鋼の山脈 序・岩に咲く白
大陸北部、狼の国を縦に三つに割ったその東側。
大きな鉄鉱山の中腹に、半ば埋まるようにして建造されているコーネリアス氏族の城塞は、いつも乾いた冷たい空気が満ちている。
朝日が白光を放つ頃に、レムは素肌に袖なしのシャツを引っ掛けただけで外に出た。
いつ見ても雲ひとつない青い空は、相変わらず吸い込まれるような広さを感じさせる。
この空を見上げる度に、レムは自分が山の岩肌に張り付いているだけだという感覚にとらわれる。地肌から手を離せば、空に落ちてしまいそうだ。
腕を組んで立っていると、厚着姿の猫の行商が、驚くほど薄着のレムを不思議そうに眺めて通り過ぎていく。
猫たちの前後を、今つけられたばかりであろう狼二名が固めている。
くすんだ黄土色の毛並をした尾の短いドオリルと、錆び銅色をした長い毛並の片耳バノン。戦衣の上から軽鎧で武装し、各々の得物を下げている。
レムの姿に気づくと、二人は軽く片手を上げた。
「ようレム。親父さん待ちか?」
「いや、今日は一人だ。お前たちは護衛か」
「そうそう。久々に外のお客さんだよ」
「ここんとこ物騒だからなあ。今に始まったこっちゃねえけど」
「気をつけて行け、二人とも」
「お前もな、レム」
大きな三枚刃の戦斧を肩に担いで、バノンは鼻歌交じりに列に戻っていく。
武器を持つのは戦士の証で、戦士は男の役目である。
レムの背には、肉厚で大振りの蛮刀が二本、十字に交差して負われている。
「ま、訓練もいいが怪我しねえ程度にな。祭司のばっちゃん達、うるせえぞ」
左手に槌矛をぶらぶらさせながら、人の良さそうな笑顔を残してドオリルも後を追っていった。
旅行者や行商の護衛は、狼の国の主要産業である。
剣や槍という原始的な武器で、時には魔術師さえ退ける狼は、護衛や用心棒、傭兵といった荒事稼業に最も適した種族で、周辺各国からも需要が高い。
氏族ごとに争いが続いている狼たちは常に一定数の戦士を持っており、普段は自分たちの氏族や友邦の防衛に務めているのである。
用心棒の質は折り紙つきで、狼の国の中だけでなく外国に出稼ぎに出る者も多い。
レムも、友邦や隊商を守りに出かけたことは幾度もある。
しかし肌に太刀傷一筋ついているだけで、祭祀の女たちに眉をひそめさせるのは、東部最強のコーネリアス氏族の中でもレム一人だけなのである。
小規模な氏族なら、長老が最終決定を下すのが一般的だが、規模の大きいコーネリアス氏族では決定権が一人に集まるのを避け、
有力家族の長老を集めて長老議会なるものを作っている。
議会のための会堂は、廃鉱となった鉄鉱山の坑道を利用し、岩盤をくりぬいて展望室のようにした広間を使っている。
採光窓から差し込んでくる朝日の中を、赤や土色、灰色といった色とりどりの狼たちが、布を多く使うことで重厚感を出した儀礼服を纏って、
議長席を中心に劇場型に並んだ議席に腰を下ろしていた。
いずれも、筋骨隆々とした男たちである。
「ガルマリウドはああ言うが、実際我々とビレトゥスの間がどれほど離れている。足の速い猫科どもでも、十日はかかる距離だぞ」
「だから関係ないとでも? 臆病風に吹かれたか」
「何を」
「いいか、ビレトゥスは『王国』を名乗り始めたのだぞ。これは他の氏族を討ち平らげる意思表示に他ならんではないか」
「ビレトゥスにそれほどの力があるものか」
「コーネリアスの矜持を忘れたか。我らは我らと友邦の、民と土地と精霊とを護ることこそが務めであろう」
「その通り。力があろうとなかろうと、そうした考えを抱いた者たちには訓戒を与えてやるのだ」
「だが、氏族を統一したからとて、その氏族の精霊を滅ぼすとは限らんではないか。我らのように、民と土地と精霊を安んじる統一ということも否定できまい」
