無垢と未熟と計画と?第4話(前編)
「『と、シンデレラは末永く幸せにくらしたとさ……めでたし、めでたし』……おやすみ、ロレッタ」
「う、うん」
おとーさんはわたしのあたまをなでなでする。
とってもあったかい。
「ねー……おとーさん」
「なんだい?」
「まほうつかいさんは、なんで、シンデレラをたすけたの?」
「うーん……」
こまったようなおとーさんのかお。
わるいこといっちゃったかな?
「あぁもう、泣きそうな顔するんじゃない……あぁそうだ! ロレッタが大人になったら分かるぞ、うん」
「ほんと?」
「あぁ、ほんとだとも」
もっとつよくなでなで。
あったかくてねむくなる……ねむく、なる……うにゃむにゃ……。
§ § 1 § §
ペンでさらさらっとサインを書いて、この書類は全部終わりっと。
「ん~~!」
一段落ついて、ぐっと座ったまま背伸びをして時計を見てみるともうお昼過ぎ。……うぅ、お腹すいたなぁ。
「ラヴィニア、終わったー?」
ノックを3回ほどしたあと、返事をする暇もなくそう声を私へ掛けながら、部屋へ入ってくるリゼット。
あっちの方の仕事も終わったのかこころなしか声が明るい。
「全部終わったけど……お腹すいたぁ……」
それとはまるっきり反対に私の声は暗い。
"ヤツ"捕まえて、その後の後始末でご飯は食べる暇なかったわ、寝る時間も半分くらいになるわで正直もうくたくた。
全く、リゼットの底抜けの明るさはどこから来てるのかしら?
「ほら、これあげるからしゃんとしなさい」
体中の力が抜けてだらけきっている私の格好に苦笑いしながら、渡されたのはなにやら生暖かい袋。
「……開けてみたら、見るに耐えない物でしたってオチは無いわよね?」
「日ごろの行いの所為なのは分かってるけど、そこまで疑われると逆にショックだわ……」
自分の行いが問題あるのは自覚はあるんだ。
そんな新発見と微妙な勝利をかみ締めつつ袋を開けて中を見てみれば、油で揚げたような色合いの丸っこいものが3つ入っていて、
それからは美味しそうな香辛料の匂いがして口の中から唾があふれてくる。
「……これは?」
「ロジェが気を利かせたのか買ってきたんだけど、ほら、アタシは熱いのダメだからね」
「へぇ~」
確かにこうしている間にも湯気がもくもく出ていて凄く熱そうだから、ネコのリゼットには無理なのは当たり前。
私も熱い物は苦手だけれど、いくらかは慣れているからなんとかなるかな。
「全く、そういうところに気を回さないで結婚生活なんてできるのかしらねぇ?」
同意を求めるようにリゼットはそう言うが、口元がうれしそうに緩んでいて呆れてるようには見えない。
まぁ、実際のところは私にはわからないし、なりより、
「うーん」
これ貰って食べちゃったら賄賂とかそういうのに当たらないかしら?
この程度。って済ませて後で問題になると困るけど、とってもお腹空いたし……うーん。
「はいはい、経理上は昼食と同じ扱いにしちゃうし、ただでさえアンタは燃費悪いんだから食べないと動けないでしょ?」
金銭関係の専門であるリゼットがそういうならそうなんだろうし、お腹が空いたままじゃお仕事は出来ない……だ・け・ど!
