったのにな」
 そんな呟きがついつい漏れる事もある。
 どんな間違いが起こっても『発情期だから』で済ませられそうだからだ。
 理性を保ったまま現状に合わせて価値観を、しかも自主的に変えるのは、想像していたより
もはるかに難儀である。
 結局その日もバラムはイシュの相手をせず、しかしイシュに言わせると“蕩けちゃう”よう
なキスを交わして店を畳んだ。
 律儀に三メートルの距離を保って護衛を続けているカブラ達が羨ましげに野次を飛ばしてい
たが、バラムは慣れているとばかりに一切反応を返さなかった。
 代わりに千宏が文句を言うのを止めに入る程である。
 
「発情期ってさ、どれくらい続くの?」
 帰りの馬車で外の景色を眺めながら、何となくバラムに問う。
 そうだなぁ、とふらふらと尻尾を揺らし、バラムは二週間くらいだなぁ、と呟いた。
 
「二週間……うわぁ」
「発情してる女は市場に立ち入りを禁じられるんだ。なんせ発情してる女が近くにいると男も
仕事にならねぇしな。まぁ、発情を抑制する薬もあるっちゃあるんだが、大概の女は社交場に
行って男を漁る」
「社交場?」
「恋人や夫がいる女ばかりとは限らねぇだろ? そういう場合は、まぁ金を払って男を買うこ
ともあるんだろうが、大概は社交場に集まって好みの男が来るのを待つんだ」
 男ならなんでもいいというわけではないのかと、千宏は妙に納得して頷いた。
 女の側に男の選択権があるのは、千宏の世界の猫達と変わらないらしい。
 ふと、疑問に思う事があった。
 これを聞くのは失礼にあたるだろうか。だが、聞かずにはいられない。
「――発情してれば誰でもいいの?」
「……なに?」
 意外と言おうか、怪訝と言おうか、そんな表情を浮かべてバラムがぴたりと尻尾の動きを止める。
「いや、ほら、男の人はさ、発情してる女の人だったら誰にでも欲情するのかなぁって……」
「否定はしねぇよ。個人で程度に違いはあるがな」
「そ……そうなんだ」
 そうか、するのか。
 それはつまり――。
「誰でもいいんだね……」
 別に、だからどう――という事は無いのだけれど。
 この世界の人間にだって、愛はあるだろうと思う。
 実際、家族愛や博愛ならば十分に見せてもらった。
 だが、男女間の愛の形が、千宏にはまだ理解できていなかった。
「大変だよね。だって、道ですれ違った女の人が発情してたらムラムラ来ちゃうんでしょ? そ
ういう時ってどうするの? 路地に引っ張り込んでやっちゃうとか?」
「そういう奴もいるかもな」
「バラムは違うの?」
「――女に不自由した事はねぇからな」
「あぁ、そう……」
 妙な苛立ちがあった。
 じりじりと悪意がくすぶり、誰かを攻撃したくなる衝動。
「そりゃそうだよね、お美しくも珍しいマダラ様だもんね」
「――おい、なんだその言い方」
「……別に」
 すいとバラムから視線を外し、千宏は見る物もない窓の外をじっと睨んだ。
 バラムも不機嫌そうに口をつぐみ、反対側の窓に肘をついて外を睨む。
 尻尾がぱたぱたと座席を叩く音と、馬車が道を走る音が沈黙を際立たせていた。
 悪い事を言っただろうか。バラムがマダラなのは、決してバラムのせいではない。
 謝るべきだ。謝ろう。
 そんな事を思っているうちに、レンガ造りの家が見えてきた。見えてしまえば到着するのは
あっという間で、到着するなりバラムは無言で馬車を降りていく。
 荷物を降ろして一人でさっさと歩いていくバラムの後を追いかける事が出来なくて、千宏は
数メートル後ろを黙ってついていった。
 いつも、扉を開けて待っていてくれるバラムが、今日はそんな素振りもない。
「なんだよ、あの態度……!」
 そんなに怒ることないじゃないか、と、身勝手な怒りにぶつぶつと文句を言いながら千宏は
重たい扉を苦労して押し開けた。
 やっと人一人通れる隙間を確保して、滑りこむようにして扉をくぐる。
「ああいう怒り方する奴が一番うっとおしいんだよ! 言いたい事があるならはっきり言えよ!」
 最早どこに行ったのかも分からなくなってしまったバラムの背中に、それでも千宏は自分に
言い聞かせるように声を荒げた。
 いつもはすぐに怒鳴るくせに、本気で謝った方がよさそうな場面では無言の圧力をかけて相
手に謝る隙を与えない。
 あんな態度を取られては、プライドの高い意地っ張りはとてもじゃないが謝れない。
「なんだよもう! 百七十にもなってさ! 怒り方が子供っぽいって自覚ないわけ? あーや
だやだ。ちょっと根暗なんじゃないの?」
 
