鋼の山脈 二・流れる風
コーネリアス氏族集落、通称断崖城。
戦士や祭司の活動本部、及び重要な役職に就いている者の家族が住む城塞部分と、下っ端の戦士や祭司が集団生活を送る坑道部分に分かれ、
両者の間には、工廠や炊事に携わるような立場の低い下働きの狼たちが石小屋に住む、露天部分が横たわっている。
坑道の自室から出て霊地に行くためには、この露天部分の往来を通って、元鉱山の表面を登っていく必要がある。
「ああ、こりゃまた随分荒く使ったねえ」
工廠に蛮刀を持っていくと、刃を見るなりそう言われた。
「そうかな」
「そうさ。レムは他の奴らに比べて腕の力が弱いんだから、骨を割るよりも筋や動脈を狙いに行った方がいいって」
剣匠の目が、刃の僅かなへこみをひとつひとつ丁寧に撫でていく。
「でも、骨を斬らなきゃ殺せないじゃないか」
「血管で十分さ。そうでなきゃ、もっと力を抜いて鋭く斬りな。これじゃあ、剣がかわいそうだ」
奥から持って来られた代えの蛮刀を受け取り、レムは刀身を日の光に当てた。
よく研ぎあげられ、ぬめりとした輝きを湛えている良い剣である。
「そういや、あれは?」
「ん? ああ、そういやそんなのもあったな」
催促に応じて出てきたのは、数本の鉄釘だった。ただ、建築資材のそれと違い、頭に円盤がつけられておらず、先の尖った棒のようになっている。
「ありがとう」
「そんなもんより、投剣の方がいいと思うがねえ」
帯に取り付けた革製のホルダーに釘を通すと、レムは剣匠に挨拶をして工廠を後にした。霊地に続く道に差し掛かる。
「レムではありませんか?」
坂道の上に、祭司の一団がいた。
先頭の、きつい雰囲気を漂わせた、鼻筋の通った年増の祭司がレムを見下ろしている。
「霊地に、何か用なのですか」
そう言ってレムの肩先から覗く二本の柄に目を向けた。
「まだそんなものを持っているのですか。女の仕事は、精霊を祭ることと教えているでしょう」
「私の勝手だ」
「あなたの意志ではないでしょう。戦士として育てられたから、他の務めを知らないだけです」
顔をそむけ、目じりの端で相手を見上げる。彼女たちこそ、決められた施設を往復するだけの務めではないか。
断崖城から出るどころか、コーネリアス氏族以外の狼と会ったことがない、という祭司も珍しくない。
「あなたの母は、優れた祭司でした。その娘であるあなたであれば、必ずや良い祭司となるでしょう。そもそも、体格も小さく、力も男に比べて劣るのですから
あなたに戦士が適しているとは言えません。レム、私たちは、あなたが自分のするべきことに早く気がついてくれるよう、待っています」
言葉を返さないまま、街並みに降りていく祭司の一団を見送った。
先頭の年長の祭司はゼリエという名の、レムが幼いころから事あるごとに父の部屋に押しかけ、レムを祭司にするよう迫っていた女である。
顔を上げて、霊地へ向かった。
剣でも振らなければ、やっていられない気分だった。
霊地には、香の匂いが漂っていた。
先程の祭司たちが、何かの儀式を行っていたのだろう。
普段の澄みわたった空気に香りが混じり、肌が張り詰めるような空気も体温ほどの生温かさを持っているような気がして、剣筋が安定しない。
敵の攻め手を斬り落とす型を振るも、肝心の敵の攻め手のイメージが出来ない。
「まあ、ここじゃあ女は祭司をやるようになってしもうたからのう。いっそ、なってみたらどうじゃ」
「御免だ。良く知りもしない男に抱かれるのなんて、考えただけで気分が悪い」
「ふうむ。男に抱かれるのと祭司になるのとは、別に関係はないんじゃがの。いやまあ、お前にも年頃の娘らしいところがあるんじゃな。かわいいかわいい」
「やめろ気持ち悪い」
かすかに甘い匂いの漂う中、香りの薄いところにぼろ布を纏った老狼がいる。
環状列石のところで香を焚いたらしく、強い匂いのするいつもの石を避けて、草地に直接座っていた。
「なんぞ、お前の気に入るような男でもおればええんじゃがな。せめて、わしがあと千九百年は若かったらのう」
「うるさい。私はいい」
「ふくく、やはりわしが言ったとおりになったわい。相手の鼻をむしり取るどころか、武器を出しかねん有様じゃな」
それについては、言い返しようもない。自棄気味に踏み込み、両方の剣先で様子見の連続刺突を繰り出し、隙を突いてきた敵のイメージを引き寄せて柄で崩す。
「そんな見え見えの誘いには打ち込んで来んよ」
レムの剣筋を見ながら、じじいが呑気に声をかけてくる。調子に乗っている。
睨みつけてもさほど気にした様子は見せない。
「ちゅうても、精霊を感じる術はあった方がええわな」
と、聞こえるように呟いていた。
「私は祭司にはならないからな」
「じゃから祭司になったら男に抱かれにゃならん、ちゅうわけではないわい」
ビスクラレッドは骨ばかりの腕を顎に当てて、向こうの景色に目をやった。
「そうじゃな。レムや、タワウレ氏族の所に行け」
「どこだ、それ」
「どこだというよりも、のう」
レムにちらりと目を向けると、再び向こうの山に視線を戻す。山麓に沿って見下ろしていくと、渓谷の辺りに友邦の氏族の集落が見える。
「タワウレは流れる風の精霊じゃ。それゆえタワウレ氏族は定住地を持たぬし、他所からの客は歓迎される」
「それで?」
「儀式の作法だの、相応しい巫だの、そういうのはあるにはあるが、コーネリアスほど無暗に縛っとらん。自然のまま精霊を祀っとる。
じゃから、相性が良ければ割と誰でも精霊を感じることができるじゃろう。祭司になるならぬは置いておくとしても、一度精霊と会っておくのは大事じゃぞ」
「そうかな」
「そうじゃい」
剣を背負い、霊地を見渡す。
父に連れられて霊地を修練の場と定めて以来、精霊と語らう場所であるはずのここに随分と入り浸ったが、精霊らしきものを感じたことはない。
「そう言えば、私はどうやったら精霊に呼びかけられるのか、知らない」
「ここ四、五百年ばかりは、祭司団が全部抱え込んでしまっておるからのう。戦士は見ているばかりだったのが、最近は祭儀に立ち入り禁止になっとるしな」
ふと、ゼリエの言葉を思い出す。
母は、優れた祭司であったという。
精霊らしき気配を欠片も感じない自分が、本当に祭司に向いているのだろうか。
「とにかく行ってみて、心が通わせられるようなら思いの丈をぶつけてこい。何事も経験じゃて」
「今はどの辺にいるんだ、そのタワウレってのは」
「この時期なら、南西あたりじゃな。元老議会の小僧どもに探してもらえ」
相変わらず偉そうだが、本当に偉いのかどうかさっぱりわからない。
霊地にきたないじじいが居座っているとゼリエが聞いたら、どんな顔をするだろう。
ビスクラレッドの存在は怪しくはあるが、誰かに告げ口してじじいが追い出されでもしたら、なんだか申し訳ない気分でもある。じじいは特に害はないのだ。
霊地に剣を持って立ち入っているという後ろ暗さもあって、結局レムは誰にもビスクラレッドのことを話していない。
元老議会からの外出許可は、すんなり出た。
パラカ氏族の盗賊討伐に出掛けてきたばかりのため、しばらく行動の自由が認められるのである。
戦士たちは普段は、賊の討伐や他種族への傭兵業、弓矢に長けた者は食肉を確保するための狩猟当番の割り当てがあり、修練をしながら詰め所に待機している。
当番なら定期的に休日が支給される。そして今回のような特別任務をこなせば、多少の融通が利くようになるのである。
時間の使い方はまちまちで、近郊の友邦へ自分の子の様子を見に行く戦士もいれば、工廠に出入りして武具の手入れの仕方を学ぶ者もいる。
個人的に傭兵業に精を出し、セパタを貯めてひと財産、という者は、いてもいいものなのだがレムは見たことがない。
確かに金など渡されても、こんな高山地帯では使い道に困るばかりだ。
「タワウレなぞに、何をしに行くんだ?」
たまたま食堂で顔を合わせた長老議員のパルネラは、そう尋ねてきた。
「ちょっと、な」
「言え。お前の私用なんぞ考えつかん」
「祭儀を見に行こうと思って」
「ははあ。祭儀なぞ見てどうするつもりだ」
パルネラから、いぶかしげな表情は消えない。
「まあ、お前の親父がいいと言ったのなら、わしが騒ぐことでもないか。うちの馬鹿ならともかく、お前がよからぬことに首を突っ込むとも思えんしな」
「ああ、ただ見て戻ってくるだけだから」
「ゼリエに屈した、というわけではないのだな?」
「そんな気はない」
「それもそうよな。あの年増に、うんとひとつ頷いておれば、今頃お前は城塞の尖塔の上だものな」
少しつやを失ってきた毛並を撫でながら、パルネラは戦士でごった返す食堂の中に消えていった。
ゼリエに屈した、とは、祭司になるということだ。戦士が祭儀に関わらないのが不文律のコーネリアス氏族で、祭儀に興味を持つということは
やはり性別通りの役柄に戻るという意思表示に取られても仕方がないのだろう。
食堂の奥の方から、コレルとパルネラの大声が聞こえてくる。
さっそく癇癪を炸裂させたパルネラが、そんなざまだから女に武功で負けるのだ、と言っている。
戦士の皆は共に命を預ける間柄である。性別がどうの、とレムをのけ者にするような戦士は、大抵他の戦士からも煙たがられている者ばかりである。
でも、波風の立たないことを第一とするパルネラも、やはりああいった細かい区別は頭の中にあるのだ。
皆は、本当のところでは、レムが戦士であることをどう思っているのだろう。
「まーたパルネラは。てめえのガキのことになるとすぐアレだ」
今入ってきたばかりのバノンが、奥を見るなり呆れたように唸った。
「おうレム、あんな奴の言い草なんざ、気にすんなよ。あのオヤジは、昔ッから他と比べないと気が済まねえタチなんだよ」
「すまないな、バノン。気を使わせたか」
「親父さんと違ってわかりやすいんだよ、お前」
鼻先を、バノンの尻尾がくすぐっていく。
「うわ、やめろよ」
「ハハッ」
大皿に料理が残っている卓に見当をつけて、バノンは大股に歩み去って行った。
食事と言えば、後で調理担当に、旅行用の保存食を頼んでおかなければいけない。
礼儀作法は十分なつもりだが、タワウレに特別な風習などあったりしないだろうか。
不安になってきた。
ビレトゥスが王国を名乗り、西部の周辺氏族に食指を伸ばし始めてから、タワウレは専ら中央と東部のみの移動に留まっているという。
ビスクラレッドが知っているより早い周期で巡回していたタワウレ氏族の移動集落は、断崖城の北西一日の距離に腰を落ち着けていた。
山林の狭間に広がる高原に、移動集落用のテントが幾つも張られており、白い獣皮が日差しに照らされて、眩しく輝いている。
「コーネリアスの戦士様ですね? ようこそいらっしゃいました」
出迎えに来たのは、コーネリアスと細部は違っているが、似た意匠の服を着た娘だった。
やはりレムより五、六歳年上だろうか。
赤い巻き毛が、かすかな心の痛みと共に脳裏に蘇る。それを、噛み潰した。
「族長のところへ案内します。どうぞこちらへ」
テントの林の間には、駆けまわる子供や肉を干す女の姿があり、移動集落のはずれには家畜を牧している数人の男がいる。
定住しないのなら、やはり遊牧を生活の糧にするのが現実的なのだろう。土地の資源を奪いながら去るのであれば、盗賊と変わりない。
白地のテントの立ち並ぶ中、刺繍の入った帯で縁取りされているひとつに先導される。
中は地面に厚い絨毯を敷いてあり、簡素ながらもしっかりした骨組みの木材が獣皮を支えている。
中央の囲炉裏には火が入っていないが、十分に暖かさが保たれていた。
むくむくの男の子が、若い母親に抱きつきながらレムを見上げている。レムより年下の子供が二人ばかりと、壮年の男女が一組。
円を描くように広がって座っている中心に、老境に差し掛かった狼が、地面に立てた錫杖に縋って座っていた。
「遠いところを、ようこそいらっしゃいました。タワウレの族長"遠き朝霧"のダバウです」
見た目の年齢に似合わない、つぶらな瞳の男である。
「突然の申し出を受けていただいて、感謝する。私はコーネリアス氏族"岩に咲く白"のレム」
「我らの精霊タワウレは風の流れの精霊です。他所の方との親しきふれあいは、かの精霊の尊ぶところ。歓迎いたします」
瞳の印象に違わぬ、素朴な人懐こさを感じさせる調子で、ダバウはレムの手を両手で握った。
「次の祭儀は四日後を予定しております。それまでのレム殿のお世話は、孫のエリエザが務めますので、何かご不便がありましたら遠慮なく言ってください」
「エリエザです。よろしくお願いします」
レムを案内してきた、手足のすらりと伸びた灰銀毛の娘が小さく頭を下げる。
動作が慣れている。旅行者なり見学者なりを、何人となく案内してきたのだろう。初対面のレムに向ける笑顔にも、硬さがない。
「こちらこそ」
「それでは、さっそくお泊まりの場所に案内します。レムさんは、テントは大丈夫ですか?」
「うん」
吹きさらしの地面でも休息できるのが、戦士として最低限の条件だ。
「お暇ができたら、こちらへお越しください。色々とお話など聞きたく思います」
ダバウが言う。もういい歳であろうに、嬉しそうな気配を隠そうともしない。ビスクラレッドの言ったとおり、客を迎えるのが好きらしい。
「こちらへどうぞ、レムさん」
なんとなく、いつでも剣を抜ける気構えを取っていたレムを、エリエザがテントの外へ導く。
柔らかな笑顔を浮かべながら、そっと手を差し伸べてきた。その手を取って立ち上がる。
「我が氏族の新たな客人に、タワウレよ暖かな春の風を」
決まり口上なのだろうか。ダバウが錫杖を振る。
よく磨かれた真鍮が、涼やかな音を立てた。
遠くに、のんびりと家畜に草を食ませている牧童の姿が見える。
宿舎となるテントに荷を置き、他のテントの間を散策しながら、レムはなんということもなくその光景に目をやっていた。
元々小規模な氏族だとは聞いていたが、レムの予想よりもずっと少ない。コーネリアスの大きな家族を傍流まで数えれば、タワウレの人数に追い付きそうである。
やはり、移動を常とする性質上、大人数を避けているのだろうか。
「レムさんは、いつも剣を背負ってるんですか?」
「うん?」
案内という名目で、一緒について歩いていたエリエザが、ふとそんな事を言った。
「そうだな。いつ戦になってもいいように、備えておくんだ。長物使いは持ち運びやすい武器で代用するけど、私は元々これだからな」
剣帯から蛮刀を引き抜いてみせる。肉厚の刀身は、腕力と重量で叩き斬ることに重点を置いたものだ。
腕力に劣る戦士は、刺突剣や鎖武器などの、相手の意表を突いて急所を突くような武器を勧められているが、レムは蛮刀が癖に合った。
「そうなのですか。やはりコーネリアス氏族でも、外から敵が襲ってくることはあるのですか?」
「え」
エリエザにとっては、当り前の質問だっただろう。中規模の氏族でも、水や鉱山を巡って氏族間で抗争することがよくある。
小規模氏族なら、食い詰めた流れ者や、略奪を生活の糧とする氏族が常につけ狙ってくる。
未だ強権力に統制されておらず、山林の隅々まで治安が行き届いているわけではない高山地帯では、そうした外敵の存在が常態化している。
レムは、それを忘れていた。
「いや、その。コーネリアスに攻め込んでくるような者はいないよ。私たちが剣を振るうのは、友邦の安全を守るためだ」
パラカを始めとして、十といくつかの氏族がコーネリアスに防備を依存している。
氏族の独立性を考慮して戦士団の常駐はないが、一度攻め入った盗賊は例外なく叩き潰すとなれば、コーネリアスの友邦を狙う賊はいなくなるというわけだ。
タワウレはどうなのだろう。
コーネリアスの友邦ではない。
「いいですね。やはり、大きい氏族は違いますね」
「タワウレも、賊が襲ってきたりするのか?」
「はい。家畜を数匹奪われるだけのこともあれば、女を狙ってくる者もいます。幸いにして、精霊タワウレの加護がありますので」
「精霊が戦に役に立つのか?」
「? ええ。盗賊の襲来をいち早く知らせてくださったり、火矢を突風で吹き消してくださったりします」
そんな話は、聞いたことがない。精霊は祭ることで氏族を守護するものだと知っているが、そんなに直接的に守護してくれるものなのか。
断崖城では、年季の入った戦士でも、精霊コーネリアスの加護で助かった、と言う者は見たことがない。
「それと、私たちの弓が遠くまで届くよう、追い風を呼んでくださることもあります」
「へえ。エリエザも弓を使えるのか」
「そうです。これでも、家畜を狙ってくる獣を追い払うのは得意なんですよ」
攻撃の間合いが広く取れるのが、弓戦士の強い所だ。剣と弓は、コーネリアスでも一度は持たされる。
レムはあまり得意ではなかった。狙いがどうしても右上にずれるのだ。
とは言え、エリエザはそういう武器の扱いに慣れていると聞いて少し意外だった。
「そう言えば祭儀まであと四日だったか? 日付とか、土地とか、何かを待ってるのか?」
「ええ。二つの月が同じ形になる時が、タワウレの喜ぶ凪の風の日ですから」
その時、間延びした太い音色が響いた。牧童が、家畜たちを追い立て始める。
エリエザが、表情を引き締めた。
「レムさん」
「なんだ、これ」
「敵です」
「何が来たんだ」
背の剣の柄に手をかける。世話になっている先が襲われるのなら、手を貸すのが当然だ。
近くのテントに駆け込むエリエザが、振り向きながら叫ぶ。
「おそらくは、トヲリです」
「トヲリ? トヲリ氏族か?」
「はい」
テントの中では、壮年の女がかけてあった矢筒を下ろしているところだった。
エリエザはいくつか置いてある短弓を受け取り、弦の具合を確かめる。
「レムさんは、集落から出て、どこかでしばらく避難していてください」
「どうしてだ。私も戦う」
「よその氏族の方に、迷惑をかけるわけにはいきません」
コーネリアスで言う、氏族の独立性のことなのだろうか。
矢筒を背負って、エリエザは外に出た。同じように弓矢を持ったタワウレの者たちが、三々五々集まって射撃位置をとっていく。
盗賊が相手なら、相手の遠慮を押して加勢するのは当然のことである。
だが、氏族同士の争いとなれば、どちらかに加勢することは、コーネリアス氏族の動向も決定することになりかねないのだ。
タワウレもトヲリも、コーネリアスの影響力の下にはあるが、コーネリアスの傘下には入っていない。
自分たちの守りは、自分たちでやっている、対等の氏族だ。
「レム殿!」
錫杖を携えて、しっかりした足取りで姿を現したダバウが、レムを見て寄ってくる。
「トヲリと抗争中だったのか」
「ええ、そうです。きゃつらは山頂の方から来ております。川に沿って、しばらく避難していてください。
タワウレではないとわかれば、トヲリの連中も攻めかけてはきますまい。エリエザ、レム殿を」
「はい」
弓を手に、エリエザは先導するようにレムを促した。
「ちょっと待て」
彼女を、呼び止める。テントから矢避け盾や尖らせた柵を立て掛けていくタワウレ氏族の狼たちを、一瞥した。
「こんな人数で防げるのか?」
敵が何人いるか知らないが、集落全体の守りに当てるには、どう見ても少ない。
女子供や老人も多く、エリエザひとりでさえも惜しい戦力だろう。
「避難ぐらい一人でできる。これでも戦士なんだ、そこまで気を使ってもらうこともない」
「いえ、客を軽んじたとあってはタワウレの意志にも背くことになります。それに万に一つもトヲリが多勢でレム殿を狙うことがあれば、大変です」
ダバウの傍らで、力強い表情を作ったエリエザが頷く。
どうあっても自分たちだけで戦うのであれば、レムができるのは大人しく従うことだけだ。
「わかった。もし手助けが必要なら、言ってくれ。コーネリアスに報せを送る」
「ささ、お急ぎくだされ」
ダバウに促され、先導するように駆けだすエリエザの後に続く。
低地側の森林地帯に家畜を追いこんでいるのは、少年一人である。敵の目的はともかく、狙うなら二人連れの女より家畜の群だろう。
どうあれ、走るしかない。
渓流に沿って、林の中を走る。
川は、泳いで渡れる程度である。中央はそれなりに深さがあるだろう。対岸から敵が来ても、すぐにこちらを捉えることはできない。
流浪氏族だけあって、エリエザは呼吸を乱さず、走るペースも乱さない。
