猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

夜明けのジャガー06

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夜明けのジャガー 第6話

 
 
   §   §   §
 
 
 事件の晩は雨季の終わり、雨は細かったが雷の大きく鳴り響く夜。
 まず最初に気付いたのはチタラだった。
 この黄土色のオセロットは456期生の中ではいくらか年上になる。
 何を思ったのかオセロトゥスーユにある本格的な医療研究所を退所し、軍養成所に入り直した変わり者だった。
 そのチタラは夜遅くまで参考書を広げ、耳栓で雷鳴を遮りながら知識を蓄える作業に没頭していた。
 そして一段と大きな落雷に数人が目を覚ましたときだ。
「……みんな、ちょっと起きてくれ。何か……おかしい」
 耳栓を外したチタラが言った。
「変な地響きがした」
「まあ、すごい雷だが」
 少々的を外した返答をしたのはユパ。
 まだ戦士としての爪牙は短く、大人と子供の中間にいるような年齢では、自分の眠気の方が大事だろう。
 錯覚とごまかすのに忙しく、そもそもここは安全もいいところではないか、とユパは思う。
「そうじゃなくて、耳栓してたから雷は少ししか」
「雷鳴の裏で何が震えたあ?」
 少々語尾を伸ばす癖のあるのはサッリェ。
 なかなかつかみきれない男で、誰も彼の過去を知らない。
 しかしこのオセロットの言うことにはいつも、後になってはっと気づくような重みがある。
「ま、ま、みな聞けえ?」
 再び眠りにつこうとする同期の面々を声をかけて引き止めた。
 彼は間延びした口調ながら、異変の欠片を少しだけチタラの様子に見ていた。
「っせぇなぁ! 疲れてんだよ。寝させろよ!」
 見せ付けるようにいらいらと毛布を引っかぶり、中でくぐもった大声をあげるのはサキトハのようだ。
 彼は昼間、うっかりこぼした愚痴を教官に咎められ、罰として悪名高い「支え」をやらされたので不機嫌そうだ。
 「支え」では、腕立て伏せの体勢で肘を伸ばしたまま、延々とその姿勢を保たなければいけない。
 非常に辛い。やった者にしかその辛さは分からないだろう。
 
「チタラ。聞かせてくれんか?」
 ようやく寝ぼけた頭を晴らしかけているユパが、こんもりと盛り上がった毛布を見ながらチタラを促した。
 ユパはサキトハとは妙に合う。意外だ、意外だとは言われているが、気が合ってしまうのだから仕方がない。
 おそらくサキトハは口だけで実際聞き耳を立てているだろう。そういう男だ。
 それに、サッリェがさりげなく身支度を整え始めたのも気になっていた。
「うん、分かった。雷鳴に重なる感じで微妙な振動……異常な地響き、かな。それを感じた。
 多分それは南……南にあるのは厠、女子寮、弓場、格技場」
 チタラは学問を深く修め、その前身もあって同期の勉学を見てやってもいる。
 それゆえに筋道を立てながら話す。こういう場合、口調がゆっくりになるのもチタラだ。
「お前の勘でいい。言え」
 またもや毛布でできた山が僅かに動くのを一瞥しながら、ユパは単刀直入に斬り込む。
 もどかしさに牙をかんでいるだろうサキトハを代弁したつもりだ。
「……ごめん。多分、女子寮」
 その言葉に同期が詰まった大部屋が一斉に起き出す。
「現金なことだあ」
 サッリェは苦笑している。
「そういうことなら話は早ぇ。最近出るっつぅ下着泥だろ、いっちょ捕まえんぞ」
 それはサキトハも例外ではなかった。
「おうよ」
「ひひ、やらいでか」
 追うように部屋の各所で声が上がる。
 サキトハは気紛れすぎると敬遠する者もいるが、ユパには分かる。彼はとびきり熱い男だ。
 
 
 
 誰しも経験があると思う。
 大勢で固まって何か秘密の行動を起こすのは、不思議な笑い出したいくらいの興奮を伴うことを。
 狭すぎる寝台群にあれよあれよと伝わった情報と計画は、456期生第三組、男子総一致をもって発動した。
 予め六班に分かれ、一班から四班が細雨と轟雷にその身を隠すように女子寮の周辺を探索していく。
 五班はさらに外周を警戒。六班は、数人が中央で指揮をとり、残りは各班に混ざるように通信を担当している。
 
「サッリェ、チタラ。どうだ?」
 局所的な探索・調査などの細かい作業はだれよりもオセロット族が秀でている。
 伊達に隠密兵や撹乱歩兵の中核を担っていない。逆に広範囲の暗視能力についてはジャガー族が最も優秀だ。
「すごい、大胆なんだけど……こいつら」
「だなあ」
「こいつら、か」
 ユパはオセロットの二人に確認を取る。
「足跡消そうともしてねえ。おかしなあ?」
 そしてサッリェは弓場の矢道がこれでもかと乱れている方向に顔を向けた。
 ほかの探索第二班の面々も彼に倣った後、ユパへと視線を集めた。
 小雨は依然として班員たちの毛並の先に、丸い水滴を浮かび上がらせていた。
「どうするよ、ユパ」
 いかにも重そうな槍を背負ったサキトハが問いかけた。こうして彼らのほかにも、班員にはユパとは仲のよい者が集っている。
 
 なぜかユパは班長に選ばれていた。本人としては自分の性格を鈍いだけだと思っているが、
 他人はそれを長にふさわしい落ち着きや冷静さと感じてしまうようだ。
 しかし今、ユパは不満をたれている時間はないことも自覚していた。
 連絡をとることにし、班員の一人に目配せをする。
 小ぶりの斧を腰からぶら下げた一人のジャガーが、待ってましたとばかりに楽しそうに、手早く縄を結んだ。
 結縄【キープ】は結び方次第で、さまざまな情報をもつ。
「痕跡……逃走……南南東……こんなもんか」
 そして通信要員である彼は、結縄【キープ】を夜闇に大きく投げた。
 実際の戦場では、奇跡による遠隔操作でよりすばやい通信が可能だが、訓練生に可能なわけもない。
「……よっと。ほらよ、ユパ」
 すぐさま原始的に投げ返されてきた通信縄が、ユパに手渡された。
 しかし、それはひとつではなかった。次々に、いくつもの【キープ】が闇を飛んでくる。
「いいねぇ。はっ、やっかみも悪くねぇ」
 隣で覗き込んでいるサキトハは水滴の浮いた髭をピンと跳ね上げるようにしてほくそ笑んでいる。確かに、とユパも思った。
 他班からいっせいに投じられたキープはそれぞれ、ユパたちの手柄を称えつつも、悔しさと楽しさがあらわれていた。
 戦果を挙げるのにもっとも近く、厄介者を捕らえられれば女子から注目されるだろうことを考えれば当然だ。
「追跡に移行。いくらかここに残れ。他班とのつなぎだ」
 投げ返す必要のないキープをしまいながら、ユパもうきうきした様子を隠そうともせずに言った。
「ユ――」
「残りは弓射場側から迂回、追跡する。作戦【ウィプハル】――」
 サッリェが口を挟もうとしたのは分かったが、気負いまくっている班員を見て口をつぐんだようだ。
「開始【オクハル】。初陣だ」
 ユパは、不満だった班長の立場も悪くはないと思い始めていた。
 きらきらした仲間の眼光が自分を頼っているようで、それが心を沸きたてる。
 珍しいことににやりと気取って、お決まりの【ウィプハル・オクハル】を言ってみせたのも、そのせいだ。
 いまだユパたちは子供じみた興奮の最中にいる。
 
 
 
 一丸の斥候となった七人の若者は格技場の脇をすり抜け、敷地外の密林地域へと突入していく。
 「鏃(やじり)」の隊列を作り、周囲へ感覚を飛ばす。泥濘と、腐葉をはねあげて。
 ごろごろと鳴り続いていた雷はようやくにして、去っていた。
 七人分の駆ける音と、息遣いがいやに耳をつくようになった。
 闇の奥を追いやすくなったはずなのに、高く育つ密林が重くのしかかってくるような気さえする。
 何かがユパの心の内を侵して行く。それを表に出すわけにもいかず、無視する。
 もし、自分だけがそう感じているのなら、情けないと思うからだ。
「ユパ」
 後ろで後方警戒を担当しているサッリェが息も乱さず囁いた。
「嫌な予感がしてきたあ」
 ついに言葉にされた、そうユパは思った。
 まずいと思いつつも口を引き結び、止めなかった。後悔なら、さっきからずっと感じていた。
「泥の数が多すぎる気がしてなあ」
 今まさに跳ね上げている泥濘のことではない。
 ユパも薄々感じてはいた。ただ、誰かが口にするだろうと考えているうちに通り過ぎてしまった。
 森に入る寸前で足跡がかきまわしたように、さらにひどく乱れていたことを苦く思い出す。
「うん。何か作業していた感じ」
 二人の間で上方を警戒しているチタラも同意してきた。
 走りながらも、それでいてゆっくりな口調は、彼の頭が高速ではたらいている証拠だ。
 本来なら林に突入する前に話し合うべきだったのだろうが、誰もが勢いのままに走り続けてしまった。
 夢中に遊ぶ子供たちが、家に帰る時間を指している時計に気づかないフリをするかのように。
 楽しい時間を楽しいままにしておきたいように。
 ここに来てようやく、全員が異常を異常として認め始めた。
 七つの顔は、興奮を不安に、高揚を胸騒ぎへと変質させつつある。
「実行犯と輸送犯……か」
 ユパがもごもごと口を動かすと、いくつも頷く気配を感じた。
「贅沢なこった」
 左斜め前にいるサキトハが、走りながらべっと口から吐き出した。
 それは木々の幹に貼り付き、僅かな蛍光を発する。後詰めのための目印だ。
 
 (これは……おかしすぎる)
 単なる女性下着が目的の窃盗犯と断定するには入手した情報が危うすぎた。
 そもそも輸送員が必要なほどの大量な下着など、ありえない。
 食堂のおばちゃんたちの下着を盗みに入れるほど彼らは下着に飢えているとしか考えられない。
 (いや、冗談を言っている暇はない。バカか俺は)
 (後退すべきか……それとも警戒度を上げて速度を落とすか……?)
 ユパが迷ったとしても半人前の戦士にしてはよくやっている方だ。
 しかし、その数瞬の逡巡が抜き差しならない状況に、彼ら七人を追いやった。
 
 視界の広さでジャガー族が勝るなら、角度は狭いが強い指向性をもつのがピューマ族だ。
「察知。そいで、気付かれた」
 最も右にいる弓を持ったピューマが全員の感覚を急速に引っ張った。
 右前方に多数の気配を、七名全員が感じ取った。
「おい、やばいって。二つに分かれて……いや、一集団残った」
 輸送担当と思しき集団が左右に分かれて移動し始め、不穏な一団は足を止めたままだ。
「けっ、おっもしれぇ!やろうってのかよ、盗っ人風情が!」
 サキトハは早くも背から鉄槍を引き抜く。
「ユパ!」
「分かっている。急かすな」
 囁くように怒鳴りつけながら、ユパは蓄えたはずの知識を漁る。
 顔を俯け、流れる地面の風景をそれとなく目で追う。
「……シカムは右集団、ウリンナレは左集団に張り付け」
「了解っ!」
「分かった……」
 シカムもウリンナレもピューマ族だ。確実に集団を補足できる。
 三種族一の移動速度は、単身の身軽さもあって賊に引けはとらないはずだ。
 二人は目印用の蛍光塗料を口内に突っ込むと、左右に散った。
「……ワルルホは後詰めを引っ張れ」
「すぐに追いつくさ」
 ワルルホはジャガー族だ。
 猟師の息子だけあって視界は広く、行き届いている。通信要員でもある彼は情報をよく拾ってくれるだろう。
 ワルルホの斧捌きは惜しいが、移動役として適任なもう一人のピューマ、サキトハは方向感覚に難がある。
 左右に飛び出した二人に次いで、ワルルホが真後ろに走り去った。
 
