離れ際に頚動脈を掻き切る。
手に持つのはただ薄さと切れ味を追求したナイフだ。
骨はもちろんの事、下手をすれば筋肉にすら阻まれかねないが、首筋を狙うのであればあまり気にする必要はない。
問題なのはむしろ血や脂だが…たかだか六人。何とかなる。
仲間の首から噴水のように噴出した血に驚愕している隙を突き、二人目に貼り付くように密着する。
「ひっ」
悲鳴をあげるな。こっちの殺意が鈍る。
殺意が鈍れば動きも鈍る。
だから相手の悲鳴は消す必要があり、必要があるのであれば俺はそうする。
はたして、一切の遠慮なく無造作にそうした。
「…んな…て…!」
煩い喧しい黙れ。
苛立つ。
苛立つが殺気は邪魔だ。
殺意だけがあればいい。
だからまずは苛立つ相手を消す必要があり、そうしてから次へ。
必要な事から優先的に。
料理だろうが仕事だろうが、それが当然。そうして当然。
残りは三人。そしてこれで二人。
楽しい、とは思わない。
つまらない、とは思わない。
そういうものだ、とは思う。
ただそれだけ。それだけだ。あと一人。
…ああ、こいつが『そう』か。
どうせなら最初に消えていてくれれば楽だったんだが、外見からだとわからないな。
まぁ、いい。
どうせそうする必要があるのだから、結局やるべき事は変わらない。
誰だって必要ならばそうする。
少なくとも俺は必要だからそうする。
そしてその【少女】は、口を上弦月の形に歪めて
「…ようやく遭えましたね。愛しい人」
- 夢 -
「ぐぅ、あっ!」
無理矢理跳ね起きた。
激痛の走る頭に手をやる。
「痛…夢、か」
違う。
ただの夢ではない。
それは確かに言える事だ。
あれは夢ではなく…
「…面倒臭い。ああいうのは忘れよう」
決める。
今後も同じような記憶を思い出しても極力忘れる事にする。
あんな記憶があると色々と面倒臭そうだからだ。
幸いな事に夢として見た為か、既に大部分は忘れている。
このまま意識しなければ勝手に忘れられるだろう。
楽でいい。
…もう忘れた。
やけに物騒な夢だったような『気がする』。
それだけ。ただそれだけの事だ。
- 1 -
最近、朱風が不気味で仕方ない。
何処がどう、とははっきりしないし、何か厄介事があるわけではない。
むしろ逆だ。
この前朱風が風邪で倒れるまでは、月に一回程度は必ず乱闘だの用心棒だのと厄介な騒ぎに巻き込まれていた。
だが朱風が復調してから既に三ヶ月たつが、その類の騒ぎは一度も起きていない。
それどころか家の中でも理不尽に絡んでくる事が少なくなった。
まあ、少ないだけでたまにならあるが、それでも以前に比べれば遥かに少ない。
そんな状況が続いている。
そのため
(一体何を企んでいる…)
と疑心暗鬼に陥っている。
単に熱で脳がやられた程度の事であるのならばむしろ安心…いや、それはそれで心配ではあるな、一応。
結局のところ、俺があの『主人』に関して安心する事はないのかもしれない。
常に『不安』か『心配』かだ。
…面倒臭い。
いっそどうでもいいと思えれば楽なのだが、それが出来ないのは何故なのだろうか?
