猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

ツキノワ05

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匿名ユーザー

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ツキノワ 第5話


5.熊とオトメのレボリューション



 他人の口の中の味を知りたいなんて思ったこともなかったのに、一度触れ合わせてしまったらもう止められなかった。
 砂漠で飢えた人が水を求めて砂を掘るみたいに、舌を絡めて、やわらかくて大きい、私の軽く3倍はあるだろうぶ厚いそれを夢中で啜り込む。

 熱くてとろとろのその奥、もっともっとその先にいるはずの彼をどうしても知りたかった。
 同じようにもっともっと、私の奥に来て欲しいと思った。
 そうしないと今すぐ死んでしまいそうな気さえした。
 
 なぜなら私は、粘膜での触れ合いがこんなに気持ちいいものだなんて知らなかったのだ。

 思いきり両腕を伸ばし、大きくてふわふわの頭を夢中で抱え込む。
 力いっぱい抱きしめたら、私の顔なんかほとんど彼の口の中におさまりそうだ。
 大きな口の上下にぞろりと生え揃った鋭い歯に挟まれても尚なりふり構わない私に、彼は喉の奥で獣じみた呻き声を上げている。

 ぞくぞくする。もう自分の意思では止められない。
 この熱い舌で顔中を舐めまわされて、息も出来なくなって、このまま窒息してしまいたい。
 それが駄目ならせめて、もっと乱暴にして欲しい。いっそこのまま噛み殺してくれたっていい。

 だってあなたは獣で、私はただのヒトなんだから。

 苦しげに息を吐きながら、彼は私の髪を掴んで引き剥がす。
 私たちの接触の深さを重たく粘った唾液が物語る。
 互いの舌で掻き回してたっぷりと空気を含み、糸ではなく玉になったそれが、素肌を晒した太腿の上に滴り落ちる。

 獣の手が、もうすっかり準備の整った私を押し倒した。

 私の脚の間はもう、口の中よりひどい状態になっている。大きく押し広げられて出来た傾斜を、唾液の玉がゆっくりと、なめくじのように這っていく。
 ゆるゆると中心に向かって垂れ落ちていくその軌跡を、どこからか吹いてくる風が冷やした。

 じれったく脚の付け根に到達したなめくじをぐしゃりと押しつぶすように熱い肉が押し当てられる。

 火のように熱く、なめらかで力強いそれは、侵入の前の潤いを求めてゆっくりと前後に動いた。
 その先端から滲み出たものと、私たちが舌の上で混ぜ合わせたもの。
 くちゅくちゅといやらしい音をたてて纏わりつく粘液の感触に、彼は目を細めている。

 私の口の中はもう乾きはじめていた。
 あれだけ唾液を交わしあったのに全然足りない。
 ねだるつもりでうすく唇をひらいた私を彼は全く無視し、押し広げた私の中心をこね回しながら凝視している。

 その視線さえ快感だ。
 私の肉体は狂喜していた。今やどの器官よりもたっぷりと濡れて、唯一彼の全てを飲み込める部分を、他ならぬ彼が、強く求めているということに。

 もう我慢ができない。彼の前後の動きがどうしようもなく妄想を掻き立てる。
 早く埋めて欲しい。私の一番奥にぶつけて欲しい。未知の感覚を味わいたい、味わわせてほしい。他でもない、あなたに。
 でももしそんなことを口に出したら軽蔑されてしまうかもしれない。
 乾いたのどの奥から出かかる言葉を、舌の裏から絞り出した唾液で何度も飲みこんでいる。

 幸運なことに、私がとうとう本当に我慢できなくなったのと、先端が隧道の入口に到達したのは同時だった。

 じっくりと、上下にこすられる。
 まるで性急に入れるのが惜しいとでもいうように。

 私はその動きに合わせてめちゃくちゃに息を吐く。
 横たわっているせいでぺしゃんこになった胸の奥が、押し当てられてじくじく疼く部分と同じ速度で拍を刻む。
 先端はツンと尖り、充血したせいで色が濃い。
 一度だって触れられてもいないくせに、私の身体は彼に対しては初めから敏感だ。
 たぶん出会った時から、既に。
 心も、体も、私の神経と細胞の全てが、彼に向っている。

 遂に、ぐ、ぐ…と、熱いピンポン玉を押しこめられるような感覚がきた。
 私はじきに痛みが襲ってくるのを待つ。反面、心待ちにしてさえいる。息を詰めて、縮こまりそうな身体をどうにか宥めている。
 
 早く。早く、早く、はやく突き破られたい。
 ひと息に突破してほしい。
 快感なんかなくたっていい、あなたに与えられるものが痛みしかないのなら、それだけを思うさま貪りたい。

 だって私が受け入れたいのはこの世でひとり、あなたしかいないのだから――。




  *  *  *




「…っぶふぁぁぁああああっっ!!!??」

 ぐわばーっ! と上半身を起こして私は覚醒した。
 なんかそういうバネ仕掛けの人形みたいに反動でびよよよ~~んと揺れながら、人生でこれほどうまく腹筋を使えた試しもないなと、ここだけ妙に冷静に思った。

(ゆ、…夢オチ…?)

 もちろん私が人形だったらこんなに心臓がバクバクすることはないのだ。全身もなんかズクズクいってるし。こめかみとか両腕とか…なんか、と、とにかく色んなとこが。
 あー、考えてみたら血管って普段は存在すら忘れられてるのに一日も休まず全身に血液を行きわたらせてくれてるんダヨネー。
 自律神経さんアリガトネー。生命って神秘ネー。生きてるって素晴らしいネー!

(ていうかなんなのこの淫夢ゥゥゥゥ!!!?)

 とうとう耐えきれずに頭を抱えて再び倒れ込み、エビみたいにびちびち身悶えた。
 背中で草がすり潰されてなんか青臭いけどそんなのに構ってられない。眠気はきれいに吹き飛んで、そのかわり夢の記憶が全身を未だ重く包み込んでいる。
 やけにリアルな感触、リアルな感動、リアルな…ぎょえーーーー!!

