続・虎の威 01
雨が降る。
人と物の溢れかえった街角に、ほこりっぽい雨が降る。
トラ国港町――カーハ。
この国はいい国だ。豊かな自然と穏やかな気候が人々の暮らしを豊かにし、豊かな暮らしは暖かな心を生む。
トラは歌と踊りを愛し、戦いを好み、誰もが笑いながら殴り合い、喧嘩の相手と酒を飲む。
馬鹿なんだよ、と誰かは言った。あいつらは考える頭を持ってるのに、そいつを使おうとしないんだ。楽しけりゃいい連中なんだよ。向上心て物がない。
ここにいると、まったくその通りだと今更ながら頷きたくなった。だが、それでいいのだとおもう。向上心は争いを生む。変化は淘汰を生む。変わらずにいられるならば、それほど幸福なことはない。
ハンスは雨から逃れるように路地裏に座り込み、深くフードを被ってぼんやりと過ごしていた。
もう少し目立つ所でうずくまり、行き倒れのふりをしていれば、誰かが施しをくれることは分かっていた。
トラは強い種族だ。だから平気で行き倒れた他国の者を家に上げ、食べ物とベッドを与えてくれる。イヌの国から逃げてきたハンスにはそれが信じられなくて、初めてハンスを救ってくれたトラの家族を警戒して怯えきり、夜のうちに金品を奪って逃げ出した。
それから何度も同じような事を繰り返すうちに、自分の心がいかに貧しく歪んでいるかを思い知った。今では、向けられる慈悲や好意がひどく痛い。
豊かな心の人間に触れるのは辛かった。
ハンスはイヌ国の脱走兵だった。
忠誠を重んじるイヌ国では、国を裏切る行為は大罪だ。それでも、国境付近を守る兵卒は、ふらりと姿を消すような事がたまにある。
自分がその立場に置かれるまでは、どうしてそんな馬鹿なことをするのかハンスには理解できなかった。
だが、ハンスは豊かなネコの国を見てしまった。
自由奔放で、なににも縛られず、気ままに暮らすネコたちを知ってしまった。
国境市の活気を知ってしまった。満たされた笑顔を見てしまった。
ハンスには両親がいない。だがそれでも、人並みに幸福だと思っていた。頭は悪くとも体格には恵まれていたから、傭兵の真似事をして小金を稼ぐ事だって出来た。
イヌ国の基準から考えれば、それは十分に幸福だったのだろう。だが、幸福の基準は相対的に変動する。
ハンスは自分が不幸だった事を知った。イヌ国に生まれたこと自体が、他国から見れば不幸なのだと知ってしまった。
だから、囁きかけてきたネコの甘言に、忠誠心はあっけなく崩れた。
夜中に兵舎を抜け出し、ネコの商人に命じられるままに仕事をした。他国から国境市へやってくる商人の馬車を襲ったのだ。
今まで恵まれていなかった分、恵まれた人間から少し幸福をいただくくらい当然の権利だとネコは言った。その通りだとハンスは思った。だから奪った。ひたすらに奪った。
だがある日、ネコの商人が詐欺で捕まり、ハンスは一人になった。一人でも、ハンスは奪うことを続けた。奪うしか生きて行く方法がなかった。やがて追われる身になり、ネコの国からトラの国へ逃げ延びた。
そして、今に至る。変化を望んだ結果が、これなのだ。
幸福の基準は相対的に変化する。
今に比べれば、イヌ国での日々は幸福そのものだった。友人がいた。家があった。忠誠を誓う国があった。
だが、今は何も無い。
早いところどこぞかで野垂れ死にしてしまえば楽なのにと思いはしても、生憎とハンスはネズミではない。豊かな国では残飯も豊富にあり、種族柄旺盛な生命力がハンスに死を許さなかった。
生きている。ただ生きている。この国の雨は暖かい。ひどく眠かった。
「ねー。あれって一種の行き倒れ?」
妙にあっけらかんとした、若い女の声がした。
自分のことだと瞬時に察して、思わずそちらに視線を投げる。
「一種のどころか普通に行き倒れじゃねぇか! おおい、ブルック!」
屈強なトラの男が、路地を抜けた先で大声を張り上げた。
その側に立つフードの女が、ひょこひょこと軽い足取りで歩み寄ってくる。
「あ」
つい、とフードの前をあげ、女が驚いたように声を上げた。
黒い瞳。黒い髪。――雨のせいで鼻が利かない。妙に臭いの薄い女だ。
「カブラー! イヌだよ! イヌ! 雨に濡れた捨てイヌ!」
なぜか妙にはしゃいだ声で女が叫んだ。
だが、そういう女だってずぶ濡れだ。突然ふり出したのだから無理もない。
「大丈夫? 立てる? 待ってね、今デカいのが二人来るから――」