「それが臆病風に吹かれたというのだ。そうである証もあるまい、ええ? バジラ」
「ビレトゥスを討つとして、それでどうする? まさか戦士を引き連れて、二十日の道のりをのんびり進んでいくのか?」
会堂内はすでに大騒ぎであった。主題をとりまとめるべき議長は、自派の意見を通すために論戦に自ら加わっており、
収拾する者がいなくなった議会は落ち着く先を見失っている。
議席から腰を浮かしている者はまだいい方で、不運にも対立意見の相手が近い席にいたために、掴みあいを始めた者もいる。
その議席の片隅で、じっと腕を組んで黙っている議員が一人いた。
つややかな黒の毛並が、会堂の最も日が当たらない席と相まって、冷静に見なければいることに気付かない。
その狼は議論に加わらないだけで、議論の流れを聞き落とすまいと、じっと耳をそばだてていた。
「であるから、現実的な脅威がないのにこちらから戦を仕掛けることもなかろうと言っておる」
「ならば我々が襲われていなければ、他の者たちが攻め取られるのを坐して眺めていていいというのか? 貴様こそコーネリアスの矜持はどうした」
「ふん、大方この臆病者どもは、戦場に出ずに済む言い訳が欲しいのよ」
「何を言う。事と次第によっては、ただでは済まさんぞ」
「このまま捨て置けば、いずれ我らの友邦も狙われよう。そうなってから騒いでも遅いのだぞ」
コツ、と静かに、しかし力強く議席の木枠を叩く音が聞こえた。
議席の片隅でゆっくりと立ち上がった黒毛の議員に、議長が視線を向ける。
他の議員たちより頭一つ高い堂々たる体躯であった。加えて、他の議員が儀礼服を着ているところを、この議員は群青の重鎧で完全武装している。
家族の長老が集まる長老議会で、最も新しく最も若く、そして最も小さい家族の代表である。
「なんだ、ジグムント」
議長責務の最小限度を果たすべく尋ねた議長に、さらに上回る威厳で応じ、ジグムントは会堂内の議員たちを眺め渡す。
「我らが友邦パラカ氏族の集落の近くに、最近野盗が住みついたそうだ。コーネリアス氏族としては、戦士を派遣し友邦の安全確保に努めるべきであると思う」
続いていた議論が、止まった。
先程まで熱の入っていた者たちまで、ジグムントに冷えた視線を送っている。
「議員諸氏の判断を仰ぎたい」
「ジグムント、我らは今、我らと友邦の大事を図っているのだ」
「そうだ。いずれ強大になるであろう敵を前にしているのだぞ。それを今、野盗などという」
「些事、と?」
苦い表情を浮かべて口を開いた議員を、ジグムントの碧色の視線が突き刺した。
「大長老ビスクラレッドがこの断崖城に根を下ろして以来、我らコーネリアスは自助と互助のために友邦を募り、彼らを庇護することを誇りとした。
今や友邦は、ほとんどが未だ狩猟採集と農耕を主としている、小さな者たちばかりだ。我らにとっては話にならぬ野盗であっても、
農夫や猟師と祭司しかいない彼らには、十分な脅威となる」
「それはだな、ジグムント」
「重ねて申し上げる。力なき友邦パラカのために、戦士を出したい。ついては、足元で脅威に晒されている友邦と、剣の届かぬ遠くで蠢いているビレトゥスと
いずれを重く見るか、コーネリアスの矜持にかけてお答え願いたい」
迂闊な一言で矛先を向けられた議員は、苦虫を噛み潰した表情で黙り込んでしまった。
会堂内にも、一様に白けた空気が漂っている。ジグムントだけが、真剣だった。
「好きにせよ」
「長老議会で、送るに適した戦士を選びだして頂きたい」
「わかったわかった。もうよいな」
「私からは以上だ」
議長の呆れた様子を傲然と黙殺し、ジグムントは先ほどと同じように腰を下ろすと、また腕を組んで黙り始めた。
