続・虎の威 06
シベリアンハスキーは馬鹿である、とよく耳にする事がある。
確かに、少々物覚えは悪い。そして融通が利かない。さらに帰巣本能が薄く迷子になる。なぜかドブに落ちる。なぜか転ぶ。なぜか見知らぬ人の家で飼われている。
何度も同じ過ちを繰り返す事を馬鹿だというのなら、きっとそれは馬鹿なのだろう。
少なくとも、千宏はそう判断を下した。
ハンスはメガトン級の馬鹿である。
「こんどこそはと思ったんだが……」
遺跡の街に到着して三日が過ぎた。
その間、ハンスは四人の客を連れてきた。初日は休んで、一日に二人のペースである。
一人目・ヤスデ。二人目・蜘蛛。脚の多い生物はやめろと声高に主張した結果、三人目・なめくじ。ちなみになめくじは両性具有であった。見た目はマダラだったのでなんとか受け入れは可能だったが、二度とナメクジはつれてくるなと小一時間ほどハンスに説教をくれた千宏である。
そして四人目。現在部屋の向こうで入室許可を待っている客である。
窓の外から様子を伺った結果、千宏は頭を掻き毟らんばかりの勢いで地団駄を踏み、地の底から蘇る魔王のごとき声色でハンスを呼んだ。
ひょこりと頭から突き出した二つの目玉。茶色くイボイボとした皮膚は、しっとりと水気を帯びてぺたぺたとあちこちにへばりつく。
「なんでカエルなんだよ……! なんで……! なんであんたは哺乳類を連れてこないのよ! わざとなの? ねえわざとやってるの? カエルの次は何なの? 毛虫なの?」
「毛虫ならいいのか」
「黙れ駄犬!」
ぱっと表情を輝かせるなり鼻面をひっぱたかれ、ハンスは落ち込んだ様子でしょんぼりと耳と尻尾をへたらせた。
「トラやネコしか見当たらなかったんだ……」
「いいよもうトラやネコで! むしろ全然ウェルカムだよ! 不気味生物より兆倍いいよ! このままじゃ肉体的以前に精神的に終っちゃうよ! ヒトとして終っちゃいけない最後の一線が早くも崩壊しそうだよ!」
声を大にして叫ぶ。
大体、カエルは体外受精ではないか。だというのに、どうして客として現われる。それともこの世界では、あらゆる生物が哺乳類同様の生殖器官を持つとでも言うのだろうか。
ヤスデにトゲらしきもので刺され、蜘蛛男にきゅうきゅうと縛り上げられた千宏である。これ以上キワモノはごめんであった。
「楽だと思ったんだがな……」
それじゃあ、断ってくると呟いて、ハンスはとぼとぼと千宏に背を向けた。
「まあ待ちたまえハンス君。まず詳細を聞こうじゃないか」
楽。金。食。千宏はこの三つの単語に清々しいほど素直に反応する。今まさにドアノブに手を触れかけたハンスの正面に回りこみ、千宏はデキる上司の表情でハンスに説明を促した。
「で、どこがどう楽なんだって?」
「……早いんだ」
「それって出すのが?」
「異常に早いらしい」
三擦り半。
そんな言葉が千宏の頭にぽん、と浮かぶ。
「……カエルってさ。あれだ。女の人が卵を産んで、そこに男が精子をぶっかけるとか、そういう子作りシステムじゃないの?」
「さあ……詳しくは知らんが……」
「とにかくナニは存在するわけだ」
「ナニというと、ナニか?」
「そうナニ」
「見た事は無いが、あるんじゃないか。客としてきたってことは、あるんだろう」
「……よし。ヤろう」
ヤスデから蜘蛛からなめくじから、全てこの言葉一つで決行を決意した千宏である。今更カエルの一匹や二匹、ナニがあろうとなかろうとどうということはない。
とうにヒトとして大切な一線は崩壊を果たしている事を、千宏はまだ気付いていなかった。
ぺたぺた。
いぼいぼ。
ぬるぬる。
「あ……ん……あっ」
カエルを客として向かえる決断を下した三十分後。千宏は激しい後悔にさいなまれていた。
長い。異様に。前戯が。
ずんぐりとしていた千宏よりいくらか背の低いカエル男は、とにかくこれが楽しいのだと言わんばかりの嬉々とした様子で、千宏の体を隅々に至るまで弄り倒した。
長く、恐ろしく自由に動く舌は触手のごとく絡みつき、それ自体が生き物のように体のなかでうねうねと暴れまわる。
とろとろと溢れる愛液を喜んですすりあげ、カエルは歯の存在しない口で千宏の乳房にしゃぶりついてちゅうちゅうと吸い上げた。
そして腹の立つことにこのカエル、千宏がイクたびにケロケロと笑うのだ。大口を開けて笑う口の中に腕を突っ込み、胃袋を引きずり出してきれいに水洗いしてやりたい衝動に駆られたが、しかし千宏は鋼の商人根性でぐっと堪えた。