自分でも解らない。
「…答えの出ない事を考えても仕方ないか」
「なんじゃ、突然哲学的な事を言い出しおって」
「哲学的か?」
「ふふん。この世の全ての事柄は哲学的かそうでないかの二択じゃよ」
「それがどうした」
「ぬ。レダに言うた時は感心されたんじゃがのう」
「当たり前の事を何故感心できるんだ、あの猫は…」
『1か0か』ならばまだしも、『1かそれ以外か』ならば全ての事柄が該当するに決まっているだろうに。
あるいはその意味を考えずに語感だけで判別しているのかもしれないが。
…あの猫なら有り得るな。
まあどうでもいい事か、と目の前の事に集中する。
「んっ、あっ、そこは待て」
「動くな。危ないぞ」
「そんな奥を弄られたら我慢できなくなるに決まっとるじゃろ。女にはも少し優しく、な?」
「…面倒臭いので断る」
「ひうっ」
悲鳴にしてはさほど拒否しているようには思えないので遠慮なく続ける。
こちらとしてもいつまでも我慢しているつもりもない。
「んぅ…っ!」
「ここか」
ほんの少し硬くなっている場所を探り当てた。
敏感な部分だしあまり強くすると痛いかもしれないが知った事か。
「あ、やぁ」
「安心しろ。まだ奥までは入れない」
「ほ、本当じゃな? 信用するから裏切るではな…ひっ」
びくん、と朱風の体が跳ねた。
「…力を抜いておかないと痛いぞ」
「嘘…つきぃ…っ」
「別に嘘じゃない。言っている最中は入れてないからな」
自分でも詭弁だとは思うが、一応理由もある。
どんなに覚悟していてもやはりその瞬間を知ってしまえばどうしても力が入る。
故に不意打ちこそが最善。
確か脱臼した時などにもそうした事が行われていると聞いた事があったようななかったような。
「詭弁にすらならぬような詭弁を…っ」
言い返す余力があるようだが、やり足りないか。
ではなく。
「…痙攣するな。邪魔だ」
ぴくぴくと小刻みに震えているのが邪魔だった。
いっそ力任せにやれたら楽なのだが、敏感な部分を弄る以上そうはいかないだろう。
だから最大限に注意を払っているのにも関わらず
「ううぅ~」
涙目でこちらを睨んできた。
さて、どうしたものか。
…よし。
面倒臭い。
好きにやろう。
「ひあんっ!」
「うるさい黙れ」
15分後
「終わったぞ」
「あぁ…また陵辱されてしもうた…」
「…安心しろ。俺は子供に手を出すような変態じゃない」
「ぬぐっ」
折角人が耳掃除をしてやったというのに陵辱呼ばわりか。
確かに、頼まれたわけでも命令されたわけでもないんだが、小刻みに震える耳に四苦八苦しながらやり遂げた事を不当に評価されているような気になる。
「…ま、まぁ耳掃除するのはまだよい。いやあまり良くはないんじゃがそれは置いておくとしても、頭を押さえつけるのはやめい」
「耳掃除中に動かれると危ないし、実際に抑えていなければ綿棒が刺さっていると思うが、いいのか?」
「ぬぅ」
本当なら自分でやってもらうのが一番楽なんだが、どうにもこの狐は自堕落で困る。
外見には多少なりとも気を遣うくせに、生活の部分では少しばかり…いや、かなりの部分で駄目な存在だ。
俺がいなくなったらどうなるか気が気ではない。
…それにしても、耳掃除をするために払い投げて強引に膝枕の形にもっていったがやはりあの体勢は慣れない。
足が痺れこそしないが、筋肉が固まって咄嗟には動きにくくなる。
その分楽に座っていられるとは言え、耳掃除はそう頻繁にやりたい事柄ではない…と、思ったが。
よく考えてみると尻尾の手入れの時とこちらの姿勢はかわらない。
朱風が頭を乗せているか腹を乗せているかの違いだけだ。
それならば、次からは尻尾の手入れをする時に機を見て一緒にやってしまえばいいだろう。
耳の根元あたりの毛は尻尾ほどではないが中々面白い手触りだし、役得と言えば役得。
問題は朱風の機嫌が悪くなりそうな事だが。
実際、今この瞬間もこっちの顔から目を離そうとしない。
これは何か厄介な事になるか? と考えた瞬間、朱風がにやりと笑った。
どうやら嫌な考えが的中してしまったらしい。
面倒臭い…が、不幸にも『命令』の使用条件が整ってしまっている。
本気ならば逆らえない。
一ヶ月に一度ではなく二ヶ月に一度ぐらいにしておけば良かったか、と思っても後の祭りだ。
そして朱風が口を開いたが、出てきた言葉は
「昼寝をするぞ。付き合え」
…予想外だった。
確かに、俺も最近は朱風が大人しいおかげで最近は暇な時間が増え、縁側で何もせずに日に当たっている事も多いが、昼寝はした事がない。
別に寝不足を感じる事はなかったし、拭いきれないほどの疲労があるわけでもないからだ。
まあ…幸い今日の分の掃除も洗濯も一段落している。
夕方まで暇と言えば暇。
「そうだな。まあ、別に構わない」
なので了承する。
なら布団…を敷くのも妙か?
