猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

虎の威10

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虎の威 第10話

 
 
 千宏がこの世界に落ちてきてから、すでに半年が経過していた。
 気候の穏やかなトラの国にも四季はあり、冬ともなれば山のふもとは雪に埋もれる事も少なくない。
 千宏は酒で体を温めることを覚えざるをえず、また外に出る時は厚手のローブの上から更に毛皮の外套を羽織り、手袋とマフラーを片時も離さないという徹底防寒で臨まざるをえなかった。
 それでも、バラムが森に入ることをやめることは無く、冬眠とは無縁のトラたちは寒さの中も実に勤勉に、時に怠惰に働いた。

「雪が降った翌日は市場をしめるべきだと思うんだ」
 パルマに連れられてやってきたいつもの市場で、千宏は息を真っ白にして絶え間なく不平不満を並べ立てた。
 寒いに始まり、眠い、しもやけができる、耳が冷えて頭痛がする、雪のせいで歩きにくい、トラの男達の毛皮がずるいなど、千宏の不満はとどまる事を知らない。
「ヒトは寒さや暑さに弱いもんだからな」
 そう、カアシュが自慢の知識をひけらかしながら差し出したあたたかいジュースを受け取り、千宏はパルマに店を預けて休憩と決め込んだ。
 周りをカブラたちが囲んでいれば、それだけでなんとなく暖かい。
 トラ男達の真ん中で丸まりながらちびちびと熱い液体で体を温め、千宏はカアシュにせがまれて日本の冬がいかなる物かをぽつぽつと教えてやった。
 鍋料理がおいしい季節であることや、ハロゲンヒーターの素晴らしさ。床暖房や電気カーペットの恩恵の数々。
 そして話が至高の一品こたつに及んだ時、それ、ネコの国でも流行してるぜ、とブルックが声を上げた。
「こ、こたつがあるの?」
「おう。なんでも冬場のネコを行動不能に至らしめる科学兵器だそうだ」
「ねーこーはこったつーでまーるくーなるー」
 思わず歌ってしまった千宏である。
「あー。あるのかぁ。こたつ。欲しいなちくしょう。高いのかなぁ。アカブに頼んだら買ってくんないかなぁ。副業でも見つけてお小遣い稼ぐかなぁ」
 こたつみかんのためならば、悪魔に魂を売っても構わないとさえ思う。
 それが冬場の日本人である。
「あっちも今は冬かな……」
 はぁ、と真っ白な息を吐き、元の世界となんら違いの見出せない空を見る。
 捨てきれぬ懐郷と染み渡った諦めに千宏が静かに目を閉じると、カブラ達がおもしろいほどうろたえた表情で、互いに顔を見合わせた。
「まだ時々、これって夢なんじゃないかって思うんだ」
 すっと薄く瞼を開き、深くかぶったフードの奥から三人を眺める。
 千宏を強姦しかけた三人だ。
 吐き気がしたこの男たちが、今では大切な友人に思える。
「目が覚めたら遅刻しそうで、慌てて着替えて、ご飯食べてさ。電車に乗って、講義を受けて、友達とおいしいケーキ食べて、お母さんにもお土産買って――」
「チ、チヒロ!」
 慌てたような、悲しそうな、そんな声を出したのはカアシュだった。
 ふと視線を向ければ、今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。
 その、ぺたりと伏せた耳のあたりをわしわしと撫でてやり、千宏はひょいと立ち上がった。
 悪夢と信じて疑わなかった。
 はやく目が覚めてくれることばかりをひたすら願った。
 だが、今は――。
「でも今はさ、きっと目が覚めても、あたしはまたこの夢が見たくなる」
 ぽかん、と、三人揃って間抜け面をならべ、理解できなかった言葉の意味を三人でひそひそと相談しあう。
 その様子を見ながらけらけらと声をあげて笑い、千宏はふと、その三人の向こうに見える、馬車の停留所に視線を吸い寄せられた。
 たった今そこに停まった馬車の、幌馬車でも荷馬車でもない、風変わりなその形――。
「護送車みたい……」
 そう千宏が呟いた瞬間、三人が同時に馬車の方を振り向いて凍りついた。
 長方形の箱に車輪がついているような馬車である。
 サーカスで見かける動物運搬用の檻に近いようにも思える。
「ねえ、あれ――」
「見るな」
 鋭く命じて千宏の視界を塞ぎ、ぐるりと馬車に背後を向けさせたのはカブラである。