「あ、っは……あぅ! ちょっ……だめ、そっち……んく……!」
もう一つ。この客は喋らない。
愛撫に徹底的に舌を使っているのが原因だろうが、喋らないカエルを相手に延々喘がされると言うのも中々の屈辱だ。憎しみを込めてハンスを睨むも、千宏の怒りを察してか、ハンスは遠い目をしてこちらを見ないように努めている。
ねちゃりと、唾液と愛液の交じり合った粘液が音を立て、千宏の胎内で思う様暴れていた舌がようやくカエル男の口の中に引き戻された。
うつ伏せになり、腰を高く突き出していた千宏はぞくぞくと背を反らせ、熱く湿った息を零して肩越しにカエルを見やる。
茶色い、いぼいぼとしたカエルである。ぺたぺたとした指で千宏の尻をもみしだき、ケロケロと笑っている。
そして、まるで千宏の体にのそのそと這い登るような動作で、カエルはいよいよ千宏に圧し掛かってきた。
後ろから抱き込むように、柔らかな指先がぺたぺたと乳首をつつく。舐められているような感覚だった。慣れるとそれなりに気持ちがいい。
そして――やはりひんやりとしたカエルの陰茎が、そっと千宏の秘部に押し当てられた。ゆるゆると押し入ってくるそれの質量はそれなりであり、しかしこれも皮膚同様にいぼいぼとした突起がある。
それがどこかくすぐったく、千宏はわずかに腰を揺らして身を捩った。
「あ……ッは……あ……」
グワッ。と、妙にカエルらしい声が背中で上がる。瞬間、ひんやりとした液体が吐き出されるのを感じ、千宏は一瞬状況が理解できなかった。
「――え?」
思わず眉根を寄せて振り向いてしまう。
すると、一仕事終えた後のように爽やかな表情で満足げに息を吐くカエルの姿に行き当たり、千宏は呆然となった。
三擦り半どころか、まだ一擦りもしてないのではなかろうか。
「ちょ――っと待てい!」
堪能した様子で離れていこうとするカエルの頭を、千宏はむんずと掴んで再びベッドに引きずり倒した。
「ち、チヒロ!」
「ご主人様。紐」
驚愕して立ち上がったハンスに片手を差し出し、千宏はカエル男に馬乗りになりながらくいくいと指を曲げて紐を要求した。
カエル男は驚いた様子で、ゲロゲロと騒いでいる。
「お客様。たっぷり可愛がっていただいたお礼に、私からもサービスさせていただきますね? もちろん、料金は頂きません。いいですよね、ご主人様」
ニタリと、残酷に唇を持ち上げて、千宏はカエル男の萎えたものを扱き上げると、あっという間に元気を取り戻した竿の付け根を紐でキツく縛り上げた。
最初からして瞼のない目を限界まで見開いて、カエルが抵抗しようと舌を伸ばす。その舌をがっしと掴み、千宏は生ける玩具と化したカエルの、形だけは抜群に千宏好みのそれにゆっくりと腰を下ろした。
いぼいぼごつごつとしたそれが、びくびくと震えながら千宏の奥を刺激する。
「ぁ……すご……これ、きもちぃ……」
ヒトとしての大切な一線が崩壊している事を、千宏が自覚した瞬間である。
恐るべき早漏のカエルとしては、これはかなりの拷問になるらしく、びくびくと舌を痙攣させて苦しげに腰を暴れさせた。不規則な動きで下から激しく突き上げられ、千宏が歓喜の嬌声を上げる。
「あ、あ……いい、これ、いい……ふぁ、あ……いく、あ、いく……いっちゃ……!」
「ゲ、ゲロォオぉお!」
断末魔の悲鳴をあげ、カエルは泡を吹いて失神した。
長い間ねちねちともてあそばれ、中途半端にいかされ続けた千宏のもどかしい情欲が、ようやくすっきりと発散される。
だらりと舌を垂らして気を失っているカエルの陰茎から紐を取り払ってやると、解放された歓喜に震えるように精液が迸り、そして持ち主同様にそのままぐったりと沈黙した。
シャワーを浴び、千宏がローブを着込んで部屋に戻ると、ハンスはすでにふらふらのカエル男を送り出した後だった。
足腰が立たず、がくがくと震えながら歩くカエル男の後ろ姿は少々哀れを誘ったが、ハンスが言うにはまた是非利用したいと言っていたらしい。どうやらなにかよからぬ趣味に目覚めさせてしまったようだ。
しかし千宏としては、カエルという種族は大歓迎という結論に達し、ばふばふと尻尾を振るハンスを思う様褒めてやった。長すぎる前戯をなんとかして省略できれば、あれほど夏場にありがたい生物もそうそういない。
「ひんやりぺったり。いぼいぼごつごつ。いいねカエル。カエルいいね」