「誰が燃費悪いよ、誰がっ!」
そう迫ってみるが人差し指で額を押さえられて一言。
「アンタ♪」
「~~~~っ」
怒りたい。
そりゃもう精一杯。
がしかし、反論すればゾロゾロその証拠が出てくるだろうし、なにより、本当にちょこっとだけの自覚が疼く。
だから、ぐっ、と我慢して、袋の中から一つ取り出す。
「燃費悪いとかの話はともかく、さっさと食べちゃいなさい。ロジェが勝手に決めた移民者の面談をしなきゃならないしね」
「それと、捕縛した"ヤツ"の尋問もでしょ?……って熱っ! 辛っ!」
リゼットの話に答えながらちょっとずつ齧ってみれば、中からどろりとした物が口の中に入ってきたと思ったらそれが熱くて
辛くてなんのって……どっちも凄い。
「あぁ、ほらっ」
と、差し出された水入りのコップを奪うように受け取って、一気にのどまで流し込む。
それで何とか収まったけど、それでもまだヒリヒリして痛い。
「な、なんなのよっ、これ!」
私の詰問に惚けるよう天井に視線を彷徨わせているリゼットは素知らぬ顔。
これは予想だけど、ロジェ将軍をお使いに出させて買ってきてもらった物を中身を確かめずに持ってきんだと思う。
……リゼットにしちゃ珍しいミスだけれど、それだけ慌ててたってことかな?
「ん、ぅ」
熱い中身を少し冷まして食べてみると辛さはそんなに目立たなくてむしろちょうどいいくらいに収まっている。
それでも、辛いのがダメな人だったり、リゼットみたいに熱いのに弱い人にはちょっと厳しいかもしれない。
「……あれ、もう無いの?」
辛さに慣れてみると、意外に食が進んで気づいてみると袋の中はもう空っぽ。……なのだけど、お腹一杯にはまだまだ遠い。
もっとあるかな? と、微かな希望を託して持ってきた張本人の方に視線をむけてみるけど、
肩を竦めて"もうない"と言外に言われてしまった。
「ご馳走さまでしたっ」
「はい、お粗末さまでした」
物足りなくて不満そうな私の表情が面白いのか、クスクスを声を抑えて笑うリゼット。
そういえば、一番最初に会った時も同じ様な状況だった気がする。
……あの時はシチューだったけれど、リゼットったら火の加減が分からなくて、鍋の底を焦がして大慌てで手伝ったんだよね。
懐かしいなぁ。
結局、半分焦げたシチューの食べれる所を分けて、二人に苦笑いして食べたんだよなぁ。
「昔の事でも思い出してる?」
「え?」
いつの間にか椅子を隣へ持ってきて座っていたリゼットに、思い出に浸っていた事を見抜かれてびっくり。
「最近のアンタは何でも顔に出るようになったわよねぇ」
「そうかな?」
自分じゃ自覚ないけれど、鋭いリゼットが言うのならそうなのかも。
「でも、なんでだろ?」
そう疑問を誰に言うでもなく呟いてみても全く、これっぽっちも見当がつかない。
ヘンな物を拾い食いした覚えは無いし、頭を強く打った記憶もない。
「むーリゼット、なんで私、顔に考えが出るようになったんだろう?」
そう真剣に聞いたのに、いきなり吹き出して堪えたように笑い出す。
「こっちは真面目に聞いてるのっ!」
「ごめん、ごめん。っ、ここまで……っ、もう、だめぇ……っ!」
もうタカが外れたようにリゼットは笑い出す。その様子といったら目尻に涙すら浮いていて、とてもじゃないが口がきけるような状態じゃない。
収まったら私の何がそこまで笑わせるのか細かく聞いてやる……そう固く決意して笑い続ける彼女をじぃと冷たい視線で見つめる。
けれど、そんな視線を意に介さずに笑い続けて、ようやく収まったのはしばらくたってから。
……気になる上にすっごく腹が立つ。
「いやー、ごめんごめん。久しぶりにツボに嵌っちゃったわ」
「ふーん」
そう形だけ謝りながら涙を拭っているが、まだ笑いがこみ上げるみたいでヒックヒックと声が時折漏れてて、
本当に謝る気あるのか分からなくなってくる。
「そんな膨れなくても、ねぇ?」
「膨れてないっ」
「答えるから許して、お願いっ」
そうやって両手を合わせて拝みこまれちゃうと無理にも怒れないし、なりより、にっこりと憎めないような笑い方をされると
張り合う気力も萎えて来る。
全く、得な性格してて羨ましい。
「もういいから、さっさと答え言って」
面倒になって投げ遣りにそう言うと、リゼットは人差し指を立てて自分の唇に当ててニヤリを端を釣り上げる。
とてつもなく嫌な予感がするのは気のせいかしら?