先ほどから、走りづめである。エリエザは、レムの様子を伺いつつも、決して速度を落とそうとしない。
「どこまで逃げるんだ」
レムが止まると、エリエザも足を止めざるを得ない。
「レムさん」
「集落からあまり離れると、今度は日暮れまでに帰りつけないぞ。近くに敵がいるのなら、そっちの方が危ないんじゃないか」
「ええ、ですが」
息を弾ませながらも何か言いたげだが、結局答えはない。
「なあエリエザ、私なら大丈夫だ。これでも、十人を相手にして一人で戦ったことがある。こんな見た目だけど、コーネリアスの戦士は伊達じゃない」
両手を広げて、自分を誇示してみせる。
こういう時、見た目で信用を得ることが出来ない分、自分の体格は損だと思う。
「コーネリアスの友邦を、盗賊から守るなんてことは何度もやってきた。その時は、友邦の民の避難場所は近くの立て篭もれるような所にするものなんだ。
どこまでも離れようとするのは、もう帰らない時だけだろ」
真正面から見詰めると、エリエザは言いづらそうに顔をそむけた。
「タワウレは戦いに慣れている氏族ではないんです。そういう、戦いのやり方はあまり詳しくなくて。
いつも移動しているから、その土地の隠れ場所もわかりませんし、避難の時にどこまで行けばいいかというのも」
確かに、集落で迎撃に当たるタワウレの民を見ていても、弓ばかりで剣や槍を持っている者が見当たらない。近接戦闘に持ち込まれれば一気に崩される陣容だ。
「ですから今までも、追い払えそうもないとわかれば、すぐに集落を棄てて逃げました。物を奪われるのはつらいですが、皆が生きていれば取り返すこともできます」
強い力を持たない氏族なりの処世術なのだろう。つまり、ダバウたちも適当なところでレムと同じように山林に逃れるということだ。
「わかった。じゃあ、しばらくは私たちの事が先だな。この辺りで一旦、隠れられそうなところを探そう」
「はい」
目立たないところで無関係を装っていれば、氏族抗争はやり過ごせるはずだ。
だがそうした隠れ場所などそうそうあるわけもない。いっそ木にでも登ろうか、と考えていたところで、ふと音が聞こえた。
そこそこの人数の一団が、まとまって走ってくる。
「レムさん」
「今から慌てて隠れると、逆に怪しまれる。堂々としていよう」
あの足音が追手なら、タワウレ氏族は集落を棄てて四方に散ったのだろう。
レムはともかく、タワウレの服装であるエリエザをどう庇うか。
「あ……」
木々の向こうに、三人ほどの一団が見えた。
林の奥側からも気配を感じてそちらを見ると、別の四人が広がりながらこちらに向かって来ている。
川を背負う形になった。囲まれれば逃げるのが面倒になる。
「エリエザ」
小声で促すが、彼女は三人のうちの一人をじっと見据えたまま、立ちつくしていた。
要所を覆った鉄仕込みの革鎧と、身長の倍ほどの十字槍。鼠色の毛並みに、橙色の獰猛な眸が光っている。
相手の男も、エリエザを見ていた。
「ようエリエザ……探したぜ」
足を止めて、狼はにいっと笑った。
「ガウロ……」
名を呼ばれた狼の目がレムに移り、またエリエザに戻る。
もう、ほぼ囲まれてしまっていた。
「おい、錫杖はどうした……持って逃げろって言われたんじゃ、なかったのか?」
「私は、あなたのところに行くつもりはありません」
「何? つれねえなあ……」
槍を肩に掛けたまま、ガウロは大仰に肩をすくめて見せる。
「まったく、どうしちまったんだよ。せっかく久しぶりに会ったってのに」
「どうしてタワウレを攻めるの? 前までは仲良くやっていたじゃない」
「なんだよ……トヲリとタワウレを強くしてえからって言っただろ? そのためにゃ、二つが力を合わせる必要があるってよ……」
「ガウロ、話を聞いて!」
エリエザが叫ぶ。のたのたとした口調で言い訳をしていたガウロは、苦笑した。
「ま、せっかくこうして会えたんだ……そんな色気のねえ話は脇に置いといて、前みてえに楽しくやろうじゃねえか」
近づいてくる。
ガウロが動き出したのに応じるように、他の狼たちも囲みを狭めてきた。
「エリエザ」
レムは、彼女の手を取って引こうとした。勢いさえつけられれば、少なくとも囲みは破れる。
だが、エリエザは動かない。
「ガウロ、他の氏族から来たお客様がいます。せめて、この人は」
ガウロの目が、面倒くさそうにレムに向けられる。
「おお……そりゃ大変だ。トヲリとタワウレの争いに、関係ねえ氏族が巻き込まれたら面倒だもんなあ……おい、お前ら」
ガウロが周囲の狼たちを見回す。
「そのガキ……行方不明ってことにしてやれ」
「ガウロ!」
「エリエザ、逃げるぞ!」
動かないなら引き摺るまで、と力いっぱいエリエザの腕を引く。
今度は、彼女も踏み留まらなかった。
狼たちが、一斉に動き出す。
「エリエザには傷つけんなよ……そのガキは好きにしていいからよ!」
背後からガウロの号令が飛んでくる。
追いかけてきたのは、ガウロの両脇の二人と、山林側の四人。川沿いに更に下る方向なら、まだ囲みが完成していない。
剣を抜こうとしたが、片手がエリエザの手を引いている。
「レムさん、私は大丈夫です」
「わかった」
両手で、背の蛮刀を引き抜いた。
横合いから槍斧が行く手を遮ってくる。
足止めのために突き出された牽制をかわし、槍斧の斧部分に蛮刀を掛けて引き寄せる。
瞬間、動きが止まった敵に踏み込む。思ったより間合いを詰められない。剣先で相手の手首を裂き、槍斧の先を斬り飛ばす。
これで無力化。
「このまま走るぞ!」
エリエザを先に行かせ、後続を牽制しながら、隙を見つけて全速力で駆ける。
長物を持っている者を突き離すことはできたが、軽装相手はしっかり追走してくる。これ以上全力疾走すれば、止まった時に疲れで動けなくなる。
エリエザも弓を取り、果敢に反撃をしているものの、足を止めなければ狙いがつけられない。狙いが甘いとなれば、相手の狼も強気で出てくる。
矢を正確にするために足を止めれば、突き放した敵が追い付いてくる。
距離を測って、レムは振り向いた。
足を止めて、右から振り下ろされる片手戦槌を受け、左からの棒の突きを辛うじて逸らさせる。
棒の先端が顎狙いに変化し、下がってかわす間に槌が次の攻撃動作に入っている。
棒の次撃が先に来た。喉への突き。弾く。そこへ、思いきり振りかぶった槌が落ちてくる。
受け切れるか。
覚悟を決めて、下がりながら蛮刀を構えた時、狼が振り上げた肘に、矢が突き立った。
うおっ、と一声吠えて、敵が槌を取り落とす。棒持ちの意識も、矢の射手の方へ散っている。
棒持ちに牽制の左剣を見せる。誘いに乗って、レムの剣を弾こうと棒に空を切らせた隙に、槌を拾おうとしていた敵の鎖骨目がけて、右剣を叩き込んだ。
頭を狙っていたら避けられていただろうが、思い通りの骨を折る手応え。
棒の方は、思ったとおり二の矢が動きを抑えてくれている。
棒持ちが矢をかわした直後に、レムは両手の剣を左右から挟み込むように打った。片方は頭、片方は足。咄嗟に下がり遅れた左膝が血を噴いた。
打撃を与えたら、一気に背を向けて駆け出す。手前の二人の後方に、残りの三人が迫って来ている。
「すまない、助かった!」
三本目の矢を手に取っていたエリエザに、礼を言う。
残りは三人。戦槌の追手がまだやる気なら、四人。
走りながら矢を放つエリエザに倣って、レムも手に入れたばかりの釘を投げてみるが、牽制にはなっても当てるには程遠い。
頭数がばらつく危険を悟ったのだろう。追手三人は、足並みを揃えている。
それでも、女の足ではじりじりと差を詰められてしまう。
レムだけなら、逃げ切れるかもしれない。エリエザも同じことを考えているだろう。互いに離れまいと気を遣いすぎて、逃げに自由が利かないのだ。
戦うにしても、三人まとめての相手は危険だ。エリエザに敵が行かないようにするためには、足を止めて打ち合わねばならない。
数と体格に勝る相手を倒すなら、せめて乱戦に持ち込まなければ、レムが崩される。だが乱戦ではエリエザを守り切れない。
「レムさん、二手に分かれましょう!」
ならばこの提案は、呑むしかなかった。
「わかった!」
返事を待たずに、エリエザは山林の深い方へ進路を変えていた。
彼女を追って、三人のうち一人が向かう。
レムの追跡に回った二人を一刻も早く倒し、エリエザを助けに行かなければ。彼女には、それまで逃げ切ってもらうしかない。
敵の武器は、分厚い鉈に長柄をつけたような長物と、シンプルな素槍。
決して蛮刀の間合いに入ろうとせず、互いの隙をカバーしながら、穂先で斬り刻むように細かく突き出してくる。
思い切って逃げるにしても、槍の長さを生かしての踏み込みに捉えられる。
だがレムもようやく、長物相手の感覚に慣れてきていた。
リーチはあっても、攻撃の起こりも速さも、レムの知っている剛剣に比べて格段に遅い。
思い切って、槍の刺突に合わせて前に出た。攻撃の軌道を避けながら、槍の穂先を迎えるように蛮刀で払う。
うまく行った。素槍の落ち葉のような形の穂先が、斜め後方に飛んでいく。
一度感覚をつかめば、続く鉈槍の振り下ろしは、何も気にすることはなかった。
蛮刀を頭上に交差して柄を受け、鋏のように絞り斬る。
素槍持ちの反対側に来るように鉈槍持ちの側面に回り込み、穂先を失った鉈槍が果敢に石突きを繰り出してくるのを捌きながら、これも手首を裂く。
怯んだところへさらに、蛮刀の切っ先を揃えて逆側の二の腕に突き刺した。
「てめえっ!」
素槍の柄を振って打ちかかってくる片割れを、左剣で払って右剣でやはり手首を打つ。
もう一歩踏み込むと、この相手は怯む前に下がった。引き損ねた足に、もう一太刀。
即座に反転し、エリエザが消えていった方へ全速力で向かう。
二人は追ってこないだろう。動脈が開いているのにレムを追えば、出血が命に関わる。
剣を背負い、ホルダーの釘を確かめる。
レムに二人付いてしまったのは、誤算だった。エリエザは、彼女が無事に逃げ延びることを祈るばかりだ。
ガウロの性格から考えれば、手下もどこの者とも知れない子供よりも、エリエザを無事に連れてくることを優先すると思っていた。
だが、エリエザの考えも読まれていたのだろう。
「よう……最近、冷てえよなあ。まさか、あんな男だか女だかわからねえガキに鞍替えしちまったのか?」
山林に慣れているのはトヲリも一緒である。女の足では、男一人の執拗な追跡を振り切るのは難しかった。
矢を射ず、大人しく降伏する。そうすれば、追手はエリエザを無傷でガウロの所へ連れていくだろう。
そこからが正念場だと、覚悟を決めていた。
「ガウロ、こんな馬鹿なことはやめて。もう、タワウレもトヲリも、人が随分死んでしまったのよ」
「わかってねえのはお前たちの方だぜ、エリエザ……」
手下に背を強く押され、エリエザは前につんのめった。
その体を、ガウロが少々手荒に抱きとめる。
「二つの氏族が力を合わせりゃ……他の氏族だって、黙って見ているわけにはいかなくなるだろ」
「剣や槍で突き刺すのが、力を合わせることなの? ならどうして、大叔父さんは死ななきゃならなかったの」
ガウロの胸を突き飛ばして離れようとするが、伸ばした腕が捕まる。
「そりゃ、よ……せっかく一緒に名を上げようってのに、いらねえなんて言い出すからじゃねえか……
片方だけじゃあ、意味ねえんだ……二つが力を合わせて、やっと他より上に行けるんだぜ……」
「上、上って、そんなことに意味があるの? 私たちは、今までだって」
「うまい物いっぱい食えて、いいモノ着れてよ、飾りだって選び放題の生活だぜ……トヲリは皆、やる気になってる。
西を思い出せよ、エリエザ……ビレトゥスがどれだけ派手な暮らしになったか、見てきてるだろ?」
「そんなの、いらないわ。どうしてわかってくれないの、ガウロ」
「そんなことねえさ……楽な暮らしといいモノってのは、あって困るもんじゃねえ……そうだろ?」
ガウロの指先が、顎をくいと持ち上げた。
「なに、反対する奴を全部ぶった斬ってやろうってわけじゃねえ……嫌がる奴は、無理にとは言わねえ。
ただ、俺たちに氏族二つ分の力がある、って証拠がありゃあ、いいんだ……」
首筋に、ガウロが鼻先をうずめようとする。
振りほどこうとするが、両手はガウロに捕まっている。
「いい匂いだ。変わってねえ」
「やめて、ガウロ……私は」
「エリエザ、だからよ、お前はついて来てくれよ……あんな土臭えカビ生えた氏族のしきたりなんか、放ってよ。
タワウレの族長の錫杖をトヲリが持っていきゃ、ビレトゥスも……俺たちにそれなりの立場をくれるはずだぜ。そしたら、そしたらよ」
ガウロの両腕が、いつの間にかエリエザを抱きすくめている。
もう突き放す気も起らなかった。力強い腕が背を撫で、少し痩せた尻の肉を柔らかく掴む。
「俺の槍の腕なら、楽な暮らしはすぐだ。お前に縫いなおしたボロを着させる必要も、寒い季節に豆やイモでひもじい思いをさせることも、すぐなくなる」
ガウロの体は、また逞しくなっただろうか。
毛並みは硬くなった。包み込むように、少し苦しいくらいに抱き締める力も、頸にかかる息の熱さも、胸に伝わる鼓動の強さも、ガウロのままだ。
「エリエザを離せ」
だから、武器のなる音と、幼さを残した気迫の一言が、エリエザの体の芯を冷やさせた。
ゆっくりと、ガウロの体温が離れていく。
メイスと山刀を構える残り二人の向こうで、両手に蛮刀を持ったレムが、目に刃の鋭さを宿らせて立っていた。
「……ガキ。あいつらはどうした」
「斬った。手当てが間に合っていれば、死にはしないだろ」
「舐めてた……って、ことか」
ガウロが、十字槍を取った。
「お前ら……俺がやる。どいてろ……」
「ガウロ! その人は無関係なのよ!」
「仲間をやられて、無関係……ってわけには、行かねえだろ」
「あなたが手下をけしかけたりするからでしょう!」
取り巻き二人が道を空けた真ん中を、ガウロが通り抜ける。レムの間合い数歩手前で立ち止まった。
「俺の手下は、トヲリじゃそこそこの使い手なんだけどよ……お前、どこの奴だ」
「コーネリアス氏族だ」
「へえ……」
この辺りの氏族なら、コーネリアスの評判を知らないはずがない。だが、ガウロは不敵に笑った。
「それじゃあ、お前をやれりゃあ、俺も相当強いって……証明に、なるな。トヲリの戦士の名に、箔が付く」
槍の穂先が、すっと下がった。
ガウロの目つきが細くなる。
十字槍。真っ直ぐな穂先に、文字通り十字に交差するように刃がついている。
一見突き刺しづらいように見えるが、刺さり過ぎて抜けなくなることがなくなる。また横薙ぎの殺傷力が上がる上に、
技巧派がやるような、紙一重で見切って前に出る戦いがしづらくなるのだ。幅のある横刃が、それだけ大回りの回避を強いる。
その切っ先が、掬い上げるように跳ねあがった。
横に避けるだけで時間を取ってしまい、前に出る頃には、次の攻撃が待っている。
おまけに、身長の倍近い長槍である。手元の緩急で、レムに間合いの内側に入らせない。
「ちっ!」
穂先は避けたものの、横刃に胴を薙がれそうになって、蛮刀でどうにか受け止める。
攻撃の芯ではなかったと言えど、この体格差では重い。足を踏ん張っていたにもかかわらず、少し押し戻される。
穂先を斬るには、刃が長い。僅かでも見誤れば串刺しだ。
攻め手がない。
ガウロから目線を離さず、回り込むように走る。位置を変えることで、隙を探す。
修練場でなら、相手に向きを変えられて終わりの動作だったが、この山林の中では違った。
木の生え方は一様ではない。ガウロが、長槍の先端を持ち上げて、木を避けてから切っ先を向き直らせる。突破口が、見えた。
単調に回り込み、ガウロが向きを変えた直後に、素早く元の位置へ戻る。すぐに前へ飛び込んだ。
槍のリーチのせいで、横薙ぎで終わるはずの無謀な動作は、横移動の間に合った木のお陰で、槍の迎撃を受けない。
向き直り切れないガウロまでの距離を、一足跳びで半分詰めた。
槍は内側に入られると、柄での殴りくらいしかない。柄の軌道に蛮刀を沿わせて警戒。もう一度踏み込めば、腕を斬れる。
「ンならァ!」
横合いから、怒声と共に礫が飛んできた。
前に出ようとしていた姿勢を無理やり崩して避ける。その頃には、十字槍を上に回して反転させたガウロが、石突きで反撃に出てきていた。
掬い上げを、横にかわす。追いかけてきた石突きを、蛮刀で跳ね返す。
斜め後方から、メイス。
がりっ、と木を削る音。横刃が後ろの木の枝に引っかかって、ガウロはレムを追えない。
「もうやめて!」
槌頭に耳をかすられながらも、武器を振り切った相手の肘の内側を、筋と血管をまとめて斬り裂く。
血飛沫が点々と付く感触を認識しながら、ガウロと自分の間に駆け込んでくるエリエザを、レムはぼんやりと見送っていた。
メイスに続いて仕掛けてくるはずだった山刀が、レムの間合いに半歩踏み込んだ距離で立ち止まっている。
「もういい加減にして! どうして戦うの! 人を傷つけるのが好きなの!? こんな子を、三人で寄ってたかって!」
叫びに、涙が混じっている。
「エリエザ……俺はよ」
「帰って! もう来ないで!」
腕を裂かれたメイスの手下は、いち早く下がって手当に入っている。
山刀は、ばつが悪そうに、レムがその気なら首筋を斬られているような間合いに残ったままだった。
ガウロは。
「……わかったよ。出直すさ……」
渋面を作ってはいたが、槍を肩に担ぎ直した。
「でもよ、エリエザ……俺は、諦めねえからな。絶対、お前と一緒に、もっと楽な暮らしをしてよ。楽しくやっていくんだ」
レムからは、エリエザは背中を向けているため、顔を見ることはできない。
手下二人が戸惑いながらも、背を向けたガウロの後に従っていく。
その姿が木々の隙間に消えてしまうのを見ると、エリエザはその場に崩れ落ちた。
「エリエザ」
「レムさん……」
駆け寄って助け起こすと、涙で濡れた顔を恥じらうように背けた。
「すみません、こんな……巻き込んで、しまって……ガウロ……」
「私は大丈夫だ。集落に戻ろう。そろそろ収まってるはずだ」
「……はい……」
体にダメージがあったわけではない。エリエザの足取りはしっかりしている。
だが、むしろ体の傷の方が、応急処置を心得ている分だけ、ましだったかもしれない。
レムには、エリエザの後をついて歩くことくらいしかできないのだ。
きちんと修練を積んだ戦士を相手にするのは、盗賊相手とは訳が違う。
無茶な受け流しを多用した蛮刀は、表面に大小の傷がびっしりついてしまっていた。
だが、勝てない相手というわけでもなかった。自分の腕を誇るところのあったガウロも、林の中なら長槍が逆に枷になる。
障害物のない平地で槍と剣の不利を埋めるほど、自分の技量が上回っているかどうかまでは、やってみなければわからないだろう。
そして、もうひとつ気づいたことがある。両手に剣を持っていると、せっかく用意した投げ釘が活用されない。
あれがあれば、槍相手でも攻撃の機をこちらから作ることができるはずだ。蛮刀を握ったまま、釘を投げる練習をするべきだろうか。
高地の朝靄の冷えた空気が、準備運動で暖まった体の表面を撫でていく。
「おお、レム殿」
テントの間から、ダバウが姿を現した。一歩ごとに、携えた錫杖が湿った音を立てた。
「此の度はまことに申し訳ないことに」
昨日は、防衛戦の後始末で何かと忙しくしていたから、今改めてということなのだろう。
「大丈夫だ。エリエザにも言ったけど、これでもコーネリアスの戦士なんだからな」
メイスの掠った耳先が少し腫れたくらいで、負傷らしい負傷はない。
だが、タワウレ氏族からしてみれば、客の安全を期すために孫娘をつけたばかりに、結果として、敵の別動隊が追撃に向かってしまったのだ。
ダバウの胸中、いかばかりであろう。
「なあ、昨日の奴らの親玉、ガウロって名前だったんだけど」
「はい……」
こちらの言いたいことを察したのか、沈痛な面持ちでダバウが頷く。
「ほんの十数年前までは、タワウレとトヲリは兄弟のような間柄だったのです。ガウロとエリエザは、それはもう仲の良い子どもたちだったのです」
昨日の様子を思い出せば、彼女とガウロの関係は、兄弟以上のものだっただろう。
怪我はないのに、傷だらけに見えたエリエザの後ろ姿が、忘れられない。
「それが、トヲリの何人かが、我々の移動について来て、ビレトゥス氏族を尋ねてから、彼らは変わってしまった。