水を差された議事は、一転して勢いを失い、結局ビレトゥス氏族の王国への対処は決まらないまま、昼前には解散した。
レムは六歳の時点で自室を与えられていたが、夜には大抵父の部屋にいた。
その日の行動を逐一報告させられ、コーネリアス氏族としてふさわしくない行動を取っていた場合は叱責を受けた。
腹に拳を叩き込まれるのに似た、静かな父の声を、必死に耐えたものだった。
それ以外は、特に声を交わすことはなかった。レムは、父の武具の手入れをする下働きの狼に混じって、林のように並ぶ父の剣を磨き、鎧の付け方を真似た。
父と同じ、闇のような黒毛と大きな尾は、レムにとって自慢だった。
普通、コーネリアスの子は六歳になったら戦士なり祭司なりが迎えに来て、集団生活の中で仕事を学んでいくのだが、レムはそういうことはなかった。
兄弟が多く曾祖父母が健在であることも珍しくない狼社会の中で、何か特別なことがあれば数多い親族がそれを悟らせる。
しかし父一人子一人のレムは、自分が珍しい例であることにしばらく気付けなかった。
部屋を与えられてからしばらくした後、父の部屋に祭司の一団が詰めかけていた一件で、ようやくそれを理解した。
レムの母は先代大祭司だからレムも祭司になるべきだ、と言う女たちに、頭一つ大きい黒狼は、レムの父は私だ、と言ったきり、構おうともしなかった。
その時は、どちらが正しいとも思わなかった。ただ、自分は父の言いつけに従うのが当然だと思っていた。
九歳の時だったと記憶している。
いつものように壁一面に掛けられた剣を磨いて回っている時に、来客があった。
当時は、下働きと協力して父の武具の手入れを終えてから、自室に帰ると決めていた。
その日は確か、普段のペースであるにも関わらず、一向に剣を磨き終えられなかったのだった。
廃鉱山を再利用している部屋に、嵌め込むようについている木製の扉を、恐る恐る叩く音が聞こえてきた。レムは磨いていた剣を置くと、父の代わりに扉を開いた。
そこに立っていた年若い――むしろ幼いと言っていい祭司は、レムの姿を見て驚いた表情をしていた。
模範的な応対をしようとしたレムを、後ろから父の声が押しのけた。話は聞いている、と、父は祭司の名を呼んだ。
泣き出しそうなくらい緊張した少女を寝台に呼び寄せ、父は部屋の明りを消すと、彼女を立たせたままそっと衣服に手をかけた。
祭司の色白の肌が露わになっていくのを見て、レムはようやく、その日は随分前から下働きが姿を見せていないことに気づいた。
訳がわからなかった。
全裸で身を竦める少女を丁寧に寝台に横たえ、父は自らも服を脱いでいく。レムには、出て行くようにとの声はかかっていない。
つまり、見て行けと言うことなのだ。レムはそう判断した。部屋の片隅の、邪魔にならない場所に腰を下ろす。
白い腹に朽ち葉色の尾を巻き付け、自分の体を抱いて小さく震えている少女の姿を見て、これからいけないことが行われるのだという予感がした。
採光窓から差し込む星明りが、柔らかく丸みを帯びた肉体の輪郭を描き出し、えもいわれぬ美しさを醸し出している。
そして夜の闇に紛れた父の影は、彼女の儚げな姿と対比されて、ひどく暴力的に見えた。
この子はこれから、父に食われるのだな、と直感した。
父は、少女が両膝を閉じている上から覆いかぶさるように座ると、彼女のふくらみ始めの乳房に手のひらを這わせる。
裸体を他人に触れられる嫌悪感で少女が顔をしかめたようだった。
ぐっと身を固くしたのが見て取れたが、シーツを掴むことで、手足を縮めて邪魔をするのは防いでいた。
彼女は、何をしに来たのだろう。