「ユパ、よくやったあ」
 まず声をかけたのはサッリェだった。しかし、ユパの気分は重く、晴れない。
「チタラは下がれ。お前は」
「援護する……っ! ゲホッ、ゲホッ!」
 戦闘向きではないはずの彼が血気盛んに申し出た。その後にむせて咳き込んでしまったのは、御愛嬌だった。
 ユパもつい釣られて髭を揺らしてしまった。
「けっ! チタラも気合入ってんな。正直、見直した」
 好戦的な赤銅色のピューマは言うまでもないだろう。
 鉄槍を真っ直ぐに構え、一番槍を突かんと気負いがあふれ出ている。
「長は迷ったら、駄目だあ」
 背中をサッリェの小さな手が軽く叩いた。
 その拳は握りこまれてごつごつと固く、すでに小太刀を抜き放っている。
「……サッリェ。お前は、いろいろと気づいていたはずだ」
 言ってはいけない、この若葉色のオセロットの気遣いを無駄にする、そう思いつつもユパは口を開いた。
 追跡を決めたユパを注意しようとしてくれたのも、サッリェだった。
 なかなか言い出せない不安を、わざわざ今気づいたかのように言葉にしてくれたのもサッリェだった。
「止めるなら止めてたあ。こうなったら、持ってみい。自信を!」
 しかし彼はそんなことを言ってさえぎった。
「必ず、帰るさ、ユパ。なあ?」
 走りつつ横を向けばサッリェはいつもとまったく違っていた。
 口調はのんびりとしたままなのに、ぎょろりと瞳を剥き、鼻の穴を大きく広げ、すでに臨戦態勢だ。
 不思議な存在感をもつ彼が、気負っている。
 そしてユパをまっすぐに見上げ、頷いた。そのはっきりとした首肯。預けられた、ユパはそう直感した。
「……斬込は俺とサキトハ、援護はサッリェ、殿をチタラ」
 鉄錆色のジャガーはようやく前を向くことができた。後悔ならいくらでも数えられた。
 責任ある戦士となることはこれほどまでに躯だけでなく心も削るのだ――しかし、どうだろう。
 (この胸に沸き起こるのは恐れか……いや)
「応ッ!」
 命じられた三人が気持ちのいいくらいはっきりと、ユパに応える。
 (信頼に応えたい、勇気だ)
 
 
 
 最後の四人は密林の木々の間を縫うように疾走する。生い茂る上空の枝葉で、辺りは完璧な闇。
 しかし密林の民が瞳を輝かせれば、うっすらと見通すことができる。
 みるみるうちに居残った盗人集団へと近付いていた。
 しかしこの時、さあというざわめきと、闇夜を蠢く雷鳴が辺りを覆い始めた。
 一度去った雷雲が一周して戻ってきたらしかった。
 そして大きめの雷が何処かに落ち、雷光に浮かび上がったのは、なんと。
「なんだ、お前たちか」
 四人の見知った顔がそこにあった。速度を慌しく落としながらユパは叫ぶ。
「お、オグマ教官! なぜ、あなたが!」
 腕を組んでどっしりと立っているのは養成所の教官の一人、オグマ。玉蜀黍色のジャガー。
 訓練生には彼を慕う者もいるが、そういった訓練生はあまり柄が良くない。
 一方で、オグマの周囲にいる男たちは知りもしない。
 下卑た笑いを浮かべながらそのまた後ろの闇に声をかけたりもしている。
「こいつ、こいつらはっ!」
 班長であるジャガーの若者だけではない。
 他の三人も動揺を隠せないまま、浮かび上がる光景が偽りであって欲しかった。
「知っている」
 しかし、オグマ教官の返答はそっけない肯定だった。
 そして彼の教え子たちが速度を落としきろうとした、その刹那――。
「――げっ!」
 巨体から放たれた飛刀をかわしきれなかったチタラが、胸を押さえるようにして仰向けに倒れる。
「てっ、てめぇ! 何しやがるッ!」
 残る三人、密林の三種族それぞれの若者は俊敏にばらけ、足を最後まで止めようと踏ん張る。
 耐え切れずにユパは喉よ嗄れよとばかりに叫んだ。
 
   「教官っ、その――黒い皮鎧はっ!」
   「そうだ。お前たちが戦うべき――『草刈衆』だ」
 
 とても信じられないことだった。茫然とユパは思案の沼に入り込む。
 官軍であることを示す、紫色の皮鎧を着込むべき軍養成所の教官が。
 後ろにたむろする男たちと同じく、賊がまとう黒色の皮鎧を身に付け。
 しかも自分たち教え子に向けて小刀を投じ、チタラに命中させた。
 そのオグマというジャガーが、今、黒い戦爪を構えながら。
 自分に向けて一直線に突進してくる。
 
「しっかりしろお! ユパ!」
 暗視でぼんやりとした眼前に転がり込んできたのはオセロットの小兵だった。
 二振りの小太刀を逆手に構え、オグマの懐に入り込もうとする。
 しかし相手は難なく、サッリェを黒爪で弾き飛ばす。その剛力を受け流しきれず、宙を舞うサッリェ。
「よくもチタラを! クソッタレがぁ!」
 やや品の悪い罵声を上げて次に飛び掛ったのはピューマの槍持ちだった。
 鉄槍を突き込もうとして――その顔が引き攣る。
「ッシャア!」
 もしそのまま突き入れていれば、サキトハの首級は胴と永遠に別れを告げていただろう。
 危うくも黒い槍身を起こしてオグマの黒爪を受け止めたが、次第に押され始め、槍がたわんでいく。
「サキトハぁ!」
 ユパも最後ではあるが、状況を理解するに至った。
 オグマ教官はいまや賊の一人。自分たち元生徒を殺めようとしている。
 ユパは頭を低く上体を沈めると、側面に回りこむ。星型の鉄球が先端についた棍棒をオグマの足元に向けて放った。
 
「惜しい」
 オグマは片方の黒爪を下に向けて突き出し、ユパの打撃を遮る。
 (ほう……)
 二人を両側に手玉に取ったオグマはやや感じるところがあった。
 ざざ、という枝葉が揺れる音とともに、弾き飛んだはずのサッリェというオセロットが木の幹の上から彼に向け急降下してきていた。
 その表情は新兵にあるまじき落ち着きを見せていた。やや感心するも、戦慄とは遠い。
「実に惜しい」
 オグマの鍛え切った戦士の集中は乱れなかった。黒い戦爪を訓練生二人の得物に滑らせつつ、後方に重心を移した。
「なっ」
「うわ!」
「くっ」
 三者三様の呻きは重なり、一つの歪な塊となる。
 オグマという中心の支えを失ったサキトハとユパがたたらを踏み、そこに落下してきたサッリェも加わった。
 彼らは咄嗟に泥だらけになった体を離し、跳ね起き、それぞれの構えを取る。
 追撃は何故か来なかった。それもそのはず、賊の鎧を着込んだオグマが悠然と腕を組み、見下ろしていた。
 その歪んだ口元は完全にユパたち訓練生を侮りきっていた。
「おい、オグマ。遊ぶのもほどほどにしとけよな」
 背後の男たちからも侮るような気配。三人が聞いた事のある中で最も下品な嘲笑が輪唱となって繰り返される。
 さらに吐気がするほどむかつくことには、その汚らしい仕草に賊たちは一片の痛痒も感じていなかった。
「オグマ教官、皇后陛下がお嘆きになるでしょう」
 (俺は今、一度……死んだ。なのに、なのに、これは何だ)
 不思議と、ユパの口調は穏やかになった。
「卑しい"草の者の末裔"を、これ以上仰げるものか」
「"草の者"?」
 奥の暗闇から、「余計な事をしゃべるな」やや本気とも取れる賊の怒号が届く。
 (奥では一体何をやっている……?)
 先刻の賊の会話を拾えば、何やらずっと奥で気配が絶えない。
 そしてユパがその疑念に暗視を凝らすには、目の前の偉丈夫の圧力が大きすぎて難しかった。
「……だ、そうだ」
 気にした様子もなく、オグマは見下ろすような目を保ち続けた。
 
 その時背後にいるサッリェが、ユパの尾をくいくいと引っ張る。さらに隣のサキトハもぴくりと動いた。
 彼はある事を尾を通した合図で伝えてきた。そしてユパにできることは、
「オグマ教官、降って下さい」
 時間を稼ぐことだった。
「我々がただ闇雲に追ってきたとお思いですか?ここにいるのが貴方だとは思いませんでしたが、
 別働隊が教官方、ひいては憲兵隊に後詰を要請しています……すぐにここは包囲されます」
 緊張した時に顔を出す、ユパのどもり癖は綺麗さっぱりとなくなっていた。
 逆に興奮しすぎないように抑えなければならないほどだ。彼は続ける。
「……教官は脅迫されている、だけですよね?」
 ただの、振りだ。オグマの目がいたぶる時の目だと、ユパには自信がある。
 自分の気に入らない生徒を、こうした目をしてオグマは訓練という名のしごきを加えていた。
「安心してください。我々が証言しますから」
「……ユパ、貴様はどこまで……」
「教官?」
「どこまで暢気なんだ。貴様らこそ俺様が何もしないで出てきたと思うか?
 ……同じ茎の芋を食った仲だ、殺してはないが。今頃女を抱いている夢でも見ているだろうよ……はっ!」
 オグマの裏切りは突発的なものではない。予め一服盛るなど、前々から仕組んでいたことを指していた。
 もう、決定的だった。そして――相手は長々と話し終え、肺の中の空気を不用意に吐き出した。
 
「合ッ!」
 
 それは反撃の合図だ。三人は一斉にオグマへと踊りかかる。
 少なくとも、それは熟練した戦士の意表を突いた。
 サキトハが重い鉄槍をオグマの左に――。ユパが無骨な星球棍を右に――。
 這うように走るサッリェが鋭い小太刀を膝下目掛けて――。
「まだ、分からんか!」
 一瞬で巨躯を盛り上げたオグマは、黒い戦爪を薙ぎ払い、捌き、弾いた。
 三者同時攻撃は空しくも届かなかったが、
 (今だぁッ!)
 しかし残りの空気を全て吐き出させたはずだ。それが、未熟な戦士たちの目的。
 それは尾を引いて近付いてくる。
 たまらず転倒したユパ、サキトハ、サッリェの見上げる闇に、もう一人の小兵が天頂方向から奇襲する。
 ――胸に小刀を受けたはずのチタラだった。
 
 三人が一度オグマから離れて構えた頃、チタラは息を吹き返した。
 肺に深々と突き刺さるはずだった小刀が、彼の胸に備えてあった飛刀の束のところで止まっていた。
 チタラはオグマの剛力がうんだ衝撃に一時意識を手放していただけだった。
 伏せたままサッリェの尾を引き生存を伝えると、即座にサッリエは前衛の二人にも合図を送り、時間を稼がせながら作戦を立案していた。
 得物慣れしている三人の攻撃は陽動。本命は闇に紛れて樹木を駆け上り、直下攻撃を狙いすますチタラ。
 今、彼は一本の杭となって元教官の巨体を串刺しにせんと落下する。
 
  ――  ピシャアア、アアァアァ ――
 
 これまでとは段違いの雷鳴が落ちた。
「っく!」
 黄土色のオセロットはまともに受身を取れず地面に激突し、手にしていた短刀を遠くに手放した。
 すかさず上方を振り仰ぐ。
 (浅い!)
 皮鎧が裂かれてはいるが、血が滲み出そうとしている程度だ。そして怒りに燃えた目は真っ赤に輝き、戦爪をきらりとかざす。
 (ここにも……俺の居場所はなかったのか!まだ、まだ戦士にもなれていないのにっ!)
 チタラはしっかりと目をつぶり、受けるしかない死の宣告を待つ。
「……?」
 それはなかなか訪れない。うっすらと目を開くと、
「……チタラ、早うっ! 行けえっ!」
 もう一人のオセロットが小太刀の二刀を交差させ、オグマの致命打を防いでいた。彼を庇っていた。
「あ、わっわっ!」
 四本の手足を必死に動かして後方に下がる。
 (俺の……! 武器……!)
 雷光を反射する自分の短刀を探し当て、振り返り――彼の友人たちが互いに庇い合う熱戦を繰り広げていた。
 それを見たチタラは足がすくむ。黄土色の尾が心細げに縮み、巻きつき、主の心を雄弁に語る。
 オグマにしかけた先刻の攻撃はまさに無我夢中だった。目覚めたばかりでやや混乱していたのもあるだろう。
 (あ、ぐっ!動け、動け、動けうごけうごけ――!)
 死を目前にちらつかされ、おおらかな性根のチタラは恐怖に囚われてしまっていた。
 