元を糺せば、ビレトゥスからの旅人が方々の氏族を訪問して回っていたことに、根があるのかもしれません」
「それで、トヲリ氏族はビレトゥスの下につこうとしてるわけか」
「そのようです。トヲリだけなら格下の扱いだろうが、タワウレが力を合わせて、周りの氏族をいくつか攻め取って手土産にすればと。
それを拒んでからです。今まで兄弟のようであったトヲリ氏族が、刃を持って我々に接するようになったのは」
何ほどのこともないとばかりに淡々と語る口調から、逆にダバウが耐えていることが手に取るようにわかる。
レムは、黙って頷くしかない。
「ですがトヲリは長らくの兄弟です。今は西方の華々しさに惑わされていても、語らえばきっと流れる風の心を思い出してくれるはず。
レム殿、このことは我々の内で終える問題です。コーネリアス氏族には、力添えをお頼みすることはありません」
「そうか。そうだな。うん」
昨日の襲撃で、精霊の加護のせいか火こそ出なかったようだが、テントや柵組に所々に刀傷の痕がある。
外に出ている者も、少し数が減っていた。
「大丈夫だ、族長。頼まれもしないのに首を突っ込むようなことはしない。ただ、祭儀は見せてもらうから、悪いけどそれまで面倒をかけるよ」
無論、あわよくば助勢しようというつもりだった。
今目の前にいる壮年の狼を、昨日手を取り合って駆け回ったエリエザを、遠目に望んだに過ぎないとはいえ幼い牧童を、
我欲で振るわれる刃の前に置き去りにして帰るなどということができようか。
「すみません、レム殿。本来ならば十分なおもてなしをすべきところなのですが」
「いいさ。無理を言ったのは私の方だ」
やや低い位置に広がる草地に目を移す。
昨日と同じ位置に、昨日と同じ家畜の群。しかし、牧童は老狼に変わっており、家畜の数もかなり目減りしている。
「族長」
「はい」
「トヲリを避けて移動しようとは、考えなかったのか」
「はい。トヲリは、長らくの兄弟ですから」
信念に満ちた、精霊を司るに相応しい男の言葉だった。
また、外れた。
木の下に溜まっている落ち葉から、釘を探し出すのも一苦労だ。
昨日の林で、ガウロの体格に似た木を選び出して釘を投げつけているものの、レムは弓どころか飛び道具から見放されているのか、一向にうまくいかない。
十本弱の釘を拾い終え、頭部と狙いを定めた部分に一本も刺さっていない事実を確認して、レムは溜息をついた。
川のほとりに腰を下ろす。
普通に投げて当てられないのなら、剣を握ったまま投げても当たるはずがない。
川の流れに口をつけ、すすいで、吐きだす。
次に襲われたら、手を貸してもダバウも何も言わないだろう。だから、次でトヲリの襲撃者たちには、手痛い打撃を与えてしまわねばならない。
投げ釘が使えれば、長物を相手にしてもかなり楽になるはずなのだが。
「あれ、姉ちゃんこの辺じゃ見ない顔だね」
内に込められた活発さが、辛うじて性別を感じさせる、子供の高い声。
そちらに目をやると、黄色い革外套ですっぽり身を包んだむくむくの毛玉が、まんまるい目でレムを見ていた。
深みのある薄灰色の手に、牧童が持っているような丁字型の杖を握っている。
「ちょっと用事でな。お前は?」
「こんなとこで水飲んでるやつがいんなあ、って思ってさ。姉ちゃん、用事って釘投げか?」
「そんなわけないだろ」
無遠慮な子供は、レムが誰かも聞かず、隣にどっしりと腰を下ろしている。外套のすそが広がって、黄色い小山のようだ。
「なあ、こんなところにいると危ないぞ。最近、この辺りで戦いがあるみたいだからな」
「うん、知ってる。おいらんとこと、タワウレんとこだろ」
あっけらかんとしたものである。
「みんな、ちょくちょく武器持って出てくよ。帰ってくるときなんか、見覚えのある女の人とか連れてこられてるし」
「お前、トヲリ氏族か」
「ああ、そうだよ」
笑うでも警戒するでもなく、乏しい表情に興味を湛えながら、子供はレムを見ている。
「なあ、なんでトヲリはタワウレに戦いに行ってるか、知らないか?」
子供からまともな情報が引き出せるとは思えないが、聞いた。
他の氏族の傘下に入るため、などという理由では、レムは納得できなかったのだ。
理屈では、わかる。だが、だからと言って、氏族の者たちを何人も失っているにも関わらず兄弟と呼んでくれるダバウに、刃を向ける心情が理解できない。
「大人の考えてることなんかよくわかんねえよ。おいらは、今までどおりタワウレとなかよくやっていけりゃ、いいって思う」
子供は、言葉の端に不満を滲ませていた。
同じ考えの者がいて、レムは少し安心する。
「力つけて、どうするんだろうな」
「しらねえ。ビレツスとかいうところがきんきらきんで、そいつらみたいにうまいもん食って面白おかしく暮らしたいらしいぞ」
「面白おかしく、か」
昨日のガウロも似たような事を言っていた。
エリエザがいて、ダバウがいて、共に行く仲間がいて、これ以上何が足りないのだろう。
「トヲリは、不作か流行り病か何かがあるのか」
「そんなんあったら、真っ先にタワウレが助けに来てらあ」
「そっか」
「なかなおりする方法、ねえかなあー」
子供が河原に大の字に伸びた。
水のせせらぎの音が流れていく。
「よし」
ホルダーの釘を引き抜き、先程目星をつけた木に向かって構えを取る。
投げもののこつは、自分の手の延長のように体重を乗せて振り抜くことであるという。
腕を折りたたんで、上から下に打ち下ろすように投げる。
また、右側に逸れていった。あの分では、大股に踏ん張っている相手の脛に当たればいい方だ。
もう一本。また、似たような所へ飛んで行った。
さらに一本。今度は右下に逸れることを考えて左上へ飛ぶようにしてみたが、相手の脇をかすめて飛んでいくにとどまった。
当たらない。
「姉ちゃん、へたくそだなあ」
「悪かったな」
「おいらがおまじないを教えてやるよ。ちょっとクギかしてみ」
子供はむっつり顔のレムの傍にとことこと近づいてきて、レムに向かって手を伸ばしてくる。
よくわからないが、不承不承一本渡してみる。
釘を受け取ると、子供は外套の裏側から針金のようなものを取り出し、首をぐいっと手元に随分と近づけながら、釘に何事か細工を始めた。
「うわ、かってえ。投げちまうようなモンに、いい鉄使ってんなあ」
「そうなのか」
「何言ってんだよ、そんじょそこらの武器がひん曲がるぐらいいい鉄だぞ。しらねえで使ってたのか。姉ちゃん、抜けてんなあ……ほら、できた」
もぞもぞしていた子供が、顔を上げて釘を差し出してきた。
受け取ってみると、三角形を崩したような、不思議な図形が刻まれている。
「なあ、何だこれ」
「それな、お願いのシルシだ。どうか当たりますように、って書いてあんだって」
「お願い?」
「そいつを、どうか当たりますように、ってお願いしながら投げりゃ、精霊が当てていいって思ったところに、カクジツに当たるんだぜ」
「へえ」
黄色い小山に乗った、もこもこの頭が、自慢げにふんぞり返る。
これが、エリエザも言っていた、精霊の力添えとやらを呼ぶのだろうか。あるいはただの気休めか。
「ほかのクギにも同じの切っときな。同じように使えるから。ぜったい役に立つって」
「お前のところの精霊のだろ? いいのか、私なんかに教えて」
「いいって。だって姉ちゃん、なんかいい匂いすんだもん。悪い奴にゃ見えないし。それに、うちの氏族はみーんな知ってたはずなのに、
いつの間にかだーれもやらなくなっちまってんだ。だから、エンリョしねえで使ってくれよ」
よくわからない理屈だが、無下に断るようなものでもない。
「まあ、有難くもらっておく」
感触を確かめながら、ホルダーの一番端に差した。心なしか、他の釘よりさっぱりした冷たさを感じさせる。
「で、姉ちゃん、用事って?」
「祭儀を見に来ただけだ。うちの氏族じゃ、祭司じゃないと精霊の祭に加えてもらえなくてな」
「他の氏族の祭儀なんか見てどうすんだよ」
「精霊って、どんなものかなって思ってさ」
子供が、不思議そうな顔をしている。
「よくわかんねえ」
やはり日常的に精霊と深いかかわりを持っている氏族には、精霊と距離が遠いという感覚は縁の薄いものなのだろう。
「姉ちゃん、どこの氏族だい」
「コーネリアスだ。あっちのでっかい山の横腹に、城があるだろ。あそこだよ」
「おいらはトヲリだよ」
「ああ、さっき聞いた」
「そうだっけ?」
レムは、先程まで投げていた釘を拾い集める。
客分である以上、あまり長々と留守にしているのも、タワウレ氏族に悪い。
一度宿舎で休んでいる姿を見せておくことにした。
傍らの子供に声をかける。
「私はそろそろ、宿に戻る。お前も、野盗か何かに捕まる前に帰れよ」
「姉ちゃん」
「うん?」
「姉ちゃん、おいらたちが争ってるの、どう思う?」
釘を探すレムの背に、神妙な気配が届いてくる。
見た目こそ幼いが、この狼は大人などより余程周囲が見えているのだ。
「出来れば止めたい。でも、氏族同士の争いに、よそ者が勝手に首を突っ込んじゃいけないことになってる」
「じゃあ、おいらがケンカ止めてくれってお願いしたら、姉ちゃん、止めてくれるか?」
振り向くと、子供がまっすぐにレムを見ていた。子供らしからぬ、しっかりとした眼の光に、すがるような色が浮かんでいる。
「おいらたちの大人は、タワウレをやっつけるのをやめようなんて、もう誰も言いださねえ。タワウレの大人は、おいらたちがそのうちやめてくれるだろうって、
もう何人もケガさせられてんのに、今まで通りなかよくやっていこうなんてしてるんだ。このまんまじゃ、タワウレがなくなっちまうよ。
おいらたちが、兄弟の氏族をやっつけちまったサイテーのやつらになっちまう」
当事者からの頼みがあれば、少なくともその場の面目は立つだろう。
だが氏族の争いに介入しないのは、もっと大きな視点からの話である。
コーネリアスほどの強力な氏族が、要請もなく無関係な争いに手を貸すのは、その氏族を支配下に置こうとしていると捉えられてもおかしくはない。
王国を建てず、友邦との間にも独立自尊を旨とする、誇りあるコーネリアス氏族にとっては、その悪評の根拠は見捨てておけない侮辱となるだろう。
「わかった、任せておけ」
子供の言葉ひとつで抗争に加担する氏族を、誰が信用するのか。
せめて、氏族の中でもある程度の地位を持つ者からの要請でなければならない。
「私はこれでも戦士だからな。どこまでできるかわからないけど、やれる限りやってみるつもりだ」
表情に乏しかった子供の顔が、喜色を浮かべた。
「ほんとか、姉ちゃん」
「ああ。ガウロとエリエザも、なんとかしてやりたいと思っていたところだ。やっぱり、今のままじゃ駄目だ」
釘を、ホルダーに収める。一番端の刻印付きの一本が、風を巻いた気がする。
「頼むぞ。ゼッタイだぞ」
「ああ」
この視点の冷めた子供は、二つの氏族のことを純粋に思い悩んでいたのだろう。
ならば戦う価値はあるのではないか。
レムがタワウレの集落に戻ると、またエリエザが世話に訪れた。
テントの破れ目も補修され、表面的には何もなかったかのような時間が流れていた。
エリエザも、レムが来た時と変わらない愛想のよさで、集落内をぶらぶらと歩くレムの後をついて回っている。
減ったように見えたタワウレ氏族も、実際に命を落とす者は数度の襲撃で出るか出ないかで、集落から姿を消すのはトヲリに捕らえられるからだという。
テントの中には、負傷者や、武器の毒にやられた者が、相当数、臥せっていた。
「この辺りの草から作った毒なんです」
エリエザに尋ねると、そういった返事だった。
「毒消しはありますけど、それが効いて動けるようになるまで一日か二日はかかるので」
ごく軽傷でも、戦力としては当てにならない、ということだろう。
「タワウレは持ってないのか? 敵の戦力が削げるんだから、使えばいいじゃないか」
特に弓の多いタワウレなら、その効果は十分のはずだ。
「そうなのですが……やはり毒ですから、肩とか脇腹とかの傷になると命に関わるんです。だから、おじい様が使わないようにって」
そんなことを言っているような戦力差ではないのだが、ダバウはあくまでトヲリが目を覚ますのを待つつもりなのだろう。
トヲリの子供が危惧するのも頷ける。
宿舎に戻り、エリエザが調度品の擦り減り具合を確かめ、水差しの中身を入れ替えているのを横目に、荷物から木の皮を干した紙と、黒粉を取り出す。
「お手紙ですか?」
「うん」
タワウレに加担することを決めたとはいえ、やはりレムはまだ、どこか自分の決断に自信を持てないところがあった。
父から返事が来れば、少し腰が据わるかもしれない。
「いいですね。私たちは、読むのがやっとなんですよ」
「そうなのか?」
「はい。書けるのはおじい様やデセルさんくらいですね。他の氏族と協約を取り付ける以外には、特に必要な場面もないので」
黒粉を水に溶いてインクを作りながら、父にどう報告するか考える。
ただ、いつもの通りなら、今回のレムの決断に見直すべきところがあったとしても、断崖城に帰るまでは指摘されないだろう。
手紙を送ったとして、返事が来るだろうか。来るとしても、それまでにトヲリが攻めてきたら、レムは助勢を買って出ている。
すなわち、すでに介入した後に判断することになる。
返事が否定的なものだったら、それを押して剣を取れるか。決断の鈍りが体のキレに影響するならまだしも、タワウレから不信を買うことになりかねない。
やはり、手紙はやめておこうか。
とりあえず前後の事情を簡潔に記した木皮紙に宛名を記し、署名を施す。
紙面に空白は多い。書こうと思えば、いくらでも言い訳を並べることができる。
だが、レムにはそうやって長々と言葉を連ねることに、どうしても抵抗がある。
問われてもいないのに口数が多いのは、後ろめたさを押し隠そうとしている証だ。
ペンを置き、紙をそのままにして、敷布の上にごろりと身を投げ出した。
考えて答えが出るものでもないから、こうして手紙を書いて、情勢の動きを見ようと思ったのだ。
その様子見にさえ迷っていては、どうしようもない。
「エリエザ」
「はい、なんですか」
天幕を眺めながら、テントのどこかにまだいるであろうエリエザに声を掛けた。
「またトヲリが来たら、私も戦うことにしたよ」
返事はない。こちらの真意を測りかねているのもあるだろうが、彼女の目にはガウロの面影がよみがえっているだろう。
「同情を押し売りするつもりはないよ。朝に、小川に行った時にさ、トヲリの子供と会ったんだ。
トヲリの大人がサイテーな奴らになる前に、止めてくれって頼まれた。元通りに仲直りできるように、って」
「レムさん、あの」
「私には剣を振り回すことしかできないけど、なんとかしよう。タワウレも、トヲリも、ガウロも」
エリエザが息を詰めた気配が聞こえた。
泣き所の男の名を持ち出すのは、卑怯だっただろうか。だが、これもレムの偽りようのない本心である。
テントの外では、草が囁いている。
「お願い、します」
絞り出すように呟くと、エリエザはテントを出て行った。
コレルの取り巻きの誰かが、困ったときは一眠りするに限る、と言っていたのを思い出す。
まだ日は高いが、目を閉じる。
角笛の音が高らかに響いた。
夕食後、空白の多い手紙の前で考え込んでいたレムも、今度は意味を十分に知っている。
剣帯を素早く巻き、外の様子を伺ってから宿舎テントの外に飛び出した。
既に日は落ちて久しく、篝火も細々と燃えているばかりで、敵の姿はおろかタワウレ氏族の者さえ見分けがつけづらい。
「レム殿、いらっしゃいますか」
案の定ダバウが、エリエザを連れてレムのテントへ向かってくる。
「族長、私は戦うことに決めた」
「何をおっしゃられますか」
「トヲリの子供に、氏族の争いをなんとかしてくれって頼まれたんだ。私自身としても、仲良くやってきてた氏族の争いを放っておけない」
「しかし」
戦わない者は、既に避難を始めていた。
傷や毒で思うように動かない体を、子供や老人に支えられながら、どうにか動かしているという有様である。
弓を取る者は、昨日よりさらに少ない。
「族長、こんな人数で夜襲を支えようなんてしたら、今度こそ取り返しがつかなくなるぞ」
ダバウはまだ決心がつきかねているようだったが、先に話を聞いているエリエザは、レムを先導しようと動くことはしない。
周囲は宵闇に包まれている。かなり接近されなければ、相手の姿は見えないだろう。
「族長が何と言おうと、私はもう決めたんだ。迷惑はかけない。それにこの暗さじゃ、弓は当たらないぞ」
闇のどこかで、ぱっと新しい明りが灯った。
テントに火がついている。
「ああ」
エリエザの嘆息が聞こえた。もうトヲリは、タワウレの財産に損害を与えることも厭わなくなっているのだ。
トヲリの思惑は、ダバウの望みとは逆の方向に走り始めている。あの火はその証だ。
「族長。今は、戦う場面だろ」
返事も聞かずに剣を引き抜いて、暗がりの方から回り込むように駆け出した。
テントの影で、一人に当たった。
体格のしっかりした狼。棒の両側に、さらに大きな棒が付いた杵を持っている。武器も体格も、タワウレにはいないタイプだ。
「おい」
念のため声をかけてみると、相手もレムを見て、杵で打ちかかってきた。
避けると同時に手を斬り払おうとして、杵の頭に阻まれる。杵頭を突きだしてくるのを蛮刀の腹で跳ねのけ、引き戻しきらない腕を突き刺して敵の方へ踏み出した。
残った片腕で杵を操り、レムを振り払おうと向き直ったのに合わせて、レムは反対側に大きく身を切り返し、もう片腕に斬りつける。
「て、てめえ……」
戦意あり。杵も取り落としていない。
身構えた杵の上から目一杯強く蹴りつける。受けた腕の傷が開いて動きが鈍ったところで、再び側面に回って右剣を斬り下ろし、左剣で背から胴を薙ぐ。
二刀の同時攻撃に慣れている者は、そうはいない。肩とあばらを大きく裂かれ、持っていられなくなった杵が地面に音を立てた。手は離さないまま、膝をつく。
防御の下がった頭に上段蹴りを見舞、レムは素早くその場を離れた。
常であればとどめを刺しているところだが、今回は目的が違う。
後で関係を修復するのなら、生きている者は多ければ多いほどいい。
テントを二つ駆け抜けた先で、長剣の狼がこちらに背を向けて、弓を持っている中年の狼に斬りかかっていた。剣ならトヲリだ。
片方の剣を背負い、空いた手で釘を投げつける。
珍しく、狙ったとおりに飛んだ。釘は剣を振り下ろそうとしていた左の肩甲骨あたりに突き立つ。
一瞬硬直してから慌てて振り向いた長剣の狼は、素早く踏み込んできたレムを認識できただろうか。
地面を這うように駆け寄り、一剣に両手を添えて、脇腹から逆側の鎖骨までを、体全身で伸び上がるように斬り上げる。
レムの体格である。傷は深くないだろうが、当たった部位が悪い。命に関わるとでも思ったのか、長剣のトヲリは悪手を打った。
急いでレムに向き直り、構えた。お陰で、今まで自分が剣で苛んできたタワウレの男に背を向ける結果になった。
釘が当たったのと逆の肩から、矢が生える。
腕の筋肉の付け根をやったのだろう。右腕がだらりと垂れ下がり、長剣が指から滑り落ちた。
「ここは任せろ!」
「すまぬ、客人」
二の矢をつがえるタワウレを立ち去らせ、長剣のトヲリに蛮刀を突きつける。
「武器は拾うな。死にたくなければ、素手で逃げ出せ」
レムは、こういう物言いをしたのは初めてである。まだ戦闘能力の残っている相手に降伏勧告をするのは、力のある戦士のすることだ。
「帰ってきたら、今度こそ命はないと思え」
長剣のトヲリはレムの出方を伺いながら後ずさり、間合いから出たと見るや一目散に背を向けて駆け出していく。
背を見せた時点ではまだ踏み込みが届く間合いだったが、レムは見送った。
別のところで武器を拾って戦列に戻っていたなら、宣言通りに仕留めねばならない。
背負った片剣はそのままに、釘のホルダーを撫でながら物陰を縫うように移動を再開する。
もうひとつ、テントに火がついた。
小火の内に消そうとしたのか、小柄な影が駆け付ける。
輪郭からして男。年齢はわからない。火に近づいたせいで、居場所がはっきりとわかった。
敵は、それを狙っていた。
暗がりから長物が、男の肩口を斬り下ろす。男はたまらず転がった。