父に食われるのを喜んでいる様子はない。恐ろしくて今にも泣きだしてしまいそうな雰囲気にも関わらず、両手は体の脇のシーツをぐっと掴んでいる。
父の手が乳首をつまむ。んっ、と鼻にかかったうめき声が、彼女の喉から漏れた。
指の腹でこねるように転がされ、呼吸が荒くなっていくのが聞こえる。
レムは、自分の下腹部に熱さを感じ始めていた。
頭の中が白くなっていって、目の前で行われていることしか意識に入らなくなってくる。星明りの中で、細かな動きさえ見逃すまいと目を見開いていた。
少女の口に指先が差し込まれ、二本の指が舌を弄ぶ。彼女は意識も定かでないまま、口腔内に入ってきた男を必死に舌で追い続ける。
鼻声の乗った吐息が不規則に漏れ、それに合わせて少女の薄い胸が上下する。淫らな水音が響いて、窓から聞こえてしまっているのではないかと気が気でなかった。
口中の桃色の肉をつまみ、押し、撫で、ひとしきり嬲った後で、父は唾液に湿った指を引き抜いて、彼女の股間へ持って行った。
彼女の声が小さく喉から漏れる。
湿りを馴染ませるかのようにその部分をなぞる動きに、次第に息に甘さが溶け始めるのが聞こえた。
不意に、少女が息の詰まった唸り声を上げた。父の指先が、彼女の中に埋まっている。
両手足に力を込めた彼女に負担がかからないよう、指だけを円を描くように動かす。
ゆっくりと時間をかけてほぐしていく丁寧な動きは、レムに剣術の稽古をつける時に、根気よく同じ攻め手を繰り返す父の姿を思い出させた。
次第に、やや腰を浮かせるようになった少女の様子を見て、父は彼女の膝を割って間に入った。
最初の時よりも落ち着いた様子の少女の間で、ズボンの前をはだける。
彼女の尾と、立てた膝でよく見えないが、レムの腕くらいのものが見えた気がした。
腰をそっと彼女のそこにあてがい、少しずつ前へ進めていく。その姿を夢うつつの面持ちで見守っていた少女は、突然布を裂くような悲鳴を上げた。
シーツを握っていた手が、膝が立てられていた脚が、体を父から遠ざけようと寝台の表側を掻くが、父の腕が腰骨を押さえつけており、思うようにならない。
彼女の姿勢が崩れたお陰で、レムにもちらりとその部分が見えた。
父の股間から生えた巨大でグロテスクなものが、少女の股間の裂け目を無理やり押し広げて入り込もうとしている。
両手足を突っ張って必死に耐える彼女の努力にも関わらず、ものは頭の半分も入っていない。
少女の口から体の中を引き裂かれる音が漏れ続けている。
父は、これ以上は難しいと見てとると、少女を抱え起こして自分に抱きつかせた。
寝台に座ると彼女を自分の体に寄りかからせ、開脚させた彼女の両膝の下に腕を差し込み、
体重がかかりすぎないように少しずつ、自分のものの上に彼女を下ろしていく。
少女は声を漏らすまいと歯を食いしばり、父の首に両腕を回して必死にしがみついている。
少しずつ、彼女の裂け目はものを飲み込んでいった。
ものの半ばまで体内に収まったところで、彼女が首を横に振った。再び寝台に横たえられ、二人は抱き合ったまま元の姿勢に戻った。
幼い祭司の少女の裸身が、父の体の下に押さえこまれているように見えて、レムは体の芯を突き抜けた不思議な感覚に体を丸めた。
既に顔も体もすっかり熱を持ってしまっている。いつの間にか身を乗り出し、床板に指を力いっぱい立てていた。
父の黒い背に回した少女の白い腕が、鮮烈に目に焼きついた。
苦痛を和らげようと抱き締めることが、かえって自分を深く貫かせる結果になっていることに気づいているのだろうか。
彼女を押さえつけたまま、父はゆっくりと腰を前後させ始めた。
声に、再び痛みの色が混じる。
次第に緩急がついてくる腰の動きに、少女は父の首筋に顔を埋めて必死に耐えているようだった。