 ――チタラは一時、最先端医療を学んでいたが、そこに彼の欲したものはなかった。
 ひどく異質で、女性の言い方を真似るならば、肌に合わなかった。
 論文として挙げられる数々の新発見。確かに難度の高い医療技術の開発は素晴らしい。
 (でも、世にはもっとありふれた病がある!難病を治すだけが医学ではない!
   日常的な病にかからないように……民の暮らしを診るのが医者だ。俺の思う医療だ!)
 功名心を裏に、愛想笑いにまみれたその縦社会に絶望し、チタラは野に下った。
 しかし個人的な医局を拓くには財が足りなかった。膨大な学費を捻出してくれた両親にこれ以上の出費は求められない。
 引き止める両親を振り切り、チタラは軍の門戸を、自らを落ち着かせながら叩いた。
 衛生科に仕官し、ある程度昇進すれば開業医としての資格と金銭の援助を受けられる。
 また兵の健康を第一とするその衛生学は、チタラの知識欲を激しく刺激していたのもある。
 ――それが、456期生の一人、チタラの希望だった。
「負ける、もんかァッ!」
 チタラは近場の樹木に額を打ち付けた。
 まだ足はぶるぶると笑ったままだ。もう一度、叩きつける。
 (豊穣の女神ピルイよ、弱きこの我を憐れに思し召すならば、一欠けらの勇気を!)
 密林の木々を司る、優しい笑顔の女神を思い浮かべる。
 かの女神に仕える侍女は言った、生命の力を信じよ、と。
 切り落としても生える、焼き尽くしても灰の中から甦る、生きたいと願う、力。
 病に臥せる患者たちに、そうした力を備える手助けをしたい……自身はそう思ったのではなかったか。
 (我に、我に、加護を!)
 もうチタラの足はしっかりと大地を踏みしめていた。
「援護するっ!」
 黄土色をした長い尾が、ぴしりと勇ましく泥濘に音を立てた。
 
『援護するっ!』
 サキトハの後方でチタラが叫んだ。その気配が闇に紛れる。
「ッらあぁッ!」
 亡父譲りの鉄槍をオグマの腹部に突きこむ。
 (重い。槍が重い。腕が重い。足が重い。体が、体全体が重い――)
 赤銅色のピューマは牙を噛み砕く重いでひたすらに悔しかった。
 確かに日中、長時間の「支え」の罰で体力は消耗している。しかし、それは自分のせいだ。
 あの偉ぶった教官をなじっても腕は軽くならない。
 (へへ……何で、こうも昔を思い出すんだっ……まるでオレが死んじまうみたいじゃねぇかよぉッ!)
 
 ――サキトハの親もまた官軍兵士の一人だった。
 そして彼がまだ幼かった頃、父親は無言の帰宅を果たした。
「はい。ご苦労様でした」
 そう言った母親は、気丈そのままだったのをはっきりと覚えている。父の遺品を持ってきた兵士に向けて頭を下げたときだ。
 その遺品とは、磨きぬかれた銅色をした尻尾と、誰のものともわからないような髭と……総て鉄でできた黒槍だった。
「お父さんの仇をとるんだ」
 幼かったサキトハがそう思ったのは、特に不明な事ではなかった。
 母は親戚に任せ、彼は不釣合いなほど長い槍を背負いながら軍の門戸を叩いた。
 しかしその純粋で勢いだけの希望は時とともに混濁していった。
 サキトハは立派で勇敢な兵になりたかったが、辛い訓練と気に入らない教官に従うことまでは考慮に入れていなかった。
 中途半端な自尊心はたやすく亡父の形見に頼っていった。父の槍さえあればサキトハは何でもできるつもりなっていった。
 訓練用の粗末な槍は軽すぎると言って放り投げ、小隊行動を見据えた模擬戦では単独で突進し続けた。
 いつしかそれは根拠のない慢心に形を整えた。
 ――それが、456期生の一人、サキトハの悔恨に繋がる。
 (もっと……! 訓練、して、おく、んだった!)
 サキトハの鉄槍はオグマの戦爪に絡め取られ、手繰り寄せられる。
 (あ、今更……遅すぎっ……かな)
 亡父の形見とともによろけた赤銅色のピューマの瞳には、冷酷な笑いがいくつもだぶついて写る。
 
「負けるの? サキトハ!」
 消えたと思ったチタラの声が上から聞こえる。
「ぐっ! うるさいハエが!」
 そしてぱちんと弾けたようにオグマの顔が傾いた。固い木の実で作られた散弾だ。
 書物をめくるだけとサキトハが思い込んでいたチタラの指先は器用にも、投擲技能に長けていたようだ。
「許さん!」
 しかし決定的に腕力が足りない。
 続けざまにチタラが放った小刀の群れはオグマの隆々とした肉体に跳ね返り、力なく泥濘にまみれた。
 あの頭でっかちと思っていたチタラでさえ、前に出ている。
 これでは威張り散らしているサキトハの立つ瀬がない。
「てめぇがっ、何を許すってんだよぉッ!おオオッ!」
 赤銅色のピューマはぶるっと震えて雨粒を跳ね飛ばし、力を振り絞り、槍身で殴りつけた。
 槍先はすべて黒爪に絡めとられる。ならば総鉄製の重量で棍のように砕く力だけでもと。サキトハはとっさだった。
 それは実戦の中で技をさらに磨き抜くこと、強兵の必須技能「斬り覚え」だった。
 
 
 
 サキトハの強烈な打撃によって体勢をわずかに崩した。
 オグマの黒爪に向けて、ユパは星球棍で殴りつける……が、それは無力にも捌かれた。
 相手はまだ余裕がある。小うるさくまとわりつく羽虫を払っているにすぎない。
「ユパ。この戦爪【フィニャシッル】が許せぬか?」
 鉄錆色のジャガーは正直に頷き、執拗に星型の鉄球で狙う。
 (ジャガーを、冒涜するな!)
 ユパもオグマと同じくジャガー族だ。戦爪と言う武器がいかに神聖な鋼か幼子ですら分かる。
 その神聖な武器でこのような私闘を行っている。許せなかった。
「何、この神聖武器で追っ手の首級【ツァンツァ】を奪れ、とな。命令だ」
 命じたのは間違いなく、草刈衆の指揮官。
 ユパと同じくジャガー族を中心としたキンサンティンスーユに牙をむく集団。
 歴史の教科書を開けばすぐに目に付く、反乱を起こしたユパと同じ、ジャガーたち。
「俺様の覚悟を試しておられるのだ」
 ユパの中で、忍耐の縄が音を立てて擦り切れた。
 ジャガー族というだけで何か物騒な者を見る雰囲気がそこはかと混じり、それを覆したくて種族一丸となるべき、なのに――。
「誰に敬語を使っているっ!陛下に、陛下に無礼と心得ろっ、この不ぞろいの玉蜀黍があっ!」
 普段言ったこともないような罵詈。下段に構えた棍棒を、怒りを転嫁するように振り上げた。
 しかし、そのユパの全力はいとも簡単に受け止められる。
「ユパ」
 相手は棍の先端を無手で掴み、いくら腕を捻ってもびくともしない。
「俺様はそう呼ばれるのが、何よりもキライでな」
 とっさに得物を閃かせるサキトハとサッリェを、オグマは片方の黒爪だけであしらう。
「このお遊びに貴様は相応しくない。消えろ」
 (――え)
 ユパの体がふわりと得物ごと持ち上げられ、彼方の暗闇、賊の集団がたむろする観客席へ軽々と放り投げられる。
 
 すさまじいほどの、怪力だった。
「ふ、ぐぅ……ベッ、ガハッ! ハァッ!」
 受身を取りきれず、口内に入り込んだ雨水と泥と雑草を吐き出し、ユパは可能な限り素早く跳ね起きる。
 筋肉を硬直させて切り下げられる刃を覚悟したつもりだったが一向に体は痛まない。
 その代わり、
「大丈夫でちゅかー?」
「くひっ、オマエも混ざりたいってか? ひ、はは!」
 ふざけた罵声と哄笑が振ってきた。なおも身構えながら彼は目を開き、次いで粘つく糸を引きながらぽかんと口を開けた。
 
 信じられなかった。
 
 一人の女に一人の賊が挑みかかっていた。
 尻を高く持ち上げられ、濡れて毛並みのへたりこんだ尻尾を乱暴につかまれ、木に抱きつかされている娘。
 枝葉が耐え切れなかった雨水をしとどに受け、見るからに冷え切り、青ざめた褐色の肌が痛々しい。
「……がッ、くそ、マジ、出る!」
 そしてぶるぶると震えながら腰を送り込み終わった男が、
「まあまあじゃね?」
 その娘から離れた。彼女の山吹色の髪は例外ではなく雨水に濡れ、
 辛うじて残っている上衣には何重にも、木の幹ごと縄が巻かれている。
 そうして眠ったように瞳を閉じ、鎖のついた両足を淫らに開いているのは、ユパの同期、パシャだった。
 
「こいつさぁ?孕めねって話なんで、ま、好きなだけここでヤリ尽くそうかってことで、な」
 ユパはびくりと体を震わせ、言葉を発した賊へ振り向いた。
「オグマもひどいよな?この女あいつのだったのに、さ。あれ?捨てたんだっけ?捨てられたんだっけ?」
 また、ユパは振り向く。
「あ、心配無用ぞ?コイツ以外……オマエらの同期の女たちは俺らがユウコウにカツヨウしてやっから、な」
 また、振り向く。
「さようならあ、てな?オグマの手土産だ。おめらがちんたらしてる間に移動中、だ」
 振り向く。
 (あれは正に輸送犯だった)
 脳裏にシカムとウリンナレが追った集団が閃いた。
 (そして荷は……同期の女子たち)
 閃いた後にそれらは事の成り行きをすっぱりとユパに示した。
 オグマが賊のもとに走ったこと、万が一を考え教官たちを眠らせたこと。
 それから、手土産と称して同期の女子を拉致したこと。
 
 賊に浚われた女がどのような扱いを受けるか、誰もが知っている。
 よく笑うあの娘も、少々気の強いあの娘も、面倒見がいいあの娘も、大人しく控えめなあの娘も。
 皆すべて、賊に股を開かされる。
 皆すべて、賊の子種を流し込まれる。
 皆すべて、望みもしない子を、産む。産まされ続ける。
 それは死ぬまで、女体の限界まで酷使されて、そこには恋も愛も労わりも優しさも、きっとない。
 たやすく想像できる未来に向かって、同期の女子たちがどんどん、遠ざかっていく。
 
 ユパはふらふらと立ち上がった。
 正面に見える木に幾重にも縛り付けられ、頭をがくりと力なく傾けているパシャを視界に納める。
 大きく左右に割られた、戒めの鎖つきの両脚の中心で山吹色の陰毛が濡れそぼり、汚れた白濁液がやけにはっきりと彩る。
 一歩、また一歩と近寄る。
「だーめ、だめ。オサワリ禁止だよー?」
 また一段と笑い声が大きくなったが、
「ちょっ、てめっ! 何してる!」
 ユパが予備用の小剣を抜き放ったときに立ち消えた。苛立ちと怒りが取って代わる。
「ガキにはまだ早ぇんだぁよ!」
「そら、お帰りだ!」
 ぐにゃりと脱力したユパの両側に黒色の賊が張り付き、オグマがそうしたように放り返した。
 若いジャガーの体は軽々と宙を飛び、オグマと交戦する訓練生たちと無様に折り重なった。
 爆笑する男たちの背後で、ユパが離れ際に投じた小剣が捕われの少女の傍らに鈍く光っていた。
 
 
 
 襲い掛かる黒い風を必死にいなしていたサキトハに、自分の方に向かって飛んでくるユパをかわす余裕はどこにもなかった。
「おわっ!」
 反射のままに槍身でジャガーの体を受け止める。
「ぬ、く……!」
 そしてその長大な槍は左隣のサッリェと、
「あ、ちょっと!」
 ユパの空いた穴を埋めようと姿を現していた右隣のチタラを巻き込む。
 三人で一人を支える形だが、疲労の極限にある彼らに反動のついた物体は止められなかった。
 そろって泥濘の中に尻餅を突き、背後の巨木に強く体を打ち付ける結果になった。
「ユパ、早くどけ!」
「――あ、う、すまんっ」
 どこか夢を見ていたようなユパが正気に戻るが、四人はもがき合い、なかなか離れることができない。
 雷鳴の狭間に聞こえる賊の嘲笑がさらに煽る。
「楽にしてやろうか? うん?」
 オグマもわざとらしく声をかけながら近付いていく。
 
  「そこまでだ!」
 
 蠢く雷を圧するような咆哮が森林に轟いた。咄嗟にオグマは一足で後退を完了させる。
 その表情には苦渋が滲み出、狩りに熱中しすぎてしまった不覚を噛み潰している。
 幸運なことに、オグマの見積もりを出し抜くことができたようだった。
「ユパ。待たせたっ!」
 噛み付くように声を上げたのはワルルホ。後から詰めてくる味方を迎えに走ってもらったジャガーだ。
 そして一日草が一斉に芽吹くように、同期生たちの気配が辺りに満ちて行く。
 (おい、不味くねぇか?)
 (何がだ?)
 絡まり合ってしまった四人は声を潜ませてささやく。
 (オグマの野郎だよ!)
 (あぁっ!)
 その通りだった。
 後詰の彼らはオグマがすでに教官などではなく、賊の手引きをするような裏切り者だとは知らないはずだ。
 全力で首を伸ばし、叫ばんと大きく息を吸い込む。
 (大丈夫だ!)
 
