太陽と月と星がある 第十七話
最近、帰宅した時の御主人様の機嫌がいい。
とてもいい。
ひょっとして仕事でいいことがあるんだろうか。
それとも……。
試読用と赤く印字された新聞を開くと三面を飾るのは、『けん☆どる ナリタ 引退!!!』という文字と剣を咥えた血まみれの青年の写真。
ボロ布同然の服と、半分ほど千切れた左腕と、嫌な方向を向いたままの右手。
髪の上に獣の耳はなく、尻尾も無い。
ヒト、だ。
ヒト同士を闘技場で戦わせる…K-1とか、ああいう感じのものの有名な選手だった らしい。
過去形。
ヒトの値段は高く、それなのに命の価値はとことん低い。
……まぁ、どうせそんなもんですけど。
記事を流し読みした所、彼は今後後進指導にあたる予定。
オーナーの元には、優秀な子種を求めて大量の<縁談>が申し込まれて――――
「キヨちゃぁぁああああんっ!」
タックルを喰らって、ついでに新聞を取られる。
「もう、なんなんですか!お茶にはまだ早いですよ」
勢いよく椅子から落とされたせいでお尻が少し痛い。
スカートと髪を直して、意図的に肩をすくめる。
深緑色の瞳に、自分の顔が映っているのが見えたので唇を曲げてみる。
短く刈られた髪の下から覗く、血の気の失せた顔暗い眼。
――― 大量の<縁談>が ―――
こちら生まれなら免疫があるし、容姿が整っていて才能があって最初から立場を弁えている……
「だってぇーそなんあ新聞よりもっと俺に熱い眼を注いで。もっと過激に!もっと激しく!」
しっかりと新聞を抱きしめて、くねくねしながら気持ち悪いことを言うジャックさん。
先程のは、毎朝NEWニャン新聞……カツスポのライバル紙…みたいなものです。
ジャックさんが取っているのはカツスポの方。
勧誘の人が置いていったのを読んでいたらこのザマです。
細かいことを追求していくと疲れるので、考えるのを止めてリクエスト通り白衣のジャックさんを上から下までじっくりと眺めました。
相変わらず毛がふわふわしていて、無駄に暑そう……。
「あ、その眼は止めっダメ!そんな眼で見られたらオレ!あっ!」
気持ち悪いので床でのた打ち回る白衣からそっと目を逸らし、窓の外に眼をやりました。
相変わらず、外は暑そうです。
今日も医院は閑古鳥。
暑いのでみんな昼間は外に出たくないらしく、最近は熱射病で運ばれてくるイヌがせいぜいです。
あと換気忘れて室内で熱射病とか。
日が落ちれば多少は常連さんが来るのですが……。
暇過ぎてやることも無いしなぁ……ジャックさんをほっといてもろくな事にならないし……。
そうだ。
「ジャックさん、暇なら私の髪の毛切ってくれませんか?」
***
襟首がちくちくします。
まだ湿り気の残った髪が気恥ずかしい。
なんとなくショーウィンドを確認しては手櫛で梳いていると、反対側から見たことのある女の子がこちらを見ているのに気がつきました。
確か、サフの彼女の。
「ニキさん」
相変わらず可愛らしい。……いいなぁ。
白い髪には前髪がジャマなのか花柄のピンで留められ、夏らしいフリルっぽいノースリーブにハーフパンツ、長めの尻尾がちょっと膨らんでいます。
かわいい。
「…どうも」
「こんにちは、おひさしぶりです」
何故、一歩下がるんだろう……。
彼女は周囲を見渡すと、ちょっと嫌そうな感じで口を開きました。
「あの、サフって今日…」
「確か、魔法を習いに行くって行ってましたよ」
遊ぶ約束でもあったのか、耳がぺったりして、露骨にがっかりした姿。
ラブラブですか。いいですね。
「そろそろ終わる時間だと思うから……」
「…どうも」
警戒されているんでしょうか。上から下までじっくり眺められ、非常に居心地が悪いです。
なんか、悪いことしたかな……。
「髪留め、可愛いですね」
場を和まそうと取りあえず口にした言葉に、ニキさんの顔が一瞬緩みました。
「よく似合ってます」
「サフに貰ったんだ」
「へぇー意外とセンスいいんですねー。知りませんでした。凄く可愛いですよ。服にも似合ってるし」