「ほっといてくれ」
気遣う言葉を遮って、ハンスは眠気を振り払ってのっそりと立ち上がった。
「俺はただの浮浪者だ……助けても得にはならんぞ」
水溜りに足を突っ込み、だらだらと歩き出す。靴は随分前にダメになっていて、ただぼろぼろの布を巻いてあるような状態だった。古い布地はよく水を吸い、その下の毛皮にまでたっぷりと水を含ませてくれる。
「ははぁ……なるほどね」
女としては、恐らく独り言だったのだろう。
だが、喧しい雨音の中、ハンスは女の低く押し殺した声をはっきりと聞き取れた。
「ねぇ、ワンちゃん」
パサリと、おもむろに女がフードを脱いだ。
振り返るつもりなど無かったのに、なぜか妙に気になって振り向いてしまう。
そして、ハンスは言葉を失った。
耳が――本来あるべき場所に、ない。
「ヒト――抱いてみたくない?」
見計らったように、雨が激しさを増した。
大通りから、二人の大柄なトラがかけてくる。
女は再びフードを被り、トラの男たちに振り向いた。
「行こう。カアシュが待ちくたびれてるよ」
***
「そいつを護衛に雇うだぁ?」
ほこりっぽく薄汚い宿屋の一室で、三人のトラと一人のヒトがベッドの辺りに集い、一人のイヌが輪をはずれてぼんやりと窓辺に立っていた。
ずぶ濡れで冷えた体を風呂で温め、汚れたぼろきれを全て脱ぎ去り、酒と食事をたらふく与えてもらったほんの十分後のことである。
素っ頓狂な声を上げたトラの男に振り返り、ハンスはあからさまに快く思っていない様子の男と数秒間視線を交差させた。
恐ろしい悪人面だが、瞳だけは美しく透明で、吸い込まれるように青い。
「だめだ! 賛成できねぇな。いくらなんでもそりゃだめだ!」
鼻の頭に盛大に皺を寄せ、唸るように断言する。
ベッドに深く腰を下ろし、だらしなく足をぶらぶらさせていたヒトの少女は、そうくると思った、とでもいうように眠たげに天井を仰いだ。
その頭には、路地裏では確かに無かったトラの耳が付いている。
「だって、カブラ達は狩をするために街を出てきたわけでしょ? って事は、三人そろって仕事に出かけるわけだ。その危険な狩にさ、あたしみたいなか弱い女の子を連れて行くつもり? 無理でしょ? だったら、あたしは留守番になるわけだ。その間あたし一人にしとくの? 危険じゃない? 危険でしょ? 危険だよね? 絶対護衛は必要だと思わない?」
「そりゃ、その時んなったら、誰か信頼できる奴を護衛として雇う。少なくとも、港町で行き倒れてた素性不明のイヌよりゃましだ」
「あのねぇカブラ! あたしお金を稼ぎにきてるんだよ? 独自に勝手に一人で動き回りたい時だってそりゃあるわけよ。それなのに、目玉が飛び出るような護衛料を請求する正規の護衛なんて雇えると思う? だったら、素性不明で職もなくて浮浪者するしか道が無かったイヌを拾って、格安でこき使った方が経済的じゃない!」
「おまえの安全を守る護衛が一番危険な存在じゃ何の意味もねぇだろうが!」
「わあすごい。あたしを強姦しようとした男が言うと凄く説得力がある」
うぐ、とカブラと呼ばれた男が言葉につまり、他の二人も苦い表情で呻き声を上げた。カブラがぎりぎりと歯を食いしばり、平然としている少女へと身を乗り出す。
「今はそれは関係ねぇだろう」
「関係大有りだよ。あたしは、あたしを強姦しようとしたあんたたちを信頼してる。で、あたしを強姦しようとしたことがないイヌの人も信頼する」
「そんな馬鹿な話が――!」
「お願いカブラ。あんたたちは強いんでしょ? だったらチャンスをちょうだい。アカブがあんたたちにそうしたみたいに」
カブラが青い目を一杯に見開き、苦しげに唸り声を上げながらばりばりと耳の後ろをかいた。それから、じろりとハンスを睨み据える。
ハンスは無言で視線をそらした。
「……少しでも変なまねしたら。いいかイヌの兄さんよ。全力で殺すぞ」
無意識に嘲弄するような笑いがこぼれた。自嘲のつもりだったのだが、当然カブラはそうは受け取らなかったらしく、いきり立って立ち上がった。
「できてねぇと思ってんのか? すかしやがって! 試すか駄犬が!」
「いや……ぜひそうしてくれ。俺は喜んで死ぬ」
本心からの言葉だったが、やはりカブラはそれを挑発と受け取って激昂した。飛びかかろうとするカブラの足に千宏がしがみ付き、その号令で他の二人のトラがカブラの巨体を押さえつける。
