虎の威 第11話
三日三晩降り続いた雪がやみ、広々とした草原が一面銀色に染まった朝。青々と晴れ渡った
空にいてもたってもいられなくなり、千宏はもこもこの厚着をして階段を駆け下りて、一階の
窓から勢いよく銀世界へと飛び出した。
ずぼ、と、盛大に膝上あたりまで沈み込み、都会育ちの千宏はかつて経験したことのない積
雪に感動し、おおいにはしゃいで柔らかな雪の中を思う様ずかずかと突き進んだ。
押しても引いても一向に動かなかった玄関の石扉は、外から見ると雪のせいですっかりと雪
に埋もれており、これならば動かないのは納得だと千宏は呆れに近い感動に白い溜息を吐き出した。
「雪かきしないと、玄関使い物にならないなぁ」
ゆうに数センチの厚みで扉にへばりついてる雪をごそっと剥がし、ぎゅうぎゅうと両手で丸く固める。
投げる相手もいないのでえいやとその辺に投げ捨てると、ごす、と重たい音を立てて雪の塊
が雪の中に埋もれていった。
ずぼずぼと雪から足を引っこ抜き、扉から少し離れて上を見上げる。
玄関から僅かにせり出した雨避けにも、これでもかと言うほどこんもりと雪が積もっている
のが見えた。
「チヒロー!」
甲高い、きんきんと響く呼び声が飛んできて、千宏は先ほど自分が飛び出してきた窓に振り
返ってぱたぱたと手を振った。
パルマである。
「そこ! あぶないー!」
早くどけ、と言うようにパルマがばたばたと両手を振り回す。
なにが危ないのか――と再び雪に埋もれた扉に振り向いて、千宏は愕然と固まった。
一ミリたりとも動く気配の無かった石扉が、ごくゆっくりとではあるが確実に、降り積もっ
た雪を押しのけて開いていく。
「チヒロー! あぶないって――きゃぁあぁ!」
雪が降ってきた。無論、塊で。
扉が開く振動で、雨避けに積もっていた雪が落ちたのだ。
おぐ、だとか、あぐ、だとか妙に鈍い悲鳴を上げ、千宏は蟻を押しつぶそうとする子供の足
のごとく振ってきた大量の雪の塊に、あっという間に飲み込まれて雪の中でじたばたともがいた。
雪崩に飲み込まれたスキー客の気分である。
「アカブー! バラムー! チヒロがぁ!」
雪の向こうでパルマが叫ぶ。
窒息しそうな圧力にどうする事も出来ずに早くも死を覚悟すると、雪の山からからはみ出し
ていた足をふかふかとした感触に掴まれた。
まさか――と硬直し、ちょっと待ってと悲鳴を上げようとした千宏の口に、容赦なく雪が入
り込んでくる。
ぐん、と力強く足を引っ張られ、千宏は盛大に悲鳴を上げた。
氷のようになっている雪がざりざりとむき出しの皮膚を引っかく。何より、腿の付け根から
明らかに尋常じゃない音がした。
脱臼しなかったのが奇跡である。
「無事か」
逆さまの世界にうつる見慣れた白黒と、聞きなれた声。
千宏は足を掴まれた逆さ釣り状態のままじたばたと手足を振り回し、なんて乱暴な事をする
んだとぎゃんぎゃんとわめき散らした。
「脚が引っこ抜けるかと思ったじゃんよ! 普通雪をどかそうとするでしょ? ねぇそうだよ
ね? なんで雪に埋まってる人を力任せに引っこ抜くわけ? おかしいよね? ちょっと力自
慢すぎるよね? あ、た、ま、に、血がのぼるぅうぅ!」
「助けてやったっつーのに礼も無しかこのやろう」
埋めるぞ、と脅されて、だらんと両手を垂らして大人しく吊り下げられる。
ぐるりと視界が正常な向きに戻り、千宏は柔らかな雪の上に立たされてばたばたと全身の雪
を払い落とした。
「チヒロー!」
ざかざかと雪をかきわけるようにしてパルマが駆け寄ってきて、ぴょん、と飛び跳ねて千宏
に抱きつく。
ひりひりと痛む、恐らく真っ赤だろう頬をふわりと手の平で包み込まれ、千宏はその暖かさ
にうっとりと目を閉じた。
「ぬくい……」
「うわぁ。こんなに冷えて! だから危ないって言ったのに」
「でも普通、雪に埋もれたこの扉が開くとは思わないよ……アカブが開けたの?」
パルマの手の上から更に自分の手を重ね、ぬくぬくとしながら側に立っているアカブを見る。
この程度はどうってことないとばかりに親指を突き立てる雪原の白虎に、千宏は感心すべき
か呆れるべきか判断が付かなかった。
しかし、それにしてもよく積もった物である。
川までが埋もれてしまっているのだ。とても市場まで馬車を走らせられそうにない。
「よっしゃ。夜に向けて一仕事だ」
「よる? 夜って?」
「召喚儀式。雪が積もるとさ、ここってこんな風に完全に孤立しちゃうでしょ? だから毎年
精霊を召喚して道を作ってもらうの。術者は代々の当主で、つまり今はバラムだね」
「しょ……召喚? 精霊?」
また、なんともファンタスティックな単語が飛び出した物である。
魔法があるという話は知っていたが、さすがにこうも当然のように説明されると少し引く。
「で……なんでアカブが張り切るの?」
「薪を積みあげて火を焚くんだ。炎を象徴する記号ってのがあってな、線で結んだ記号の端点
で薪を燃やして、その中心に術者が立つ。召喚ってのは体力使う仕事だから、薪を積んだりす
る雑務は俺たちがやるんだ」
「は……はぁ。なるほど……」
「ネコなんかはマッチがありゃあそれだけで召喚できるらしいんだが、トラは魔法が苦手でな。
やりゃあできねぇ事もねぇんだろうが、時間に余裕がある時は術者への負担を減らすために正
式な手順を踏むのがどおりってもんだろ。魔力の消費も抑えられるしな」
「そ、そうだね……うん。わかるよ、よくわかる」
実際は全くわかっていない千宏である。
しかしいくら千宏に何もわからなくても召喚儀式とやらの準備は滞りなく進められ、手伝お
うにも何をすればいいのか全くわからない千宏には、ただ二階の窓からぼんやりと、それは忙
しそうに動き回るアカブ達を見下ろしている事しかできなかった。
術者であるバラムは何か準備らしき事はしないのかとパルマに問うと、別に何もしなくてい
いらしい。
難しい魔方陣なんかが必要なのではないかと重ねて問うと、そんな難しい魔方陣使ったら森
を焼き払うようなのが召喚出来ちゃうよと面白そうに笑われた。