 上辺だけの嫌味を誰に向けるでもなく言い連ねながら、千宏は足音も荒くのしのしと居間へ
と向かった。
 ばん、と荒々しくドアをあけ、ソファにながながと寝そべる白い影を目に留める。
 千宏はますます眉間の皺を深く刻み、しかし息を殺してこっそりとソファに歩み寄った。
 アカブである。
 時折、仕事が一段落つくとアカブは場所を問わずに仮眠を取る。
 夜通し働いているかと思えば日中ずっと寝ている事もあり、時間に縛られないと生活習慣は
猫なのだという好例である。
 積み重ねたクッションに頭を置き、いびきも立てずに眠る姿はどこからどう見ても普通の虎
で、千宏はアカブの寝姿を見ているのが好きだった。
 思わずその毛皮に手を伸ばし、首の辺りのふかふかした毛をもさもさとしたくなる。これは
大きな博打だが、耳をくいくいと引っ張るのもやめられない。ヒゲを引っこ抜きたい衝動を抑
えるのに苦労する。
「にくきう……ふふふ。ぷにぷに。へへへ」
 癒しだ。癒しの一時だ。最初は恐ろしいと思ったが、決してこちらに危害を加えないと分か
っていれば、アカブは癒しに満ちている。
 顎の下あたりをかいてやると眠りながらも気持ち良さそうにするのが可愛くて、ついさっき
まで苛立っていた心がすぐさま穏やかさを取り戻す。
 眠っている時猫は鼻が乾くのだが、どうやら虎もそれは変わらないようだった。
「うわ、すごい抜け毛」
 そういえば、ここに落ちてきた時に比べて大分涼しくなってきた。
 ふと、棚の上にブラシが置いてあるのが目に入り、千宏はよく眠っているアカブを見下ろし
てにやりと口角を持ち上げた。
 猫のブラッシングは快感だ。
 ごっそりと抜け毛を処理した時など、それはもう爽快である。
 千宏はむんずとブラシを掴むと、眠っているアカブの首筋あたりにそっとブラシをかけてみ
て驚いた。
 抜ける――とてつもなく、抜ける。
 所詮は虎か。短毛種の猫の巨大版か。
 ぐうぐうと眠りこけるアカブのシャツをぐいぐいと首辺りまでまくりあげ、千宏は半ば義務
感にかられてその巨大な体にブラシをかけ始めた。
 首まわりのふさふさした毛は何度も何度も念入りに。
 胸部から腹部にかけては、痛くないようにやさしくそっと。
 元の世界で眠っている猫にブラッシングをするように、起こさないように、気持ちいいよう
に、せっせせっせと氷山を崩して行く。
 ブラシを掃除するたびに形成されるもわもわとした抜け毛の塊が床に山積になる頃には、ア
カブの毛並みは見違えるようになっていた。
 問題は、今、見えていない部分である。
 背中――を、ブラッシングしたい。
 あと、頭の後ろもだ。
 だが、アカブの巨体を動かす事は千宏には不可能だ。
 寝返りをうつのを待つべきか。
 否。ソファで寝ている者が寝返りをうつことは、それすなわち落下による覚醒だ。
 どうする――どうする。
「アカブ。アカブ起きて」
 起こせばいい。
 単純な話である。
 ゆさゆさと白い巨体をゆすると、鬱陶しそうに尻尾の先がぱたぱたと揺れる。その様子にた
まらず口元が緩むが、アカブを起こす手は止めない。
「アカブ。アーカーブ!」
 ぐるるる、と低く呻いて、アカブが窮屈そうに寝返りをうつ。
 うてるのか、寝返り。どうやらソファで寝るのは慣れているらしい。なかなかの猛者である。
 しかしこれで背中が見えた。
 ソファの背を見るようにして横になった状態である。
 出来ればうつ伏せになって欲しかったが贅沢も言えないので、チヒロは早速背中にブラシを
かけ始めた。
 取れる、取れる取れる。たまらなく楽しい。無条件に楽しい。
「毛織物とか出来そう」
 まさにそんな勢いである。
 