叱られた序盤から一転し、褒められて機嫌のいいハンスを伴い、ほくほくとして帰路に付く千宏である。
明日の早朝から森へと入り、一週間こもりきりになるというカブラ達のために、千宏は少々奮発して三人分の土産まで購入した。
靴がかなり傷んでおり、そろそろ限界を感じているとぼやいていたカアシュのために買ったハンター用の軽量防護靴が、一番高くついたのはカブラには秘密である。
「でも、いいのか? だってチヒロ、金を稼ぎに来てるのに……」
そう言って表情を曇らせたカアシュに、千宏はどんと胸を叩いて見せた。
「いいのいいの。そんなに高いもんじゃなかったし。三人には感謝してるんだもん。たっぷり珍しいもの獲ってきて、そんで商談にはあたしにも一枚噛ませてよね」
いひひ、とネコのように笑う千宏に、呆れたような感心したような表情を浮かべて見せ、日が昇りきらないうちに三人は森へと入っていった。
***
一日に客を二人。週に一度は休日をもうけて体を休め、順調に貯金は増えつつあった。
精神的なものを除けば負担もそれほど多くなく、これならば、日に三人くらい客を取っても問題は無さそうだ考え始めた千宏である。
ぱちぱちとソロバンをはじき、目標金額までどの程度の日程で達するかを計算し、千宏はふむ、と頷いた。
「よし……一年かからないな」
「一年?」
ふと、背後で意外そうな声が上がり、千宏は椅子の背に肘を置いてくるりと後ろを振り向いた。
ベッドの上に寝転がり、ぱらぱらと雑誌を捲っていたハンスである。
毎日毎日、仕事が終るとやることもなく、ぼうっと外を見ていたり、天井の染みを数えていたり、壁のヒビを眺めていたりするハンスを流石に哀れに思い、給料とは別計算でハンスに暇つぶしの品々を与える事にしたのだ。
結果ハンスが選んだのはハンター向けの雑誌であり、武器や防具を眺めてとりあえずは楽しんでいるようだった。
ハンスは自分からは何一つ要求しない。おそらく千宏が気付かなければ、果ては床の木目の数まで完全に暗記していただろう。
「うん。目標金額までね。余裕を持って六千セパタくらい」
唖然として、ハンスがじっと千宏を凝視する。そういえばまだ、ハンスには何も話していないことに、千宏はようやく気がついた。
「あたしね、ヒトを買いたいんだ」
「なんだって?」
「中古のね、年取ったおじいちゃんでも構わないんだけどさ。女の人は四十くらいで子供産めなくなっちゃうけど、男はいくつになっても子作りできるでしょ?」
「子作り……」
「そう。子供が欲しいんだ。どうしても」
言って、千宏は改めてハンスに向き直った。
「あたしの体は、一日で百セパタも稼ぐ。たった五十日で五千セパタになるんだ。旅費とか、食費とか、いろんな経費はかかるけど、それでも一年あれば余裕で稼げる。この世界にもローンはあるらしいけど、さすがにね。誰かの名義を借りるわけにも行かないし、あたし個人じゃ契約できない。だからどうしても一括で、現金が必要なんだ」
簡単は話だった。
至極単純で、商人的な話だった。
恐ろしく即物的で、機械的な話だった。
そこには、一片の感情も存在しない。
こうすれば、そうなる。だからそうする。
“そうする”ことで、“そうする者”が“どうなってしまうか”など、一切考慮していない。
当然だ。だって千宏は、考える事をやめたのだ。
壊されるかもしれない。殺されるかもしれない。子供が産めない体にされるかもしれない。二度と彼らの元に戻れないかもしれない。
そう、考える事をやめたのだ。
千宏は計画を実行することによって、自分がどうなるかなどと考えない。実行すれば、失敗しない限りは達成される。それが千宏の計画の全てだった。
「ハンス?」
ふるふると、ハンスが左右に首を振る。意味が理解できずに首をかしげると、ハンスは一言、
「理解できない」
そうして、静かに雑誌を閉じた。
「子供が、あんたにとっての、生きた証なのか」
生きた証。
その言葉に一瞬驚き、そして千宏は、ハンスを仕事に誘った日の自分の言葉を思い出した。
「うん。そう。それがあたしにとっての生きた証」
「理解できない。だってあんたの子供はヒトじゃないか。あんたが死んだら、その子はどうなる」
「それは心配ないんだ」
「どうして」
「だってあたしの子はね、きっとお姫様みたいに大事にしてもらえるから」
確信を持って、千宏はふっと微笑んだ。