「魔方陣っていうのは、ようは精霊の出入り口なんだ。だから、力の弱い精霊を召喚する時は
簡単な魔方陣で、魔力も少なく呪文も簡単。呪文は制御に使うのね。力の強い精霊を召喚する
時は、大概難しい命令をするのがほとんどだから、呪文も長くて複雑になってくる。それに、
力の強い精霊に簡単な命令しか与えないといじけて命令してない事までやりだすから、もし簡
単なことしか命じないならそれを制限する呪文も――」
「せ、精霊がいじけるの?」
「そりゃね。千宏だって、本当はもっと凄い事が出来るのに、すごーく簡単なことだけやれば
いいって言われたら、折角出てきたのに! って思うでしょ?」
人間味溢れる精霊である。
なんだか友達になれそうな気さえしてきた。
ふと、頭にテレビゲームでおなじみの可愛らしくデフォルメされた精霊が浮かび、千宏は慌
てて振り払った。
「えーっと……つまりその、精霊界みたいなところがあって、それの出入り口が魔方陣で……」
「精霊界? なにそれ?」
話を整理しようとした千宏は、逆に聞き返されてしまいきょとんとして固まった。
パルマが怪訝そうに顔を顰める。
「そういうのがあるっていうのは聞かないなぁ……つまり、小さい炎には小さい精霊が宿って、
大きい炎には大きい精霊がやどるでしょ? でも彼らは炎の中に閉じこもってて出てこないか
ら、炎に入り口を作るわけよ」
「ほ、炎に入り口……?」
「そう。大きい炎には力の弱い精霊がたくさんと、それを統率する力の強い精霊が一体くらい
いるのかな? で、大きな炎をガンガン燃やせば、たくさんの精霊の中の一体くらいは、大し
た強制力はなくてもふらふらと出てきてくれる可能性があるわけよ」
「は、はぁ……」
「それが、マッチの炎なんかの小さい炎だと、例えば中にいる精霊が偏屈だと、たくさんの魔
力を使って無理やり引きずりださなきゃいけないでしょ? 絶対数が少ないわけだから」
「う、うん……」
「精霊との相性もあるし、魔力の質とかもあるし、つまり精霊がたくさんいるところで儀式を
したほうが術者への負担が少ないわけ」
「な、なるほど……」
「わかった?」
「……たぶん」
引きつった表情で首をかしげる千宏に対し、けらけらとパルマが笑う。
「まぁ、私もよくわかんないし、わかんなくても大丈夫だよ。魔法使いじゃないんだし」
「バラムはわかってるのかな……」
「そりゃ当主だもん。色んな儀式の手順や概念を覚えてなきゃ。それが大戦から続くシキタリ」
「大戦?」
今日はどうも、知らない言葉がぽんぽんと飛び出してくる。
そういえば、魔法の事なんて今まで話題の端にも上らなかった。
「えーと。ほら、山を越えるとイヌの国があるじゃない? 昔ね、イヌの国と他のたくさんの
国とで大きな戦争があったの。それが大戦」
「イヌの国をたくさんの国で袋叩きにしたの?」
「仕掛けてきたのはイヌの方だよ。でもそれがすごく強くて、とにかく色んな種族が手を組ん
で必死にイヌに抵抗したんだ」
「トラも参加したの?」
「征服されたくはないからね。それで、まあ勝ったんだけど、戦争を仕掛けたイヌを山で囲ま
れた土地に閉じ込めて、イヌがまた戦争を仕掛けてこないように見張るための同盟みたいな物
が出来た。それが絹糸の盟約。そして、代々この土地を治める領主が国境を監視して、イヌが
国境を越えて襲って来たら防衛の最前線になる――っていうオキテ。だからこの領地には領民
がいない」
「最前線になるから――領民がいない?」
「そう。もしここに町や村があったとしても、領主は領民を守るより国を守る事を優先的に考
える。そのためなら、領民は全滅してもかまわない。だから領民を住まわせない。ここは合戦
場なんだ。そんな所に住みたいって人もいないでしょ?」
「でも、じゃあその、イヌが攻めてきたら――」
「領主が一人で防衛する」
事も無げに言ってのけたパルマの言葉に、千宏は愕然と目を見開いた。
「そんな――た、たった一人で、どうやって……!」
「森だよ」
「も、森?」
「そう、森。バラムがほとんど毎日通ってるのは、森のあちこちにある魔法のトラップや、結
界の状態を確認しに行ってるんだ。変化した地形に合わせて新しくトラップを張ったりね。そ
ういうのは、当主から次期当主に受け継がれて、赤ん坊のころからそうあるように教え込まれ
る。トラップの発動権限は当主の血筋にしか与えられてないから、子供はたくさんいた方がい
い。戦力にもなるしね。そのための、ハンショク」
当主の血筋が絶えると、折角のトラップも全部無駄になるからね、とパルマは笑った。
「元を正せば、銀色の毛並みは王家に仕えた、トラの国切っての魔法使いの血筋の証拠らしい
んだ。その中でも魔力が強いと毛並みが白くなるって噂もあるけど、よくわかんない。でも、
この領地を治める当主の妻は銀髪じゃなきゃいけないってシキタリがあるのは確かだから、全
くのデタラメって事はないと思う」
「……シキタリ」
「そう。シキタリ。かっこいいでしょ」
にぱ、と、パルマが破顔した。
「だからバラムは、この森から離れちゃいけないんだ。バラムの世界はこの家と、広い森と、
あの賑やかな市場だけ。子供の頃にはお母さんに連れられていろんな所に行ったらしいけど、
当主になってからはずーっとそう。同じ毎日の繰り返し」
開け放たれた窓に背を預け、窓枠を軸にして落下しそうになる程大胆に背を逸らす。
逆さの世界をぼんやりと眺め、パルマは珍しく、わざとらしさを感じないごく小さな溜息を
吐いた。
白い息が、赤く染まりかけた空にとけていく。
窓の下に広がる銀世界では、すでに六ヶ所に薪が積み上げられ、その中に燃えやすそうな藁
が詰め込まれている。
「ほんとは、全部血族以外には秘密なんだけどね。森にトラップがあるとか、当主しか発動で
きないとか。でもチヒロはモノと同じ扱いだから、何話してもいいんだ」
「……そうなんだ」
「うん」
「下働きのトラ達は?」
「あれは壁係」
「壁?」
「長い詠唱をする時は、術者を守る壁が必要でしょ? あれで一応えり抜きの戦士なんだって