ニキさんは髪留めに手をやり、尻尾をくねらして恥ずかしそうな表情になりました。
「マジでそう思う?」
「思います」
この表情は、見覚えがあります。
好きな人が出来たと報告してきた友達と同じ表情です。
「で、でもアンタもサフになんか貰ったことあるんだろ?」
くわっと眼を見開き、表情が一変しました。感情が豊かなことは確かです。
というか、話題いきなり飛んでいませんか?なんでそうなるんだろう……。
「ないですよ?」
ニキさんの返事を聞く前に不意に影が差し、頭の上に重さを感じて見上げるとほっぺたをむにむにされました。
「キヨカ、見つけた」
「リーィエさん?」
み、みえない……。
いや、そこぐりぐりしないでください。だめそこいたきもちいい。
「ジャックに聞いて追いかけた」
ぐにぐにむにむに
「ちょ、オレが話してんだけど、今大事な話してるとこなんだけど!ねぇ今のマジ?ホント?嘘じゃないよな?だってサフってみんなに優しいじゃん?」
ニキさんに腕を引っ張られました。
大事な話だったのか……。
「こちらも大事な話がある」
首に手を回され、そのまま引きずられそうです。
女性二人とはいえ、密着されるとそれなりに暑苦しいものがあります。
私を挟んで、よくわからない会話を続けるお二人。
あーリィエさん、つなぎなのによくわかる柔らかい感触が凄く羨ましいです……。
ニキさんはー…今後に期待ですけど、可愛いし…いいなぁ2人とも可愛く綺麗で。
御主人様もこういう子がいいんだろうなぁ……。
こういう風だったら、よかったんだろうなぁ……。
話しながら、腕を引くニキさんと首に回した手を離さないリーィエさん。
どうなるかといえうと、私がうまいこと首を締められたかたちになります。
なんでこっちの人って、首を狙うのでしょうか……。
暑さと酸欠で薄れ行く意識の中、2人が言い争う声がぼんやりと聞こえました。
***
「つか、キヨカがウサギのクセに地味だから逆に疑わしいっていうかさーだから、そのー…にゃー…ぁ」
「見苦しい嫉妬」
「普通思うだろ!ウサギだし。そっそういうのを好きなのを引っ掛ける罠だって思うじゃん!」
「そこまでは思わない」
「オレはそう思ったの!ねーちゃんだって言ってたし」
「シスコン」
「うっさいヤマネコ女!」
「ご注文のカキ氷三点お持ちしましたー」
「自分は女ではないと自覚しているのだな」
「ありがとうございますーそれはこっち、これはあっちです」
「どこがだ!そっちこそおっさんみたいな格好のクセに!」
「ごゆっくりどうぞー」
「これは仕事着。君が着るとマダラと誤解されるので勧めない」
「にゃー!!むかつくー!キヨカも!笑ってないでなんか言えよ!!」
初対面なはずなのに、非常に楽しそうな2人。
私は無言で小倉をかき混ぜました。
ニキさんはレモン、リーィエさんはイチゴ練乳。
2人はお互いの様子を伺いつつカキ氷に手を伸ばします。
一口食べて頬を緩め、もう一口食べてから同時に頭を抱え悶えました。
わりと面白いです。
「つ、つかさ。だって、キヨカだって超地味じゃん。メイドみてぇだからさ、そういうの好きなのかと思うじゃん。ワナだと思うじゃん。もっと普通なの着ればいいのに」
何をいわれたのか理解できずに一瞬そのままになり、それから首を傾げてみた。
「地味?」
リーィエさんにまで頷かれました。
正直、ヒラヒラでスケスケなのばかり着てたからこれぐらいで十分……まぁ、興味が無いわけではないんですが……。
第一、私はメイドというか家政婦というか……ペットみたいなものなわけで。
ジャックさんからお給料をもらうようになったといっても、御主人様に養っていただいてる身の上で贅沢とか……。
それに……その……。
「私には……似合いませんから」
ちょっと気まずいので笑顔を作って茶化した瞬間、椅子が引っ繰り返る音とどたばたとした騒がしい気配が喫茶店内に響きました。
「衛生兵ーっ衛生兵ー!誰か!恋に効くクスリかバカにつける薬を!」