「ふふふ。気持ちいいか? 可愛いやつめ」
 ついつい、猫に語りかけるような口調になる。
 膝立ちになって身を乗り出し、わき腹をブラシで撫でた瞬間、唐突に――本当に唐突にアカ
ブが飛び起きた。
 思わず叫んで仰け反り、何事かと目を見開く。
「――おまえ……!」
 アカブも心底から驚いたように千宏を凝視し、次いで、床に積み上げられた抜け毛の山を見
つけてがっくりと肩を落とした。
 溜息と共に顔面を多い、あぁ、畜生、と吐き捨てる。
「なんのつもりだ」
「なにって……ブラッシングを……」
 顔を覆った指の隙間から、ちらとアカブがこちらを見る。
「ご、ごめん。痛かった?」
「そういう話をしてるんじゃねぇだろう!」
「えぇ!? だ、だって、抜け毛が凄かったし! 丁度ブラシあったし! き、気持ち良さそ
うにしてたじゃん! 別に寝る邪魔したわけじゃないんだから……!」
 怒鳴られて面食らい、千宏は言い訳じみた弁解を並べておたおたと視線をさまよわせた。
 アカブが金色の瞳を丸くして千宏を見る。
「――それだけか?」
「だ、だから何が……!」
「わからねぇのかよ! おまえな、寝てる男の服はいでブラシかけるなんざ、家族の範疇超え
てんだろうがよ!」
 愕然とした。
 男――。そうか。あぁ、これはまずい。まずい事をした。
 眠っている兄弟のヒゲをそってやるくらい異常だ。
 眠っている姉妹の無駄毛を処理してやるくらい行き過ぎてる。
 衝撃を受けて沈黙した千宏から呆れたように視線を反らし、自覚無しかよ、とアカブはがり
がりと首の後ろをかいた。
「……ごめん」
 謝罪し、しょんぼりとうな垂れる。
 アカブは困り果てたようにちらと千宏を見て、それからようやく、自身の毛並みに気付いて
へぇ、と感心したような声を洩らした。
「……上手いもんだな」
「え?」
「いや、俺ブラシ苦手なんだよ。背中は自分じゃできねぇし、パルマなんかにやらせると無駄
にいてぇし」
「それは……大変だね」
 純粋にそう思った。
 今まで想像もしなかったが、風呂上りの乾燥などどれ程の苦労を強いられるか――。
「あの……お、起きてる時にやるんだったら、別に、怒らない?」
「いや……まぁ、起きてる時なら、別に……」
「じゃ、じゃあさ。あの。わ、わき腹だけやらせて? ね? あとそこだけなんだ」
 本当は足もやりたいのだが、さすがにズボン脱ぐのがまずい事くらいは分かる。
「そりゃぁ……まぁ、助かる……っちゃ、助かるが……」
「ほんと? よかった! じゃあそれ、シャツ邪魔だから脱いじゃって! ね? ね!」
 気圧されたようにおう、と答え、慌ててアカブがシャツを脱ぐ。
 服を着ていないとアカブはますます虎で、見事に発達した筋肉が野生的かつ躍動的で、先程
ブラシをかけた毛並みはつややかで――。
「た、たまらん……」
 思わず、親父臭い声が出る。
「最近市場に出るようになって思ったんだけどさ。アカブってハンサムだよね。いい男だよ」
「な、なんだいきなり!」
 カーペットの上に直接腰を下ろしたアカブの背後に回り、早速わき腹にブラシをかける。
「白い毛並みってさ、元の世界でも人気だったんだ。それにアカブは大きい方だし、顔もね、
なんかこう、他のトラより格好いい気がする」
「おだてたって何もでねぇぞ」
「あたしプリン食べたいな」
 