「恋をするとした人に癖が似てくるって聞いたことあるわ……リョウ君もすぐに顔に出たわよね?」
そう言ってから『あ』と声をあげて『失敗したっ!』言わんばかりに表情を歪める。
「不謹慎だったわ、ごめんなさい」
そう短く言ってリゼットは私に向かって頭を下げた。
「別に気にして無いわ、頭を上げて頂戴」
言葉は確かに短かったがちゃんと誠意があるのはよく分かるし、これに怒るのは私の役目じゃない。
……ネタにされている本人の、"りょー"の役目だ。
それに、だ。
「病院の方から一命は取り留めたって連絡きたんでしょ?」
「えぇ」
金や技術に糸目はつけないと指示した分、魔法治療など高度で高額な方法を施した上に処置が早かったおかげもあるらしく、
すぐにそういう連絡が来たのだ。
意識こそ戻らないし、背中についた刃物傷も一生残るそうだけれど、命には代えられない。
「それで、ロジェがあっちに戻るついでにリョウ君を運ばせるってのを考えてるんだけど……どう?」
「んー……」
悪くない話、だと思う。
絶対安静ならば状況は別だが、こういう提案が来るのだからそういう問題はクリア済みであるのは確か。しかもいくら病院だとはいえ、
意識の無いヒトを"泥棒"することは容易い。
そういうことから動かせるのならばすぐにでも動かして安全を確保するのは当然の判断だ。
ただ……やめておこう。どんな判断にも私情を入れたらそれは権力の濫用になってしまう。
「構わないわ、付け加えるならロレッタにもりょーの状態を教える手紙なりなんなりの手段をつけて頂戴」
「それは抜かりなく」
と、指示しつつも私の心は暗い。
そもそもここへ連れて来さえしなかったらこんな目にあわせずに済んだ筈。
こうして生きてるからいいものの、可能性としたならばもっと大きな怪我をしてこの世から居なくなっている可能性の方が
大きい。そうなったら私、耐えられるのかしら?
とうさんやかあさんの時は、この仕事の引継ぎやらなんやらの忙しさで誤魔化せた。けれど今ならどうか? ……出来るわけが無い。
……そんな暗い想像でため息を吐くと、生暖かい視線を向けてくるリゼットの顔が目に入る。
「な、なに?」
「いえいえ、憂え顔が色っぽいなぁと」
「ふん、だ」
『色っぽい』なんていう評価私はに似合わない。
何故なら、そういう表情ができるほど"女の子"らしくないし、そういう面でならロレッタの方が何倍も"らしい"。
「ほんとアツアツね、アンタ達」
そんな私の思いを知ってか知らずか、毎度毎度のからかいに辟易して、別の意味で大きなため息が自然にでちゃう。
でも、そう思われても仕方ない事を私はしているは確か。でなければフランツさんやリゼットにこう言われる理由が無い。
「あぁ、ヘーゼルさん、グレンさん。このままだとあなた達の娘が爛れた日々に――!」
「だぁかぁらぁっ! かあさんととうさんをダシにしてそっち方面にもっていくなーっ!!」
精一杯声を張り上げて突っ込んでみるが、依然リゼットはニヤニヤと含みのある表情を浮かべていて反省してる兆しは一切無い。
うぅ、勘弁してよぅ。
「ふぅん、それじゃ……もし、リョウ君に押し倒されちゃったら、抵抗できる?」
「えっ」
ただのおふざけの質問の仕方だったならば『当たり前でしょっ!』と反論できたと思う。けれど、今のは違う。
口調はいつも通りだったけれど、私へ向けられた視線はまるで試すような色合いを帯びていて答えに行き詰る。
「どうなのかしら、ラヴィニア?」
