シャコのお嫁さん 第一話
月も沈んだ明け方前、ネコの国に程近いある海岸に一人の男が座っていた。
「今日も異状なし…と」
夜明けを告げる光が地平線から湧きあがるのを見届け、男は落ち物の双眼鏡を大事に鞄にしまい、
こきこきと首をひねって肩の凝りをほぐした。
ぼんやりとした明けの光を嫌うように、フードを目深に被ると浜辺を歩き出す。
今日は朝市によらなくても蓄えがあるのでまっすぐ帰るのだ。
「ただいまー…」
我が家の勝手口を開けて呟く。
だが、誰が待っているわけでもない。彼がいなければ家は無人だ。
外套を脱ぎ捨てると、フードに押し込められていた触角が自由になり、なんともいえない開放感
を感じた。勢いで靴やズボンも脱ぎ捨て、肌着だけの姿になってしまう。
肌着姿でのびのびとしているシャコ男(自分)が姿見に映り、なんとなくポーズをとってみた。
太ってはいないが、少し体がなまっているかもしれない。
部屋履きのサンダルをぺたぺた言わせつつ、食事の用意をする。御飯を炊きながら魚の一夜干し
を適当に焼き、時間が余ったので炊けるまでの間ストレッチで時間をつぶす。
ほこほこと炊きあがった御飯と焼き魚を茶の間に持っていくと、魔洸TVのスイッチを入れた。
『めざにゃー!』とかいう朝のニュース番組を見ながらもそもそと食事をとる。ネコ国が近いと
暇な時こうしてTVを見られるのが利点だ。
「女子アナがまたスポーツ選手と結婚か…」
実は彼もファンだった白ネコの女子アナが幸せそうに会見に応じているのを見ながら、男は深く
ため息をついた。
「…俺も嫁さん欲しいなぁ」
自分の吐いた言葉で陰鬱になった空気の中、男はぽそぽそと食事を済ませさっさと床に就いた。
正午前、勝手口をとんとんと叩く音に彼は目を覚ました。
「うう…誰だ、こんな時間に…」
ズボンをはき、外套を被ると勝手口に向かう。扉越しに小柄な人物と思われる熱源が立っている
のが視える。数は一、伏兵は見当たらず。用意しかけていたクロスボウを戻し、とりあえず返事を
してみることにした。
「どちらさんですか」
「あの、こちらはナキエル様のお宅ですか?」
鈴が転がるような声が返ってきてどきりとする。思わず扉を開けそうになる自分を叱咤し、更に
尋ねた。
「ナキエルに何のご用ですか」
「わたし、カール様より申し付かりまして参りました、ヒト召使のエナと申します。ナキエル様の
此度の度重なる御厚意に感謝し、カール様はナキエル様に“わたしを贈呈”したいと」
「俺に贈呈…!?」
今度こそ我慢できず、彼…ナキエルは扉を開けてしまった。
そこには、たしかに手荷物を抱えて微笑むヒトの少女が立っていた。
「はじめまして、ナキエル様。どうぞよろしくお願いします」
深深と一礼され、ナキエルはただ「は、はぁ、どうも…」と返すことしかできなかった。
――話は一ヶ月前に遡る…
厄介な状況に立ち会ったものだと、物陰に隠れてナキエルは思った。
料理ごとひっくり返った丸テーブルの傍らで、そのテーブルを囲んでいたらしい数人の男たちが
床に倒れていた。ぴくりともしないが、近くに転がっているやつの息を確かめるとまだ生きていた。
昏倒しているだけのようだ。
そして、ほとんどの客が逃げてしまった店内で、やはり昏倒した身なりのいい男性を背中に庇い
ながら構える一人の若い女性がいた。
背中に庇った男よりも質素な姿からおそらくは従者か何かであろう。
大きな眼鏡と、背中に伸びる三つ編み、それに頭から伸びる触角が目立つ。そしてそれ以上に、
その右手。右腕だけが、“自分たちのような”甲殻でできた手甲に包まれていた。
(…テッポウエビか)
ナキエルはその特徴から、彼女の種族をそう推察した。
彼らの“指弾”は非常に強力だ。厳しい鍛錬を積んだ獣人であっても、頭に直撃を食らえば意識
を容易に刈り取られてしまう。おそらく、そうとは知らずに近付いた馬鹿者が彼女の主人に危害を
加えてしまったのだろう。狼藉者の無知と、彼女の未熟が招いた混沌だった。
見たところ、彼女は震えているが構えを解く様子はない。落ち着くまで待ってやりたいのは山々
だが、彼女の後ろで倒れている主人は頭から血を流している。興奮してトリガーハッピーに陥った
従者は背後の主人の状態に気付いておらず、このまま放っておくと危険かもしれない……となれば。
「止めるしかない、か」
ナキエルはシャコである。
シャコは……いや、彼ら蒼拳士は、よき人々のため力を尽くさねばならないのだ。
説得の時間も惜しみ、ナキエルはテーブルを蹴った。
驚いた従者があの右手を構え、対人用途を超える威力を引き出す何らかの呪を唱えた。鋭い破裂
音とともに、指弾の衝撃波がテーブルを粉々の木屑に変える。
(…やはり未熟)
木屑が散ってテーブルの背後に何もないことに従者が気付くまでの隙で、ナキエルは死角を縫う
ように駆けて肉薄する。接近されたことに気付き指弾を構える右腕を捻り、大地に叩き伏せる。
「っ…は……!?」
「御免よ」
当身を入れて気を失わせようとしたその時、
「待ってくれ…!」
意識を失っていたはずの主人が目を開けていた。
「カール様、ご無事で!?」
「私は大丈夫だ、シア……だからもうやめなさい。貴方も、どうかシアを離してやってください。
シアは私を守ろうとしただけで、この騒ぎの責任は私にあるのだから」
身を起こし、ハンカチで頭の傷を押さえながら、主人とおぼしきハゼの男が言った。言う通りに
