猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威07

最終更新:

jointcontrol

- view
だれでも歓迎! 編集

続・虎の威 07

 
 安っぽいオルゴールのネジを巻く。
 所々音のとんだくるみ割り人形を聞きながら、千宏は大振りなナイフの白刃に指を這わせた。
 使い込まれたくすんだナイフは、刃の部分だけがギラギラと輝いていて、とても観賞にたえるようなものではない。千宏の手には大きすぎるし、美しい装飾があるわけでもない。おまけに、握りの部分は血や泥を吸い込んで黒ずんでいる。
 それでも、千宏はこのナイフが好きだった。
 これが千宏の牙だ。これさえあれば、千宏はどんな事にだって耐えられる。
 静かにナイフをひらめかせ、千宏なにかの儀式のような慎重さでナイフをしまった。
 その時、静かに廊下へ続くドアが開いた。相変わらずの無表情で、ハンスが部屋に入ってくる。
「おかえり」
 声をかけると、ハンスはどこか気まずそうに視線をそらした。
「ああ」
 頷いて、そそくさと後ろ手にドアを閉める。千宏は首をかしげた。
「どうかした?」
「……いや」
「じゃあ、受け取ってくれたんだね」
「……ブルックが」
「そう」
 今日、狩から帰ってきたばかりのカブラに渡された品々を、千宏はハンスに頼んで返してきてもらったのだ。
 もう、千宏があれを持っているわけにはいかない。
「……これを預かった」
 言って、ハンスは遠慮がちに、真新しい箱をテーブルの上に置いた。見覚えのある箱だ。千宏は静かに立ち上がり、ゆっくりと紙箱のふたを持ち上げた。
 小ぶりなサバイバルナイフ。手袋。そして、これだけはなぜか新品のままの、一番高くついた防護靴。
 ふ、と。千宏は小さく吹き出した。小刻みに肩を震わせ、不自然な笑顔で笑う。
「……どうすんだよ、これ。こんなん返されたって、あたし困るし……」
 邪魔なだけじゃん、と呟いて、千宏はテーブルについた両手を握り締めた。

