続・虎の威 09
「はー。いい部屋ですねえ……」
しみじみと、本当にしみじみと、千宏は広々とした部屋を見回して深い溜息を吐いた。
高い天井、大きな家具、ふかふかとしたカーペット。
そして、千宏が五人は並んで寝られそうな、特大のベッドである。
「いつもは二、三人女がいるんだがな。今夜は特別お前だけだ」
「に……二、三人……」
「質素なもんだろ。わけぇころは十人とかはべらしてたけどな」
からからと自慢げに笑うテペウの豪傑さに、千宏は改めてこの男に付いてきた事を後悔した。一応料金の話やら制限の話やらをしてはみたが、はたして無事にこの部屋を出られるのかどうか。
「さて。じゃあまずは風呂だな」
言いながら、テペウがひょいと千宏を抱え上げる。
「へ? え? へ?」
「背中くらいは流してくれるんだろ? それともそういうサービスはやってねぇか?」
「お背中ですか! は! もちろん喜んで流させていただきます!」
いちいち物事の確認を取るときに、脅すような表情をするのをやめてはくれないだろうか。常々カブラは悪人面だと思っていたが、テペウに比べればまだ穏やかな方である。敬礼しかねない勢いで承諾し、千宏は明日のわが身を思って涙した。
どうか無事に帰れますように。
そう、天に祈るだけの余裕はまだまだ十分にある千宏である。
ついでに、ハンスを心中で罵る余裕もたっぷりと。
入る前から予想はしていたが、浴室は広々としているというより、広大であった。
なにせ千宏の記憶にある小ぢんまりとした銭湯が、そのままそこに広がっているのだ。この部屋の一泊あたりの宿泊費用を想像すると、胃がキリキリと痛み出す。
それでも、そこにテペウが立つとそれほど異常には思えないのだから恐ろしい。テペウが一人と、数人の女が同時にこの浴室を使うとするなら、これで丁度いい広さなのだろう。
「どうした。ぼーっとして」
「やー……広いなぁ……と思いまして」
しみじみと呟くと、遥か上から呆れたような溜息が降ってくる。見上げると、テペウが嫌そうに顔を顰めて千宏を見下ろしていた。
場所は浴室の入り口。無論二人は全裸である。風呂においてバスタオルなどで体を隠すのは、トラ国では滑稽極まる行為だった。隠さなければならないほど重大な何かがあるのかと、それはそれは心配されてしまうほどである。
「ヒトってのはあれか? 目の前の男の肉体美より風呂の広さに感心するものなのか?」
肉体美、とオウム返しに呟いて、千宏はテペウの顔から体へと、真っ直ぐに走る傷を追う様に視線を下げる。
見事に隆起した筋肉。艶やかな毛並み。首から胸板へかけてたくわえられた豊かな体毛。
この男を表現する言葉を探すなら、なるほど確かに『美しい』が一番ぴたりとはまる。容姿の美醜ではなく、生物としての完璧な美しさがそこにある。千宏の記憶に焼きつくなによりも、テペウの肉体は完璧に美しかった。
だが、傷が――。今、全裸のテペウを見て初めて、千宏はその傷が下腹部にまで及んでいる事に気が付いた。額から顎に向かい、首筋を舐めて胸を通り、一度も途切れることなく伸びている。
まるで、完璧な彫刻に走ったひび割れのようだった。
「……その傷跡って」
「あ?」
「どうして付いたんですか?」
きょとんとして、テペウは目を瞬いて千宏を見た。
そして、鋭い歯をむき出して楽しげに笑う。
「聞きてぇか?」
「あ、いや、別に無理には……」
「よーしよし! そんじゃあ特別に話してやろう! 寝物語ってやつだ!」
どこまでも人の話を聞かない男である。
ぐいと背中を押されて浴室の中央へ促され、千宏はよく響く大声にやや肩をすくめながら湯船へと歩み寄った。