さ。伝令係も兼ねてる。でもアカブより弱いんだよね」
ふふ、とパルマが面白そうに笑う。
「ねぇチヒロ」
「うん?」
「笑ってないと、バラムがだめになる」
「――え?」
ぐん、と、思い切り反らせていた背筋を元に戻し、パルマはくるりと千宏に振り向いた。
「だからさ、バラムの世界は凄く狭いんだ。バラムの世界でたった一人が不幸になっても、そ
れはバラムの世界のほとんどが不幸になったことになる」
「あ――」
「バラムはチヒロが好きだよ。だから、笑ってられる内は側にいてあげて。でももし、もう無
理だって思ったら、私に言って。どこか遠くに逃がしてあげる」
真剣に、寂しそうに、どこか懇願するようにパルマが笑った。
箱庭の外に広がる不幸。
それを眺めて、箱庭の中の幸福に罪悪感を覚えるあまり、千宏は周囲を巻き込んで箱庭の幸
福を荒らそうとしていたのだ。
箱庭を荒らす害悪は出て行かなければならない。
その箱庭の中核をなす存在を――国を守るために箱庭に縛られた存在を犯す者は、箱庭に存
在してはならない。
千宏は半ば愕然として、パルマの笑顔を凝視した。
「パルマ。あたし――」
「ま、ぜぇんぶチヒロしだいなんだけどね」
くるりと踊るように背を向けて、パルマはばたばたと廊下を走って行ってしまった。
全部――全て自分次第。
自己嫌悪を払拭するために自ら不幸に身を投じ、同族意識に浸るのも。
箱庭を自分の世界として外界から目をそらし、ただ近くにいる人の幸福だけを願うのも――。
***
ごうごうと、六つの炎が赤々と燃え上がっていた。
闇に浮かぶ二つの月より尚明るく、銀色のトラをその身と同じ色に染め上げる。
長い、長い銀色の髪が、まるで炎に舞い上げられるように踊っていた。
バラムを中心に円を描くように、バラムが言葉を紡ぐたびに不思議な紋様がつらつらと浮か
び燃え上がっていく。
言葉を紡ぐたびにバラムが空に描いているのは、自らが立つ炎の記号の形だろうか。
「……きれい」
「やつぁマダラだからな。精霊の受けもいい」
思わず零した千宏の声に、隣のアカブがどこか自慢げに同意する。
無連環六節の言霊を持って我は汝らを願う
我が誘いに応えて出でよ
使役されざる炎の子らよ
ごう――と、周囲の雪が蒸発するような熱気を噴き上げて、六ヶ所で燃える炎が空を多い尽
くさんばかりに立ち上った。
炎の渦がヘビのようにくねりながら、生き物のようにバラムの周囲をぐるぐると回る。
「……あれ、精霊?」
「そうだ。あたりを引いたな。具現化するときに手足がない奴ぁ大概気性が穏やかだ」
「色んな形があるんだ……むれんかんなんたらって?」
「現れ、留まり、聞き、叶え、傷つけず、帰れで六節。これを一度唱えただけで繰り返さない
と無連環呪文になる。繰り返すたびに二連三連になって、連環が増えるたびに精霊に対する拘
束力が増す。呪文の中に従えを入れると少なくとも三連環は必要らしい」
「同じ言葉を繰り返すんだ……めんどくさいね」
「無連環強化法ってのもある。同じ言葉を繰り返す代わりに、同一の意味を持つ言葉を続ける
んだ。これだと無連環呪文でも三連環と同等の拘束力を持たせられる」
魔法ってのは言葉だからな、とアカブが締めくくる。
よくはわからないが、そういう事ならばそういう事なのだろう。
「アカブって案外頭いいんだね」
「あのな……これでも百六十年生きてんだぞ。バラムが倒れた時は代理が務まるくらいにゃ
色々と頭に入ってる」
「あ、動く」
すい、とバラムが指差した先を目指して、炎のヘビがくねりくねりと進みだした。
雪の壁がヘビの炎でたちまちとけだし、そして蒸発してもうもうと湯気を上げる。
瞬間――ヘビが一瞬鎌首をもたげ、ぐるぐると回転しながら猛烈な勢いで雪の中に突っ込んだ。
息苦しくなる程の水蒸気が辺りを包み、ヘビが赤々と燃え上がりながら雪を溶かしてはるか
彼方まで道を作って行く。
あれは――あのまま市場の手前まで突き進み、そして消えてしまうのだろうか。
途中で誰かを巻き込んで燃やしたりはしないかと不安になる。
はるか彼方にちらちらと赤い炎が輝き、やがてそれが見えなくなると、わ――と見守ってい
た下働きのトラたちが歓声を上げた。
パルマもバラムに駆け寄って、きゃあきゃあと騒いでいる。
千宏もついついぱちぱちと手を叩き、半ばうっとりとして溜息を吐いた。
「相変わらず見事なもんだな」
パルマを腕に絡ませながら歩み寄ってきたバラムに対し、アカブが拳を掲げて笑う。
その拳に自らの拳を押し付けて、バラムはふと千宏を見下ろした。
「――どうした?」
「なにが?」
「なにがって……見てただろ」
「そりゃかっこいいものは眺めますよ」
うぇ、と目を見開いて、バラムが赤面して顔を反らす。
「やめろよ。なんだいきなり。照れるだろうが」
「言われなれてるくせに」
「パルマ!」
「まぁ実際かっこいいからね」
「お、お、おまえら――!」
「お兄ちゃんかっこいー」
アカブの絶妙な棒読みである。
バラムを囲んでどっと笑い声を上げ、三人は口々にバラムを褒め称えてからかった。
「と、とにかく! これで明日からは馬車が使えるが、明日は俺は休暇だ」
付き合ってられるか、とばかりに背を向けて、バラムが苦々しげに吐き捨てる。
パルマとアカブは了承済みのようだったが、事情がわからない千宏は一人きょとんとしてバ
ラムを見た。
明日は千宏とバラムが市場へ行く日である。
「どうして休みなの? そんなに疲れてるようには見えないけど……」
あぁそうか――と、バラムが歩き去ろうとする足を止め、首だけで千宏に振り向いた。
「でかい魔法を使った日はな、一晩魔素が濃い所に留まって魔力を取り込むんだ」
「また難しい専門用語を……」
「激痩せしたから食料が豊富な所に行って脂肪を蓄えるのと同じだ」
「理解した」
完璧である。
「で、そのマソなる物が一杯ある所に行かなきゃいけないから、明日はお休みなんだ」
「そうだな」
「遠いの?」
「いや、森の中だ」
「寒そうだね」
「いや、あついくらいだな」
予想外の返答に、思わず会話が止まってしまう。
冬の森で――あついだと?