 千宏は目をぱちぱちと瞬き、それでもカブラの肩越しに馬車のほうを振り向いた。
「見るなって――なに? 見ちゃいけないもんなの?」
「なぁに、特に珍しいもんじゃあねぇよ。国境市まで荷を運ぶやつらが時々ここを通るんだ」
「国境市は色んなもんが集まるからな。変わった積荷を運ぶには変わった馬車が必要なんだろ。積荷が違うだけでただの商人だよ」
 カアシュとブルックが千宏の視界を遮るように立ち、平静を装いきれないまま気にするなと繰り返した。
 嘘の下手な種族である。
「見るなって言うならまぁ……」
 見ないけど、と言いながら、その実千宏はうずうずしていた。
 見るなと言われれば見たくなるのがヒトの常だ。
 千宏の言葉にころっと騙され、三人が気を抜いた瞬間、千宏は脱兎のごとく駆け出した。
 ひどく慌てた様子でカブラが千宏の名を怒鳴る。
 しかし、人通りの多い市場では、身軽で小柄な千宏の方に利があった。
 するすると人混みをすり抜けて馬車に駆け寄る千宏に、カブラたちは追いつけない。
 そして馬車の前にたどり着き、千宏は美しい装飾のほどこされたその箱状の馬車をまじまじと観察した。
 長辺の側面の真ん中に境目がある所をみると、恐らく観音開きに開くのだろう。
 その他にもいくつかスライド式の小窓があり、トレーラーハウスのような印象を覚えた。
 しかし、積み荷は全く分からない。
「つまんないなぁ」
「チヒロッ!」
「うぇ、やべ」
 鬼の形相で駆け寄って来たカブラに乱暴に引っ立てられ、千宏は慌ててごめんごめんと謝った。
 特に悪びれた様子も無い千宏に対して、カブラの真剣さは尋常ではない。
「来い!」
「わかったわかった! わかったから引っ張らないでよもう! 行くよ行くよ、いきますよー」
 ぐいぐいと腕を引っ張られてぎゃあぎゃあ喚く千宏の背後で、扉の軋むような金属音がした。
 あの、観音開きの壁が開いたに違いない。
 カブラに腕を引きずられながら特に深く考える事も無く振り返り――千宏は凍りついた。
「馬鹿! 見るなって――」
 千宏の異変に気付いたカブラが、馬車に視線を釘付けにしたまま動けずにいる千宏を乱暴に抱え上げた。
「ヒトが――」
「見間違いだ」
 思わず零した千宏の言葉を、カブラがすかさず遮った。
 エサの時間だ、と、トラよりもずっと小柄な――恐らくネコだろう商人が怒鳴る声がする。
「でも、カブラ――」
「チヒロ!」
 鋭く叱責したカブラの瞳が、怒りとも嘆きともつかぬ感情に揺れていた。
 その虹彩は相変わらず、空よりも清んだ青をたたえている。
 カブラの肩にしがみ付いてもう一度馬車を伺って、千宏は瞠目したままカブラの肩に額を押し付けて沈黙した。
 高級奴隷――。そう、バラムは確か言っていた。
 奴隷商人がいるとも言っていた。
 なるほど、ならばあれがそうなのだろう。いると知っていた者を、あると知っていた物を見たところで、驚くようなことはない。
 だが――あれは、違う。
 一瞬、千宏は“積み荷”と目が合った。
 否。相手の目を見たのは千宏だけで、相手は千宏を見てなどはいなかった。
 その、生気の無い虚ろな瞳――。
 馬車を背にして、逃げるようにカブラは歩く。舌の奥になにか、妙な苦さがあった。
 ずっと考えていた事が、考えないように抑え込んできた事が、するすると解けるように次々頭に浮かんでくる。
「カブラ」
「何も答えねぇぞ」
「歳を取った奴隷は――価値が下がるよね」
「よせ」
「狂った奴隷も、きっと持ち主に捨てられるよね」
「チヒロ……!」
「あの馬車――」
「考えるな!」
 ぐっと、頭を押さえ込むようにして抱きしめられ、千宏は自分が震えている事に気がついた。
 カブラもまた、なにかに怯えるように震えている。
 それが、全てを物語っていた。
「奴隷の下請け業者だね」
 ペットは大切な家族だ――という者は、千宏の世界にも多くいた。
 だがそれと同じ数くらい、流行を追いかけてペットをブランドの品のように取り替える者もいることを千宏は知っていた。
 古くなっていらなくなったペットは捨てられる。
 虐待して使い物にならなくなったら殺される。
 そして、そんないらなくなったペットを買い取る業者が存在すれば、率先してそれを利用するだろう。
 そして――値が下がったヒト奴隷は少し質の劣る人々に売り渡され一生を終えるか、あるいはその飼い主達にも飽きられて、再び業者に引き取られる。
 最終的には――。
