木登りと朱いピューマ 第7話
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~ 7 ~
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「サヤ・ピスカ・ピュマーラ、陛下の娘が参内いたしました」
入り口に垂れ下がる幕の向うに朱奈が言う。
一拍の間の後、彼女はその幕をくぐり、
俺も道中で言われたとおりの作法で、左右に振れる尻尾に着いて歩き出した。
広い板間の中央まで進み、設けられた円形のクッションのようなものに俺たちは着座した。
「よくぞ参った、妾が娘」
前面を覆うように広がった御簾を通して、
母娘だから当り前なのだが、朱奈と似た声が重々しく響く。
「この度は、急な参内をお許しくださいましてありがとうございます」
ここに来るまでの話では、『ヒト』はイレギュラーだ。
あくまでこの世界に住む人間の所有物である以上、じっと『物』のようにしているべきだった。
二人の会話に耳だけを傾ける。
「善き哉。娘が母に会うのに何の理由が要ろう」
「もったいなきお言葉。母上も息災に過ごされているようで、わたくしも安心いたしました」
「うむ。そなたの担当……ピュカ=ソクタ組であったかの。エルクェたちも元気か?」
「はい、母上。それも母上の賢政の賜物でございましょう。
健やかに、すくすくと、びっしりと実ったとうもろこしのように逞しく育っております」
「ふ、ふ。今にも弾けんばかり、とな。そなたもなかなか言うようになったの」
「陛下の娘でありますから」
「これ! そのような時だけ『陛下』などと申すな。そなたに言われるのだけは我慢できぬ」
「いえ、陛下。……これ以上他愛なき母娘の会話を続けていましたら、
ママ・キヤも呆れてその御姿を隠されてしまいましょうから」
「それも然り。……ママ・キヤの見守りくださるうちに、女同士の密談は済ませぬとな」
「はい、陛下」
「そなたからの書簡は目を通した。
急を要する事、独自での判断は越権である事、そなたの判断は正しい」
「ただ……その者を連れてくるのは解せぬな、妾が娘よ」
張り詰める、空気。
今までいないも同然の扱いを受けていただけに、背筋がひやりとする。
しかし簡単に動いてしまうわけにもいかず、体をぎしりと硬くするだけで精一杯だった。
「お戯れを、陛下」
しかし、朱奈はそうでもないようだ。
やわらかいその声に体の力が抜けてくる。
「仮に、わたくしのみの参内をお望みであるならば、今この場にある円座は唯一であるはず。
フユキの席も同時に設けていることと、それは矛盾というものです」
「うむ。言われてみれば、そうであるな」
朱奈のお母さんの声も険が取れた。
「驚かせてすまなんだ、ヒトよ」
御簾の向う、陛下が語りかける。含み笑いを感じるのは気のせいではないはずだ。
…からかうような悪戯というか悪ふざけを繰り出すのは、血なのかもしれない。
しかしそれでも、背中の汗はひいてはくれない。
何も言うこともできず、頭をさらに下げた。
「娘より説明は受けたのだが、やはりそなた自身から聞きたい。
……そなたは誰だ? 落ちたるヒトよ」
「……恐れながら、初めて御意を得ます、陛下。フユキと申します。『ヒト』の──」
飲み込んでしまった飴玉のような閉塞感をどうにか吐き出し、言葉を搾り出す。
震える声音は押し隠せているだろうか。
こちらの世界に助け上げててくれた朱奈に、恥をかかせたくはない、それだけを願った。
「表をあげよ」
静かだか有無を言わさない調子で遮られる。
得体の知れないモノに引っ張られるように、自然と眼が上がっていた。
「あちらの世界では姓を猪狩、名を芙雪。フリーの出版翻訳家をしていました」
御簾の向うで見ることはできないが確かに、陛下の姿を、感じ取らされていた。
「うむ、いい面構えなヒトであることよ。礼儀も一応、備えておるではないか」
「恐れ…いります…」
「出版翻訳家、とな?」
「は……。『ヒト』の世界では生活する地方ごとで、主とする言語に差異がございます。
同様に文化も様々。各文化において著される書物言語も例外ではありません」
「……」
「私の仕事は、その差異を埋めるべく異なる言語を理解し、
同国の民に書物、出版物としての異文化を紹介することです」
どうにか言い終えた。しかし、
転瞬、背筋が凍る。
「!?」
見えないはずなのに知覚できる。捕食者のような眼光が全身を貫いていた。
「それは、随分と危険かつ重要な仕事であろうの。──『間諜』とは、さて」
……冗談では、ない。
よりにもよって、間諜──スパイとは!