 翌日、千宏は日が完全に昇りきってから目を覚ました。
 何を思ってか片腕で逆立ちしながら転寝を決めていたハンスを叩き起こして下におり、片耳のない宿屋の主に声をかける。
 性格が歪んでいそうな仏頂面が一転して笑顔になり、トゥルムと名乗った男は読んでいた本を放り出して立ち上がった。
「おはようございます姐さん! 今日もいい天気でございますぜ!」
「おはようおじさん。今日も敬語が不自然だね」
 千宏が苦笑いを浮かべると、トゥルムはどの辺りが不自然だったのか分からないらしく、不思議そうに首をかしげた。
「使い慣れてないんだから、敬語なんてやめればいいのに」
「いやいやいや! あんたは俺の命の恩人といっても過言じゃねえんです! 俺みたいな男に情をかけてくれたあんたに、失礼な口なんかきけねぇでありますよ!」
 もはや敬語の体をなしていない。下手な敬語はどんな言葉遣いよりも品位が下がるの典型である。
 千宏は肩をすくめてハンスと顔を見合わせた。
「それで、姐さん。何があったんでございますか?」
 ふと、トゥルムが表情を曇らせ、下から千宏の顔を覗き込むように腰を曲げた。
「何がって?」
「そりゃ、あいつらが……」
「カブラたちが宿を変えた」
 トゥルムの言葉を引き継いで、答えたのはハンスだった。
 思わず見上げた千宏の間抜け顔が、ハンスの緑色の瞳に映りこむ。なんで、と口を開きかけ、しかし千宏は質問を飲み込んだ。
「……そう」
 もともと、カブラたちはこの宿に滞在する事に乗り気ではなかったのだ。
 なにもこんな底辺な宿にと、そう言っていたのを覚えている。千宏との関係が切れた今、宿をかえるのは何も不思議なことでなかった。
「あの、だから、姐さんも宿をかえちまうんでいらっしゃいますか?」
「え?」
「俺、姐さんにだったらむしろ、ただでだっていてもらいたいんございますよ! 居心地が悪いってんなら、俺、姐さんの部屋だけでも改装するですますよ!」
「おじさん、本当の敬語聞いたことないの……?」
「え……ええまあ、本でちょろっと……そんなにひどくていらっしゃいますか?」
「謙譲語と尊敬語と丁寧語がしっちゃかめっちゃかだよ……」
「け、けんじょう……?」
 敬語の国日本に生まれた千宏である。そんな分類聞いたこともありませんという様子のトゥルムに、千宏はやれやれと肩を落とした。
「まあいいんだけどさ……。別にそんなことしなくても、あたしとハンスはもうしばらくここに厄介になってるつもり。修繕するなら、ちゃんとお金取れるほかの部屋にしたら? 柔らかいマットレスにするとか、枕を新品にするとか。ねえハンス」
「ああ。カビ臭い」
 こくん、とハンスが素直に同意する。千宏でさえ感じるほどの臭いなのだから、イヌのハンスとしては耐え難い物だろうに、よく今まで文句一つ言わなかったものである。
「改装とまで言わなくても、清潔にはして欲しいよね。っていうか、このままだと病気になりそう。主に布関連で。肺あたりが」
「び、病気!? 病弱そうだとは思ってたが、まさかそんなに……!」
「病弱そう……って、あたしが……?」
「トラ基準なら、まあそう見えるだろうな」
「すまねぇ! 姐さんにそんな苦痛を強いているなんて考えもせず、俺は、俺はただ、姐さんの部屋を覗く手段ばかりを考えて……!」
 盗聴の次は覗きとは、見下げ果てた男である。
千宏はハンスを振り仰ぎ、拳を握り締めてわなわなと震えるトゥルムを静かに指差した。
「手段を考えてるだけなら罪じゃない」
「そりゃまあそうなんだけどさ……」
「よし決めた! 俺はこの宿を改装する! 改造する! 改善する! それはもう劇的に! 今まで何の目的もなくなんとなく宿をやってたが、俺は姐さんが居心地よくここで過ごせるような宿に作り直すことをここに誓う!」
 唐突に燃え上がり、誓いを立てたトゥルムである。
 小奇麗な宿に作り変えればいい女がやってくる確立が高まることに、今になって気がついたのかもしれない。
 俄然勢いづき、宿の改造計画を立て始めたトゥルムを置いて、千宏は朝食をかねた昼食を取るために宿を出た。
 いっそルームサービスも充実させてくれればよいのにと、ふと思った千宏である。