「既にここは包囲した、不埒な裏切り者よ。抵抗は無駄と心得ろ!」
 (チタラ!)
 四人の一番下で潰れているオセロットは、見つめる六つの瞳に力なく笑って応えた。
 彼は近距離通信用に使用される変形縄を、自分の飛刀にくくりつけ、遥か後方に投じていた。
 ワルルホに導かれた後詰の同期たちが拾ってくれることを祈りつつ、それは主犯がオグマであることを伝えるという大手柄だった。
 ――しかし次の瞬間、四人の呼吸は再び凍りつくことになる。
「教官を通じて憲兵隊に連絡済みだ、大人しくするんだな!」
 ワルルホが叫んだ自信満々の恫喝は、ユパが先刻しかけたはったりと全く同じもの。
 (えぇ!)
 (全部の飛刀を拾ってはくれなかったみたい)
 (こんのアホチタラ、肝心なところで役に立たねぇでどうすんだ!)
 そして文字通り一丸となってしまった四人の不毛な言い争いは、賊方全員の下衆な哄笑で止められた。
「はーっ、はっ、ははっ!サッリェ……説明してやれ」
 裏切りのジャガーの示すとおりに行動するのは不快極まりない。
 だが。そうでもしなければ味方の不審と動揺は収まらない。疑いは解けない。
「こいつらあ、教官たち全員に一服盛ったんだあ!憲兵隊なんて……来るわけがないんだあ!」
 辺りはごろごろと響く不穏な雷鳴と、さあと囁く雨音で見たされた。
 しばらく口を開く者はいなかったが、無言で満たされた空気は急速に乱れていく。
 どちらにしても動揺が消えるはずは無かったのだ。
「さて、草刈の方々」
 オグマの嬉々とした調子が拍車をかける。
「数も増えたところで、ご助力を願ってもよろしいかな?」
 返事は、ない。しかしどの返事よりも確実な、明確な殺気が深夜の密林にぐんぐん膨らんで行く。
 全身を総毛立たせ、なおも止まることを知らない。
「若芽摘みか。風情ばっちり」
 賊は戦慣れ、それもいたぶるような戦に慣れ親しんでいると見える。
「雑草は成長しねえうちに引っこ抜いとけってこと」
 怯みつつあるところに挑発を交えれば効果を倍加させることを知っている。
「雑草は命乞いなんかしないって知ってるよな」
「黙って刈られろ」
「ひやはは!我ら草刈る者、即ち草刈し……ぐぉ……ぉぁ」
 
 異変。
 
 始まりは唐突だった。
 賊の吐いた威嚇の語尾が濁り、それきり男の気配が立ち消えた。
「おら、どした! あぁ! ……ふ、ぐっ……」
 一人。
「ガッ! てめっ、誰っ……む、ぅ」
 また一人と明らかな痛覚を訴えて男たちが倒れ伏していく。
 オグマたち賊も、ユパたち訓練生も、急変した状況に反応できない。
 双方ともに思いもかけないことが起こりすぎたせいで、ある種の集団心理が「また何だ今度は」と状況の推理を拒んでいたが、
 賊にとって不味いことなのは確実だった。この場に来る筈のない援軍が来たとでもいうのだろうか。
 
「――――!」
 
 いた。
 そこにいたのは、一人の山吹色の髪をした少女。瞳には全く力は無いが、背を丸め、じりじりと進む。
 その褐色をした剥き出しの下半身には戒めの鎖がじゃらじゃらと不気味な寝返りを打ち、
 辛うじて上体を覆う薄着は雨に濡れてぴったりと女性の曲線を浮かび上がらせている。
 そして両手には長さの異なる二本の血刀を握りこんでいた。
 その片方はユパの予備武器だった、一振りの小剣。
 当人だけがそれに気づき、詳細は分からずとも、彼女が自力で縄を解いたことだけは分かった。
(パシャ!)
(あの女!)
 二つの陣営が思い浮かべた単語は異なる。しかし刺すような視線は一点に集中した。
 木の根元に縛って自由を奪い、今まで散々に犯していた無意識の娘が何故か縛縄を解き、手にした得物で仲間を葬った……
 草刈衆の集団がそうした考えに及ぶまでそれから一瞬だった。パシャの最も近場にいる者たちが一斉に斬りかかった。
 
 仮に、熟睡中であるはずの戦技教官がこの場にいたならば、
 彼は薄笑いを浮かべながら満足そうに頷くだろう。それほどまでに彼女の舞いは完璧だった。
 
 ――切り結び、逸らし、突き、捻りこむ。
 褐色も露な下半身は鎖に制限され、さほど動かない。
 
 ――かわし、払い、斬りつけ、押し切る。
 一方の上半身は動きづらい下半身をかばうように、激しく、緩急のついた不規則な舞を演じる。
 
 ――いなし、捌き、薙ぎ、切り返す。
 体格的にも、筋力比でも圧倒的に劣っているはずなのに、次々と襲い掛かる賊の魂を払い落とす。
 
 ――振り返り、制し、貫き、さらに抉る。
 そして、ただ唖然と見守るばかりの訓練生たちは戦慄をもって知ることになる。
 (パシャの意識は……ない!)
 胡乱な瞳の今にも消えてしまいそうな輝き、気だるそうに薄く開いた血色の悪い唇。
 判断するための材料はそれだけで十分だった。
 
 ユパは力強く、すっくと立ち上がる。血の滾りが、興奮に波打つ頭痛が止まらなかった。
 (俺は……俺は・・・・・・)
 これまで一体何をしてきたのだろう、と。自分は惰性で訓練を受けていただけだ、と。
 同じ内容の教えを受けたはずなのに、パシャは――
 自分より年下の無口な少女は、無意識下でもなお美しく正確な剣舞を演じられるほどに全身を技で染めている。
 (俺は――! 俺は――!)
 冷えた体躯に、どこまでも熱い力が宿っていく。
 カチカチと牙が打ち合うのは、高揚の震えか。
 棍よ折れよとばかりに、強く、固く、握り締める。
 天空の神々に捧げるように得物を高く突き上げた。
 大地の神々に奉じるように軍靴を強く踏み鳴らした。
 
「総員【ウィプハル】――」
 いや、足りない。もっと強く、大きく、高く、遠く、広く、どこまでも。
「総員、突撃ぃッ【ウィプハル・オクハル】――!」
 一筋の、鉄錆色の雷光が疾く駆けた。
 
 
   §   §   §
 
 
 それからのことを、ユパはあまり憶えていない。
 がむしゃらに突き進み、無我夢中で得物を振るっただけだ。
 そして噴き出した猛りを解き放ち、灼けた闘争心に囚われたのは彼だけではなかった。
 パシャの舞に心撞かれたのは彼ら訓練生全てだった。
 ユパが再び正気に戻ったとき、その場には数多の賊が倒れ伏していた。
 立ち、或いは樹木に寄りかかっているのは見知った同期しかいなかった。
 また、一魂を手放した死体の中に元教官の姿も見当たらなかった。
「……」
 誰もが無言だった。辛うじて敵を退けたという状況を理解するうちに、
 誤魔化せないほどのはっきりとした疲労が押し寄せてきたからだ。
 
 ユパはぼんやりと思い至る。
 (そういえば……なにか)
 思いつけば立ち尽くしている暇はなかった。
 (パシャ!)
 一分の隙もない完璧な演舞によって味方をあまねく鼓舞し、
 この場にいる456期生全員の魂を加護したと言っても過言ではない、ジャガーの少女。
 ユパは、チタラがもつ散弾のように自らを弾いて周囲を探し回る。
「パシャ!」
 戦場となった区域はそれほど広くなく、ほどなくして彼は見つけることが出来た。
 雨と泥と葉でまだらに染まった伸びやかな身体を巨木の根にしどけなく預けていた。
 そのふわりと閉じられた安らかな表情に、ある予感に駆られてしゃがみこむ。
 予感は当った。
 褐色の肌が異様に冷たい。
 首筋に脈を取れば恐ろしく弱々しく、鼻先に呼吸を感じ取ろうとしても判別がつかないほど。
「パ、シャ」
 ユパは大声で彼女の名を呼んだつもりだったが、さっきの悲鳴のようにはいかなかった。
 自分でも信じられないほど、かすれた咳のようなものしか出てこなかった。
 彼は大急ぎで、何度も失敗しながらも上着を脱ぎ払い、パシャの剥きだしの下半身を包み込む。
 到底、足りない。
「お前らも、早く脱げえぇっ!!」
 何事かと疲れた体を引きずってきた同期の面々に向けて、ユパは金属を引き裂くように、絶叫した。
 
 
 
 頼るべき大人たちが全て寝静まった、ユパたちの暮らす養成所。
 ぼろぼろになって帰還した若者にできることは、自分自身の判断が正しくあって欲しいと願うことしかなかっただろう。
 頭脳の閃きに賭け、蓄えた知識をおぼろげに探り、一人では動けない者の尻尾をひきずりながら、最善・次善を模索していく。
 咎も罰も関係がなかった。
 誰もが必死に動き回る。
 ……寝入っているはずの教官たちをたたき起こしに、
 ……憲兵の駐在所に事の次第を報せに、
 ……離れた位置にある神殿に知恵を授かりに、そして。
「たらいをありったけ!……そう、沸かした湯を……そうだ!」
「そっちじゃね!あっ、もうっ!二階の端が空いてるっ」
「怪我してる野郎はチタラんとこ!」
「先輩も来てくれたぞぉ!」
 負傷の処置に慌てふためく一団もいた。
 
 その中、ユパは待っていた。
 あの戦場から氷のように冷え切った少女を抱え、全力で帰還してきた彼は、養成所の廊下に座り込んでいる。
 毛の生えた肌をなるべく広く彼女に密着させながら、抱きとめた両腕で休むことなく、覆う毛布の上から摩擦し続ける。
「準備できたぞ、ユパ!」
 言い終わらないうちに体を跳ねおこし、次の瞬間には既に、転がるように小部屋へと彼女を抱きかかえていた。
 部屋中に熱湯を張ったたらいがいくつも並び、もうもうと湯気を立てている。
「パシャ、行くなよ」
 鉄錆色のジャガーはぼそりと低い声で呟く。パシャの耳はまだぴくりとも動かない。
 青ざめた頬に片側ずつ自らの頬を押し当てて、チタラの言ったことを思い出していた。
 彼が言うには、パシャの意識が戻るまで血行を促進させてやる必要があった。
 しかしそのために必要な部屋の保温はいまだ足りず、一向に温まらないパシャをさらに固く抱きしめた。
「湯を追加でもらってくる。何かあったら――」
「いいから。行ってくれ」
 地を這って、なおもさらに鼻先を埋めるような響きだった。
 その同期生はやや気圧されたような表情を浮かべたが、手早く支度をして退室していった。
「オレも手伝ってくる」
「あ、おれも……」
 手持ち無沙汰になってしまった他の訓練生もユパの傍に毛布を残すと、足早に去った。
 あの戦場からこの時まで、ユパは片時もパシャを手放していない。
 自分の上着で半裸の身体をくるみ、誰の目にも触れさせようとしない。
 仲間たちは何度「代わろう」と提案しようとしたことだろう。
 しかし彼が身にまとう使命感のようなものがそれを許さなかった。
 大切な宝物を奪られまいとうずくまる幼子のようでもあった。
 
