猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

小さな龍と猫の姫 三話

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小さな龍と猫の姫 三話


 眼が覚めて、ぼんやりとしたまま目の前にあるものを意識した。
 蒼玉色の瞳に、淡い紫の髪。恐ろしいほどに整った女性の顔。
 孔龍は、幾度か瞬きをして自分の頭が回転し始めるのを待った。全身がまだ、まどろみに包まれたように気だるい。ぼんやりと、上にある顔を見上げていると、女がにっこりと笑った。
「おはよう、異邦人君。私の言葉が通じるかな?」
 問いかける言葉は、男性的な響きをしていた。なのに声音は鈴を転がしたような澄んだもの。
「……」
 孔龍は、目覚めのぼんやりとした感覚を頭から振り落とすように頷いた。「十全だ」と頷く姿は、どこをどう見ても年頃の少女――それも極めて美しい――にしか見えない。
 描いたような細く優美な眉に、宝石のような青い瞳。微かな紫色の混ざった長い銀髪は、纏めることもなく流すままにしている。彼女が身じろぎをするたび、髪の末端が優雅に踊った。身に纏っているのは肩の開いた黒い衣服。喪に服すような色なのに、そこかしこにあしらわれた布飾りや、露出した肩の白さが、その衣服を高貴なものに見せている。線の細い身体はしかし起伏に富み、芸術的なほど。この少女は美の神にどれほど愛されたのか。神がいるのなら、是非とも聞いてみたいと孔龍は思う。天井から注ぐ穏やかな光が、彼女の髪に染み入って、輝くかのようだった。
 孔龍は爪先から順に見上げるように少女の身体を見た。天辺を見たとき、目に入るのは髪飾りではなく小さな猫の耳だった。それが美しい髪飾りであったのならば、孔龍はこの館こそが桃源郷なのかと疑ったことだろう。
「寝起きで呆けているのだね。まあ、無理もないか。ゆっくりと思考を整理していいよ、どうせ時間は唸るほどにあるから」
 そう、その美しさに、その口調であった。
 笑う時の屈託のなさといい、見れば見るほど、外見と口調と仕草の乖離具合が凄まじいことになっている。
「……しかし驚いたな、本当にヒトだ。ステラとシノがなにやらこそこそと話をしていたからまさかとは思ったが」
 シノ、という名前が耳に入った瞬間、孔龍の頭の中で記憶が泡沫のように浮かび上がってきた。
 この何処とも知れぬ場所で人の形をした狼と出会い、それを鉄拳で沈め、己もまた眠りに落ち――覚醒したかと思えば、人生初の――
「うあああああああッ!」
「に゛ゃっ?!」
 孔龍はバネ仕掛けのおもちゃのように飛び起き、頭よ砕けろとばかりに両手で自分の側頭部を掻き潰した。頭を抱えるなんて柔らかい表現では到底足りないほどだ、と自分でも思う。
 頭の中に蘇るのは生々しい女の肌の感覚と、幾度となく自分の肩を、頬を、唇をまさぐった吐息の熱さである。
 ――功夫の足りなさを理由に上げるまでもない。師父の耳に入ったら自殺する前に殺される。
 桃色の記憶を思い出しては顔を火のように赤くし、その度、師父の笑顔と握り固めた拳を幻視して真っ青になる。身を左右にねじり苦悩する孔龍の前で、少女が握った手を口元に当てた。
「あー……こほん」
 はっと我に返り、咳払いをした少女に目を向ける。少女は何やら頬に手をやり、困った風に呟く。視線はじっと一点を向いていた。
「扇情的というか、情熱的というか。私とて女の端くれなのだけれど、それは襲って欲しいんだという解釈をして大丈夫なのかな」
 少女が若干、目線を下に注ぎながらゆっくりとした口調で問いかける。その目線を目で追って、孔龍はまたも頬に血が集まるのを感じた。相も変わらず自分は一糸纏わぬ服装で、暴れたせいで乱れた布団から、身体のとある一部分が張り切り顔を見せている。
「め、滅相もない! 大変な失礼を……申し訳ありませんッ!」
 必死な謝罪を交えながら、孔龍はいつの間にやらベッドサイドに用意されていた自分の功夫服と下着の類を引っつかんで引き寄せ、そのまま布団を引っかぶる。暗い中で下着に足を通し頭を通しと悪戦苦闘していると、小さな笑い声が布団越しに届いた。