「…おい…大丈夫か?」
「ぶぇっひょう!?」
「何だその奇声」

 ムチウチになりそうな勢いで首を横に振り向けると、横に座っていたウルさんが私の顔を覗き込んでいる。
 膝の骨が砕けそうな勢いで両足を閉じ、乱れ放題の髪を手ぐしで直しながら、…気づかれないようについた深い溜息で体内の熱を逃がした。
 後ろめたさと恥ずかしさで心臓をばくばくさせている私に気付いてないらしい。
 ウルさんは気が抜けたように息をついた。

「あー、とりあえず目ぇ覚めて良かったわー。結構な時間経ってっから心配したんだぜー」
「え、うわ、ほんとに? すいません心配かけちゃって…って、あれえ??」

 ふと違和感を覚え、あたりを見回した。
 川沿いの野原。深緑の森。透き通るような青空。
 のどかな小鳥の歌声と淀みない水の旋律、そしてこぢんまりと佇む木造の小屋。
 さっきまでの大騒動がまるで嘘か幻だったかのような、平和と静寂を絵に描いたような風景が広がっている。

「ていうか、あれ? なんで!?」

 私の記憶が確かで、夢でも幻でもないんなら、ここら辺一帯はあのネコ娘に焼き払われたはずじゃなかったっけか?
 あの小屋も、山の一部も、私が眠りこけていたこの草の絨毯も、綺麗な円状に焼け爛れていたはずだ。
 なのに全部元通りになってる。…始めから何事もなかったみたいに。

「ああ、そっか驚くよな。戻ってっから」
「…はあ」
「この辺はさ、まあ言うなれば聖域ってやつで、脅威が去ったら自然にこの姿に戻る。…どんだけ破壊し尽くされたとしても、絶対」
「へえー、すごーい!」

 便利ですねと言いかけて、傍らに胡坐をかいて座ったウルさんの顔を見上げる。
 熊顔の表情はまだよく判別出来ない。でも私が想像しているほど気楽な状況ではないのだということは、ウルさんがその大きな体躯から醸し出す雰囲気でなんとなく理解できた。
 …『戻した』のは、ウルさんの力なんだろうか?
 だとしたら体力の消費が激しい作業だったりするのかもしれない。
 今のウルさんはどこか疲労感を漂わせていて、侵入者たちに対して見せた圧倒的な力が感じられなかった。

「あー…その、具合はどうだ?」
「え!? あ、は、ええ、はい」
「どこも何ともねっか。ここが痛ぇとか、まだ気持ワリィとか…」

 そう言いながら大きな手で後頭部をガシガシ掻いている。
 私と目を合わせたくないのか、膝頭を握りしめた自分の手を凝視し、言い難そうに何度か口を開け閉めした後、

「つーか…気持悪ぃのは、仕方ねえよな、うん」
「え?」
「申し訳なかった」

 そう言って、深々と頭を下げた。
 私はただ唖然としている。お詫びの意味が本気でわからなかったのだ。

「えー、えーと、あの、なんで謝るんです?」
「本当に悪かった。あー…なんつったっけこういうの、おめぇさんらの世界の言い方で…「犬に噛まれたとでも思え」だっけか…」
「いやいや何をおっしゃいますやら」だいたいクマでしょうウルさんは、と笑いながら言いかけたその瞬間、ものすごい勢いで記憶が巻き戻った。


 何故今まで寝ていたのか。→ネコ野郎の置き土産(毒ガスっぽい何か)を食らった。
 どうなったか。→猛烈にゲロりそうになった。
 どう対処したか。→オトメの意地で我慢。
 結果、どうなったか。→無理やり薬を飲まされた。
 だれがそうしたか。→ウルさん。
 どのように。→口うつ(略)


「あぎゃーーー!!!!?」
「うぉ!?」
「あああああ!! すいませんすいませんすいません!!!」

 全てを思い出した私は2mほど飛びすさり、文字通りのジャンピング土下座をかました。
 それだけでは気が済まず、両腕と両足を真っ直ぐ伸ばした状態で平伏する。
 土下寝とでもいうのかこれは。とにかくこれ以上の謝罪のポーズを私は知らない。最大限ソーリー、マキシマム謝罪、MAXごめんなさい! の気持ちを表そうとしたら自然とこうなったわけで。

「ちょ、ちょっと待てって! なんでおめぇさんが謝る!?」

 ウルさんが慌てたようすで私の肩を掴み、引き起こそうとした。
 う、うわあああああ手が大きい! あったかい! でも顔が見られない! 恥ずかしい! ぎゃーーー!!

「だ、だって私ウルさんに、その…」

 そうなのでした。
 わたくし、ウルさんと、ち、チ、チッス(小声)しちゃったんでした。

 こんな大事なことを忘れてたわけでは断じてない。さらに強烈な夢を見てしまったせいで、恥ずかしさが上書きされてしまっただけなのだ。
 ひいっ! 私ったら嫁入り前の娘だというのになんというふしだらな夢を! あ、穴があったら入りたい!
 …あ、違うか。入れられたのか私は。じゃなくてーーーー!!

「いやいやいや待て待て、こーいう時あやまんのはフツー俺のほうだろが!」
「ええ!? なんでぇ!?」
「なんでっておめぇさんは女のコだしよ、…ヤだろ、その、好きでもねぇ男に…」
『何をおっしゃいますか勿体ない! むしろごちそうさまですよ!!』
 
 ――と、最後の台詞は口に出す前に何とか呑みこんだ。
 グッジョブ理性…いくらウルさんと言えどもさすがにこれは引くだろ常識的に考えて…(本気なだけに)。しかもどさくさに紛れてタメ口きいてるし。
 ともかく、ウルさんには早急に気に病む必要はない旨お伝えする必要がある。焦った私はよく考えずに言った。

「そんなことないですよぉ、むしろ初めてのイイ思い出になりましたって!」
「…あ?」
「いやーこれはまさに一生忘れられない超インパク…え?」

 ウルさんの、変化がわからないはずの熊の顔が、明らかに唖然とした表情で固まっている。

 …あれ。なんか変なこと言ったっけ。
 だって一日に二度も三度も死にかけて、ふ、ファーストチッス(小声)が薬の口うつしだなんて完全に笑い話でしょうよ。

 幸いなのは相手が異種族とはいえ大変素敵な男性であり、ぶっちゃけほとんど惚れちゃってるということだ。
 女子にとってはそれだけが重要なのであって、言ってしまえば他はどうでもいい。
 そりゃあ高級ホテルの最上階の一室で夜景を見ながらとか、可能であるならそれに越したことはないけど。
 何しろここは異世界で、相手が人じゃなくてクマである以上、この期に及んで贅沢こいてる奴はアホでしょう。
 そう。これはハプニングなのだ! そしてラッキーなのだ!! イヤッフゥー!!