「とんでもございません、陛下。誤解です!」
必死に叫ぶ。
「誤解とな」
「は、はい!『ヒト』の世界では各地で紛争はあれど、おおむね平和だと言える世界です!
……自身とは違う文化を知る……それは確かに敵対行動の一環とも言えるでしょう」
「だから間諜と言うておる」
「では、陛下。お聞きします、人間はなぜ争うのでしょう」
「……それは当事者によって違うであろ。そなたの意見でよい」
「恐れ入ります。未知に対する不審、恐れ、それこそが争いの一因であると私は考えます」
一気にまくし立て、切れた息を吸う。
上座からは何の反応もない。
「向い合った相手が何を考えているのか、分からない……
もしかしたら、何か腹黒いことを考えているかもしれない……
いや、果たして……自身と同じ『ヒト』なのだろうか……、と」
心臓が、頭が、割れそうだ。
「そうならない為の一つの手段として、私のような職業があると信じています!」
「例えば──」
ちらと朱奈を見る。
「お世話になりましたエルクェ・ワシにあったような絵本。
『ヒト』の世界各地に散らばる絵本、ただそれだけでは、異文化の壁を乗り越えられません」
弁を振るうことに驚くことなく、見てくれていた。
「そこで、私のようなものが間に入ることでその垣根を良い意味で破壊し──」
その見守るかのような二つの光に、さらなる勇気を振り絞った。
「異文化の絵本を読者自身の言葉で理解することができます。
……どこの『ヒト』も同じ『ヒト』なのだと、変わらない『ヒト』だと知ることができるのです」
「不審も、恐れも拭い去ることができるのです、陛下」
頭を再び下げた。
緊張と「無礼だったかもしれない」恐怖で口の中がカラカラだ。
そして、ひどく不味い唾を何度となく飲み込んで──
「ふ、ふふ。この妾にそこまで吐けるとはの。無知とは恐ろしいものよ。しかし──」
冷たい眼光はふいと消え、
「自らを信じ、不当な謗りを跳ね返す力。そなたの熱意は受け取った、フユキ」
「…………有り難く存じます、陛下」
深く深く、安堵の溜息をついた。
再び俺に顔を上げておくよう命じた陛下が、さらに矛先を変えて続ける。
「ところで、やはり本人に聞くのが一番であったな、妾が娘よ」
「は……?」
「分からぬか、愚かな娘よ。前言撤回ぞ。
やはり、そなたの性格はまだ爪の出し入れすらできぬ頃から何も変わっておらぬわ」
御簾の向うからいかにもうんざり、な溜息が聞えた。
「上意を、測りかねますが……」
「このような……ええぃ、妾にこのような、度の過ぎた恥ずかしき賛辞を吐かせる気か。
牙が浮いて飛んでいってしまいそうぞ!」
そんな愚痴のようなものと……御簾の下のわずかな隙間から、束ねられた板きれのようなもの。
斜め前に座る朱奈に向け放るように滑ってきて止まる。
「そなたの書簡は極めて主観的、且つ非常に偏った情報だと言わざるを得ぬ。
この者の社会的な情報なくして判断できると思うたか」
遠慮のないぴしぴしといった声に、朱奈の耳が落ち着きなくぴくぴくと動く。
「大方、『拾った』興奮で舞い上がっておったのであろ」
肩甲骨まで伸びる朱色の髪から垣間見る首筋が、みるみるうちに赤くなる。
さらに尻尾の先で「の」の字のようなものを書いている。
「ああ、またそなたを放置して話を進めてしまったな。許すがよい、フユキ。
この呆けた娘は、ゴムの樹液のようにそなたに──」
「母上!」
慌てたように朱奈が叫んだ。
「……ふむ。書簡が届いてから随分と時間が経つが、まだ話すべきことを残しておるようだの。
しかも一番大事なことを伝えておらぬとは」
「申し訳、ありません」
「ならば、もはや一刻の猶予もままならぬ。……先程放った書簡の戻しを開いてみよ」
朱奈の上体がわずかに傾ぎ、板切れを広げ、
「陛下、これはあまりにも──」
半ば悲鳴のような声が通る。
俺はといえば、さっぱりな展開に全くついていけない。
「断が甘い。楽観したか?
