薬師狐の営業帳 二話
がさがさと草木を掻き分けること半刻ほどだろうか。
口笛を吹きながら楽しげに進んでいた女の目の前が、さっとひらけた。
道を遮るように立ち並んでいた広葉樹や大笹が急に失せ、女の足首程の高さの草が半径五メートル程の範囲で広がっている。
山中の森を円形に切り取ったようなちょっとした広場が姿を現していた。
「……へえ、やっぱりねぇ」
相変わらず狩猟者のような目つきの女が、広場の中心を睨みつける。
不自然な形の岩が、そこにあった。
大きさは四尺近く、古びた注連縄が幾重にも巻きつけられた綺麗な円錐状のそれの先端は、
まるで宙を穿つかのように鋭く尖っている。
「ったく……元々落ち易い所に態々穿つようなもん置くなんてさぁ……イイじゃないのさ」
いや、変質したもんだろうから違うかな、と締めて岩に近寄る女。
鏡面になる程磨き上げられた表面に映った自分の顔を一撫でして、
「うわ、やっぱり最上級の人払い掛かってるよ……この石持ってなかったら気がつかないよねそりゃ」
本当あのショタネコに感謝だねーと呟きつつ皮手袋を嵌めた左手に握った金色の錫杖を振りかぶり、
全力で岩に叩き付けた。
岩の表面に音を立ててひびが入る。
金色の錫杖を投げ捨て、そのひびに爪を立てる女。
めりめりという音と共に岩の表面が剥がれ、内部が露出する。
「げ……あーあ、やっぱり二千年近く前のじゃないかぁ……」
ある程度予想していた正体に呻く。
鏡面の内側、黒い地に青白く発光する線とが網目のように張り巡らされ複雑な文様を描くそれ。
当時のイヌの勢力に脅威を覚えた当時の帝の命でキツネの領土のほぼ全域に設置された『対イヌ魔法設置型弱体術式』。
イヌの軍が用いた魔法を解析、パターン化して刻み込んだものを基盤にし、一定範囲内でその基盤に刻まれた術式と符合したものを問答無用で吸収、弱体化させる代物。
それを領土全域にばら撒いて領土内でのイヌの攻勢を挫こうとした物だった。
が、魔法に対しては頑強な分物理攻撃には非常に弱く、設置されたその殆どが二月ともたず破壊され、
残った物も術式の複雑さ故か次々と機能を変質、停止させていった。
今となってはキツネという種族全般における秘密主義・事勿れ主義が災いし巫女連や女が所属する薬師会の資料に残るのみ。
一般の国民はまず知らない、知っていても自分たちの符には何の影響も無いので気にしない。
ちなみに、変質を起こした物は基本的に訳が判らない微弱な効果――特定の欲望を少し活性化させたり――を発揮するだけだったので放置されている。
「でも、こいつはちょっと違うのかなぁ? 形と合間って上との境界を緩くしてるのか……放って置いてもいいよね」
私には関係ないし。
むしろ放って置いたほうが色々と特だろうしなどと呟く女の胸元で、袋に入ったままの石が再び震えた。
「あ、本題を忘れてた……落ちモノさん、何処ですか――?」
再び口笛を噴き出しながら、転がっていた錫杖を拾って岩の外周に沿って裏へと回り込む。
短い作無衣の裾から伸びるキツネにしては長めの金色の尾がばっさばっさと振られ、僅かに風が起こる。
らんららんららーんと歌まで歌いだした女の足が、ふっと止まった。
「……何、これ」
女の目の前に突き刺さっている物――鞘に収まった血塗れの太刀。
柄まで夥しい量の血に塗れたそれは、黄昏始めた太陽の光を僅かに反射して鈍く光っている。
「……刀? 珍しいねぇ。こういうのが落ちてくるのは」
模造刀や工芸品としての刀が落ちてくる事は比較的多い、らしい。
中には実戦にも耐えうるような物や、こちらの世界の刀匠が参考にするほどの物も存在しているという。
