昨日よりも、明日よりも 第三話
「ふふーんふーん、ふんふふーん♪」
朝風呂です。
毎日の日課ではありますが仕事に備えて禊や精進潔斎も必要ですし、早朝の内に済ませて
しまうほうが良いでしょう。
季節は秋。
すでに朝は肌寒いほどですがその肌寒さの中で入る風呂はきっと格別かと。
それはもう鼻唄の一つも漏れるというものです。
「あのヒトが来てから早起きなんてしませんでしたからね…」
そう、そうなのです。
それまでは朝早く起きてまず最初にお風呂でした。
ですが彼が来てからはついつい惰眠を貪ってしまって。
最初の頃は警戒して夜眠れなかったという理由があったのですが、最近はどう考えても惰
眠です。
たるんでいます。
むしろそちらのほうが「わし」としては正しいと言えるかもしれませんが…
そんな事を考えながら脱衣所の扉を開けます。
本来なら引き戸なのですがあくまでもこの屋敷は狐国『風』。
各部屋の区切りは大体が開き戸です。
風情がないので今回の報酬でここだけ改修してもいいかも知れませ
「ん?」
目の前に誰かいました。
裸です。
ええ、脱衣所ですから裸でも問題ないといえば確かにそうですね。
風呂上りのようで頭を布で拭っていました。
短めの黒い髪の隙間からヒトの耳が見えています。
ヒトです。
簡単にまとめると男のヒトの裸が目の前にドン、と。
「な、ななぬなぬなっ」
「主人か。珍しいな、この時間に起きているのは」
「…っきゃああああああ!」
「やかましい」
第三話
油断した。
あまりにも唐突だったので素で悲鳴を上げてしまった。
うぅ、寝起きでなければあの程度で狼狽するなぞありえぬと言うに。
むしろじっくり観察…まではさすがにせぬが。
とは言えちらりと見た限りではやけに引き締まった体付き、と言うかかなり鍛え上げてい
る感じがしたのう。
そう言えば毎朝庭での鍛錬が日課と言うておったような。
…思い出した。
最初の頃、朝餉時にやけに汗臭かったので鍛錬後は風呂に入れと命じておったかの。
つまりアレか、それを忘れていたわしの自業自得、と。
「ぬう。何か釈然とせぬな」
「何がだ」
「うひゃうっ」
背後に気配というかまたいつの間にか近寄っておったかこやつは。
一瞬心臓が跳ねおったぞ、まったく。
このままではこやつに驚かし殺されるのではないかとヒヤヒヤするのう。
…ふむ。
「あいたぞ。掃除もあるからさっさと入れ」
「のう、奴隷?」
「…なんだ」
「なんじゃその『また面倒臭い事を思いついたなバカ主人』という顔は」
「解ってるなら言わせるな。それこそ面倒臭い」
「ふふん」
裸を見て動揺してしまったのであれば、こちらも裸を見せて動揺させてやれば五分じゃ。
何かわしが恥ずかしいだけのような気もするが、そもそも自尊心の問題じゃからな。
うむ、問題ない。
「背中を流せ、奴隷」
「…念のために聞くが、背中を流すというのは一緒に風呂に入って洗えという事か?」
「うむ」
「面倒臭いので断る」
「命令じゃ。め・い・れ・い」
「……」
わしと奴隷の間には幾つか約束事がある。
そのうちの一つが「命令」についてだ。
普段は「出来る限り言う事を聞く」程度でよい、と言う事になっているが、一週間に一度
だけ何を差し置いても従わねばならぬ「命令」を発せられる、と言う約束がある。
ここ一ヶ月ほどは使っていないので今日は使えるはずだ。
とは言うても機嫌を損ねるのは間違いないので極力使う気はしないのじゃが、まだまだ動
揺しているという事じゃろうか?
