続・虎の威 10
雨が降る。
乾いた街を湿らすように、生暖かい雨が降る。
千宏は雨が嫌いだった。
すっかり泣きはらした様子で千宏が浴室から出てくると、テペウは黙って千宏に温めたミルクをよこし、ソファに腰掛けるように促した。全ての気がそげたとでも言うように、すでに頑丈そうな皮のズボンをはいている。
千宏の手には大きすぎるカップを受け取り、ソファに座って一口すすると、風呂と大泣きで失われすぎた水分が体にじわりと染み渡って行く。
そして、テペウは唐突に切り出した。
「まあ……呪いなんだよな、いわゆるよ」
巨大な体を小さく丸めて、テペウは立派な尻尾でぱたぱたとソファを叩く。
「女を泣かせるってのが、生理的に受け付けねぇ。よがり泣きってのはいいだが……あー、あれだ。なんか、罪悪感に作用してうんぬんとか抜かしてやがってな。まあ、二百年近く前の話なんだけどよ」
女が泣いていると言う事実より、自分が泣かせたという認識が、どうもテペウには大きな打撃となるらしい。ともかく、千宏はテペウに呪いをかけた人物に心から感謝した。
「あれだ……ネズミが死んでからしばらく荒れててな……まあ、トラの女に手ぇだしてる分にはよかったんだが……他の種族の女に手ぇ出して回ってたら、地雷踏んじまってよ」
ヘビの女だったなぁ、とテペウは呟く。
死の商場で出会ったというヘビの女は、どういうわけかテペウを真剣に愛したらしい。無論テペウからしてみれば、遊びに過ぎない女であった。捨てる、という意識もなく、当然のように終わりを告げたテペウの前で、ヘビの女はごく静かに泣いたと言う。
「殺してやりたいほど憎いのに、まだお前を愛してやまない。だから命までは奪わないでおいてやろう。しかしお前は女の涙に身の毛がよだち、おののくようになるだろう。一生へつらい生きていけ。お前が弱いと侮る者に、お前は膝を折ることしか許されん」
一言一言、噛み締めるようにテペウが言う。それから、女はこえぇなあ、とわざとらしく身震いした。
「ネコに聞いたら、そんなに強い呪いじゃないから、その気になればどうとでもなるらしい。だけどよ、まあ、そんでほいほい呪いを解いちまったら、あのヘビ女に対する裏切りだろ? あいつはわざと、解ける程度の呪いをかけた。俺が一生この呪いを背負ってくだろうって信じてな」
きっとこの呪いが強力で、解くのに命の危険が伴うとなったら、テペウは迷わず呪いを解こうとしただろう。だがあえて解けるようにしたというなら、背負って行くのがトラの流儀だ。
本当に、この種族はなんだって勝負ごとにしてしまう。
千宏はミルクを飲み干すと、静かにテペウに歩み寄った。喉を指差して口を動かすと、忘れていたと言うようにテペウが千宏の眼前に指をかざす。
軽く指を振っただけで、テペウは短く「終わりだ」と告げた。声を出してみると、なる程確かに声が出る。
「帰るんだろ。送ってやろうか?」
言って立ち上がろうとしたテペウの肩を静かに押さえ、千宏は再びテペウをソファに座らせた。きょとんとして、テペウが目を瞬く。
「まだ仕事が終ってない」
唖然として、テペウは目を見開いた。
「だっておまえ……さっき……」
「さっきは、あんたが変な事言ったからああなったんだよ。あたしはあんたに抱かれる。あんたはあたしにお金を払う。その約束を破らなければ、あたしはあんなふうに泣いたりしない」
テペウの尻尾が大きくソファの表面を叩き、それきりぴたりと沈黙する。雷が鳴ったが、千宏は気にしなかった。
「……なんのために、そこまで金がいるんだ?」
千宏は顔を顰めた。
「関係ないでしょ」
「俺だって昔話をしただろうが。こんどはお前の番だ」
確かに、千宏はテペウの過去を聞いた。だからといって千宏が自分の目的を語る必要は無いが――それは、トラの流儀に反する気がした。
「子供が欲しいの」
「子供だぁ?」
「それにはヒトのオスがいる。年はとってても構わないけど、不細工な男じゃだめなんだ。だから凄くお金がいるの」
「なんのために」
「そこまで教える必要はないと思うけど……」
まあ、いいだろう。なんとなく話してもいい雰囲気だった。
「あたしね、あるトラに拾われたんだ。国境がある山沿いの森に住んでるトラで――」
「国境の守護者か?」
驚いたように訊ねたテペウに、千宏も驚いたように頷く。
「知ってるの?」
「国境の守護者は三人いる。どいつだ」