「そう急いで着込まれると、なんとも背徳的な気分になるよ。慌てずにしていいし、別に私は失礼だとも思っていない。……というかだね、失礼というのなら、私の前で思い切り急いで服を着ていることのほうが、どちらかというと失礼な気がするんだ」
「……戯れを申されないでください、ご婦人」
 服装をできる限り整えてから、孔龍は布団を捲って顔を出した。まだ頬の赤みが引かない気がして、幾度か自分の顔をぴしゃぴしゃと打つ。
「嘘じゃないよ、素直な観想を言っただけさ。筋肉の乗り具合がいいし、まだまだ発育しそうだって期待ができる見事な身体だったからね。本能の時点で素敵だなと思ってしまうよ」
 相も変わらず男性的な口調だが、少しずつイメージとの乖離が収まってきたと孔龍は思う。この物言いが、この少女の常態なのであろう。それは確かに奇態だが、堪えきれぬほどの違和感があるわけではない。
 孔龍は唇を固く閉じて俯いた。どういう顔をすればいいか、よくわからない。
 ――それと、扇情的な台詞に慣れるかどうかは、また別の話なのだが。
「でも残念、私はシノに先を越されてしまったみたいだね。匂いがする」
 再三はっきりと口に出される名前に、肩を跳ねさせた。それを見たのか、彼女の頭に乗った猫の耳が幾度か動く。過剰反応ともいえる孔龍の仕草に、少女は息を漏らすようにして笑った。
「……腹芸が苦手なのだね、キミは。生きて行き辛そうだ。そういう素直なところ、私は嫌いではないけど」
 やれやれ、という風に肩を竦める少女を前に、顔を手で押さえてうつむく以外にない。金色の髪と雅な微笑を思い出さないように首を振ると、孔龍はゆっくりと顔を上げた。
 未だに混乱している。正直な話をすれば、何が何だかわからないのだ。誰もが自分を珍獣扱い、二言目には奴隷扱い。訊かなければならないことは山のようにあった。消え入りたいくらいの羞恥を押しのけて、孔龍は唇を開く。
「シノ……殿の話は堪忍していただけませんか。それよりも、伺いたいことが数個」
「いいよ。言ってみるといい」
 少女は静かにベッドに腰を下ろし、髪を指先で弄びながら返してくる。
 言葉に甘えることにして、孔龍は胡坐を掻くようにしてベッドの上に座りなおした。
「ありがとうございます。……私は孔龍、鄭孔龍(テイ・コンロン)と申します。先ずは貴女の御名前から伺いたく存じます」
 孔龍が折り目正しく告げると、少女はそれで初めて、思い出した、という風に手を打った。
「そうだった。そういえば、まだ名乗ってもいないのだったね」
 ベッドから軽やかに立ち上がり、三歩、優美な足取りで歩く。それから彼女は、芝居がかった仕草で振り返り、衣服の裾を軽く摘んで礼をした。
 その作法には見覚えがなかったが、それでも礼法に則ったものなのだろうと思える、気品ある所作である。
「もしかしたらステラやシノから聞いているかもしれないが。私はリア=アーセンクォルト。この館、〝幽霊屋敷〟(ホーンテッドハウス)の主だよ。以後、よろしく」
 微笑がまた眩いばかりで、孔龍は思わず次の質問を突き出すのを忘れて、まぶしそうに目を細めた。胸の片隅が常にざわめいている気がして、孔龍は服の左胸の布地を軽く握った。
「私は寛大でも優しくもないけれど、キミに右と左を教えてあげることくらいはできる。質問を続けて」
 促すリアの言葉に、孔龍は胸のうちを落ち着かせるように軽く呼吸をした。一拍置いて話し出す。
「はい。……まず、ここは一体どこなのでしょう。私は都へ行く道を歩いていたはずなのですが、いつの間にか違う道に迷い込んでしまっていたようなのです。帝都へ繋がる道の方向も加えて教えてくだされば、と思うのですが」
 躊躇わず核心を問う言葉に、リアは少しだけ困った顔をしてから、髪をくるくると指に巻きつけた。そのまま手をぱたりと下に下ろすと、絹糸のような髪が抵抗なくほどけて流れる。
 少しだけ言いにくそうに、彼女は言った。
「最寄の一番大きい街には――ここからなら南に歩けば二日もせずに辿り付けるだろうね。けれども、恐らくそれはキミの求める〝帝都〟ではない。何故なら、キミが求めている街は、この世界には存在しないからだ」