すかさず、千宏がドアに向かって駆け出し、ハンスを呼んだ。声の限りにカブラが憎悪の叫びを上げている。
大人しく千宏に従い、ハンスはそそさくと部屋を出た。
「あんまりからかわないでよね。傷つきやすいんだから」
気難しげに顔を顰め、千宏が咎めるように言った。
「からかったつもりはない」
「あっそう。まあ、仲良くしろとは言わないけどさ。いいやつなんだよ。馬鹿だけど。あんた名前は?」
「ハンス」
へぇ、と千宏が面白そうに眉を上げた。
「アメリカ人みたい。そういう名前もあるんだね。あたしは千宏」
「――あのトラの言うとおりだ」
低く言うと、千宏は不思議そうに首をかしげた。
「道で拾った浮浪者のイヌを護衛にやとうなんて、どうかしてる。俺があいつでも、全力であんたを止めるだろうな」
「で、同じように押し切られると」
からかうような笑顔を見せて、千宏は今しがた出てきた部屋の正面から三つ隣の部屋のドアを開けて、ハンスを中へと促した。
中に入り、ドアを閉める。全てのカーテンを閉めて念入りに鍵を確認し、千宏はローブとフードを脱ぎ捨てた。
「適当に座って。何か飲む?」
「いや、いい」
「そう? じゃ、契約の話に移ろうか」
乱暴にベッドに腰を下ろして、千宏は出来のいい付け耳を外しながら切り出した。
極度の眠気から夢でも見たのかと思っていたが――どうやら違った。間違いなく、千宏はヒトだ。
ハンスはヒト奴隷を見た事があった。だが、檻に入れられ、売られていたヒト達は、誰一人としてこんなふうに堂々とはしていなかった。
それに先ほどのトラたちとのやり取りは、まるで千宏の方が主人のようだった。ペットを甘やかしすぎて主従が逆転するのはよくある話だが、どうもそれとも違いそうだ。
「まず一つ。あんたがあたしをヒトだって知ってる事は、カブラたちには絶対に内緒。少なくとも、カブラ達があんたを信頼するまでは絶対に言わないで」
「……理解できないな。あんたはヒトで、俺は金に困ってる浮浪者だ。そういう状況にいる奴は、普通はあんたを奴隷商に売り飛ばしてとんずらしようと考えるだろう。それなのに、俺があんたをヒトだと知ってる事を隠すなんて、どうかしてる」
「ほんとに? そんなこと全然考えなかった。教えてくれてありがとう。じゃあ二つ目ね。給料は食事代と宿代。現金支給は歩合制ね」
「歩合?」
「そう。あたしとあんたで、週にいくら稼げたかで決まる」
ハンスは顔を顰めた。
護衛に歩合など存在しない。理解できずに混乱していると、千宏が唇だけで微笑んだ。
「仕事の内容は二つ。護衛と、客引き」
「――客引き?」
「そう。夜の街でね、お金持ってそうな人に声をかけるの。お客さん、遊んでかない? 若くて可愛いヒトのメスがいるんだけど――ってね」
言って、千宏はふらりとベッドに仰向けに倒れこんだ。
「体を売るんだ――あたしにはその価値がある。値段はスマタで三十セパタ。口だけだったら十五セパタ。つっこむんだったら五十セパタ。アナルは無しで延長も無し」
「馬鹿な……どうして、飼い主に隠れてそんな――」
「飼い主?」
咎めるように顔を顰め、千宏がむくりと起き上がった。
ふと、ハンスはありえない事実に気が付いた。千宏は――首輪をしていない。
「カブラ達は友達だよ。飼い主じゃない。あいつらは狩をしにいくんだ。あたしは、無理を言ってそれに引っ付いてきた。やりたい事があるんだ。そのためにお金がいる。だから自分の意思で体を売るの。他のどんな方法よりも、これが一番稼げるから」
愕然として、ハンスは千宏を凝視した。
まだ、少女だ。細く折れそうな体は、トラや、イヌや、そういった屈強な男を相手にしたら、あっけなく壊れてしまう。
どうして、そこまでして――。
「カブラ達には、とてもじゃないけど頼めない。それに、カブラ達が用意してくれた護衛にも頼めない。だから、あんたを雇ったんだ。何かわけありなんでしょ? 犯罪者? 最初からね、そういうのが適任だって思ってたんだ。だから丁度良かった」
「どうしてそんなに金が要る。あのトラ達は、奴隷のあんたをまるで対等に扱ってた。あいつらといればすむだろう。危険をおかしてまで自力で金を稼ぐ必要が何処にある」
変化は淘汰と破滅を生む。
このヒトは、明らかに変化を望んでいた。今ある幸福を捨て去ってでも、何かを手に入れようとしている。