テントの付け火に照らされても、まだ正確な位置がわからないくらいの長い得物。細い柄。特徴的な穂先。
地面の男が、斬られた腕をかばいながら、足と残った腕で器用に弓を引く。
「この野郎!」
トヲリの長物が、男の胴に飲み込まれる。
突きの踏み込みで、槍の主の姿が火影を照り返した。
声も顔もその武器も、見忘れようはずがない。
「ガウロッ!」
釘を三本掴み、ガウロがいると思しき場所目がけて狙いもつけずにばら撒いた。
「……ちっ! その声……」
適当に投げたものに、手応えなどあるはずもないが、ガウロの出鼻を挫く役には立ったらしい。
槍が火から離れていく。が、一度捉えた相手を見失うことなど有り得ない。
もう一本投げつけ、背負っていた蛮刀を手に取る。ガウロがこちらに構えを取る前に、両手の剣を揃えて踏み込んだ。
「てめえか、ガキ!」
「いい加減に、しろ!」
切っ先を揃えた諸手突きは、柄で受けられる。
「エリエザはなあ、お前と元通りにやっていけるのを待ってるんだぞ!」
右剣で顔を狙う。
「よそ者の知ったことか……よォッ!」
ガウロは大きく飛び退いた。槍にとって、剣の間合いを外すことは逃げではない。
「コーネリアスなんてえ、でかい氏族の奴には……わかんねえ、だろうなあ!」
槍を短く持ち、レムの踏み込みの軌道を穂先で遮る。だが、僅かにレムの方が早かった。穂先を払いながら、ガウロに迫る。
「族長を見て何も思わないのか!」
「ダバウが俺たちについてきてくれてりゃあ……こんなことにはならなかったってだけの、話だ!」
ガウロが、槍の柄を狙った剣を巧妙に避け、また間合いを外しながらレムの正面から外れるように回り込む。
そちらへ向き直るが、姿勢が崩れて追い切れない。
近くに先程の男が倒れているのが目に入った。体を丸めて、小さくうめき声を上げている。
どこを刺されたかはわからないが、まだ生きている。
「しっかりしろ!」
声をかけると、僅かに反応したように見えた。
「誰か来てくれ! 一人やられた!」
敵を集めるだけだろうか。しかしこのまま捨てておけば、間違いなく男は死ぬ。
ガウロは、鼻で笑った。
「人の心配を……」
ついと槍が動く。
「してる暇がァ!」
振り下ろされた槍を、剣を交差して受ける。
すぐに槍は引き戻され、みぞおちを狙って軽く突き出された。
跳ねのけると、また引いてもう一突き。もう一突き。
レムの声が届いたのか、気配が集まってくる。敵も味方も混ざっているだろう。
タワウレがトヲリと鉢合わせれば、接近戦用の武器を持っているトヲリの方が有利だ。助けを求めたのは、失策だったのか。
槍の先端で、じりじりと圧されていく。正面をガウロに釘づけにされてしまっていれば、暗がりから飛び出てきた者に背後を狙われれば、終りだ。
槍の穂先を斬れれば、せめて横刃さえなければ、もっと鋭く踏み込める。そうすれば勝負がつけられる。
ふと、思い出した。
そうでなきゃ、もっと力を抜いて鋭く斬りな――
何言ってんだよ、そんじょそこらの武器がひん曲がるぐらいいい鉄だぞ――
そろそろ勝負を決めに来たのか、ガウロの槍捌きに熱が加わってきた。
その勢いに合わせることは、難しくはない。時折混ざる本命の突きに狙いを定める。
拍子を合わせて、体重を乗せて、剣を構えて、槍が突き出されると当時に前に出る。
先端をかわして、横刃に剣を当てる。斬れると念じて、鋭く剣を振る。
感触は粘土に似ていた。
「何……」
突きの勢いを乗せたまま、斬り飛ばされた横刃が闇に消えていく。
十字槍が、突如バランスを欠いたことに驚いたのか、ガウロの槍が一瞬止まる。呟きに、焦りがにじんでいる。
その頃には、もうレムは一足一刀の必殺の間合いに、ガウロを捉えていた。
頼りの槍も内側に入られてはどうしようもない。
頭への斬り下ろしと、首への横薙ぎ。
放とうとして、レムは思いとどまった。
これでガウロを仕留めてしまえば、エリエザに言ったことはどうなるのだろう。出来る限りのことをすると、彼女に約束したのではないか。
一度気迫を乗せた剣の狙いを逸らすのは重労働である。
レムの心に浮かんだ躊躇は、苦し紛れのガウロの前蹴りがレムを追い返すのに十分な隙だった。
「……槍に、ガタがきてやがったか」
手入れさえしていれば、その判断は戦う前にできているはずである。
再び剣の間合いから外れた。
ガウロは、先程と同じように槍先でレムを圧そうとするが、横刃を斬られた側からレムが切り込んでくるようになった分、優劣は逆転していた。
レムがもう一歩深く踏み込めば、頭や体に届く。
だが、エリエザとの約束がある。自然と、戦闘力を奪うための手足狙いに終始していた。
ガウロもそれに気づいたのか。忌々しげに舌打ちを響かせる。
レムとの技量差は語るまでもない。槍を無茶苦茶に振り回しながら、レムの思い切りの悪さに救われて、なんとか追い返している有様である。
一合ごとにガウロの苛立ちが募っていくのが感じられる。
後方のテントから、誰かが来た気配があった。
「レムさん!」
エリエザの声。ガウロが明らかに反応した。
その一瞬の隙に踏み込めば、殺せた。
「エリエザ、そこの人を頼む!」
「エリエザぁ!」
レムの呼びかけに割れた叫びが被さる。
後ろで草を踏む音が、大きくはっきり聞こえた。
「ガウロ!? いるの!?」
「駄目だ、来るな!」
迂闊にも、レムは僅かに振り向きかけた。その隙を見逃すガウロではない。
突き出された槍を、反射的に同じ動作で避けた。横刃のない側へ前に出る。
そのレムの前に、残っていた横刃が現れた。
ガウロが手の中で槍を回転させていたのだ。
「しまっ……」
体をひねったが、かわしきれない。脇腹を、鋭い感触が突き抜けて行った。
「レムさん!」
「大丈夫だ! そこの人を!」
戦の高揚感が、痛みを紛らわせる。傷の程度はわからない。
槍が来る。腰から斜めに斬り上げる軌道を、同じ方向へ回り込みながら前へ出る。
踏み込んだレムを迎え撃つように、槍が反転して石突きが突き下ろしの軌道を描く。
剣を構えての受け流しが、腹の傷に響いた。足が止まる。ガウロが体ごと反転してきた槍の穂先が薙がれる。これも受け止めるも、横刃が肩先に食い込む。
正面から受け止めてしまった槍を、力を込めて押し返す。傷が痛む。
思ったように動けない。槍が再度薙ぎ払われた。踏み込みつつ、柄を弾こうとした。弾けるはずの棒打が剣をすり抜け、脇腹の傷のあたりを打つ。
うめき声を奥歯で噛み潰すが、今度は足が踏み止まり切れなかった。感覚が薄い。まだ力は残っているのに、レムはバランスを取り損ねて尻餅をついた。
やっと思い当った。
毒だ。
「よう……いいザマだな」
穂先をレムに突きつけながら、ガウロが嗤う。
殺す気はないのか、まだ戦闘力を失っていない相手を前に勝ち誇るような手ぬるい戦士なのか、判別は付かない。
少なくとも、まだ死なずに済んだ。
あとは、毒で鈍った神経で、ガウロの槍を捌けるか。
「タワウレも、トヲリも、戦いをやめるのだ! これ以上傷つけあうことなどない!」
集落中に響く声は、ダバウのものだった。
張りのある重々しい声に、辺りから聞こえてきていた戦いの喧騒が静まっていく。
「おじい様……」
傷を負った男を介抱しているエリエザの近くに、ダバウの姿があった。
松明を大きく掲げ、もう片手に錫杖を持っている。
それを、ガウロに突き出した。
「お前たちの望みの杖は、くれてやる」
「へえ……どういう風の吹き回しだ、ダバウよう」
「これでもう、戦う理由もなくなるだろう」
「……ま、確かにな……」
ガウロの意識が、レムから逸れている。今飛び起きれば首を掻けるかもしれない。
だが万全ではない体調で、やれるかどうかの自信はない。それに、対話を持とうとしているダバウの信義を汚すことになる。
今、レムにできることはない。
「族長」
しかしそれでも、言わずにはいられなかった。
象徴を渡すことは、そのまま降伏を意味する。タワウレの自立性は失われ、トヲリの支配下に置かれるだろう。
「客人の命を取ってまで守るようなものではありません」
「私はまだ大丈夫だ」
起き上がろうとした鼻先に、槍が突き出された。
「大人しくしてろよ……よそ者は、よ」
ガウロが、勝者の余裕でこちらを見下ろしていた。
レムが手を出す気を失ったと見て、槍先はレムに向けたまま、ダバウの方へ歩み寄っていく。
「いい判断だぜ……トヲリの仲間と聞きゃ、どこもタワウレを下には扱わなくなる……今後そうなるぜ」
「そんなものは、いらん」
「ま、いいけどよ……」
頑として首を振るダバウに、ガウロは小さくため息をついた。
「おじい様」
「よい。精霊はわかってくださる」
エリエザの不安そうな声にも、ダバウは揺らがなかった。
「氏族の命と客人を、祭具ひとつと天秤に掛けようなどと思ったこと自体が、誤りであったのだ」
「そうそう……面倒なもんだぜ、昔からのしきたりってやつは……」
この男は、どうしてこういう場面でこんなに邪気のない笑いを見せることができるのだろう。
ガウロの表情には嘘偽りは一片も見つからない。ビレトゥスに付くことが両氏族のためであると、心の底から考えているのだ。
そのために何人かを槍にかけることにも、疑問を抱いていない。
ガウロはタワウレの族長の証を受け取ると、感慨を込めて錫杖を見つめる。頭の上に持ち上げ、横に寝かせて持ち、ひとしきり眺めた後、地面に突いてしゃんと鳴らす。
そしてねぎらうようにダバウの肩を叩いた。
「なあに、ダバウよう……すぐに、楽な暮らしにさせてやるって……心配すんな。今の決心が正しかったって、思えるようになる。
それとエリエザ。ビレトゥスから、それなりの立場を貰ってきたら……迎えにくるぜ。待ってろ。不自由ねえ生活は……もうすぐだ」
二人に背を向け、悠然と歩き去っていく。
レムの横で足を止めた。
「おい、ガキ。名乗りな。諱もだ」
答える気は、もちろんない。優位に立ってから相手の名を奪う真似は、後ろ指をさされてもおかしくない行いである。
「けっ、惜しむ名でもねえだろうに……ちいせえ奴だ。まあ、いいぜ……俺は心が広いからな……
コーネリアス氏族に勝ったとなりゃ、俺の槍にも箔が付くってもんだ……」
まだ、レムの手に剣はある。
このまま言わせておくのも癪だった。戦士の言葉は、剣で交わすものだ。
「続けるか」
ガウロを睨みつけ、歯を食いしばった。立ち上がろうとして、剣を地面に突き立てた。思ったように力が入らない。
「おお、怖え怖え」
心地よさそうに大笑しながら立ち去っていくガウロに、集落のあちこちから姿を現したトヲリ氏族が従っていく。
傷ついた仲間に肩を貸している者もあれば、女を担いでいる者もいる。
見送るしかなかった。
「すまない、族長。私がいながら」
ダバウの方を見る気にはなれなかった。
「いえ。レム殿がご無事で何よりです。これで、コーネリアス氏族に対しての面目も保たれました」
最初に顔を合わせた時と変わらぬ調子で、ダバウは答えた。
この声は、知っている。
年長の戦士が、引退前の最後の遠征に出る時が、ちょうどこんな感じだった。
集落の中には、血と鉄と、焦げくさい匂いが漂っていた。
戦の後は、空気まで凄惨になる。
無事に生き残ったタワウレの民が、自分たちの手当てもそのままに、倒れた仲間の手当てに当たっていた。
「私も手伝うよ」
「いえ、レム殿も手当の必要な方です。エリエザ、毒消しを」
ダバウに制止され、仕方なく宿舎に足を向ける。落ち着いてくるにつれて傷が熱を孕むようになっていた。
頭にも、熱がこもっている。勝てる勝負を落とした。しかも、勝たなければならない場面だ。
レムの劣勢が、タワウレの降伏の引き金になったことは間違いない。
「エリエザ、さっきの人は」
後からついてくるエリエザは、ただ首を振った。
何もかもが、後手に回っている。
宿舎に腰を下ろすと、ずっしりと体が重みを増した。あの程度の立ち回りで、ここまで疲労するはずがない。この倦怠感はやはり毒の効果なのだろうか。
「レムさん、傷の手当てをしますので……」
「いいよ、自分でできる」
「いえ、お任せ下さい。毒消しも使いますので」
そこまで言われて無理に遠慮することもない。上着を脱いで上半身裸になった。
脇腹の傷は、まだじわじわと血を流していた。肩の刺し傷も、思ったより痛みそうである。
「じゃあ、すまないが頼む」
「はい」
エリエザは、持ってきた小瓶から緑色のペースト状の薬を取り出し、これまた緑色の湿布に塗りつける。
「腕を上げてください」
言われたとおりにすると、傷口に湿布があてがわれた。
「んう」
ひやりとした肌触りに、思わず声が出た。
「沁みますか?」
「いや、大丈夫だ」
なんというか、湿布が苦い。傷口にぴりぴりと、何とも言えない感触が伝わってくる。
だが、肉料理の後に柑橘系の果物をかじったかのような、さっぱりした気分が広がっていくのを感じる。
包帯を巻き、肩の傷にも同じように湿布を貼る。
「これで大丈夫だと思いますけど、毒がすっかり抜けるのは一日、二日はかかります。それに脇腹の傷ですから、ゆっくり休んでいた方がいいです」
「うん」
上を着ようとして、傷口のところが破れているのを思い出した。
仕方なく腰を浮かして荷物を引きよせ、替えの服を取り出して羽織った。
それにしても、体が重い。
「エリエザ」
「はい」
「すまなかった。あれだけ大口を叩いておいて、結局こんな有様だ」
「いえ、そんな」
こちらにかける言葉もないだろう。レムが一人で突っ走って、一人で怪我をしただけなのだ。
結局、最初から最後まで一人で空回りしていただけなのだ。
「レムさんには、お礼を言わなければいけないくらいです」
「どうして。私は何も」
「何も関係のない私たちのために、レムさんは怪我をしてまで戦ってくれました。精霊タワウレも、レムさんのことは見てくださっているでしょう」
エリエザの言うとおり、レムは一生懸命だった。コーネリアスの戦士に相応しい、誇りある行動を取ったつもりだった。
だからこそ何の成果も出せなかったことが悔やまれる。
心がけでは戦局は覆らない。
「これからどうなるのかな」
ぽつりと声が出た。
「私たちは、三日後の祭儀が終わったら、今まで通り流れます。トヲリも、さっそくビレトゥスに使いを送っているでしょうから、しばらくは何もないでしょう」
この辺り一帯に定住しているトヲリ氏族と、狼の国全体を放浪しているタワウレ氏族では、レムが危惧するほど厳しい搾取関係にはならないのかもしれない。
使いの代表は、やはりガウロなのだろう。
「ガウロは……」
「いいんです。昔のままだって、わかっていました。悪い方に出なければ、って思っていましたけれど」
少し顔を伏せて、エリエザが答えるでもなく呟いた。
今の状況は、いいのか悪いのか。
トヲリ氏族がビレトゥスから認められて、富貴を得るようになれば、ガウロは宣言通りタワウレ氏族にも恩恵をもたらすだろうということは察しが付く。
弱小氏族には、そうした不自由のない生活が幸福なのではないだろうか。
レムが加勢したのは、余計なことだったのではないか。
「……さん?」
「ん、ああ。すまない。何だ」
エリエザの方を振り向くと、心配そうな顔でこちらを見ている。
考えれば考えるほど、悪い方向に転がっていくばかりだった。その思考を邪魔されて、むしろ救われた気がした。
大きく伸びをするついでに、足をのばして座り直す。
「具合はいかがですか?」
「大丈夫だって。少し、考え事をしていたんだ」
毒で体全体が熱っぽくはあるが、それも大したことはない。
「あの、お水を取ってきますね」
そう言えば喉が渇いたかもしれない。
エリエザが立ち上がる気配を感じながら、ぼんやりと思索をめぐらす。
さっきから、頭の中身が腫れ上がったような感覚がしている。体中が熱でむくんでいる気がする。やはり戦疲れだろうか。
外に出て、冷たい空気にでも当たれば少しは楽になるだろうか。そう言えば外はまだ戦の後片付けで、血と焼け焦げの匂いが残っているのだった。
座っているばかりも申し訳ない。外へ出て手伝おう。妙に体が重い。体力はあるのに、感覚が薄いせいで体が動いている実感がない。
と思ったが、体も持ち上がらない。いつの間にか体力もなくなっていたのか。骨が痛い。体をまっすぐにしているのも、疲れる。おかしい。
いつもの修練が足りなかったか。一人では、やはり修練も軽くなってしまう。最近、父様も忙しい。自分が勝手に戦っていて、どう思うだろうか。
体が熱い。頭も重い。体の芯を圧迫されるような重苦しさが、じわりと存在感を増している。
とにかく休んで体力を取り戻さなければ。後ろに手を突く。肘が曲がる。体重が支えられない。背を伸ばす。背骨が苦しい。いっそ、仰向けに寝てしまおうか。
どこかで誰かが何か言っている。頭がむくんでいる。飛沫がかかった。冷たくない。体が熱い。高い声。女。天幕が目の前。そうか、エリエザが……水……
寝台の上で毛布にくるまって、体の芯から湧き上がってくる寒気に耐えていた。
北国の寒さは、まだ体力のない子供には堪える。毛皮に包まれていない女児には特に、寒さで体調を崩す者が多い。
父は、部屋の外で誰かと口論をしていた。
いや、相手が一方的にまくしたてているという方が正確だろう。
初めこそ声を抑えていたのだろうが、次第にヒステリックになってくる声のおかげで、レムは目が覚めてしまった。
目を閉じていても、頭の片隅に神経に触る高音が引っかかってくる。
「男親一人で女の子を育てられるなどと思っているのですか!」
その声だけ、いやにはっきりと聞こえてきた。
その後もしばらく、一方的なやりとりは続いていたが、いつの間にか気付かないうちに終わっていた。
部屋に、父が入ってくる。
レムの顔をのぞき込み、額に手を当てる。レムのじっとりとした汗が、少し移った。
衣装棚からレムの服を取り出し、寝ている傍に並べる。やろうとしていることは、レムにもわかった。毛布をのけて起き上がろうとした。
「そのままでいろ」
一瞥を投げかけて、父は室内扉を開いて使用人が控えている隣室へ踏み込んでいった。
「旦那様、そのようなことは私どもめが……」
父は何か答えたようだが、声が低いせいで聞き取れなかった。やがてバケツを片手に下げて戻ってくる。
バケツの水に布巾を浸し、絞る。透明な水が、飛沫を上げた。
父の手がレムの肌着にかかった。抵抗もせず両腕を上げるが、いつものようにするりとは抜けなかった。
汗ばんだ肌が外気に触れる。体にたまった熱が、寒さを跳ね返してくれるものの、少しずつ体力も削られていくのがわかる。
素肌に、布巾の冷たさが触れる。汗で湿っていた嫌な感触が、拭き取られていく。
父はレムの腕を取り、体の側面を丁寧に拭いていく。氏族で有数の剛剣士の手つきは優しげで、妙に手慣れている。
背と首筋を終えて一度布巾を水に濯ぎ、体の前面と腕にかかる。最後に顔を一撫でして、出番の終わった布巾はバケツの水に沈められた。
父が用意してあった替えの服を手に取る。脱いだ時と同じように両手を上げて、するりと落ちてくる布の感触を味わう。
元通りに毛布にくるまり、寝台に横たわった。
汗の不快感が消えた分、ゆっくりと眠れそうだ。
「父様」
碧色の目がレムを見る。特に用があって呼びかけたわけではなかった。
時間がたっぷりと流れていく。
大きな掌が、レムの目元に乗せられた。
目を閉じる。手の温かみを感じているうちに、いつの間にか眠っていた。
目を開いた。
外の明るさが、うすぼんやりとした視界を打つ。何か、夢を見ていた気がした。まだ体に気だるさが残っている。
ぼやけた視界が徐々に像を結び始める。近い所に父の姿があった。自室にいても、あの見るからに重そうな鎧を脱ぐことは、ほとんどない。
「レムさん」
女の声。聞き覚えはある。エリエザだ。しかし、コーネリアス氏族ではなかったはずだ。
なぜここに――
「あ」
辺りを見回すと、タワウレ氏族の移動式テントの中だった。自分の体も、ころころした丸みのある幼児のものではなく、体つきがしっかりした成長期のものだ。
何をしていたのか、ようやく思い出してきた。
「レムさん、良かった。心配していました……どうかしましたか? まだどこか具合の悪いところでも」
「いや。昔の夢を見ていたみたいだ」
言いながら、父を見る。
この黒狼は、どこであろうとも要石か何かのように、落ち着いた様子でどっしりと腰を下ろしている。