「カブラ」
「すまねぇ……すまねぇ……!」
「ヒトの肉って――食べたことある?」
 使い物にならなくなった競走馬は、余程の素質が無ければ食肉工場に送られる。
 カブラはもう、言葉を発する事も出来ないようだった。止まってしまった足が動こうとする気配も無い。
 ひどく寒かった。
 すまねぇ、と、またカブラが繰り返す。
「カブラが悪いんじゃない……」
 カブラだけではない。
 誰も悪くなど無いのだ。
 元の世界でだって、あたりまえのように、日常のように起こっている出来事だ。
 いつだったか食卓で、元の世界では牛肉は食用だったのだとパルマに語った。それと同じことだ。ただ恐らく、ヒトの肉は高級品で、恐らくは珍味の類だろう。
「でもあたし――」
 落ちてくるヒトの数は、そう多いものではないはずだ。
 だがすくなくとも、いらなくなったヒトをぞんざいに扱えるくらいには――いらなくなったら替えがきくくらいには、この世界にヒトはいる。
「あたし……」
 はじめて、自分以外のヒトを見た。
 はじめて、自分以外のヒトの――おそらく、まだマシな部類に入るヒトの境遇を見た。
 箱庭の楽園が、千宏の回りに広がっていた。
 だけど一歩箱庭の外を覗けば、そこは目もくらむような悪夢が広がっていて――。
「カブラ! チヒロ!」
 カアシュとブルックと共に、駆け寄ってきたのはパルマだった。
 カブラにしがみ付いた千宏を見て、きゅっと形のいい唇を噛む。
「馬鹿! あんた達チヒロになんてもの見せるのよ! この役立たず! なんのためにそんなデカい図体してんのよ! 腕利きのハンターが聞いて呆れるよ!」
 パルマがきぃきぃと怒鳴りながらブルックとカアシュを殴る。
 そしてすぐさま千宏に駆け寄って、カブラから千宏を奪い返した。
「大丈夫だよチヒロ。私、絶対にチヒロをあんな目にあわせたりしない。だからね、そんな顔しないで?」
 フードの中にパルマの手が滑りこみ、千宏の冷えた頬を優しく撫でた。
 その優しさが――当たり前のように受け取ってきたその好意が、ひどく痛い。
 泣き出すような激しい感情ではなかった。
 ただ、重い。
 あの虚ろな瞳の奥に潜む絶望を想像するだけで、胸が押しつぶされそうなほど苦しかった。
「ねぇ、私おなかすいちゃった! なにかあったかい物でも買って食べよう。ね?」
 ぐいと、パルマが無理やり作った笑顔で千宏の腕を引く。
 その好意を振り払う権利を――幸福を与えてくれる存在を傷つける権利を、千宏は持っていない。
 パルマを、カブラを、カアシュとブルックを安心させてやりたくて、千宏も笑って頷いた。
 果たして彼らは、あの馬車にいるヒト達は、この世界に落ちてきて――例え無理やりでも、自分の意志で笑えた事があるのだろうか――。
 

                  ***


 市場でヒト奴隷の商人を見てから、さらにひと月が経過しようとしていた。
 書く事は出来なくとも読むことならば随分と堪能になって来た千宏は、ヒトとの生活教本や交配教本、ヒトを題材にした官能小説に至るまで、難解な専門用語や文学表現に苦戦しながらヒトに関する本を読み漁った。
 そして、自分がいかに幸福な境遇にあるかを思い知る。
 落ちてきた瞬間に死ぬ者も多く、生き延びても落ち方が悪ければ、落愕病と呼ばれる病に犯される事もあると言う。
 当然の事のように記される、胸の悪くなるような調教方法。
 品評会の様子。市場の様子。
 繁殖機関の存在。
 調理法。
 知れば知るほどに、自分の幸福が恐ろしくなった。
 特殊技能のあるヒトは、それ相応の待遇を受ける事もあると言う。
 だが特殊技能の有無を考慮せず、ただ性奴隷として壊されてしまう事例のほう圧倒的だ。
 皆が死んでいるのに。皆が壊されているのに。自分よりも美しい人が。自分よりも幼い子供が。自分よりも弱い老婆が。知識のある人間が。技術を持った人間が。自分より価値のある人々が殺されているというのに――。

 幸福すぎる。

 その言葉が、千宏を確実に蝕んでいた。
 夜、夢を見るようになる。
 虚ろな目をしたあの、男か女かも判別できなかった奴隷の眼前で、自分が幸福に笑っているのだ。
 そうして、事実彼らの存在を知りながら、優しい家族に囲まれて幸福に笑っている自分に気付いて頭を抱えてうずくまる。
 最も幸福なヒトの死とは、この世界に落ちると共に命を落とす事である――と、そう記述する本は少なくない。