目を閉じれば、まるでそこにいるかのようにあらゆる事を思い出せた。肌に刻み込んできた。瞳に焼き付けてきた。柔らかな草原、溶けるような日差し。埋もれるほどの雪。眩暈がするほどの花の香り。
「ちゃんと家族がいるから」
生きた証が欲しい。
自分が死んでしまっても、確かに自分は存在したのだという証が欲しい。
自分に対する証明ではない。ただ、“彼ら”が。千宏を愛してくれた彼らが、確かにこんなヒトが存在したと思い出し、ちゃんと確かめられるように。
「家族って……だって、あんたはヒトじゃないか……」
「違うよ」
なおも反論を連ねようとするハンスを、しかし千宏は自身たっぷりの笑顔で制した。
「あたしはトラだよ。今はヒトだけど、あそこではね」
確信を持って言えることがある。それが、ひどく誇らしい。
「あたしは黒と黄色のトラなんだ」
ぽかんと、先日折られた歯を外気にさらしながら、ハンスはやはり理解できていないようだった。
その表情はひどく間が抜けていて、千宏は思い切り吹き出した。
「……理解できない」
むっとした様子で雑誌を開き、ハンスは千宏に足を向けて寝転がった。
「――俺は」
ふと、思い出したようにハンスが声を上げる。テーブルに広げていた金をがさがさと袋に戻していた千宏は、再びベッドに振り返った。
「うん?」
沈黙が満ちる。
長い事、千宏はハンスが何かを言うのを待っていたが、しかし結局、ハンスはそのまま発言を放棄してしまった。
「……なんでもない」
と言い放ち、雑誌をとじて頭から毛布を被ってしまう。
なんなんだよ、と肩をすくめ、千宏は再び作業に戻った。
***
一週間の狩を終え、一日宿に戻り、また一週間の狩に向かう。そうして、カブラたちは一月の間に四度にわたって森へと入る。
一度目の狩を終え、昼前に宿へと戻ってきた三人は、大物を捕らえたと言ってそれは上機嫌であった。立派な凱旋である。
「で? その大物はどこにあるわけ?」
血まみれ泥まみれ草まみれで戻ってきた三人を出迎えた千宏は、しかし出かけた時と比べて荷物が増えているわけでもなく、どちらかといえばみすぼらしくなって帰ってきた三人に、ひょっとしたら狩りで致命的な失敗でもしたのではないかと少々気を使いながらも好奇心に負けて質問を投げかけた。
おうよ、とカブラが答えずいと窓の外を指差す。
「今頃は市場だろうよ。森で仕留めた大物はな、入り口に併設されてる市場でせりにかけられるんだ」
「えー! じゃああたし、商売に一枚噛めないじゃん!」
「いや、そんなこともないぜ?」
盛大に落胆する千宏をなだめるように、ブルックが一抱えほどもあるズタ袋を千宏にぽんと投げてよこした。
それなりの重さに驚き、たまらずよろけた千宏の肩を、ハンスが慌てて支えてくれる。
「肉が役に立たない奴の牙やツメ、骨なんかだ。それと目玉とかな」
「め、目玉!?」
「目玉が石みたいに硬い爬虫類がいてな、宝石って分類で売れるんだよ。いろんな色があるしな」
グロテスクなものを想像して引きつった千宏に、カアシュがすかさず補足で説明してくれる。
「今までは面倒だから、それも市場で売っちまったが、よその市場に持っていきゃあもっといい値がつくだろう」
「えー! じゃあ相場勉強しとかないと!」
今日と明日は夜の仕事は休みにし、今夜はカブラたちと盛大に騒ぎ、明日は品物の相場を調べに市場へ行こう。
その前に、品物の呼び名をちゃんと確認しておかなければ。
急にやる事が増えた千宏は、そわそわと、しかしわくわくとして重たい袋を抱きしめた。
その夜である。
千宏たちは連れ立って酒場へと出かけ、耳が痛くなるような喧騒の中でガツガツと飯を食い、樽を一つ空にしかねない勢いで盛大に酒を飲んだ。
トラの体力には呆れる。
今朝狩から帰ってきて、今夜こんな馬鹿騒ぎに興じ、そして明日の夜中に再び狩へと発つのである。
最初のうちは、カブラ達に負けじと食い物をかきこんでいた千宏だが、一時間もしないうちに食べ物など見たくないという様子でぐったりとテーブルに突っ伏してしまった。
ヒトのメスが空腹時のトラのオスに食欲で張り合おうなど、物理的に不可能な話である。
「うぐ、もどす……もどしてしまう……ああでもおいしそう……やめてあたしを誘惑するのは……もう一口くらいなら……ああ無理やっぱ無理。これなんて拷問……?」
「俺はそれが拷問に分類される事を初めて知った」
呻く千宏の隣に座り、もくもくと食を進めるハンスである。