「バラムっていうんだけど……」
テペウは笑った。
「そりゃすげぇ、門番か! さっきちらっとそんな名前出してたが、まさか本物の話とはな!!」
門番? と千宏は首をかしげた。
確かにあの要塞には、巨大な扉が一つあるが――。
「山沿いには三人の守護者がいる。そいつらはそれぞれ与えられた範囲を守っててな。北にイヌの国を見て、西に一人と、東に一人。そして中心に一人だ。その中心が一番イヌに攻められやすい地形をしてて、ここを守るトラが門番と呼ばれてる」
はぁ、と千宏は頷いた。随分と――。
「くわしいんだね……」
「トラの戦士なら誰でも知ってる。国境の守護者は国一番の強者だ。おまえ、とんでもねぇ奴に拾われたな!」
恐れ入ったと、テペウがゲラゲラと笑う。しかしふと何かに気付き、訝るように千宏を見た。
「……じゃ、なんでおまえはここにいるんだ?」
「だから子供が欲しいんだって」
「そりゃ分かってる」
「あたしはさ、あと数十年もすれば死ぬでしょう?」
「まあ、そうだな」
「そうすると、あいつらきっと悲しむ」
テペウは未だに張り付かせていた笑みを消し、再び真剣に千宏の瞳を覗き込んだ。
「だけどあたしに子供がいれば、その子供が子供を産んで、あたしの血はずっと生きていけるでしょ? そしたら、あいつらはあたしの子供を愛してくれて、笑ってあたしの死を思い出せる。だからあたしは子供が欲しい」
「わからねぇな。飼い主に言やぁ、オスヒトの一匹くらい、手に入れてもらえるだろうが」
千宏は首を左右に振る。
「それじゃ、あたしはペットになっちゃう」
「……なに?」
「自分の力でやらなきゃ意味がない。あんたは笑うかもしれないけど、あたしはトラになりたいんだ。全部与えられて、ぬくぬくと生きているのはトラじゃない。そうでしょ?」
飼い主にねだって交配相手を与えてもらい、子供を産むのが最も確実な手段だ。だがそれでは、千宏は誇りを手放してしまうことになる。
「だからあたしは、全部自分で手に入れる。全部自分で手に入れて、全部あいつらに与えてあげる。それであたしは、やっとあいつらと同じになれる。トラになれるんだ」
また、雷が鳴った。ひどく大きい。落ちたのかもしれない。
雨はますます激しく振り、部屋には沈黙ばかりが落ちる。
テペウは何も言わなかった。
「……名前、なんつったか。お嬢ちゃん」
「千宏」
そうか、とテペウは笑った。
「あんまりそそる事言うもんじゃねぇぞ。本気でお前が欲しくなっちまう」
「そしたらまた大声で泣き喚いてやるもん」
「魔法で声を封じられたらどうする?」
「それって、あたしに負けを認めてることにならない?」
テペウは今度は声を上げて笑った。
「そりゃそうだな。ああ、そりゃそうだ。そんなんじゃ意味がねぇ。そんなやり方はトラじゃねぇ」
内心、千宏は安堵に胸を撫で下ろした。
テペウはトラだ。意地と誇り重んじる、馬鹿馬鹿しいほどに真っ直ぐなトラの男だ。
「それじゃあ、俺はどうすりゃいい。楽しませてくれるんだろ?」
その言葉を合図に、千宏は素肌の上に巻きつけていたローブの紐を解いて床に落とした。ソファに座るテペウの前にひざまずき、ズボンに手をかける。
流石に風呂上りにベルトまでは締めておらず、三つ縦に連なったボタンも一番上ははずしてあった。ヒトメスの力では少し固いボタンを苦労してはずし、千宏はようやくテペウのものを引きずり出した。
躊躇せず睾丸を口に含み、舐め転がしながら陰茎をさする。へぇ、とテペウが意外そうな声を上げた。
「妙な感じだな。ヘビよりはあったけぇが……」
ひやりとするほどではないが、暖かいとは感じない。それがトラとヒトの体温の差だ。
舌はヘビのように長くはないが、イヌのように滑らかで柔らかい。鋭い犬歯も存在せず、繊細にやわやわと、丹念に、丁寧に舌を使う。
「攻められるのは趣味じゃねぇんだがな」
「攻められてると思わないで、奉仕されてると思えばいいんじゃない?」
言って、千宏は大きく口を開けて怒張の先端を含む。そうするとテペウの長い尻尾が伸びてきて、くすぐるように千宏の頬を撫でた。
「もういい。口に出すのは好きじゃねぇんだ」
「そう? そりゃ残念」
儲け損ねちゃった、と唇を尖らせた千宏に、テペウは気分を害した風もなく笑う。
促されてソファに上がり、テペウの腿をまたいで膝立ちになる。そうすると、大分テペウの顔が近くなった。一文字に走る傷の部分は、体毛が生えていない。