「あついの?」
「火傷するほとじゃねぇがな」
「よく意味がわからないんだけど……」
「温泉があるんだ」
答えたのはアカブである。
え、と思わず見上げると、アカブはヒゲをひくつかせてバラムを見た。
「連れてってやったらどうだ。たまにはいいだろ」
「馬鹿言うな。夜の森だぞ。連れてくなら昼間だろ」
「えー? 私はこのまえ夜に連れてってくれたじゃない」
「おまえはまがりなりにもトラだろうがよ。ヒトと比べるなヒトと」
ああだこうだ喧々囂々と言い合う三人を、完全に輪からはずれて眺めながら、千宏はぼんや
りと、まだもとの世界にいた時に読んだ温泉ガイドブックを思い返した。
温泉――森の中と言う事は、しかも露天である。
雪がある。月も出ている。これで桜があれば雪月花だ。月が二つあるから花はなくても我慢
しよう。とにかく世界の憧れの的である。花鳥風月のきわみである。
「行きたい」
きっぱりと断言した。
ぴたりと三人が言い合いをやめる。
「温泉で熱燗で雪見酒。したい、いきたい、やりたい」
この家の風呂は広い。
パルマと酒を飲みながら入った事ももちろんある。
だが違うのだ。情緒とはそういうものではない。
お願いー、お願いー、と繰り返すと、アカブが呆気に取られてパルマに振り返り、パルマは
にまにまと笑って千宏を見た。
「連れてってあげなよバラム。大丈夫だよ。森の中なら最強でしょ?」
「そりゃあ……まぁ……じゃあ、行くか」
バラムがあっけなく折れる。
やった、と手を叩いてはしゃぎ、千宏はたっと駆け出した。
「お酒とってくる! あんまりきつくないやつね。アカブ選ぶの手伝って!」
「な、なんで俺が……」
「はやく!」
「お、おぅ……」
急かされて慌ててアカブも後を追う。
居間で待ってて、と言い残して走って行く二人の後ろ姿を見送って、バラムは機嫌の良さそ
うなパルマの襟首をがっしと掴んだ。
うぇ、とパルマが妙な声を出す。
「おまえ、チヒロに何か言ったか?」
「なんのことかにゃー」
「パルマ!」
にゃぁ、とパルマがわざとらしく頭を庇う。
そして目だけでちらとバラムを見上げ、にまにまと口元を緩めた。
「悪いほうには誘導してないと思うけどな」
「何言いやがった」
「自分で聞けばいいじゃん。二人っきりの温泉でぇとでさぁー」
「おまえ――!」
「私はアカブに言われて相談に乗っただけだもーん。ちゃんと元気になったでしょ?」
褒めて欲しいくらいだよ、とぱたぱたと尻尾を振り、パルマは軽やかに地面を蹴ってくるり
と空中で回転し、バラムの拘束を振り払って着地した。
「これは儀式なんだ」
「ぎ、儀式だぁ?」
「そう。チヒロって凄く頭がいいんだ。どうすれば自分が気持ちよく生きられるかずっと考え
てるし、凄くいい方法取ってる。まるでネコみたい。でもね、なんかこう、それでもネコじゃ
ないっていうのがヒトなんだよね」
「意味がわからねぇよ」
むう、とパルマが首をかしげる。
「今ね、チヒロは落ちモノなの」
「いや、これからもずっとそうだろ」
「だーかーらぁ。バラムはチヒロをヒトにしないといけないんだ。それが儀式」
ぽんぽん、とパルマがバラムの胸を叩き、ぐっと背伸びして唇に吸い付く。
「頑張ってね。元はといえば全部バラムのせいなんだから」
くるりと踊るようにきびすを返し、逃げるように走り去ってしまう。
湿っぽい温もりの残る唇をひとなでし、バラムは理解できない言葉の意味にがりがりと髪を
掻き乱した。
***
薄暗い地下の貯蔵庫で、千宏が踏み台の上であぶなっかしく背伸びをしながらあれこれと酒
を選んでいた。
甘口でさらっと飲める物がいい、と言われてもトラが飲む酒にそんな穏やかな物があるはず
もなく、その上熱燗がいいんだと言い張る物だから、アカブはとうとう狐の商人から買った秘
蔵の地酒を出してやるはめになった。
正直な話をすれば、あまりアカブの好みではなかったために数十年貯蔵庫に押し込んでいた
だけのことなので、あまり惜しくもないのだが、それでも一口舐めて“まずい”と文句を言わ
れるのは面白いものではない。
一抱えもある重たい酒樽から透明な小瓶にとくとくと中身を移し変え、千宏はきゅっと固く
栓をして満足そうに頷いた。
「ま、様式美ってやつだよね。熱燗はやっぱ日本酒じゃなきゃね。楽しみだなぁ温泉で熱燗」
いひひひ、と不気味な笑い声を上げる。
アカブは溜息を吐いた。
呆れの混じった安堵の溜息である。
パルマがどんな手を使ったのかは知らないが、とにかく千宏は元気を取り戻しつつあるよう
だった。
アカブがしたようなその場限りの馴れ合いとは違う。もっと根深い所で千宏に変化があった
のは明らかだ。
「ねぇアカブ」
「なんだ」
「あたしが死んだら、アカブどうする?」
突然何を言い出すのかと、アカブは愕然と千宏を見下ろした。
千宏は腰に下げた布袋に酒の瓶を押し込むのに苦労していて、アカブを見上げようともしな
い。
「――なに?」
そう、聞き返すことしか出来なかったアカブに、チヒロはようやく顔を上げた。
「あと、長くて八十年。短ければ六十年くらい。病気になればもっと早いかもしれない」
寿命だ。
それは――あるいは、何かの方法でわずかに伸ばす事はできるかもしれない。
だが例え百年寿命を延ばしたとしても、どうしたってアカブたちが生きているうちに千宏は
死ぬ。
そうしたら、どうするか。
それは、今から考えておかなければならないことなのか――。
「あたしね」
「……ああ」
「アカブのこと好きだ」
「……そうか」
ようやく瓶を袋に詰める事に成功し、しっかり袋の口をとじる。
「変な感じ。元の世界にいた時は、好きになるのは一人だけって思ってた。恋愛ってもっとト
ゲトゲしてて、一途で痛いものだって思ってた」
「恋愛ね……慣れねぇ響きだな」
あはは、と声をあげて千宏が笑う。
「なんか、全部すっとばしちゃった。あたしん中今、家族愛でぎっちぎち。アカブも、バラム
も、パルマも、みんな好き。好きでしょうがない。全員の子供が欲しいって思うくらい」
「チヒロ……」
「アカブ。キスして」
艶めいた響きなど何処にもなかった。
決別さえ臭わせるその誘いが、ひどく苦しい。
どこか儀式めいた雰囲気が、薄暗く湿っぽい、消えきった地下貯蔵庫に満ちていた。千宏が
アカブの胸に手を添えて、ごく静かに目を閉じる。