 辺りは静かだった。雨も雷も聞こえてこない。
 ユパはじっと、熱湯が次々に生み出す白い湯気を見ていた。それは一瞬とて形が定まらない。
 白の濃度ですら一定でなく、彼の内心の様子と同じく落ち着かなかった。
 いくらかき回しても、抑えこもうとしても、苛立ちが沸いてくるのだ。
「……?」
 その時、パシャの全身を強く擦るユパに濡れた感触が伝わってきた。
 不審に思い彼女を横抱きに抱えなおし、冷たい脹脛、膝頭へと何度も細かく往復させながら手を近づける。
 それは彼女の太腿にたらりと垂れていた。
 見てはいけない。そのはずなのに、ユパの目は見開かれて釘付けにされた。
 白い、白い、湯気の白よりもずっと濃い。男の精。
「むっ! ……ぁあっ…!」
 息が詰まる。驚きに血流が暴走し、意識がくらくら、ふらふらと迷走する。
 記憶がつられて逆流し、ある一場面に留まった。
 ――木に縛り付けられた少女と、彼女に挑みかかった男、そして股間を彩ったひどく淫らな、白。
 彼は恐る恐る、白濁液を指で掬い取る。
 
 なんて、冷たい。それこそ、氷水のように。
 
 そう感じた刹那、ユパは抗し切れずにばちんと砕け散った。
 指先を不快に這い回るそれを殴りつけるように腕を振って吹き飛ばす。
 (オマエが!……オマエのっ!オマエのせいっ、かあっ!)
 ユパのやり場のない苛立ちはついに獲物を見つけ、牙をむいて襲い掛かった。
 冷えて固い肌を強く拭い、乱暴に粘液を振りほどく。
 (オマエが、パシャをっ……!冷たく、させてるのか!)
 標的を求めていたユパ。苛立ちの原因を見つけられなかったユパ。
 見つけてしまった今、感情をぶつけきらずに終われなかった。
 雷光のように走る感情。粘性を持った白い液体がいつまでも爪の隙間に残ることに、ぐんぐんと強まっていく。
 不快が不快を呼ぶ、それなのに止まらない衝動。
「くそっ……クソぉ……なぁっ、う、ぅぅ……」
 毛布の端でこそぎ取ってもそれは新たな獲物に飛び掛る準備でしかない。何度も繰り返し拭っては、強くこすり付ける。
 やがて、ユパの指先は彼女の山吹色の翳りへと辿りついた。ここへ来て彼は少しだけ躊躇した。
 ユパはまだ女を知らない。知識だけの女性と、現実の女性がまだ噛み合わない年頃だ。
 年下の無愛想な少女にも男性を受け入れる場所があるということ。
 それがすでに一度目にしたはずなのに、二人きりという状況も加わってユパの情欲を少しだけ燃え立たせた。
「……っ!」
 見事に狼狽した。感情の水位が入れ替わり、咄嗟に横抱きにしていたパシャを抱え直す。
 少女の顎を自分の肩に乗せるように、背中に回した左腕を勢いよく摩擦させ、一瞬の情炎をごまかそうとした。
 しかしそれは逆効果にしかならない。
 今まで気にもしなかったはずなのに、少女の大人びた豊かな胸と、冷気に萎んだ二つの尖りを感じ取ってしまった。
 
 良くも悪くも彼はまだ若かった。自分の感情に嫌悪を覚えても、止め切れず、目を逸らしきれない。
 股間に若い血がどっくどっくと流れ込んでいく。
 うろたえた末に、両手にぶら下げた血刀で賊を舞うように屠った彼女の姿を無理やり思い浮かべようとしても、
それは悉く失敗に終わる。
 戦神の化身のような勇姿にちらつくのは丸見えの下半身だった。
 しなやかな脚線と、きゅっと引き締まった双つの丸み。
 そして乾かせばふっくらと魅力的な山吹色の尻尾が、ユパを誘うように揺れている。
 
 (この女は男に犯された)
 (足を広げられ、無抵抗の身体を弄ばれた)
 (誰とも知れない子種を流しこまれ、収まりきれないそれを溢れさせた)
 
「うるさいうるさい、うるさい――」
 ユパはしっかりと目をつぶり、呻くようにしか繰り返せない。内からの幻惑に抗えず、無力を呪う。
 まるでそれは部屋中を薄く漂う湯気に投影されているようだった。
 眼を閉じても、どの方角を見ても。ユパの眼前に現れてくる、聞こえてくる。
 
 (どうする。ユパ)
 (今なら誰もいない。ユパ)
 (誰にも知られない。今さらオマエの精が混じったとしても。ユパ)
 (この女は孕まない、賊も言っていただろう。ユパ)
 (まあ、待て。まずはその唇をオマエの舌で温めてやれ。ユパ)
 (そうだ。それからでも)
 (そうしろ。それがいい)
 
 ユパは虚ろに濁った瞳を薄く開ける。もう片方の腕も彼女の背中へと回した。
 そして冷えて硬いながらも弾力を返す少女の身体を、円を描くように己の胸板に押し付け始めた。
 挟まれた隙間で、大人びた魅力を持つそれは強張っているが、男とは段違いに柔らかい。
 胸だけではない。
 背も、肩も、腕も、脚も、柔らかいのにしっかりと押し返してくる。
 草と泥の匂いに混じってはいるが、香り立つのは肉感的な肢体とは裏腹な、どこか幼い乳の匂い。
 吸いつかれたくて誘いたがっている、その香り。
 (誘われてしまえ、ユパ)
 暗い情念の囁きに、微かに頷いた。 ゆっくりと舌を伸ばし、ちろりと舌先で彼女の首筋を舐めとる。
 泥の味、草の味、雨の味、汗の味。
 (甘いだろう、ユパ)
 再び彼は小さく首を縦にした。
 (それが女の味だ、ユパ)
 白い靄がはっきりと姿を見せはじめる。知識だけの女体に現実としての感覚が付加されていく。
 少女の身体と、性欲の対象とが、重なり合っていく。
 (次は分かるな、ユパ)
 言われずとも今までどうしてそうしなかったのだろうと、不思議に思うほどだ。
 衣服越しではなく、直に胸を見たい、触れたい、味わいたい。
 おぼろげな表情のまま奥に収納していた指の爪を伸ばす。
 彼女の身体を離すと、濡れた衣服をゆっくりと引き裂いた。
 
 
 
 大きく目を見開いた。
 待ち望んだ少女の乳房があらわになったのに、視線は「そこ」に釘づけだった。
 火傷の痕。
 男を誘ってやまない魅力的な身体を不気味に彩る、斜めに走った痕。
 唐突にユパは記憶を再生させた。
「私は、孤児だから」
 ──全く無愛想に少女は言った。
「小さいとき、集落が火事にあった」
 ──道端の小石を蹴り飛ばすようにさらりと少女は言った。
「あまり思い出したくない。しつこい」
 ──ほんのわずかな怒りをのぞかせて、少女は拒絶した。
 
「あ、ああ、あ!」
 その醜い傷痕をそれ以上見ていられなくて、再度、パシャを強くかき抱いた。
 ユパははっきりと正気を取り戻したが、代わりに煮え立つ感情の大鍋が突沸し始める。
 下劣な情欲に巻き取られた自分への怒り、恥じ、苛立ち。
 衝動のままにパシャをさらに固く抱きしめても、彼の心はより深く穿たれるだけだ。
 自責の思いがその大穴を埋め、急速に侵食していく。
 そしてそれが満ちると、ユパは耐え切れずに自分の右手にかぶりついた。
 十分に唾液をからませ、汚れた指を舐る。
 賊が吐き出した精が付着していようとも、気にならなかった。
 自分は賊と全く同じことをしようとしていた。
 
 同類だ。
 
 同類のモノを飲み下しても、すでに芯まで汚れている自分はもう、汚れようがないだろう。
 ならばせめて上辺だけでも、彼女に踏み込もうとしている指だけは舐めとり、キレイにしたかった。
「パシャ、パシャ……」
 名を呼び、内心でひたすらに懺悔しながら、右手を背中側から巡らせてパシャの閉じた膣へとこじ入れる。
 奥の奥まで達すると、間接を曲げて中身をすくい取る。
 無骨な指にべっとりと張り付いていたのは、未だ中に残っていた白濁液。
「ぉぉ……ぁあっ」
 ユパは泣いていた。
 ぼろぼろと涙を流しながら、それでも目を逸らすことなく汚らわしい精液にかぶりつく。
 その苦さが、その気色悪さが、ユパの罪業だった。
 彼女の身体に潜む汚物を、すべて自分の中に取り込んでしまわなければ彼自身の気が狂ってしまいそうだった。
 何度も、何度もその作業を繰り返し、あふれる涙を拭おうとしない。
 ユパは思い、さ迷う。
 ……今思えば、自分はこの無口な少女が好きだったのだろう、と。
 
 同じジャガーという原点から発した興味は、固く閉じこもったパシャのひたむきな訓練に目を移していた。
 彼女は誰からも、同性からですら相手にされず、それを気にする様子もなかった。
 しかし挨拶をすれば返したし、話題をふれば時に彼女の機嫌を損ねたが、言葉少なにぽつりと答えた。
 パシャは孤独を慕っているわけではないと感じたユパは、彼女を知りたいと思った。
 実際は踏み入りすぎて拒絶されてしまったのだが。
 それでも、自覚のない想いを叶えるには足を止めるべきではなかった。
 容赦のないパシャに関する風聞を振り払うべきだった。パシャは淫らな女だ、と。
 幾人にも身体を預け、例えばあのオグマのように……飽きたからといって男を捨てるのだ、と。
 思春期の盛りだったユパが踏みとどまるには、それで十分だった。
 彼女と交わした最後の会話をユパは思い出す。
 どうしてそこまで厳しく訓練するのかと聞くと、彼女はひたすらに木偶に打ち込みながら、
 「ぐっすり、眠りたいだけ」
 そう、答えた。
 
「ユパ!」
 
 彼の名を呼ぶ声が思念を霧散させ、驚きにどっと冷や汗を浮かせた。しかし、ユパの焦りは不要だった。
 いつのまにか例の行動は消え失せ、当初していたようにパシャの身体を温めようと擦っていた。
 (もしかして、夢……か?)
 部屋の随所に置かれた熱湯のせいか室温が高まり、頭が朦朧とする。
 一瞬、彼は自分の記憶に自信が持てなかった。暗い情欲も、パシャを勝手にまさぐったことも、見るも無残な火傷痕も。
「パシャの服、脱がしたんだ」
 先刻よりも大きく、ユパの心臓が跳びはねた。夢であれば彼女の服は脱がされていないはずだった。
 (いや、それは、つまり、あのだな)
 ぱくぱくと口が喘ぐだけで言葉にならない。
「ユパの判断は正しい。伝えなかった俺の失敗だ……こっちも手一杯で、ごめん」
 働きどおしなはずなのに、相好を崩したのは戦友チタラだった。
「濡れた衣服を着たままなら、それだけで体温を奪う。よくやってくれた」
 (違う、そうではない。俺は……)
 ユパはうろたえ、喘ぎながら首を強く振る。
「チタラ、俺は」
「ダメだありゃ、教官から医務官まで起きやしね」
 ようやく転び出た告解は、言葉になろうとした瞬間に遮られた。
「応援を神殿に頼めた。侍女さま方、すぐきてくれるってさ」
「パシャは無事か!」
 同期の面々が次々に顔を出し、どかどかと騒がしく上がりこむ。
「静かに」
 チタラの抑えた静止の声は彼らの動きをぴたりと止めた。
 ユパたち二人の隣に座り込み、診察するオセロットの顔は真剣そのものだ。
 少女のあちこちに触れ、脈と体温を確かめる。
「もう、心配はないはず」
 暖かい室内に、明らかな安堵のため息がいくつも漏れた。数人は力が抜けたように座り込んでさえいる。
「代わりの服を持って来たから、着せてやって」
 チタラは背後から、きれいにたたまれた布地を押し付けてきた。
 上下一体のゆるやかな衣服だった。医務室から見合ったようなものを見繕ってきたのだろう。
 ふと、チタラが苦笑した。
「仕方がなかったんだよ。状況がそうなってしまったんだ。見てしまったこと、あとでいっしょにパシャに謝ろう?」
 しかし、彼は激しく誤解してもいた。
 裸を見ただけでは飽き足らず、自分はひどく淫らなことを無抵抗な彼女にしようとしていたのだと、
 伝えたいのに一度奥へ引っ込んでしまった言葉は、蛭のようにへばりついて一向に出てこなかった。
 無言で飽きもせず首を振るユパに、
「俺はユパを信じてる。今日の君はすごかった。
 みんなだって突撃を叫んだ君に心震えたんだ、勇気をもらったんだ」
 チタラは穏やかに言い残すと、様子を見にきた同期たちの背中をぐいぐいと出口に押し出す。
 そして去り際に振り返り、疲れ気味にしなった髭をそれでも楽しそうに揺らしながら、
「そうそう、つけたし。あとちょっとで侍女さまが来てくれるから、それまでよろしく」
 今度こそ、温室に二人だけの呆然とした静寂が残された。
 