「初めてって…」
「はい? え?」
「なっ…そ…ええええええええ!?」

 握った拳を突き上げんばかりの勢いでポジティブに持っていった私に対し、ウルさんは心底驚いた様子で絶叫した。
 …あ、それでしたか問題は。
 確かに初モノってのは男性からしてみればビビる話でしょうけども、そんなに驚くようなことですかね。まあ私くらいのトシでまだってのはそりゃあ遅いといえるのかもしれないですが…。

「ちょ、ちょっと待てや! おめぇさん彼氏いたんじゃなかったのかよ!」
「いましたけどねー…残念ながらまだそこまで及んでなかったんですよねぇヤツとは」

 そうなのだ。例の腹筋野郎とは一ヶ月続いたものの、結局ABCのいずれにも至らなかった。…この表現も大概古いが。
 もっとも奴のほうは交際決定の段階で既に引くほど戦闘準備万端だったんだけど、進展しなかったのはひとえに私が頑固に拒み続けていたせいだったりする。

 …ハハッ。つまりワタクシぶっちゃけ処女と書いてオトメですが何か?
 今年めでたくヤラハタ(ヤラずのハタチ)を迎えましたが何か!!?
 昨今の性の低年齢化に歯止めをかける貴重な存在ですが何かァァァァ!!???

 …あれ…なんだろう…この目から出てくるしょっぱい水は…。
 うん…鼻水の逆流よね…涙なんかじゃないよね…私頑張ったよね…?
 っていうかヤラハタって表現もう古いのか。そもそもこれって男子限定だっけ? 女子にも適用されんの?

「まあねえ、そりゃフラれますよねえー。お年頃の殿方に手も繋がせないとか今考えたらあり得ないですもん。ハハハ」

 オクテなのは仕方ないのです、ワタクシ乙女座A型ですけん!!
 …いや全く関係ないけど。

「…いいのかよ。だってその…そんくらい大切にしてたんだろ、女の子にしてみりゃ初めてってのは大事だって聞くし…」
「大切にしてたといえばそうなんですけどね。でも実際、相手がウルさんで良かったなあって」
「その発想がわからん…」
「そうですかね? だってウルさんは優しいですもん」
「…なんでよ?」
「だって一言も『薬を飲ませるためには仕方がなかった』って言わないじゃないですか」

 例え本当の事だったとしても、それを言われてしまったらさすがの私も傷付かない自信ないなー。
 かといってノリノリだったらいいかといえばそうじゃないし、オトメ心は複雑怪奇ってね。
 やっぱウルさんってその辺のさじ加減が絶妙だよなあ。
 …あ。優しけりゃ誰でもチッス(小声)してもいいわけじゃないんだけど、その辺ちゃんと伝わってんのかな。今更ちょっと心配になってきた。

「いや、だってよ…俺は…」
「え?」
「…や、何でもねぇけど。…おめぇさんも赤くなんなやぁ…」
「え、えへ。うへへへ」

 たとえ真っ赤になってる顔をモロに見られてしまったとしても、照れ笑いでごまかす。
 これ、乙女の力技。
 うわあ…それにしてもなんだろ、この甘酸っぱい感じ。むずむずする。つい数時間前に「可愛い」と言われた時のそれよりずっと強い。太股をぎゅっと閉じ合わせていないと、なんだかヘンな気持ちになりそう。

 …まあ、既にね。ぶっちゃけ、ちょっと…なんていうんですかね。
 あのー、…お、おパンチー(小声)の方がですねえ。
 湿っちゃったりなんかしちゃってたり、するんですよねぇー。

 し…しょうがないでしょうよあんな夢見たら! 私だってお年頃の成人女性なんですよ!!
 一人で盛り上がっている私の脳内を知ってか知らずか、苦笑いめいた呼気を吐いて、ウルさんが立ちあがった。

「あー…悪いけどよ、…ちょっと一緒に来てくんねぇか」

 そう言って私の腕を引いて立たせてくれる。その手の大きさに私は性懲りもなく感動せずにいられなかった。
 肉球の硬くて乾いた感触が手のひらに、いつまでも残った。



  *  *  *



 少し湿った土と草花の匂いを嗅ぎながら、私とウルさんは今、山道を登っている。

「だいじょぶか、キツくねっか?」
「やー全然平気ですねえ。…うわあ、あの花キレイですよウルさん、あれあれ」
「どれだ? あの黄色いのか」
「そうです。うわー、近くで見たいなあ」

 傾斜は緩やかで歩きやすいし、ときおり吹いてくるそよ風は涼しくて快適。
 腐葉土からぼこぼこ飛び出ている木の根っこに躓きそうになりながら、木漏れ日と葉擦れの音、鳥や虫の声に耳を傾けながら歩くのは楽しいものだと、初めて私は感じている。

「もっと見やすいとこに咲いてる場所あんじゃねっか。あっこまで行くのは駄目だぞ、滑って落ちっかんな」
「了解です隊長!」

 周囲の木のほとんどはみんな幹がまっすぐで、てっぺんがどこかわからないほど背が高く、見上げていると首が痛くなる。
 まさに原生林って感じ。
 こちらでは見慣れない色合いの花が唐突に咲いていたり、びっくりするぐらい大きなきのこ群が道を塞いでいたりして、その度いちいち驚く私にウルさんは丁寧に答えてくれていた。