床を円形にくりぬいて造られた湯船の内壁は一段のみの階段がもうけられており、そこに腰掛けて半身浴が出来るようになっている。テペウはざぶざぶと湯につかると、そこに腰掛けて千宏にシャンプーの瓶を投げ渡した。
洗え、ということだろう。トラの女は命令されるのが死ぬほど嫌いだと言うが、テペウは命じることに慣れきっているようである。
ブラシを手にテペウの背後にしゃがみこみ、千宏は壁のように広い背中にたっぷりとシャンプーを泡立てた。
「この傷はよ、おかしいだろう?」
突然の問いかけに、千宏は思わず「え? なにが?」と聞き返す。
「じゃなくて! ええと……なにがでしょうか……」
テペウは笑った。
「よせ。トラは敬語なんざめったに使わねぇ。お嬢ちゃんもトラのふりするんなら、例え俺が相手だって罵るくらいが普通だ」
「そ……そっすか……じゃあ、そんな感じで……」
「で?」
「はい?」
「俺の傷の話だ」
「ああ……いや、だから……何が?」
おかしいだろう、と訊かれても、千宏には何がおかしいのか分からない。
するとテペウは上半身だけで振り返り、鋭い爪を千宏の眼前に突きつけた。思わず下がった千宏の額に、テペウは爪の先を滑らせる。
「ここから、袈裟懸けに刃物を下ろすとどうなると思う」
「どうって……」
テペウの爪が額から鼻筋を通り、唇を行き過ぎ、顎に至る。そのまま直線状に爪を滑らせると、爪は顎を離れて空を切り、千宏の鎖骨辺りに落ちる。
あ、と千宏は声を上げた。
「わかったか?」
訊かれて、千宏はこくこくと頷いた。
テペウの傷は顎から鎖骨には飛ばず、途切れることなく首筋を舐めている。凹凸のある物体に途切れなく一筋の傷を付けるのは、そう簡単なことではない。
「これは爪や剣でついた傷じゃねぇんだ。トラップって知ってるか」
「えーと……遺跡の森にある?」
「まあそうだな。森のトラップには二種類ある。許可証がないと発動する物と、遺跡に近づくと発動する物。この違いは知ってるか?」
千宏は首を横に振る。
「前者は捕らえるためのトラップだ。基本的に物理的な仕掛けが多い。後者は殺すためのもんで、発動するのはまず魔法だ」
「それじゃあ、テペウさんのは……」
「手が止まってるぞ」
はっとして、千宏は慌ててわしわしとブラシを動かす。テペウは気持ち良さそうに息を吐き、ゆったりとした表情で目を閉じた。
「俺の傷は遺跡に近づいたせいでついたもんだ」
へえ、と軽く流しかけ、千宏はテペウの言葉の違和感にはたと気付く。
「あれ? でも遺跡のトラップは……」
殺すための物だと、たった今テペウ本人が言ったのだ。ならば、遺跡に近づいて傷を負ったテペウが、今ここにいるのはおかしい。
「当事俺はまだ百を少し過ぎたばかりでな。今のカブラ達より若かった。今は単独でしかやらねぇが、その頃は大勢の仲間と釣るんで森に入ってたんだ。トラに限らず、色んな種族とな」
そういえば、と千宏は思い出す。
許可証を持っているトラが一人いれば、他の種族も森に入れるのだと、確かカアシュが言っていたような気がする。
「しばらくすると決まった仲間ってのが大体出来てきてな。何人かのトラと、一人のネコと、それからネズミの女がいつもの面子になってた」
「ネズミの……?」
ネズミは弱い種族だと、この世界での暮らしで千宏は知識として知っていた。テペウと共に遺跡の森に入るには、少々不自然な種族な気がする。
「危機回避能力って奴がな、ネズミは妙に高いんだ。たまに他のハンターが仕掛けたトラップが未回収で放置されたりしてな、森に慣れないとそれで死ぬ奴も出てくるくらいだ。だから慣れない奴がつるむ大人数のパーティーでは、ネズミを一人入れておく事が多い。あいつらの直感力は相当なもんだ」
「へぇー。なるほど」