不思議な感じだった。
ただ挿入をしていないと言うだけで、互いに舌を這わせあい、肌を重ねた仲だというのに、
二人は今まで一度もまともに唇を重ねた事がなかったのだ。
あるいは、それをなにか、決定的な一線として無意識に引いていたのかもしれない。
拒絶する事はできなかった。
そっと千宏の腰を抱き寄せて、小さな唇に自らの唇を合わせる。
ぺろりと、その唇をからかうように舐められて、アカブは苦笑いと共に顔を逸らした。
もう一度唇を合わせ、舌を舐めうようにしてたっぷりと唾液を混ぜ合わせる。
ぺちゃぺちゃと音を立てながらお互いの舌を貪りあい、アカブは千宏の口の中に自らの舌を
ねじ込んだ。
千宏が苦しげに眉を寄せ、それでも小さな舌を動かしてアカブに応えようとする。
たまらなかった。
このまま食べてしまいたい。この舌を噛み千切り、唇にくらいつき、頭からばりばりと食い
尽くしてしまいたい。
そんな衝動が恐ろしくて、止まらなくなりそうで、アカブは千宏を引き剥がすようにして唐
突に唇を離した。
千宏が苦しげに息を乱しながら、不思議そうにアカブを見る。
一瞬の沈黙を挟み、千宏は唾液でてらてらと光る唇を手の甲でぐい拭い、にこりと明るく微
笑んだ。
「行ってくるね。温泉」
「チヒ――」
「だぁいじょうぶだよ。心配しないで。お母さん」
からかうように軽く片目をつむってみせ、千宏はアカブに背を向けて走り出した。
たたた、と軽快に階段を駆け上がり、廊下に飛び出してかけていく。
ネズミのようで、ネコのようで、トラのようでもあるが、それら全てと異なる存在。
些細な事で肉体的にも、精神的にも壊れてしまう弱い存在。
守ってやらなければと思った。一人では何も出来ないと思っていた。
それが、あの強さはなんだ。
あの誇りはなんだ。
「一人で走っていきやがる……」
守ってやっている気になって、家族だと呼びながらペット扱いしていたのは自分だ。
何も出来ないと決め付けて、千宏には全てを甘受する以外選択肢など無いと思い込んでいた。
あれは決別の口付けだ。
生ぬるい馴れ合いが、対等と銘打った甘ったるい主従関係が終わりを告げる。
「女なんざまっぴらだ……あぁ、ちくしょう。たくさんだよ」
もう――あいつ一人でいい。
千宏はアカブのものにはならないだろう。
だがきっと、バラムのものにもなったりしない。
それだけでいい。
ただひたすら、千宏が自由でありさえすれば、アカブはそれで満足だった。
***
ごっそりと雪の積もった森の中を、バラムは千宏を背負って飛ぶように駆け抜けた。
雪から突き出した岩を足場にし、あるいは丈夫な木の枝に足をかけ、障害物など目に入らな
いとでも言うように森を疾走する姿を前に、誰もバラムをマダラだとからかったりはできない
だろう。
いくつかの岩場を登り、崖の下に広大な森の木々が望めるような高度まで到達すると、バラ
ムの耳にはごぼごぼと湯の沸きあがる音がはっきりと聞き取れた。
落ちる落ちる怖い怖いと絶え間なく騒ぎ続けた千宏は既に疲労困憊で、バラムの背中にしが
み付いたままぐったりとしていたが、目的地に到着すると途端に元気を取り戻し、高々と拳を
空に突き上げて雄叫びを上げた。
「お、ん、せ、ん、だー!」
もうもうと立ち込める湯煙にげほげほとむせながら、バラムの背から飛び降りて水浸しの岩
場にかけていく。
その側にごろりと転がっている巨大な一枚岩にそそくさとよじ登り、千宏は腰を下ろすなり
靴を脱ぎすてて早速温泉に足をひたしした。
「おー! 足湯! うわー! うわー!」
冷えた体には熱すぎるのか、数秒つけてはあちちと叫んで湯から足を上げている。
「よし! 熱燗の用意じゃ! うふふお代官様ったらぁ」
意味の分からない独り言を並べながら腰の袋から酒瓶を出し、千宏は湯から足を上げてひょ
いと一枚岩から飛び降りた。
「で? どうするんだ?」
バラムも千宏に歩み寄り、しゃがみ込んだ千宏にならって膝を曲げる。
降り積もった雪を邪魔そうに押しのけて、千宏は家から持ってきたらしい乾いた薪を積み上げた。
「熱燗するんだ。お酒を湯煎で人肌まであっためるの」
袋から次々と、小さな片手鍋やら鍋を置く土台やらが取り出される。
バラムがその様子を見守っていると、千宏は互い違いに組み上げた薪の中にちぎった紙を
ぎゅうぎゅうと押し込んで、ひょいと火のついたマッチを投げ入れた。
ちりちりと火がくすぶり始め、やがてごうごうと燃え上がる。
「へぇー……上手いもんだな」
思わず感心してしまった。
ふふん、と千宏が自慢げに鼻を鳴らす。
「キャンプは昔っから好きだったからね。落ちてきた日も友達とキャンプしてて、川で泳いで
た時だったんだ。ごぷん、って急に足場なくなってさ。いやぁびっくりした」
鍋を持って立ち上がり、雪の上を裸足でのしのしと歩く。
温泉の湯を鍋に満たして再び焚き火の側にうずくまり、千宏は栓をぬいた酒瓶を静かに鍋の
中に沈めた。
酒瓶の半分くらいまでが湯につかり、実に暖かそうである。
いまだ極寒の森の中に座っているだけの身からすると、酒瓶が羨ましくさえある。
「バラム先に入ってていいよ。寒いでしょ?」
はぁ、と、千宏が真っ白な息を吐き出してバラムを見た。
バラムはその様子にふむと頷き、しっしと千宏を温泉の方へ追い払う素振りをした。
「俺は慣れてる。おまえが先に入ってろ。凍えて死ぬぞ」
「やだよ。バラムに任せるとお酒沸騰しそう」
「だめなのか」
「人肌なんだってば」
「ヒトの体温ってことか?」
「実際にはもう少し熱いらしいけど……」
「じゃあ温泉にひたしときゃよかったんじゃねぇか? わざわざ火にかけなくても……」
愕然と、千宏が目を見開いてバラムを凝視した。
蒼白な顔色で、ぶるぶると唇を振るわせる。
「い……いや。俺が悪かった……そうだな。熱燗って言うくらいだから、温泉程度じゃ温いよ
な……はは。馬鹿だなぁ俺……」
千宏がじわりと涙を滲ませるに至って、ようやくフォローに入るバラムである。
意固地になったのかなんなのか、頑なにその場を動かずに睨むように酒を見張り続ける千宏
をどう扱っていいかわからず、結局バラムも大人しく酒を見守り続けた。
なんとも珍妙なたたずまいである。
ことことと、鍋に張られた湯が沸騰を始めた。
千宏は首をかしげている。