 
 
 すでに寝台に寝かしつけられ、穏やかな寝息を立てている。
 そしてその周囲で少女を診ている侍女たちを、ユパは見守っていた。
「あなたも座ってはいかが」
 一番年かさの、中年の女性が立ち尽くす彼にゆっくりと諭したが、頑なに首を横に振った。
 侍女たちはどこまで事情を知っているのだろうか、という疑念が視線をうつむかせていた。
 パシャの身体を念入りに診た女性たちが痕跡を見逃すはずがなかった。
 ふと、床の木目を数えるばかりのユパにさっと影が差した。
 折りたたまれた手布がそっと差し出された。
「何をもって涙を浮かべますか、勇敢なジャガー」
 声音はどこまでも優しく、同じようにやさしく、ユパは顔を持ち上げられていた。
「あらあら、戦士が台無しですよ」
 彼は自分でもなぜかわからないうちに再び涙を盛り上げた。
 
 優しい言葉なのに。
 きっと心配してくれているのに、
 あさましい自分を「勇敢な」と誉めてくれているのに、それらは逆効果にしかならなかった。
 その慰めが自分にふさわしくないと、自分が恥ずかしいと思う、凝り固まった一念をさらに強く刺激する。
「何も……何も、してやれませんでした……っ」
 (違う、違う、何を言う!違うだろう!この期に及んで下劣な欲情を隠すのか!)
 ユパの内心の叫びとは別に、口から吐き出されたのは悔しさだった。
「同期の女子は……パシャを除いてさらわれて、しまいました……。パシャにも、あんな、あんな目に、会わせてっ」
 嗚咽の混じった若者の告白に、中年の侍女はそっと涙を拭ってやっている。
「もっと、俺が、うまくやれていれば……っ、初めから教官のところに伺っていれば」
 目の前に見下ろす侍女は頷きもせず、微笑を浮かべているだけだ。
「どうすれば、償えますかっ。どうしたら、パシャに、行ってしまった女子に顔を向けられるのです……かぁ」
「はい、そこまで。一人でいきがるのはお止めなさい、優しいジャガー」
 
 己の悔恨を「いきがっている」と決め付けらると、ユパは一瞬うろたえ、すぐに怒りで牙をカチカチと鳴らし始めた。
「あなた一人だけで何ができるのか、何ができないのか、それすら判別のつかない……。
 爪牙いまだ生えそろわぬ戦士が吠えたとして、いきがる以外に何がありますか」
「見習にも誇りはあります!」
「ならば、その誇りとは?」
 ユパはぐっと詰まった。言葉であらわすには、それはあいまいすぎた。
「武器を振るうことも、知能の限りを尽くすことも、もちろん大切です。
 戦士なのですから、迷いしジャガーよ。けれども……それら自体は誇りではありません」
「では」
「自分ができること、自分でできないこと。そして他人ができること、他人ができないことをまず知りなさい」
「補い合えと仰るのですか」
 それはユパの想像を小突く。
 同期生全体で得物の先を集わせるように突き上げる、いつかあった誓いを思い出す。
 もちろんその中にはさらわれた女子も混じっていて、それぞれの表情で一点を見つめている。
 しかしそれは、二度と繰り返されることはない。
「嫌です! 嫌だ、そんなのは!」
 納得できない思いを視線に宿らせてにらみつけても、おだやかにユパの頬を包み続ける侍女はどんな変化も見せない。
 何でも分かっていると言いたげな顔が腹立たしかった。
「分かち合え、と?キンサンティンスーユ軍兵士の一人一人が、官軍全体の誇りを等しく分けて担うと知れと?」
 それが何になる。
 官軍に籍を置くことそれ自体がすでに誇りになっているとしても、毛ほどにも感じない。
「連れて行かれた女子と誇りを分かち合う機会、それはどこにもない!未来永劫どこにも!」
 そしていつか、彼女たちのことを忘れてしまうのかもしれない。
 過去の苦い思い出に、ただああいった事件があったから悔しかった、ぐらいにしか思えなくなるのかもしれない。
「嫌だ!そうやって俺が未熟だからどうしようもなかったって、そんな簡単に切り捨てられるもんか!」
 聞く分には、途中からまるでつながりのないユパの悲鳴のような告解。
 それでも中年の侍女はただ、向かい合ったまま視線を外すことはなかった。
 
「切り捨てられないと?」
「当たり前だ!それに、誇りがどうとかじゃない。今俺は誰に、何に、謝ればっ!」
「謝れれば、もうそれで満ち足りると?」
「違う!だって、もう許してもらえない!許してくれないことをしたんだ!」
「ならば、謝り続けなさい。あなたが満ち足りるまで」
「そんなっことっ、そっ、だって、それじゃっ」
 ユパの舌は一転、空回りし始めた。侍女の言うことについていけない。
 言葉尻をとらえて、いいようにあしらわれているようにしか思えなかった。
 息が上がる。肩で息をしながら、言い返す言葉はないかと、ユパは必死に考えた。
 
 自分は一体何をしたかったのか。
 まず、近隣の神殿から駆けつけた侍女がパシャを介抱してくれて、ひどく安心した。
 大人に任せられるということにほっとした。すると、自分が一人になった気がした。
 自分のことを考えられるようになった。身を斬られるように、心細くなった。
 声をかけられたら、自然と口が開いた。誰かにぶちまけてしまいたかった。心の内を伝えたかった。伝えて――
「助けて……」
 ユパ自身、はずみで出て行ってしまったようなそれに驚いた。とても弱くて、頼りない。
 ふがいなかった自分を責めたのは、同情を引きたかった。
 優しい言葉をもっとかけて欲しかった。もっと心配して欲しかった。あさましい自分を強く、否定して欲しかった。
「助けて、ください」
 今度は声を振り絞って、またさらに涙が頬を伝った。侍女の指にそれは伝わり、彼女は優しく毛並みごと指でぬぐう。
 自分自身のことしか考えない、勝手な願いだというのは、本人がとうに分かっている。
 しかし、紛れもなく本心だった。
 
「ごめんなさい。わたしもあなたを導いてあげられないことにやりきれない思いなの」
 ユパもそれとなく察してはいた。
「はい。侍女さま」
 誰も自分を救ってはくれないのだ、と突きつけられて。
 けれどもそれは自棄を起こした末の愚痴っぽくはなく、ユパは驚くほどすんなりと受け入れる。
「いいえ、侍女さま。心の整理がつきました。決してあなた様の信仰をお疑いするわけでは」
「まあ、何を言ってくれるのでしょう。おませなジャガーさん」
「「さん」は少し……」
「分かりました。あなたのお名前は?」
「ユパ。戦士、ユパ」
「あなたはきっと……これからも苦労を背負いこむのかしらね、戦士ユパ。けれども」
 そこでこの侍女は泣き濡れたユパを椅子に座らせた。さらに、様子を見守っていた他の侍女を部屋から下がらせた。
「積り重なったすべて吐き出すのは今をおいて他にはないでしょう。……あの娘はまだまだ起きないから安心していいのよ」
「はい。それでは、これを」
 そう言ってユパがゆっくりと手を伸ばすと、じゃらりと重い金属が鳴った。
 鉄の鎖だった。パシャを戒めていた、あのずっしりと連なる鉄鎖。
 侍女たちが検査するというので持ってきたものだが、特に異常はないとのことで、まだそこにあった。
「この鎖を伸ばし、これからの得物としたいと思います。
 こう……体に巻きつけて、そうですね、首のあたりにこの鎖が来るようにしたいのです」
「あなたという戦士は……業とするおつもりですか」
 はい、とユパはゆっくりと頷いた。
 彼は今日の出来事を金輪際忘れることのないように、自らに刻み付けたいらしかった。
 当の鎖を肌身離さないことで、罪の意識を自らに課す。誓いには重過ぎる、業だ。
「侍女さまは仰られました。自分にできることと、他人にできることを知りなさい、と。
 誇り、ですし……ずっと謝って行かないと。満ち足りるまで」
 さらには微笑み始めたユパに、この年端もいかない若者に、侍女はぶるりと震えるのが分かった。
 落ち着いて大人びて現実を受け入れたように見えて、実はこの若者は狂気を手に入れ始めたのではないかと。
 
 危惧する侍女を気に留めることなくユパは続ける。
「ですから、この鎖に、侍女さまの祝福を授けていただきたいのです」
「祝福……を?」
「ええ。侍女さまの、雷神マチャクアイの祝福をもって……この鉄鎖で『草刈衆』を撃ち砕くことを、我が宿命としたいと。
 それと、戦士ユパが明日から先、狂気に支配されることがないようにと、ははっ」
 狂気は雷神マチャクアイが司る感情のひとつだ。
 雷から連想される閃きは、芸術家たちに特に歓迎され、彼らの中にはかの女神を信仰するものがいるが、
 そしてあまりに鋭敏すぎて精神の失調が狂気に至った者たちを、「マチャクアイに魅入られた」と呼ぶ風習がある。
「それでは逆ではありませんか!狂気をさらに迎え入れますよ!」
「あれ?冗談ですよ、冗談。自分でもちょっと……くらくらして、おかしいって思ってたところに、
 侍女さまがあんな反応するから。からかいたくなるじゃないですか」
 今度は年齢相応に子供っぽく笑ったユパ。
 なのに、彼の言うとおり、どこかぎごちない。ぞっとするような違和感が匂いたつ。
 雷神に仕えるがゆえに、この侍女ははっきりと予兆を感じ取る。
「あ、ははっ、でも……本当に俺、どこかおかしいのは確か、なんです。だって、俺、パシャに――」
 それから先、彼はこれまでの葛藤が嘘のように、自分が気を失っているパシャにしたことをすらすらと語った。
「――ですからもう俺はあの賊どもと同じような同類でそしてあの同類どもが憎ったらしくて撃ち砕きたいと
 思う俺はやっぱり狂気がお似合いなんじゃないかと思ってでも狂戦士が味方にいたら怖いから狂気を抑えるには
 やっぱり雷神マチャクアイにお願いするのが筋でだって狂気を司るなら狂うも狂わないもきっと――」
 すらすら、などと言うものではなかった。
 息を継ぐ隙間すら見せずにぶつぶつと、口角に白い泡を浮かせ、瞳はどこか遠くを見ている。
 この場にユパを知る者がいたなら、口元を引きつらせるだろう。
 知り合って間もないながらも、専門家でもある侍女でさえその異常ぶりに息を飲んだまま吐き出せていない。
 
 彼女は狼狽したまま右を見、左を見、そして見つけた。
「戦士ユパ! しっかりなさい!」
 彼が執着していた鉄鎖を、彼の鉄錆色の腕ごと持ち上げて眼前にさらす。
「今この鎖に祝福を授けました。もう安心なさい。あなたは、もう大丈夫」
 ユパが呆然とそれを持ち上げたままな間に、錆びていない鉄色の鎖の両端を跳ね上げて分厚い肩にかける。
 さらに抱きすくめるようにして、ぐるぐると冷たい鉄の輪を巻きつける。
「あ……」
 きょとんと、焦点が正面の侍女に戻った。
「戦士ユパ、この鎖はずっと肌身離さぬように。戦士が自ら定めた宿命、あなたが定めた」
「はい。覚えています。これは俺の狂気を抑えてくれる。大切な、業の鎖」
「そう。そのための祝福です。戦士ユパ、雷神マチャクアイの奇跡を知っているかしら」
「……すいません。あまり良くは」
「ならば、これから学びなさい。行使かなわずとも奇跡を知り、戦場で害をなすことはありません」
 さあ、と衣擦れの音も涼やかに、中年の侍女がすらりと立つ。彼女は"神の声"に意識を傾け始めた。
 密林の民の立ち上がった耳の内部にある特別な受容体が大気中に漂う力を感じ取る。
 丹田に集められる力。
 解き放たれる奇跡。
「《漂いつきし御髪しずしず去れかし――》」
 詠唱を終えた侍女は両手をそっとユパの頭に両側からあてがい、パシっと乾いた音を打った。
 やや驚いた表情のユパだが、今姿見を見せればもっと驚くだろうことを彼女は知りつつ、黙っていることにした。
 また、口を結ぶついでに吹き出しそうになるのもこらえる。
 帯びた雷気によって頭部の毛並みだけふわふわに膨れ上がってしまうのは、戦場で知らなくてもよいことだ。
「今のは?」
「脳内の雷気を鎮め、気分を落ち着かせる一種の癒しになりますよ」
 実際は、高ぶった例の感情を抑えるための奇跡だが、あながち嘘でもなく、侍女はそう言った。
 後付ではあったが、きちんと治療を行えたことに安堵したようだ。
「さあ、ユパ。戦士にも休息は必要です。そろそろ眠くなってきたのでは?」
「……そういえば、そんな気も。でも、いいのでしょうか」
「ええ。ただ、あなたは胸の鼓動だけを聞いていなさい。とくん、とくん、と」
 諭しながら、彼女は脱力し始めたユパを隣室に移動させ始める。
「この調子では、他の生徒たちにも《整流》を検討しないと」
 最後に耳元でそんな言葉を聞いたような気もしたが、すぐにユパは夢の園へと鼻先を突っ込んでいた。
 とくん、とくん、と。
 このときから己の中で何かが形を成しつつあることに、鉄錆色のジャガーが気づくのはもう少し後になってからだ。
 