「――黒い髪だった」
呟き、テペウは肩越しに千宏の髪に手を触れる。
「臆病な女でな。いつだって俺の後ろに隠れてた。あんまり纏わりつくからよ、最後には俺が肩に乗っけて歩く始末だった」
千宏は少し想像して、その微笑ましさに噴き出した。
飛びぬけて屈強なトラ男の肩に、怯えたネズミの少女がしがみ付く。なんとも可愛らしい光景ではないか。
「その日はひどく雨が降っててな。俺はそいつと一緒に仕掛けた罠の見回りに出た。視界は悪かったが、俺は迷わない自信があった。すでに何度か森に入ってたからよ、慣れてる気になってたんだ。だから俺は、俺の肩にへばりついて『そっちは危ない』って喚くネズミの言葉を聞かなかった」
気がつくと、テペウの声にはさび付いたような冷たさが宿っていた。暖かな浴室なはずなのに、千宏の肌に鳥肌が浮く。
「雨が降るとな、森には川が出来るんだ。昨日まで草むらだった所によ、冗談みたいにでかくて深い川ができる。それが崖から滑り落ちると、一日で滝の出来上がりだ。仕掛けた罠は完全に川の底に沈んでて、俺たちは諦めてそのまま拠点に引き返すことにした。だが笑えることによ、帰り道なんざもうなくなってたんだ。俺達は即席の川に囲まれて、身動きが取れなくなった」
ほんの十分。たったそれだけの時間で、森は全く姿を変える。
テペウ一人だったなら、激流の中を泳いで拠点に向かう事もできただろう。だが、肩にはか弱いネズミの少女が乗っている。
「自分はいいから、先に拠点戻ってろ。ネズミは俺にそう言った。自分は高い木の上に避難するから大丈夫だってな。俺は承諾しなかった。雨はますます激しくなって、俺達は雨の音に負けないように怒鳴りあってた。先に戻れ、いいや戻らないの押し問答だな」
テペウたちが立っていたのは、きっと多くの支流に囲まれた砂州のような場所だろう。雨が激しくなるにつれて川の水位はぐんぐんあがり、そしていくつかの支流は一つの大きな川になる。
「その時、俺の背より高い激流がやってくるのが、木の向こう側に見えた。俺は咄嗟にネズミを庇ってふんばったが、水圧に押し出されてそのまま崖下に落ちてな。下にぁすげぇ水溜りが出来てたから、俺もネズミも大した怪我は無かった。問題はそこが、遺跡の真正面だった事だ」
濁流に押し出され、崖から落ち、ようやく岸に這い上がったテペウの前に、巨大な遺跡がそびえている。傍らには、苦しげにせきこむネズミの少女。
「俺達は水溜りから這い上がり、帰り道を探そうとした。だが俺が一歩足を踏み出した瞬間、ネズミが叫んだんだ。水に飛び込めってな」
それなのに、とテペウは続ける。
「俺はぼさっと突っ立ったまま動かなかった。動けなかったんだ。ネズミが何を言ってるのかもよくわかってなかった。次の瞬間、ネズミは俺の足に思い切り噛み付いた。痛みにびびってよろけた俺の目の前を、赤い光が突き抜けたのを今でもたまに夢に見る」
テペウの手が震えていた。胸が締まるほどの緊張感が浴室に満ち、威圧感に息が詰まる。
「ネズミは血飛沫も上げずに崩れ落ちた。そんでよ、左右に綺麗に裂けたんだ。あっけねぇもんだったよ。俺は閃光に弾かれて水に落ち、そのまま下流まで流されて森の番人に回収された」
そして、話が途切れる。
長い沈黙を挟み、テペウは喉の奥でくぐもった笑いを零した。
「笑い話だろ? 臆病者のネズミによ、俺は助けられたんだ。あいつはその気さえあれば、ぼーっと突っ立ってる俺を置いて一人で水に飛び込めた。この傷を見て俺を勇敢な戦士だって言う奴は大勢いるが、逆なんだよ。この傷は腰抜けの刻印だ」
魔法でつけられた傷は、例え焼死体となっても一生残ると、千宏は前に聞いた事があった。それだから、魔法による傷を消す事を専門に生きている魔法使いも、ネコやウサギの国には存在するのだ。