 へへへ、とわざとらしく歯を見せて笑うと、アカブが忌々しげに悪態をつき、後で作っとい
てやると吐き捨てた。
「ほんとに? うわ、ありがとう!」
「とんでもねぇ商人だな。ったく!」
「それって褒め言葉だよ」
 わき腹にブラシをかけ終え、先程はまくりあげた服が邪魔して出来なかった部分にもブラシ
をかける。
「でもさ。ほんとにかっこいいって思うよ。うん」
「よせよ」
「照れてる?」
「チヒロ!」
「うわ。かーわいい」
 はい、おしまい。とブラシを下ろし、千宏は満足げにさらさらになった毛並みを撫でた。
「……コンディショナー欲しいな」
「なに?」
「ほら、この世界にもあるじゃん? 髪がさらさらになるやつとか。あれ、アカブに使いたい」
 きっともっとふわふわになって、さらさらになって、それはもう眺めるだけでヨダレがとま
らないような愛らしさになるに違いない。
 愛らしい上に格好いい。格好いい上に美しい。
「さすがにブラッシングだけじゃごわごわはどうにもならないからなぁ。今度市場でそれっぽ
いの買ってこようかな。ねぇ、買ってきたらアカブも使うよね?」
「使うか。気色悪い」
「き……きしょ……気色悪いとはなんですか!」
「気色悪ぃだろうがよ! 俺は男だぞ! 王侯貴族じゃあるめぇし!」
「王侯貴族じゃなくたって身だしなみは大事でしょ! 大体あんた領主の弟でしょうが!」
「いやまぁ……そうなんだが……」
 別に城に出向くわけでもねぇし、第一ダンスの一つも知らねぇし、とぶつぶつと文句を言う。
 しかし千宏が決して譲らないと言う意思を持って睨み降ろすと、アカブはぺたりと耳を伏せ
て視線を反らし、不満げに唸り声を上げながら脱ぎ捨てたシャツに袖を通した。
「俺なんか、そんな小奇麗にしてたって意味ねぇよ……」
「なんでよ」
「そりゃあ……あー……分かるだろ?」
 苦虫を噛み潰したような表情で、言いづらそうに舌打ちする。
 全く分からないので表情だけで問い返すと、アカブは諦めたように肩を落とした。
「バラムと比べられたくねぇんだよ……」
 うわぁ――と、声を出さずに済んだ事に、千宏は心底から感謝した。
 聞くのではなかった。聞くべきではなかった。
 バラムはマダラだ。それはバラムの責任ではないにせよ、周囲はバラムの容姿を他の人間と
比べずにはいられないだろう。
 そしてその比較対象の筆頭は、弟であるアカブなのだ。
「くそ……あぁ、みっともねぇ!」
「あたしは、アカブの方が好きだよ」
 なにか、アカブを元気付けられる言葉はないかと探し、探した結果ろくな言葉が見つからず、
無意識に発したのがそれだった。
 ぎょっとしたように目を見開き、ぽかん、とアカブが千宏を見る。
「大体、比べようがないよ。マダラと、マダラじゃない人なんて共通点全然ないじゃん。耳と
尻尾くらいだもん。そんなのと比較してどっちがかっこいいとか、綺麗とか、そんなの海と山
を比べてるようなものだよ。意味がない」
「いや、そりゃあそうかも知れねぇけど……」
「バラムは綺麗だよ。でも、それに対してアカブが引け目感じる必要なんてないじゃんか。比
較するような奴、片っ端ならぶっ飛ばしちゃえばいいんだよ! だってアカブは強いんだも
ん! 綺麗なものを好きな人は多いけどさ、かっこいいのが好きな人だってたくさんいる」
 宝石は、確かに万人に愛されるかもしれない。
 だが、磨かれ、輝く宝石なんかには目もくれず、無骨な岩の断面の模様に美しさを見出す者
だって存在するのだ。
 宝石の美しさを否定するつもりは無い。だが、どちらが好みかと聞かれれば、千宏はアカブ
の力強さや、虎らしい美しさや、猫のような愛らしさの方が好きだった。
「だから、あたしはバラムよりアカブが好きだよ。だから、アカブをもっとかっこよくしたい
し、綺麗にしたいって思う。それだけだよ……」
 