反論は許さぬ。サヤ・ピスカ・ピュマーラよ、今晩【ニヤトコ】を発動せよ」
「そのようなこと、必要ありません! 陛下もご確認なさったはず。フユキには──」
依然、朱奈の叫びは止まらない。
「くどい!」
わんわんと耳に響くような怒声は一時、主従二人の心臓を止めた。
「このような事態そのものが、そなたの責任ではないと誰が証言してくれようぞ。
結果のみ、妾と皇族院は求めることを知っているであろ」
「【サヤ・クサ】様の御教えを、皇族たるそなたがないがしろにするとな!?」
「…………」
「…………」
近くに落ちた雷が、家全体をびりびりと震わせるように、
強烈な圧迫感にただ圧倒されていた。
そして、その話の内容が俺という『ヒト』に関することだろうということもそれとなく感じていた。
僅かに視線を送ると、朱奈は顔を俯かせ何かに耐えるように歯を食いしばっている。
「承りました、陛下」
噛み締めた牙の隙間から、押し出すように。
「ただ──」
「ただ?」
ざあっと、朱奈が立ち上がり──
「実行方法に関しては、陛下のお指図は受けません」
「……」
「【ニヤトコ】の御教えは絶対であることを、わたくしは忘れていません。
そして、【サヤ・クサ】様があのような御考えに至った過程も存分に学びました」
宣言するように挑む彼女を、俺は仰ぐことしかできない。
「しかし、わたくしは」
くるくると朱色の尻尾が手首に巻きつき、立ち上がらされる。
「フユキをそのような目に合わせたくはないのです。……ええ、危険だとお思いでしょう。
ですが、わたくしなりの方法で、必ずや証明してみせましょう」
「失敗した、とお思いになられたらどうぞ、この身を如何様にも罰してください」
さらに引き寄せられ、彼女に抱きつく格好になってしまう。
……そして、左腕をぎゅっと抱きかかえられる。
「わたくしはもう──この方に、名を、授けられたのです」
「あ、ちょっ、まずいよ、朱奈。陛下にご挨拶を……引っ張ったら………あっ!……」
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~ 7+ ~
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騒がしく退出して行く初々しい二人を、
十代目皇后こと、サヤ・ウィニャーュチュンカ・ママ・ピュマーラは、
声をかけようとも、ひきとめようともしなかった。
閉じた扇をわずかにぱちぱちと開閉しながら、ただ時が経つのを待っている。
──そして、ようやく二人の足音が完全に去り、
「……」
優雅な所作で、傍らの壁にかけられた一本の縄を取り外す。
慣れた手つきでその縄を奇妙な形に結わい、そのまま反対の壁へ音もなく投げつける。
驚いたことにそこは小さな隠し戸を含んでいたようで、
壁板が作る暗がりが、結んだ縄を飲み込んだ。
即、若い女性の物静かな声が聞えてくる。
「承りました」
「善き哉。なるべく迅速に参内せよ」
「……恐れながら、その必要はないかと存じまする」
近侍──皇后である彼女の一番年下の妹──の言葉に、瞳が鋭くなる。
「末席ながら、そなた様も皇族院議員であろ。
会議の必要の有無はそなた様が決めることではない」
「いいえ、そうではございません、陛下」
「何を──」
そう言いかけ、唇をくっと引き結ぶ。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、───。
右、左、前、──。
加速度的に増える気配はあらゆる方角からこの参内の間を取り囲んでいる。
「ぬかったわ!」
吐き出すように叫び──にやりと口元を吊り上げた。
「入って来やれ。姉様方、妹様方」
二つある間の入り口から、続々とピューマ族の女性が入室する。
あらかじめ先行した幾人かの女性が、人数分の円座を素早くかき集めて設置している。
……やがてそう時の経たない間に、
皇后の下座には計29人の皇族院議員、全てが着座していた。
「まったく困ったもの。ママ・キヤに《影【ラクァハ】》の奇跡を願うほどのことぞ?