ま、一度言うてしまった以上はもう引き返せんがの。
「ふぃ~」
と息を吐きながら先に湯船に入っていたカルトの隣に割り込む。
もちろん手拭で色々と大事な所は防御じゃ。
さすがのわしも照れはあるでな。
カルトもそうなのか、出来る限りこちらから離れようとしているように見える。
「お?なんじゃなんじゃ、照れておるのか?」
「違う。狭い」
「ぬ。まあ、確かに」
まあ湯船が露天風呂形式とは言え、元々個人用じゃからのう。
別に家族を持つ事もなかろうし、一人で足を伸ばして浸かれれば充分と思うておったの
じゃが。
さすがにわしが小柄でカルトもそれほど大柄ではないとはいえ、二人で入るとちと狭い。
隣り合って座ると肩や腕が密着してしまうほどじゃ。
ぬう。
「ふむ…ではこうじゃ」
ざぶり、と音を立てながらカルトの体の隙間にするりと潜り込む。
少し湯に潜ったので頭上に纏めておいた髪が濡れてしもうたが、どうせ今日は洗う気
じゃったし問題なかろ。
とりあえずカルトの体を椅子の背もたれ代わりに、両腕を肘掛代わりにして座るような体
勢になる。
ちと恥ずかしくはあるが、せっかくの風呂で足を伸ばせぬと言うのは御免じゃからの。
「おい、主人」
「んー。どーした奴隷」
「くっつき過ぎだ」
「狭いと言うたのはぬしじゃろ。我慢せい。それにこの体勢は思っとったよりも楽で気持
ちがいい」
岩の硬い感触もまた雰囲気が出て良いが、足も伸ばせるし背もたれも肘掛もあるというの
は実に快適じゃ。
何よりぬくいし、人肌の感触も悪くない。
しかし、少しつまらぬ。
少しは動揺するかと思いきやあまり反応がない。
むしろこちらの方が過剰に意識してすらおる。
…そもそもヒトはいつでも発情可能で性奴隷としても優秀、という触れ込みじゃったが。
こやつ、まったく興奮しとる様子がない。
幼い体型(自分で言うのは少々屈辱じゃが)とは言え、一応女であるわしとほぼ裸の状態
で密着しているというのに。
以前「ヒトは相手が幼い方が好みらしいにゃ。ロリとかショタとか言うらしいにゃ。よく
わかんにゃいけど」と聞いた事があるんじゃがのう。
怪我の所為で不能とかあるいは年上(いや、体型的な意味でじゃからの?)にしか反応せ
ぬというヒトとしては特殊な趣味の持ち主という事じゃろうか。
もしくはそもそも女として見ておらぬとでも…
また胸の奥がムカムカしてきた。
いくら気が抜けていたとは言えこちらは悲鳴すらあげたのだ。
せめてなんらかの動揺を誘って一矢報いておきたい。
「…主人。くすぐったいんだが」
「何がじゃ?」
「尻尾が」
「癖じゃ。我慢せい」
まずは小手調べ。
湯船の中でゆっくりと尻尾を左右に揺らし、奴隷の胸板をくすぐるように刺激してやる。
こちらもくすぐったいのが欠点じゃが。
と言うよりむしろこちらの方が敏感な分不利ではなかろうか。
…まあ、このぐらいなら我慢できるし、しばらく続けてみ
ぐぎゅ
「ひあんっ!」
「動かすな。毛が抜けている。掃除が面倒だ」
「い、いきな、り、握るな…!」
「癖だというなら自分でもどうしようもないだろう?なら止めるにはこうした方が手っ取
り早いし確実だ」
「ふやあっ」
不意を打たれたというよりもむしろ尻尾の感覚に意識を集中していた分、余計に刺激を強
く感じ取ってしまう。
誤算…と言うよりも解ってやっていないかこの奴隷は!
「わ、わかった、動かさぬよう気をつけるから、は、離せ」
「…本当か?」
「なんで今日に限って疑り深いんじゃぬしはぁ!」
いつもなら一度の言い訳で解放してくれるというかそういう所は甘いはずなんじゃがって
力が抜けるうぅぅ…
「きゃふっ」
「こっちはさっきの分もあってのぼせそうなんだ。さっさと終わらせてもらうぞ」
がしり、とわしの脇を通した腕を組み、そのまま立ち上がる。
こちらを抱きかかえるのかと思いきや何故か片手が離れ…小脇に抱える体勢じゃと?
わしは荷物か何かか!
というか
「む、胸、胸を揉むな!」
脇を通り前を押さえている手が、ちょうどこちらの胸を押さえる形にっ
「揉めるほどないだろう。意識しなければ触っている事すらわからないから気にするな」
「な、な、こ、この…っ」
そこまで貧しくはないわっ!
と言うか仮に貧しかろうが(いや、そこまで貧しくはないんじゃぞ?ほんとじゃぞ?)
婦女子の胸を触っておいてなんの反応もせんのかこやつは!
あああ腹が立つ腹が立つ腹がたつううう!