 そしてこの世界で最も不幸なヒトとは、正気を保ち続けている固体の事だと言う。
 様々な本の中で、千宏の心に最も響いた一説がある。
 落ちたる人々――著者不明。
 曰く。願わくば、この世界に落ちた全てのヒトが、幸福のうちに発狂できん事を――。


                 ***


 夜。
 朝から降り続いていた雪が、ついに吹雪に変わった頃である。
 アカブは千宏の部屋の前に立っていた。
 千宏の様子がおかしい――と最初にバラムが言い出したのが、今日から半月ほど前である。
 なにがおかしいのか分からないが、とにかく嫌な違和感がある、と美しい顔をしかめたバラムの言葉を、しかしアカブはきのせいだろうと一蹴した。
 食欲が減退したわけでもなく、具合が悪い様子も無く、いつものように楽しげに笑う。そんな千宏の一体どこに違和感を覚えるというのか、アカブにはわからなかった。
 だが最近になってようやく、アカブもふと気がついた。
 嫌だ。と言わなくなったのだ。
 そして、前はよくアカブに甘いお菓子を作ってくれとねだったのに、今ではそれどころか何かを欲しがることをしない。
 あんなにも熱心だったローブの収集も、いつの間にかやめてしまったようだった。
 アカブは自分を内心激しく罵った。
 半月も前にバラムが気付いていたことに、一番千宏と時間を共にしている自分が一切気付かなかったのだ。
 慌ててバラムにこの事を相談すると、バラムは渋い顔をしていつの間にか束ねるようになった銀髪をもてあそんだ。
 そして、様子を見て来いという。
 おまえの方がそういうのは上手いだろ、と慌てたアカブの問いに、バラムは眉間により深く皺を刻んで首を振った。
 そして、今に至る。
 アカブは手にした熟れた果実をじっと睨み、静かに部屋のドアをノックした。
 一瞬の沈黙を挟んで、千宏が中からドアを開ける。
 そしてアカブの姿を確認するなり、不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの? なにかあった?」
 その仕草に、表情に、やはり以前との違いは見られない。
「いや……少し、様子を見にな」
 ほらよ、と果物を差し出すと、ありがとう、と笑って受け取る。
 促されて久々に入った千宏の部屋は、知らぬ間に本で溢れていた。
「すげぇな……いつのまにこんなに集めた」
「一ヶ月くらい前からちょっとずつね。市場に来てる商人から安くゆずってもらったり」
 しゃく、と音を立てて千宏が果実にかぶりつく。
「何か知りてぇことでもあるのか? 何の本だ?」
 何かに興味を持つのはいいことだ。
 他の何かに熱中しているのなら、ローブを集めなくなった理由も説明がつく。
 内心ほっとしつつ床に落ちている本を拾い上げ――アカブは凍りついた。
「ヒトの本」
 畳み掛けるように、千宏が答える。
 しゃくしゃくと果物をかじりながら、千宏は凍り付いているアカブの横を素通りしてベッドに歩み寄った。
 その上に伏せてある一冊の本を手にとって、無表情に近い笑顔でアカブを振り返る。
「意味がわからない単語があるんだけど、教えてもらってもいい?」
「なんで……」
「なんでって……いや、パルマに聞いてもいいんだけどさ。今目の前にアカブがいるんだし、折角だから――」
「何があったんだ」
「アカブ?」
「なんでおまえがこんな本持ってんだ! おまえが――おまえがこんな事知る必要なんざねぇだろう!」
 悪事を暴かれた罪人のような心境で、アカブは千宏に詰め寄って肩を掴んだ。
 トラであるアカブが読んでさえ胸の悪くなるような、ヒトを生物とさえ認識しない書物の数々。
 それをどうして、ヒトである千宏が――。
「怒ってるの?」
 困ったような表情で、千宏が首を傾げてみせる。
「ごめん。読んじゃいけない本だった?」
「チヒロ……?」
「次からさ、読んでいい本かどうか、ちゃんと確認取るよ。だからさ、怒らないで? ね?」
 いつものように悪びれた様子も無く言われた言葉は、しかし明らかに対等の立場から発せられる言葉ではあり得なかった。
 じっとりと冷たい汗が滲む。
「あの、じゃあさ。この本まだ途中なんだけど――」
 ぱたん、と片手で器用に本を閉じ、表紙が見えるようにアカブに差し出して見せる。
 その表紙に綴られた文字を読むなりアカブはそれをひったくって部屋を横切り、閉じられた窓を開いて吹雪の中に投げ捨てた。