こんな時のリゼットほど厄介な物は無い。
商家の娘だったからか、嘘には鼻が利く上、ネズミ以上に勘がいいからヘタなその場凌ぎは見抜かれてしまう。
それに親友に嘘だけは吐きたくないのもある。
「そうなったら、ちょっと……」
「ちょっと?」
頑張って正直に答えを言おうと声を出してみたけど、恥ずかしくて思った以上に声量が出ない。
「抵抗できる、自信…………無い」
精一杯の勇気を込めて声にしてみると、自分が何を言った再確認してかぁっと顔どころか首筋まで熱くなって、
居心地の悪さに体を竦めて、俯くしかない。
実際、私側から半ば押し倒しのような格好になったのは何度かあるし、既成事実一歩手前のような事も……した。だからって
訳じゃないけれど押し倒されたら、時と場合によっては抵抗しないかもしれない。
自分でも不確かで要領得ない答えだとは思うけれど、今の私にはこんな答えが精一杯だ。
「そっか」
そう短く答えるリゼット。けれど俯いた私は表情をみることが出来ない。
失望されてもおかしくない答えだし、仕方ない、かな。
「心底失望したわ、貴女には」
「っ」
"どんな謗りも受け止める"
そんな覚悟を持って受け止めてもやっぱりこういう言葉を聞くと胸が痛い。でもそれだけの事は言ったんだから、当たり前だ。
「……と、言うとでも思ったかしら?」
ぐずぐずと自虐の沼に沈みかかった意識が、さっきまでとは違う明るい声音に引っかかる。
そして、恐々と顔を上げてみれば、そこにあるのはリゼットの自然で、優しい笑顔があって、
「た、試された?」
そう恐る恐る聞いてみると、肩を竦めて笑顔をイタズラっ子のような無邪気な物へ変える。
昨日もフランツさんに似たような事をされた気がする……進歩ないなぁ私。
「うぅ、もういや……」
いろいろ思い詰めた反動で体から一気に力が抜けて、テーブルにべたっと上体を乗せて伸ばす。
こうやって試されるのは嫌いじゃないけれど、こんな心臓に悪い試され方されたらこっちの身が持たないし、揃いも揃って
こっちの反応を愉快そうに笑ってるのが余計に気に入らない……全く、私の何が面白いのかしら?
「ラヴィニア、そろそろ時間だから行って来るわ」
「ん、いってらっしゃい」
そう送り出して、ドアの向こうへ消えるリゼットの背中を眺めて一息吐いてまたテーブルへと向かう。
"りょー"が心配で気が重いけれど、止血程度しか出来ない私には何も出来ない。だから精一杯自分の仕事をやりきって、
胸を張って彼に庇ってくれたお礼を言うのだ。
うん……がんばろう……!
§ § 2 § §
重い。
なんとか目を開けて見覚えのある天井をぼけーと見つめていると、何故かそんな単語が頭に浮かぶ。
実際、薄手の布団の下で体を動かそうとしても、油を差し忘れた自転車のチェーンみたいで動かせない上に、頭の中に霧が
掛かったみたいに考えが纏まらない。
なんだか、俺自身ですら起きているのか寝ているのかよく分からなくなってくる。
「よい、しょっと」
いわゆる夢心地なのだろうけど、いつまでもそうしてられない、と鈍い思考が告げる。
そうして、相変わらず重い体をずるずると動かして上体を起こしてみると、やっとで頭に血が巡り始めて状況が掴める様に
なってくる。
さっきまで見ていた天井だが、見覚えがあるのは当たり前。俺の部屋の天井だからだ。そして今ここで寝ていたのは自分のベット。
……つまり、ここはご主人様が治めている町。
「あれ?」
ご主人様って誰だっけ?