と、つい暴れてしまったが、ココは風呂場でつい先ほどまで湯船に浸かっていて、つまり
それはお互いに触れている部分が濡れているわけで。
「ぬ?のわ、わ、あだっ!」
当然のごとく滑って落ちた。
「尻を打ったではないか!」
「知るか。受身ぐらい取れ。第一、暴れて自分から落ちたんだろうが」
「う~」
幸いな事に尻尾は無事で、打った場所も怪我はしていないようじゃ。
と言うかあの体勢で尻から着地、と言う事はこやつが多少なりとも制御したのじゃろう。
どうせなら落とさない気配りのほうがありがたいんじゃが…まあ気が利かぬのは今に始
まった事ではないか。
しかしこの朴念仁、半裸を見せても駄目、密着も駄目、くすぐりも駄目、最後には胸を揉
ませても(いやこちらから揉ませた訳ではないが)駄目とはどういう枯れ方じゃ。
何かこう、意地でも反応させねば気がすまなくなって来ておるぞ。
いや待て、落ち着けわし。
このまま意地を張っていては何かこう、行き着くところまで行ってしまいかねん。
具体的には来世で結ばれようと無理心中とか。
いやいやいや、もう一度言うが落ち着けわし。
わしは別にこやつにそのような類の感情を持っとるわけではなく単に狐の自尊心的な意味
でじゃな。
…馬鹿馬鹿しい。
なぜわしがどうでも良い言い訳を延々と心の中でせねばならぬ。
「おい」
別にわしはこやつを性奴隷扱いする気なぞ毛頭ない、と言うより男女関係というものは
じゃな
「…聞こえないのか?それとも頭でも打ったか?」
そもそもいくらヒトがそのような方面に強いからと言うても、子を成さぬから好きに出来
るという考え自体が
「面倒くさい。適当に洗うぞ」
「うひぃ!」
ひいい、背中に妙な感触があああ…ってなんじゃ、石鹸で泡立てた洗い布か。
命令通り、背中を流しておるのか。
殊勝な心がけじゃの。
しかし…
「な、中々の力加減じゃな」
「強いほうがいいか?」
「いや、これでよい」
おかしい。
こやつの事じゃから絶対に力が強すぎて悲鳴を上げることになると思っとったのに、やけ
に絶妙な力加減じゃ。
毛繕いの時も思ったが、こやつ、意外と繊さ
「きひゃあ!」
ししし尻尾、尻尾を付け根からしごくなっ
「突然奇声をあげるな。うるさい」
「し、尻尾は自分でやるからよい!」
「さっさと終わらせたいので断る」
「ふやんっ」
「妙な声をあげるな。外に聞こえるぞ」
「や、ぁ、じゃから、自分で、ひうっ」
ただでさえ敏感な尻尾が泡で妙な感じにっ
あああ駄目じゃ駄目じゃ駄目になるうううう…
「…こんな所か」
「はあ…はあ…はあ…くうっ、屈辱じゃ…!」
「何を訳のわからない事を。次にいくぞ」
「ちょ、ちょっと待て」
「なんだ」
「まさか前も洗う気か?」
「言ったはずだ。さっさと終わらせたい、と」
「まてまてまて、前はいい、前はナシじゃ!」
「そうか。なら後は…頭か?」
「う、うむ」
ぬう。
結局何も反応がないというか、むしろわしが弄ばれとるだけじゃな。
…狐の誇りにかけてこのままでは終わらせ
くにゅ
「ひあっ」
「…なんだ。耳も奇声箇所か」
「ちと驚いただけじゃ…と言うか何が奇声箇所じゃ!わしの体に妙な場所を作るな!」
きゅむ
「ひゅわぁ!」
「少なくともこの尻尾は奇声箇所だと思うんだが」
「な、何か妙じゃぞ!幾らなんでも躾でもなしに尻尾を握るような輩ではなかろ!?」
「知るか」
?