 ヒトの限界――壊さず殺さずとことんまでヒトを楽しみつくす百の方法――。
「おもしろいのに」
 ちぇ、と、可愛らしく唇を尖らせる。
 吹雪に閉ざされた部屋を照らすぼんやりとした魔洸の光が、千宏の笑顔から無邪気さを奪っていた。
 残った果肉をしゃくしゃくと平らげて、ヘタをゴミ箱に放り込む。
「色んなヒトが落ちてくるんだね。知ってた? 落ちてきてほとんどは、誰にも拾われずに死んじゃうんだって。あたりまえだよね。あたしだって、バラムに拾われなきゃ死んでたんだし」
「……カッシルに、襲われたんだってな……」
 ぺろぺろと指についた果汁を舐めながら歩み寄ってくる千宏に無理やり会話を合わせ、アカブは初めて千宏を見た日の事を思い出してうなづいた。
「俺を見て気絶しただろ」
 あはは、と、楽しげに千宏が笑い、窓から身を乗り出して下を見る。
 誰かが拾ったらびっくりするだろうなぁ、あの本、と何気なく呟いて、ふと、千宏はアカブを振り仰いだ。
「売るのか? って言ったの、覚えてる?」
 問われて、アカブは愕然と目を見開いた。
 吹き込む吹雪に息を白くし、千宏がじっとアカブを凝視する。
「ヒトのメスは、オスの相場の十分の一なんだってね。それでも五百セパタくらいにはなるのかな? それともまだ若いから、千くらいの値はつく?」
「おまえ……何が言いてぇんだ」
 千宏にアカブを責めている様子は無かった。
 ただそれだけに、その質問がひどく重くて、妙に寒い。
「オスの少年なら数十万セパタで取引されて、求められるのはアナルセックスだよ? そんな信じられないような値段を払うほど、ヒトの体にはそういう価値があるんだね」
 寒い、と白い息を吐き出して、千宏が窓を閉めてカーテンを引いた。
吹雪と共に吹き込んだ冬の冷気が部屋の暖気をすっかりと冷やしてしまい、部屋の中はそれでも寒い。
対照的な表情で向かいあいながら、ふいに千宏が寝巻きのボタンに手をかけた。
「あたしより小さい子や、あたしより何かの技術があって、あたしより頭がいいヒト達が、そんなものよりもセックスに価値を見出されてる。それなのに、なんの才能もないあたしがさ、こんな風に家族として扱われて、分不相応にも程があるとおもわない?」
 ぷつん、ぷつんと、ひとつずつ外されていくボタンを何も出来ずに凝視していたアカブの前で、するりと千宏が寝巻きの上を脱ぎ捨てる。
「男も、女も、落ちてきたら誰だって、大概は見たら気絶しちゃうような大男に当たり前のように犯される。どれくらい痛かっただろうね。死ぬほど怖かっただろうね。強姦されかけただけで怖くて、痛くて死にそうだった。最後までやられちゃった人達は、どんな思いだったんだろうね」
 しゅるりと、衣擦れの音を立てて千宏の下半身を覆っていたズボンが落ちる。
 そして、ひたりとアカブの腹部に手を添えて、千宏は静かにひざまずいた。
「犯して」
 いとおしむように、千宏の唇がズボンの上からアカブに押し付けられる。
「このままじゃ、罪悪感でおかしくなる。考え付く限りで一番痛いやりかたであたしを犯して。道具みたいにあたしを使って。泣き叫んだら殴っていい」
 この状況で――。
 こんな事を聞かされて、それでも千宏の裸体に興奮し、押し当てられる唇の感触に下半身のものを充血させている自分に吐き気がした。
 口の中に血の味が広がる。
 噛み締めた奥歯が、砕けるのではないかと思うほどギシギシと音を立てていた。
「それ以外の価値なんかあたしにはない」
 つ、と指を滑らせて、千宏がアカブのズボンに手をかける。
 そして、何かに驚いたように手を止めて、ひざまずいたままアカブを見上げて愕然と目を見開いた。
 ぽたり、と、千宏の手の甲にしずくが落ちる。
 恐らく、百年はその存在を忘れていただろう涙が、アカブの瞳から溢れ出していた。
「俺の家族を侮辱するのか」
 金色の瞳が真っ直ぐに千宏を捕らえ、唸るような声が千宏を戦慄させた。
 思わず下がった千宏の体を乱暴に引っ立てて、肩から壁に押し付ける。
「おまえは俺の家族だろうが! 俺が家族だって認めたんだ。俺たち全員がおまえを家族だと思ってる! それなのにてめぇは、自分には性奴隷の価値しかねぇなんて抜かすのか! ふざけんじゃねぇ! 侮辱すんのも大概にしやがれ!」
 ひ、と、食いしばった歯の奥からこぼれるような悲鳴をあげ、千宏はがちがちと歯を鳴らしながらぼろぼろと涙を流して泣き出した。