 背を向けた状態のまま半身を捻って千宏を見ていたアカブの首に、腕を回して抱きしめる。
 ごわごわした毛並みはチクチクと刺さって痛かったが、暖かくて、大きくて、千宏はアカブ
を抱きしめる手に力を込めた。
 
 
                 ***
 
 
 未だに、千宏はバラムに先日の事を謝罪できていなかった。
 ごく普通に会話は交わすがそれもどこかぎこちなく、鈍感そうなパルマが気付いて心配しは
じめる始末である。
 それでも市場に行く日は行動を共にしないわけにはいかず、千宏は市場の帰りの馬車で、そ
れはもう疲れきった表情でぐったりと窓にもたれていた。
「チヒロ」
 向かいに座るバラムに声をかけられ、思わずぎくりと緊張する。
 平静を装って顔を上げ、視界を覆うローブをついと上げる。
「うん?」
 と首を傾げてバラムを見ると、バラムは千宏を見ようともせずじっと窓の外を睨んでいた。
「発情期――な。部屋に鍵掛けて一歩も外でんな」
 数秒の沈黙を挟み、え? と千宏が疑問の声を上げる。
「なんで?」
 と尋ねた千宏の声にも視線を向ける事はなく、バラムは何かに耐えるようにぐっと奥歯を噛
み締めて目を閉じた。
「だって、二週間も続くんでしょ? その間にあたし飢え死にしちゃうよ。お風呂だって入りたいし……」
「襲われたかねぇろう」
 千宏は一瞬呼吸を止め、呆然とバラムを凝視した。
 心拍数が跳ね上がる。
「パルマが発情したら、俺、たぶん我慢できねぇ。あいつまだ若いから、俺の体力についてこ
れねぇんだ。すぐに疲れて寝ちまうから……」
「近くにもう一人女がいたら、そいつも使おうって気になっちゃう?」
 引きつった表情で無理やり軽口を叩く。
 バラムは沈黙する事で肯定を示し、千宏はその沈黙が恐ろしくて必死に話題を探して沈黙を
振り払った。
「そ、その場合さ。アカブはどうなるわけ? あいつもさ、欲情するんでしょ? パルマが側
にいたらさ」
「あいつも下働きと一緒に家を空ける。少し前まで女がいたが、その女が俺に入れあげたせい
で別れちまったんだ」
「お――弟の恋人を取ったの!?」
「俺は何もしてねぇよ。ただ、俺がマダラだから――」
 だから、その気も無いのに愛されて、結果的に弟の恋人を奪うような形になったのか。
 ならば、バラムは悪くない。だが、それ故アカブが可哀想だ。
「……だったら、あたしもアカブについてって、家あける」
「やめろよ。それじゃあいつが気の毒だ」
「部屋の隅で大人しくしてるよ」
「だったら家で大人しくしてりゃいいだろ」
「だってバラムが……!」
「そんなに俺が嫌かよ!」
 鋭く叩きつけられたその言葉に、意識とは関係なく体が竦む。
 輝くような金色の虹彩が、射るように千宏を睨みつけた。
「な……なにそれ。どういう――」
「路地で名前もしらねぇ誰かに強姦されるより俺に抱かれるのが嫌かよ。おまえの事知りもし
ねぇ、おまえを奴隷として扱う、おまえをペットにしようとする奴に犯されるより俺とやるの
が嫌なのかよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ……! ちが……なんでそうなるん――」
「そういうことだろうがよ!」
 くそっ、と忌々しげに吐き捨てて、苛々と尻尾を座席に叩きつける。
 反論を許されなかった千宏は呆然とバラムの横顔を凝視し、泣くのを堪えて唇を噛む事しか
出来なかった。
 