「もう駄目だ、ヘンリー頼む、オレの代わりに…あ、あの娘の…」
「判った!デートに誘っとく!」
「しっねぇええ!」
……路上パフォーマンスというのでしょうか。
ネコの青年達が小芝居をしています。
あまり他の人をじろじろと見るのも失礼だという事を思い出し、続きが気になりつつむりやり首を戻すとリーィエさんは夢をみているような表情を浮かべていました。
「リーィエさん?」
「ああ、うん」
瞬きし、やけに慌てた仕草をするリーィエさん。頬がちょっと赤い。
ニキさんは小芝居している青年達とリーィエさんを呆れた目で見てから、深く溜息をつきました。
「そういえば、お二人とも何か話があるって言ってませんでしたっけ?」
「あ、そうだ忘れてた。あのさぁ、なんでキヨカってサフと暮らしてんだよ。キョーダイならウサギ男と住めばいいじゃん」
先に口を開いたのは、ニキさん。
テーブルに手を着き、覗き込むようにしてこちらを詰問してきました。
「サフと暮らしているんじゃなくて、あの人に住まわせてもらってるんですよ」
ニキさんが口を開けたまま動かなくなったので、小倉を掬って、口の中に入れてあげました。
白い尻尾がぶわっと逆立ち、涙目で睨んでいます。
「あんこ苦手?」
こくこくと頷く姿が、可愛らしい。
一生懸命飲み込もうとする姿を見て、何故か胸がきゅんとしました。
「キヨカ、私にも」
「あーん」
クールな人がお茶目な事をするのも相当可愛らしいものがあります。
「はい、キヨカあーん」
ちらりとこちらを見たウェイターさんの鼻先や耳の内側がピンクになるのがみえました。
気持ちはわかります。
あ、練乳も美味しいしレモンもいいなー。
「それで、リーィエさんの御用は?」
私より背が高いのに上目遣いされました。
やけに胸がどきどきします。
「試合、何故来ない」
「え、あー ……」
リーィエさんとは以前、拳闘の試合を見に行くという約束をした覚えがあります。
確かに、行くつもりでした。
でも、……。
私は言葉に詰まり、濡れたガラスの容器を見つめました。
「ごめんなさい」
本当は、私はここにだって居るべきじゃないんです。
御主人様の許可も得ず何かしたら、御主人様が不快に思うかもしれません。
不快に思って、私を売ろうと思うかもしれません。
できるだけ長く飼ってもらうには、失点を少しでも減らさなくてはいけません。
もっと働いて、できればお金も稼いで、御主人様に今みたいに飼ってる方が得だと思ってもらわなくてはいけません。
でないと……
「すみません、用事思い出したので先に失礼しますね」
思ったより、椅子が派手に鳴った。
喫茶店のある通りは、衣料品店が立ち並びおしゃれな格好をした人々で溢れています。
ショーウィンドで着飾って並ぶマネキンには、大きな耳や尻尾や羽が当然のようについています。
だって、ここは日本じゃないから。
ヒトで中古の私には、こっちの服装は似合わない。
綺麗な服を着たって、褒めてもらえるわけじゃないし、そもそも服だって買えばお金が掛かるし。
今だって、ジャックさんにお給料を戴けるのだって奇跡みたいなものなんだし。
私なんか、他のお金を稼ぐ方法も……無いわけじゃないけど、きっとムリだし。
ご飯を食べさせてもらえて、寝るところがあって、少しは役に立ってる。
十分私は幸せ。
あとどれくらいこうしていられるのかわからないけど、私は幸せ。
ヒトだっていう事を隠しておけば、みんな普通の人みたいに接してくれる。
ヒトだからって蔑まれたりしない。
だから大丈夫。私は幸せ。
石畳の隙間の雑草を眺めながら、何度も自分に言い聞かせる。
私は、しあわせ。だから……
「あのさ、この前、川行った時の」
耳元で急に声を掛けられて、とっさに掴まれた腕を振り解こうとしたらニキさんでした。
「ごめんなさい。ちょっと…驚いて」
驚いた顔をしているニキさんに謝る。
「あ、ああ」
こくこくと頷き隣りを歩きだす彼女に内心首を捻り、捉まれた指先をちょっとだけ握り返す。