妙じゃな。
いくら無礼千万なカルトであっても、それなりの理由がなければ尻尾を握るなぞせんの
じゃが。
いやまあそれなりの理由と言うてもやたら軽い理由の事が多いんじゃがの。
まったく、人の尻尾をなんだと思うておるんじゃ。
狐にとって尻尾は格を表す大事な部位なんじゃぞ。
そりゃわしは訳あって一本に見せておるが、これでも…
と、そんな不満もわしゃわしゃと髪をかき回される感触に溶けていく。
と言うより毛繕い同様、やけに上手いな、こやつは。
ううむ、髪を他人に洗わせるなぞ、久しくなかったからのう。
まあそもそも他人を体に触れさせるなぞ…いや、レダがおったな、うむ。
あやつと風呂に入るとどうにも体力を消耗してしまうのが難点じゃが。
何故か我慢大会になったりくすぐりあった挙句に笑い過ぎでのぼせたり。
ああ、それにしても良い心地じゃ…
「主人。おい。主人」
「…はっ。な、なんじゃ、奴隷」
「耳は閉じるか伏せるかしておけ。水が入るぞ」
「む…終わりか」
慌てて耳をぺたりと伏せる。
こういう時、ヒトのように耳が横向きに付いておると便利なんじゃがなぁ。
わしらのように頭の上に耳がある場合、一度水が入ると中々出しにくくてのう。
まあその分よく聞こえるんじゃが…
と、ざぶりと浴びせられた湯をついぶるぶると頭を振って弾いてしまう。
「つっ…」
「む?」
同時にカルトの呻き声が聞こえた。
なんじゃ?
と振り向くとどうやらこちらが振り払った水滴が目に飛び込んだようじゃ。
まだ石鹸が残っておったようじゃからのう…これは染みるじゃろう。
「ふむ」
背中や髪を意外に気持ちよく洗ってもらった礼、と言うわけでもこの詫び、と言うわけで
もないが…
「どれ、背中を流してやろう」
ま、甘えすぎるのも借りを作るのもなんじゃし。
仕返し…もとい、お返しをしてやってもよかろ。
「…さっき洗ったばかりだ」
「どうせ適当にやっておるんじゃろ?石鹸の減りも少ないし髪もいつも硬そうじゃし、
たまには手入れをせい」
「別にどうでもいいだろう、不潔でなければ」
「駄ー目ーじゃ。わしに恥をかかせる気か?ほれ、背中を見せい」
すばやく背中側に回り込む。
『命令』は使えないので拒否されればそれまでじゃが、幸い受け入れたようじゃ。
まあ建前の部分も嘘ではないし、の。
とは言え別にお披露目をすると言うわけでもないんじゃが。
とりあえず洗い布を泡立てて、と。
背中を洗ってやろう…と思うたが
「…細く見えるが凄い筋肉じゃな」
「そうか?」
「うむ。まあそもそも他人の背中の筋肉なぞそう見る事はないがのう。何せ服は着とるわ
毛皮もあるわで」
「なら俺が凄いかどうかは解らないんじゃないか?」
「む。言われてみれば。じゃが…」
何と言うか、見た目からはそれほどでもないんじゃが、実際に触れてみるとギッチリと
筋肉が詰まっておる感じがするのう。
毎日の鍛錬とやらは伊達ではない、と言うことか。
さすが人一人を軽々と担いで走れるだけの事はある。
「…主人。くすぐったいんだが」
「お、おお、すまぬな」
指を這わせるのをやめ、洗い布でごしごしとこすってやる。
皮膚も強いのかそれなりに力を込めているにも関わらずあまりこたえる様子も無い。
しかし肩甲骨のあたりまで洗い終え、脇腹の辺りを洗おうとしたところでそれに気づく。
「む?これは…」
「今度はなんだ」
「傷、か?じゃがこんな、穴が開いたかのような傷、以前見た時にはなかったような気がするんじゃが」
一応、落ちて来た当初に連れて行った病院や、その後に家に連れ帰った後でも危険が無い
か一通り診察はしている。
その時にもこの部分は見てはおったが、こんなに目立つ傷痕はなかったはずじゃ。
「ああ、古傷なんだろう。治ってはいるが湯につかると傷痕が浮き出る。右脇腹のあたり
のなら腹側から貫通しているな」
なるほど。
普段は見えぬ、と言う事ならば納得じゃ。
が、この傷の位置…前から貫通しているとなると明らかに臓腑を貫いている位置じゃぞ。
「…よく生きておるのう」
「そうだな」
「他人事のように言うんじゃな」
「少なくともその時の記憶もなければ、何か不自由を感じているわけでもない。だから実
感もない」
そうは言うても己の体じゃろうに。
そもそもその傷がどうやって付いたのか気にならんのじゃろうか、こやつは。
いつも通りといえばその通りなのじゃが、なぜわしの方が気にしておるのかのう…
まあよい。
「さて、次は前じゃな」
「…前はいい」
「恥ずかしがらずにわしに任せい」
「断る。と言うより主人も断っただろう」
「わしはいいがぬしは駄目じゃ」
「いい加減に」
ここで一手、挑発してみるとするかの。
と言う事で背後から抱き付くように腕を前に回してやる。
無理やりな体勢で力も入らぬが、まあ前を洗おうと思えば洗えなくもなかろう。
「ほれ、これでよかろ?少なくとも見えはせぬぞ」
「そういう問題では…」
「まあまあ。役得じゃと思え。わしが背中を流すなぞ、男ではぬしが初めてじゃぞ?」
「…はぁ」
そこでため息をつかれると微妙な雰囲気じゃな…
半裸の美少女が裸の背中に密着じゃぞ?