「生きた証が欲し」
呟き、千宏は眠たげな眼差しで再びベッドに倒れこんだ。
「ただ、それだけ」
生きている。
ただ、生きている。
このヒトは。この少女は――。
「どうする? ハンス」
初めて、千宏がハンスの意思を確認した。
引き受けるか? という意味だろうか。選択肢が与えられると思っていなかったので、ハンスは内心驚いた。
窓の外では、激しく雨が降っていた。明日、海は荒れるだろうか。出港できなかった水夫たちが、港でヒマを持て余しているはずだ。
長い航海中金を使えない彼らは、いつも港で一気に散財する。
「……どうして、俺があんたを金持ちに売り飛ばすと思わないんだ」
千宏は首輪をつけていないし、ハンスは元々軍人で、その後は盗賊として生きてきた。
カブラ達に隠れてうまく千宏を売り払い、そのまま雲隠れできる自信はある。
「捨てイヌだったから」
ぼんやりと天井を眺めたまま、千宏が眠そうに断言した。
「路地裏で、人目に付かないように丸くなって、手を伸ばすと逃げてくの。あんたは野良イヌじゃなくて捨てイヌだった。だから拾ったんだ」
全く意味が分からなかった。ヒトの世界の概念だろうか。
「信頼と愛情さえなくさなければ、イヌは絶対に裏切らない。――そういう生き物なんでしょ? あんたはさ」
一度裏切った者は、何度でも裏切る。
ハンスは国を裏切った。だからもう、誰からも信頼など得られないと思っていた。利用されるのが関の山だと思っていた。
「それにさ」
ふと、声の調子が変わった。
ベッドに肘を付いて半身を起こし、千宏が悪戯っぽく笑ってみせる。
「うっぱらっちゃったら、もうヒトのメスなんて永遠に抱けないかもしれないんだよ?」
ヒト――抱いてみたくない?
その言葉を思い出し、ハンスは呆けた。その時は、何を言われているのかよくわからなかった。むしろ、何を馬鹿なことを言っているんだと、そう思った。
だが今は――今は、どうなのだろう。
ヒトを抱いてみたい気持ちは、たぶんある。だが、こんなにも小さくて、こんなにも細い生き物を、いったいどう扱えばいい。
ハンスは沈黙し、立ち尽くした。
「月に二回だけ、好きな時に抱かせてあげる。これって凄い贅沢だと思わない?」
「怖くないのか……?」
「なにが?」
「ヒトは、だって……弱いだろう」
あはは、と、千宏が声を上げて笑った。
「怖くないよ」
どこか噛み締めるように、千宏はきっぱりと言い放った。
「大丈夫。怖くない」
この少女は――千宏はもう、この世界の男を知っているのか。でなければ、こんなふうには振舞えまい。あのトラの男たちだろうか。トラは性的に奔放だ。あるいは全員と関係があるのかもしれない。
「……まず」
呟き、ハンスはいったん言葉を切った。
魅力的な話だ。
まとも――とはいえないかもしれないが、とにかく犯罪ではない仕事がもらえ、宿と食事は心配せずに済む。うまくすれば給料ももらえ、女だって手に入る。
「なにをすればいい?」
嬉しそうに、千宏が表情を輝かせた。
「引き受けてくれるんだね? よかった、助かる! 全部カブラ達には内緒ね。絶対に! ばれたらぐるぐるに縛られて即刻送り返されちゃう」
「ああ。約束する」
「それじゃあ、今夜は疲れたからもう寝よう。鋼の理性に自信があるなら、同じベッドで寝てくれても構わないけど……」
「護衛が主人と同じベッドに入るわけにはいかない」
きょとんとして、千宏はハンスを見つめ返して困ったように吹き出した。
「尻尾」
「うん?」
「すっごい勢いで振ってるよ」
はっとしてハンスは慌ててフサフサの尻尾を掴んで太腿に押し付けた。こんなこと、もう何年も無かった気がする。尻尾が感情に反応する事も忘れていた。
「おいで。構わないから」
ぽんぽんと、千宏がベッドを叩いてハンスを呼んだ。
ごくりと息を呑み、じりじりとベッドに歩み寄る。恐る恐る千宏と並んでベッドに腰掛けると、千宏が手を伸ばしてハンスの耳の後ろをかいた。
「うわ、ごわっごわ……まずはブラッシングだな。あとリンス」
嫌そうに顔を顰めて、千宏はそそくさと毛布に包まって横たわってしまった。どうやらハンスに毛布をわけてくれる気は無いらしい。
仕方なく、そのまま千宏の隣に横たわり、ハンスは久々に感じにベッドの柔らかさをしばし堪能し――しかしどうにも眠れず、結局硬い床の上に丸くなって眠りについた。