服を買った時に店主が言ったように、その後ハンスの体重はみるみる増え、最初は恐ろしくゆるく感じていた服も、今ではぴったりとハンスの体にあっていた。
肥満体になっては軍人の名がすたるとばかりに暇な時間を体作りに当てていたハンスは、すっかり『貧弱なイヌの兄さん』の汚名を返上し、いまや文句のつけようのない護衛として立派に役目を果たしていた。
これで剣でもあれば完璧なのだが、それは給料が出るまで我慢である。
「チヒロー! なんだもう限界か? これうめぇぞ? まじでうめぇぞ? 食わなくていいのか? あっそーじゃー俺食っちまおー」
「カブラって好き女の子いじめてたタイプでしょ……?」
「うぐっ……!」
「シネバイイノニ……」
心底冷え切った視線で一瞥され、カブラは致命的なダメージを受けて砂塵と化した。それを見てカアシュとブルックが涙さえ流してげらげら笑う。
その時だ。
「おいあんた! あんただろハンスって!」
不意に肩を掴まれて、ハンスは聞きなれぬ声に何事かと振り向いた。
立っていたのは、ゆうに三メートルはあろうかという恐ろしく大柄なトラである。額から伸びた爪痕とおぼしき傷が顎を通り越して胸にまで及んでおり、思わず顎を落として見上げたハンスのすぐ近くで、カブラが驚愕の声を上げた。
「テペウ! おまえ来てたのか!」
「なんだカブラ! おまえもか!」
お互い意外そうに目を見開き、そして肩を叩き合う。
「知り合い?」
きょとんとして、千宏は抱き合う巨漢二人を交互に見比べた。
「五十年ぶりだがな! このデカブツはそうそう忘れられねぇや!」
「言うじゃねぇかよ! おう、チビスケも色男も一緒か!」
チビスケはカアシュのことだと仮定すると、色男はブルックのことだろう。
それで、と。最初に疑問を挟んだのはブルックだった。
「なんでテペウが、ハンスを知ってんだ?」
おお、と。テペウが思い出したように声を上げる。
「いやな、俺はもう街を出るんだが、おとといに辺り面白い噂を聞いてな。なんでも破格でヒトとやらせてくれるイヌがいるってんで、昨日から探してたんだ」
ひぐ。と。千宏が喉の奥から奇妙な音を零して硬直した。
酒場から音が消える。
突然黙りこくった旧友と、イヌ、及びローブ姿の女を前に、テペウはきょとんとして目を瞬いた。
「なんだ。おまえらもヒトが目当てで、こいつといたんじゃなかったのか?」
「……いや。ハンスは、俺たちとこの街に来たんだ……」
固く引きつった声色で、カアシュがテペウに説明する。
「っていうか、あたしたちヒトなんか連れてないし。人違いなんじゃない?」
千宏の嘘は、流暢に口から滑りだしていた。
その言葉にようやく意識を取り戻したように、カブラとブルックがぶんぶんと首を振る。
「なんだ、びびらせやがって! おまえ、イヌなら誰だって同じだと思ってんじゃねぇのか? ハンスじゃねぇよ。おまえが探してんのは他のイヌだ」
「――でもハンスの名前、知ってたよな」
静かに、しかし決定的な部分にブルックが触れた。
笑おうとしたカブラの表情が、再び固くひきつれる。
「そうか……おまえらの連れか。じゃ、俺の勘違いだな……」
一人状況を理解できていないテペウは、最悪の状況をもたらした張本人であるにも係わらずのんびりとしたものだ。
ハンスは青ざめている千宏の様子に気が付いて、自分の軽率さに歯噛みした。
この街に到着して十日経つ。
その間、ほぼ毎晩客を捕まえてきていたのだ。ここ最近は、向こうから声をかけられる事だって何度かあった。
十分に予想できた状況だ。夜に、カブラたちと出かけるべきではなかったのだ。
「しょうがねぇなあ。縁がなかったって諦めるか。おう、おまえら宿はどこにあるんだ?」
「テペウ」
「あん?」
「その話……誰から聞いたんだ?」
気抜けしたような、妙に間の抜けた声色で、カブラは静かにハンスを見た。
「どこってこともねぇがな。まあ、その辺だ。これがかなりの上玉らしくてな! あー口だけでもいいから試してみたかったなぁ。ヒトなんて高値の花だろ? そりゃメスなら買えねぇこともねぇが、飼っていけるのかってぇと不安だしなぁ」
「黒髪か?」
「なんだ! やっぱお前も知ってたんじゃねぇか! そうそう! 黒髪でな、調教済みで俺たちトラが相手でもびびって泣くこともねぇんだと!」
「――カブラ!」
カブラが拳を握り締め、ハンスに殴りかかろうとした刹那。叫ぶように名を呼んで、千宏はハンスを庇ってカブラの正面に飛び出した。