優しいけれどどこか危なっかしい人というのは頭に残っているのだが、顔と名前が思い出せない。正確には"分かってはいても
喉まで出掛かっている"という微妙な状態だ。
ずっと考えていれば出てくるかもしれないが一旦それを思考の隅に置いて、部屋を見回して……何も無い。
窓には質素なカーテンが掛かってるが、光源はそこから漏れる僅かな月光と近くのテーブルに置いてある消えかかったランプのみ。
それ以外は見るところが何も無いくらいに、物が本当に無い。
そういえば、『いつ居られなくなるか分からないから、私物は最小限に』と決めていた事を忘れてた。しかし、自分の部屋ながら
ここまで物が無いと確かに寒々しい。……これからはちょっとだけでも置いておこう、うん。
「~~」
声にならないような呻き声が聞こえてふと自分の腰あたりに布団越しにではあるけれど、微妙に重みがある事に気がつく。
見てみれば所々で濃淡が違う灰色の毛玉……もとい頭。
どうやら、俺を看病をして居るうちに眠ってしまったらしい。
「えっと……?」
見覚えのある髪の色と小柄な体。
記憶はこの子を知っていると告げているが、これも喉まで出掛かって思い出せない。
そんな微妙な感じを味わっていると、だんだん自分自身に苛立ってくる。正直な所、大声でも上げて気を晴らしたいが心地よさそうに
寝ているこの子を起こすわけにも行かず、腕を組んで手持ち無沙汰なままやり過ごす。
「ぅ」
天井を見ながら考えるの首が痛くなりそうなので、寝ている小さな女の子の寝顔をみているのだけれど、時折、思いついたように
耳が動くのがとても気になる。というか触りたくて考えと苛立ちを忘れてしまう。
気を取り直してみても、どうしても気になる。
「……よし」
もしかしたら何かを思い出せるかもしれない。と、理論武装して意を決して右手を伸ばす。
「っ」
もうすこしというところでひょこっと、耳が跳ねる。
ただの偶然なのだろうけれど、それがまるで触るなと言っているみたいで後ろめたい気持ちが持ち上がって、思わず唾を飲み込む。
それでも、この触り心地の良さそうな耳にどうしても惹かれてしまう。
「ごめんね……っ」
一応謝りながら手を伸ばし、親指と人差し指の2本でゆっくりと挟み込みこんで、触れる。
そうして、伝わってきた感触いったら驚きのあまり息が詰まるほどで、これは……癖になる人もいるかもしれない。
薄いながらも押し返してくる弾力があり、それでいて血の通う震えが一つ一つしっかりと伝わってくる。さらに髪の毛と
同色である毛が綿毛のようにさらさらとしていて、耳の弾力とセットでいつまでも触っていたい様な気持ちになってくる。
「覚えていなくて、ごめん」
名残惜しくも耳から手を離して、名前を思い出せない小さな女の子の髪を梳く。……何度も、何度もだ。
覚えていない事を謝られても正直この子は戸惑うだろうし、困ると思う。でも、覚えてもらえないというのは絶対悲しい。
だからと言って謝らなくていい事にはならないし、謝るだけじゃすまない――ちゃんと思い出してあげなきゃ、ダメなんだ。
「…~~……んぅ?」
記憶が欠けている事も背中が微妙に痛むのも全て脳の片隅に置いて、頭を撫でるように髪を梳いてあげていると唐突に
寝ていた女の子が起き出す。
すぐに体にあった白い小さな手で目をこするあたり、寝起きはいい方らしい。
「お、おはよう」
「!」
いや、もう外は暗いからこんばんわ? などと呑気に冗談でも飛ばそうかと考えて声を掛けると、元々大きめの瞳を限界まで
大きくして、まるで信じられないような物をみるような表情で唖然としている。
流石にこの状態で冗談を飛ばすには状況が悪すぎる。
「りょー、にぃ、さん?」
「な、なに?」
何処か聞き覚えのある名前だったので思わず返事をしてしまった。
……あれ、俺の名前って――
「…………にーさぁんっ!!」
「ちょ、うわぁっ!?」
自分の名前が思い出せなくて考え込んでいると、大きめの瞳に涙を溜めて決壊した女の子が、大型トラックかと思うほどの勢いで
俺の胸の辺りに飛び込んできた。