 少女は毅然とした風を保とうとしているが、その目には言い知れぬ憐憫が漂う。彼女の頭の天辺で、耳もしょげ返ったように垂れていた。
「……あの。おっしゃる意味がわからないのですが」
 放たれた唐突な言葉を飲み込むことが出来ず、孔龍は言葉を噛み砕こうとしながら、更なる説明を求めた。
 ――否、判っていたことだったのかもしれない。急な失調、魑魅魍魎とすら疑えそうな人の形をした獣。魔的な魅力を持つ妖女の頭の天辺には耳が小さく揺れていて、そして今、顔を合わせて語る美しい少女の頭にも、髪飾りではなく獣の耳がある。
 この世界は何かがおかしい。
 自分はとっくに気付いていたはずなのだ。
「……キミが自分の世界をなんと呼ぶかは知らない。けれど、ここはキミがいた世界ではないんだ。キミは、キミの世界のほんの僅かな気まぐれに巻き込まれて、この世界へ落ちてきてしまったんだよ。――窓の外をご覧」
 少女は淡々と語る。ふわりと、羽が息に吹かれたような軽やかさで立ち上がると、彼女は窓際へ進んで、大窓を隠す布を左右へ広げた。手招く姿に、コンロンもまた、誘われるように続く。
 外はすっかりと暗くなり、虫の鳴く音さえもなく、ただ風にそよいで揺れる木々の音だけが大気を震わせている。
 リアが顎をしゃくるようにして、空を示した。よく晴れた夕闇の空、群青色を青白く切り取る月が浮かんでいる。
 孔龍は、その瞬間に、自分が何処とも知れぬ場所へ迷い込んだのだと理解せざるを得なくなった。
「――月が……二つ……?」
 空に浮かび玲瓏たる光を放つあの天体が、さながら影絵の怪物の眼のようであった。目を擦れど、何度瞬けど、その光が消えて失せることはない。
 空は遠く、言葉を叫んでも届きそうにない。届いたとして、一体何を訴えればいいのだろう。
「ようこそ最果てへ、コンロン。キミはキミの世界から零れ〝落ち〟て、この世界に来たんだ。これがどういった現象なのかは、私の浅学も相俟って説明は出来ないが……」
 沈黙する孔龍を前に、少女は初めて彼の名前を呼んだ。孔龍は言葉もなく、天を見仰ぐ。
 ……十年、十年だ。
 齢、七より修行に継ぐ修行を重ねてきた。過酷な修行をそれでも耐え抜き、師父をして『己の五十年を十年に縮める様を見た』と言わしめた。彼が最後の最後にくれた最高の褒め言葉を、永久に忘れまいと思ったものだ。
 同門のものがあまりの辛苦に逃げ出し、耐え切れずに死す中でも、孔龍は耐えてきた。耐え、いつかは師に追いつく日が来ると頑なに自らを鍛え続けた。その十年の結果が、過去二十年の中で唯一たる皆伝者の称号である。
 あの師父に師事できたこと、その技を全て継いだこと、それが自らの最初で最後の誇りだと、今この瞬間も信じている。
 後はこの磨き抜かれた技を用いて、帝都で名を立て、吼意仁慈拳の強さを知らしめる。それこそが自分の存在意義だと心の底から信じていた。
 それなのに。
 その根底が、今覆されようとしている。
 孔龍は、力の抜けそうな右手で、自分の左胸を引き裂かんばかりに掴んだ。そうしていないと、震え出してしまいそうだった。
「……ッ、行かなくては」
「……どこに?」
 曖昧な表情をして、リアが首をかしげる。孔龍は焦りと、心の内側を焦がすような苛立ちに、語気も強く言った。
「帝都です!! 帝都に向かい、皇帝陛下の御前で武闘を披露するのです! 私が認められれば、師父が認められたことになる! 吼意仁慈拳を世に知らしめ、門下を多く取り、この拳を不動のものとする! それを成さねば、私は……僕はッ……!!」
 孔龍は血も吐き出さんばかりに声を詰めた。もはや言葉を取り繕うことさえ出来ぬ。
 齢十七の浅く短き生といえど、それでもあの門出の朝は、誰からも望まれず生まれた農村の子が描いた夢が結実しようとしていた朝だったのだ。
 それを、――それを簡単に無にしてしまうというのか。運命という暴虐は。
「キミのいた場所のことは、わからない」
 いっそ冷たいほどの語調で、少女は呟いた。
「けれども、たった一つだけ言えることがあるよ。私の知る限り、自分のいた場所に還ったヒトは存在しない。――つまりは」
 決定的な崩壊の音が、一瞬後に発されようとしている。