こんどこそ、本当に音が消えた。
拳を振り上げたカブラと、その正面に立ち塞がる千宏と、その背後に無表情で座っているハンスを、テペウが呆然と眺めている。
カアシュとブルックが、カブラの拳を寸でのところで押さえ込んでいた。
怒鳴り散らすだろうと思ったのに、カブラは一言も口をきかなかった。ただかっと目を見開いて、失望の色濃い瞳でじっとハンスを捕らえている。
カブラは千宏を見てはいなかった。だからきっと、カアシュとブルックがいなければ、カブラは千宏を殴りつけていただろう。
立ち上がった拍子に、千宏のフードは脱げ落ちていた。
少し伸びたショートカットの黒髪から、作り物のトラ耳がのぞいている。
「どうしたカブラ。落ち着け」
なだめるような声を出しながら、テペウが静かにカブラの拳を掴み、半ば無理やり下ろさせた。それでもまだ、カブラはハンスを睨む事をやめない。
ハンスにはカブラの考えがわかっていた。
カブラはきっと、ハンスが千宏の秘密を知り、それをタネに脅して体を売らせていると思ったのだ。
「――俺ぁ。全力で殺すって、言ったな」
「ああ。聞いた」
「よせカブラ! チヒロが見えないのか!」
「いったん出よう。ここは人目がありすぎる。チヒロ! ハンスと一緒に宿にもどってるんだ!」
カアシュの発したその言葉で、とうとうカブラの糸が切れた。
「ふざけるんじゃねぇ! ハンスと一緒にだと? てめぇカアシュ馬鹿じゃねぇのか! このイヌ野郎は裏切りもんだ! 人間のカスだ! ああちくしょう信じた俺が馬鹿だったよ! こんな野郎にもう、一瞬だってチヒロをまかしちゃおけねぇ! そうだろうよ! なあおい! イヌの兄さんよ!」
全身の毛を逆立てて、カブラは殺意に青い瞳を輝かせた。
ああ、違うのだ。と、ハンスは本能的に理解した。
トラたちは、いつだって平然と殴りあう。だがそこに殺意はなくて、この状況は、もうそんなものでは決してない。
カブラはハンスを殺す気なのだ。
喜んで死ぬ、とあの時ハンスは言った。そしてハンスは今、正面に立つ千宏の背中を見上げていた。
今にも泣きそうな表情で、だけどどうしたらいいか分からず、小さな肩を震わせながらハンスを守ろうと立っている、千宏を見ていた。
「チヒロ」
気が付くと、ハンスは立ち上がって千宏の腕を取っていた。
躊躇するような表情を浮かべた千宏は、しかし頷いてハンスと共に走り出す。
夜の街に響き渡る咆哮を噴き上げ、カアシュとブルックを振り払ったカブラの正面に、しかし立ち塞がったのはこの事態を招いたテペウだった。
「状況はわからねぇ! だが今んところ、一番空気読めてねぇのはおまえだってのは間違いねぇな!」
「テペウ! これは遊びじゃねぇんだ! おまえに付き合ってる暇はねぇ!」
「いいや付き合ってもらう! 前に出たらトラは引かねぇ! かかってきな坊や! 五十年前を思い出すじゃねぇか!」
「あのー! ふたりとも! それなりでやめといてね! ほんと! どっちか死ぬとかだけはマジでやめてよねー!」
ハンスに腕を引かれて走りながら、千宏はなんとかそれだけ叫んで酒場を後にした。
***
酒場での騒動の数時間後、カブラは先日のカアシュのごとくボコボコの血まみれになり、対してほぼ無傷のテペウに担がれて宿屋へと現われた。
三メートルのテペウに担がれると、二メートルを越すカブラがまるで子供のようである。なにせ、誇張無しで千宏の倍の体格なのだ。腰を曲げていないと天井に頭がぶつかるほど身の丈は、見上げると首が痛い。
「ははぁ……なるほど。そういうわけか」
成り行き上巻き込む形になってしまったテペウに事情を話し、カアシュとブルックにも状況を理解してもらい、とりあえず一段落ついた夜明け前である。
三人掛けのソファを一人で占領し、何を思ってか膝に千宏を抱いてちょっかいを出し続けていたテペウは、納得して頷きながら立派なヒゲをひとなでした。
「そりゃ、俺が一番空気読んでなかったなぁ!」
深夜に響く大声で、テペウはよその迷惑を顧みずに膝を叩いて大笑いした。
あわわわわ、とさすがに恐怖におののいて逃げようとする千宏の体を、しかしテペウははなさない。
テペウの中では千宏はペットと同義なのだから、まあ仕方のない行為である。
「しかし金を稼ぐために自分から身売りねぇ。メスのヒトってのは臆病だって聞いてたが、ありゃ嘘っぱちか」
「いえ……大概のヒトは……オスメス係わらず臆病かと存じますが……」