が、此処まで実戦で使いこまれた血なまぐさい物を見たのは女にとって初めてだった。
基本的に落ちモノが元の世界で存在していた場所、時間に関係があるらしいが、女はそこまで詳しくない。
血塗れの柄に錫杖を持っていない方の手を掛け、引き抜く。
素手のため掌に乾きかけた血が張り付くが、女は全く気にしていない。
「ふんふん……おお、見た目の重厚さの割りに結構軽い……イイねぇイイねぇ」
持ってみた感想を誰にでもなく言って、ひゅんひゅんと振り回す女。
振るたびに血糊が少しずつ回りの草に飛び散っているが、気にする様子もない。
と。
「――ありゃ、しまった」
刀から鞘がすっぽ抜け、明後日の方向に飛んでいってしまった。
同時に刀身に付着していた血液がばっと飛び散り、女のふらいとじゃけっとを汚す。
その汚れに女が黒い目をやった瞬間、岩に鞘がぶつかる音が響いた。
「ちょっと、ありゃりゃ?」
音に少し驚いた風の女が声を上げる。
岩の根元に背中を預け、誰かが座っていた。
凄まじい量の血液が染み込んで黒く染まった着物を纏った、誰か。
「ちょ、ええ!? あんた大丈夫!?」
女が流石に慌てた風に駆け寄ると、その誰かがゆっくりと顔を上げた。
陰になって判らなかった目鼻立ちがくっきりと浮かび上がる。
「――ぬ、あ……」
「ちょっと待った喋るなアタシは薬師だ、今薬を――!?」
背負ったままだった薬箪笥を下ろし蓋を開いた女が呻き声に顔を上げ、再び驚愕の声を上げる。
薄暮れの中に浮かび上がった誰か――男の頭には、耳も何もない。
暗くて見えないのだろうと思っていた尾も翼も、何処にもない。
「あんた――ヒトなのか!?」
「……何を、言ってる……俺は……」
「だー、喋ないで馬鹿!傷が開くって!」
「……違う、この血は、俺のじゃ……」
「どうでもいいから喋らない! アンタ自分の状態わかってんの!?」
「俺、おれは……なんで、見えないんだ……?」
熱に浮かされたかのようにぼそぼそと呟く男に、女が何度も大声を出す。
ぐらりと、男の左腕が持ち上がった。
「おれ、の……ひだり、目……」
そう呟く男の手が、己の左目を――左目が在った場所に届こうとする直前、女の手がそれを叩き落とした。
「アンタねぇ、判ってない! アンタの左目は――!」
うわ言のように繰り返し、左目を確かめようとする男を押さえ込んで女が叫ぶ。
――見えなくなってる! 落愕病で無くしたんだろうさ!
「らく、が、く……? 俺の、左目、俺のぉぉっ!」
「うわっ!? ちょっと、暴れないで!」
目をカッと見開き、身体を暴れさせる男。
必死になって押さえ込む女。
ちっ、と女が舌打ちし――。
「――ちょいと痛いけど、我慢してよ!」
握り込まれた左拳を、男の鳩尾に叩き込んだ。
げふ、と男の口から空気の塊が吐き出され、グッタリとなる。
「……ったく、梃子摺らせて……ん?」
女の悪態をつく声が止まる。
気絶したはずの男の唇から、言葉が漏れていた。
「……親父、殿……六郎は、六郎とき――は……ぶ、こう、をぉ……」
「……寝言か。気絶させたってのになんて奴……ん? 今の、こいつの名前か……?」
完全に沈んだ男の身体を抱え、薬箪笥を背負って立ち上がる女。
ついでに落ちたままだった鞘を拾って太刀を収める。
「そかそか、そういう名前か……長いから略して……少し我慢しなよロクトキ。いまアタシが、この葛が楽なとこにつれてってあげるから」
長く淡い金色の髪をさっと撫でて歩き出す女――葛。
錫杖が、先ほどまでとは違うシャランという涼やかな音を立てた。