「これからどうするんだ?」
 朝食時と、昼食時を少しはずした料理店の店内は、さすがに人気も少なく珍しく静かだった。
 小さいながらも素朴な味が人気のこの店が、最近の千宏のお気に入りである。
 うまい、ともまずい、とも料理の感想を言わないハンスは、無論食事中に表情を動かしたりもしない。
 もくもくと、機械的に食事を進めていたハンスの出し抜けの質問に、千宏はもぐもぐと口を動かしながらそうだなあ、と首をかしげた。
「とりあえず市場の見学にでもいこうかな。そろそろお金も溜まってきたし、色んなものの相場調べて、夜だけじゃくて、昼間の商売の準備にかかろうかと思ってるし」
「そうじゃない」
 ハンスはいつも食事が早い。
 千宏の皿にはまだ半分以上も残っているのに、ハンスはすっかり空になってしまった皿を機械的に横に押しのけた。
「この街には、もともとあいつらについてきただけで、別にあんた本人に目的があったわけじゃないんだろう? だが、あと数週間であいつらはこの街を離れる。そしたら、あんたはどうするんだ」
 ぴたりと、千宏が食べ物を租借するのをやめる。そのまま、千宏は口に運びかけていた次の一口を静かに皿に戻した。
「……それってさ」
 自然、眉間に皺がよった。舌の根元が妙に苦い。
「今決めなきゃだめなことかな……」
 千宏はハンスを見なかった。まだ美味しそうに湯気を上げている料理をじっと睨み、しかし次の一口に手はでない。
「……いや……」
 叱られた、と思ったのか、ハンスがふいと視線を下げる。
「すまない……」
 別にいいよ。怒ってるわけじゃない。そう言ってやるつもりで開きかけた口からなんの言葉も出てこなくて、千宏本人が驚いた。
 思っていたより、ひどく重い。
 その重さを少しでも吐き出そうとするように、千宏は大きく溜息を吐き、フォークに突き刺したままだった料理を乱暴に口に含んだ。
「……もうさ、無関係なんだ」
「……無関係?」
「そう。あいつらが街を出ようと、出なかろうと、関係ない。あいつらがこの街にいても、あたしが移動したくなったら移動するし、そうじゃなければずっといる」
「……そうか」
「うん」
 カブラは、千宏を送り返すつもりならば、確実に自分の手で実行するはずだ。だからわざわざ、バラムたちに千宏の居場所を教えるとは考えにくい。
 行動を起こすべきときがあるとしたら、カブラたちがあの市場に帰った時だ。アカブやバラムは、間違いなくカブラたちから千宏の話を聞こうとするだろう。カブラは沈黙するかもしれないが、あっさりと話すかもしれない。
 カブラたちの今後の行動はわからないが、カブラたちが街をでたら、少なくとも一週間以内に別の街を目指した方がいいのかもしれない。
「……ハンス」
「うん?」
「今夜は仕事、休みにする」
「……そうか」
「それとね。これ、お給料」
 言いながら、千宏はごそごそと懐をあさり、重そうな黒い財布をハンスの前に滑らせた。
「財布はプレゼントね。五十セパタ入ってる」
「ご――なんだって!?」
 愕然と聞き返したハンスの態度に、千宏が小さく吹き出した。
「言ったでしょ。現金支給は歩合制って。今週の稼ぎのゼロコンマ八割ってとこかな」
「だが……ご、五十セパタ……って、だが……俺はそんなに……」
 働いていない、と力なく呟いて、困惑した様子で財布を見下ろす。
 イヌ国の末端の軍人が一月にもらえる給料は、セパタに換算するとせいぜい二十セパタ程度だ。下手をするとそれを下回ることもあり、それでも衣食住が保証されている分、民間の弱小企業よりははるかに割りのいい仕事と言える。
 盗賊をやっていた時は、たしかに数百セパタの金を見ていたが、財布の紐は常にネコが握っていたし、与えられる給料は一月に三十セパタ程度だった。
 それを、千宏は一週間で五十セパタの給料をハンスに与えたのだ。
「……多すぎる。金が必要なんだろう? 俺はその半分で構わない」
 それだって多いくらいだ、と財布を押し戻そうとしたハンスの手を、千宏は静かに制してハンスを見た。
「ハンス。あんたに払う給料は、雇い主のあたしが、あたしの懐具合で決める。もしあたしが病気や怪我で稼げなかった週は、あんたに給料を払えないかもしれない。だからあたしは、払える時にはきっちりと、あたしが決めた歩合で払う」
「だが……」
「分かんないかな。つまりねハンス。あたしの手元には今、少なくとも七百セパタはあるってこと」
 に、と。実に商人らしい笑みを浮かべて見せた千宏の言葉に、ハンスは絶句して盛大に顎を落とした。
「自分で客からお金受け取ってたのに、少しも計算してなかったの?」
 そんなこと、考えもしなかったというように、ハンスがぶんぶんと首を振る。
 素直なのはいい事だが、全くもって朴訥な男である。
「あたしは、自分の痛手になる程の金額を給料として払ったりしない。だから、これは遠慮なく受け取って。それは、正当なハンスの取り分なんだから」
 そう言って、千宏はハンスの言葉を待たずに立ち上がった。
「行こう。少し混んできた。あたしはこのまま宿に帰るけど、ハンスは買い物してから帰るといいよ。大丈夫。あたしは一人で帰れるからさ」
 笑って、まだ座っているハンスの頭を軽く撫でると、ハンスは一度だけうなづいた。