役得どころではなかろ?
「なぁ主人」
「んー?」
「…いや、やはりいい」
「なんじゃなんじゃ、気になるのう。どうした、遠慮せずに言うてみい」
「別にいい、と言っている」
「遠慮せずに言え、と言うておる」
「…背中に密着するな。落ち着かない」
さすがの朴念仁もこれは来たか!
ようやく一矢報いる事が出来たかのう。
「くふふ…興奮するかえ?」
うむうむ、苦しゅうない。
素直に認めればこれぐらいで勘弁してくれよう。
「…馬鹿馬鹿しい」
…今、何と言うた?
「ば、馬鹿馬鹿しいとはなんじゃ!」
「主人相手に興奮するわけがないだろう」
…く、ふ、くふふふふふ…
ああ、いいじゃろう。
そこまで言うのならば。
ああ、そこまで言うのであれば。
やってやろうではないか!とことんな!
「どうした」
「いやいや、なんでもないぞ奴隷。そうじゃな、そろそろ髪を洗うてやろう」
「適当でいいぞ」
「駄目じゃ。黙って綺麗になっとれ」
とりあえず今日のところは抑えておいてやろう。
下準備も必要じゃしな。
請け負った仕事に支障を来たす訳にもゆくまいて。
…じゃが、それが終わった後は覚悟しとれよ。
とことん!
そう、とことん挑発して挑発して挑発しつくしてやろう!
「主人。何か妙な事を考えていないか?」
「はて、なんの事かのう?わしにはとんと心当たりがないが」
「…ふぅ」
くくく、溜息をついておれるのも今のうちじゃ。
…何か何処かで間違えているような気がするんじゃがなあ。
まあ、女の矜持が傷つけられればこうもなるじゃろう、うむ。
問題なしじゃ。
- 出 -
(まったくあのバカ主人は…!)
と意図的に発生させた怒りで雑念を吹き飛ばす。
背中を流せだの一緒に風呂だのと面倒臭い事この上ない命令を下してきて、こちらは色々
と堪えるので必死だったと言うのに。
風呂上りにも長い時間半裸でうろうろと歩き回り、何故だかわからんがいつにも増して人
にくっ付いてくるというのは嫌がらせか何かか。
一体何の精神修養だ。
冷水に打たれるより余程キツかったぞ。
「いや、忘れろ俺」
とりあえず手近な柱に頭をぶつけて落ち着こうとする。
が
「おお、奴隷、そこにおったか」
「…何の用だ主人」
「なんじゃ、まだ機嫌が直らんのか。『命令』を使ったとは言え今回は少々長くないか
のう?」
「別に機嫌は悪くない」
「眉間に皺が寄っとる状態で言われても信用出来ぬぞ。ほれ、機嫌直せー、直せー」
「うるさい引っ付くな暑苦しい」
まただ。
今度は横から抱きついて眉間の皺が寄っているであろう部位を指でぐりぐりと押してくる。
人が洗濯物を抱えて両腕が不自由な時に。
一応服は着ているが、この寒い時期に何故か薄着で、肘の辺りを意識すれば胸の感触が…
(殺!)