「オレ、米苦手だったんだけど意見変わったかも」
何の話かわからずに首を傾げると、ニキさんは白い耳の内側をほんのりピンクに染め、ちょっと恥ずかしそうにした。
「おにぎり」
最近わかったのですが、御主人様もサフもジャックさんも和食より洋食派です。
チェルは何を食べても美味しいというので、あまり参考になりません。作り甲斐はありますが……。
「アレ、美味かったよ。オレああいうの結構好きかも」
そういって指を握り、ちらりと笑いました。
友達の笑い方に、よく似ていました。
辛いときに隣に居てくれた友達に似ていました。
「…ありがとう」
ニキさんはこちらから目を逸らし、ショーウィンドのマネキンを指差しはしゃいだ声でその服装のよさを力説しはじめました。
「そういう顔はしない方が良い」
不意に頬を引っ張られ、焦る。
引っ張ったのはいつの間にか後ろに居たリーィエさん。
さすがネコ科、足音が全然聞こえませんでした。
「色々釣れてしまうから、ダメ」
やけに真面目な顔をしています。
「ちゅれるって」
引っ張られた箇所を撫でてつつ尋ねると、ニキさんとリーィエさんは顔を見合わせ深刻な表情を浮かべました。
「念の為に聞くけど、キヨカって付き合ったことあるよな?」
「つきあう?」
「男でも女でもいいけどーそのアレ、恋人とか」
男性経験ならありますよ。死ぬほど。
とは言えないので曖昧に笑うと、再び2人は顔を見合わせました。
「あのヘビ男との関係は?」
「家主さん」
御主人様とは言えませんので。
「掃除、苦手みたいなので、居させてもらってるし…掃除くらいじゃ全然足りないんで他の事もしてますけど」
何故かニキさんの表情が引き攣りました。
「オレ…よくわかんないけど、そういうのってよくないんじゃないかな…ねーちゃんも身体は大事にするべきだって言ってたし……」
俯いて私の肩に手を置きぼそぼそと喋っています。
「ジャックん所住めばいいのに?」
「血の繋がり、有りませんので……」
形容し難い表情を浮かべたリーィエさんはニキさんを物陰に引っ張り込み、何やら二人で言い争いを始めました。
夕暮れ時、帰宅を急ぐ人々から不審そうな視線が集まるのがよくわかります。
今夜は何にしよう。コロッケでいいかな。キャベツっぽいの買わなきゃ。
「なー、キヨカぁ」
口元に泡が付いてるニキさんとリーィエさんが耳をピンと立ててこちらを見ました。
二人とも目が笑っていません。
「あのヘビと実際どうなんだよ…してたり、するの?アレと。ウロコだし、毒あるよなアレ」
物凄く真剣な眼差しで詰め寄るニキさん。鼻がくっつきそう。
私は口元に軽く人差し指を押し当て
「 ひ・み・つ 」
そう囁くと、リーィエさんが妙な声を上げて鼻を押さえました。
「いつでもウチに来ていい。むしろ一緒に住もう。そんな横暴な男は捨てるべき!掃除しなくても人は死なない!」
そういって私の頭に手を伸ばすリーィエさん。
そして……むぎゅっと……。
……ちょっと巨乳好きの気持ちがわかってしまいました。
「リー、キモい」
ニキさんの呆れた声。
「友達だから問題はない」
「いや鼻血ぐらい拭けよ…」
あのー……私、いつまでこうしてればいいんだろう……。
どうしても帰るのかと執拗に引き止めるリーィエさんを振り切り、夕食の買い物を済ます頃には二つの月が空に輝きだしていました。
***
普段よりもかなり遅く帰宅した御主人様の機嫌は、ここ一ヶ月内で一番最悪でした。
何か嫌な事でもあったのか、いわゆる殺気…みたいなものが漂っているような気がします。
早めに晩御飯にして良かった。
2人とももう寝ちゃってるから、もし御主人様が怒る事があっても2人には見られなくて済むし……。
「お疲れ様でした。残業ですか?」
御主人様は返事をせず自室へ向かいました。
どうやら、そうとう嫌な事があったようです。
キッチンに入り、晩酌の準備。