「ウルさん、あのちょっと変わった木になってる実は?」

 まるでものすごく大きな鉛筆をずらっと立てたみたいな木々の間に、ちょうど私の背ぐらいの高さでやたらぐねぐねした枝の木が生えていた。
 その枝々には実がぎっしり生って、重たげに撓っている。…熟すまで折れずにもつのか心配になるぐらいだ。

「あー、あの赤いやつな? あれはもーちっとばかり待たないとダメだなあ」
「美味しいですか?」
「美味いよ、やわらかくて甘くてな。この時期は採りだめしてジャムにしとくんだけど、冬の間にすっかり食っちまってもう無いんだわ。熟したら食おうな」
「楽しみだなあー。…あ、ウルさんこの草は? 山菜ですか?」
「食ってみ。すんげー苦ぇぞ」
「灰汁抜きしても食べられない感じですかね?」
「食えんこたぁねっけどさ、おめぇさん食に命かけてんなぁ」

 うっ。毎日近所の森林公園(歩いて行ける距離に山がなかった)に入って食べられそうな草やきのこを血眼で漁ってた小・中学生時代のクセが…。
 まあいわゆる黒歴史ですよね。飽食の時代に細々と雑草かじって生きてたなんて自慢にもなりゃしませんぜ…。
 でも、どんなにひもじくても農家の畑に侵入することだけはしなかった! それは褒められていいと思う!!

「まあ毒じゃねっけど、無理して食わなきゃならん事ねぇよ。他に美味いもんはいっぱいある。楽しみにしときな」
「ですよねー。うへへ、期待しておこうっと」
「それよりおめぇさんよ、ツラくなったらすぐ言えよ? おぶってやっから」
「いやいやいや、大丈夫ですってぇ、余裕ですよー」

 もちろん即刻にゃんまげのごとくその背中に飛びつきたい気持ちがないわけではない、が。
 オトメの願望を『自立したオトナの女性』的理性で抑えつけながら(ええい、それにしてもなんて魅力的なんだ!)、へらへらと答えた。
 実際この散策デートがいくら楽しかろうが、昨日までデスクワーク中心の仕事をしていた私だ。そろそろ脚のほうも限界に近い。
 いやいや、ビリー隊長と一緒にやるアレに比べればずっと楽しいプログラムに違いないあるまいよ。一度もやる事がないままに、もうアレは既に過去の遺物と化している気がするけど。

「や、だっておめぇさんさっき倒れたばっかで…って、じゃあこんなとこ連れてくんなよって話だけども」
「ほんとにもう全然平気ですよー。…ウルさん、両手ふさがってるし…」

 ウルさんは、黒い毛皮を2枚抱えていた。
 ネコ魔法使いたちが残して行った、あの着ぐるみだ。

 ――私はその正体に、というよりそれが『何』であるか、さすがにもう察している。

 あのネコどもとウルさんとの会話から察しただけであって、定かではない。
 ないにしろ、何食わぬ顔でウルさんに、これは何ですか? なんて訊くようなことはしたくなかった。
 予想が当たっているならそれはあまりにも残酷だ。
 でも、わざと気付かないふりではしゃいでみせる私の馬鹿で見え透いた思惑に、ウルさんはとっくに気付いていたのだろう。

「あのさ。…こいつらはな、親子なんだよ」

 『こいつら』というのが何なのか、すぐにはわからなかった。
 咄嗟に言葉が出てこなくて、私は歩みを止めずに沈黙する。足元の腐葉土を踏む自分の靴先だけを追って。
 ウルさんも足取りを私に合わせてくれながら、ゆっくりと話しはじめた。
 まるで世間話をするように。なつかしそうに目を細めて。
 

   *


 こいつ、このでっかい方な。ベッカっていう。
 6人の子供の父親だった。
 トマリって男の子が一番上で…人懐っこい子だったからな、皆にトマって呼ばれて可愛がられてた。
 チップは末っ子だった。まあ、普通に仲の良い家族だったと思う。

 …どんくらい前だったかね。
 ベッカが突然俺んとこ来てさ、藪から棒に「外の世界を見てみたい」って言うのさ。
 俺はツキノワっていう立場上、いちおう反対はしたけど、どーーーーしてもっつってきかない。

 なんでだってよくよく話聞いたら、「かーちゃんと喧嘩したからしばらく顔を合わせたくない」とかいう理由なわけ。

 ざけんな、そんなんでホイホイ外の世界に出してんなら結界の意味ねーわっつって追い返した。
 したら、何日か経って息子を2人連れてきてよ。
 どこで知恵つけたんだか、「こいつらに一度外国旅行させたい、見識を広げてやりたい」とか、もっともらしいこと言うわけ。
 あいつそんなシャレた言い訳考え付くようなやつじゃねんだよ。たぶん誰かに入れ知恵されたんだろうなあ。
 だから俺もめんどくさくなって、「かみさんと仲直りすんなら許可してやる」って言ってやった。

 そん時のあいつの顔、今思い出してもちょっと笑える。

 元がかみさんとの喧嘩にあったから、そう言や諦めるかと思ったんだ。
 したら、なーんかあいつも変にムキになって、次の日ほんとにかみさんと仲直りしてきやがってな。
 呆れることに喧嘩の原因はベッカのほうだったらしい。他の女にちょっかいかけただかなんだかでよ、平謝りに平謝りでなんとかお許しを貰ったんだと。…馬鹿馬鹿しい、ごちそうさまってんだ。
 じゃあもういんじゃねえか、顔合わせたくねぇ理由もなくなったろっつっても、「いや、男に二言はない」とか言って譲らねえ。
 ほんとめんどくせぇ野郎だったよ、あいつは。


 言ったよな、『結界はクマのためのものだ』ってよ。
 俺は危険であることを言い含める立場であって、「絶対に通さない」っていう鉄壁の門番じゃねんだ。だからちゃんとした理由があったり、ある程度まで粘られたら、最終的には折れるしかない。
 あとはそれぞれの自己責任っていうハナシになってくる。