 家までの道のりがひどく長い。
 座席を叩いていたバラムの尻尾の動きが次第に緩やかになり、しかし先端だけは未だに苛立
たしげに動いている。
「――怯えるな」
 前髪をぐしゃりと掴み、そっぽを向いたままバラムが呻く。
「何もしねぇよ……悪かった」
「別に、バラムが嫌なわけじゃない」
 一瞬、言葉の意味を理解しようとするような間があった。
 はっとしたように顔を上げ、バラムが千宏を凝視する。
「ただ……なんかさ……まだ、こっちに来て二ヶ月も経ってなくて、まだあっちの世界の常識
とか抜けなくて……抱くとか、抱かれると、そういうのがね、向こうだと凄く特別なんだ……」
「特別?」
「こっちではどうか知らないけどさ……すっげぇ恥ずかしいんだけど……あ、愛、とかね……
そういうのが、ないと……理由が必要なんだ。抱かれるのに理由がないと、どうしても踏ん切
りがつかなくて……」
 求められれば、もう抵抗はしないかもしれない。
 だが自分から誘うには至らない。
 強姦されても耐えられるだろうと思う。
 だが自ら無防備になる勇気はない。
「バラムは……もてるんでしょ? 女には不自由してないっていったし、パルマだっている。
だからね……なんか、嫌なんだよね。馬鹿らしいんだけどさ」
「それは――!」
「だから別に……したいなら、強姦してもいいよ……」
 そうすれば、恐らく道具になりきれる。
 下らない感情を求めたりはしないで、半ば投げやりに快楽に身を投じられる。
「でも、あたしはそんなに根性座ってないから、たぶん強姦されない努力はしちゃうんだ。そ
れは怒らないで欲しい。だって、痛いのは誰だって嫌でしょ? だから、発情期前に、アカブ
について家を出るよ。別に部屋を取ってもらって、ずっとそこに閉じこもってる。宿なら食堂
もあるしさ」
「チヒロ……」
「あとそうだ。あの、ごめんね? この前。バラムがマダラなの、馬鹿にするみたいなこと言
ってさ。あたしなんて、それを上回る希少生物なのに何言ってんだか」
 マダラである事を責めるような事を言った千宏に対し、バラムはヒトであることを揶揄する
事はなかった。
 バラムから見れば千宏はヒトで、珍獣で、たかだか性奴隷に過ぎない劣った存在のはずなのに。
「強姦なんざしねぇよ……そんなのは最低の行為だ。対等じゃない。そんな事、ましてや家族
相手にできっこねぇだろ!」
「バラム……」
「したくねぇけど、出来ちまうんだよ! おまえには爪も牙もない。力だって弱い。襲われた
ら、嫌でも抵抗できねぇから……!」
 千宏の世界の猫の社会では、メスが嫌がればオスは交尾できないのだと言う。
 だから発情期が存在するのだ。そうでなければ、発情期に関係なくオスはメスとの交尾に及
ぶだろう。
 そして千宏はヒトで、爪も牙も力もなく、襲われてもオスを退けられない。
 それは、襲う者の責任ではない。撃退できない弱いヒトが悪いのだ。
 知らず、腰のナイフに手が伸びた。握りにくいグリップをぎゅっと握る。
「――今日ね。アカブがプリン作ってくれる約束なんだ」
 ぱっと、半ば無理やり作った笑顔に、バラムがぎょっとして千宏を見た。
 そして直後に察したように、話題の転換に合わせて笑ってくれる。
「家に帰ったら冷蔵庫に直行決定だよ! あのとろとろで滑らかで濃厚なプリン……もとの世
界じゃそうは味わえない贅沢の一つだね。あれのためならあたし、一つに五百センタは出せるね」
「プリン一つにか……?」
「メスヒトの甘いものに対する欲求をなめちゃいかんよ。本当に目がないんだから!」
「そ、そうか……」
「あとねー。今日男性用のリンス買ったんだ。アカブの毛並みってちょっと痛いじゃん? あ
れね、ふわふわさらさらになったら触り心地抜群だと思うんだよね。アカブはかっこいい方だ
と思うし、毛並みの手入れしたら絶対にもてると思うんだ」
 