「なあテペウ……チヒロが怯えてるから……」
「っていうかおまえは俺でも怖いから……」
さすがに見かねたカアシュとブルックが、千宏に助け舟を出してくれる。持つべきものは友である。よろこんで乗っかろうとした千宏の体を、しかしテペウは一層強く抱きこんだ。
「――なんだ」
ふっと、わずかに声のトーンを落とし、テペウが今までの大声とは正反対な声色で呟いた。ひ、とブルックととカアシュがごく控えめな悲鳴を上げる。ぐっと腰を折り曲げて、テペウは誰の目から見ても怯えている千宏の顔を覗き込んだ。
「おまえ、俺が怖いのか?」
「ひぃい! め、めっそうもございません! うわぁ! もふもふ気持ちいいなぁ! 立派な毛並みですね!」
肯定したら殺される。
そんな確かな確信が脳を貫き、千宏は最近少々鈍くなりつつあった防衛本能のけたたましい警告音に指示されるまま激しく首を左右に振った。
たちまちテペウは破顔して、そうかそうかと上機嫌で千宏を撫でる。
「だ、だめだ……カブラじゃねぇとテペウは……! 俺たちじゃ無理だ……!」
「すまんチヒロ……! 機嫌さえよければイイヤツだから……!」
トラが聞いて呆れる臆病さである。
せめてハンスがいればと思う千宏だが、ハンスは千宏の判断でカブラから引き離され、今は自室で一人控えているためここにはいない。
「まあつまりだ」
ごほん。とテペウが一つ咳払いをする。
「自分の意思でやってるってぇんなら、誰にも邪魔する権利なんざねぇってことだな? 危険だとか、なんだとか、そういうのを全部承知の上でやってて、その上護衛までいるってんなら、おまえらにゃなんも口出しできねぇだろう」
「まあ、そうなんだけどよ……」
もの言いたげに呟き、カアシュが気絶しているカブラを見やる。
「ま、気に入らねぇんだったら首輪でもつけてしまっとくこった。どうするもこうするも個人の自由さ。今夜の所は引き上げるがな、明日、俺はまたさっきのイヌを探すぜ? 実際に見てますます試したくなった。このままつれて帰っちまいたいくらいだぜ」
「お……お持ち帰りはプランに含まれておりません……」
ぽつりと、一応拒絶の意を表してみる。
すると驚いたような沈黙があり、テペウはまた膝を叩いてげらげらと笑った。
そして、ようやくテペウの膝から下ろされ、千宏はおお慌ててカアシュとブルックの背後に逃げ込んだ。気が変わってまた捕まえられてはことである。
「まあ、俺が目ぇつけた女ってことにしときゃあ、余程の馬鹿じゃなきゃ変な気起こしたりしねぇだろ。客だったらハンターを狙いな。そうしときゃまあ、とりあえずは安全だろ」
言って、テペウはのっそりと立ち上がった。
この宿は天井が低すぎると文句を言いながら、腰を曲げてのそのそ歩く。
「じゃ、明日なお嬢ちゃん。心配しなくても、俺は結構な紳士だぜ?」
逞しい尻尾をくるりと千宏の首に巻きつけて、テペウが似合わないウィンクをしてみせる。
「それとなカブラ。死んだふりが相変わらず下手だぞ」
そして、テペウは恐ろしい巨体で小さなドアを通り抜け、のしのしと廊下を歩いていった。
ほっと安堵の吐息を漏らし、ふと、千宏はテペウの言葉を思い出してカアシュとブルックを見上げた。
「……死んだふりって?」
訊くと同時に、むくりとカブラが起き上がる。
千宏は目を瞬いた。
「くそ……化物が……」
忌々しげに吐き捨てたカブラの言葉は、れっきとした人語である。発声器官は無事らしい。
「気が付いてたのか」
「かなり前からな。動けなかったが、話は聞いてた」
カアシュが意外そうに呟くと、カブラは立ち上がろうとしてそのままふらふらとベッドに崩れ落ちてしまった。
「くそ! 立てやしねぇ!」
「そりゃな。あんだけやられりゃ、さすがにおまえだって足にくる」
早いとこ気絶しちまえばよかったんだ、とブルックが言うと、カブラはすでに恐ろしく変形している顔を憎憎しげに歪ませた。
「ごめんカブラ。あたしのために……」
「おまえのためじゃねぇ」
きっぱりと、カブラは千宏を見もせずに否定した。
次いで、はは、と乾いた笑いを零す。
「おまえのためなんかじゃねえ……ただ、俺が馬鹿だっただけだ」
カブラの言葉に、思わずといったていで吹き出したのはブルックだった。
「まったくだ! あーあ、馬鹿やりやがってこのやろうが! 空回りもいいとこだぜ!」