適当に座布団でも持って来たほうがいいかもしれない。
「うむ。ではここに座れ」
「…?」
…昼寝とは寝るものではないのか? と疑問を抱かせるような発言をされた。
座りながら寝ろとでも言うのだろうか。
まあ出来なくもないが。
「なんじゃその顔は」
「俺も一緒に寝るんじゃないのか?」
「な…ば、馬鹿者、何を勘違いしとる。膝枕をせいと言うておるんじゃ」
なるほど。
予想外とは思ったがそういう事か。
「面倒臭いので断る。さっきまでさんざんしていたし、それ以前に俺の膝枕なんかで寝られるのか?」
「んー…まあ確かにちと硬過ぎじゃが、寝られぬでもないと思うぞ」
「無理をしてどうする。いずれにせよそんな面倒臭い事に付き合うつもりはない」
別にどうしても昼寝をしたいほど疲れている訳ではないのだが、折角の暇な時間を膝枕で潰すのは勿体無い。
…まあ、かと言って他に暇潰しの方法があるかと聞かれると縁側に座って何もせずにいるぐらいの事しかないんだが。
だがあれはあれで中々楽しい。
特に雲が流れていくのを眺めていると心が安らぐ。
平穏万歳。
「では仕方ないな。添い寝して抱き枕になれ」
「…何故そうなる?」
「昼寝に付き合うんじゃろ?」
「ああ。だが別にそこまで密着する気は」
「膝枕はお断りなんじゃろ?」
「…ああ。だがその理由も説明」
「最初に一緒に寝ると言うたのはぬしじゃろ、奴隷。諦めてわしと一緒に昼寝じゃ。良いな?」
こちらの反論を間髪入れずに否定してくる。
理不尽な点も多々あるものの、かといってこちらが完全に論破できるようなものでもない。
それを解ってやっているであろう点が厄介だ。
「奴隷?」
「…解った」
と小首を傾げてこちらを覗き込んで来る朱風に根負けする。
まあ、考えてみれば膝枕に比べれば抱き枕程度、大した事はない…ような気がする。
少なくとも正座よりは寝転がっているほうが楽な筈だ。
「くふ」
「どうした」
「いや何。開き直れば楽なもんじゃな、と」
「意味がわからん」
「哲学じゃよ」
「…寝るなら黙って寝ろ」
「うむ」
- 2 -
…少々、眠りにくい。
一応、座布団を枕と布団代わりに並べてはみたが、やはり違和感がある。
それに何より
(…暑い)
よく寝られるものだな、と人の体に絡みつくような姿勢で寝息を立てている朱風を見る。
最初は
「むう。抱き枕とは言うたが、ぬしはまったく適しとらんな」
と好き勝手言っていたが、10分後には既に寝始めていた。
図太い。
逆にこちらは…と思ったところで気付く。
暑いのは主に朱風と逆方向。
つまり日の当たる方向だ。
「まさか」
と腕を朱風の体の向こう側へと回す。
朱風を腕の中に抱き締めるような形になるが気にしない。
果たして、腕に流れる空気の流れは
「…廊下側が涼しいのは当たり前か」
冷たい。
なるほど。
抱き枕と言っていたが、結局の所
「日除け兼寒くなった場合の暖房器具代わりか」
という事のようだ。
最初からそう言えばいいものを。
「ん?」
腕の中に抱いている朱風の体温が急に上がったような気がする。
顔も赤い。
「…ああ、そうか」
いくら日が当たらなくてもこちらと密着すれば体温の逃げ場がなくなる。
その上、廊下からの冷風も大分遮ってしまっている。
暑くなって当然だ。
「俺も暑いんだがな」
かと言って寝ている子を起こすのもあまり意味がなさそうだ。
なのでまた元の体勢に戻る。
「寝るか」
少し暑いが寝ようと思えば寝られる。
目を閉じ、無理矢理意識を落とした。
- 傍 -
どっどっどっ、と心臓が早鐘を打っていた。
(ば、ばば、ばれたかと思うた)
と少しだけ身を離して寝ているカルトの横顔を見る。
寝たふりは狸の得意技だが狐も別に苦手にしているわけではない。
さすがに狸相手では分が悪いものの、それを除けば誰にも気付かれないように寝たふりをする事など朝飯前だ。
その筈なのだが
(襲われるかと…っ!)