とりあえず何となくもやもやしている何かに対する殺意で雑念を吹き飛ばす。
「ま、待て待て待て、その殺気混じりの視線はやめい!」
と何故か主人が飛びのいた。
尻尾が思いっきり逆立っている。
…そう言えば今日は毛繕いの日だったが、朝風呂で少しはマシになっただろうし、今日は
やめて置くか。
「別に主人に対する殺気じゃない。気にするな」
「なら誰に対する殺気なんじゃ」
「…さあ?」
まあ、何となく思い浮かんだもやもやとした感情に向けたものだが、一々説明するのも
面倒臭いし理解できるとも思えない。
そもそも誰に対するものでもないので答えようがない。
「うぅ…覚えとれよ!」
「面倒臭いので断る」
毎回思うのだが、一体何を覚えろというのだろうか。
主人の言動はたまに…否、よく理不尽で理解できなくて困る。
理解しようとするのが面倒なので適当に流しているが、特にそれで問題が起きた事はない
ので別にこれでいいのだろう。
「…やれやれ」
とは言え疲れる。
主に精神的に。
そして何もかもが面倒臭くなっていく、と。
(マズいな)
嫌な連鎖だ。
一度気落ちし始めると際限が…あるにはあるが、そこまでまだ遠いし、浮上するのも
面倒臭い。
何か発散出来るような事は無いだろうか。
出来るだけ面倒臭くないとありがたいんだが。
とは言えヒトである自分が出歩くにはこの世界はどうにも、こう、面倒臭い。
主人に言わせれば「猫国は大分マシな方じゃがなぁ」だそうだが、首輪だのなんだのと
一々用意しなければならないのは何とかならないものだろうか。
それこそヒトの国だとか自治区だとかがあればそこに行きたいぐらいだ。
もしかすると自分の事を知っているのが居る…わけはない、か。
なんでもヒト世界には何十億という凄まじい数のヒトがいて、こちらの世界に落ちてくる
のはその極々一部に過ぎないらしい。
その中で自分の事を知っているヒトに会うなど万分の一の可能性もない、という事だ。
まったくもって気が滅入る…と言うほどでもないか。
別に今すぐ記憶が必要な訳でもなし。
適当にしていれば適当に思い出すか、あるいは適当に忘れたままでいるかだろうし、そう
気にする事でもない。
むしろ記憶がないまま自分のことを知っている人間に出会ったとしても対応に困るだろう。
それこそ面倒臭い。
「…よし」
と適当に思索で気を紛らわせながら洗濯物を干し終わる。
今日は気温が低いが日当たりはいいのですぐ乾く筈だ。
午後の早い段階、まだ比較的暖かいうちに取り込んでしまえるといいんだが。
あとは昼食の用意と掃除と…朝の騒動のおかげで午後の鍛錬は出来そうにないが仕方ない。
あとは調味料がそろそろ不安なので主人に言って買い物に…
「奴隷ー♪」
「ぐはっ」
油断した。
背中に柔らかい感触。
声と体重から察するに、間違いなく主人だ。
問題はそこではなく
「ぐ、ふ」
見事に首に両腕を引っ掛けてぶら下がられている事だが。
主に頚動脈と気管に極まっており、非常に危険な状況だ。
などと悠長に考えている余裕があるのか、俺?
「くふふ、どうじゃわし特製の隠行符!さすがのぬしも気付くまい?」
「離、せ…っ」
「いーやーじゃ」
何を考えたのか耳に息を吹きかけてくる主人もといバカ主人。
いい加減我慢も限界なので
「む?」
崩れ落ちるように膝を折り
「のわ、たた、た」
バカ主人の腕にかかっていた体重が緩むと同時に隙間に腕を差し込んで、余裕を作りつつ
頭を引っこ抜き
「う、ひゃあああ!?」
背中越しにバカ主人の後ろ首と腰を捕まえ、前方へ投げ捨てる。
もちろん怪我をしないようにしっかりと池がある事を確認済みだ。
バカ主人はそのまま盛大な水音と水飛沫を上げて着水した。
…せっかく干した洗濯物に汚れが飛んだか?