やがて動きが止まり、父が少女からそっと体を離す。
放心状態で息も絶え絶えに横たわる少女に、労わるような視線を向けて、良い子を産め、と父は言った。
未だ整わない呼吸の下で、か細く礼を呟く少女は、涙を流しているようだった。
父が寝台から立ち上がり、衣服を身につけ始めたのを見て、レムの意識から熱が引いていく。
頭にかかった白いものが取りきれないまま少女に目を向けると、心臓が急に締め付けられるような感覚とともに、下腹部の筋肉が緊張した。
父の目がレムに向く。
立ち上がる用事を言いつけられないよう、反射的に祈った。
下着が濡れて、服にまで染みを作っているのが自分でもはっきりとわかっていた。その意味するところも、なんとなく悟っている。
自分がどんな気持ちで営みを見ていたか、知られたくなかった。
城塞の中の、環状列石のある平地に向かい、背の蛮刀を両手に携えて自然体で立つ。
普段は精霊の祭儀に使われる霊地である。特に禁じられてはいないものの、おいそれと立ち入ってはいけない場所とされていると聞いたことがあった。
祭儀の他にも、人前ではやりにくい会談や取引など、諸々のことを行う場合に利用されている。
他人の目を避ける代わりに、精霊に立会人になってもらうという意図であるらしい。
レムにとっては、父に連れられてきてからずっと、修練の場所である。
父に習った通りの剣の型を演じ、意識を研ぎ澄ませる。霊地だけあって、心が静まり、五感が鋭くなっていくのを感じる。
環状列石のひとつに、しなびた汚い革袋のような老人が座っていることに気がついた。
「おじじ、来てたのか」
「わしはいつでもいると言うておろうが」
まばらに地肌が覗く体毛も、油が抜けてすっかり白くなり、立つ力もなさそうな様子でぼろ布にくるまっている老狼は、見た目に反して溌剌とした声をしている。
「剣筋がぶれておるのう。悩みか?」
「ちょっと、昔のことを思い出してた」
「ほほう。このじじいにも聞かせてみんかね」
レムは、この老狼が、ずっと環状列石の霊地にいるビスクラレッドという名の、コーネリアス氏族の古参であることまでは知っている。
不思議なことにこの老狼は、氏族内でまったく話題に上がらないため、一体どこの家族の誰なのかということは、わからずじまいである。
他の者に聞けばよさそうなものだが、それだと霊地に立ち入りしていることがばれてしまうのであった。
少なくともビスクラレッドに話したことが他人に漏れていたことは一度もないので、レムは何となくこの老狼を信用していた。
「また、父上が祭司を抱いてた時のことを思い出してた」
狙いも定めず、蛮刀を振る。心地よい風切り音がひとつ鳴った。
「ありゃあ、ああいうもんじゃと言うたじゃろ。娘の処女は初婚の相手か、戦に強いええ男にやるのが習わしじゃ。
ちうても、まぐわいは大抵見せないようにするもんなんじゃがのう。特に自分の子供が幼い時なんぞ、な」
片手を奥まで振り抜き、そのまま回転して逆の手の斬撃を重ねる。
「そういうものなのか?」
「じゃから、色々と変わっとるんじゃよ、お前のところはのう」
何度も聞かされてきた言葉だが、面と向かって言われるとやはり返答ができない。
半ば無視する形で、武器狙いの二連斬りから蹴りの連携を放った。
「おう、そういや結局弟か妹かはできたんかいね」
「わからない。音沙汰がないから、生まれなかったのかもしれない」
「ふむふむ。まあ、乳もふくらんでおらん娘を孕ませようっちゅうても、そうそううまくいかんわな。
そういえば、結婚相手でもない男の子を孕ませようとするのは、同じ氏族じゃやらんことじゃな。その家族、余程お前の親父の種が欲しかったと見える」