「濡らして。たくさん。でないとかなり辛いから」
テペウは答えず、千宏の背に手の平を滑らせた。その手が下へ下へと下がって行き、尻を行過ぎて探るようにその奥に触れる。
「ヒトに触るのは初めてなんだ」
「うん」
「こえぇな……でっけぇ猛獣より何倍もこえぇ」
傷つけるのを恐れるように、テペウは指の腹でゆっくりとそこをなぞった。男に慣れた千宏の体は、それだけでじんわりと濡れてくる。
そのまま中へと入り込んできた太い指に、千宏は声を殺してテペウの胸にしがみ付いた。ゆるゆると、確かめるようにテペウの指が何度も何度も出入りする。いつの間にか二本に増やされた指の圧迫感に、千宏は喉を反らせて吐息を零した。
「痛くねぇか」
「ぜんぜん……へいき……きもちい……っ」
すると、指の動きが早くなる。
トラは、行為の最中も平然と喋り続けるのが普通だった。だがテペウはほとんど喋らず、部屋には千宏の声と雨の音と、それとは別種の水の音ばかりが響く。
溢れた愛液が内腿を伝って流れ落ちるほどになると、テペウは背を丸めて千宏の耳元に口を寄せた。
「どうだ? まだ足りねぇなら、舐めてやってもいいぜ」
言って、千宏の中から指を引き抜き、絡みついた愛液を美味そうに舐めてみせる。千宏は快楽に疼く体を小刻みに震わせながら首を振った。
「もう、大丈夫……いいよ……いれ……て」
「そうか? そりゃ残念だ」
先ほどの千宏の言葉をそのまま真似し、テペウは千宏の腰を引く。
ゆっくりと言うよりも恐る恐るといった様子で、テペウはゆるゆると、針に糸を通すような慎重さで千宏の中へと押し入った。
「あ……すご……あつ……ぃ」
呻くように言って、千宏は歯を食いしばる。
痛みは無いが、大きすぎる圧迫感に息が詰まった。苦しくてもがくようにテペウの肩に爪を立てると、テペウは体を折り曲げるようにして身を伏せ、千宏の腕を自分の首の後ろへと導く。
差し出された舌を躊躇なく受け入れて、千宏は犯すように口腔を嬲られながら自ら腰を揺すり始めた。
不思議な気分だった。
テペウは千宏を快楽で屈服させようとはせず、かといって快楽を得ることに躍起になっているわけでもない。安心して体を任せられるトラは初めてだった。アカブに抱かれている時さえ、千宏は時々壊されるのではないかと怖くなったというのに――。
「は……ぁ……ぅあ、ひ……」
唇を開放されると、甘く震えた声がこぼれた。息苦しさはいつの間にか消えていて、上り詰めて行く快楽だけがじりじりと千宏を焦がす。
「いく……あたし、も……テペウ、あ……ぁ……もう、いきそ……」
「そうか? それじゃ……」
言うなり、テペウは大きく腰を揺すって千宏の奥を貫いた。
目のくらむような快楽が、千宏の全身を突き抜ける。
「うぁあぁあ! そ、おく……だめ、いく……! も、だめ、だめ……ぁ……っ」
食いちぎらんばかりに締め付けた千宏の中で、テペウのものが大きく脈打ち、溢れるほどに白濁が注ぎこまれた。どろりとした灼熱が胎内を満たし、千宏は歯を食いしばって快楽の余韻をやり過ごす。
それからくたりとなってテペウの胸に額を押し付け、千宏はぞくぞくと肩を震わせた。
「だから言っただろう? 俺は紳士だってな」
そう言ってテペウは笑い、ベッドに寝転がって体を休める千宏の髪を弄んだ。
事が終って身なりを整え、金銭の取引も全て終えた後である。
「紳士って言うか……トラに抱かれた気がしない」
と言うよりも、と千宏は思う。
「テペウ、ほんとに気持ちよかったの?」
「なんだ、そりゃ」
「だってなんか……凄く気を使ってもらった感じ」
あのなぁ、とテペウは笑う。
「俺はもう四百近いんだぜ? そりゃちったぁ落ち着きも出てくるだろう」
「よ――」
千宏はあんぐりと口を開け、まじまじと傍らのトラを見た。
「今年で三百八十九になる。盛って腰振る以外にも、楽しみ方ってのを知ってるんだよ」
べしゃりと、千宏は完全にベッドに突っ伏した。千宏が軽く四回は死ねる月日を、この男は生きてきたのだ。百何十歳だ、二百歳だと聞くたびに頭が痛くなると言うのに、さらにその倍近い年月をトラは平然として生きる。
「あたし、何代世代交代すりゃあいつらに追いつくわけ……?」
少なくとも、十代程度では追いつかないのは確かであった。脱力する事この上ない話である。
その時、部屋に激しいノックの音が響き、千宏は文字通り飛び上がって驚いた。
