続・虎の威 08
夜になっても戻ってくる気配のないハンスの護衛を諦めて、千宏は土砂降りの雨の中、トゥルムに借りた傘を持ってふらふらと街に出た。
一人歩きなんて危険だとトゥルムは一応主張したが、もう一週間も歩き回った街である。迷子になる事もないだろうし、大通りしか歩かないからと、千宏はトゥルムの忠告を聞かなかった。心配ならば、早いうちにルームサービス制度を導入してくれと脅しをかけたほどである。
無論トゥルムは、ならば自分が食料を買ってくるし、そうでもなければ何か食べ物を用意すると主張したが、千宏はトゥルムの料理の腕を信じていなかったし、なにより馴染みになった小さな料理店のディナー特別メニューを食べたかったのだ。
千宏は、昼に食べる店と夜に食べる店を明確に分けている。今日、昼間にハンスと入った店は素朴であっさりとした味付けだが、今から行く店は一日を締めくくるに相応しい料理を提供してくれる。
ざぁざぁと傘を叩く雨に押しつぶされそうになりながら、千宏はいつもより随分と遠く感じる料理店を目指してせっせと足を動かした。
それにしても傘が思い。しかもでかい。トラの男性用の傘なのだ。千宏には文字通り荷が重い代物である。
夜でも、雨でも、トラの街は明るく賑やかで、騒々しく底抜けに陽気だ。むしろ雨で道に人通りがない分、屋内の酒場や料理店はいつも以上の賑わいを見せている。
そんな中、やはり他の店同様に騒がしく、暖かなオレンジ色の光を零す小さな料理店に入り込み、千宏は空いている席を探してするりと巨大なトラたちの間に滑りこんだ。
カウンター席である。
いつもの小さなローブ姿を目に留めて、カウンターに立つ店主が相好をくずした。
「いらっしゃい! あれ? 今日はいつものイヌのあんちゃんは?」
「ん。今日は別行動」
「おいおい、喧嘩かぁ? じゃ奥で俺と食うか! いっそベッドで食うか!」
「注文は今日のオススメディナーのドリンクセット。口説く暇があったら仕事しろ」
カウンターから身を乗り出してくる年かさのトラ男に、冷徹なまでの口調できっぱりと告げる。店主はゲラゲラと愉快そうに笑いながら、奥の厨房に向かって千宏の注文を繰り返した。
この店は親子でやっている料理店だ。
前は店主が厨房に入っていたらしいが、今は厨房には娘がいて、注文はこのむさくるしい中年がとっている。
普通逆だろうと思うのだが、料理の腕が明らかに違うのだから仕方ないと、店主は少々せり出しぎみの腹を突き出して笑うのだ。
トラは体が大きく筋肉がつきやすい体質なので、余程の事が無い限り肥満にはならないのだが、ここの店主は余程の大食漢らしい。
本日のオススメディナー・厚切りステーキのピリ辛ソース野菜添え。
カウンターに出てきた分厚く巨大な肉を見て、千宏は満面の笑みでナイフとフォークを構えた。
じわりと唾液が滲み出してくる。
「いただきまーす!」
鉄板の上でじゅうじゅうと音を立て、ビチビチと跳ねる脂に気をつけながら、千宏はよく切れるナイフで柔らかな肉を切り、ふうふうとさましてからソースを絡めて口いっぱいに頬張った。
口の中でとろける脂身と、しっかりと歯ごたえがあり、しかし嫌な硬さがまったくない締まった肉。
すこししょっぱくてピリリと辛いソースの後味も抜群によく、千宏はしみじみと食の喜びを味わった。
「あぁ……し、しあわせ……」
トラは基本的に、肉が硬かろうが柔らかかろうとほとんど気にしないという。
千宏には硬くてとても食べられない肉を、カブラ達は平然と食べていることを考えれば、まあそれも当然だろうと千宏は思った。
千宏が感じる固い、柔らかいという感覚が、トラにとっては恐ろしく微妙な差異なのだ。それこそ、金属と豆腐ほどの隔たりがなければ、肉質の硬い柔らかいなどほとんど気にもならないだろう。
千宏だってソフトクリームとジェラートのどちらが硬いかと問われれば言葉に詰まる。
だが、この店はそうじゃない。
とにかくこの店の店主が途方もない美食家で、古今東西の美味い物を食いに食った挙句に開いたのがこの店なのだ。