 孔龍とて、阿呆ではない。吼意仁慈拳は、その道を修めんとする者に、肉体の鍛錬とともに、自らを律する心の訓練、そして万象の理を理解するための叡智を学ぶことを課す。
 次に何を言われるのかは判った。
 だが、彼女の唇を塞いだとて、この現実が変わるわけがないのだ。
 少女は言葉を切り、躊躇うようにしてから、とどめの一言を放った。
「キミも、恐らくは、元の世界に還ることは叶わないだろう」
 視界が揺れた。
 質量のある音声をぶつけられたような心地。失意が心を染め上げ、膝が体重を支えることを放棄した。空では欠けた月が笑っている。孔龍は床に膝を突き、自失したように呟いた。
「……悪い夢でも見ているのでしょうか。これは、夢なのでしょうか」
 夢であって欲しいと、願う。
 だが、少女はいくらか強い語気で、ぴしゃりと言った。
「夢ではないよ、現実だ。現に私がここにいる」
 細い指が、うつむく孔龍の頬に触れる。気力の全てが失せたような孔龍の表情に、リアは悼むような顔をする。
「キミにはどこか――その、帝都という、行くべき場所があって、果たすべき使命があったんだろう。私はまだ若いから、キミのその使命の価値や、今の心境を推し量ることは出来ない」
 孔龍の力ない手に、リアの指先が絡む。そのまま引き寄せ、孔龍の手を胸元に掻き抱いた。夜気に冷えかけた手を包む、柔らかなぬくもり。微かに伝わる鼓動が、少年の手に染み込む。
「……ここだって悪いところじゃないとか――そんなことを言うつもりはない。キミの人生を、判ったような顔をして聞き漁るつもりもない。けれど、多分、少しだけならキミの力になれると思う。……こんなことを言っても、今の君には届かないかもしれないが」
「……」
 孔龍は黙したまま、少女の言葉を聴いた。切々と語る口調は、嘘を言っているようには到底思えない。
 頭の中がぐしゃぐしゃだった。乱雑に紙に引いた線のように、思考が纏まらない。叩きつけられた現実の重さは、孔龍から正常な思考能力を奪う。
 いけない、と思った。
 自暴自棄になったときは、人と接してはいけない。心無い言葉を浴びせて、苛立ちを紛らわそうとするからだ。
 働いた最後の思考にしたがって、孔龍は押し殺した声で言った。
「……暫く、一人にしていただけませんか」
「構わないよ。私も、今のキミとまともな話ができるとは思ってない。今夜はこのまま休むといい。外に蹴り出したりはしないよ。短い会話だったけれど、私はキミのことが嫌いではないから」
 少女は孔龍の手を、そっと離した。身を引くようにして立ち上がる。紫水晶の光を帯びる髪が、儚げに揺れた。
「落ち着くころに話をしよう。キミを傷つけるものはここにはない」
 見上げた先にあるのは、自分を見下ろす、吸い込まれそうなほど青い瞳。少女は憐憫を孕んだ微かな笑顔を形作ると、ぽつりと零した。
「私はキミを歓迎するよ。私に出来ることなら、なんだって手伝おう。――お父様がかつて、旅人にそうしたように。――ではね」
 ひらひらとした服の裾を翻し、少女が扉へと歩く。毅然としたその立ち居振る舞いは、忘我の境地に立った孔龍から見てさえもなお、輝いていた。
 恨み言を吐く理性と、この突然の闖入者に礼を尽くす彼女に何か言葉をかけようとする意識とが鬩ぎ合って、孔龍は言葉を詰める。喉を震わそうとしたそのときには、彼女の姿は扉の向こうへと消えていた。
 ――窓の外を見上げる。
 二つの月は漆黒の獣の瞳のよう。爛々と輝き、全てを今にも飲み込みそうだった。
 ――師父、僕はこれからどうしたらいいのでしょう。
 厳しい顔をした、自らの師の姿を思い浮かべる。自ら道を切り開けと、あの人ならば言うのだろう。けれども、今の自分に何ができるというのだ。惑う内心を繕うことすらできず、精一杯の言葉をかけてくれたものまで遠ざけて、ただ一人部屋の隅、窓の傍の暗がりに沈んでいる。
「――……」
 孔龍は窓際にへたり込んだまま、月を見上げていた。
 夜が更け、二つの月がゆっくりと沈みはじめるまで、ずっと。



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