かと言ってあの角度では足から落とすのは無理だし、かと言って頭から落とせば
下手すると池底に激突させかねない。
まあ、さすがに締め落とされるわけにもいかないし、少々の被害は仕方ないと諦めよう。
「それにしても一体何なんだ、バカ主人。今日は朝から様子がおかしいぞ」
「うぅ…ひっく、ひっく」
「?」
「バカ奴隷の…うつけ者ー!」
半泣きで池から飛び出て逃げていった。
…さすがに泣かれるとこちらが悪いような気になる。
が、逆にスッキリした自分もいる。
さてどうしたものか。
「…面倒臭いが、うどんでも打つか」
まあ、主人は単純だから大体この辺りで機嫌を直す筈だ。
いつもの事だしな。
という考えは甘かった。
「ふんっ」
「……」
「つーん」
「…子供か」
「誰が女童のようにへそを曲げとるじゃと!?」
「そこまで言ってない」
「思うておるじゃろうが!」
「まあ、確かにそうなんだが」
「ぐぬぬ…っ」
夕飯時、少し手間を掛けてうどんを打ち、甘い汁で煮た油揚げも乗せた主人の大好物
「きつねうどん」を出してみたがまだ機嫌が悪い。
むしろうどんに一切手をつけていない。
まあ、喉が鳴っていたりちらちらと気にしていたりする辺り相当我慢しているのだろうが。
しかしあの単純な主人が大好物を我慢するほど機嫌を損ねるような事をしたのだろうか、
俺は。
いつもと同じ事しかしていないんだが…
思えば朝から様子がおかしいと言えばおかしかった。
一緒に風呂に入れ、という時点でおかしいと言えばおかしい。
いくら気紛れな性格とは言え男と一緒に風呂など…いや、俺はヒトで主人は狐だったか。
ならこの世界ではそれほど妙な事では無いのかもしれない。
となるとその後から、か。
しかし…いくら考えても俺自身はいつもと同じ対応しかしていない。
その筈だ。
一体何がどうなっているんだ。
「なあ、主人」
「…なんじゃ、うつけ者が」
「何故そんなに怒っているんだ?」
「何故じゃと!それはじゃな」
「それは?」
「…はて?何故じゃろう?」
とふざけた事を言い出す。
これは俺の方が怒るべき事柄だったりするのだろうか?
「待て奴隷。今ちと考えをまとめておるでな。早まるでないぞ」
まあ、今更少しぐらい待ったところで別にこちらの気が納まるわけでは無いんだが。
と言うか俺が何を早まると?
「むう…これでは…るで…が…びかぬからへそを曲げて…」
「さっさとしろ」
「急かすな!今大事なところなんじゃ!」
「…はぁ」
嘆息。
まあどうでもいい。
とりあえず冷めない内に自分の分だけでも、とうどんをすする。
…不味くはない。
雰囲気が悪いためかいまいち味に集中できないが、特に失敗はしていないようだ。
強いて言えば少し味が濃い、か?
まあ油揚げの吸っている汁の分もあるから仕方ない。
薄味にしすぎてもそれに負けてしまうしな。
しかし油揚げも残り少なくなってきたが…今度主人に例の狐国からの輸入品を扱っている
店とやらを教えてもらうか。
以前聞いたときは何故かはぐらかされたが、さすがに油揚げが無いとなれば教えるだろう。
調味料関係を揃えるにもそちらの方がいい。
「むう…奴隷!」
「まあそれは今度でいいか」
「な、なんじゃと!せっかく人が機嫌を直してやらんでもないと言うに、今度でもいい
とは何様のつもりじゃ!」
「うるさいぞ主人。何の話だ」
…ああ、そう言えば機嫌が悪い理由を考えるなどとふざけた事を言っていたような気も
するな。
「ふん。もう良いわい。バカ奴隷めが」
「そうか。話が終わったならさっさと食え。冷めるぞ」
「ぬ…」
ずるずるとうどんを啜りながら勧める。
さすがにいくら怒っていようとも空腹と大好物には勝てないようで、ようやく箸を取った。
たまにこちらを睨みながらつるつると一本ずつうどんを啜っていたが、しばらくすると夢
中になって食べ始める。
当然こちらを気にしている暇などない。
…やはり単純だな。
とそうこうしているうちに先に食べ始めたはずのこちらをあっさりと追い抜き、とうとう
汁まで一気に飲み干し始めた。
「んくっ、んくっ、んくっ…ぷはー♪」
「そこまで一気に食わなくてもいいだろうに」
「いやいや、やはりぬしのきつねうどんは別格じゃ。なんともわし好みと言うかなんと
言う…か…」
普通に言葉を返してきたので機嫌が直ったか、と思ったがまだだったようだ。
まったく、いつになったら元に戻る。
「ふんっ」
「…はぁ」
「な、何じゃその『子供か、と言うと怒り出しそうだから黙っておこう』という顔は」
「ふぅ」
「『解ってるなら流せバカ主人』じゃと?ぬぐぐぐぐ…」