不意打ちを食らった上に、体にあまり力の入らないのに強力な体当たり。
――当然のように受け止めきれず、俺はベットの背板に後頭部を勢いよくぶつけた。
星が飛ぶなんていう比喩があるけれど、まさか自分で証明するとは思いもしなかった。
「い、た、ぁぁ……」
目がチカチカして、衝撃を通り越して感触だけしか伝わってこなくても、痛いものは痛い。
とりあえず頭を抱えるようにして後頭部で両手を組んで俯いて打った所をさする。……うわぁ、コブになってる。
「あぁもう、ロレッタっ! お願いだからもうちょっと加減してく……あー……」
流石に文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、まさか抱きついて泣いてる子に言えるほど俺は冷たく出来ない。
しかもいつの間にか名前まで思い出している。
「にーさんの、ぐす…ばかぁ……!」
どうしていいか分からず、左手は腰に回し、右手でひたすら頭を撫でて宥めていると、涙声でそんな事を言われる。
しかしなんでこう言われてるのか、心当たりがありすぎて想像ができない。
「落ち着いた?」
頃合をみて、そう声を掛けると腕の中にいる彼女は俯いたまま小さく頷く。
それでもまだ声を出せるほどの余裕が無いのか、ぐすぐすと鼻をすする音が部屋に響く。
「も、もう手を離していいよ?」
「んー……気にしないで話してくれ」
恥ずかしげに顔を上げたロレッタには悪いが、正直触り心地がよくて手放したくない。
さらに小さいとはいえ女の子と密着とも言える距離だけれど、暖かくて何故か冷えている体に丁度いい。
「うぅぅ……」
体格差というのはいかんともし難いらしく、俺の腕の中から抜け出そうと四苦八苦しているが、なかなかできずに
されるがままになって呻くロレッタ。
……そろそろやめとかないと、後が怖そうだ。
そう考えて解放すると、すぐさま距離をとって自分自身のを抱くような格好で警戒の視線を向けられ、
「にーさんの、えっち」
「えぇ!?」
いきなりそんな事言われて面食らう俺。
よこしまな気持ちなんて一切無かったと胸を張って言えるが、よくよく考えたらセクハラと判断されてもおかしくないかもしれない。
それを証明するように頬を膨らませ、少し怒ったような視線が痛い。とても痛い。
「ど、どうせならもうちょっと手順を踏んで……っ」
「手順?」
「なんでもないっ!」
そう誤魔化されて、手順って何のことだろうか? なんていう疑問を頭の隅においやって、現状を整理する。
まずここは、ご主人様達の屋敷で俺に与えられた部屋。しかし、俺はかなり大きな街――名前が何故か思い出せない――の方にいたはず。
それで、えっと……?
「りょーにーさん」
「ん、なに?」
いつになく真剣な声音で呼ばれ、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
そうすると、ベットの端に腰掛けていつに無く真剣なロレッタの顔が目に映り、俺も自然と背筋を伸ばす。
「とりあえず一言、いい?」
一息。
「にーさんの、馬鹿ぁっ!!」
小さな体のどこにそんな肺活量があるのかと思うほどの大声量で、思わず片耳を抑えてしまう。
けれど、そこで終わらず矢継ぎ早に続けるロレッタ。
「いい? にーさんはヒトなんだよ? 私達だって斬られれば死んじゃうし、病気にもなる。けどね、ヒトはもっと脆いんだよ
っ! 本当ならどんな怪我だってやっちゃいけないのにっ! なんで、無茶ばっかりするのっ?!」
いつもの明るい物でなく、真摯で悲痛ともいえる声音に俺は飲まれ、問答無用で見えない記憶に響く。
「わたしは、わたしはにーさんのお葬式なんか……やだよぉっ!!」
カチリと頭の奥の歯車が嵌ったように靄の掛かっていた記憶が少しずつ見えてきて、終わった事にも関わらず、
いまさら背筋に悪寒が走る。
「すまない」
心の底から気持ちを込めて深々と頭を下げる。
いくらご主人様を庇うためだったとはいえ、こうして心配してくれる人の事を一瞬でも忘れてしまっていたのは、心から謝らなきゃいけない。