それも……皇族院議員全て、とは」
キンサンティンスーユに住まう人間は大なり小なり、その信ずる神々へと祈りを捧げ、
俗に言う神聖魔法を行使することができる。
特にピューマ族は母なる月夜神【ママ・キヤ】と親和性を持ち、
その司るところに関する奇跡を起こすことができる。
《影》は文字通り影に身を潜める奇跡。自らの気配を起ち、闇の支配する領域において、
絶大な威力を発揮する。
「しかも、妾たちを監視するかの如く……」
もちろん無闇に奇跡を行使することは禁じられている。
内密とはいえ、公式の場付近で軽々しく潜んだその罪は小さくない。
「御怒りはごもっともです、陛下。しかし、事はキンサンティンスーユの大事に繋がり得ます」
最前列のうちの一人の女性が発言し、
「国を案じたからこそ、敢えての愚挙であるということを御存知頂けたら、と」
すぐ左隣の女性も続く。
「しかも、あのサヤ・ピスカ・ピュマーラでございます」
「最近の噂の原因がここにあるやもしれぬとあらば」
「妾々皇族が、あながち無関係ではないと言えましょう」
間を計ったかのように、各所で上がる声。
「ふ、ふ、ふ。まあ善き哉。済んでしまったことをとやかく言っても詮無きことよな。
この罰は後ほど考えように」
集まった一同が微かな衣擦れの音とともに頭を下げ、再び起こす。
「事の始まりはやはり、あの昏睡事件であろ。あの娘もそう申しておる」
皇后は唐突に話し始め、その姉妹達も動じない。
それは突とした始めからなる会議の流れが、通常のことであることを物語る。
「そして、どうやら『ヒトの世界』へと浮幽したそうぞ」
頷くもの、隣同士で顔を見合わせるもの、眉をしかめるもの。
議員達の反応は様々だ。
「本来ならば、あの者を徹底的に調査せねばならぬことであるが──
──ママ・キヤが手引きなされていた可能性が、高い」
高貴な女性たちが一斉にはっと息を飲み、
「その御意志が何を指し給うか……創造物にして娘たる妾らには理解など叶わぬであろうが、
加えて、あのヒトもママ・キヤによって手引きなされた形跡が、ある」
今度こそはっきりとその場はざわめいた。
「それでは、【サヤ・クサ】様とほぼ同例ではありませぬか!」
「よりによって雄のヒトを、ママ・キヤが導くのでしょうか!?」
「早急に、あのヒトの捕縛を検討すべきです……!」
「姉様方、妹様方。静まり為され──」
立ち上がる者こそいなかったが、混乱を極めそうだった姉妹を深い声でたしなめた。
「あのヒトへの戒めは……サヤ・ピスカ・ピュマーラに一任したほどに」
しかし、降り立った静寂の幕は即座に払われることになる。
「それこそ信用できませぬ! あろうことか【ニヤトコ】を無視するなどと……」
最後列中央に座した一人の女性が高い声を張り上げ、
「聞き間違いであろ、プハクシィの妹様。あの者は申した、必ずや証明する、と」
「今からでも遅くありませぬ、陛下。大至急チャスキを飛ばして──」
聞く耳も持たず、彼女はさらに私見を展開。そして、
「──黙りゃ!!」
落ちたのは、皇后の大喝。
何もプハクシィ議員の意見は彼女一人だけのものではなく、
その他にも数人、彼女に乗るように言を交わしていた議員もいたものであるから、
その落雷に、反対勢力は揃って耳を伏せることになった。
「プハクシィの妹様は、妾の断を愚弄するか!?」
皇后の怒りは未だ収まってはいない。
「いいえ、陛下。そのようなことは決して……国を案じ」
「それは既に聞いたぞよ! ……そもそもそなた様は影に潜んだのみ、
あの二人を一切止めなかったではあるまいか!」
「それは」
「違わないであろ。それこそ妾を頼みにした何よりの証拠であろ。
木を隠すのは密林の中、一人立ち向かう強さの無かったそなた様の負けぞ!」