 おめぇさん、タヌキって知ってるか?
 …そう、そっちにもいるっていう、あのタヌキだよ。

 俺らクマはさ、耳だけ見ればタヌキと似てるらしいんだ。
 だから外に出るクマたちはみんな縞のしっぽをつけて、タヌキに偽装する。男は目の周りに模様も描く。けっこうマメにやらなきゃならん作業で、無精もんにはかなりキツい。
 でもなあ、ベッカは無精を絵に描いたようなやつだからな、最初は用心してたってすぐに気が抜けて、油断してヘマするに違いねんだ。
 だから俺はヤツに、1週間っていう期限を与えた。
 嫁さんとも話し合った結果、ヤツの忍耐が続くのはそんくらいだろうっつってな。

 息子2人もまだ小さかった。上のトマリが12くらい、下のチップが4つぐらいか、まだまだ母ちゃんが恋しい年頃だった。そんな長ぇこと、あのベッカに面倒みきれるわけがねえ。
 多分、あの子らは外の世界になんかまだ興味なかった。
 でも父ちゃんが珍しいとこに遊びに連れてってやるからってんで、出発ん時すげえはしゃいでた。

 …それ思いだすと、ちょっとこのへん、痛くなるな。

 で、どうなったかは、おめぇさんもだいたいわかるだろ。
 ベッカとトマとチップは一週間どころか、1年、2年、…5年、10年、…ずーっと帰ってこなかった。
 もうどんくらい前のことか、誰も正確には思いだせねぇと思う。


 憶えてるか、さっき読んでもらった昔話の「ウル姫」のこと。

 もうわかってるだろうが、俺たちクマは、本当にあの姫の末裔だ。
 だから彼女の血をひく俺たちクマの毛皮には、どんな剣もどんな魔法も効かない。
 ありとあらゆる全ての攻撃を防ぐように出来てる。
 さっき俺がネコ野郎の魔法食らってなんともなかったのも、そういう理由なんだ。

 しかも悪い事にその効能は死んだあとも有効と来てる。
 まさに『無敵の鎧』ってやつさ。
 …そんな便利なもんに、大陸の商人や魔法使いが目をつけねぇわけないよな?

 
 これがクマの国に結界が必要な理由だ。
 クマの国を探し出して、俺たちを狩ろうとする奴らからこの国を守ること。

 
 その頼みの綱の結界もなあ、『クマのためのもの』に徹してて、融通がきかねぇとこあんだよな。
 つまり『クマであると判断した人間』を何の疑いもなく通しちまうんだ。

 正確に言えば、『クマの毛皮を着ている人間』を、結界は誰でも『クマ』だと認識してしまう。

 でも、さすがにつくりものの張りぼてや着ぐるみなんかじゃ無理だ。あのネコたちはそれを知ってた。
 だから今回は『本物』で来た。
 もしかしたら…ベッカから聞き出したのかもしれねえな。

 『ツキノワ』の役目は多い。
 もうひとつは、その結界のへまを正すことだ。結界が誤認識して通してしまったイレギュラーを排除する。
 落ちモノ・落ちヒトの管理は日常の仕事、こっちは非常時って感じだな。

 とにかくベッカたちは何かのきっかけで擬態を見破られて捕まった。
 そして、皮を剥がされた。
 あのネコどもが絶対的に身を守るために、そしてクマの国に侵入するために、クマの毛皮を必要としたからだ。

 奴らはクマを根絶やしにして、毛皮を奪って、『無敵の鎧』として売りさばこうとでもしたんだろう。…大陸じゃとんでもねぇ高値だろうからな。
 さっきの話を聞いてりゃ、ウチにいるヒトたちも連れて行こうとしてた。
 …下種野郎だ。

 トマリとチップもな。…出てった時より成長してたから…捕まってしばらくは生きてたんだろうな。
 どうやってなのかは、想像したくもねぇが。

 ベッカの嫁さんはまだ生きてる。
 ただ、すっかりばーさんになっちゃってな、弱って目も見えなくなって、ちょっとボケも来始めてんな。
 だからもう、だんなを待ってもいねぇだろう。
 …あんなに仲が良かったのに。

 残った4人の子供はみんな女の子で、それぞれ独立して、嫁にいって、子供産んで育ててる。
 下手すりゃ、その子がまた子供生んでたりもする。
 てことはその子はベッカの孫かあ…もうそんな事になってんのか。

 ――そんぐらい、長い時間が経ったってことなんだなあ。


  *


「…ウルさん」
「うん?」

 しみじみとしたウルさんの声音を聞きながら、私は何と言っていいのか考えあぐねていた。
 同情も共感もクマの人たちは必要としないだろう。クマの国では『結界』を出るも出ないも個人の自由であり、最終的には自己責任であると、ウルさんはそう言ったのだ。
 だからこのベッカさんの顛末は、どのような経緯があって捕まったにしろ、彼自身が招いたことだ。
 幼い息子さんたちを悲劇に巻き込んでしまったのも含めて。

「ウルさんが…『ツキノワ』がいることを知らなかったのが、アイツらの敗因でしたね」
「…まあ、な」

 常識的かつ冷静な判断は置いておこう。
 過去は取り返しがつかないし、何をどう考えようと、この親子が生き返るわけではないのだ。
 それにしてもあのネコどもが彼らにしたことは非道だし、極悪だ。絶対に許せない。
 何なら同じ目に遭わせてやっても良かったくらいじゃないだろうか。記憶を消して川に流してやるだけじゃ生ぬるくなかったろうか?

 ――わかってんだろ、クマはボクらを殺せないんだよ!
 ――なんたってクマは人間を殺せないからな、そうだろう?

 あれ。…そういえば、そんなことを言っていたっけ。
 何故だろう。クマが『無敵』だからこその制限なんだろうか。彼らが本気で世界征服を企んだりしたら、再び神話のクマ帝国が出来かねないから?
 