それに、心配してくれるのはロレッタだけでなく、庇われた側のご主人様もそうだろうし、もしかしたらロジェさんやリゼットさんにも迷惑をかけたと思う。
俺一人の行動でここまで影響が広がるのだ、死んでしまったりしたら、それこそ何処まで影響がでるのか予想もつかない。
「でもね」
下げていた頭にふわりと手を回され、ぎゅと抱かれる感触。
「ありがとね」
たった一言の感謝の言葉なのに気恥ずかしさとこそばゆさで、がちがちに固まってしまう。
緊張には慣れているはずなのだけれど、いつものとは種類とは違って自分自身じゃ抑える事の出来ない類のモノだ。
「あ、いや……ど、どういたしまして」
ようやく出した声は自分のとは思えないほど震えていて、余計に体が動かなくなる。
もちろん嫌って訳じゃない。けれど、いつもやってる事をやり返されると、なんというか、いろんな意味で虚しい。
「~~♪」
「…~~っ」
そんな微妙な心境をロレッタが分かる筈もなく、気分良さそうに俺の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
それはもう、楽しそうに。
「ふふふ、いい子いい子~」
しかも興が乗ってきたらしく、止めようにも止められな位のテンションでそんな事を言い出すのだから顔どころか首回りまで
熱くなってくる。
……あぁもう、誰か何とかしてくれ。
「!」
半分諦めたような祈りをどこぞの誰かに捧げ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいると
唐突に手の動きが止まって離れる。
不思議に思って俯いていた頭を上げてみれば、何故か顔を真っ赤にして、目の焦点も何処か合わず、
小さな体をさらに竦めているロレッタの姿が目に入る。
以前の経験から俺自身に何かヘンな事があるのかと自分の体を見てみても、何の変化も無い。
「大丈夫?」
そう声をかけると、此方に今気がついたかのように慌てて何度も首を縦に振る。
しかし、どう見ても挙動不審だ。
「ん……少し、熱っぽいか?」
「~!!」
顔が赤かったから熱でもあるのかと思って、自分の額と彼女の額に手を当ててみると若干あっちの方が高く感じる。
さっき抱いてた時も暖かかったから、俺の看病で調子でも崩したのかもしれない。
……と、手を離すと素早く距離を取られ、手の届かない所まで逃げられる。
「落ち着いたら、こっち来て貰っていい?」
ベットから動けないのでそこまで離れられるとどうしようも無いので、そう声を掛けるとロレッタはコクコクと縦に頷いて
深呼吸し始める。
その間に俺は"すーはーすーはー"と呼吸音を聞きながら記憶の整理をし始める。
とりあえず、背中に怪我はしたがこうして生きてる。
動くと背中はまだ少し痛むし、肩の当たりに何十にも巻かれた布の感触……多分包帯があるから、怪我はそこそこ深くて、
死ぬまでには至らないだったようだ。
ロレッタから聞き出したい事はたくさんあるが、
『怪我したあとご主人様はどうなったか? あれから何日ったのか? なんでさっきまで俺の記憶がなかったのか?』
の三つくらいあれば取りあえずの現状は確認できる。最後のはいらない様な気もするけれど一時的とはいえ記憶が飛んだのは
ちょっと、いやかなり怖い。
事実、さっきまでの記憶が無い事を思い出すと、身の毛がよだつほどゾッとする。
聞いてみて、もし原因が分からないのならそれなりの対処をしなきゃいけない。
――せめて、ロレッタとご主人様、そしてねえさんの事だけは忘れないように。
「も、もう大丈夫だよ、にーさん」
物思いにふけていた意識と頭を上げると、そこにはいつも通りのロレッタの姿。
どうやらいつものテンポをようやく取り戻したようだ。
「ごめんね、疲れてるのににーさんで遊んじゃって」
「俺もロレッタで遊んだようなもんだし、ごめん」
「そんなっ! わたしなんか、30分も頭撫でてたし!」
……30分も?
今まで時間感覚を薄めて、耐えて耐えて耐えての連続だからおぼろげにしか覚えていないが少し長すぎやしないだろうか……?