人肌――というのが正しいならば、恐らく瓶の中身は既に人肌を超えているだろう。
酒瓶の口からゆらゆらと湯気が立ち上る。
「チヒロ……?」
「なに?」
「酒……沸騰するぞ」
「そうだね」
「いいのか……?」
「凄い事に気付いたの」
くり、と首だけをめぐらせて、千宏が引きつった笑顔を見せた。
「どう考えても、熱くて取り出せない」
笑ってはいけない――と、頭ではわかっていた。
しかし頭と体は別のもである。
バラムは思い切り吹き出した。
「わ、笑わないでよ! もう! 切実だよ! なきそうだよ! とんだトラップだよ!」
ひぃひぃと腹を抱えて笑うバラムに、千宏が半べそをかきながらばしばしと拳を振り下ろす。
「もういいよ馬鹿! 馬鹿!」
ふん、とそっぽを向いて立ち上がり、ずんずんと温泉に向かっていく。
「お酒なんていらないもんねー! 温泉があればしあわせだもんねー!」
全力で強がりを言いながら、ばさばさと服を脱いでいく。
その様子にさすがに笑いも引っ込んで、バラムは今にも沸騰を始めそうな酒瓶の口をひょい
とつまみあげて熱湯から取り出した。
千宏が放置していった袋からマグカップを二人分見つけ出し、こぽこぽと中に酒を注ぐ。
さぶん、と盛大に飛び込む音がして、直後に千宏は悲鳴を上げて温泉から転がりだした。
「あっちぃなおい! なんだこりゃ! すっげぇあっちぃ! うわぁあっちぃ!」
さすがにこれには耐え切れず、バラムは再びそっくり返って大笑いした。
火傷する火傷すると騒ぎながら、千宏が無謀にも雪を温泉に投げ入れている。
わざと笑わせようとしているのかと疑いたくなる程である。
「いやいや落ち着け。考えるのよ千宏! 負けちゃダメ! 足はつかれたんだ、足は。体が冷
えてるんだよね。よし、ゆっくりはいろう」
ゆっくりと――それはもうゆっくりと、恐る恐る千宏が湯船に足を沈める。
数秒を堪え、よし、と頷き、じりじりと腰までつかる。
最後にえいや、と肩まで沈み込み、千宏は顔を真っ赤にしながら石のように動かなくなった。
「ん! 慣れた!」
ぐっと拳を握り締める。
アカブとパルマにも見せてやりたかった超一級の喜劇だったが、どうやら終幕したようだ。
「慣れたか。ほらよ」
温泉の中で動き回れるようになり、温泉だ温泉だとはしゃぐ千宏に、バラムはマグカップを差し出した。
え、と千宏が目を瞬く。
「え? 出せたの? 熱燗? まじで!」
「トラの皮膚はヒトほどやわじゃないんでな」
「わー! いただきまーす!」
ほかほかと湯気を立てる透明な酒を、嬉々としてぐいとあおる。しかし一瞬も口に含んでい
られず、千宏は思い切り吹き出した。
「まっず! うっわ! ひっど! うぇおぁ! 何これ! なにもの!? 冷たいときはまだ
飲めたのにこれはひどい!」
「ひどいのはおまえだ、おまえ」
秘蔵の酒まで出させられ、尚且つこうも罵られたのではあまりにアカブが哀れである。
これは冷やすべきだ、冷やして飲むものだと繰り返し、千宏はマグカップを雪で包んで冷や
し始めた。
やれやれと溜息を吐き、バラムもほかほかと湯気を立てる熱燗とやらをあおる。
瞬間――やはり千宏同様に吹き出した。
「ぐっは! なんだこいつぁ! 未知の領域だ! 新手の毒薬か!」
「それが兄の言う台詞か……」
「こいつぁ冷やして飲むもんだ。ありえねぇありえねぇ」
千宏にならってマグカップを雪にうめる。
ふう、と、恐ろしい何かを地底に埋めたような安堵感に包まれた一瞬の後、二人は同時に声
を上げて笑い出した。
「帰ったらアカブにも熱燗作ってあげようね」
「酒瓶一本作ってやろう、この味は広く知らしめる必要がある。当主としての義務だ」
ばしばしと、温泉を囲む岩を叩いて千宏が笑う。
笑い疲れてぶくぶくと湯に沈み込み、千宏はようやく、ぐるりと周囲を見回した。
「はー……雪月花って言っても、木に月が隠れててほとんどなんも見えないねぇ」
すいすいと器用に泳ぎ回る。
その様子をぼんやりと眺めているとさすがに寒さが身に染みて、バラムも乱暴に服を脱ぎ捨
てるとざぶんと温泉に身を沈めた。
千宏はバラムとは反対側のふちに泳ぎ着き、身を乗り出して眼下に広がる黒く広大な森を見
下ろしている。
「ま、雪だけは豊富にあるか」
両手でごっそりと雪を掴み、ぎゅうぎゅうと丸く固める。
そのままくるりとこちらを振り返り、千宏は思い切り振りかぶった。
「おい、ちょっとま――!」
ぼすん、と冷たい衝撃が顔面で弾け、バラムは首を仰け反らせた状態のまま頬を引きつらせ
て固まった。
「あのなチヒロ……がきじゃねぇんだか――」
ぼすん。ぼすん。ばすん。
息つく間もない連続攻撃である。千宏はけらけらと笑いながらも、せっせと次の雪だまをこ
しらえている。敵は手ごわい。――バラムは切れた。
すいと空中に手を突き出し、魔力を込めてぐいと握る。
「散!」
短い宣言と共に、千宏の手の中で雪球が破裂した。無論、作り置きも全てである。
うわ、と叫んで湯の中に尻餅をついた千宏の頭上に、バラムは指先を突きつけた。
「見てみろ」
言われるままに頭上を見上げ、千宏はうげ、と叫んで慌てて逃れようと身を捩った。
バラム達の頭上には木がある。そしてその木にはもちろん、大量に雪が積もっているのだ。
すかさず突きつけた指を振り下ろす。
「散、降、包」
広がり、落下し、むき出しの素肌を容赦なく包み込んだ雪の冷たさに絶叫し、千宏はぎゃあ
ぎゃあと喚きながら頭まで湯船に沈み込んだ。
ざば、と、十分に纏わりつく雪を溶かして湯船から顔を出し、そんなのズルいとバラムに指
を突きつける。
「魔法なんてずるい! ずーるーいー!」
「知るか! やられたら兆倍がトラ流だ!」
「やだやだ。ちょっとしたお遊びにムキになって大人気ない。根暗だよバラム。陰険。陰気。
陰湿」
見事な無連環強化法である。
それからしばらく、意地の張り合いのような沈黙が続いた。
バラムは黙って魔力を蓄える事に専念し、千宏は温泉を泳ぎまわっている。
のぼせそうになると湯船から上がってふちを囲む岩場に腰かけ、足だけつけて体を冷まし、
寒くなるとまた温泉につかるという行動を繰り返していた。
そんな様子を眺めていて、ふと、思う事がある。
ヒトに、果たして一晩中温泉につかれるような体力があるのだろうか――?