欲の皮突っ張って逸りすぎた結果がこれじゃいざまを見い、とじじいは大笑いしている。
笑い声を聞き流しながら、右手の縦斬りに続いて、左手の横斬りを放つ。右剣を受けた相手の胴を払う、二刀の戦士の常套剣技である。
「いつか」
「うむ?」
両剣の切っ先を揃えた諸手突き。
「いつか私も、ああなるのかなって」
「ああなるとは?」
今度は、横斬りからの脳天割り。続いて、顔を横に払うと同時にもう片手で腿を裂く。
青空と草原の地平線が、白と黒の男女のコントラストに取って代わられた。父の大きな体に押し潰されそうな少女の白さが、かえって艶めいている。
「ほれほれ、また鈍ってきたぞ」
ビスクラレッドの声で我に返る。剣術は諦めて、剣を背負いなおした。
「嫁入り。父様に決められた知らない男の子を孕んで、精霊を祭りながら生きていくのかなって。祭司のやることなんか、何一つ知らないのに」
「ふうむ、お前はのう」
自分のことはわかっている。
父に似た真っ黒な短髪と、ボリュームのある大きな尾が特に目を引くさっぱりした姿である。
ホットパンツと袖なしのシャツという恰好は、祭司の女たちには苦々しく思われているだろうが、戦士の男たちには残念ながら色気がないと評判であった。
今の自分より幼かったあの祭司は、女としての雰囲気は十分に持っていた。
女でありながら祭司ではなく、戦士でありながら男ではないどっちつかずの自分も、いずれはあの祭司のようになるのだろうか。
「んむ、まあ、無理じゃないかの」
「無理?」
予期しない言葉に、思わず驚きの出た顔で聞き返す。
レムの生の感情を見て、ビスクラレッドはにいと笑った。
「おう、無理じゃ。もう今の状態で役目と性別がちぐはぐなんじゃからのう。所帯を持つにはひと波乱あるじゃろうて。
それにお前、親父に行けと言われて大人しく行ったはいいが、これからってところで怖気づいて、相手の鼻面をむしり取って逃げ帰ってくるのが関の山じゃろ」
怖気づいてとは馬鹿にされたものだとは思ったが、あながち的外れとは言えない気がして、ぐっと飲み込んだ。
「おお、そうむくれるな。わしはただホリャ、お前は古いしきたりとはチィと離れたところで生きていかざるを得んということを言いたかったんじゃ。
今でこそ女のくせに戦士なんぞやっとるんじゃ。嫁の貰い手があるかどうか……いんや、お前の親父の眼鏡にかなう男が出るかどうか、かのう。
運よく婿を取ったところで、祭りごとのひとつも覚えとらんお前は、のけ者じゃろうなあ。女はこわいんじゃぞ、レムや」
それなら、コーネリアス氏族にレムの居場所はないも同然ではないか。
「私は、一匹狼になるってことか?」
これにはさすがに気を悪くしかけた。一匹狼と言う言葉には、氏族の中にも残れない異端児という意味が含まれている。
だが老狼は悠然としたものだった。
「なれるならなるがええ。伝承に曰く狼王ちゅうのはな、仲間から離れてただ一匹で、なお矜持を失わぬ高潔にして孤高の存在じゃからのう。
わしの若い時にも、狼王の名にふさわしい奴はおったが、孤高の一匹狼とまではいかなんだわ。昔っから誰も、一匹ちゅうことの重さをわかっておらん」
機嫌を損ねた若者を丸めこむための方便ならば、ビスクラレッドはレムが殴りかかってこないかどうかを気にする。
表情を伺う素振りをちらりとでも見せたら蹴り飛ばしてやろうと思ったのに、老狼のその眼は、どこか遠くを見ていた。
すっかり煙に巻かれた気がして、怒りがしぼんでいく。
「私には、わからない」
その眼の先と今の自分に、どうしようもない距離を感じて、レムは正直に呟いた。
「あたりまえじゃろ」
直後に呆れたような声が飛んできて、レムは思わずじじいを蹴りそうになった