夢で見た幼い日と、変わっていない。
「父様、どうしてここに」
碧色の眸がレムを見る。
「家族の不始末を収めるのは家長の役目だ」
「不始末だなんて」
エリエザがフォローを入れようとするが、一瞥すらされないうちに言葉に詰まっていた。
気まずい沈黙が流れたが、父は何も言わない。
慌ててエリエザがレムに方向を変えた。
「あの、レムさんが倒れてから、レムさんが書いてたお手紙の宛名に、誰か迎えに来てくれるようにって送ったんです。そしたら」
エリエザが、遠慮がちに父に視線を送る。
父の態度は変わらない。応じるでも無視するでもなく、無関心でもない自然体である。ただ、目に見える反応を見せないだけだ。
それがまるで大きな岩の塊のようで、慣れていない者は反応のなさに萎縮してしまうのである。
「お父様……ですよね?」
ついでに、戦士として恵まれた見事な巨躯が、座りながらにエリエザを圧倒しているのだろう。
「うん」
名乗りはしたであろうが、それでも疑問符がつくということは、父は相変わらずだったということだ。
「連れて帰っていただこうと思ったのですけど、お父様がこのままでいいとおっしゃったので」
父の大きな尾が、何をするでもなくゆらゆらと揺れている。
「私はどれくらい寝ていた?」
「ええと、ほぼ丸一日ですね。トヲリ氏族の襲撃が一昨日の夜中で、レムさんが倒れてからすぐに使いを出して、今日の明け方にお父様がいらっしゃいましたので」
「そんなに寝ていたのか」
外は昼の眩しい日差しが、陰り始めている。
寝ている間に、また襲撃があったら、手もなくやられていただろう。もっとも、襲撃を受けるような理由は、もうない。
トヲリが暴力の味に病みつきになってでもいない限りは、レムが心配するようなことは何もないのだ。
寝床から上体を起こす。
「まだ横になっていた方が」
「大丈夫だ」
体の芯に違和感と気だるさが残っているが、倒れた時ほどではない。必要とあらば、今からでも剣を振れる。
テントの片隅に、父の武器が四本束ねてあるのが目についた。予備を持ってくるとは珍しい。
「父様」
碧の眸だけが、レムの呼びかけに応えた。
「……最初の襲撃で、私もトヲリ氏族のガウロの指示で攻撃を受けました。翌日に、河原でトヲリ氏族の子供から、争いを止めてほしいと要請を受けて」
「あの、私からも助けてほしいという意味合いのことを、レムさんに言ったんです。ですから、その」
頷きもせずにじっと聞いている。そんな父の態度を、不穏な物と感じ取ったのか、エリエザがとりなすように言葉を添える。
父はまったく動じない。
「いいんだ、エリエザ。父様はいつもこうだから」
「はい……」
「敵の首魁が、ここにいるエリエザと縁が深い、ガウロという十字槍の男だったので、彼を生かしたまま倒すことを目標にして、
二度目は私から打って出ました。タワウレ氏族の族長は、私の参加を戦闘が始まる前まで渋っていましたが……」
ダバウの苦渋に満ちた表情を思い出す。人懐こそうな顔だちを、あそこまで歪めてしまうほどに、ダバウは心を痛めていたのだ。
見捨てておけるはずがない。
「私が手傷を負って劣勢になったことで、族長はタワウレ氏族の宝物である錫杖を、トヲリ氏族に引き渡す決断をしました。
その後は、私は敵の武器に塗られていた毒で、今になるまで眠っていました」
無言。
重々しい空気が、宿舎の中に満ちている。エリエザは居づらそうだが、レムにとっては馴染みある父の部屋の空気だ。
父の次の一言がレムの行動に対しての質問でなければ、コーネリアス氏族として恥じない振舞いであったと判断された、ということになる。
小さな頃は細かなところまで尋ねられたが、戦士団に混じって任務に赴くようになってからは、ごく形式的なやりとりになっている。
父が、レムに顔を向けた。
「タワウレ氏族の族長は、交代した」
「え」
「ダバウは、祭具を独断で他氏族の者に渡した咎で族長を退き、タワウレ氏族を離れた。今は甥のグシエスが族長だ」
眩暈がしてきた。
「エリエザ」
「はい……伯父様は、レムさんが起きたら挨拶に来ると言っていましたので」
「そうじゃない、タワウレを離れたって」
氏族を離れてどこへ行くというのか。ここ一帯でタワウレが頼れるはずだった友邦は、タワウレの祭具を奪って気勢を上げているだろう。
ダバウの年齢で、山林を独りで生きていくことができるのか。
「コーネリアス氏族でも、こういうことはきちんとしているんですよね? けじめはきちんとつけます。普通のことですよ」
エリエザは、なんでもないことのように、淡く微笑んで答えた。
「すまない。私のせいで」
勝てる戦を、落とした結果がこれだ。
気が沈んだのと同時に、体から力がどっと抜けていくような感触が戻ってきた。
ややふらつく感覚を覚えて、床に手をついた。病み上がりで体力が戻っているはずもないのだ。
「今、何か食べ物を持ってきます。伯父様は待たせておきますから、ゆっくり休んでくださいね」
父の存在感以外の重さの加わった場の空気に抗するように、明るい調子でエリエザがテントを出ていく。
レムは、結局タワウレ氏族が抗争に敗れる引き金になってしまったのだ。挙句に毒にやられてまともに動けない。
何かに縋るような気分で、父を見た。
ちらりと見返してきた以外は、何も示してはくれない。
いっそ、今までの行動を逐一あげつらって叱りつけてくれた方が、どれほど気楽だろう。
エリエザが盆に乗せて持ってきたのは乳粥だった。
パンと蒸し芋を大雑把に切って、岩塩と香草で味を調えた家畜の乳に入れ、形が崩れるまで煮込んだポタージュである。
疲れた体ではあまり味はわからなかったが、煮崩したパンのしっとりした舌触りが安心感をもたらしてくれる。
少しとろみのついたスープが、体を芯から温める。
隣で父は、同じもので肉も一緒に煮込んだものを啜っていた。
「すみません、お父様。こんな状況でなければ、もっときちんとおもてなしもできたのですが」
「無用だ。食事の提供、感謝する」
出されれば、干からびた保存食でも文句も言わずに食べるし、出されなければ荷の中に数日分は積んであるであろう携帯食を使うまでである。
最初から、己の身一つで戦い抜く準備をしてある。タワウレ氏族のもてなしがないものとして備えをしてあるのだから、厚意の質に不平を言うなど有り得ない。
戦士とはそういうものである。そしてレムの父は、極端に突き詰めた例だ。
「馳走になった」
あまり大きくもない器の中身を綺麗に平らげ、相変わらず岩のような挙措でエリエザに返す。
「あの、おかわりもありますが」
「十分だ」
粥に多少肉を入れたぐらいでは明らかに足りないであろう体格をすまなそうに見ながら、エリエザは器を受け取った。
「どうですか、レムさん。塩辛くはありませんか」
「いや、おいしいよ」
「よかったです。ゆっくり食べて下さいね」
水差しで口中をさっぱりさせながら、少しずつ胃に流し込む。
先ほどまでの落ち込んでいた気持ちが、落ち着いてくるようだった。
「父様、この後は」
「私は帰る。お前は、好きにしろ」
家族の手落ちを保護しにきた家長の態度としては、この場面での放任は珍しい。こういう場合、家長権限で強制的に連れ帰る例が多い。
レムも元々そうだったが、一人前の戦士として扱われるようになってからは、ほとんどを自己判断に任せられるようになった。
「エリエザ、精霊の祭儀は……」
「大丈夫です。祭具がなくても、精霊への感謝はなくなりません」
「そっか」
丸一日寝ていたのであれば、祭儀は明日のはずだ。
「私が見ていっても、構わないかな」
「ええ、もちろんです。レムさんがいてくれた方が、精霊も喜びます」
「うん」
父に視線を向けると、碧い眸が頷いた。
レムは再び器の粥に取りかかる。ゆっくりと腹に収め、早めに体力を取り戻しておきたい。
先程は大丈夫だと思ったが、今のままでは剣を取ってもろくに動けないだろう。途中で眩暈を起こして体勢を崩すのがおちだ。
少し冷めたが、それでも乳粥はなかなかいける。
「あのさ、」
角笛が鳴り響いた。
片方の横刃の欠けた十字槍を肩に担いだガウロを先頭に、十数人ほどのトヲリ氏族たちが武器を携えて歩いてくる。
攻めるための動きではないが、その姿は間違いなく戦支度であった。
先日のこともあって、タワウレ氏族は迎え撃つべきかどうかの判断がつかず、弓も取らないままに右往左往するばかりである。
集落の中ほどまで歩いてきた一団の中心で、ガウロが聞こえよがしに声を張り上げた。
「おいおい、せっかく元通りの関係に戻った兄弟を、出迎えもしねえとは随分冷てえじゃねえか」
武器を撫しているトヲリ氏族を遠巻きにするタワウレ氏族の中から、壮年の狼が進み出る。
「何の用だ、ガウロ。武器を持ち込むようなことは、もう何もないはずだぞ」
やや腰が引けている。その姿を見て、トヲリ氏族の一団は品のない笑い声を立てていた。
「おお、グシエス……あんたが次の族長か……? へへ、慣れねえ役目は、キツいだろ……」
「何の用か、と聞いているぞ、ガウロ」
虚勢を張るグシエスに、小馬鹿にしたような笑いを向けながら、ガウロは再び声を張り上げた。
「なあに……もうひとつ、欲しいモンができてな」
「これ以上、我々から何を持っていこうというのだ」
「そう、身構えんなよ……今度は、族長降りなくてもいいもんだぜ」
武器こそ出さないものの、トヲリの一団に対する空気は友好的とは程遠い。
辺りを眺めまわして、ガウロは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「西のビレトゥスが、北部山脈の統一を目指すとなりゃあ、真っ先に邪魔になるのは東のコーネリアス……だろ」
「それがどうした」
「だからよ……コーネリアス氏族の戦士を手土産にすりゃ……俺たちをもっと高く買ってもらえるじゃねえか」
「ガウロ、貴様!」
「グシエスよう、そんな怖い顔すんなって……もう、俺たちは元通りに仲直りしたんだぜ……? 協力し合っていこうじゃねえか。
古い付き合いのトヲリに剣向けた奴を捕まえる、ってだけだ……タワウレ氏族の面子も立つって」
「屁理屈は止せ! そんな子供騙し、誰が信用する!」
「信用なんか、いらねえだろ……要は、言い分が通るか通らねえか、だ……力がいるんだ。わかるだろ、グシエス」
グシエスがいくら歯噛みしようと、戦士団を擁するようになったトヲリ氏族に対抗できない。
レムの助力を受けても、この結果である。これ以上の抗弁を続ければ、ダバウが身を賭して収めた抗争を、再び引き起こしかねない。
そうなれば今度こそタワウレは消えてなくなる。
何も言えないグシエスを満足げに眺めると、ガウロは声を張り上げた。
「出て来い、コーネリアスのガキ! 勝負をつけようじゃねえか! てめえに誇りがあんなら、出て来い!」
十数人からなるトヲリの戦士団である。相手が古豪の氏族とは言え戦士一人、生け捕りにするなど訳はない。
向こうもそれを承知しているだろうが、大きな氏族であればあるほど、誇りを大切にする。
あの子供なら、挑発すれば乗ってくると踏んだ。
だが、ガウロの声が響いた後には、しんとした空気があるばかりである。
「どうしたァ! 命ばかりは助けて下さいってかァ!? 見逃してほしけりゃ、四つん這いで出て……」
テントのひとつから、青い籠手がのっそりと現れる。続いて、見事なまでの深い黒色をした狼の頭が出てきた。
碧い眸が、トヲリ氏族の全員を視界に入れた。
「で、でけえ……」
ガウロの近くの一人が、呆然と呟いた。
大柄な狼よりもさらに背が高く、それに見合った重厚な体躯を誇る、黒狼。
何よりも目を引くのは、金で縁取られた群青色の全身重鎧。露出した頭と尾以外は、分厚い鋼に覆われている。
見るからに、まともな武器は通らないだろうと予測が付く。だが、あんな鎧を着ては、立ちあがることさえできないはずである。
それを、黒狼は、なんでもないようにゆったりと歩み寄ってくる。
背に二本、柄が飛び出ていた。
黒狼が一歩近づくごとに、グシエスを取り巻くように並んでいたトヲリの半円状の並びが、二歩ずつ広がっていく。
グシエスさえも後ずさったその位置で、黒狼は足を止めた。
「なんだ、お前は……」
「家長として、家族の者の始末をつけに来た」
誰何に淡々と応じる。
「ってことは……お前も、コーネリアス氏族だな」
「コーネリアス氏族で青い鎧って……」
負けじと睨み返したガウロの後方で、トヲリの戦士のささやきが聞こえる。
「黒毛の青鎧っつったら……コーネリアスの"落ちぬ夕陽"!?」
「ビビってんなよ、お前ら……」
背後を睨みつけ、ガウロは低く絞った声で仲間を威圧した。
「本当に、噂どおりなら……友邦だなんだって、日和った考えで山に引きこもってるわけがねえ……
犬の正規軍一連隊を皆殺しにできる男が本当にいるなら、とっくに東半分が、コーネリアス王国になってらあ……そうだろ?」
黒狼に標的を変え、下から値踏みするように睨む。
答えはない。碧い眸がただ岩山の宝石のように、ガウロを見返している。
「で……ご家長様が、どう落とし前をつけてくださるんだ?」
わざと大袈裟に、軽んじるような態度で、周囲を回る。仲間には、取り囲むように合図を送った。
さりげない風を装っているようには見えない動作で、トヲリ氏族の戦士たちが立ち位置へ移動していく。
黒狼は、それを目で追うのみである。
「黙ってちゃあ、わかんねえよな……? それとも、ビビって声も出ねえか……? ん?」
ガウロに、再び碧い眸が向けられた。
「お前たちの要求、代わって私が受けよう」
「へえ……そんじゃあ、あのガキの代わりにビレトゥス氏族への贈り物になってくれる……ッてぇわけか? 名の通った戦士と、女のガキと、どっちが好まれるかね……」
笑ってみせる。
「お前の首は喜ばれるだろうよ……まあ、ガキでもいいけどよ……へへ。可愛がってもらえるといいよなあ」
声を立てるガウロを前に、黒狼は相変わらず無言のままである。
何も動きを見せない黒狼を見ていて、トヲリ氏族も緊張が弛んできたようだった。
「あのナリじゃあ、喜ぶ奴は少なそうだがなあ。へへへ」
「それじゃあいっそ、二人とも来てもらうか?」
背負った武器も抜かれていないと見て、広がった輪を少しずつ縮め始めていた。
「どうした、ご家長様。武器を抜かねえと戦えませんよ」
「それとも降参か? ガキも連れて来てもらわねえとなあ」
対して、黒狼は首を巡らせたのみだった。
「来ないのか」
「ああ?」
一人に目線を定めることをせず、漫然と全員を捉えながら、黒狼が低く囁く。
「てめえ、まさか素手でやろうってのか?」
「鎧でガチガチに固めるようなビビり野郎がよ! ナメられたもんだなオイ!」
調子に乗った一人が、鉈を構えながら黒狼に近づいていく。
黒狼は、まだ動かない。
「やっちまえやっちまえ!」
「後悔させてやれ!」
言いながら、他のトヲリも輪を縮めていく。
「トヲリの戦士の名を上げる、いい機会だ……構わねえから、刻んじまえ」
「戦士を名乗るか」
ガウロが適当に合図を出した時、黒狼が、ぽつりと呟いた。
同時に、無遠慮に近づいていたトヲリの輪が、ぎしりと、音に聞こえる気がするほどにはっきりと、足を止める。
トヲリたちは、突如として辺りに漂い始めた違和感に戸惑いながら、自然体で脱力していた黒狼の籠手が、背の柄にかかるのを見ていた。
「ならば相応の態度は示さねばなるまい」
引き抜かれた武器は、飾り気とは一切縁のない無骨な両刃直剣が、二本。長さは並の大人の肩口ほどまであり、兵器破砕用にしても遜色ないほどの幅と厚みがあった。
柱。コーネリアス氏族の間では、そう呼ばれている。
直剣という正統派の武器でありながら際物扱いされるのは、その馬鹿馬鹿しいまでの質量に由来する。
両手持ちで扱っても余るほどのその剣を、両手にひと振りずつ取り、切っ先を地面に落として黒狼は再び脱力した。
「どういう……つもりだ、おい」
「ひとつ、教えておこう」
明らかに、空気が変わっている。
黒狼の周囲に、入ってはいけない間合いが、はっきりと見える。
「戦士であるということは、武器を取り修練を積むことではない」
全身で辺りを見回しながら、黒狼が腹に通る声で告げる。
「訳のわからねえことを……」
鉄柱剣の切っ先が、ゆるりと持ちあがる。
「命を惜しむ者ならば、武器を捨てて逃げ走れ。戦う意思があるのであれば、幼子と言えど覚悟せよ。私はコーネリアス氏族"落ちぬ夕陽"のジグムント」
空気の密度が上がった気がした。黒狼は微塵も動かないまま、ただ気迫のみで、周囲を圧する。
そよぐ風さえも流れを止める。
「どこからでも、来るがいい。命を懸ける覚悟ができたなら」
コーネリアスの戦士として、初めての任務を受けた日、部屋に報告に赴いたレムに、机で書見をしていた父は質問を投げかけた。
「レム、戦闘の目的は何だと思う」
考えたこともない質問だった。同年代の戦士の卵たちはそんな事を考えもしないし、熟練した戦士は理屈を好まない者も多い。
急を要する事態でなければ、父はいつまでも根気よく待ってくれる。
苦心してどうにか、今まで漠然と考えていたことをまとめた。
「その時で……変わります。友邦を守ることの時も、盗賊を討つことの時も」
父は目を閉じている。
「違うな」
「はい」
背筋が冷えた。思わず、反射的に返事をする。不興を買っているわけでも、怒鳴りつけられるわけでもないのに、父の否の言葉が、幼いレムには何より恐ろしい。
父が目を開いた。
「戦闘は、敵の無力化を目的として行う」
「……はい」
椅子に腰かけたまま、いつもの通り淡々と続ける。
「戦意を挫く、あるいは攻撃手段を失わせる。敵がそれ以上戦闘を継続できない状態にすること。これが、目的だ。守護も討伐も、その外の事に過ぎん」
己に恥じぬ者であれと、常々言動と態度で示してきた父から、その言葉を聞かされて、レムは少なからず衝撃を受けた。
しかし、まだ父の話は続いている。説明がなければ、その齟齬は自分で答えを出せということなのだ。
「敵がそれ以上戦闘を継続できない状態にするためには、どうすればいい」
この問いも、必死に考えた。
「やっつけること、です」
我ながら、稚拙な返答だったと思う。
「その通りだ」
だからこそ、父が頷いた時には、また衝撃だった。
「戦意を挫くとは、戦闘の結果確実に敗れるだろう、と敵に悟らせることだ。そのためには、実際の戦闘での強さが不可欠となる。
強くあるためには、いかなる相手であろうと確実に殺せる手段を持っていなければならない」
部屋の壁に、ずらりと剣が掛けてある。すべて同じ型の鉄柱剣で、数十本ある。
揶揄していわく、鋼の七十二柱。言い出した者は、七十本も予備を常備していることを笑ったに過ぎない。
あんなに大型の剣であっても摩耗が激しいため、予備を揃えておかなければならないような剛剣が、父にとっての「確実に殺せる手段」なのだろう。
「敵を倒すために必要なことは少ない。敵の体を行動が封じられる程度に傷つければよい。逆に、敵が行動できないようにするために、
戦士は百の知識を得、千の技巧と万の駆け引きを重ねる」
レムを相手にしての修練で、父は模造武器を多種多様に操って見せた。一通りの武器に通じることは、コーネリアス氏族の必須技能である。
レムも模造武器は大抵操れる。戦士は、そうして扱った中で、自分に適した武器を得物とするのが一般的だった。
「お前は、蛮刀を選んだ。お前の力と速さ、そして蛮刀の特性を用いて、最も効率的に敵を砕く技を学べ」
学ぶ場は、敵との命を賭けたやりとりの場だという。
父は、不安そうにしているレムの様子を見てとったようだった。わざと失敗させることさえある父には珍しく、言葉を添える。
「無理だと思ったなら、逃げて構わん。ただし戦意と攻撃手段を共に保ち続けること、それが戦士の最低限の条件だ」
父が書見に戻ったのを見て、父の部屋を辞した。尋ねるべき事柄も、実際にぶつかってみて改めて考えてから、の物事の方が多い。
目抜き通りにある工廠へ、武器を貰いに行く。
受け取った刃は、どこに突き立てたとしても、父の肉体を傷つけられない気がする。
本当に、自分に人が斬れるのか。武器を扱えるのか。もしかしたらうまくいかなくて、殺されてしまうのでは――
一歩足を踏み出すごとに、見ていた者たちが後ずさった。