そんな心境が表情に出ていたのか、俺の表情を見てロレッタが萎びた花みたいにうな垂れる。
「あー、過ぎた事は……うん、わすれよ?」
「……うん」
返ってきた声はまだ小さかったけれどしゃきっとしていて、下を見ていた視線もちゃんとこっちを見てくる。
もう大丈夫、と考えて、さっきまでに整理した疑問を一つずつ自分に言い聞かせるようにして話す。
「ん、それじゃ一つ目から答えるね」
それを受けたロレッタはうんうんと頷き、溌剌とした声で続ける。
「ねーさんは擦り傷とか細かいのはあったみたいだけど、にーさんの怪我に比べれば小さな傷ばっかりみたいだよ」
それを聞いて一安心。
一番大きな心配事が解決して重い溜息を吐くと、ぐっと肩が軽くなった気がする。
そんな様子をクスクスと微笑しながら彼女は答えていく。
「明日の真夜中にはこっちに帰ってくるみたいだから、詳しい事は後でね」
「分かった」
ご主人様の自己申告は過小評価が多いから、その辺詳しく本人に問い詰めないと……と、記憶の隅に置いておく。
「それで二つ目は……」
先ほどまでとは違って、言いづらいのか少し歯切れが悪い。
そんな態度にふと思い当たる。
「もしかして……三日位経ってて、俺はずっとその間寝てたのか?」
そうなのだ。
行きに三日掛かったのに帰りが一日で済む筈が無い。そして、その間目を覚ました記憶が無い以上、意識をなくしていた、
もとい、寝ていたと考えるべきで……
「そうなった原因は、三つ目にも関係あるんだけれど……にーさん、だいじょうぶ?」
「な、んとかね」
さっきからどうも、瞼が鉛みたいに重くなって、体が物凄く気だるい。
多分、極度の疲労による物だとは思うけれど、こんな感じは初めて高校の野球部で練習に参加した以来で
体力のついた今じゃ最近じゃなかなか無い。
それでも、ロレッタの話を聞くために目を擦って眠気を逸らす。
「にーさんは、二種類の原因で危なかったの」
「二種類?」
一つは背中の怪我なのは分かる。しかし、もう一つが分からない。
「怪我とか縫うときは麻酔するんだけど……その量が多かったみたいなの」
「……」
眠気も吹き飛ぶような事実に愕然として声も出ない。
使ったものがどんな薬かはわからないが、当然使い過ぎれば毒になる。
「~~っ」
「ほんとに、だいじょうぶ?」
そう言って、ロレッタは心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
本当ならそういう顔はさせなくないのだけれど、実際、体は重いし、眠気も濃い。
どう考えても麻酔の副作用なのだが、もうなってしまったのは仕方ない。が、今度起きた時はまた
記憶をなくしているかもしれない。
流石に、それは、困る。
「凄く顔色悪いよ?」
「いや……」
こうして戻ってみると失うのは、怖い。
なんでもない表情をしようとして、顔の筋肉が強張って失敗するほどに、だ。
「悪い、また寝る」
そう手早く言って、ロレッタの顔を見ないようにまたベットの中へと潜り込む。
疲れてたし、眠かった。でもそれだけじゃない。
無理にでも起きてればどんどん考えが悪い方向に行きそうで。
……どうしようもなく、怖かった。
「ふふ」
と、ベットの中にあった右手がとても暖かい物に包まれる。
その主は、柔らかく笑って、
「にーさんが起きるまでこうやって手を握っててあげる。……だからちゃんと起きてよ?」
「あぁ」
ぶつりと切れそうな意識の糸を何とか繋ぎ止めながら、俺もぎこちなく笑って答える。
正直、それだけでも今の状態じゃ重労働だったけれどいくらか恐怖も薄まる。
「約束破ったら酷いからね?」
どこか楽しそうに、けれど一抹の憂いを湛えた表情は、こんな状態なのに少し、"ドキッ"とした。
そう、まるで――
「なんか、ロレッタが、年上に見えるなぁ……」
「なっ! 私は最初からにーさんより年上だよ!」
そうして膨れる柔らかそうな頬は、まるで小さな子供みたいで心の中で苦笑してしまう。
怒らせると後が怖いけど、起きたら埋め合わせしようと決めて、少しずつ意識を手放していく。
「……おやすみなさい、にーさん」
そんな声を遠くに聞き、握られた手の暖かさを感じながら俺は最後の意識のピースを手放した……。