「お。そら、頂上だぞ」

 そう言われてからものの数歩で、突然視界が開けた。
 今まで梢に遮られていた太陽をまともに浴びて目が眩んだ。閉じた瞼を通してもなお強い光。
 木陰から出てすぐ手でひさしを作り、目を細め、私はぐるりとあたり一帯を見回してみる。

 ――荒涼。

 真っ先に頭に浮かんだのはそんな言葉だ。
 頂上と言われたそこにはほんとうに何も無かった。
 あるのは半径20mぐらいのほぼ真円状に切り開かれた、まっさらな黒土の地面だけ。
 雑草の一本も生えず、小石のひとつも落ちていない。それどころか完全なる無風状態でもあった。こんなに高い山の上で普通、強い風に煽られないなんてことがあるだろうか。

「ウルさん…ここがてっぺんですか?」
「そうだよ。お疲れさん」

 例えるなら円錐形の土の山があるとして、先の尖った部分を水平にすぱっと切り取った、その切り口といった感じだ。
 視線を遠くに合わせれば、眼下に見渡す限り深緑の山々が広がっている。
 どうやら私たちの今立っている場所が一番の高所らしい。

 徐々に日差しの強さにも慣れてきて、抜けるような青空の下、改めて周囲をうかがうと、目下に起伏に富んだ小ぶりな山々(それでも充分な標高なんだろけど)が広がっている。
 そのまた向こう側は濃い乳白色の霧に覆われて、なんにも見えない。

 霧。

 ――じゃあ、あれが『結界』というものだろうか。
 あの向こうには海があって、あの川の水が流れ込んでいるのかもしれない。その向こうにクマの国が切り離されたという大陸が広がっているのか。
 それとも、私が住んでいた世界が見えるのだろうか。
 良い思い出なんてなにひとつない、あの街が。

「…いつのまにこんな高いとこまで登ってきたんでしょうね。全然そんな感じしなかったのに」
「いやー今登って来たのは近道だからな。相当短縮されてっぞ」
「あ、やっぱり」
「バカ正直に登ってったとしたら丸1日かかるわ、こんなクソ高ぇとこ」

 …確かに。かなり長い距離を歩いてきた気はするけど、それでも20分にも満たないぐらいだ。
 疲れた気がするのはひとえに私が登山未経験者であり、運動不足も甚だしいからであって、こんなところまで登って来られる充分な時間では決してなかった。

「それも、魔法で?」
「俺のじゃねっけどな。――俺のは、今これからやるヤツ」

 律儀に私の質問に答えてくれながら、ウルさんは持って来た毛皮をそっと、円の中心あたりに並べて置いた。
 私は成り行きを見届けることにして、数歩下がった。
 肩越しに私を振り返ったウルさんはちょっと頷いてみせ、ふたたび前に向き直り、並べた毛皮の前で直立不動になった。


「――汝『ベッカ』。黄泉路に迷いし魂よ、ここへ」

 低く発された呼び声に反応して、左側の毛皮がぶるっと動いた。
 ウルさんが手のひらを下にして差し伸べると、すうっと吸い寄せられるように浮き上がる。

「汝『トマリ』。道に惑いて泣き暮れし子よ、ここへ」

 右側の毛皮も同じだった。差し出された片方の手に誘われるようにして1mくらい浮き、そこで止まった。
 並んで空中に静止している毛皮は、左のほうが若干大きい。
 …たぶんそれが、お父さん。ベッカさんだ。

「並びに来たれ、『チップ』。哀れな命を運びし舟、汝が働きに感謝する」

 ウルさんが顎を少し上げ、何もない空間にむかって言った。
 するとぐにゃりとそこの景色の一部が歪み、洗面器ぐらいの大きさの渦が現れる。  あのネコたちがやって来た時と同じ現象だ。空の蒼を巻き込んで回転するマーブル模様のまん中から、ずるずると音もなく這い出て来る黒いかたまり。
 …きっとあれは3番目だ。
 一番小柄で、自分から進んで川に飛び込んだあいつの着ていたこれが、末の子の。

「子らよ、最早案ずるなかれ。――月の子ウルが此処に在り。
 土こそ我が身、我らが母。我ら一族、土より出でて水に生かされ、炎を恐れ風に遊び、死してまた土に還るが定め」

 朗々と紡がれるウルさんの口上。それにつれて、3つ並んだ毛皮の色が変わっていく。
 まるで内側から火を点されたみたいだ。
 熱した鉄の色によく似た、透き通るような緋の色。

「故に子らよ、今は眠れ。我らの生まれしこの地にて、時の間に間に夢を見よ。
 汝ら再び生まれ来るその日の夢を…」

 真っ赤に焼けたような色は全体に広がって、遂には内側から本物の炎を噴き上げた。
 ぼうっ! と背筋の凍るような激しい音をたて、勢いよく燃え上がったあと、見る間に縮んで黒い灰になり、ぼろぼろと地面に崩れ落ちていく。

「子らよ、努々忘れるな。――月の子ウルが確と導く。安んじて眠れ、良き夢を…」

 そのやさしい声音を聞き届けたのかどうか。無残な塵と化したそれらはあっというまにウルさんの足元の黒土に融合していった。
 文字通り、融けるように。
 踏み固められたような固く冷たい、『クマ』の毛色と同じ大地へと。

「死せるものは山へ、生くるものは川へ。――これが俺たちクマの、最期だ」

 その台詞が儀式のそれではなく、私に向けられていた事に、しばらく気付けなかった。



  *  *  *



 ウルさんはこれ以上ここにいる理由もないとばかり、「じゃ行くか」とさらりと告げて、足早に山道に入っていく。

「あ、ちょっと待っ…!」

 慌てて後を追って、再び木立の中に飛び込んだ――んだけど。
 そこに広がっていた光景に、私は思わず立ちすくんで声を上げた。

「…ええー!?」

 なんとそこはもう、あの川べりの野原だったのだ。
 何度か瞬きしたり目をこすってみたりしても変わらないところを見ると、あの山の頂上から一気にワープしたらしい。

「あの山はなあ、頂上に行くまでが儀式なんだよ。終わったらとっとと帰れって、吐き出されんの」
「…誰に?」
「山にだよ」

 数歩先でこちらを見ていたウルさんが、笑い含みの口調で言った。
 な…なんというどこでもドア…。

「え、でも行きはちゃんと歩いて登りましたよね?」
「ああ。クマの葬式ってのはさ、本当はこんなさびしいもんじゃねぇんだ。里の皆で棺桶担いで、楽しくわいわい登ってくもんなんだよ。あれはそのために造られた道なわけ」
「はあ…」
「つーかあの道通らないで頂上に行こうと思ったって無理なように出来てんだわ。山に閉じ込められて、永遠に出られなくなるぜ。気をつけれよ?」
「…気をつけます、ほんと、ハイ」