「だって――あたしばっかり、こんな、幸せじゃ……だめなんだもん」
 白くなるほど噛み締めた唇が、ぷつりとはじけて一筋の血液を溢れさせた。
 ひく、ひくと震える白い首筋に、くねりくねりと赤い線が蛇行しながら垂れて行く。
 突き飛ばすようにして千宏の体を解放し、アカブは忌々しげにはき捨てた。
「言っておくがな。俺たちのところにいながら不幸になる事は許さねぇぞ。そんなに不幸のどん底に行きたきゃこの家を出ていけ。だがてめぇが不幸になった所で一人のヒトもたすかりゃしねぇ。ただてめぇが不幸になるだけだ。それに何の意味があるよ? てめぇはそんなに不幸の仲間入りがしてぇのかよ!」
 拾い上げた服を千宏に投げつけ、視線も合わせず部屋を後にしようとずかずかと歩き去る。
 もぎ取るような勢いでノブに手をかけると、背後で声を殺して泣いていた千宏が待って、とかすれた声で呼び止めた。
「いか、ないで……ねが……そばに……ッ」
 自分が脱ぎ捨てた服をかき抱いて、千宏が肩を揺らして必死に嗚咽を押さえ込む。
 呼び止められるままに足を止めて振り向いたアカブは、その姿に急速に頭が冷えていくのを感じて深く長く溜息を吐いた。
 ふと見れば、力加減も忘れてひっつかんでいた千宏の腕が、痛々しいほど赤くなっている。
 お願い、お願い、と膝を抱いて言い続ける千宏に歩み寄って膝を折ると、千宏は抱いていた服を放り出してアカブの首にしがみ付いた。
 子供のように泣きじゃくる体をしっかりと抱き寄せて、よしよしと背を撫でながらベッドまで運んでやる。
 それでもしがみ付いて離れない体を無理に引き剥がそうとはせず、アカブは千宏を膝に抱いてベッドのふちに腰掛けた。
「いち、ばで……どれい、の、馬車がね……見て、それで……だ、だから」
「落ち着け。話は後でいいから、とりあえず泣き止め」
「ごめ、あたし……アカブ、に、ひどいこと……言って……!」
 ぎゅうぎゅうと、ともすれば首が絞まりそうな勢いでしがみ付いてくる千宏の体を、落ち着くまでただひたすら撫でてやる。
 ほんの五分か、あるいはそれより短い間に千宏は落ち着きを取り戻し、鼻紙に手を伸ばしてはなをかみ、毛布をたぐりよせてぐしぐしと涙を拭うと、しかし再びアカブの首にしっかと腕を回して抱きついた。
「落ち着いたか?」
「ん」
「何か話してぇことは?」
「ない」
「俺にどうして欲しい?」
「……朝まで一緒にいて」
「寝るまでじゃだめか」
「じゃあ寝ないもん」
 絶対に離れないぞ、とでもいうように、千宏が首に絡める腕に力を込める。
 一緒にいてやるよ、と約束すると、絶対だよと念を押し、千宏はようやくアカブの首から腕を解いた。
 噛み切った唇が赤く腫れて痛々しく、そこから垂れた血液が胸の半ばで停滞している。
 特に何かを意識する事も無く拭ってやると、千宏が驚いたように身を竦ませて、鼻にかかったような甘ったるい声を零した。
 そして、ほぼ全裸に近い千宏の格好に思い至る。
「――服を着て来い。襲っちまうぞ」
 苦笑いを隠そうともせず千宏をひょいと膝から降ろすと、しかし千宏は服を取りにいこうとはしなかった。
 思いつめたように沈黙し、そのままベッドに上がってもぞもぞと毛布を手繰り寄せる。
 そして一言、
「ん」
 とだけ言ってアカブを毛布の中に入るように促した。
 ――さすがに、それはまずいのでは無いかと思う。
 ほんの少し前、犯すの犯さないのと言っていた二人である。
 アカブが躊躇して固まると、千宏は責めるような目でアカブを見て、がばっと毛布を広げて背後からアカブに圧し掛かった。
「あったかい」
 もぞもぞと、温もりを求めるように毛布の下で千宏の手が動く。
「おい、おまえ――!」
「これ、あたしのせいだから……」
 先ほど立ち上がったまま収まる様子のないアカブの陰茎を、千宏の指がそっと包む。
「責任、取らないと……ね」
 小指から人差し指にかけて、段階をつけて緩やかに締め上げる。
 どこでそんな事を覚えて来たのかと愕然とするアカブを取り残して、千宏はアカブを背後から抱きしめたまま毛布の下でせっせと指を動かした。
「よせ! チヒロ! いい!」
 両手を使って器用に全体を愛撫してくる千宏を引き剥がそうと身を捩ると、すいとあっけなく千宏が体を離す。
面食らって固まったアカブと毛布に包まったまましばし見つめあい、千宏はまるで、何か意を決したようにきゅっと唇を引き結んだ。