「……仰る通りで、御座いました」
「ふむ。ちなみに妾は今、思いついた」
「は……?」
何の脈絡のないその放言は、皆の首を傾げさせる。
しかし皇后は構うことなく、怒りを引き摺った勢いのままに続けた。
「十代目皇后の名において、プハクシィの妹様に罰を申し渡す。結婚式の全権を担い、
彼女らを祝福することに全力を注げ。方々の罰も同様、妹様を助けて差し上げよ」
そしてこれまでの怒りが嘘のように、
にかりと笑ったのだった。
「陛下、一人だけ楽しんでらしては御無体にございます」
「妾らにもその破顔の元をお教え下さい。一体何方と何方との結婚式なのです」
折角直った皇后の機嫌に姉妹達は喜びこそすれ、
一体何を喜んだらいいのか、分からない。
「揃いも揃って泥沼にはまってしまったが如き顔をしておる……たれか閃いたものはおらぬか?」
皇后は咄嗟に閃いた案を妙案とほくそ笑み、議員たちを惑わせることが楽しくて仕方が無い。
「ふふ。もちろん──
サヤ・ピスカ・ピュマーラとフユキと申すヒトとの式に決まっておろ」
「!!!!!」
参内の間を、一色を除いた二十九色の驚きが彩った。
「公にはあの二人の仲を祝ってはやれぬからの。
一族内で密やかに祝うくらいはやってもよかろうほどに……」
その顔は確かに娘を想う母の顔であったと、皇族たちは後に回想したと言う。
しかし、それは所詮後の物語。
「ちいと説明不足が過ぎたかもしれぬ………くくっ。
浮幽中に獣のピューマの姿をとっていたあの娘は、フユキによって『名付け』られたそうぞ。
先ほどあの娘が申したのを聞いたものもいるであろ」
その言葉に、またもや一族は思い思いに色めきたった。
「サヤ・ピスカ・ピュマーラは『名受け』したと言いますの!?」
皇族としてキンサンティンスーユに生を受けた女子は、誰しも皇后となる権利を有している。
それを皇位継承権と言う。
確かに、その時点では何者でもない。
しかし、皇后──国を治める唯一の者──になり得る以上、
特定の誰かの特別な存在になることは許されない。
なぜなら、国に住まう全ての民にとって等しく特別となるのが皇后だからだ。
皇族女子は、皇族であることを示すサヤの文字と形式的な数詞とが名前に付与される。
思い返して欲しい……サヤ・ピスカ・ピュマーラの意味を。
意味を取れば、ひどく機械的な型番のような印象を免れ得ないであろう。
皇后になる予定の未完成製品と極論づけても、何ら不思議ではない。
『完成品』となるまでその身を民と同様に扱わない、扱われないのは、半ば義務なのである。
しかし、皇族とて人間。
心を通わせ、一生を誓う者と出会うのもまた必然。
そうした場合効力をもつのが、夫となる者からの『名付け』である。
名付けの意味はすなわち、妻に新たな名前をつけること。
形式的な名前を廃し、特定の誰かの特別な存在となったことを周囲に認めさせるのだ。
夫からの名付けに、妻となる皇族が『名受け』することで皇位継承権を放棄。
さらに、皇族院の一員となることが同時に義務づけられる。
ただし正式な議員登録は皇后の姉妹に限られるため、
母親が在位中に結婚した場合、見習議員として正式議員の補佐をすることになる。
「絶対にそのようなこと、許しませぬ!」
最後列最右の座で突如、声が立ち上がった。
不気味にしわがれた声が、年齢を感じさせながらも整った容姿を完全に裏切っている。
「許すも、許さないも、あの娘が決めたのだから仕方あるまい?」
皇后はそちらを見ようともしない。
「しかし、エルクェ・ワシでの成績も見事。人柄も温厚、信仰心にも篤い彼女が……」
その音を隠そうともせず、牙を打ち鳴らした。