「ったくよ。あーみっともねぇ。馬鹿だぜほんとに。テペウがいなかったら、俺はとんでもねぇことやらかすとこだった。何の罪もねぇハンスをぶっ殺すとこだったんだからよ」
げらげらと笑う二人に釣られたように、いつのまにかカアシュも声を上げて笑っていた。おそらく状況は理解できていないのだろう。
だが、千宏には理解できていた。
三人の馬鹿笑いが、恐ろしく胸に痛い。
「――チヒロ」
ふいに、カブラが千宏に視線を投げた。ぎくりとして顔を上げ、見詰めたカブラの瞳は、相変わらず澄んだ青を湛えている。
「出て行け」
「カブ――」
「犯されてぇのか。部屋から出てけ。そんで二度と入ってくるんじゃねえ」
「待って……待ってよカブラ。あの……黙ってたのは謝るから……ごめん。ほんと、ごめんなさい。でも、ばれたら送り返されると思って……だから……」
ぐいと、腕を掴まれて千宏は愕然として顔を上げた。
「ブルック……」
ブルックは何も言わずに、ただ黙って首を左右に振った。
謝罪など無駄だと、そういわれたような気がして、再び千宏はカブラを見る。
「ここまで侮辱された事は初めてだ。俺達がおまえに頼まれてやったことを、おまえはことごとく踏みにじった。おまえは俺たちに全部隠して、全てハンスに託したんだ。俺達は、俺達を侮辱したやつを決して許さない」
「ま、待てよカブラ! チヒロはただ、俺たちに心配かけたくなかっただけで、別に侮辱しようなんてしたわけじゃ……」
「黙ってろカアシュ!」
カブラの鋭い一喝に、カアシュは悲しげに目を伏せて口をつぐんだ。
「俺達はチヒロを守りたかったが、チヒロは俺たちを必要としてない。それどころか……なあ、邪魔くらいに思ってんだろうよ。いちいち俺たちに干渉されるのは、そりゃあ迷惑だろうよ!」
「ちがっ……そんな、邪魔なんて……あたし、思ってな……」
「だったらハンスを解雇して、全部俺達の言うとおりにできるのか」
「それは……っ」
「俺にはアカブとの約束がある。おまえにも情がある。守れっていうなら守ってやるさ。俺たち以外に誰もいなけりゃ、お前が嫌がったって守ってやる。だがおまえが俺たち以外の護衛を雇って、その上俺たちをこけにするってんなら話は別だ。俺たちはもう、金輪際おまえに干渉しねぇ」
終った。と、千宏は思った。
カブラたちとの関係が、最悪の形で、致命的に終ってしまった。
カブラたちとの友情と、自分が立てた計画と、二択を迫られたら千宏は迷わず後者を選ぶ。
――喧嘩別れする事になったら、どうするんだ。
ふと、ハンスの言葉が頭を過ぎった。
「ブルック。放り出せ」
「まてよカブラ! まだチヒロは答えてねぇだろ! なあチヒロ。体なんか売らなくたって、他にも稼ぐ方法は一杯あるだろ? なあ、俺相談に乗るからよ。だから――」
「カアシュ」
ぽつりと呟き、千宏はブルックの腕を振り払った。
思いの外あっけなく、ブルックが千宏の腕を解放する。
「……ごめん」
きびすを返した千宏の背中を、カアシュはなんとかして引きとめようと口を開きかけた。しかしそのカアシュの体を、ブルックが黙って押しとどめる。
「チヒロ……なあ、俺たち、だって、友達じゃ……」
縋るようなカアシュの声に、千宏はぐっと唇を噛み締めた。
はん、と、カブラがあざけるような声を上げる。
「友情なんかより、そいつぁ金が大事だとよ。ヒトは図抜けて頭がいいってのはほんとだな!」
ひどく重たいドアを押し開けて、千宏は一人廊下に出る。
すると、隣の部屋のドアの前に、ハンスが静かに立っていた。
無言で側まで歩み寄り、ぎゅっと、突っ立ったままのハンスにしがみ付く。
「……俺、解雇されてもいい」
「……ん」
「俺なんかより、あいつらを説得して、協力してもらった方がいいに決まってる」
「……ん」
「……友達なんだろ?」
――だってあたしたち友達だもん。
――俺たち、だって、友達じゃ……。
ぐっと、千宏はハンスにしがみ付く腕に力を込めた。
「無理だよ、もう」
声が震える。泣き出しそうな顔を見られまいと、千宏はハンスの胸に顔をうずめた。
「どうして……」
「だって……裏切っちゃったから」
だって、千宏は最初からカブラたちを裏切っていたのだ。
最初からこうするつもりで、騙し続けるつもりで付いてきたのだ。
「これでいいんだ。最初から、こうした方がいいってわかってたんだ」
ひく、と肩を揺らして、千宏はハンスに縋ったまま声を殺して泣き出した。
――裏切るまでは、友達だ。