「……そのネズミさんて……なんて名前なの?」
訊ねると、テペウはこれにも笑いを零す。
「知らねぇ」
千宏は驚いたように聞き返した。
「知らないって……だって、仲間だったんでしょ?」
「俺のパーティーにネズミは一人だ。ネズミっていやぁ通じるから、名前なんて知らねぇ。ネコのこともネコって呼んでたしな」
少々理解しがたい感覚である。そういえばテペウは、カアシュとブルックのことも名前で呼ばず、『チビスケ』と『色男』と呼んでいた。そういう性格なのかもしれない。
「俺は認めた奴の名前しか覚えない。だからよ、あのネズミ、なんて名前だったんだろうなって今もよく思うんだ。俺が一番頭に刻まなきゃならねぇ名前のはずなのに、俺はその名前を覚えてねぇ」
「じゃあ、カブラの事は認めてるんだ?」
ああ、とテペウは体ごと千宏に振り向いた。
「あいつはいい! 決して仲間を裏切らねぇし、仲間のためなら命を張る! 馬鹿で純粋で真っ直ぐで、理想的なトラじゃねぇか! カブラを護衛に選んだってんだから、お嬢ちゃんは頭がいい上に運もいい」
「あ、いや、それは……」
出て行け、と言ったカブラの声を思い出し、千宏は微妙な表情を浮かべた。
「あの、捨てられちゃったんだよね……あたし、嘘ついてカブラについてきてたし、それなのにハンスには、本当の事話してあったから……」
あん? とテペウが顔を顰める。
「……なんだと? そりゃどういうことだ」
低く響く怒りを含んだ声色に、千宏はぎくりとしてテペウを見た。
「いや、だからね、今は護衛はハンスだけなんだ。宿も変わっちゃったし。完全に別行動に……」
「あの野郎、護衛を途中で放り出したのか!」
叩きつけられた怒号に怯み、千宏は真っ青になってテペウを見た。
なにか、まずい事を言っただろうか。どうもトラの怒りの沸点は、千宏には判断しづらい物が多い。
「――ってことはだ」
怒りの形相から一転して、気付いたようにテペウは呟く。
「じゃ、俺がお嬢ちゃんに何しても、あいつらにゃ関係ねぇってことだな?」
「――は?」
まさか、と千宏は思った。
それと同時に、まずい、と思う自分がいる。
「なあお嬢ちゃんよ。ネコみたいな事を言うなんて思わねぇで聞いてくれよ? 俺は金には困ってねぇし、こう見えて独り身だ。今まで女はその場その場で調達してたが、最近は連れ歩く女が一人いてもいいんじゃないかと思っててな」
「ちょっと……ちょっと待ってよテペウさん……?」
「だが俺はいい女しか連れて歩きたくはねぇんだ。最上級の、誰もが涎垂らして羨ましがるようなな。最近はこうも考えるようになった。ヒトのメスを連れ歩けばいいんじゃねぇかってな。だがヒトメスは、ネズミより臆病で壊れやすいって話じゃねぇか。この俺が壊さずにいられるかどうか不安で、今まで踏ん切りがつかなかったが――」
「ちょっと、待ってってば! やめてよ! あたしは目的があってお金を稼いだるんだから、誰かのペットになんてならない! あたしにはちゃんと帰る場所があるんだから!」
たまらず怒鳴った千宏の言葉を、しかしテペウは笑顔のまま黙殺した。
「おまえだったら、良さそうだ」
瞬間、千宏は立ち上がって脱兎のごとく駆け出した。
しかしトラの瞬発力に敵わないのは、すでに何度も思い知らされている。千宏はテペウに足首を捕らえられ、そのまま湯船に引きずり込まれた。
トラの基準で張られた湯は、千宏には少し熱い。
「やめてよちょっと! あたしにはハンスって護衛もいるんだから! あいつ怒らせるとたぶん怖いよ! 根暗な奴って怒ると怖いんだから! マジでバラムがそうだったし!」