凶悪犯罪者フェイスなトカゲ男から、美貌のボスモンスターに戻った御主人様は疲れた様子で椅子に腰掛け小皿満載のテーブルを一瞥してから目付きを悪くしてこちらを見ました。
「なんだこれ」
「嫌いでしたか?これ」
御主人様に内緒で購入しておいたおつまみとかなんですが。
「買った覚えはないぞ」
そういって指されたのは地味な容器に入った赤いお酒。
砂漠でしかとれない実をお酒にしたとかで、ワインよりも透明度が高い赤色は、なんとなくアセロラを思い出します。
「というか、売ってないだろう」
「酒屋さんでお願いしたら売ってくれました」
御主人様は私とお酒を交互に見て、眉間に皺を寄せました。
「嫌いでしたか」
しょうがないので片そうとしたら、手首を掴まれました。
「お願いって、なにか変な事とか、されてないだろうな」
変な事って。
ナニ。
私の困惑に気がついたのか、御主人様は尻尾の先を床にぴしぴしと叩きつけ、こちらから顔をそむけるとつまみに手を出し始めました。
てゆうか、これだけ色々用意したのに、一番最初に手を出すのがカエル……。
そりゃ、好き好きですけど……。
卵料理とか鳥とか漬物とか色々あるのに……。
「カロティポは、久し振りに見たな」
あ。御主人様笑いました。
何千回でも言いますが、御主人様は美形なので、何をしてても美形ですので笑っても当然美形です。
……あ、壁ちょっと汚れてるから、掃除しなきゃ。
「これは、客に出すものだ」
……ぬ?
御主人様が隣の椅子を叩いたので取り合えず、腰掛けます。
お酒、喜んでもらえたみたいです。
「あとは…祝いのときか」
「砂漠の名物辞典にはそんな事書いてありませんでしたが」
うっかり漏らした呟きが聞こえてしまったらしく、御主人様はお酒と私を交互にみて顔を逸らしました。
「今日呑むのには勿体無いな。いつものを頼む」
私は頷いて買ってきた分を片し、いつもの方を準備します。
「今日は、映画を観てきた」
なにやら話し出す御主人様に耳を傾けつつ、お酌する私。
「映画……ですか」
そりゃ、御主人様だって息抜きが必要だって事ぐらいわかります。
ペットごときが御主人様の交友関係を気にする必要だってありません。
……少なくとも、ジャックさんと見に行ったわけではないのくらい、想像がつくだけです。
「非常に胸糞悪い内容だった」
で、機嫌が悪かったと。
なら、一緒に行った人ともあんまり盛り上がっていないって、思ってもいいんでしょうか。
ちゃんと帰ってきたし……。
いいなぁ……御主人様と映画。
「どんなジャンルですか?恋愛?アクション?まさか特撮?」
あ、御主人様がすごい無表情です。
無言でぱりぱりと干し海老みたいなのを食べ、ちらりとこちらを見てから目を逸らしました。
「女優が……」
固唾を呑んで御主人様の口元を見つめる私。
「お前に似てた」
思わず俯いて、膝の上に載せた指先を睨みました。
マニキュアも何もしていない短い爪に、指先も少しざらざらしています。
ちょっと……不機嫌だった理由が、私だと暗に言われたような気がしただけです。
居ると不快だとか、見た目が悪いとか まだ 言われたわけじゃないし……。
……貞子みたいな人が出る映画だったらどうしよ。オバケ似とか、へこむ。
明日の仕度でもしておこうと椅子をずらし、席を立とうとしたら物凄い目で睨まれました。
一体何を考えているのか……。
無言の圧力のようなモノを感じ、仕方なく夜食用のパンとナイフを手に取り席に戻ります。
御主人様が好きなのは、柔らかくて軽い食パンではなく、円形の固くて分厚くて重いパンです。
ナイフで切ろうとすると、やたらとパン屑がこぼれ薄切りではない何かになるタイプ。初めて切ろうとした時、台形になったのもいい思い出です。
それにつまみとして出したサラミやチーズや野菜類を挟んだものを作ったはしから食べていく御主人様。
「ヒトオタクが作った映画とかでな。酷かった」
御主人様はソーセージを食べながらそう言って、なんだかどこか痛いような表情を浮かべていました。
「ノンフィクションですか?」