「お……お客さん?」
「のようだな」
面倒くさそうに言って、テペウはのそりと起き上がる。楽にしていろと仕草だけで千宏に伝え、テペウはのしのしと玄関へ向かった。
特に誰何の声を上げるでもなく、無造作にドアを開ける。
瞬間、白刃が空を切った。てしかしテペウは微動だにせず、面倒くさそうな表情はそのままに扉の向こうの人物を見る。
「よう。遅かったじゃねえか、イヌの兄さんよ」
ハンスであった。抜き身の剣をテペウの首にひたと当て、牙さえ剥いてテペウを睨む。
「チヒロを返せ」
テペウは思わず吹き出した。
「返せだ? なんだ、チヒロはてめぇの持ち物か?」
「雇い主だ」
「だったら、てめぇに返す道理はねぇな。違うか? 実力で守るのがてめぇの仕事だ」
「テペウ!」
ハンスの更に後ろで声があった。テペウがそちらに目を向けると、女を連れたトラの男が立っている。ブルックだ。その隣の女はカキシャといい、テペウが部屋に招いた事もある美女である。
ははぁ、とテペウは頷いた。
「お前が連れてきたのか、カキシャ」
「あら、いけなかった?」
「この状況を見ながら、よくその台詞が出るな。惚れ直すぜ」
「おだててもだぁめ。今日はあたしはブルックの貸切なの」
真っ赤な唇を意味深に舐め、カキシャはブルックにしなだれかかる。
「それで色男さんよ。お前はまた、なんだってここにいる?」
「おまえが千宏をさらったって聞いてな」
「護衛はもうやめたんだろうが」
「そうだが、トラをやめた記憶は無い」
「そうか? そりゃ安心したぜ。だがはいそうですかって返すわけにゃあいかねぇな。俺はあの女が気に入った。護衛をやめたってこたぁ、お前らにはあの女を守る義務も権利もねぇってことだ。権利があるのは……」
言って、テペウはハンスの首をつかむ。突然の攻撃に面食らったハンスの体を、テペウはそのまま室内へと放り込んだ。
何かに衝突したのか、ぎゃん、と甲高い悲鳴があがる。
「あのイヌの兄さんだけだ。帰ってカブラに伝えな。チヒロはイヌともども俺が大事に飼ってやるってな」
初めて、ブルックは険しい表情でテペウを見た。その隣で、面白そうにカキシャがにやにやと二人の男を見比べる。
「あんた、俺たちに何を期待してるんだ」
「勘違いするんじゃねぇよ。ただ、伝えておくのが礼儀だと思ってるだけだ。例え今更護衛を続けると言ってきたって、俺はあの女を返す気は全くねぇ。わかってたはずだぜ? こうなるってよ。分かっててあの女を放り出したんだろう? 違うか?」
「――チヒロになにかあったら、カブラはあんたを殺しに来るぞ」
「おいおい。お前らが放り出したヒトのお嬢ちゃんを、俺が哀れに思って保護してやったんじゃねぇかよ。感謝されこそすれ、何で俺が殺される?」
「カブラが放り出したんじゃねぇ。チヒロが俺たちを切ったんだ」
テペウは笑った。
「同じ事じゃねぇかよ。お前らは護衛をやめた。その結果何が起こるか、十分想像できたにもかかわらずな。つまりお前らは、そうなってもいいと思って、大人しく引き下がったんだ。違うとは言わせねぇぞ。てめぇらはチヒロより自分の意地と誇りを取った。だったらてめぇらはそれを突き通せ。それがトラの流儀だ」
放り出しておいて、危なくなったからと言って『やっぱり守る』は通じない。守ると決めたら何があろうと守り抜かなければ、それはトラの男じゃない。
「失望したぜ。だがありがとうよ。おかげでいいもんが手に入った。そう心配すんな。ちゃんと最後まで可愛がってやるからよ」
じゃあな、とカキシャの頬をひとなでし、テペウはあくまで穏やかに扉を閉めた。ブルックはその扉を睨んだまま微動だにしない。
「状況はよくわっかんないけどさぁ」
カキシャは考えるように天井を仰ぎ、それからちらとブルックを見る。
「放り出したって、後で欲しくなったら全力で取り返すのがトラよね?」
外は雨が降っている。
明日には森で狩がある。
千宏はテペウと共にあり、しかしハンスも側にいる。
「――行くぞカキシャ」
ブルックは、歩き出した。
「あら? いいの? 扉ぶち破るんだったらあたし手伝うわよ?」
「いい。テペウはチヒロを名前で呼んだ。ってことは――そう酷い状況じゃねぇ」
あらそういえば、とカキシャは呟く。
「それって本当にかなり本気ってことじゃない? じゃ、あんた達に護衛されてるよりずっと安全かもしれないわね」