父の後ろには、赤い夕日に照らされて、赤い絨毯が広がっていた。
トヲリ氏族十数人のうち、父に打ちかかっていった十人弱が、いくつかの得体の知れない塊に変じて、無造作に転がっていた。
タワウレ氏族の何人かがテントに逃げ込むのを一瞥すらせず、父はレムの方へ戻って来ている。
「族長」
視線を向けられたグシエスは、何か言おうと口を開くものの、意味の取れない引きつったうめき声しか出てこない。
「土地を穢してしまった。赦されたい」
「あ、ああ」
錆びた蝶番のような動作で頷きながら、グシエスはどうにか了解の意図を喉からひねり出す。
「弔いも任せて構わないか」
グシエスが出来たのはやはり、首振り人形のように何度も頷くことだけだった。
そして父の意識が自分から外れたのを確認してから、目を逸らすように、二色の赤に彩られた地獄の光景を、呆然と眺める。
塊の一つが、唖然とした面持で天を睨んでいる。
父は、周囲の様子を意にも介さぬ足取りで、宿舎テントへ戻ってきていた。
レムがエリエザの肩を借りてテントの外へ出てきたのは、戦端が開かれてすぐである。
レムと同じ二刀でありながら、レムが応用できる技術は何一つない。それでも、レムは父の一挙手一投足を、食い入るように見ていた。
エリエザが、父からレムをかばうように僅かに前に出る。
レムにとっては、テントに逃げ込むタワウレ氏族も、恐れるように後ずさるグシエスも、過剰反応にしか見えない。
それよりも、初めて目の当たりにした父の、修練ではない戦闘の有様に、心が高ぶってさえいた。
「父様」
立ち向かって来たトヲリ氏族は、すべて一撃で粉砕された。武器を捨てず、逃げもせず、ぼんやりと隙を晒していた者も。
生き残ったのは――見逃されたのは、戦況が非であることを見てとって、あるいは目の前の強敵に恐れをなして、逃げた数人と、ガウロだった。
父が、ガウロが立ち向かってきたにもかかわらず、レムの意を汲んで殺さないでいてくれたのは、すぐにわかった。
ねぎらいも、気遣いも、何も必要ない。ただ為すべきことを成しただけである。だから、戦の是非について、レムはそれ以上何も言わない。
父も、ひとつ頷いて応えたのみだった。
山林に色を落とす夕闇も紫を濃くしており、ガウロがまだいたとしても見えるかどうかは怪しい。
父がテントへ一歩踏み出した時、エリエザにぐいと後ろに引っ張られた。少し距離が空く。
一顧だにせず、父はテントに入っていく。
レムをかばうようであったエリエザは、いつの間にかレムにしがみつく姿勢になっていた。
「エリエザ、私なら平気だ」
「あ……すみません」
エリエザが、レムから少し離れた。顔から血の気が引いている。
「具合が悪そうだけど、大丈夫か」
「はい……」
恐ろしい物でも見るように、夜の闇にどす黒くなり始めた絨毯へ目をやる。
「ごめんなさい、少し、眩暈が。あんなのは、初めてなので」
普通の戦士でも顔をそむける光景だろう。レムも、不意にあの場面に出くわしたら、エリエザと同じ反応を示すと思う。
だが、あれを作りだしたのが父だと思うと、どういうわけかレムの気分を高揚させるのだった。
寄った、斬った、殺した。ただ、それだけ。レムに教えたような技巧と駆け引きは、そこには最小限しか存在しない。
そしてトヲリ氏族のみならず、敵対していないタワウレ氏族でさえも恐れさせたあの悲惨な光景は、敵を確実に倒すことを追求した結果であった。
戦士の辿り着くべき、ひとつの到達点だ。
だがそれゆえに、ガウロを殺す気がなかったのが明白になってしまっていた。変に根に持たれたりしなければいいのだが。
ふと、気分が冷静になっていく。
ガウロはまた仕掛けてくるだろうか。
ガウロ以外のトヲリ氏族が、新たにタワウレ攻めにかかることも考えられる。
それに、タワウレへの襲撃がこれで終わったとしても、両氏族の関係は元通りになるかどうかもわからない。
レムには、予測ができない。そして、もし何かがあったとして、どこまで手伝えるのだろう。
最後まで手を貸したい気持ちもあるが、ひょっとするともう出番などないのかもしれない。
「あ……」
エリエザが小さく悲鳴を上げたのを聞いて振り向くと、テントから父が荷を持って出てきたところだった。
「父様」
「私は帰る」
「はい」
「エリエザと言ったか。娘が世話をかけた」
先程より和らいだものの、再び緊張状態に戻ってしまったエリエザに向かって、父は一言礼を述べた。
エリエザは、先程のグシエスと同じように、体中の気力を振り絞ってどうにかひとつ、頷いた。
予備も合わせて四本の鉄柱剣を携えているにも関わらず、重さなどないかのように歩く父は、辺りに漂う死の気配さえ道を開けるかのようだった。
暇の挨拶のために声を掛けられたグシエスが、矢に射られた野鳥のように身を震わせ、飛び跳ねるように振り返っている。
草原を彩った赤褐色の絨毯は灰を撒いて清められた。
トヲリの者たちは、埋められた。あの状態をトヲリに返すのは、挑発以外の効果を生まないだろう。
胸を悪くするような死の悪臭は、篝火を焚き染めることで和らげた。昨夜からすぐ、早暁に少し休んだ以外はほぼ丸一日を費やしての作業だった。
そして今、騒動など何もなかったかのように、満天の星が輝いており、西の山の稜線には欠けた銀月がかかっていた。
明かりひとつない、しんとした夜気の中で、タワウレの祭儀が始まっていた。
ほの明るい星明かりがタワウレ氏族の祭司たちと、並べられた祭具の陰影を描き出し、祭具に嵌め込まれた石がぼんやりと朧な光を滲ませていた。
手足につけた金環をしゃらりと鳴らしながら、祭司たちが円を描くように歩いている。
その中心に据えられた、平たく磨かれた一抱えほどの自然石の上で、エリエザが舞う。
一人が立つのも精一杯の、さほど大きくない石だったが、足を滑らせることもなくゆるやかに、しかし情熱的に、精霊に捧げる舞踊は進行していた。
誰が発したともつかない澄んだ美しい声が、一定の韻律を伴いながら夜気に満ちていく。
断崖城の霊地に似た静謐さが地面から立ち上って、祭儀の場に溢れていくようだった。
少し離れたところで、レムは一人で座っていた。
祭司の役割を持たない幼子や、祭儀のできない怪我人などは、同じようにして目立たないように各々ばらばらに座って見ている。
空気が神秘を帯びていくのは、わかる。霊地で感じるのと同じような、刺すような涼しさが辺り一面を取り巻いている。
それでも、それ以上ではなかった。
「どうした、姉ちゃん。しけた顔してさ」
囁くような声が降ってきた。見上げると、レムより年上であろうが、まだまだ年若い狼が、断わりを入れることもなくレムの隣に腰を下ろすところだった。
軽薄そうだが、ダバウを思い出させる人懐こい顔をしている。暗くて色まではわからないが、革の外套で体をすっぽりと覆っていた。
小さな山に首が乗っかっただけに見える姿は、どこかで覚えがある。
「なんだ、お前」
「いやあ、俺んとこの氏族が世話になった礼だよ礼。ついでに、トヲリの兄弟の無茶も聞いてくれたらしいじゃねえか」
「ああ」
河岸で、今と同じように座って話をしていた黄色い革外套の子供。
「あれ、お前の兄弟か」
「おう。チビだろ?」
他の氏族に兄弟がいると言うのも、意外とよくある話だ。
強い戦士の種を貰えば、その戦士の氏族に異母兄弟がいてもおかしくはなくなる。他の氏族でも同じように、子を成していることもあるのだ。
レムにも何人、まだ会ったことのない兄弟がいるかわからない。
「そういや姉ちゃん、わざわざコレ見に来たんだっけか? 他所様の祭儀なんざ、見ても面白くねえだろうよ」
「精霊ってどんなものか、って思って。私は精霊を感じたことがないんだ。
私の氏族が、祭司以外祭儀に関われないってこともあるけど、私は精霊とは縁がないんじゃないか、って。母様は優れた祭司だったらしいけど」
祭儀に目を移す。金環と碧石の小さな輝きに彩られて謡い舞うエリエザは、幻想的な美しさを纏っていた。
美しいと、心からそう思った。そして、それだけだった。
「やっぱり、私は駄目だったみたいだ」
「……はあ?」
外套の若者の目が、丸くなった。
「なんで駄目だよ」
「エリエザが綺麗だって思うけど、それだけだ。精霊は、わからない」
「はあ。俺にゃわかんねえな」
若者は何か頓珍漢なことを言われたかのように、しきりに首をひねっている。
「特別に祭儀なんかやらなくても、精霊なんかそこらにいるんだぞ。いいか姉ちゃん、氏族は、あんたのことを忘れてないよ、って意味で、祭儀をやるんだ。
精霊を大事にする奴が多けりゃ、それだけ精霊の力は強くなる。んで、精霊は自分を慕ってくれる氏族のために力を使う。奇跡を起こしたり、祝福を与えたりな。
普段の生活からそうだ。日頃から精霊を大事にするだけでいい、ほんと身近なもんなんだって。だから、姉ちゃんの氏族の精霊も、意外とそこら辺にいるはずだぞ」
レムは、、首をひねるのをやめていた若者の横顔を見る。黒曜石のような瞳に、星のきらめきが映っている気がする。
「なあ、精霊って何なんだ?」
「マソってわかるか。ま、早い話が力の塊だ。精霊ってのは、元々空気みたいなもんでね。何も考えずにぼんやり漂ってる。信じる心が、ただの力に魂を与えるのさ」
祭司たちが一斉に片手を空に上げ、澄んだ金環の音が辺りに響き渡った。
これを見るために、レムはここに来た。精霊に触れるつもりだったのに、肝心の精霊は影も形もなく、それどころかどこにでもいるときたものだ。
この場に来るまでの、ここ数日の出来事が、胸の内を通り過ぎていく。自分の膝に目を落とす。
「結局、私は何もできなかったな」
若者がレムを見る。
「争いをやめさせるどころか、毒で倒れてかえって迷惑をかけてしまって。結局、トヲリを追い払ったのは父様だ」
「そんなヘコむなよ。姉ちゃんが気張ってくれたから、あのでっけえおとっつあんが手え貸してくれたんだろ」
「そうかもしれないけど」
「大体が、俺の兄弟の頼みからして無茶もいいところだったんだ。聞いてくれただけでも、感謝するところだってよ」
だが、自分で最後まで終えてこそ、という気持ちがどうしても出てくる。口に出すのも野暮かな、と思っていると、若者の低く絞った声が耳を打った。
「なあ姉ちゃん。無茶ついでに、俺の無茶も聞いちゃくんねえか」
軽薄そうな顔が、引き締まった表情を作っていた。
「実はさ、おとっつあんに追い払ってもらっただけじゃあ、終わりってわけにはいかねえんだ。トヲリの氏族がまだ、俺たちの一番大事な祭具を持ってる。
あいつらの最初の予定通りのまんまなんだ。戦士が減っただけで、行こうと思えばもうビレトゥスに行く条件は仕上がってんだよ」
声が次第に調子を強めてくる。祭儀中の周りの者にも聞こえてしまわないか、と危惧したが、聞こえているのかいないのか、こちらを気にする様子もない。
「俺だって、トヲリの氏族がビレトゥスについて上手くいくなら、それでいいと思う。でもよ、ビレトゥスにつくって、力に頼るってことだろ?
そんなに強くもないくせに力の世の中に入っていったって、いいことなんかあるはずがねえ。それにトヲリの氏族が力に頼る限り、俺たちは見下されっぱなしになっちまう」
真剣な表情が、あの時の河原の子供に似ている。確かに、兄弟と言うだけはある。
「でも、父様に追い返されたのなら、もう戦士団なんか作るのはやめようって思わないか」
「ないだろうなあ。あのおとっつあんは名が売れてる。運が悪かった、としか思われねえし、トヲリにいる大半の奴らは、おとっつあんの喧嘩のやり方を見てねえ。
そんな強え奴なんかそうそういねえ、なんて根拠のねえ楽観で戦士団作って背伸びして、ビレトゥスにいいように使われた揚句すっ転ぶだけだ。見ちゃいれねえよ」
そういうものだろうか。例えば自分なら、戦士団を蹴散らされたなら、どう対処するか。
ビレトゥスに力を借りて反撃する、ということにはならないだろう。いきなり頼って行けば、安く買い叩かれるのは目に見えている。
だが、確かに大人しくしているという選択肢は薄いように思えた。
「俺からも重ねて頼む。ここで終わりだなんて思わねえでくれ。トヲリの氏族が、ビレトゥス行きを諦めるように、もうちょっとだけ手え貸してくんねえか」
神妙な気配と、真剣な顔。あの時の河原でも交わしたやりとりのままだと思った。それはまだ、終わっていない。
ここでタワウレとトヲリの間のことだから、と放り出すことこそが無責任だ。
「わかったよ。どうすればいい」
「さっき姉ちゃん、トヲリがおとっつあんに追い返されたから諦めるだろうって言ったろ。俺んとこでも、何人かそう思ってるのがいるんだ。
んで、明日か明後日になったら、エリエザがトヲリの集落に行くと思う。それに、姉ちゃんもついて行ってくれ」
「私が行ったら、また揉め事にならないか?」
「なる。ほぼ間違いなく喧嘩売ってくる。だから、病み上がりで悪いけど、トヲリの奴らをやっつけてほしいんだ。
おとっつあんには勝てなくてもしょうがねえって思うだろうけど、姉ちゃんみたいなちまっちゃいのにやられたとなりゃ、さすがに考え直すはずだ」
「はず、か……」
「姉ちゃんが暴れてくれりゃ、俺と兄弟がなんとかする隙もできるってもんだ。そこまででいい」
「うまくいくかどうかは、あまり自信はないぞ」
「すまねえ、恩に着る」
若者は、両の手の平を合わせて頭を下げる。
ふと、下げた頭がレムの帯の釘ホルダーに目を止めた。
トヲリ氏族との戦闘で、十本程度あった釘はもう三本を残すばかりである。
「姉ちゃん、それ、兄弟に教わったんだな」
視線が釘の一本に向いている。端の刻印付きの一本を見ていることは、すぐに見当がついた。
「ああ、そうだ。精霊が狙ってくれるって」
「そうだな。どんなに適当でも、願いを込めて投げりゃ……姉ちゃん、そいつは、最後の最後まで取っといてくれ」
「切り札ってわけだな」
「ああ。喧嘩の勝ち負けじゃなくて、このつまんねえいざこざがこじれまくった先の、最後の最後だ」
念を押されなくても、レムは釘で勝負がつくような戦闘はしていないのだから、活躍の場もないだろう。しかし、そう言われるのであれば従う気になった。
刻印の入った釘に触れると、相変わらず涼やかな風を感じる。
祭儀の場では、石の上に屈んで頭を垂れるエリエザに、グシエスが樹木の枝を編み込んだ杖を打ち振っていた。
「錫杖がありゃ、あそこで振ってたんだよ。しゃんしゃん、っていい音がしてさ。俺、あの音好きなんだ。戻ってくるといいよなあ」
横から若者のつぶやきが聞こえてくる。肯定も否定もせず、レムは打ち振られる樹の杖を見つめていた。かさりかさりと、素朴さのある音が、わびしげに響いてくる。
振り向くと、若者は風のように消えていた。
トヲリ氏族の集落は、山林に分け入ってしばらく進んだところに、木々を切り開いて存在している。
天然の地形に紛れるように存在していることから分かるように、元々トヲリ氏族は自分たちから打って出るような性質を持っているわけではない。
ビレトゥス王国から来たという旅人と、彼がもたらすきらびやかな品々は、ビレトゥスをその眼で見ていない者たちさえも魅了した。
それがなければ、トヲリ氏族がタワウレを侵略するなどということはなかっただろう。
梢の隙間から、穏やかな日差しが差し込んでくる中で、ガウロは左の上腕に当てられた添え木を撫でながら、樹の幹に背を預けて、じっと地面に腰を下ろしていた。
「どうすんだ、今日にでもコーネリアスの奴らが襲ってくるぞ!」
集落の中では、ヒステリー状態になった者たちが、何やら喚き散らしながら右往左往している。
コーネリアス氏族と戦端を開いた以上、その征伐を受けることは免れ得ない。そういう意味だろう。
武器の束を担いで駆け回る同族たちをよそに、ガウロは傍らに置いた山刀を撫でながら、あの群青色の鎧を思い起こしていた。
最初の一太刀は、明らかに常人の間合いより遠くから平然と踏み込み、鉄柱剣を振り下ろしてきた。狙われた者は反応もできずに正中線を叩き潰され、左右に倒れた。
次の剣は、反転しながらの横薙ぎ。これも、移動距離が並ではなかった。やや下げ気味に構えていた長剣の刀身ごと、大の大人の上半身が彼方へ飛んで行った。
突き。刺さるなどという生易しいものではない。受けた者は、貫通された部位を破裂させて吹き飛んだ。
射手などは悲惨であった。狙撃の気配を感じ取られるや否や、力自慢の戦士が扱いに苦心するような鋼の塊が、投げつけられたのだ。
ジグムントは、確実に殺せるタイミングで、確実に殺せる攻撃を打つだけの、ごく単純な剣士だった。
それ故に、納得がいかない。
ガウロの槍に合わせた鉄柱剣は、十字槍を木端微塵にしたのみで、ガウロの肉体には届いていない。
そして、槍を薙がれて体が泳いだガウロに叩きつけられたのは剣ではなく、身を低く構えたジグムントの肩鎧だったのだ。
丘を転げ落ちるほど吹き飛ばされ、ガウロは体中に打ち身を作り、左上腕を折り、肋骨にもひびが入った。
それで済んだ。
精錬された鋼で誂えられた鎧は、その重量とジグムントの力によって、打撃武器と遜色がない破壊力を生み出す。
具足の爪先で、あばらごと胴を蹴り破ることもできただろう。籠手で脳天を叩き潰すことも訳はない。それ以前に、ジグムントは鉄柱剣を持っていた。
「なんで生きてんだ……俺は……」
夕日を背負って真っ黒に染まったあの鎧姿を思い起こそうとするたびに、背筋に寒気が走る。
だがガウロの心の、恐怖で冷え切った部分のもっと奥深くに、小指の爪先ほどの熱の滾りがあった。
その正体はわからない。
「ガウロ、よくもまあぼさっとしてられるな! トヲリ氏族が残るか残らねえかの瀬戸際だぞ! ここで逃げきれりゃ、いい生活が待ってるんだ!」
「おい、人手が足りねえ! 逆茂木手伝え!」
座ったままのガウロを苛立たしげに怒鳴りつけた男が、すぐさま呼ばれて駆けていく。
「タワウレの錫杖どこへやった! 誰かにあれ持たせて、先にビレトゥスに行かせろ!」
コーネリアス氏族に対抗するために、いち早くビレトゥス王国に身を寄せようというのだ。
トヲリ氏族全体に焦りが蔓延しているとはいえ、錫杖を持ってビレトゥスに取り入ろうとしていた、最初の予定通りである。
だがガウロは、もうビレトゥスの豊かさも、氏族がその豊かさを得られるかどうかも、どうでもよくなってきていた。
胸の奥の小さな熱さが、あの鎧のシルエットを目蓋に焼き付けてしまっている。
「壁なんか作ってねえで、みんなで一斉にビレトゥスへ行きゃいいだろ!」
「そんなことをしてみろ! 逃げて来たって見くびられて、安く叩かれるぞ!」
聞こえてきたやりとりを、思わずせせら笑った。
この期に及んでまだ、体面が気になるのか。コーネリアスを恐れて逃げ込むことには、違いないだろう。それ以前にたった一人に負けた戦士団に、何の面子があるのか。
ガウロはその自分の考えを、少しだけ満足に思った。ジグムントに与えられた恐怖の冷たさと、心の底の小さな熱が、ガウロの思考を明晰にしている。
今のは、冴えた思考だ。
それにしても、あの黒狼が、トヲリを攻めになど来るだろうか。
ガウロの生死を歯牙にもかけなかった怪物が。
若者の言った通り、翌朝にはトヲリ氏族に使いを出す話が持ち上がっていた。
発案は族長グシエスだが、タワウレ氏族の何人かも、トヲリと関係を修復するなら今だと思っている者がいるのは明白だった。
トヲリがまだ態度を硬化させていることを危ぶむ声もあったが、何はともあれ使いを出して様子を見るべきだという意見に押される形で、方針が決まった。
こういう場合どう対処するのがいいのか、レムにはよくわからない。
ただ、タワウレ氏族が軽率だということだけは、なんとなく感じていた。
それならば、トヲリへの使いにレムがついていって役に立つ場面もあるだろう。
同行を申し出ると、エリエザは心配そうな顔をしたが、特に制止してくることもなかった。
レムが行くことで、トヲリの心証が悪くなることを危惧していたグシエスを怪しい理屈で丸め込めば、もうそれ以上抗弁する者もいない。
使いの一団は、エリエザを始めとして数名。トヲリの機嫌伺いと同時に、可能であれば連れ去られたタワウレ氏族の者を返してもらおうというものだった。
一団のうち何人かは、レムから距離を取っている。トヲリを追い払った父の印象が、鮮烈に残っているらしい。その縁者であるレムに、父の影を見ているのだろう。