トマトの輪切りをぱくりと飲み込み、首を横に振る御主人様。
「なら、今度から観なければいいじゃありませんか」
御主人様の健啖ぶりを半ば呆れながら眺めていると、目の前にフォークで刺した香草入りハムを突き出されました。
「食え」
「もう晩御飯は戴きましたので、これ以上食べたら太ります」
「太れ」
理不尽発言来ました。
「太っても巨乳にはなりません」
私がそう返そうと口を開くと、無理やり押し込まれました。
フォアグラですか、と言いたくなったのを堪えてもぐもぐしながら見れば、御主人様はどことなく満足げな雰囲気を漂わせています。
最近、機嫌の緩急が激しすぎるんじゃないでしょうか。
それとも、私が御主人様のことをわかってきただけなんだろうか……。
「美味かった」
「お粗末さまです」
大半が空っぽになったお皿を見て、まだ皿洗いという自分の仕事が残っていることがわかってほっとする。
まだ、私は役に立つから大丈夫。
片そうと席を立ち、御主人様に背を向けると急に引き寄せられました。
「 」
耳元で囁くのも止めてください。よく聞こえないから。
私、体重増えたので重いのになんでそうあっさりと持ち上げますか。
内腿を尻尾で触るの止めてください。背中をそんな風に触らないで下さい。
服の中に指を差し入れられて、冷たい指先に心臓が鷲掴みにされる。
間近な顔から目を逸らし、恐る恐る肩に腕を回してみた。
少し冷たい温度を頬で感じながらイヌに比べれば相当薄い御主人様のニオイを嗅ぐ。
これ、アレですよね?
夜だし?その、なんか……溜まったもの的な?
デートに失敗して、お預け食わされちゃったし……とか?
違ったらどうしよう。
そしたらこっちが飢えてるみたいで凄くイヤなんですけど…だって最初の頃に聞いても普通に迷惑がられてただけだったのに。
あれから、少しは私の身体はマシになってるんだろうか。
それこそ安物のマネキンみたいな固くて棒みたいな状況から、ちょっとはその……女らしく?
一応、女優さんに似てるって言われたし……。
外見じゃなくて、役柄の事だったらどうしようとか色々考えつつ、唾を飲み込んで何とか声を絞り出す。
「あの……」
首に顔を埋めていた御主人様がこちらを見た。
御主人様の眼は、暗い所だと瞳孔が広がってヒトの眼に良く似たふうになる。
「触るだけで、いいんですか」
返事の代わりに噛むのは止めましょう。
舐めるのもダメです。
吸うのも絡ませるのもよくありません。
言って下さい。ちゃんと。
どうすればいいのか、わからないから。
不意に顔が離され、見上げれば御主人様の目線は私の後方を見つめていました。
つられて振り返ると、じっとこちらを見つめるチェルの姿が眼に入ります。
飛び跳ねる心臓をなだめて深呼吸。
「2人とも、なにしてるの?」
鋭い質問に返す言葉も無く、私は胸元のボタンをそっと直し御主人様は際どい所に潜り込んでいた尻尾をさり気無く解き始めました。
そっと降りてから、念の真似に御主人様の服装を確認し、チェルを手招きします。
早くも飛び跳ねている柔らかな髪を手で撫でつけ、パジャマの襟を直し、泣いた跡が付いた目元を触りました。
「怖い夢みたの?」
唇をかみ締めて頷く小さな身体を抱き上げた。
思ったより、重くて少しふらつく。
―――あとどれくらい、こうしてあげられるんだろう。
背中に回された小さな手の温度が下がらない内に早くベッドに戻してあげようと思い、御主人様の方を振り返る。
「では、先に休まさせていただきますので」
御主人様、口が半開きです。
「普通」
私に抱かれたままのチェルが解かれた私の髪の毛をちょっと握りました。耳元で聞こえる小さなあくび。
「また後で、じゃないのか」
時刻は深夜を回っています。
御主人様は明日もお仕事です。
早く寝ないと、明日に差し障ります。
「お皿はそのままで結構ですので」
ずりおちそうなチェルを頑張って抱き直す。
「それでは」
小さな温かい指と、歯磨き粉の甘い匂い。
「おやすみなさい」