解放するなり、従者はあわてて主人に駆けよりかいがいしく応急処置を始めた。
「まあ、大体の察しはつくけど…騒ぎの原因はなんだ?」
「私がぶつかったせいで、そこの男たちの酒をこぼしてしまって…」
案の定である。酔っていたとはいえ暴力をふるった男たちも自業自得ではあろうが、従者の方も
少しばかり過剰防衛といえる。
見ると、シアと呼ばれた従者はカールという主人に寄り添ってぶるぶると震えていた。
「大丈夫、私は大丈夫だから」
「…はい…」
その様子にナキエルは考える。おそらく悪人ではなさそうだが、危なっかしい主従だ。このまま
放っておくのはよくない気がする。
表が騒がしくなってきたのを感じ、ナキエルはすぐに行動せねばならないと判断した。
「…事情はわからないが、俺についてきてくれ」
「えっ…?」
「衛兵相手に大立ち回りするわけにもいかんだろ、さあ!」
「あ、ああ、そうしよう」
カウンターの裏で震えていた店主に迷惑料を放り、三人は店の裏口から逃げた。
人目につかない路地裏に逃げ込んでひとまず落ち着いたところで、ナキエルは二人に事情を訊く
ことにした。
カールはハゼのそれなりに裕福な一族の出身で、ステイシアというらしい彼女の方は、カールの
家に代々仕えてきた一族の者らしい。
だが、取引している貿易船が幾度と無く海賊に襲われ、家の財政が急速に傾いているのだという。
あまりにピンポイントで狙われることに疑問を抱いたカール自らが調査に乗り出したものの、所詮
素人仕事ではたいしたこともできず、困り果てていたところに今回の騒ぎだったということらしい。
「イヌ国やネコ国では探偵なるものがいるそうだが、あいにくそういった伝手もなく…」
「…なるほどなぁ」
話をしばし吟味したあと、ナキエルは念話を開いた。
――青龍殿に状況送信、龍王様に判断を乞います
『ふむ、なるほどのう……うむ、ではその件にはアルマの班を調査に向かわせるかの』
――この二人はいかがしましょう
『主人はともかく、従者がそのままではまた騒ぎの元じゃの。その二人、青龍殿で預かろう』
――御意
こうして、カールとステイシアは青龍殿に招かれ、ステイシアはそこで修練を積むことになった。
海賊の件も、アルマの班の調査でカールの家の分家が本家を没落させるために仕組んだことだと
判明し、軽くひねってさしあげたとの報告が入った。めでたしめでたし…ということで、ナキエル
はすでにこの件を半ば忘れかけていたところだった。
「おかげさまで強奪されていた積荷もいくらか戻ってきて、カール様の御家も無事持ち直すことが
できました。すべてナキエル様のお蔭と、カール様は大変感謝しておいででした」
立ち話もなんだからと茶の間に招き入れたエナから話を聞きながらも、ナキエルはまだ理解でき
ない様子で頭を抱えていた。ちなみに二人の間のちゃぶ台には、話の合間にナキエルのいれたお茶
が湯気を浮かべている。エナはどうぞお構いなくと言ったのだが。
「…いや、そうは言っても俺は青龍殿に報告しただけだし、海賊騒ぎを調査したのも俺じゃなくて
アルマのとこだからなぁ」
「ええ、勿論龍王様とアルマ様にもカール様は十分なお礼をされています。ですが、ナキエル様の
ご助力なくばすべての解決はあり得なかったのですから、わたしを受け取る権利は十分おありかと」
「そ、そんなもんかなぁ」
金持ちのやることはわからん…と思いながら、ナキエルは本当に貰っていいものか真剣に悩んだ。
実のところ、彼には別に一人くらい増えても大丈夫なくらいの貯えがある。蒼拳士の任務と、普段
待機中にしているこまごまとした内職のおかげで、十分以上に余裕のある独身生活を送れている。
だからこそ「嫁さん欲しい」などと考えることもできるのだ。
…とはいえ、ヒト召使なんてものを侍らせるようなご身分かどうかと考えるとどうにも疑問だ。
「もしかして、ご迷惑でしょうか…?」
「ああいや、そんなことはまったくないんだけど……ううむ」
まだ悩んでいるナキエルを見て、エナは少し俯いて言った。
「…本当のことをお話しすると、実はこれリストラなんです」
「…え?」
「持ち直したとはいっても、いまだ火の車なのは事実なんです。ですから、労働力としてはさほど
期待できないわたしのようなヒト召使を手放すことで身を軽くしようという算段で…」
「な、なんだよそれ…」
「わたし、落ちてきたのは最近ですけど元の世界の記憶がないんです。だから、落ち物の知識等で
役立つこともできなくて……あ、家事全般は得意なんですよ。体が憶えてるのかもしれません」
強がるように微笑む姿に、ナキエルは戸惑いと憤りを感じたが、同時に仕方ないかもしれないと
考えた。無理ができない経営状態ならばそのような方針をとるのもやむなしかもしれない。
…それに、
「ですから、ここのほかに居場所はないんです…」
ヒト助けならば仕方がない。ナキエルの迷いは消えた。
「わかった、ここにいていいよ」
彼女を受け取る旨を伝えると、エナはぱっと表情を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ…とはいえ、結構不規則な生活してるから大変かもしれないけど」
「大丈夫です、きっとお役に立ちます!」
嬉しそうなエナを見て、ナキエルもまた嬉しく思っていた。
これできっと、もう寂しい食事をしなくてすむだろうから。