基本的に、トラ国はなんでも美味い。素材がいいから、よほど妙なマネをしない限り美味い物ができるのだ。だがそれでも、トラ国の少々大雑把な味付けにへきえきしかけていた千宏の世界は、この店に出会ってからばら色に染め上げられた。
それを考えると、バラム達はかなり味にうるさい部類のトラだったのだろう。なにせ千宏は、あそこにいた時は全く食事に不満を抱かなかったのだ。
腐っても領主である。別に腐っているわけではないが。
舌を火傷しそうになりながら、それでも至福の時を満喫していた千宏だが、さすがに半分も食べると限界を感じてナイフが止まった。
この店は量より質だ。トラと比べて少食のハンスには丁度よく、千宏には多すぎ、カブラ達には物足りない。
いつも、千宏は多すぎる皿の中身を誰かに手伝ってもらっていたのだ。しかし今は押し付ける相手がいない。かといって残すのはもったいないし、料理人や死んだ動物に申し訳ない。
千宏が眉間に皺を刻んだ、その時である。
「おお、いたいた! 探したぜお嬢ちゃん!」
聞き覚えのある、周りの迷惑をかえりみない大声である。
ぎょっとして振り返りかえると、誇張なしで千宏の倍ほども身長のある巨大なトラ男が、狭い店の入り口で異様な存在感を放っていた。
額から胸まで伸びる、深々と抉れた白い傷。テペウである。
「て、テペウさん……!? なんでここに!」
「なんでっておまえ、そんなの決まってんじゃねぇか!」
野暮なこと聞くなよ、と笑いながら、テペウは千宏の隣に腰をおろすと、千宏の皿を見てから同じ物を二人前注文した。
「いやあ、いつもハンスがうろついてる所に顔出してみたんだが見つけらんなくてよ。面倒になったから、宿で待ってりゃいいかと思ってこっち来たら、この店からハンスの香水だかシャンプーだかの臭いがしてな。で、窓を覗いてみたらお嬢ちゃんがいたと」
あちゃあ、と。千宏は口元を引きつらせて苦笑いした。
そういえば昨晩、確かに『明日になったらハンスを探す』と言っていた。だがまさか、いないからといってわざわざ宿まで押しかけてくるとは。
「あの……でもあたし、今日はその、具合がよくなくて……」
「あん?」
「だから、お休みすることにしたんです。それでハンスもいつものとこにいなくて……あの、明日また来てくれれば……」
「おいおい! そいつぁねえだろう! わざわざお嬢ちゃんを探してこんな場末まで出向いたんだぜ?」
丁度目の前に並べられたステーキ肉を、テペウは半分に切り分け、その片割れにかぶりついた。鉄板はじゅうじゅうと音を立てているのに、テペウはまるで熱を感じていないようだった。猫舌ではないらしい。
「……なんだこりゃ。うめぇな」
意外そうに目を瞬き、残りの半分にフォークを突き刺す。あっという間にぺろりと一枚を平らげ、テペウはもう二人前追加で注文した。折角なので、食べきれないからと千宏の分も差し出してみると、テペウは快く引き受けてくれた。
「こいつぁうめぇ。こりゃいい店だ。穴場じゃねえか。場末つってもあなどれねぇな」
嬉しげに料理の感想を言いながら、がつがつとステーキを食うテペウを横目で伺いながら、千宏はこっそりとその場を脱しようと試みた。
それほどに、テペウは食事に熱中しているように見えたのだ。だが千宏が腰を浮かせかけたその瞬間、千宏の手首に何かがするりと絡みついた。ふかふかと柔らかく、しかし恐ろしく力強い。
テペウの尻尾である。
「どうした? お嬢ちゃん」
「いえ……あの……おなかも一杯になったから、帰ろうかなー……なんて」
「客がまだ食い終わってないだろうが」
「あの、だから今日はお休み――」
「座れ」
一睨みである。
千宏は全身から冷や汗が吹き出すのを感じ、それはもうにこにこと微笑みながら再び深く腰を下ろした。
溜息を吐き、肩を落とす。どうやら、休みだと主張してもテペウには通じないようだった。
テペウとは良好な関係を保っておきたいし、じゃけんに扱って怒らせるのは直接的に命に関わる。ハンスはいないが、しかたない。千宏は腹を括った。
***
遺跡の街――中央広場。
ハンター御用達! 武器防具その他雑貨専門店!