 こわっ。樹海か!
 でもまあ、食べるものには困らなさそうだけど。食糧の宝庫だったし、私なら普通に生きていけそうな気がする。

「ってかさっきから気になってたんだけども」
「はい?」
「おめぇさん、ここんとこ焦げてんぞ、髪」
「ええ!?」

 黒い厚い毛に覆われた手が伸びてきて、顔の横に垂れた髪の一筋を掬った。
 耳の端がヒリヒリと痛んで、あ、そういえば火傷してたんだっけ…と思いだしたその時、頬に少し冷たい獣毛がごく軽く触れて、離れた。

「…だーから…赤くなんなやー」
「あー、ははは。いやーちょっとこれは酷いですねえー」

 恥ずかしさをごまかすために毛先を摘み、ことさら明るい口調で言った。
 焦げてしまったのは、恐らくネコ娘の繰り出した火球からウルさんが守ってくれたとき、開いた隙間から流れ込んだ熱風のせいだろう。耳の火傷は今でも少し痛い。
 ドライヤーをあてすぎると髪はチリチリになるが、このひどさは度を越している。まるで針金を折ったように細かくカクカクになり、色も変わっていた。

「ヒトの髪って直るっけか?」
「無理でしょうねえ。切るしかないです、バッサリ」
「どのくらいさ」
「うーん。…肩のあたりですかね、バランスを考えると」
「勿体ねえな。折角ここまで伸ばしたんだろ?」

 私の髪は長い。後ろに流すとちょうど肩甲骨を覆うぐらいまである。
 でも全く未練はなかった。何となく切らずにいたら伸びていただけであって、ロングヘアに拘りがあるとか、願をかけていたとかいうわけではないのだ。
 …まあ、あの腹筋男の好みがロングヘアの女って言ってたせいもあるんだけどね…。それを考えたらなおさら切りたくなってくるじゃないか。

「あっちでは失恋したら髪を切るっていうのがひとつの様式美なんですよ。ハサミあったら貸してもら」

 ――えませんか、と続けようとして、私はふと違和感に気付いた。
 ウルさんの頭のてっぺん。黒い毛に覆われたなだらかな丘の両端にある耳の、ちょうど真ん中。

「あの、ウルさん…」
「んん?」
「付かぬことをお聞きしますけど。…痛くないですか、頭」
「いんや別に? なんで?」
「…刺さってますよ。…ハサミ…」
「ああ?」

 ウルさんは上目づかいになって顎を上げた。
 でももちろんそれでは頭上は見えない。私はおそるおそる手を伸ばし、その違和感のかたまりの先端を掴んだ。
 それは予想通り何のへんてつもない「ハサミ」の持ち手部分で、刺さっていたら相当、絶対、痛い。
 …と思ったけど、話を聞いてのとおりウルさんは天下無敵の『クマ』だ。何しろその毛皮はどんな攻撃も受け付けないのだから大丈夫だろうと思い、特に躊躇もなく引きぬいた――んだけど。

「ぃいってぇええええええ~~~~!?」

 その途端、ウルさんは絶叫を上げ、倒れ込んで悶絶した。
 転げまわる巨体の下で引きちぎれた草が乱舞し、足元が揺れる。ハサミを握りしめたまま私はうろたえた。

「なんでぇ!? ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! ウルさん大丈夫ですか!?」
「くおぉ~~~…痛ぇ…こんな痛ぇ目に遭ったのは久しぶりだぜ…」

 おめぇふざけんなよ! ぐらい激怒されると思って涙目だったんだけど、起き上がったウルさんはまるで怒った様子もなく、むしろ「やるなお主」みたいな風情で笑っている。
 …どんだけ寛容なんだこの人。

「いやあの、血、血とか出てませんか!?」
「ん? やーだいじょぶだ、もう痛みはねぇよ。俺傷治んの早ぇっからもう塞がってんじゃねーか?」
「そ、そんな馬鹿な」

 座り込んだウルさんの頭の上(それでも私の背と同じくらいある)をおそるおそる覗き込み、遠慮がちに毛をかきわけて地肌を見てみた。
 かすかに裂け目みたいな、米粒っぽい形の傷跡がある。赤黒く変色したそれは、だけど私が見ているあいだにみるみる色が薄まっていき、半透明になり、遂にはほとんど見えなくなった。
 …す、すごい。さすが『クマ』、無敵の生物…。

「な、もう治ってんだろ」
「あうう…でも本当ごめんなさい! せめて訊いてから抜くべきでした!」
「いやいや。どーせ痛い思いすんのはわかりきってんだから、とっとと抜いてくれて良かったわ。ありがとな」

 私はあいまいに笑ってごまかした。たとえウルさんが本当にそう思ってくれていたとしても、額面通りに受け止めてはいけない。
 …いや、ほんと反省しよう。この早合点はマジで良くないぞ、私。
 それにしても抜くべきとか抜いてくれとか、なんだこの会話。

「でも、なんでです? クマの毛皮はどんな攻撃も通さない無敵の…」
「あー、クマが無敵なのはさぁ。『こっちの世界のもの』限定なんだよ」
「ええ?」
「つまり、異世界のモノに対しては歯が立たないわけ。おめぇさんらの世界の刃物とか武器とかな。そういうモンで攻撃されたら、クマでも死ぬ」

 えええ…そうだったのか…。
 なーんか納得がいくような、いかないような。
 というより、それに関して何か引っかかるものがあるんだけど、ちょっと今はそれの正体がわからない。なんとなくもやもやした感じがみぞおちのあたりに溜まっている。
 …ていうか、なんで刺さった時は痛みを感じなかったんですかウルさん。

「それにしてもこれ…やっぱり『落ちモノ』なんですか?」
「だな。今までも何個か落ちてきたぜ、これ『ハサミ』ってんだろ?」
「はい。薄いものとか細いものを切るのに使ってるんですけど…こっちでも活用されてます?」
「されてんな。俺は潰れやすい木の実を収穫するとき、小枝ごと伐るのに使ってるぜ」