 
   §   §   §
 
 
 長い夜が開けると、さらに長い一日が始まった。
 事件の全容を知るべく憲兵隊が調査に踏み込み、当事者である456期生たちは当然のように巻き込まれた。
 何処よりも早く介入していた司祭・侍女たちの協力もあったせいか、事情聴取は滞りなく進んだ。
 皇后も含めて各族長に説明がなされたのは、三日後。
 公表はされないことが決定されたのは、五日後。
 一転、一部に緘口を命じた後に、操作された情報がひっそりと公表されたのは、十日後。
 しかし、そんな世間的な建前はユパたち456期生にはあまり関心のないことだっただろう。
 
 屈強な鉄錆色のジャガーは汗を飛沫に、訓練用の木偶に撃ち込むだけだ。夕陽に彼の影が長く伸びている。
 突然じゃらん、と重い金属音が鳴り、即座にキィンッと木がたてたとは思えない鋭い音が響き渡る。
 そして数瞬たってから彼の細長い影からさらに細い影が一本の棒のように突き出した。
 初速が速すぎたせいで、着弾せずには影が生まれないのだ。
「よっ、ユパ」
 彼は後ろから呼ばれた。鉄錆色の尻尾を振って応える。
「ご苦労なこった。ま、俺も人のこと言えねぇがな」
 ぶん、ぶん、と空気が重くかき回される音が背後でしなる。
 次いで、びゅっ、と大気を従えたかと思えば、どうやらその構えのまま静止したようだ。
 徐々に高まっていく背中越しの気迫。
「壊す木偶は半分にしておけ、サキトハ。俺の分が失くなる」
「上々だ、ユパ。なんとも言えねぇな、あんだけ壊すな壊すな言ってた教官が、黙って新しいの持ってきやがる」
 背中合わせにそれぞれの得物を構えるのはもちろん、ユパとサキトハだ。
 夕陽が二人の毛並みを照らす。互いに近い色合いのせいか、ジャガーの斑点を除けば夕陽のせいで区別がつかなかった。
 否、躯だけではない。内心の思いですら区別がつかなくてもおかしくはない。
 傾いた陽にどこか物悲しさを感じてしまうのは、誰もが同じだ。
「知ってっか。俺らのこと。『星の456期生』サマだとよ」
「知った。別に外から何を言われようと関係ない」
「けっ。だぁがよ、褒章のつもりで称号か何かか?はっ!反吐が出ら!」
「サキトハ、集中だ」
「やだね。ユパほどには俺はなれねぇ。ムカついてたまらねぇから、俺はここに来た」
 ひゅぅ、ざっ、ピュンッ、パァンッ、と、サキトハの繰り出した音はほぼ同時に聞こえる。
 錬気、踏込、刺突、残身。何一つとっても以前の彼の動きではない。
 それだけの技を磨くのに、このピューマはどれだけ槍を突いたのか。すでに彼の黒槍は躯の一部と化していた。
 
「ったく。もっと頑丈なの作れねぇもんか」
「無理だな。強い反発は躯を壊す。だが……」
「あ?」
「俺も同感だ」
 サキトハに見せ付けるつもりではないが、ユパも鉄鎖の先についた分銅を投げ撃つ。
 途中で鎖をたぐり、反動で分銅が戻ってこないうちに、再び鎖を操り、分銅の着弾点をずらす。
「今いろいろやったな。ま、毎日ここでぶん投げてりゃ当然かぁ」
「面白い得物だ、鉄鎖は。破砕力に秀で、変幻自在。対集団に弱いのが難だが。振り回せば一人に絡まって止まる」
「ユパならやれる。俺よりデキがいいからな」
「おい、サキトハ」
 ユパは親友の名に不審の響きを与えた。今日の彼はいやに自分につっかかる、と。
「ああ、すまねぇ。ムカついてんだ……自分にも」
 牙を軋ませるような様子に、ユパも思い至った。
 彼だけは同期たちより彼女のことをほんの少しだけ知っていたから、サキトハたちよりは心の準備があっただけのこと。
 最近ようやく寝台から身を起こし始めた、山吹色のジャガーの少女のこと。
 
「何を思ってもアイツに失礼になる。やりきれねぇ」
 パシャの心は冷たい小雨に打たれすぎて、さらに冷え切ったのではない。
 少女は落雷の恐ろしさに、目をつぶって耳をふさいで聞こえなかったことにすることを選んでいた。
 そのため、彼女を救い出した456期生たちに医師と軍高官から厳しい注意がなされた。
 あの夜のことについて一切のことを、パシャに聞かせることを禁じる、と。
 さらには緘口令が適応されるため、訓練生間においても禁じる、と。
 それだけパシャの精神状態は危ういということだ。ちょっとした切欠でどう転ぶか、医師にも分からないようだ。
「行っちまった女子のことも、すっぱり忘れてんだぜ?どうしていないのかも不思議に思わねぇ」
「サキトハ。止めろ、命令違反だ」
「ほらな、ユパは俺より強い。命令ひとつで抑えられる」
「いい加減にしろ。はっ倒すぞ」
 そしてユパは背中合わせのサキトハから数歩、前に出て離れた。しかし、振り向かない。
 いつしか夕陽は沈み、昼と夜の切換を担うと言われる、金星神アウキヤの薄紫色の帳が下りてきていた。
 
「ユパが一人で楽しく鎖でじゃれてる間に、俺らは誓ったぜ。何が何でもアイツを……生かしてみせる。
 誰かアイツを本気で支えてやれるヤツが現れるまで、絶対だ。あのままでいいわけねぇからな。
 俺ら『星の456期生』でひとつの星座を組むわけだ。中央でいっとう輝いてるのがアイツだ。
 もちろん、いつか俺らは配属先次第で別れる。だが、誓いは生きる。そのためにも一人でも多く生き残ればいい。
 こんだけ人がいりゃ、誰かはパシャと同じ砦で……俺らの一等星の輝きを守れる」
 
 ジャガーは夜空を見上げた。もう、星がちかちかと瞬いている。
 夜は、まだ始まったばかりだ。夜明けなんて、とても。
 
「ユパ! どうだ! お前の星はどこにある!」
 
 答えない。ただ、胸元の無骨な鎖を指でたどった。
 
「いっとう近くにいたいんじゃねぇのか!チタラが教えてくれた、てめぇはパシャを好きなんだって。
 や、チタラは悪くねぇ。殴って聞き出したのは俺だ、勘違いすんなよ。
 言えよ、ユパ。アイツの隣にいたいって。一人で……一人で、水くせぇ、だろうが」
 
 全力で分銅を投じた。木偶に鎖を絡ませ、引き倒す。その木偶が一瞬だけ、玉蜀黍色に染まって見える。
 
「俺の星も、その星座の中に、入れてくれ」
「ユパ……」
「いい誓いだ。パシャを支えられるヤツを俺たちで見極めるのも、その誓いに加えたらもっとよくなる。
 どんなヤツだか、おもしろそうだ」
 
「ユパ! てめぇ!」
 ユパは躯をねじり、もう一方の分銅で木偶の頭部を撃ち砕く。
 もちろん、木偶からは脳漿が飛び散りもしないし、眼球が飛び出したりするはずもない。
「すでに俺は、この鉄鎖を撃つことを戦士の宿命にした。
 この鎖は、パシャを縛っていたあの鎖を伸ばしたものだ。神殿からの祝福も授けてもらっている」
「なんだと!」
 サキトハの驚きは珍しいことではない。
 やや意味合いは異なるが、戦友を手にかけた武具で己が戦うことを宿命にしたならば、
 それは天の果て地の果てまで追いすがって戦友の仇をとることを自らに課すということだ。
 つまりユパの場合は、パシャを戒めたその鉄鎖でもって、オグマを討ち取ることをしめす。そしてさらに――
「戦友の墓前に、仇取らずして立つことあたわず、ってか」
「そうだ、サキトハ。以前からあの汚らしい斑点はジャガーらしくないと思っていた。ムカついてしょうがなかった。
 俺はあの不ぞろいの玉蜀黍をもぎ取ってやることの方がパシャより……大事だ」
 戦場でユパとオグマが相まみえる可能性はいかほどか、それはサキトハにも分かる。
 この鉄錆色のジャガーは山吹色のジャガーへ想いを伝えることを放棄した、ということだ。
「ユパ。本当にそれでいいのかよ」
 サキトハも戦士の心意気を継いでいる。
 戦士の宿命の重要さを知りつつも、やはり親友のその行動を完全には賛成できなかった。
 ユパには、そんなサキトハの気持ちが嬉しい。そして、全てを打明けられないことに、心の牙を噛みしめて耐える。
「ひとつ言っておくがな」
「あ?」
「ぱ、パシャがオグマと、その、そういう……関係、があって、で、なくても」
「何またどもってんだよ。はっきり言えよ」
「パシャのことが好きなのはこれからずっと変わらんと思う」
「……ぶっ!何かと思ったらっ、あはっ、あっはっひゃっひゃっ!んなの言わなくてもっ、ふひっ、うわ恥ずっ!」
「サキトハ。あと十数える間に笑うのを止めろ」
「ムリだっはっはっは!あとでチタラに教えてやろっふはははは!じゃっ!もう飯の時間だ!」
「待てっ!……雷神マチャクアイよ。狂気の雷をわれにっ。俺の鎖から逃げられると思うなっ、サキトハぁ!」
 
 ユパとサキトハの間では、こんなことがあって。
 しかしこの二人だけでなく『星の456期生』のそこかしこで、このような誓いがあったことだろう。
 誓いを果たすために、生き残るために、仲間に恥じない力をつけるために。
 結果として誰もが貪欲に知と技を吸収しようとする、それこそ教官をたじろがせるくらいに。
 つい先日まで、一人の少女の過熱気味の訓練のせいでとばっちりを受けることを恨んでいた彼らが、だ。
 それは彼らが訓練生としての過程を修了するまで途絶えることは決してなかった。
 そしてついに『星の456期生』は戦場へと散る。
 長期にわたる優勢という、そんなたるんだ雰囲気の中で突然変異のごとく現れた綺羅星たち。
 彼らは誓いを胸に、続々と戦果を挙げていく。
 『虜囚』ユパ、『鉄笛』サキトハ、『落葉』サッリェ、『若先生』チタラ、……
 戦場は異なれど、彼らが尊敬と羨望のあだ名をつけられるのに、さほど時間はかからなかった。
 特筆されるべき武勲の中には必ず、456期生出身の者が名を連ねていた。
 
 だとしても。
 栄光とともにあろうとも、ユパは宿命に従いつづけた。
 ユパの根幹、脊髄の柱には罪の髄液。それは枯れることはない。
 初恋の少女に罰を請うこともできずに、生ある限り心の内でだけ謝り続ける。
 何をしても、彼自身が救われたいと、許されたいと願う気持ちにつながるのだ。
 それならば一生罪に苦しもう、抱えて生き続けよう、と。
 卑怯なのかもしれない。
 罪を隠したいだけなのかもしれない。
 責任を裏切りのジャガーに押しつけて、逃げたいだけなのかもしれない。
 実際にそう願ったこともある。
 それでも、ユパは自身の出した結論を信じたかった。ユパの星、それは決して錆ついた光ではない。
 