記憶が正しければ、千宏は家の風呂でさえ、パルマに付き合って長くつかりすぎるとぐでぐ
でに疲れて死にそうなっている。
そう言えば、先ほどから千宏の動きが妙に鈍いような――。
「――チヒロ!」
とぷん、と千宏が沈み、バラムはぎょっとして立ち上がった。
案の定ぶくぶくと沈んでいる千宏の体を慌てて湯船から引き上げて、ふちに座らせてぱしぱ
しと頬を叩く。
しかし完全にのぼせているらしく、とうとう鼻血まで流し始めた千宏にバラムは思い切りう
ろたえた。
冷やそうにも、温泉から出ればそこは氷点下の夜である。体の芯まで冷える前に凍傷になる
のは明らかだ。
きっちりと服を着せて焚き火の側に転がしておくのもさすがにどうかと思う。
――致し方ない、という状況は、確かにある。
バラムは苦虫を噛み潰したような表情で千宏と共に湯から上がり、使いなれすぎて詠唱不要
になった風呂上りの乾燥魔法で千宏と自分を包む水気を飛ばし、とりあえずズボンだけ身に着
けた。
更に上半身裸体の上から自分が着てきたコートを羽織り、そのコートと自身の体で千宏の体
を包み込む。
火が弱まってきている焚き火に雪でしけった枯れ木を放り込み、バラムはかたわらの木の根
に腰を下ろした。
その上で、時々冷気を送り込んでのぼせた千宏の体を冷やしてやる。
「うぇ……なんぁ、なにがおこってるんぁ……」
ふい、と、息を吹き返すようにぼんやりと目をあけるなり、千宏はバラムの腕の中でもぞも
ぞとうごめいた。
まだ自分で状況を理解できるほどに頭ははっきりしていないらしい。
「のぼせたんだ。大人しく冷まされてろ」
ぱたぱたと冷気を送ってやる。
するとあろうことか寒い寒いと文句を言って、千宏はぎゅうとバラムの体にしがみ付いた。
「なんれー温泉かぁーでてうんらー」
「だからのぼせたんだっつってんだろ」
「ばらむが?」
「おまえがだ!」
「うぬぅ……ばかな。なんたるふかく……」
ぐにゃりと、ふたたびバラムの腕の中で脱力してしまう。
意識せずして、ひどく穏やかな溜息がこぼれた。
パルマが儀式だなんだと言っていたから妙に身構えてしまったが、これではその儀式とやら
も遂行はできないだろう。
「今日の所は帰って休むか」
あれだけ大掛かりな仕掛けを用意すれば、いかに召喚魔法といえどそれほど魔力は消費しない。
なにより、千宏をこのまま一晩中寒空の下に置いておくのはあまりにも不安である。
仮に復活したとして、一晩中温泉にいれておくわけにもいかない。
「やすむ?」
「そうだ。服を着て、帰るぞ」
「あー……ん? いや、それはいかん! あたしにも計画とゆーものがある!」
がばっと勢いよく起き上がり、しかしやはりくらくらと崩れてしまう。
この調子では服を着るのも危うそうだ。
「ぬぁー。あたしのシリアスでおとななけいかくがぁー。かっこつけてきたのにぃー」
「何の話だ、何の」
「温泉でぇ、お酒飲んでぇ、シリアスな話をしてぇ、なんだかそれっぽい雰囲気に任せてえろ
い事をだねぇ」
「え、えろっておまえ……」
「する計画だったのにぃー!」
「勝手に妙な計画を立てるんじゃねぇ! 大体おまえはアカブが――」
好きなんだろうがよ、と言おうとして、バラムは千宏の責めるような視線に気圧されて口ごもった。
ふと、少しずつ思考力が戻ってきたらしい千宏が、バラムの腕の中でぺたぺたと自分自身の体を触る。
「――服、着てない」
「ご、誤解するなよ。これはおまえがのぼせたから――」
ぺたりと、千宏の手がバラムの胸に触れた。ぺたぺたと、これ以上ないほど無遠慮に触れてくる。
「裸コート……?」
「そんな目で俺を見るな! 急いでたんだよ! わかるだろ?」
それに、ちゃんと下ははいている。
いかがわしい事は何もない。
「……えろいね」
「チヒロ!」
「えろいよ」
深々と溜息を吐いて、諦めたようにぐったりと千宏がバラムの胸に体を預ける。
「おいしいシチュエーションなんだけどなぁ。のぼせて倒れた裸の少女を介抱する男の図。う
わぁ絵に描いたよう」
「知るか! ほら、コート貸してやるから服着て来い」
自分の体ごと千宏を包んでいたコートの前をあけると、千宏が寒すぎると悲鳴を上げた。
手早く脱いだコートを千宏の体に巻きつけて、早く自分の服を着ろと追い立てる。
ふらふらと覚束ない足取りで脱ぎ捨てた自分の服の元に向かう千宏の後ろ姿をぼんやり眺め、
バラムもやれやれと立ち上がった。
いくらトラといえども、アカブのような天然の毛皮を持たないバラムである。服を着なけれ
ばさすがに寒い。
「思ったとおりに進まないなぁ。二人っきりで温泉とかなったらさ、普通はほら、なんだ、女
が無防備に全裸になってるんだからさぁ、男として襲ってくるのが礼儀だと思うわけですよ」
脱ぎ捨てた服に袖を通し、バラムが愕然として振りかえった。
千宏はバラムのコートをまきつけたまま、器用に服を着込んでいる。
男が着るようなズボンとシャツの上から厚手のローブをすっぽりかぶり、フードつきの外套
を巻きつけて、千宏は硬直しているバラムを見た。
「あたしね、トラになりたいんだ」
てくてくと歩み寄ってきた千宏に、ありがとう、という礼とともにコートを差し出される。
呆然としたままそのコートを受け取って、バラムは意味を理解できずに首をかしげた。
「もしあたしがトラだったら、バラム、ここであたしのこと抱いたよね」
寂しそうに千宏が笑う。
バラムは瞠目した。
「あたしがヒトで、抵抗する力なんかなくて、その上初めてバラムと会った日にあたしがあん
な風に抵抗したから――だから、何もしなかったんでしょ? バラムは凄く優しいから」
「俺は……!」
優しい――と言うのとは、違うだろうと思う。
千宏をこの森で拾ったその夜、バラムは千宏を抱こうとした。
その時の千宏の悲鳴が、恐怖に引きつった表情が、千宏に対して情欲を覚えると、吐き気に
近い感情と共によみがえるのだ。
あの時は、拒絶された事への驚愕で、思わず引いた。
だが今は――拒絶されることが分かっている今は、例え嫌だと拒絶されたところで、自分を
抑えられる自信がなかった。
きっと、自分は千宏を壊してしまう。
決して優しいわけではない。ただ、恐ろしいだけなのだ。
「大事にされてるって、わかってる。でも、それはあたしが落ちモノだからで、だから、そう