「よりによってヒトに名付けられ、皇后への道を閉ざされてしまうなどとっ!」
「ヤヤの姉様が、サヤ・ピスカ・ピュマーラに特段目をかけていたのは承知しておる。
……あの娘も姉様を慕っておる」
ここで初めて、皇后は自分の長姉を見た。
「しかし、姉様。人生というものは所詮、他人の入る隙間なぞないのだ。
そして一つ訂正……名受けしたことはあの娘自らの選択。自らで皇后の道を閉ざ……」
「この件について、妾は降りさせて頂きます。《影》の罰は何かほかの形で与えて下さいませ。
行きますわよ、プハクシィ、チュム」
皇后の言を最後まで聞かず、衣を翻すと許可も取らずにずんずんと退出してしまう。
残された姉妹たちは一番上の姉の暴挙に怯えるように、皇后へとすがりつく視線を集めた。
「善き哉。構うな。ああ、もう、プハクシィの妹様も気にするでない。
大方先ほどの言もヤヤの姉様に含められたのであろ──姉様のそばにいてやってくれぬか……」
そうして「すまぬ」と頭を下げた。
「陛下、そう容易に頭を下げないでくださいませ……それでは行きましょう、チュム」
後列、二人の姉妹がそろって退出した。
参内の間を微妙な空気が漂う。
一様に気まずそうな、いけないものを目の当たりした戸惑いを見てとれる。
「ヤヤの姉様も、可哀相なお方ぞ……」
皇后も眉間に谷間を作り、低く呻いた。
「……しかし、陛下」
「む」
一番最初に発言した女性が、様子を伺うように会議を接ぐ。
「妾も恥ずかしいことながら一抹の不安を覚えるのでございます」
「キュクサの姉様……」
年輩の議員としてまとめ役でもある彼女に、安堵の息をつく。
「妾ですらそうなのですから、経験の浅い妹達の不安もいかほどか。陛下の御配慮を賜わりたく」
皇后はこの姉には何度頭を下げてもいいと思っている。
感情を荒げてしまうこの性格は、生の表情を見せることで周囲を惹きつける何かを持っていると、
皇后自身で理解している。
しかしその分、付いて来る周囲に死角があることも確かだった。
遅れがちな者、温度差を感じてしまう者、そういった者を慮り姉妹全体の調和を助けるのが、
この姉が自らに課していることだった。
「若い二人の行方を心配するのもまた自然よな……」
改めて下座を見渡すと、確かに表情を曇らせている議員がいる。
「ふふ、ふ。妾も全く手段を講じていないわけでもない。
完全なる信は、日の光を曇らせるだけであるからの」
「では、何らかの……?」
微笑みながら相槌を打つキュクサ議員。
「方々には、今晩中この場にいてもらう必要があるかもしれぬ。協力してくれるかの?」
「も、勿論で御座います! 妾ら皇族は陛下をお助けもっ、申し上ぐる為に在るのですからっ!」
中央やや左後ろから声が上がった。
どもりながらも一気に言い切った彼女は、下から三番目の妹。
皇后を特に慕い、それこそ唯一絶対と信じて疑っていない彼女の姿勢は、姉妹達の微笑みを誘う。
「有難き言葉……方々には感謝の慈雨を」
「陛下に、不惜の恵光を」
やや形式ばった物言いが下座全体から返ってくる。
「それでは、種明かしと行こう……これを」
そう皇后が取り出したのは巨大な真珠が象嵌された大理石だった。
ピューマ族にとって真珠は特別な宝石である。
月を模したような輝きは遥か昔から好まれ、神から授けられる奇跡を増幅・抑留させる。
透明性は持たないが、その見えざる核となる物質を多様化することで様々な効果をもつ。
さらに『ヒト』の世界で言うツインパールは、希少性からも核の組み合わせからも、
高貴な身分の者しか手に入れることを許されていない。
(朱奈が俺のことを大事にしてくれているのは、分かりきってる──うぬぼれかな)
(そんなこと、ありませんよ。……うぬぼれてもらって構いませんよ?)