 毛布からぬっと千宏の手が伸び、ベッドに上がれと言うようにぐいぐいと腕を引かれる。
 一緒にいてやると言った手前、まさか同じベッドに入らないわけにはいかず、アカブは大分躊躇した挙句千宏に引っ張られるままベッドに上がり、押し倒されるような形で仰向けに横たわった。
 その上に、千宏が躊躇する事なく圧し掛かる。
 なにか、拒絶してはいけない真剣さがあった。
 千宏はアカブの腰をまたいでベッドに膝をつき、肩に毛布を引っ掛けたままアカブの腹に手をついて体重を支えているようだった。
 まさか、挿れようなんて暴挙には出ないだろう。
 だが次の瞬間アカブの陰茎を包んだ暖かさに、アカブは愕然として半身を起こした。
「う、動かないで!」
 すかさず、千宏の懇願するような制止が入る。
「大丈夫、いれたり、しないから……待ってね……いま、ちゃんと……」
「おまえ……なんでこんな事知ってんだ……!」
 この、吸い付くような、包み込むような湿った暖かさは、決して指による物ではない。
 かといって挿入したような圧迫感は無く、千宏は明らかに素股と呼ばれる行為に及ぼうとしていた。
 アカブの陰茎に手を添えて互いの性器を密着させ、位置を調節するように緩やかに腰を動かす。
 それだけで、はっとするような快感がアカブを捕らえ、アカブは千宏を振り払う事が出来なかった。
 毛布に隠されて触れ合っている部分は見えないが、感触と表情で、しっかりと包み込まれているのが分かる。
「どう? 口よりいい?」
 苦しげに眉を寄せたまま心配そうな顔をして、千宏は確かめるようにゆっくりと、しかし大きく腰を降り始めた。
 ぐちゅり、と粘っこい水音が毛布の中からこぼれてくる。
 ぞくりと這い上がってくる快感に、アカブははっと息を詰めて千宏の腰に手を添えた。
「本で、ね……はじめてのメス、は、これがいい……って。だから……ぁ、んぁ!」
 びくん、と千宏が背を反らせて、その拍子にするりと肩から毛布が落ちる。
 赤く上気した皮膚に、爪でいじめて欲しそうに立ちあがった乳首――。
 たまらず、アカブは千宏の制止を無視してその体にむしゃぶりついた。
「やぁあ! あ、アカブ、だめ! やだ、だめ、だ、だめぇ……!」
 べろりと、舌の表面全体を使って千宏の乳房を舐め上げ、もう片方の胸を尖らせた爪で優しく引っかく。
 それだけで逃げようとする腰をしっかりと密着させて揺すり上げると、千宏はアカブの肩に両手を突っ張って小動物が甘えるような声を出していやいやと首を振った。
「だめ、した、ざらざら……やだぁ! あぁ……ひ、そ、んあ、ゆすらない、で……うごい、ちゃ、だめだよぉ……!」
 どろりと、後から後から溢れてくる愛液が、腰を動かすたびに絡みつき、じゅぶじゅぶと、ぐちゅぐちゅとうるさいほどに音を立てる。
 男を奮い立たせるメスのにおいが、汗ばんだ体から立ちのぼってくるようだった。
 しっとりと吸い付く肌が、どんな女よりも柔らかく、味わうように舐めしゃぶるアカブの舌に蹂躙されて怯えるようにがくがくと震える。
 がっちりと掴んだ腰を思うままに引き寄せ、揺すり上げると開きっぱなしの唇の奥からもっともっととねだるような可愛らしい悲鳴をあげ、二本の足が活魚のようにビクビクと跳ねた。
「だめ、だめ、だめ、だめ……こ、こわれちゃ……も、っと、やさし……あぁああぁ!」
 いつの間にかベッドに沈み、アカブに押し倒される形になっていた千宏が、シーツを掴んでびくりと背をのけぞらせた。
 肩を浮かせて反り返り、それでも構わずに責め上げると、その状態のまま更に大きく体を震わせる。
 突き上げる角度を変え、亀頭部分で真っ赤に充血した肉芽をぐりぐりと押しつぶすと、とうとう千宏は声にならない悲鳴を上げて泣き出した。
「やだ、もうや、やぁ……やめ、やだぁ……! あく、ぁ、ひん……ぅあ!」
 縋るように伸ばされた腕を無視して、ずるり、と竿全体を使って擦りあげる。
 千宏はやだやだと苦しげに身もだえし、それでも押し上げられる絶頂に逆らえずに歯を食いしばり、そして快楽に飲まれる絶望に甘い悲鳴を上げて仰け反った。
 その、仰け反った千宏の腰をぐいと持ち上げ、おおいかぶさるようにして細い体をくの字に丸める。
 そして、アカブは快楽に蕩けきり、涙と唾液で汚れた千宏の顔に向かって思い切り白濁をぶちまけた。