特売! 簡易トラップセット!
捕獲に便利! クマが殴っても壊れない檻入荷しました!
ル・ガル製! 切れ味向上付加ナイフ在ります!
千宏とわかれてすぐさま向かった巨大な武器専門店は、雑多な種族でごった返し、ありとあらゆる装備品で埋め尽くされていた。棚と言う棚、壁と言う壁に、あらゆる商品が隙間なく並べられ、積み重ねられている。
道を歩いている分にはやはりトラの比率が高いと思うが、この店はトラよりむしろその他の種族の方が多いように思われた。
恐らく、トラは他の店でも装備がそろうが、他の種族はこういった大手大型の総合販売店に来なければ、手に合うナイフ一つ手に入らないからだろう。
「それにしても……」
ル・ガル製の、切れ味向上付加ナイフである。
他にも様々な魔法付加が施された武器が、まるでそこにあるのが当然のように、無造作に並べられている光景に、ハンスは改めてトラ国の裕福さを実感した。
切れ味付加のついたナイフが、一振り十五セパタ。初めて森に入るハンターの必須装備と書かれている。
十五セパタあれば、飢えたイヌの子供十人が、一ヶ月は腹いっぱい暖かいものを食えるというのに――。
そっと、棚に並んだナイフを一本持ってみる。
装飾も何もない、道具の象徴のようなナイフだ。耐血耐脂。形質保持もきっちりと施されている。
これを、自分は今、ぽんと買えてしまうのだ。
溜息が出た。まるで実感がわかない。
ナイフを棚に返して店内に視線をめぐらせ、ハンスは手ごろな剣を見つけて手にとってみた。
軍で使っていたのとよく似ている、恐らくは量産品の剣だ。否、違う。付加効果の欄に記述がある。耐血耐脂・形質保持のみ。特価、四十九セパタ八十センタ。
値札を見て、思わずハンスは固まった。
買える。
末端兵士の憧れ、魔法付加装備が――現金で買えてしまう。
買おうか。買ってしまおうか。元々武器を買いに来たのだし、買えるのだし、買ってしまっても後悔は無いのではなかろうか。
だが待て。そもそも自分にこんな高級品が必要なのだろうか。分不相応ではないだろうか。やはりここは、付加効果などついていない安物の剣を買っておいた方が――。
「安物買いの銭失いって言葉があるにゃよ、お客さぁん」
「うわ! な、ね、な――!」
突如耳元で囁かれた甘ったるい猫なで声に、ハンスは思わず飛びのいた。
ネコだ。
ごつい手袋と重たそうな革のフルエプロンを装備した、恐らくはこの店の店員のネコである。
ばっさりと切った短い髪と、重たいエプロンを押し上げるほど自己主張の激しい胸が印象的な美女である。
「ははーぁ。にゃるほど。イヌが国外で自国の剣。わかる! よくわかるにゃよ! 一歩上の人間を目指すって言うのはすごく勇気がいることだからにゃあ。過去に手が届かなかった物に今正に手が届く! そういうときになると人は往々にしてしり込みする物にゃー。特にイヌみたいな根暗、いやもとい陰気、あれちがう保守的、じゃなかった慎重な人柄だとにゃー」
いきなり出てきて失言の連発である。
腕に巻かれた腕章に、日本語の漢字で『商魂』書いてあることは、無論ハンスにはわからない。
「しかしいいかにゃ? 魔法付加のついてないお安い剣は、丁寧に使っても、使っていくうちに磨耗して、細くなったり薄くなったりかけてしまったりとその内ぽっきり折れてしまうにゃ! それでお値段十セパタ!」
「な――なんだと!?」
嘘だ、とハンスは思わず叫びそうになった。
軍で支給される魔法付加無しの装備は、魔法付加のあるものの百分の一程度の値段である。計算で行くと、魔法付加のある剣が約五十セパタなら、その十分の一は五百センタのはずだ。
「あー。よくいるんだよにゃー自国の相場を他国に持ち込むお客さん。困るにゃねー! 自国で安かったもんは、他国に輸出されれば高くなるものにゃよ」
「それにしても、高くなりすぎだろう……!」