 さっと、バラムが表情を強張らせた。
 しかし千宏はそれに気付かず、ぺらぺらと喋り続ける。
「今日無理やりにでもお風呂に入れてね、出てきた所を乾かして、ブラッシングして、それで
ふわふわを堪能するんだ。うわぁ、楽しみ!」
 うきうきと胸の前で両手を組み合わせ、にまにまと口元を緩める。
 千宏は上機嫌で窓の外の景色を眺め、バラムは複雑そうな、どこか苛立ちを帯びた表情で千
宏の横顔を見つめていた。
 
 
               ***
 
 
 最近パルマが落ち着かない。
 パルマは前から落ち着きが無いが、前にも増してそわそわとしている。時々ぼんやりとして
いる事もある。声をかけても返事がない。
 そんな調子のパルマを見ていると、千宏も漠然と、発情期が近いのだと察する事が出来た。
 下働きの男たちは長期の休暇に備えて忙しそうで、アカブはアカブで忙しそうだ。
 パルマが役にたたない分千宏が働かねばならないため、千宏も暇というわけではない。
 バラムだけが平然と、いつもと変わらぬ生活をおくっていた。
 
「大変なんだねぇ、発情期って」
 千宏とパルマがそろってぎゃあぎゃあ文句を言うため、最近のアカブの毛並みは見違えるよ
うに美しい物になっていた。
 元の世界のセオリーでは、猫は頻繁に洗ってはいけない生物だったが、この世界のトラ達は
自主的かつ当然のように風呂に入るし、男もシャンプー程度ならするらしい。
 なにより、男性専用のリンスが存在するのだ。使用方法も特に変わった事はなく、連続して
使うと皮膚病を発生するなんて事もないらしい。それならば使わないのはもったいない。
 ふわふわでさらさらで、真っ白な毛並みに走る灰色の縞模様も美しいアカブの体にせっせと
ブラシをかけながら、千宏はしみじみと呟いた。
「そうだな。毎年毎年面倒だ」
 アカブは気持ち良さそうに目を細めながら、ごろごろと喉を鳴らしている。
 ごろごろと喉を鳴らしながらも、木の実をごりごりとすりつぶす手を止めないのはさすがで
ある。起きている時のアカブは働き者だ。
「いつ出発するの?」
「俺か? 明日の夜だな」
「あ――明日ぁ!? なにそれ! 聞いてないよ!」
「はぁ? そりゃ、言ってねぇからな」
「なんで言わないんだよ薄情者! ど、どうしよう。着替えとかまだ全然用意してないよ!」
 ぴん、と驚いたように耳を立て、アカブが作業の手を止めて千宏に振り向いた。
 間抜け面である。
「着替えの用意?」
「うん。だって二週間も服代えないなんて耐えられないでしょ? 日持ちする食べ物も持って
行きたいし。うわ。今夜のうちにお菓子焼いとかなきゃ!」
「待て。どう言う事だ。何の話だ?」
 完全に作業をやめて、バラムが体ごと千宏に振り向く。
 逆にこちらがきょとんとしてしまい、千宏はブラシを手にもったままぱちぱちと目を瞬いた。
「あたしもついてくって……言ってなかったっけ?」
「お――おまえがついてきてどうすんだ! 馬鹿言ってんじゃねぇ!」
「だって家にいるとバラムに犯されるんだもん」
 言葉で思い切り殴られでもしたように、アカブが盛大に仰け反った。
「あ……あいつがそう言ったのか……?」
「二週間ずっと部屋に閉じこもって出てくるなって言うんだ。でもそんなの常識的に考えて無
理じゃん? だったらアカブについてってどっかの宿屋に引きこもってさ、ルームサービスで
生きてた方が安全だと思わない?」
「そ……そりゃあ……まぁ、いや……だけどな……」
「連れてってくれるだけでいいんだ。お願い! 宿屋に連れてって部屋取ってくれたら、後は
帰りに迎えに来てくれればそれでいいから。ね? さすがに一人じゃ不安なんだ」
 