 その、ぞくぞくと這い上がり、突き抜け、腰が抜けるような射精感。
 しばし千宏の暖かさに包まれたままその快感に浸りきり、たっぷり数十秒は余韻を堪能してから、アカブはようやく千宏の腰を解放した。
「ぁう……あ……」
 とろりと、頬を伝ったアカブの精液が、半開きの千宏の口に流れ込む。
 その、大嫌いな精液の味に失いかかっていた気を取り戻したのか、千宏はぼんやりとうるんだ瞳でアカブを見た。
「……食い殺されるかと思った……」
 何を言うかと思えば、相変わらず色気も余韻もない台詞である。
「髪についた……うぇ、不味い……」
 新たに口に入りそうになる精液をぐしぐしと腕で拭い、起き上がろうとしてまた垂れてくるそれに千宏が嫌そうに目を閉じる。
 見かねてアカブが拭ってやると、千宏は完全にふて腐れてアカブから顔を背けた。
「むっつりすけべ」
「な、なんだいきなり……!」
「紳士っぽい事言うくせにさ。お母さんみたいなこと言うくせにさ。なんだよこれ。このケダモノ! ケダモノ!」
 小さな拳を振り上げ、がしがしとアカブを殴る。
「てめえ……この程度で済ませてやったのを感謝もしねぇでケダモノ扱いか」
 あんな風に誘われて、射精一度きりで解放してやるなどトラにして見れば紳士極まりない行動である。
 もし相手の女がトラだったら、一度きりでやめたのでは腑抜け呼ばわりは必至である。
「本当のケダモノってのがどんなのか教えてやろうか。てめぇさっき好きなように犯せとか抜かしたか」
 がしがしとアカブを殴っていた手が止まり、さっと千宏が青ざめる。
 困ったように眉を寄せ、おろおろと視線を彷徨わせ、しゅんと肩を落としてうな垂れる。
 そしてあろうことか、
「どうぞ」
 などと言い出した千宏に、アカブは容赦なく拳骨を落とした。
 ぎゃん、と叫んで、千宏が頭を抑えてうずくまる。
「いだい」
「殴った俺の拳もいてぇ」
「どこのお母さんだよ! あたしの方が痛いよはるかに! はるかに!」
「だったら殴られるようなこと言うんじゃねぇ!」
「むっつりすけべが偉そうに……」
「いいだろう。そっちがその気なら三日三晩でも犯してやる。トラの精力舐めんじゃねぇぞ」
「二度といいません」
 ひたりとベッドに正座をし、額をこすりつけて謝罪する。
 てめぇはイノシシかキツネの剣士か、とアカブが笑うと、千宏はそれバラムと全く同じ台詞だよと唇を尖らせた。
「あそこは落ちモノ文化がつえぇからなぁ」
「和風ってこと?」
「行きてぇか?」
「別に」
「……そうか」
 いつもなら、即断で行きたい、と答えるだろうに、どうやら完全に元通りと言うわけにはいかないようだった。
 沈黙してしまったアカブに対して、慌てたように千宏が笑顔を取り繕う。
「それよりさ、お風呂に入りたい。だってアカブ思いっきりぶっかけるんだもん」
 髪についた精液を何とか手で拭いながら、千宏がぶうぶうと唇を尖らせる。
 腰が抜けて歩けない、とだだをこねる千宏を仕方なく浴室まで運んでやり、背中を流してやりながら、アカブは漠然と、根本的な事は何一つ解決していないのだと気付いていた。
 これは馴れ合いだ。
 ただ一時、千宏が望むように快楽で痛めつけ、千宏の奥深くまで食い込み、根付いてしまった罪悪感のほんの表面の花を摘んだに過ぎない。
 このまま時が過ぎればまた、きっと今よりも深く根付き、激しい激情を持って千宏を揺さぶる罪悪感が芽吹くのは火を見るより明らかだった。
 だがそれでも、わかっていても馴れ合わずにはいられない。
 それ以外に千宏を正気に留めておく方法が、アカブには見つけられなかった。
 あるいはそれも、ただ千宏が狂っていく速度を緩やかにしているに過ぎず、結局千宏を今のまま、幸福に留めておくことなど出来ないのかもしれない。
 千宏は自分の幸福に負い目を感じ、他の多くのヒトと同様に不幸になるべきなのだと思っているのだ。
 そんな馬鹿なことは無いと思う。
 だがもし、そう思わなくなる事が、自分が幸福である事が当然だと思えるようになる事が発狂だと言うのなら――。
 発情期の時にずっとそうしていたように、千宏を腕に抱いてベッドに入る。
 アカブの胸にすがりながら、幸福そうにすうすうと寝息を立てる千宏の髪を優しく撫でてアカブも静かに目を閉じた。
 
 
 

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