「わかってないにゃねー! これだから田舎者は困るにゃー。自分が知ってる物が全てだと思い込む。ここに置いてあるのは、いくら魔法付加のない素の刃物つってもお客さんがル・ガルで使ってたようなものとはそもそも格が違うにゃよ。素材! 設計! 職人! 同じ量産品にも格ってもんがあるにゃー。数百センタで買えるようなガラクタが十年しかもたない所が、うちの剣は五十年持つにゃ! しかし六百年の長い人生、おっとイヌは二百年にゃね。とにかく長い人生で、使い慣れた一本の剣を使い続けていきたいと思うのがまことの戦士! 戦うのがお仕事の人間だったら、勇気を出して一段上の自分を目指してみるべきだと私は思うがにゃあ。いや、これは商売抜きで言ってるにゃよ」
いつの間にか、ハンスと店員のやり取りに店中が注目していた。
別に、ハンスは悪い買い物をさせられそうになっているわけではない。
だが必要がないのなら、わざわざ高価な魔法付加装備を買う必要はないし、それこそ数百センタで買えるようなガラクタで構わないのだ。
流されるな。よく考えろ。それはおまえに本当に必要なのか。そんな視線が熱くハンスに注がれる。
「……そういう、ものか……」
ぽつりと、ハンスが呟いた。ああ、と店中から憐れみの溜息がこぼれる。
「そういうものにゃ! ささ! お会計お会計! あ、サービスで手袋お付けするにゃ! お客さんいい買い物したにゃー!」
あれよあれよと言う間に会計になだれ込み、言われるままに支払いを済ませて商品を受け取ってしまう。
腰に新品の剣を下げ、笑顔の店員に見送られて店を出ると、外は土砂降りの大雨だった。
***
雨に濡れて帰るとまた千宏が怒るだろうと考えて、ハンスは暫く雨宿りをすることにした。
ハンスの雨宿りのやり方は決まっている。道端に座り込み、ただぼんやりと雨がやむのを待つのである。そして多くは、そのまま寝る。そして今回も、ハンスはやはりうとうとと眠り込んでいた。
目が覚めると、世界はやはり大雨で、激しい雷が鳴り響いており、そして恐るべき事に夜であった。
ばくん、とハンスは盛大に顎を落とした。
「しまッ――!」
立ち上がった瞬間、丁度いい具合にせり出していた鉄柱に頭をぶつけて再び地面にうずくまる。
じんじんと痛む頭を抑えつつ、ハンスは雨の中飛び出した。
時間はよく分からないが、恐らく夕飯時はとうの昔に過ぎている。
千宏がカンカンになって怒っているのが目に見えるようだった。
瞬発力ならばネコ。持久力ならイヌとよく言う。
ハンスは特別足が速いわけではないが、広々とした遺跡の街を端から端まで走破するくらいの持久力は持っている。
ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら宿をめざし、ハンスはその途中、もしやと思っていつも千宏が利用する料理屋を覗いてみた。
窓から覗いたかぎり姿はない。
だが、一応全身の水気を払ってからひょいと店に首をつっこむと、肉や野菜の美味そうなにおいにまざり、千宏の臭いが鼻先を掠めた。
「おう、あんちゃん! 今日はもう帰っちまったぜ」
カウンターの中で忙しく動き回る店主の言葉に、ハンスは叱られることを覚悟してぐったりと尻尾をたらし、へたりと力なく耳を伏せた。
「しかもな兄ちゃん。おもわず見惚れるような男前のトラと一緒にだ! あんな男前に抱かれた日にゃあ、男の俺だってころっとまいっちまうぜ!」
げらげらと、そっくり返って店主が笑う。
一瞬、ハンスはカブラが千宏に会いに来たのだと考えた。だがカブラは、確かに立派な体格をしているが、見惚れるような男前とはいいがたい。
瞬間、自らの鼻が捉えた覚えのある臭いに、ハンスはぞわりと首筋の毛を逆立てた。
「――顔に傷がある男か」
急いた様子で訊ねたハンスに、店主がにやにやと笑い返す。