彼らが見る幻影にレムが追い付くまで、二百年あっても足りるかどうか。
毒はすっかり抜けきっていたが、病み上がりで体力は落ちており、まだ少し疲れが早い感触がある。
足が使える場所であれば、山林でエリエザと逃げた時のような押され気味の戦闘にはならないだろうが、その足を使う体力が持つか。
ともあれ、若者との約束を果たすなら、やるしかないのである。
どこかで川岸で会った子供と再会できれば、多少楽になるかもしれないが、探している余裕もないだろう。
「レムさん、もうすぐトヲリ氏族の集落です」
エリエザの声が示す方を見ると、木々の向こうに生活の気配がわかった。
普通に穏やかな生活を送っているのであれば、到底感じられることがないであろう、緊迫した空気と騒がしさが漂ってくることも。
「様子がおかしいな」
「そうですね」
さすがに、楽観していられない空気を感じ取ったらしい。
エリエザが足を止めた。後に従っていた他のタワウレ氏族も、同じように立ち止まる。
「どうしましょうか」
エリエザが声をかけると、他の使いはざわざわと動揺し始めた。
予想に反して、このまま行けば自分たちも捕らえられかねない様子を察したのだろう。
元々、出すべきではないタイミングの使いだったのだ。
エリエザの表情を窺うと、唇を横一文字に引き締めて、右往左往するタワウレ氏族の者たちを見ていた。
「エリエザ、やっぱり危ない。帰った方がいい」
「ええ」
レムに言われて、少し不安げに答えると、使いの一団が視野に入るように、向き直った。
「皆さん、ご覧のとおり、トヲリ氏族はまだ殺気立っているようです。皆さんは戻って、伯父様に事の次第を伝えてください。レムさんも」
「私も行く」
視線を投げてくるエリエザに、こちらもまっすぐ見返して応じる。
「昨日の祭儀の時に、また頼まれたんだ。まだ全部片付いてないから、って」
「そうですか」
エリエザは頷いた。
「それでは皆さん、私とレムさんはトヲリの集落に行ってみます。皆さんはここで戻ってください。大丈夫です、レムさんはコーネリアスの戦士ですから」
そうなるだろう、と思っていた通りになった。
女二人を危ぶんで、自分もついていこうと言い出す者はいなかった。もっとも申し出があったところで、かえって持て余したであろうが。
エリエザと二人並んで、山林を進む。
「いいのか、エリエザ。きっと無事には終わらないよ」
「ええ、こうなるだろうなって気はしていました。昨夜、精霊から加護を得ました。今、気持ちを強く持たなければ、ガウロを元に戻す機会を失ってしまうから」
エリエザが肩にかけていた布袋から、短弓が顔を覗かせた。
「そっか」
レムが思い切るずっと前に、彼女は覚悟を決めていたらしい。
緊張の色が滲むエリエザの言葉を、ひとつ頷いて肯定する。元々レムも殴り込みのつもりで来たのだ。
「エリエザは、どうしたい?」
「ガウロと話をします。他のことは……」
「トヲリの他の戦士は、私が引き受ける。ビレトゥスなんかに行ってもろくな扱いを受けないってことを、教えてやるんだ」
顔を見合わせて頷き合う。そもそも無茶な突撃だが、放っておけばトヲリはビレトゥスに去っていくだろう。
「こうして二人並んでいると、最初に逃げた時のことを思い出すな」
小さく囁くと、エリエザはほんの少しだけ微笑を浮かべた。
「今度も、あの時のやり方で行きましょう」
「もちろんだ」
奇妙な連帯感が、不安を少し追い払ってくれた。
二人を出迎えたのは、尖った丸太を逆さに植えた障害物の列と、あちこちに積まれた土嚢と衝立。
斬り込みをかけづらくし、移動に手間取っている隙に弓で討ち取ろうという作戦が見て取れた。
最終的には武器を取ることになるだろう、と予測していたとは言え、まさかいきなりここまで本腰を入れていたとは、レムは考えていなかった。
たった一度負けたくらいで、いくらなんでも弱腰過ぎる。
障害物の向こうで、まだ障害を置こうとしていたトヲリの狼のうち一人が、レムとエリエザを見つけた。
「あの」
「来たぞ! エリエザだ! コーネリアスのガキを連れてる!」
「あっ、ちょっと、あの!」
エリエザの呼びかけにも応えず、運んでいた柵を放り出し、一目散に集落の方へ駆けていく。
叫びを聞いて、案の定弓を携えたトヲリ氏族がばらばらと出てくるのが見える。
「トヲリのみなさん! 私は、あなたたちと話を……!」
さらに叫ぶが、皆聞く耳も持たず、柵や障害物の裏に陣取ると、矢を取り出して弓につがえ始める。
「レムさん」
「うん」
簡素ながら陣地を組まれている。障害物がこんなに密集していては、足の使いようがない。そしてこの人数差となれば、ここは避けるべきだ。
エリエザの事を考えるなら、どこかにいるであろうガウロを見つけた方がいい。
「林に紛れよう。追いかけてきたら、私が足止めする」
横道に逸れ、再び木々の間を駆ける。これで弓の狙撃は通らなくなる。トヲリが追いかけてくる様子は、ない。
「この分じゃ、集落は大体覆われていそうだな」
「どうしましょう」
「ガウロを探そう。あいつなら、武器を取って出てきてるはずだ」
集落全体で防御態勢を整えている以上、トヲリが自信喪失するほど暴れるには、トヲリ氏族の集落を制圧するしかない。
無理かもしれない、と思った。なら、せめてエリエザの目的を果たしてから、トヲリ攻めに当たる方がいい。
山林から近づいていこうとするが、林の中にも何人かうろついている。強行突破を試みている間に、囲まれかねない。
集落へ続く別の山道が見えてきた。こちらは案の定障害物が固めている。
人数が足りない。
エリエザに弓を取り出させ、レムは腹に力を込めた。体の芯に、まだ毒で弱った分が残っている。
「ガウロ、いるなら来い!」
突然の叫びに、障害物の陰のトヲリ氏族が一様に身を竦める。
レムなどに圧迫感でも覚えているのか。何人か、腕に傷のある狼なら、わからないでもないが。
「ガウロ! いるなら返事をして!」
大胆になったもので、エリエザも弓を持つ両手を体の前に揃え、高い声を上擦らせながら呼びかける。
トヲリ氏族は、射かけてすら来ない。
何箇所かに、同じように呼びかけをしてみたが、ガウロが出てくることもなければ、矢が飛んでくることもない。
仕方なく、集落から距離をとった。
今、山林を迂回して囲まれれば、レムとエリエザの二人だけでは突破できないだろうが、トヲリ氏族がそうする様子は見られない。
状況的に助かっているのは自分たちの方だと、わかってはいた。
「どうしたらいいでしょう」
エリエザも、当初の緊張感をすっかり切らせてしまっている。
このまま帰ってしまえればいいのだが、トヲリに余裕を与えれば、ビレトゥスに奔るだろう。
そうなれば両氏族の決裂は決定的になる。しかし、無理に攻めれば自滅するのは目に見えている。
「一旦退いた方がいいかもしれないな」
そんな時間の余裕はないことはわかっているが、敢えて口に出してみた。
エリエザも、反駁しようにも、取るべき手段がないので無言でいる他ないといった様子である。
応援があればあの急造の陣地も崩せるだろうが、タワウレ氏族がトヲリを攻めることに首を縦に振るとは思えない。
氏族間抗争に首を突っ込んだ以上、コーネリアス氏族を頼むわけにはいかない。
私事で介入した事件には、自分の裁量範囲で片をつけなければ、無責任と後ろ指をさされることになる。
「あ……」
山林の下草を踏む、微かな音。
エリエザが、集落とは違う方向を見て、小さく声を上げた。
レムもそちらを見る。
鼠色の毛並みと、要所を覆った革鎧。特徴的だった十字槍はなく、右手に抜き身の直剣を持ち、左腕は上腕部分が添え木を当てられて包帯で固められている。
先日までのぎらぎらした眼光は、なりを潜めていた。
「ガウロ……」
「遠くまで……ご苦労なこったな」
その態度も、口調こそ変わらないものの、侮るような見下す雰囲気は消えていた。
その代わり、腹の底に響くような、煮え滾る寒さが声に滲んでいる。
「ガウロ、もうやめましょう。連れて行ったみんなを返してくれれば、私たちは責めたりしないわ。今まで通り、仲良くやっていきましょう」
「エリエザよう、俺がどうこう言ったぐらいじゃあ……どいつも聞きゃしねえぜ」
「そんなことはないわ、ガウロ。トヲリで一番の腕自慢のあなたが言ってくれれば」
ガウロは、鼻で笑った。冷笑であることには変わらないが、前までとは決定的に違っていた。
前までは、自分の考えについて来られない者を嘲笑う――いわば自分が上であることを確信した様子だった。
だが今は、自分の考えより遠い結論を、さもガウロが受け入れるであろうと信じているその安易な思考を笑っている――つまりガウロは絶対的に上の立場、ではない。
自信が砕かれている。
それが良いのか悪いのか、レムには判断がつかない。
「やめねえよ。あいつら……あのバケモノに、十人ばかり八つ裂きにされたせいで……すっかりビビりきってるぜ。
さっさとビレトゥスの下に付かねえと……コーネリアスに攻め滅ぼされるって。みんなそう思い込んでやがる」
「でも」
「腕へし折られて……帰ってきた時から、誰も俺の話なんざ聞く耳持たねえよ。おいガキ、どうなんだ……お前たちは」
ガウロの目がレムを見る。
この話を信用するなら、コーネリアス氏族の後ろ盾があると思っているから、トヲリ氏族は守りを固めているのだろう。
「どうなんだ、って。どういう意味だ」
「トヲリなんてえ小せえ氏族を叩くほど、暇なのか……」
ガウロは、また笑った。
「まあ、どっちでもいいさ……俺はな。もう、ビレトゥスも、コーネリアスも……どうでも、いい」
剣の腹で、己の肩を叩く。
「ガキにビビってるアホどもが、ビレトゥスでひでえ扱い受けようが知ったことか……ガキ、てめえならわかるんじゃねえか。一人だけゴミ扱いされた気分ってのをよお」
ガウロは左腕を見るような素振りをした。
「待って、どういうことなの?」
「殺せるのに、殺さなかった……お前なんか殺す価値ねえ、ってな。あのバケモノの影思い出すたびに、今でも震えが来るさ。だけどよ……」
ガウロの目が、レムを見ている。
やすりをかけられたような、鈍い切れ味の刃に似た眼光。肌に触れれば、傷口をずたずたに引き裂いて痕が残る。
「このまんまじゃあ、引っ込みがつかねえんでな……俺はゴミなんかじゃねえ、って……見せてやらねえと、な」
自分であろうと他の誰かであろうと、引き裂かねば気が晴れないのだ。
「そんな、ガウロ。あなたが生かしてもらったのは……」
「エリエザ、下がって。こいつの相手は私がやる」
言ったところで、聞くまい。蛮刀を引き抜いて前へ出る。ガウロの表情は、今にも舌なめずりをしそうな、戦意に満ちた残虐な陰影である。
「そうこなくっちゃなあ……」
槍が剣になり、しかも片腕は使えない。勝つだけなら剣を二度振らせる前に終わる。
今までで一番厳しい戦いになるだろう。
レムたちの姿が見えなくなったトヲリの集落は、緊張がさらに高まっていた。
攻撃するべき敵の姿が明確でないと、逆に精神が追い込まれるのである。
大声で何かを罵って気晴らしをしたいところだったが、声を出してコーネリアス氏族に感づかれることは避けねばならなかった。
そんな鬱憤が高まった頃、二人づれの壮年の狼が、しっかりした足取りで現れた。
一人は気楽な調子でしきりに辺りを見回しており、その後ろでもう一人が不機嫌そうな表情を隠そうともせずに、むっつりと歩いている。
手前の一人は盾と槌矛を腰に引っ掛けており、後の一人は指先から肩まである金属製の腕鎧を右腕にだけ付け、左手は金属製の杖をついていた。
腕鎧には鎖が長々と巻きついており、その先には拳大の鉄球がぶら下がっていた。
「よう、ちょいと尋ねたいんだが、トヲリ氏族の集落ってのは、ここでいいのかね」
くすんだ黄土色をした、人の良さそうな尾の短い狼が、障害物裏の、誰が見ても刺激することを避けるだろう連中に、にこにこしながら声をかける。
「俺はコーネリアス氏族"霞食む若葉"のドオリルだよ。こっちは"征く角笛"のパルネラ。今日はね」
最後まで言わせず、障害物の後ろから矢が雨のように降り注ぎ始めた。
矢の雨の元を睨みつけながら、長衣と腕鎧を身につけたパルネラは、仁王立ちしたまま動こうともしない。
不機嫌な顔で、腕を組んでいる。右腕の肘から、拳大の鎖鉄球がぶら下がっており、傍らの地面には金属杖が突き立ててあった。
「まったく、見ろドオリル。言わんことではないわ」
「まあまあ」
矢を盾の丸みで受け流しながら、相変わらずにこにこしたままのドオリルがパルネラをなだめる。
「ええい、静まれ! 静まらんか! こちらは戦いに来たわけではないわ!」
パルネラが叫ぶが、矢の雨は止まないどころか、刃物を持ち出して打って出る機を窺う者まで出てくる始末である。
左肩を少し引いた。ちょうどその位置を、流れ矢が通り抜けて地面に刺さる。
「おのれ、分からず屋どもめ」
「パルネラ、こりゃちょっと話ができる状態にせんとなあ」
「むむむ」
腕鎧を軽くかざすと、手の甲に矢が当たって軌道を変えていった。
「俺は矢で動けないから、ひとつあんたの鉄球技を見せておくれよ」
片手の槌矛で、当たりそうもない矢まではたき落としながら、ドオリルがのんびりと呼びかける。
「ぬう、仕方のない」
忌々しげに唸ると、パルネラは鉄球を握っている腕鎧を一閃させる。
ひゅっ、と重く風を切る音が聞こえたかと思うや否や、弓の一団の最後尾が、横に飛んだ。
地面に倒れる音がする前に、パルネラの籠手が、戻ってきた鉄球を掴み取っている。
「おお、すんげえ」
「ふん」
投球が思わしくなかったのか、ただでさえ不満そうだったパルネラは、より不機嫌さの度合いを増して鉄球を握り込む。
一瞬、矢が止む。トヲリ氏族は、二人を警戒しながらも、白目を剥いて、泡を吹いた仲間の様子を窺っている。
隣が弓を置いて助け起こすと、再び矢が飛び始めた。
「パルネラ、もうちっと頼むわ」
「やれやれ。議会は事を荒立てんようにと、わしを来させたというに」
「ただ運動不足そうだったからじゃあないかねえ。この間の議長はディエルだったんだろ? あの人はいらん気を回すのが得意じゃないか」
「余計な世話を。こうも撃ち合いになるのであれば、ディエルが自分で来ればよかったようなものを……いや、そもそもと言えばジグムントめ。
家族問題だなどとのこのこ出ていった癖に、しれっと議題に上げおって。奴が自分で片を付ければ、こんなことにはならなんだぞ」
「はっはっは、そりゃ乱暴だぞパルネラ。トヲリがなくなっちまう」
鎖の音が低く鳴る。二人目が後頭部を叩かれて顔から地面に落ちる。
やや離れた位置にいた一人が、驚いて振り向いたその顔面に、弧を描いて鉄球が飛び込んだ。
弓を引き絞ろうとした者の手の甲を、下からの放物線が弓ごと打ち砕く。
「いやあ、すんげえすんげえ。使いづれえ武器のくせに、いつまでも練習用が残ってるわけだわ」
完全に及び腰になったトヲリ氏族を眺め渡しながら、ドオリルは呑気に大声で独り言を言っている。
トヲリ氏族の視線は、パルネラの鉄球を握った籠手に集中していた。先程までの攻撃姿勢はどこへやら、次弾を恐れて矢も放てずに身構えているばかりである。
「ドオリル、もう良かろう。格下をなぶりに来たわけではないのだぞ」
「あいよ。んじゃあそろそろ、親善書簡のお披露目と行きますかい」
「四人も五人も殴り倒しておいて、親善が聞いて呆れるわ」
「そうカリカリしなさんなって」
槌矛を帯に引っ掛け、ドオリルは盾の裏から羊皮紙を引き剥がすと、良く見えるように掲げた。
「いいかあ、コーネリアス氏族の長老議会決定を読み上げるぞお。これが、俺たちがあんたがたトヲリ氏族に対する、えーと」
「基本的な態度、だ」
「基本的な態度だぞお。コーネリアスの戦士たる俺"霞食む若葉"と、こっちの長老議員"征く角笛"が立ち会いだあ」
胸の前に広げて、声を張る。
「トヲリ氏族の動静及びタワウレ氏族との抗争については、コーネリアス氏族が口を出すことはなし。そっちで迷惑をかけてるコーネリアスの戦士も、すぐ連れ戻す。
先に仕掛けてきたことについては大目に見る代わりに、そっちにいるコーネリアスの戦士がタワウレ氏族に加担した分をどうこう、ってのもなしだ。
ただしコーネリアスの戦士が帰るまでに攻撃された場合は、氏族ではなく戦士個人として反撃する……」
羊皮紙から目を離した。
「簡単に言うとだな、今までのは水に流して改めて、喧嘩売って来ねえ限りはこっちも口出ししねえぞ、ってこった。まあ、普通だわな」
気楽に言うと、ドオリルはトヲリ氏族に向けて羊皮紙をぴらぴらと振ってみせる。
「我らコーネリアス氏族は、その信義と矜持に掛けて、予告なく以上の決定を翻すことなし、っとよ。ほら、誰か取りに来い。持って帰ったら、大事にしまっとけよ。
俺たちだけじゃあなくて、俺たちの友邦もこれに従うからなあ。いざこざふっかけられたら、喧嘩になる前にこれ見せろよ。お、そうだ」
思い出したように、付け加える。
「取りに来るときは武器置いて来いな」
後ろでパルネラが、籠手に鎖を巻きつけながら溜息をついている。
袈裟掛けの剣を、下がって避ける。
左腕が固められているのは、やはり大きな痛手であるらしく、十字槍の時ほどの威力も速さもなく、力みが動作のバランスを崩している。
その気にさえなれば、二度振らせる前に、殺れた。
胸を狙って来た真っ直ぐな刺突を、身をひねるだけで払うこともなくかわす。
ガウロの手筋が、目に見えて荒れていた。
レムからさえも手を抜かれていることへの苛立ちが、無駄な力みと単調な攻め手になって、結果的に鋭さを失わせているのだった。
当たれば痕が残る傷になるだろうが、それだけだ。あんな振り方では、当てたとしても意を集中した剣とさほど威力に違いはない。無意味に武器を傷めるばかりである。
「ちっ……」
息を大きく吐き出して、ガウロは一旦間合いを外した。
肩で息をして、レムを睨みつけている。立ち回りから技の応酬まで、最初に会った時とは別人のような稚拙さだった。
それ故に、レムは攻めあぐねていた。
エリエザのためにも、ガウロを殺すわけにはいかないが、ガウロはもはや死ぬ以外の敗北を受け入れないだろう。
右腕を斬ることもできたが、それではガウロは父とレムへの恨みを抱いたまま、周りに当たり散らしながら生きていく結果になるのは目に見えていた。
少し離れたところで、エリエザが不安そうに見ている。
トヲリからの包囲がないかどうかを見てほしかったが、それどころではないのは理解できた。
ガウロの足が動いた。
地面の土が蹴り上げられ、視界を覆う。目を細めて、目に入るのを防ぐと、自然とガウロの動きを捉えづらくなる。
ほとんど隠された視界の向こうで、ガウロが剣を振るのに合わせて、右の蛮刀を前に突き出した。
鋼の擦れる感触。
手に伝わったと同時に、外に払った。
案の定、剣ごとガウロの上体が、レムの目の前で泳いだ。
脇腹を叩く絶好の機会を、敢えて見逃した。
直後に、踏み止まってバランスをとりなおしたガウロの斬り返しが来る。
上体を逸らして鼻先を空振る刃を眺め、大振りのせいで晒した隙をついて距離を取る。
剣を叩き落とすことも、無駄に攻撃を当てることもできない。ガウロの怒りを掻き立てるばかりだ。
回避のみに徹している今の状況も、大差ないと言えなくもないのであるが。
ガウロが納得して怒りを納めるような決着は、もう戦って殺す他ないのか。
レムには、わからない。
片方の剣を剣帯に収めて腰のホルダーに触れると、残っていた釘の一番端に風が吹いた気がした。
指の腹で触れる。力が、脈打っている。
黄色い革外套を、思い出す。釘に刻んだ印を教えてくれた子供と、その兄弟だという若者は、言うだけあって、よく似ていた。
――そいつを、どうか当たりますように、ってお願いしながら投げりゃ、精霊が当てていいって思ったところに、カクジツに当たるんだぜ。
――喧嘩の勝ち負けじゃなくて、このつまんねえいざこざがこじれまくった先の、最後の最後だ。
今か。
意を決して、刻印付きの釘を引き抜く。
レムが飛び道具を使うと狙い通りに飛ばないが、これであれば恐れることはない。
ガウロを見据えて、当たれよ、と念じた。願わくば最も円満に終わるところへ。