その象嵌物から聞こえてくるのは、彼女らが今最も気にかけている二人の声。
「これは……」
皇后の手元から一転、皇后の瞳が姉妹のそれを集める。
「方々には逆に怒られてしまうかもしれぬな。
ママ・キヤに《蜘蛛糸【クシクシ】》の奇跡を願ってしまったのだからの……」
《蜘蛛糸》──対象に向けて付着させる、不可視の神力製の糸である。
対象を絡め取ることを目的にした奇跡ではなく、
対象付近の音声を振動として感知、行使者に伝達することを目的にした奇跡。
ちなみに皇后の取り出した象嵌物は、この場合音声の発言体として使用されている。
「あの娘もいい気はせぬだろうが……許せ、これも務め」
しかし口調とは裏腹に、皇后はにやけている。
「方々の不安も尤も。ここは二人の様子を見てから、次回の会議の必要性を語ろうぞ?」
「陛下、これは悪趣味と申すのでは」
キュクサ議員も苦笑いを隠せない。
「くっくっく。ここまで来たら開け広げにいこうではないか。
最近、娯楽が少のうて日々を退屈させておったところ」
この頃になると姉妹達にも皇后の意図が見て取れ、ひそひそと囁き合う。
生娘のように頬を赤らめる者あり、喉をごくりと鳴らせる者り、目をきらりと光らせる者あり──
「これ、静まり為され。あの娘とあのヒトと──シュナと呼ばれておったか、善き名ではないか。
シュナとフユキとの【ニヤトコ】を堪能させてもらうとしよう、のう? 方々?」
「…………」
立てられたのは、沈黙という名の白看板。
「─────!!!!」
しかしそれは、女性特有の黄色い歓声で一色に、一気に塗り潰された。
「善き哉? 妾々は監視という名目で仕方なく……であることをゆめゆめ忘れるでないぞ」
そうした皇后の声は姉妹達に届いているのかどうか。
もう下座は興奮のままに、息を荒げて小集団を作りながら語り合っている。
「その際、じっとしているのも苦痛であろ。飲食を許可しても不思議ではあるまい。
係りの方々、頼むぞ」
元気のよい五通りほどの承諾の返事が返ってくる。
転がるように参内の間を出ようとするその集団に──
「──加えて、先ほど奇跡を行使した罰を妾も受ける。
秘蔵のチチャ酒52年ものを取り出して来やれ。方々で、分けようほどに」
……皇館の一室における興奮は、止まるところを知らない。
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~ 7++ ~
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──カッ、カカッ、カカッ
俺には分からないどこかに向けて、朱奈はリャマを進ませている。
二人とも皇館を出てから終始無言だった。
朱奈が見せた激情の名残がそうさせたのかもしれないし、
ただ単にお互いがお互いを盗み見合っているだけなのかもしれないが。
来た時と同じように、道の両脇には等間隔で蛍光柱が並び、
幾らか強さの増した黄緑色の光がぼんやりと地面を照らす。
「なあ、朱奈…」
「……」
朱奈からの返答はない。
それでもなんとなく、だらだらと話したい気分だった。
「朱奈を拾ったときのこと、言っておいてもいいかと思うことがある。
……俺は決して助けようと思って家へ連れ帰ったわけじゃない」
俺はかなり周りくどいと、よく周囲から言われる。
言いたいことはさっさと言え、と。