「いや、だ、だけどなチヒロ……」
「アカブが連れてってくれないならカブラに頼む」
 チヒロのこうげき。チヒロはだったらほかのひとにたのむもんをつかった。こうかはてきめんだ!
「俺が連れてこう……」
 あの野郎に任せるくらいなら、任せるくらいなら……とアカブが呪文のように繰り返してい
る。余程信用がないらしい。
「ありがとう! じゃああたし、準備してくるね!」
 ぎゅむ、とアカブの巨体を抱きしめて、もふもふを堪能してから踵をかえす。
 表面上、なにも分かっていない無邪気な少女を装いながら、千宏は心の中で心底からアカブ
に謝罪した。
 女漁りに家族を――しかも女を連れて行けと言っているのだ。キャバクラに妹を連れて入る
ような上品なものではない。
 ソープランドの待合室に妹を待たせているような心境だろう。
 迷惑なのは分かっている。
 ひょっとしたら、とても酷い事をしているのかもしれない。
 それでも、それでも――。
 
 一人部屋に取り残されたアカブは、落ち着かなそうに首筋を撫で、複雑な表情で目を閉じた。
 千宏は、随分とこの世界に慣れて来た。
 商売はアカブやパルマよりも上手いくらいだし、物覚えも驚くほどに早い。家族として馴染
もうと努力して、そして千宏は確かに家族としてここにいる。
「くそ……あぁ、畜生……!」
 家族として向けられる好意がひどく痛い。
 千宏は無理をしている。
 ほんのふた月だ。こんな短期間で馴染めるはずがないのに、こちらが違和感を覚えないほど
に千宏はこの生活に馴染んでいる。
 パルマと姉妹のように笑い合い、アカブやバラムを平気な顔をして怒鳴りつける。
 無邪気を装って甘いものをねだったり、ソファに寝そべって昼寝をしたり、まるで昔からそ
うだったように振舞うのだ。
 家族として振舞わなければ、家族として接しなければ、なにか恐ろしい事が起こるのではな
いかと怯えるように――。
「アカブ」
 頭を抱えて沈黙していたアカブの背に、低く――どこか沈んだ調子のバラムの声が届いた。
 振り返った先に、拗ねたような美しい顔がある。
「バラム……てめぇ、チヒロに何言いやがった」
「なにも……ただ、事実を言っただけだ。パルマと一緒にしといたら、俺はチヒロだって抱いちまう」
「あぁ……そりゃあ、そうかもしれねぇがよ。不安にさせるような事言う必要ねぇだろ。必死
に家族に馴染もうとしてるのに――」
「仕方ねぇだろう! どんなに頑張ったってチヒロはヒトなんだ! 守るためには閉じ込める
か、遠ざけとくしかねぇだろうがよ!」
 かっとなって怒鳴ったバラムの顔を、アカブはぽかんとして凝視した。
「おい……おまえ、なにイラついてんだよ。どうした? 何かあったのか?」
 普段、バラムはもっと冷静で、どこかのんびりとした印象のある男だ。
 激昂するアカブをなだめ、癇癪を起こすパルマをあやす役回りだ。
 それなのに、今のバラムはひどく苛立っていた。今にも周囲に当り散らしそうな、そんな子
供じみた雰囲気を湛えている。
「――チヒロと、仲いいよな、おまえ」
「チヒロ……? そりゃあ、あんだけ馴染む努力してんだ。こっちとしちゃあ馴染まない方が
おかしいだろう」
「……それだけか?」
「おいバラム。おまえ本当にどうし――」
「あいつは――俺よりおまえの方が好きなんだってな」
 
 呆気にとられている内にバラムはくるりと踵を返し、乱暴にドアを閉めて去っていった。
 再び一人になったアカブは、いよいよ頭を抱える事になる。
 ――アカブの方が好きだよ。
 あの日、あの言葉を――バラムは聞いていたのだろうか。
 あれは嫉妬だ。そして、バラムはその感情を持て余している。扱いあぐねている。
 だが、その嫉妬は間違っている。
 千宏は――アカブを異性として認識していないだけなのだ。
「俺の方が嫉妬してぇよ! 畜生が!」
 苛立たしげに、忌々しげに声を荒げて吐き捨てて、アカブは苦虫を噛み潰したような表情で
木の実をすりつぶす作業に戻った。
 これでもかと言うほど粉々にすり潰された木の実の粉に、アカブの複雑な心境が表れている
事に気付く者はない。
 
 
 

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