***

「カアシュ。おまえ、なんでチヒロにもらった靴はいてねぇんだ?」
「だってカブラ。森に入ると消耗激しいだろ? なんだかもったいなくて……」
「使ってくれつってもらったもんを、もったいねぇから使わねぇって……おまえアホだろ」
「な、なんだよブルックまで! いいだろ別に! 俺がもらったんだから! だからよ、今期最後の狩からはき始めれば、それからも一年間使ってられるだろ? でも今はいちまったら、今期だけで使い潰しちまうじゃねえか!」
「だーからおまえはもてねぇんだよ! 女々しいってーか、ネコくさいってーか」
「なんだよ! カブラだってそんなにもてるわけじゃねぇじゃねえか!」
「なんだとてめぇこのチビ野郎が! おまえ実はトラ柄のネコだろ! シュバルカッツェに帰れ!」
「うるせー! うるせー! ちょっとでかいからっていばりやがって!」
「おまえら真面目に狩をしろ。大声出すな。獲物が逃げる」
「とにかく俺は、なんと言われようともうしばらくあれは履かないんだ。大事に使うって決めたんだからな!」
「あーそうかよ。好きにしろチビネコ」
「ネコって言うなぁ!」
「てめぇらいい加減にしねぇとふんじばって木から吊るすぞ! 生餌になりてぇのか真面目にやりやがれ!」