いうのはもういいんだ。今までは、お母さんのおなかの中で、ぬくぬくと育ってた。でも、そ
ろそろ産まれないといけない」
寒さで赤くなった白い頬。
吐き出される白い息。
守ってやらなければと思う。それは、千宏が弱いヒトだから。なにも知らない落ちモノだか
ら。一人にしたら壊れて死んでしまうから。
そう――思い続ける事は、いけないことなのだろうか。
千宏の言葉が、パルマの言葉がわからない。
落ちモノから、ヒトにするということは、つまりどういうことなのか――。
「あたしにナイフをくれた時、強姦されても耐えろって言ったの覚えてる?」
「あぁ……覚えてる」
よかった、と千宏は溜息を吐いた。
「正直、今のままじゃむり。精神的には我慢できても、体のほうがとても耐えられない。だか
らね、バラム。戦える力は無理だけど、あたしに耐えられる強さを頂戴」
「おまえ……自分が何言ってるかわかって――」
「抱いて」
決定的な一言を、まるでどうでもいいことのように千宏は言った。
どうでもいいことだ――確かに、トラからすればどうと言う事は無い。
だが千宏はヒトで――自分で言ったのではないか。肌を重ねるには特別な感情が必要だと。
その感情がなければ強姦なのだと――。
なのにどうして――。
「ッ――おまえは! おまえは……あ、アカブ、が……好きなんだろうが! なんで俺に言う
んだ!」
「バラムのことも好きだよ。パルマもだ。みんな好き」
「だったらなんであいつに言わない! あいつはおまえが――!」
「だから、無理なんだって。入らないんだよ。どう考えても。あたしが痛いって喚いたら、ア
カブだって萎えるでしょ? でも、バラムなら大丈夫だってパルマが――あ、べ、別にバラム
のが小さいって言ってるんじゃないよ!」
慌てて取り繕う千宏の声を、しかしバラムはまともに聞いてはいなかった。
パルマがそう、言ったのか。
ならばこれが、パルマの言う儀式なのか。
千宏を抱く事が儀式なのか。
強姦される事を前提として、自衛手段として体を男に慣らす事が、千宏にとって必要な儀式
だと言うのか。
そしてそれが――全て、元はといえばバラムのせいだと――。
「このままね、何もかもに気付かない振りしてさ、家族なんだって思いこんで生きてたら、あ
たしそのうち壊れちゃう。なんにも変わってないんだ。あたしはただ、あんた達に与えられた
仕事をこなしてるだけで、一人じゃやっぱりなにもできない。そりゃ役には立ってるだろうけ
ど、あたしにはあんた達が必要なのに、あんた達にとってあたしはやっぱりペットなんだ。選
択肢なんかない」
「なにがペットだ! ふざけんな! 俺がおまえを他の奴らと違うように扱ったか? おまえ
は仕事だってしてるじゃねぇか! 俺達はずっと、おまえの事を家族として――」
「ペットにはなにか仕事を与えた方がいいでしょう。何かを成し遂げたという達成感を与えて
やると、ペットのストレス発散に役立ちます」
す、と人差し指を突き立てて、千宏が講義をするような口調で言った。
思わず呆けたバラムを前に、やはり千宏は微笑んだ。
「仕事と、寝る場所と、食べ物と、愛情。ペットと仲良くやっていくのは全部重要なんだ。バ
ラムはそれ、全部あたしに与えてくれた。それでも、家族って呼んだところで所詮はペット。
わからないほどヒトは馬鹿じゃない」
違う。
そんな事、一度だって考えたことはない。
アカブが家族として扱おうと言った時、確かに最初は戸惑った。
だが、それだけだ。千宏を家族と呼んでから今日までずっと、一度だって、千宏を家族と別
の存在として扱った事などない。
それなのに、なぜ――。
「そんな顔しないでよ。違うんだ。別に恨み言とか、自虐とかそういうんじゃない。ただバラ
ムは、ペットには与えちゃいけない物を、あたしにくれちゃったからさ……」
すらりと、千宏が腰から使い込まれたナイフを抜いた。
誇りの問題だ――と、あの時、バラムは確かにそう言った。
だが、それが一体なんだと――。
「自由」
はっと――バラムは呼吸を止めた。
愛おしそうに、千宏がナイフをひらめかせる。
「きっと、あたしを鎖に繋いでも、バラムは今と同じようにあたしを大事にしてくれた。それ
であたしは、鎖に繋がれてるから仕方ないんだって、自分自身を納得させて幸せな日常にべっ
たりと甘えて生きられた」
首輪をするか、しないか――その選択肢を千宏に与えたのはバラムだ。
なにも変わらないと思っていた。
変える力などないと――そう思うことこそが、千宏を対等として見ていない証拠ではないか。
「でも、好きにしていいんだよ、って言われたら、あたしは好きにしたい。好きにできるだけ
の力が欲しい。与えられた力じゃなくて、自分自身の力が欲しいんだ。そのために、最後にも
う一つだけあたしに与えて。あたしのご主人様はバラムだから」
かしん、とすんだ音を立て、千宏が腰にナイフを戻す。
「……俺が、その耐えられる強さとやらを与えたら……おまえ、どうする気だ」
「どうもしないよ」
「うそだ」
「うそじゃない。ずっと一緒にいる」
「だったらずっと守ってやる! 力なんざいらねぇだろうが! 何がしたいんだ。何が欲しい。なんだってくれてやる。だから――!」
「信じて」
――ヒトにしないといけないんだ。
それが、儀式。
千宏を失いたくない。ここでバラムが拒絶すれば、千宏をここに縛り付けておける。
仮に信じて――そして、もし千宏を失ったら――。
「……明日」
だらん、と力なく両手を垂らし、バラムは低く呟いた。
「部屋に来い」
「バラム、じゃぁ――」
千宏をここに縛り付けたところで、きっと結局は千宏を失う事になる。
それならば――側で狂っていくのを眺めているくらいなら、いっそ望むままに手放してしま
った方がいい。
そうすれば、仮に千宏がバラムの手を離れても、千宏が幸福であると夢を見る事は出来るのだ。
「帰るぞ。ほら、おぶされ」
「うん!」
膝を曲げて背を向けると、千宏は勢いよくバラムの背に飛びついた。
ぎゅっと首にしがみ付き、いひひひ、と不気味な笑い声を上げる。
「ありがとうバラム。ご主人様大好き」
ぐっと、背後で千宏が伸び上がるのを意識した。
瞬間、はむ――と、唇で優しく耳を挟まれる。
ぞわりと背筋を這い上がるなんとも言えない感覚に、バラムは力ない悲鳴を上げて千宏と共
に崩れ落ちた。