大声で喚きながら湯船から逃げ出そうとす千宏を、テペウは後ろ手に捕らえて風呂場の床にうつ伏せに押さえつけた。片手でいとも軽々と、である。
「ああ、イヌの兄ちゃんはこえぇなあ。あいつら魔法使うしよ。だが俺が一声かけりゃあ、この街のハンターの半数は俺につく。俺には犬やろう一匹くれえ、あっという間にひき肉にしてイークの餌にできる自信がある」
そんな、と呻いた千宏の肩に、テペウのざらつく舌が這う。千宏は歯を食いしばって自身の軽率さを呪った。
甘かったのだ。トラという種族を、無条件に信じすぎていた。これは――カブラ達を裏切った報いなのかもしれない。
ここで終わりかと、これで全てお仕舞いかと思うと、千宏は急にへなへなと力が抜けていくような感覚に襲われた。
潰れたカエルのように浴室の床に突っ伏したまま、千宏は食いしばった歯の隙間から奇妙な呻き声を零した。
テペウが驚いたように動きを止め、不審そうに千宏の顔を覗き込む。
「う、うぐ、う……っひ……ひぐっ……」
うげ、と零して、テペウは思い切り千宏から飛びずさった。
「おまえ――な、泣くかよ普通! おいよせ、泣くな、やめろよくそ!」
「あんたが泣かしたんじゃないかぁ!」
自分が非道を行おうとしたくせに、叱り付けるように言ったテペウに、千宏はぐしゃぐしゃになって泣きながら怒鳴り返した。
「あたしは――だって、やらなきゃいけないこと、あるって……! なのになんでみんなそっちの都合で、あたしの邪魔ばっかしようとするんだよ! あんたあたしがここまでどんな気持ちでやってきたか分かってる? どれだけ決意したかわかってる!?」
「おい、わかった! 話は聞く! だから泣きやめ頼むから! 恐怖症なんだよ女の泣き声の! 蕁麻疹が出るんだって!」
そう言われては、ますます盛大に泣き出すに決まっているのが今の千宏の立場である。
恥も外聞もなく、千宏は大声を上げて泣きに泣き、テペウは顔面蒼白で総毛立った。阿鼻叫喚である。
そしてとうとう限界を超えたらしいテペウが千宏の鳴き声を打ち消すような雄叫びを上げ、突っ伏したまま際限なく泣き続ける千宏の肩を掴んで無理やり起き上がらせると、嫌がる千宏の顔を固定して至近距離でその瞳を睨み付けた。
そして一言、
「声を出すな」
途端に、千宏の泣き声が消失する。ぱくぱくと口を動かし、声が出せないことを確認した千宏は、ますますもって盛大に泣き出した。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、激しくテペウを罵るも、出てくるのは僅かな呼吸音だけである。
ようやく落ち着いたと言うようにテペウがどっと脱力し、耳と尻尾を力なくへたらせて再び湯船に沈み込んだ。
「あー……久々に効いた……」
巨大な手の平で顔面をおおい、しんどそうにテペウが呻く。全ての気が削げ落ちたでも言うような様子である。
「てか、魔法きっついじゃねぇかよ、くそ。あーしんでぇ。苦手なんだよこれ」
だったらやるなと、内心罵る千宏である。
テペウは疲れ果てた様子で改めて湯船から上がり、べそべそと泣き続けている千宏を置いて浴室を出た。
一言、
「泣き止みそうになったら出てこい。それまでは出てくんな」
そう言われて見れば、だれはばかることなく泣けると言うのは、なかなか巡ってこない機会かもしれなかった。
涙でひりひりと痛む頬をこすって更に真っ赤にしながら、千宏はテペウが出たあとの湯船につかる。半身浴用の段差に据わっても、水位は千宏の胸の上まで来る深さであった。すこし熱い。
そして、要塞に置いてきた家族の事や、カブラたちとの仲たがいや、その他の細々とした出来事を一つずつ思い出し、千宏は気が済むまで延々と泣き続けた。