 ふと、転寝から目を覚ます。
その瞬間、雷鳴が街全体を揺るがし、カアシュは飛び起きると同時にベッドから転がり落ちた。
 腰をしたたか打ち付けて、しばし床の上でもんどりうつ。
 ようやく起き上がって窓の外を見ると、夜の街は豪雨に覆われ、闇が白く霞んでいた。
「あー……」
 のっそりと起き上がり、がしがしと耳の後ろをかく。
「雨か……」
 ぽつりと呟き、カアシュは誰もいない小奇麗な部屋を見渡した。
 カブラが新しく選んだ宿は、上級とは言えないまでも、千宏が選んだ宿と比べれば天と地ほどの差があった。
 ベッドは広くてふかふかしており、部屋も広くてテーブルや椅子ががたがたいったりもしない。歩いても床が軋むこともなく、隣室の囁き声がこぼれてくるようなこともない。
 おまけに一階には酒場を兼ねた食堂があり、居心地は抜群だった。
 だが、この宿に千宏はいない。
 カアシュは溜息を吐いた。
 ベッドを背もたれにして床にだらしなく足を伸ばし、天井を見上げてぱたぱたと尻尾を動かす。
 千宏は今も、こんな大雨の中で客を取っているのだろうか。
 カアシュはぶんぶんと頭を振り、しかし思考を振り払う事はできず再び千宏のことを考えた。
 トラ国では、売春は恥じるべき行為ではない。自分の体には金銭を得るほどの価値がある、という自負は、誇りとさえ呼べるかもしれない。
 だが、千宏はヒトで、トラではない。
 テペウは個人の自由だと言った。カアシュも確かにそうだと思う。だが、それでも心配で仕方なかった。
 いくらハンスがついていたって、例えばテペウのような男がその気になれば、千宏は簡単に連れ去られてしまう。
 だが千宏は、そんなことは承知の上でやっている。危険だと分かっていても、それでも千宏には、そうしなければならない理由があるのだ。
 だけど千宏は、それは話してはくれなかった。ごめん、と。ただ一言。謝罪一つで背を向けてしまった。
 千宏はカアシュや、カブラやブルックよりも、自らが拾ったハンスを選んだのだ。
 ふと、カアシュはドアノブが立てた音に気付いて顔を上げた。
「なんだ、起きたのか」
 無遠慮にドアが開くなり、入ってきたのはカブラだった。下で酒でも飲んできたのか、随分な上機嫌である。
 ブルックがいないが、どうせまた女の部屋だろう。
 カアシュは床に座り込んだままカブラを見上げ、再び溜息を吐いて肩を落とした。
「……チヒロのこと、考えてたんだ」
「……あぁ?」
 上機嫌から一転して、カブラが苛立ちでざらついた声を上げる。
 ぎょっとしてカアシュが視線を上げると、カブラは鼻の頭に皺を寄せて酒瓶をテーブルにたたきつけた。
「いいかカアシュ。俺は今上機嫌なんだ。それをくそくだらねぇ話で台無しにしようってんなら容赦しねぇぞ」
 脅すような口調にむっとなり、カアシュは腰を浮かせてカブラに食って掛かった。
「く……くだらないことなんかねぇだろ! だってチヒロは――」
「うるせぇ! いいか! 俺達はもうあの女とは無関係だ。あいつははっきりと、俺たちや、自分の身の安全より、金が大事だと言ったんだ! 胸糞悪い話じゃねえか!」
「だから……だから考えてたんじゃねぇか! だって、おかしいじゃねぇか! なんだってそんなに金が必要なんだよ。なにか理由があるに決まってる!」
「ああそうかもな! だがあいつは俺たちにそれを隠した。そんで、あのイヌ野郎に話したんだ! どうしてだとか、なんでだとか、そんなこたぁどうでもいいんだよ! あいつが俺たちじゃなく、ハンスを選んだ。あいつが俺達についてくる時、なんて言ったか覚えてるか? 俺達だったら安心できる。俺達しかいねぇんだと言ったんだ!」
「それは……だって、そう言うしかなかったんじゃ……!」
「そうさ! そう言うしかなかったんだ。わかってるじゃねえか。心底から思ってたわけじゃねえ。利用されたんだよ! いっそこう言ってくれりゃよかったんだ! おまえらは本当の、心底頼りになる護衛がみつかるまでのツナギだってな!」
「カブラ!」
「うるせぇ! これ以上ぐだぐだ抜かすんだったら部屋から出てって一人でやれ! それともなにか? 俺にチヒロんとこまで出かけていって、どうぞ護衛を続けさせてくださいって土下座しろとでも言うのかよ! 俺はそこまで腑抜けじゃねえ!」
 部屋が白い光で満たされ、雷鳴が空気を揺るがした。
 土砂降りの雨が降る。
 カアシュは拳を握り締め、しかし結局何も言えずにがっくりと肩を落としてうな垂れた。
「……でも、チヒロは俺たちを許した……」
「状況が違うだろうが。俺達は非を認めて、チヒロの前に膝を折った」
「でも、チヒロはヒトなんだ!」
「それは関係ねぇだろうが!」
「関係あるだろ! ヒトが! 俺たちみたいなトラに強姦されそうになって、それをチヒロは許したんだ! なのに俺達は、チヒロがハンスを選んだからって、俺達を選ばなかったからって、それで全部終わりにするのかよ!」
「なん……ッ!」
「なあ……俺が変なのか? トラとして間違ってるか? だってチヒロは、いつどんなめに遭うかわからないんだ! ハンスだけじゃどうにもならないことがあるかもしれない! そんな時こんなんで、側にいたら助けられたかもしれないのに、つまんねぇ誇りとか意地とかで、取り返しがつかないことになったらどうすんだよ!」
「カアシュ――てめぇいい加減にしろ!」
 カブラの怒声が耳に届くや否や、顔面に鈍い衝撃がぶち当たり、カアシュは次の瞬間床に叩きつけられた。
 骨に響くような痛みにもんどりうった体にカブラが容赦なく圧し掛かり、激痛に喘ぐ首をぎりぎりと締め上げる。
 カアシュは必死にもがくがカブラ相手ではかなうわけもなく、怒りと憎悪に燃えるカブラの瞳をただ真っ直ぐに睨み返した。
「つまんねぇ意地でも、くだらねぇ誇りでも、踏みにじられりゃあ腹が立つもんだろうがよ。俺はトラだからよ。裏切られてへらへらしてるなんてできねぇんだよ。通すべき筋ってもんがあるだろうがよ! だが実際はどうだ? あっさりとしたもんじゃねぇか。ごめん、ってよ。その一言で済ましやがった。その一言でよ! もう俺達なんざいらねぇってよ!」
 怒鳴って、カブラは荒々しくカアシュの体を解放した。
 カアシュは大きく息を吸い込み、激しくむせ返って床を叩く。
 ようやく、カアシュは気がついた。
 一番傷ついているのは自分じゃない。誰よりも千宏を気にかけ、守ろうとしていたのはカブラだ。
 だからこそ、信頼されなかったことがカブラには我慢できないのだ。恐ろしくあっさりと、「それじゃあさようなら」と切り捨てられてしまったことが、悔しくて仕方がないのだ。
「……雨、よく降るな」
 ぽつりと、カアシュは窓の外を振り仰いで呟いた。
「ああ」
「雷……すごいな」
「ああ」
「……チヒロ、怖がってねぇかなぁ……」
「ああ」
「心配だな……」
 深く、深くカブラが溜息を吐く。
「……ああ……」
 呟いて、カブラはちびりと酒を舐めた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
ウィキ募集バナー