 
   §   §   §
 
 
 ふと、風が卓上の折紙の位置を少しだけ横にずらした。
 ユパの回想はそこで破られることになる。
 
「ユパ。ふつう、人の部屋に来ていねむり?」
 
 この声音。女性にしてはやや低めな声音は、戦場では良く響く。味方を鼓舞し、賊を挫く。
 今は、はっきりと不満そうな感情が混じっているのが分かる。
 昔からすれば、とても信じられないことだ。他人を気遣うのも、もちろんそうだ。
 しかしそれは異世界から『落ちて』きたヒトによって簡単に成し遂げられてしまった。
 卓上にある紙鳥のつがいの片割れ、キオ。ユパがしたくて、したくてたまらなかったことを、彼が全てやってくれた。
 嫉妬がないとは言わないが、痛いほどに快かった。誓いは、果たされたと言ってもいいだろう。
 
「ああ、すまん。呆れて何も言えなくてなってしまった。
 パシャが俺たち同期の心配より、自分の心の方が大事だと言う」
 すると、きゅっと眉間に谷ができた。ユパには、まだそれに違和感がある。
 もちろん嬉しい違和感ではあるのだが。
「一対四でも負けない」
 しかも負けず嫌いを堂々と表に出してきた。ユパは吹き出しそうになるのをこらえる。
「負けておけ、パシャ。意地を張っても実りはない。元に戻っていいことあるか?」
「ない。けれども」
 むっとした表情から、今度はしゅんとした表情になった。
 こんな変化がいつでも見られるキオはとんだ幸福者だ、とユパはしみじみと思う。
「どうしたらいいか、分からないだけ。皆の心配りも、キオのことも」
 つまり、パシャはまだ子供なのだ。
 凍結していた感情を表情に混ぜることを覚えても、彼女の三本ある白銀のようには、うまく扱えないだけだ。
 そしてその扱い方を教えるのに一番適した人物は彼をおいて他にいるはずもない。
 
 誓いは果たされたのだ。もう、決定事項な上に、処理済みだ。復活を許すほど不名誉な誓いはない。
 首どころか全身に鉄鎖をごりごりと巻きつけてでも、キオを引きずり戻すのが一番だ。
 鉄槍に手首足首を縛りつけて宙ぶらりんでもいいし、
 小太刀であのねじくれた耳を始め二つあるものは全て飛ばしてやると脅してもいいし、
 自白剤でも投与してあることないこと全てパシャに謝らせるのもいいかもしれない。
 しかし、ユパも同じ男だ。男の意地というものも、応援する価値がある。
 なにせ戦は密林の男に許された最後の意地だ。
 
「パシャらしくすればいい。素直になれ。キオを、怒っているのか?」
「違う。怒ってるけれども、違う」
「自分が許せない、か?」
 こくりと、まるで素直にパシャは頷いた。
「どうして私はキオを放っておいたのだろう。キオは悩んでいたのに。あべこべで、私は何もかも間違いだらけだ。
 キオは私に教えてくれた。不安なときは手を握ればいい、と。近しい人の体温が何よりの特効薬だ、と。
 なのに、よくある新兵の悩みと決めつけて私は何もしなかった。それしかないと思いこんでいた。
 勝手に保護者を気取ったと思えば、今度は放置を決め込む。私はキオに見放されて当然なのかもしれない」
 ところどころ、言葉を選ぶようにぶつぶつと切りながらも思うところをパシャは吐き出した。
 ユパはふんふん、とわざとらしく鼻息をたてるように頷く。
 さて、どうしたらおもしろ……おっと、パシャを「いい女」にできるだろうと彼は真面目ぶって考える。
 
 このような場合「ぐらついた女には気のきいた言葉を投げかければ女はこっちにころりだ」
 と、百戦錬磨のサキトハは言うだろう。
 裏でも撃墜王のサキトハの言や良し、だ。彼はいろいろと一点突破している男だ。
 一方対比されるように、よくユパは朴念仁と評されているが、それはそのように振舞っているからだ。
 心に一人の女性がいるのに、たとえ叶わないと分かっていても、他の女性に手を出すのはユパの気性に合わない。
 サキトハの「武勲」に、よく恋の相談を受けるというチタラの「ここだけの話」に、
 サッリェを酔わせると(滅多にないが)なぜか出てくる「だれそれの不倫話」が加われば、大抵の状況には間に合う。
 知識だけでも、ユパは不器用な男を演じながら恋の指南のひとつぐらいできるのだ。
 
「この俺にも良く分かる説明だ。パシャはまた一つ、学んだ。次から活かしていける」
「ユパは分かってない。キオはもう戻って来ないかもしれない」
「戻って来る、さ」
 決まってるだろう、と何も疑いを持っていないように、ユパは首をひねった。
 するとパシャも自分の意見をぐらつかせたようだ。
「私だって、戻って来て欲しい。あやまりたい、何度でも……抱いてあげたい」
「ほ、ほおう」
 これはユパにも意外だった。感心したような彼の相槌は、半分以上、素の反応だ。
「悪い?」
「お、俺には良く分からん」
 後ろから親友たちが覗いていないことを、ユパは祈るばかりだ。
 パシャ本人の前で、うぶな男のように演じるのは実はめちゃめちゃに恥ずかしい。
 顔を背け、片目でちらちらと伺う。そこで、ユパの視線は別のものをとらえた。
「少し、借りるぞ」
 ユパはパシャの手元にあった、キオの書置きをひったくった。
 光に透かして「あった」と舌の上で呟く。これで筋道ができた気がした。
 
「これも」
「あっ、返して! ユパ、何する!」
 ユパは書木でその書置きを黒く塗りつぶしていた。
 パシャは驚きに目を剥き、椅子を蹴りつけ、ユパからひったくり返す。
「よく見ろ」
 やや訝しさを残しつつも、パシャは真っ黒になってしまったキオの書置きに目を移した。
 黒く塗りつぶされたところに、白い線が浮き出ていた。
「残りは、パシャがやれ」
 ころころと、彼女の手元に書木が転がってくる。卓上とユパの顔を、パシャは呆然と交互に見比べた。
 彼は腕を組み背もたれに寄りかかり、興味のないような態度をしめしていたが、
「ヤツは筆圧が高いようだな。その上にあった紙に書き殴ったあとが、くぼみになって残っているだろう」
 それでも口を出したがるのは、いかにもお節介なユパらしい。しかし、ようやくそれでパシャも理解した。
 すぐさま黒い墨を手に取り、従者の残した唯一のそれに薄く滑らせ始めた。
 
 それは、ちょっと恥ずかしいながらも「きっと帰る」といった類の文字。
 濃いくっきりとしたあとも、薄く淡いあともある。一部分はその白く浮き出た文字が重なってもいる。
 
 くくっ、とユパが薄く笑っていた。
「ヤツは何回書き直したんだ」
 キオは書いては破り捨て、その下にある紙束に知らず痕跡を残していた。
「結局? "約束、すまない"?」
 最初は勢いのままパシャに伝えたかったのだろう。しかし「力」をつける確証がないことに散々迷い、
 最終的には不実ともとられかねない内容になってしまっている。
「バカだな、きわめつけのバカだな」
 吐き捨てるようなユパの口調だが、そこに親愛の情が混じっているのは、パシャでさえ分かる。
 だから、彼女も同じことをすることにした。
「ん。キオはバカ。でもたぶん、キオは嘘をつきたくなかった」
「力をつけて戻ってきたとしたらまずいだろう。"約束を守れる"ことになるが」
 一瞬だけ、パシャはユパの言うことが分からなかった。
 しかし次の瞬間に意味をとらえると、それはそれで嬉しいことに違いはない、と思った。
「そういう、いい嘘なら許せる」
「はっ! いい嘘か」
 ずい分とパシャの表情が和らいでいた。ユパもにんまりとしてやったりな笑みを止められるはずもない。
「それにしても、パシャがキオを嫌いになっていなくて、まあ、安心か」
「今は嫌い。でも帰ってきてくれたら、また好きになる」
「聞いてるこっちがムカつくぞ。一体、キオはパシャに何をしたんだ」
「ん。内緒」
 そこで、パシャのやわらかな羽毛のような微笑み。
 山吹色の毛先が肩に触れ合うかどうかぐらいであったが、肩をちょんとすくめ、照れたように目を伏せた。
 
 それを見たユパはあんぐりと顎をだらしなく下げてしまった。
 これはヤバイ、と。部屋に置いてきてしまった鉄鎖が呪わしい。
 鉄鎖を己の狂気を食い止める楔としては使わなくてもいいまでにユパは成長していたが、この時だけはあれが必要なようだった。
 ばちばちと音をたてて、雷神マチャクアイの司どるもうひとつの感情が放電を開始する。
 それはかの女神が自分を袖にした神へ抱いた感情。
 己の愛する異性の愛情が他に向けられるのを憎むこと。すなわち、嫉妬。
「パシャ……」
「何、ユパ。変な顔して。あ、今日は本当にありがとう。すごく、助かった。こういう負け方はいい。気持ちいい」
「礼ならいい。ちょっと頼みたいことがあるだけだ」
「頼み?」
 ユパは心中の雷をどうにかして御しようとする。
 しかし、頼みの避雷具は遥か彼方――
 カッと暗雲から雷光が今まさに疾く駆ける――
 
「今だけ、一回だけでいい。俺のことを「兄」と呼んでみる気はないか」
「は?」
「よ、呼んでくれるだけでいい」
「何だかユパ怖い。嫌。何か企んでるみたい。ダメ」
 みるみるうちに髭をしんなりとさせ、がっくりと項垂れたユパが、
 「恋人になれないなら、せめて嘘でも「兄」になって頼って欲しかった。反省はしている」と思ったかどうかは定かではない。
 しかしこの鉄錆色のジャガーに、ある属性が今この時付加されたようだった。
 
「む、ぐ。まあ、いい。残念だが……それはそうとサッリェと話していたことがある」
 どうにか精神の再建を果たしたユパは再びお節介を発揮する。
「?」
「内緒にしておこうとは思ったが、どうせだ。むずがってどうしようもないパシャ用の説得にするつもりだった」
 私はもう子供と違う、とパシャが小さく反論しているが、ユパは無視して続けた。
「キオはしっかりとした意志を持っているからな。忘れがちだが、ヤツはヒトでこの世界では孤独な存在だ。
 どうしようもなく辛くなったとしても逃げ込む場所がない。ヤツは独りで立つことしかできない。
 だから俺たちだけでも、何があっても味方であり続けたい、そう思うわけだ」
 長々と話し終えたユパは、そして大きく深く鼻から息を吹いた。
 それは偉そうに講釈を垂れたことに疲れたのではなくて、
 これまでの話の流れの中で、キオがパシャを一人の女性として扱った末の彼女の変化に安心してしまったからだ。
 今でこそ少し停滞してしまっているが、すぐにまたパシャは蕾が花開くような変化を続けていくだろうことも、楽しみだった。
 もちろん、隣にいるのはあの男以外ない。
「ん。言葉が沁みた。ユパたちは正しい。でも、どうしてそれが、私がむずがった時に有効?」
「パシャは信じたいのに、信じきれない。でも俺たちは信じてやると吹く。そしてパシャは負けず嫌いだ。
 負けず嫌いは「私だって信じてる」と言う。そして俺たちはそれを見て言う、やっぱりパシャはむずがってただけだ!っとな」
 主にこういった畳み掛けるような口調はサキトハがよくやる類。狙いの女に牽制の突きを入れるときに使うらしい。
 ただ、ユパはパシャを喜ばせるために言ったわけではないので、逆に彼女を怒らせてしまったようだ。
 パシャのつま先が、小机の下からがしがしとユパの膝を蹴りつけてくる。
 やっぱり子供なままだ、とはユパは思うだけにしておいた。
 パシャの機嫌がいいに越したことはない。それがユパの冗談のせいなら、なおさらだ。
「ユパにそこまで言わせるなんて、キオは一体何をした?」
「はっ! こっちこそ、内緒だ」
 
 そうしてわだかまりの解けた戦友たちは語り合って行く。
 またパシャの寂しさを紛らわせるのもいいと、ユパはそのあと自室の寝台に満足そうに潜り込みながら思ったものだが、
 次の日からしばらく、パシャの部屋に行けたものではなかった。
 このあと親友たちにしばらく「ユパ兄さん」と呼ばれ続けることになってしまい、たまったものではなかったからだ。
 
 
 
 
 

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