「ひどい魔が差したというか、
あ、いや、この言い方だと悪いことをしたような感じがするな……。
あー……衝動買い…、のようにね。
なんだか分からないけど、持って帰ってしまったんだ」
しかし、色々と話すことで見えてくることもあると、俺は思う。
「そこからは朱奈も知っているだろうけど、一応介抱らしいことはした。
しかし、俺はそれまで犬や猫など飼ったこともなかったから、
本当に、適当にやっただけなんだ」
まっさらの自分を見て欲しいというのは、ひどい傲慢だが、
少しだけでいいから、知って欲しいと思うのはそうではないはずだ。
「もし、あのままぐったりとしたままだったら獣医を呼んできただろうし、
もし、飼主を探そうなんて気になったらそうしていただろうし、
もし、野生に返そうなんて思い立ったら、父に頼っていただろうし」
俺にとって朱奈はすでにそういう存在だった。
人間とピューマだった頃から、『ヒト』と『人間』になった今でも。
俺は朱奈のことが知りたいし。
朱奈に俺のことを知って欲しい。
「ただ、あの時の状況が朱奈にいいように運んでいただけで、
朱奈からすれば都合の悪いことになったかもしれない」
「……」
「もちろん、それは俺の身勝手な思いであって、
おそらくそうなった時には、朱奈にとっていいことをしている気になっているはずだ」
「……」
「だから…その…俺に遠慮なんてすること、無いんだ」
「……」
「自分の立場を傷つけるようなことを、して欲しくない、朱奈。
せっかくの母娘の関係を崩すようなことを、して欲しくない」
「朱奈が俺のことを大事にしてくれているのは、
分かりきってる──うぬぼれ、かな」
「そんなこと、ありませんよ……うぬぼれてもらって、かまいませんよ?」
ようやくにして、軽やかな声が呟いた。
それでもその声音は深い何かを含んでいるように感じた。
しかし、今の俺では彼女の心の内を探ることはできない。
とりあえず、会話のきっかけを生めたことを喜ぼう。
「……この世界は、朱奈の世界なんだから、
自分を一番大事にしたって誰も文句は言わないはずだ」
「まあ……それでは、フユキは一体何番目に大事にいたしましょうか」
「え…ぅ…隅っこの方で、いいよ」
「フユキは謙虚ですね」
「というか、その質問は反則だろう、朱奈。
変数が式に対して多すぎる。
だいたい、解を導き出すとしたら『傲慢』と『謙虚』しか出てこないだろ」
「ふふふ……『自惚れ』てもらって構いませんよ?」
「む」
──カッ、カカッ、カカッ
己に乗せられた鞍の上で、何かと何かがやや大きめに左右へ傾ぐ。
硬くなめした皮製のそれに体毛が巻き込まれて、
彼はひどく機嫌を損ねた。
鼻息一つ、わざとらしく伝えると、
主人は口先だけの謝罪を繰り返し、また楽しげに笑い出す。
なんだかむしゃくしゃして、胸のむかつきごと下品に一つ、げっぷを吐き出した。
しかし、それすら主人とその連れには面白いらしく、
彼はもう、心底どうでもよくなった。
早くかさかさに心地よい干草の寝床に体を横たえたい。
そこで彼は気づいた。
太陽が沈むまで丹念に整えた寝床も今頃古びた女房に占領されているだろう、と。
この疲れた体を労わってくれるのが、どろどろに汚れた干草と女房の糞であるならば。
……。
どうしてやろう、こうしてやろう、ああしてやろう。
決して実行できるはずのない作戦を練るのが彼の精一杯で、彼の日常でもあった。