指の間で釘が精気を放つ。後ろへ飛んで距離をとりながら、釘に導かれるように投擲動作に入る。ガウロの剣が追ってくるが、届かない。
釘が手から離れる瞬間、何か見えない手に引き受けられるような感触があった。
放たれた釘はまっすぐに、ガウロの方へ飛んで行き――
「あ」
「え」
顔の横をすり抜けた。
「あっ」
小さな悲鳴。
レムは、ガウロと目を合わせたまま、凍りついた。
それどころではない異変が、敵意を消した。冷えた感触が、体の芯を貫いている。ガウロと、思いが一致しただろう。
逃げ出してしまいたい気持ちをねじ伏せて、釘の飛んで行った先を見る。
「え」
ガウロの喉から、声が漏れた。
「エリエザァ!」
コマ送りのように崩れ落ちていくエリエザへ向かって、聞いたこともないほどの取り乱した声で、ガウロがレムに背を向けて駆け寄っていく。
釘を投げた指が、寒い。
「なんでだよ」
違う釘を投げたのかと思った。そうであれば、どれだけよかったか。暴投であれば、まだ外れる可能性もあった。
間違いなく、ホルダーの一番端が空いている。
ガウロが動かない左腕に業を煮やして、剣を捨てた。
胸のあたりに釘を突き立てたエリエザが、ガウロの腕の中で眠るようである。
「おい、起きろよ! 何なんだよ、これは!」
揺さぶっても、目を覚まさない。あの程度の釘では、急所にでも当たらなければ命に関わることはおろか、意識を失うこともないはずなのに。
「……どういう……ことだよ」
小さく、ガウロが呟いた。
その場に立ち竦む他に、レムには何もできることがない。
刻印釘を投げたなら、これが精霊の意志だったということだ。
なぜエリエザがこんな目に遭わなければならなかったのだろう。
さわり、と風が梢を揺らした。
「ガウロ」
しゃん、と澄んだ音がする。
聞き覚えのある声と共に、脳裏に人懐こい年長けた狼の姿が浮かぶ。
それよりは幾分くたびれた様子ではあったが、思ったとおりの人影が、錫杖を打ち鳴らしながらガウロの方へ向かっていた。
ガウロは、そちらを見ようともしない。
「族長」
ダバウは、小さく頭を下げた。
「山中をさまよっている時に、私もトヲリに導かれましてな。トヲリの精霊は、昔と同じ付き合いを望んでいると。
己の精霊の祭具を勝手に持ち出して氏族を追われた不出来な男ですが、タワウレとトヲリを元の関係に戻したいという気持ちは変わっておりません」
レムに向き直る。
「レム殿、精霊タワウレとトヲリになり変わり、改めて御礼申し上げます。あなたがいらっしゃらねば、両氏族にとって不幸な結末にしかなりませんでした」
ダバウはもう一度、今度は深々と頭を下げた。
「ああ、でも」
気の入っていない返事が出た。
ガウロは、動かないエリエザを抱えて座っているままなのだ。確かに氏族にとっては良かったのだろうが、何か大切な物を取りこぼした気がしている。
心境を知ってか知らずか、ダバウはレムに笑顔を向けると、表情を引き締めてガウロに向き直った。
しゃん、と錫杖がなる。
「ガウロ。今のお前のその気持ち、あの時お前が殺されておれば、エリエザが味わっておったのだぞ」
俯いていたガウロの頭が跳ね上がった。暗く燃えた眼が、ダバウを刺し貫く。
「ダバウ! てめえ!」
ダバウに向けられたのはただの八つ当たりでしかなかったが、それでもそこそこの者ならたじろがせるくらいの気迫はあった。
その怒りの視線を、ダバウは泰然と受け流す。
「お前を生かしたのは、レム殿がエリエザのもてなしに礼を返すため。レム殿は弱者をいたぶる戦はせぬと、何度も剣を交えたお前だからこそ、わかるだろう。
レム殿をそのように育てたお父上であれば、なおのことよ」
「それで、これか! このガキが、余計なことを……!」
「のう、ガウロよ。その釘を見てみろ。トヲリの刻印があるであろう」
「それが、どうした!」
「刻印があっても、精霊はこれと思った者でなければ力を貸さぬ」
ダバウの言葉の意を測りかねて、ガウロが今にも噛みつきそうな顔をして、睨みつける。
「その釘、抜いてみろ」
「ふざけんな! そんな事をしたらエリエザが……!」
急所に入ったなら――胸の位置なら、肺や心臓だ。抜けば傷に血が流れ込み、噴き出す。エリエザの状態はわからないが、仮死状態だったなら、とどめを刺すことになる。
ダバウは、表情も変えない。
「抜いてみろ」
「できるか、そんなことが!」
「己の精霊を信じるのだ、ガウロ。エリエザが、悪を為したか?」
ガウロが歯噛みする音が、聞こえてくるようだった。
エリエザに視線を落とす。ふっとまどろんだだけのような、静かな顔で眠っていた。
「くそ……」
はらわたを吐き出すかのような怨念のこもった唸りを漏らして、半ば自棄でガウロが釘に手を賭けた。
なんの抵抗もなく、抜ける。
「痛っ」
止まっていた時間が動き出したかのように、エリエザが顔をしかめた。
釘の刺さっていた場所に、まるで今釘が突き立ったかのように手を当てる。
「あら?」
ダバウは、あらかじめ知っていたかのように、目を細めている。
「族長」
レムの声に、頷くのみである。
傷も血も、釘さえも触れなかった指先を、不思議そうに見つめるエリエザを、ガウロが抱きしめた。
草むらに紛れていた剣を拾って、ガウロの方へ放り投げる。
エリエザが戸惑っていた割に、随分しっかりと抱き合っていた二人が、剣の落ちる音ではっと振り向く。
「ガウロ、勝負だ。私はコーネリアス氏族"岩に咲く白"のレム。諱を名乗れ。戦士として戦うなら」
準備は整ったと感じた。
エリエザと顔を見合せ、ガウロはひとつ頷く。
レムから見て不安になるくらい、顔が近い。自分が男とあの距離になって、平静でいられるだろうかと、余計な事を考えた。
剣さえ握っていれば大丈夫だ。もしくは、組み打ちなら。
素手の組み打ちの修練で、年下の戦士の卵に、たまにまともに動けない者がいた意味が、なんとなくわかった気がした。
ガウロが剣を拾って、ゆらりと立ち上がる。
「トヲリの"むせび泣く雷雲"だ……受けて立ってやる」
「ひとつ約束しろ、ガウロ。今度は加減しない。私に負けたら、ビレトゥス行きを諦めろ」
「吼えやがれ。どこだろうが、他の奴らの下に付く気はもうねえ」
戦士の誇りが、財宝の魅力を打ち破っていた。
「エリエザに……楽な暮らしをさせてやろうと、思ってたのによ……てめえらのせいだ……覚悟しろよ」
目に、闘志が宿った。初めて会った時のものでもない。先程までのものとも違う。
ガウロが万全の状態なら、今度こそ本当の意味で厳しい戦いになっただろう。
レムから仕掛けた。
反応して前に出てくる剣を、突進の勢いを乗せて跳ね退け、隙のできたガウロの右上腕を斬り裂く。
距離を取ろうとした前蹴りを膝で横に弾き、右の蛮刀でまっすぐに左肩を突き刺す。
右上腕に力が入らなかったのか、振ろうとした剣を取りこぼした。その鳩尾に、爪先を突き込む。僅かに前のめりになったところへ、顎を蹴り上げて重心を後ろに崩させ、
一気に斜めに踏み込んで、根元から刈り取るように足を払った。
仰向けに倒れたガウロの右上腕を踏みつけ、喉首に左蛮刀を突きつけ、右蛮刀の切っ先を脇に引きつけて顔面に狙いをつける。
落ち葉が舞った。
ガウロも、レムも動かない。そのままの姿勢で、かなりの時が過ぎた。
ダバウとエリエザも、じっと成り行きを見守り続けている。
「……ちぇ」
ガウロが、ぽつりと呟いた。
トヲリ氏族は、ガウロがやめると言えば、ビレトゥス行きを諦めるだろうと思っていた。
だが、肝心のガウロは、その話をされるなり、また不機嫌そうな顔に戻った。
「それは、さっき言っただろうが……腕へし折られてから、俺の話なんざ……聞く奴はいなくなったってな」
「駄目でもやってみてくれないか」
「しつけえぞ」
半眼で睨みつけられる。
誤解は解けたものの、負けたと認める気はないらしい。潔くはないが、別にそれでもいいと思った。
「ガウロ、なんとかできない?」
「エリエザまで……勘弁してくれ」
ガウロの剣は、エリエザが抱えていた。左腕の骨折に加えて右腕も切り裂かれたガウロは、当分力仕事もできないだろう。
並んで歩く二人の姿を見ていると、言葉のやりとりは艶を失っていたが、距離はぐっと近づいていた。
あれが本来の二人の関係なのだろう。
ダバウは、後ろを歩いている。錫杖をつきながらのはずなのに、錫杖の頭についている金環はさらりとも音を立てない。
「族長、よく私たちの場所がわかったな。それに、その錫杖は」
「すべて精霊のお導きです、レム殿。狼の姿をとった精霊トヲリが、氏族に持ち去られた錫杖を私の手に返し、ガウロの頭を冷やさせる策を明かしてくれたのです」
ガウロは、目を閉じている。不快さを顔に出すまいとしているのがよくわかる。
「エリエザが気を失ったのは……何なんだ。起こした時に、もう冷たくなっていたから、本当に死んだかと……思ったぞ」
「風の流れを司るとは、流れを止めることも司るのだ。我らには及びもつかぬが、印を刻んだ釘が自在に飛ぶのと同じように、精霊の御意志が働いたのであろう」
「けっ……どうだったんだ、エリエザ」
「私は、そうね……釘が刺さったと思って、手をやったらもうガウロがそばにいたから」
歩みを緩めて二人を先に行かせ、ダバウの隣に並んだ。
「族長、精霊は狼の姿をとるのか」
「そうです。精霊トヲリは、氏族の前に現れる時、黄衣を纏った幼子の姿をとると伝えられております。ただ私も、ああして直に言葉を交わすのは、初めてです」
黄色の衣。心当たりがある。革外套を、衣と呼ぶならば。
「トヲリでは革外套を黄色に染めることは……」
「ねえよ。毒草の汁が飛び散って……黒ずむことは、あるけどな」
ガウロが面倒くさそうに、わずかに振り向いて答える。
「大体、精霊が着るもんを……自分の着物にしちまう奴が、いるかよ」
「レムさん? どうかしましたか?」
自分がどんな顔をしているか、エリエザの表情でなんとなく知れた。
「私も、会った。川で釘に印を刻んでくれた子供が、黄色い革外套を着ていたんだ。自分はトヲリだ、って。私は、トヲリ氏族だっていう意味だと思ったんだけど」
前を進んでいた二人が止まってレムを見た。ダバウは、黙って聞いている。
「おい……何で俺が会わねえで……よそ者のお前が、精霊に会ってんだ」
「ガウロよ、それが精霊の御意志だ。言い伝えにしか残っておらぬような現身をとってでも、我々を和解させようとしたのだ。
レム殿には随分とお手間をかけさせてしまったが、我々の身内だけでは精霊の御尽力があったとしても、こうまでうまくはいかなかったであろう」
「族長、黄色い外套の、私より少し年上くらいの狼にも会ったんだけど」
「その者は、トヲリの兄弟であると言っておりませんでしたかな」
「言っていた」
「トヲリ氏族は、元々は流浪の旅をやめ、土地に定住するようになったタワウレ氏族の者たちです。その精霊ならば、さぞや良く似ていることでしょう」
「じゃあ、あいつは」
「レム殿は、真っ直ぐなお心をお持ちですな。我らの精霊のどちらからも、認められなさった」
なんだか、頭の中が膨れ上がったような感じがして、あまり物を考えられなくなった。
精霊を感じに来た、と言ったレムに向かって、黄色外套の兄弟が揃って、よくわからないというわけだ。
祭儀など見なくとも、とっくに精霊に接していたのだ。
「なるほど、俺たちがいがみ合ってる間に……頭の上で、精霊があれこれ手を回していた……って、わけか」
不満そうに、ガウロが唸る。
年長者の貫禄だろうが、すっかり落ち着いたダバウの様子を見ていると確かに、最初から仕組まれていたのではないかという気さえしてくる。
ガウロが首を巡らせて、山林の木々の隙間を見た。
「そんなら、後の根回しもできてる……ってわけだ」
木々の隙間に、障害物を引きずった跡のついた地肌が見えた。
子供たちの声に混じって、聞き覚えのある楽しそうな声が聞こえてきた。
「コーネリアス氏族の誰かが来ているみたいだ」
「はん……説得する手間が省けて、よかったじゃねえか……」
面白くなさそうなガウロの横で、エリエザがこちらに微笑みかけてくる。
きっとうまくいきますよ、と言外に示していた。
声の元に近づいていくにつれて、コーネリアスから誰が来たのかレムにはわかった。
集落の入口で、数人の子供たちが木の棒を振っている。
にこにこしながら子供たちの間を回っては、棒の振り方を手直ししていたくすんだ黄土色の狼が、ひょいと顔を上げた。
「おう、来たなぞろぞろとよう」
「ドオリル」
辺りを見回すと、遠くの方で子供たちの親らしい狼が、こっそりとこちらの様子を窺っている。ドオリルを見る目に、恐れが浮かんでいる。
レムがやろうとしていたことは、既に終えているようだった。
「ま、積もる話もあるけどな。広場でむくれて座ってるパルネラに、声掛けてきてやってくれ。俺はしばらく、トヲリの未来の戦士たちに、喧嘩のやり方教えてるからなあ」
「わかった」
三人に目で合図して、レムは集落の中へ向かう。
ドオリルが、何の警戒もなく気安い調子で三人に話しかけているのが背中に聞こえてくる。
にこやかな様子を崩さないドオリルに、なぜかガウロが苛立ち始めているようだった。
集落の入口まで、三人は見送りに来た。
トヲリ氏族としての見送りはガウロだけで、あまり愉快そうな表情ではなかったが、レムはそれでも満足だった。
「本当に、ありがとうございました。レムさんのおかげで……」
頭を下げたエリエザが、ガウロの顔に目を向ける。
鼠色の狼が、ついっと顔を逸らした。
「エリエザも。私も、随分助けてもらった。私だけじゃなくて、皆が頑張った結果だ」
「はい」
彼女のためを思ってガウロが暴走したのが発端の争いは、彼女によって収束した。
エリエザから能動的な働きかけをしたわけではないまま事態が推移したのが不幸だったが、レムの担った役回りの重要さと同じくらい、彼女も大切な立ち位置にいた。
レムが来なければタワウレが衰えただろうが、エリエザがいなければ今回の抗争はトヲリの消滅で終わっていただろう。
「もうビレトゥスには行かないって話は、まとまったのか?」
「俺は行く気はねえ……って、言っているだろうが。それじゃあ、不服か」
「いいや」
ガウロがこうであれば、またビレトゥスに行こうと言う者が出ても押さえつけるだろう。
少なくともビレトゥス絡みで、タワウレとトヲリのいさかいの種はなくなる。
「あの化け物に伝えておけ……このトヲリの"むせび泣く雷雲"を、生かして帰したこと……絶対ェ後悔させてやる、ってな。
見てろよ。お前にもだ。すぐにトヲリの戦士団の名……嫌ってほど聞くようにしてやる」
初めに会ったときはただのちんぴらでしかなかったガウロは、態度こそ変わらないものの、瞳に力強さを得ていた。
誇りを心に抱き続けるならば、良い戦士になる。
「ああ」
なんとなく頬を緩ませたレムに、ガウロは舌打ちで応じた。
「族長。何から何まで」
「言い忘れておりましたがレム殿、私はもう族長ではありません」
「そうだったな。すまない」
「いえ。詫びも礼も、言わねばならないのは我らの方です。兄弟たるトヲリ氏族と、我らタワウレ氏族の双方を代表し、御礼を申し上げます」
ダバウが、深々と頭を下げた。後ろのエリエザも同じように、不承不承のガウロも軽く、ダバウに倣う。
「トヲリの者たちはまだ落ち着いておりませんが、ここから先は我らが自分たちでやるべきことです。レム殿には、大変お世話になりました。
トヲリの精霊印は、どうぞご自由にお使いください。何の縁もない者にはただの図形ですが、トヲリとタワウレが認めなさったレム殿ならば
精霊の意志の届く限り、流れる風の力添えを得られることでしょう」
「ああ……ありがとう」
図形は、覚えている。三角形を崩したような形だ。
「また、いつでもおいでくださいね」
「三人とも、元気で」
腕を組もうとしたガウロが、両腕とも上がらなかったことに気がついて、知らん顔でごまかしている。
「それじゃあ」
別れを告げて背を向ける。
三人とも、レムが見えなくなるまでその場に留まっているようだった。
やっと別れを済ませてきたレムを出迎えたパルネラは、やはり不機嫌だった。
「ジグムント相手に『後悔させてやる』か。弱小氏族の若造めが、大きく出たな」
開口一番が、それである。パルネラが機嫌を損ねると、食堂で管を巻き、道行く者に嫌身を垂れ、コレルに小言を言ってようやく落ち着くのがいつものパターンだった。
これで、他氏族との争いを極力避けようとする穏健派の代表格なのだから、世間とはわからないものだ。
「あのあんちゃん、鍛えりゃそこそこになると思うぞ、パルネラよ」
「ふん、そうか。鍛えると言えばお前も抜け目がないな」
「何のこっちゃ」
機嫌の悪い時特有のパサついた表情で、パルネラがやや嫌味を含ませながら言う。
「トヲリの者どもにレムを探させている間に、子供に稽古をつけてやるとの口実で、人質に取っておったのだろう。ま、敵地での安全確保としては、悪くないがな」
「いやいやパルネラ、そいつは誤解だ。俺ゃ純粋に子供たちを強くしてやろうと思ったんだぞ」
「ならば貴様のお人好しも天井知らずだったということだな」
他の長老議員に言わせれば、パルネラは喚かなくなっただけましだということらしい。
近接刺突用の鉄杖が、ざくざくと地面を抉っている。
「ところで二人とも、どうしてわざわざここまで来たんだ?」
レムの素朴な質問に、パルネラが嫌そうな顔をする。その間に素早く割り込んできたドオリルが、にこにこしながら口を開いた。
「お前の親父さんが、お前が氏族抗争に首突っ込んじまってるから、コーネリアス氏族として公式見解を出しておくべきだって、議案を出したんだと。
そんで、俺は知らんけど議会で色々話し合った結果、長老議員の立ち合い付きで文書を出すことにしたってわけだ」
「そうか。すまなかったな、私のせいで」
「ん、まあ、なあ」
ドオリルのにこやかな顔が、かすかに曇る。
言いづらそうな様子を見て取ったのか、今度はパルネラが鬱陶しそうに口を開いた。
「長老議会決定でもやむにやまれぬ事情でもなく、氏族の争いに首を突っ込んだ規律違反は重大だ。尾切りの上追放が妥当だったのだがな」
背筋が冷える。尾切りと聞いて、尾の付け根がきゅっと締まった。
私情で他氏族に影響を及ぼすような行動を取るのは懲罰対象だったのだ。トヲリに助力を頼まれて、罰を覚悟で剣を取ることを決めたのを、忘れていた。
「尾切り……そんなにまで、か」
戦で尾が短くなる者は多いが、流れ者で尾を付け根から切り落とされているならば、それは自分たちの氏族にすら居場所を失った誇り無き者だ。
少なくとも、狼の勢力圏である北部山岳地帯では、まともな扱いは受けられなくなる。
茫然としているレムに、慌ててドオリルのフォローが入る。
「いやいや、お前が名誉やら財宝やら目当てでやったんならパルネラの言うとおりだがな、親父さんを呼びにきたお使いに、トヲリが先に手を出したって事情も聞いてるし、
親父さんも『一宿一飯の施し主を見捨てて守る規律に、何の誇りがあるのか』と言ったらしいからな。んだから、尾切りなんぞしないぞ」
「自分の娘の弁護でなければ、もっともな意見なのだがな」
「まあまあ」
少しだけは、気が楽になった。が、二人の口ぶりから察するに、懲罰なしというわけではないらしい。
「で、どうなったんだ。私の扱いは」
聞くのが怖い気もする。
「戦士格の剥奪も提案したのだがな」
「いやいや、決まってもいねえ厳しい処分ばかり言って怖がらせるのはよそうや、パルネラ。レム、お前は謹慎に決まったよ」
「謹慎……か」
「何分、恩返しと氏族規律とどっちを優先するかっつう難しい問題でな、完全にお咎めなしってわけにはいかねえんだ。当分、用もなく外に出ねえようにってこった」
「そうか……」
「悪いなあ。ひとヤマ片付いて、いい気分だった時によう」
「何を言う。懲罰相当のことをしたならば、早急に従うのが当たり前のことだろうに」
「でも、やり返したことについちゃあ問題ないんだよな」
「その後に腰を据えて戦ったのが問題なのだぞ」
溜息が出た。
自分が為したことに、後悔はない。ただ、その行為も別の側面から見れば、批難されうるものだという事実が、レムの心を重くした。
「ま、帰ろうや。親父さんも待ってるぞ」
ドオリルが、レムの肩をぽんぽんと叩いた。