…正直、こちらが歩み寄る理由など微塵もないというかそもそも何が原因なのか
わからない時点で歩み寄るも何もないのだが、今後もこの調子だと疲れる。
機嫌取りぐらいはしてもいいだろう。面倒臭いが。
「わかった。明日の夜もこれを作ってやるからさっさと元に戻れ」
「本当か?本当じゃな?約束じゃぞ…ってそうではないわ!」
「言っておくが、俺は別に主人に対していつも通りの対応しかしていないぞ。なのにそう
機嫌を損ねられても、その…困る。それとも俺は何かしたのか?」
「何もせんのが問題なんじゃ!」
「…あー、少し待て主人。考えをまとめる」
まず俺は別に何かしたわけではない、と。
じゃあ何が原因かと言うと何もしていないのが問題だ、と。
まず掃除、料理、洗濯についてはいつも通りに終わらせた。
朝食はさすがに風呂の影響で少し遅れはしたが別にその事は関係ないだろう。
となると…
「今日は何か予定があったのか?」
「む?何を言うておる」
違うか。
まあ確かに出かけるにしても唐突に連れ出されることがほとんどだ。
そもそもあらかじめ何か約束して出掛けるなど一度もなかったし、約束自体した事がない
はず。
…ますます解らなくなった。
いくらなんでも理不尽ではないだろうか。
かと言って主人の機嫌が悪いままと言うのはどうにも居心地が悪い。
「…で、俺がどうすれば主人は機嫌を直すんだ?」
「うむ、そうじゃな。それはわしを…」
「主人を?」
「…いや待て待て待て、何かおかしい。うむ、おかしいぞ」
「待っててやるからさっさと考えをまとめろ」
としばらく待っていると、突然主人の顔が真っ赤になった。
本当に突然に、沸騰したかのようにだ。
「お」
「お?」
「覚えとれよっ!」
「…面倒臭いので断る」
いくらなんでもここまで理不尽なのは記憶を失ってからはじめてではないだろうか。
ここが異世界だと聞いた時以上の理不尽だぞ。
- 入 -
(落ち着け落ち着け落ち着け)
ひたすら恥ずかしくなって布団に潜り込んだが(食べてすぐこの体勢は太るかもしれない
が今は無視じゃ!)心臓が飛び跳ね続けている。
顔から火を噴きそうだ。
(何を言おうとしたんじゃわしは!)
確かに色々と挑発して意識させようとした。
だがそれはこう、一応は女である自分を認めてもらいたいと言うかなんと言うかであって、
決して不純な動機ではない。
ないと言ったらない。
確かに餌付けされているような気もするが別に惚れるような要素は皆無であって、
そういう考えにたどり着く事自体がおかしいのだ。
…うん?
ではなぜそういう考えにたどり着いたのだろうか?
(…いかん、ドツボに嵌る予感がする)
こういう時は無理矢理にでもさっさと寝るに限る。
寝よう。
寝られない。
布団に潜り込んでから大分時間もたち、カルトも片付けやら何やらを終わらせて自室に
行った気配がしたが、それでも目が冴えっ放しだ。
「うう…寝酒でも呑むかのう」
もそもそと布団から這い出す。
体全体がだるい。
怒り続けた疲労が体にも出てきたのだろうか。
とりあえず台所隅の貯蔵庫扉を開いて中を吟味する。
「ぬぅ。月齢酒の残りが少ない、か。買い足しておかぬと仕事に差し支えるやもしれぬな」
と狐国でしか作られていない、神気を含んだ酒の残りをチェックする。
普通に呑む分にも極上の酒だが、今呑むには残りが少なすぎる。
長期の仕事にはどうしても必要なのだが。
「となると、安酒か寝かせ足りぬ酒しかないか。まったく、あやつが料理酒を鍵のかかる
戸棚になぞ保管するからこういう時に苦労するんじゃ」
さすがに極上とまではいかないが、そこそこの上物をカルトは料理酒として使っている。
以前勝手に呑んだら激しく躾けられた上に私物を納める戸棚にしまいこまれてしまった。
無理をすれば開けられなくもないが後が怖い。
「まあ、どうせ眠れればよいのじゃ。安酒でもかまわんじゃろ」
と適当な酒を取り出し、器にそそぐ。
普段ならどんな安酒だろうと楽しみながら呑むのだが今はそんな余裕もなく、
一刻も早く寝たいと言う事で一気呑みだ。
頭の片隅で勿体無いと思いつつも体のだるさと一刻も早く寝たいという欲求には勝てず、
残りを貯蔵庫に戻すとさっさと自室に戻って布団に潜り込んだ。
(うぅ、今日は冷えるのう)
湯たんぽか何か…それともいっその事保温の符でも使うか、と思ったが早速酔いが回って
きたのかぐらぐらと視界が揺れ始めたのでそのまま目を閉じて寝る事にする。
(あやつは怒っとるじゃろうか…)
最後に今一番気になる事を思い浮かべつつ、そのまま眠りに落ちた。