 ハサミにもいろいろあるんだけどなあ。まさか工作バサミで伐ったりしてないよね。すぐダメになっちゃいますよ。
 …しかしすごいタイミングだ。今私が持ってるハサミ、これ美容室とかで使ってるやつだよ。細身で尖ってて銀色のやつ。失くした人、困ってんじゃないかなあ。
 なんか、ここに来て俄然、運が上がって来たような気がする。
 私は勢いづいて、刃の部分を持ってウルさんに差し出した。

「じゃあ、おねがいします!」
「お願いしますって、切んの俺かよ!?」
「ええ。自分じゃ切れませんから。…ええと、このあたりでバッサリいってください、バッサリと」

 まあ、自分でも出来ないことはないんだけど。どうせならホラ、やってもらいたいわけですよ!
 しかしこのトシにもなってこんな些細な接触で満足しているあたり、私って本当、ネンネだよなあ…。とほほほ。

「…まあ、おめぇさんはヒトだからいっか」

 何回か首を左右に傾けていたウルさんは、その大きな手で明らかに小さすぎるハサミの持ち手をつまんだ。
 多分なにごとか考え込んでいたのだろう。深く考えずにバツッと切ってくれればそれでいいんですよ、と言おうとしたとき、

「でもよ、俺、ひとの髪切ったことなんかねんだけども、いいのかね」

 と、ウルさんは言った。
 ――ひと、とは、「他人」のことなのか、それとも「ヒト」のことなんだろうか。
 変に胸がざわめいて、私はまたも深く考えずに、

「…おくさんのも?」
「うん」

 なんてことをうっかり訊いてしまったんだけど、ウルさんもウルさんで一瞬のためらいもなく頷いた。
 内心、うわあ、やっちまった! と思ったのに、まるで気にしてないみたいだ。

(…もう、ふっきれたのかなあ。奥さんのこと)

 ウルさんは私を川べりに連れて行き、ここに座れ、と手ごろな大石を指差した。
 太陽にじりじり焙られていたせいか、ちょっとお尻が熱い。いや、かなり。文句はいわないけども。

「うーん…ホントに初めてだかんな? ヘンなっても文句言うなよ?」
「いやいやいや、こちらからお願いしといて文句なんか言いませんよー。お願いします」

 ――ていうか、奥さんってさっき聞いた情報だけでもエッラい完璧な女性だったんですけど。
 なんだっけ。村一番の器量よしで、美人で、おしとやかで、慎ましくて、料理がうまくて、つまり理想の女房、とか言ってなかった?
 うわあ…どうしよ。そんな人を知ってんならやっぱ比べちゃうよね。こないだまでサーロイン食ってた人が突然落ちぶれて100g52円のコマ切り落としで我慢するみたいな感じでしょ、多分。
 ああああああああ。やっばい。私ぜったい太刀打ちできねえええええ!!!

「なーんか、訊きたそうにしてんな?」
「…うう…はい、まあ、その…」

 耳の横で、シャキッと音がする。
 今更だけど私はあんまりハサミで髪の毛を切る音が好きじゃない。なんだか意味もなくゾクッとするのだ。別に耳ごと切られたりすることはないとわかっているのに。

「言ってみれー。ただ黙ってんのも気まずいだろ」

 気まずいっちゃあ、まあ、そうですけど…。
 うーん、でも、ストレートに訊くのはもっと気まずくなるよなあ。
 知りたいけど知りたくない。訊きたいけど、ウルさんの古傷を抉ることになりかねない。
 そう思っているのに、私の口はまたしても勝手に動いて馬鹿な質問をしているのだった。

「おくさんって、どんな髪型してたんですか」
「そんな事かよ。…そうさな、ちょうどおめぇさんくらいあったかね、今の」

 なんだ。じゃあ、下手に切らないほうがよかったかなあ。
 ウルさんって長い髪のほうが好きですか?
 だったら――

「あ?」
「や、なんでもないです、それだけです。ちょっと訊いてみたかっただけで…すいません」
「謝る事ねって。別におめぇさん見ててあいつのこと思い出したかってーと全然そんなことねぇし」
「そうですか? …それなら良かった」

 いやほんと、マジで良かった。それは、ほんとに。
 …あれ。そもそも「主人とペット」なこの世界においてクマとヒトの恋なんかありえるのかっていう問題が。
 うーん。そもそも私ってむこうの世界でもまともな恋愛してなかったしなあ(初恋はマッチョの銅像だし)。
 前回のも、あいつにじゃなくて、腹筋にフラれたような気がしてきた。

「…こんなもんでいっか?」
「ハイ、充分です。あ、すっごくいい」

 陽光を受けてきらきらまぶしい川面に映してみる。
 肩のあたりで本当にばっさり切っただけだけど、ずいぶん印象が明るくなった。
 …やっぱただ伸びっぱなしの黒髪ってすごい暗ーいイメージだったんだろう。ロングもショートも最低2カ月に1回は美容室に行っておくべきだ、本当。
 あとは自分で梳いて、もう少し軽くしたら、もっといい感じになるかもしれない。

「本当に器用なんですねー。なんでもできるんだなあ、ウルさんは」
「…褒めすぎだっつーの」

 足元の砂に落ちた私の髪の毛のカタマリ(これってかなり気持ち悪い)を両手でつかみ、豪快に川に投げ捨ててくれながら、ウルさんは恥ずかしげにそっぽをむいている。
 …ていうか、他人の髪の毛ってあんまり触りたくないものだよね?
 これは、私をいわゆる『人間』じゃなくて、…『違うもの』だと思ってるから、なのかな?

「まあ、でも、…気に入ったんなら、いかった」

 あ。
 たぶん、今、これ、…笑った。
 表情のわからなかった熊顔に、私は確かに変化を見つけた気がした。

「えっと。…また、お願いしてもいいですか? 伸びたら…」
「…おう」

 そう言ってくるりと後ろをむき、どしどしと小屋に向かって歩いて行く背中は、明らかに照れていた。





【続】

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