「そうともよ。額から胸にかけて真っ直ぐにな。ありゃあ相当の戦士だぜ」
瞬間、弾かれたようにハンスは店を飛び出した。
青春だなんだと好き勝手な事を言っているのが雨音の向こうで聞こえるが、そんなことを気にしている場合ではない。
テペウが千宏を連れて行った。
ヒトの悲鳴と嬌声の区別もつかない人間が、逆らう力も、爪も牙も魔法も無い、叫ぶことしかできないメスヒトを。
結果は目に見えている。穏やかな種族だって、うっかりすると千宏を壊しそうだったのだ。だというのにトラが。その中でも特別屈強なテペウが、ヒトをまともに扱えるはずがない。
雨の音がうるさかった。いつもならば遠くからでもよく聞こえる宿屋の音が、今日はひどく聞き取りづらい。
空が光り、雷鳴が轟く。
ハンスは舌打ちした。
雨は臭いを奪い、雷の臭いは嗅覚を鈍らせる。
どうしてこんな時に限って雷雨なのだ。ハンスはすぐ近くの宿まで全力で走りぬけ、真っ直ぐに自分達の部屋に飛び込んだ。
いない。
部屋に残る千宏の残り香は、おそらく数時間は前のものだ。
「くそ……くそっ!」
ハンスにしては珍しく忌々しげに悪態をつき、そのまま窓から下の道へと飛び降りた。
テペウの宿を探さなければ。
だけどどうすればいい。どうやって。
ただでさえ、大きな街は臭いが混ざって判別しにくくなると言うのに。
ハンスは軍人であったが、調査や追跡の訓練などろくに受けていない、使い捨てのコマだった。軍人と言っても、本当に末端の末端だったのだ。
ばしゃばしゃと水しぶきをあげ、闇雲に中央通を駆け抜けていたその時である。
「ハンス! おい待てハンス! 俺だ! ブルックだ!」
突然背後から呼び止められ、ハンスはぎょっとして振り向いた。
土砂降りの雨で視界が利かない。だが駆け寄ってくる姿はどうやら、確かにブルックのようだった。黒い丈夫そうな傘をハンスにやや差しかけながら、怪訝そうな表情を浮かべている。
「どうしたおまえ、こんなとこで。ずぶぬれじゃねえか! おまえ一人か? チヒロはどうした」
「チヒロが――」
話そうとして、しかしハンスは一瞬躊躇した。
ここでブルックに事情を話せば、きっとブルックは協力してくれるだろう。カアシュやカブラの協力も得られるに違いない。
だがそうしたら――そうしたら、自分の無能を晒す事になるのではないか。
そうしたら、どうなる。
千宏はハンスを護衛から解任するだろうか。それとも、カブラたちがハンスを役にたたないと断じ、千宏から引き離すだろうか。
そうしたら、どうなる。
そうしたら――。
「ハンス?」
はっとして、ハンスはふと、ブルックからテペウの臭いがすることに気が付いた。
こんな時間にこんな所にいると言う事は、きっと酒場からの帰りだろう。ひょっとしたらテペウと顔を合わせたのかもしれない。
そうだ。
そうだ。千宏が――テペウに壊されるかも知れないんじゃないか。
助けなければ。なによりも優先して、どんな事よりも真っ先に、助けなければならないんじゃないか。
「チヒロがテペウに連れて行かれた」
「――は?」
突然のハンスの言葉に、ブルックは面食らったように聞き返した。
その少し向こうで、見事な金髪のトラ女が、待ちかねた様子でブルックを呼んでいる。
「たぶん、テペウの宿にいるはずなんだ。雨と雷で鼻が利かない。今日、テペウにあったんだろう? 頼むブルック、助けてくれ……!」
ようやく、ブルックも状況を理解したようだった。
そして、すぐさま女のほうに振り返る。
「カキシャ! おまえテペウに抱かれたことは!」
「ちょっと! あたしを誰だと思ってんのよ? あたしみたいな上玉を、あの女好きが放っておくとでも思うわけ?」
「あいつの宿は知ってるか!」
そうねえ、と。腰に手を当てて女が悩む。
「結構すぐそこ」
笑って、女は片目を瞑って見せた。