突然「まさか」と呟いたカルトがこちらを抱き締めて来た時は驚いた。
寝たふりがばれたか、あるいは襲われるか、と。
いや、前半はともかくとして後半の確率は限りなく低いのだが、まあ、その、色々と思うところもあり。
その後の発言で風の流れを確かめただけと解ったが、よく尻尾が反応するのを止められたものだ。
自分でも驚きの自制心。
とは言えさすがに心臓の制御が出来ず、一時はどうなる事かと思ったが…
素直に寝てくれたので助かった。
気付かれないように少しずつ距離をとり、何とか心臓の鼓動が直接伝わらないような位置まで後退する。
一応注意していたが本当に寝ているらしい。
(「寝るか」と言ってから本当に寝るまでほんの数秒とは、な。羨ましいと言うかなんと言うか)
図太い。
仮にも(自分でいうのもなんだが)美少女が寄り添って寝ているというのに。
まあ以前なら腹の一つも立っただろうが、今はそれほどでもない。
(わしは『時間』だけは腐るほどあるからのう)
動悸も治まったので再びくっ付いた。
さすがに少し暑いが我慢できないほどではない。
それにカルトの匂いがする。
最近気付いたのだが、どうやら自分はこの匂いが好きらしい。
妙に安心する。
だからその匂いを強く感じられる箇所…カルトの首筋あたりに顔を寄せると自然と腕枕をされている形になった。
しかし
(むう。さすがにコレはないかのう。暑いのはともかくさすがに落ち着いて眠れん)
と、再び早まり始めた鼓動を意識しつつ下がろうとしたその時
「ぐう…」
寝返りをうったカルトの顔が目の前に来た。
互いの鼻がぶつかりそうな至近距離。
「…ぅぁ」
動悸が一気に最加速。
具体的には平常時のおよそ二倍。
今度は我慢できずに尻尾の毛が一気に逆立つのを感じる。
(落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け)
頭の中でひたすら繰り返す。
目標は108回。
それだけ繰り返せばさすがに落ち着ける…ような気がする。
(そう言えばヒト社会では落ち着くのに素数を数えるらしいが、素数とは何の事なんじゃろうか?)
何とか意図的に思考をあらぬ方向へ逸らし、意識を誤魔化す。
一応成功はしたが…目の前にカルトの顔があるという状況は変わっていない。
一旦下がるか、それともこのままにするか、どうしたものだろうか。
…まあ、もうしばらくこうするのも役得と言うかなんと言うか。
別にして悪いという事もないし、ここは存分に観察させてもらおう。
不意を打たれでもしない限りそうそう動揺などはしないだろうし。
(…良く見るとこやつ、顔にも傷がついとるな。かなり薄くなっとるが、一体いつ頃のものなんじゃろう?)
カルトの顔(余談だが、目付きの悪さが緩和されるためか寝顔は意外と怖くない)の右頬から眉間をかすめ、左目の上に一直線に走る傷がある。
恐らく刃物による切り傷。
以前見た脇腹を貫く傷に比べればまだ軽いと思うが、一歩間違えれば目を失っていたであろう位置だ。
(…こんな傷を受けるような生き方、か)
と、思わず手を伸ばし、そっと指先で傷をなぞろうとしたその瞬間。
「んん…」
「ぅひゃっ!」
カルトの腕が翻り、今度こそこちらを抱き締めてきた。
起きてはいない。
何か夢でも見ているのだろう。
(ふ、不意は打たれとらんぞっ。むしろ逆に以前のように体中がバキバキになるほどきつく締められないか心配なぐらいじゃっ)
そうやって大慌てで言い訳をしているのは明らかに動揺していると自分でも思うのだが、問題はそこではなかった。
何せカルトがこちらの頭、耳のあたりに顔を埋めている。
自然こちらはカルトの鎖骨のあたりが目の前にあるわけで、唐突にこの瞬間湧き上がった鎖骨萌えの気分が大暴走と言うかなんというか。
うん、見事な鎖骨。
(考えたら別に不意を打たれずともこんな状況になれば混乱して当たり前という事に今更気付くというのは随分と重症じゃな! 色々な意味で大丈夫かわし!?)
と頭の中は粥を口移しで食べさせられた時並に混乱している。
そうして体は動かさないまま心中で悶えていたが、その時
(…? 何やら頭が外部要因的に暑いような気が)
ぷすー、と妙な音が聞こえた。
位置は耳と耳の間、つまり頭頂部。
そこには今現在カルトの顔があるはずであり、この音はカルトの呼吸音と考えるのが自然。
つまり頭が暑いのはカルトが人の髪に顔を埋めて呼吸しているからであり…
「はう…」
抱き締められている事に加え、髪に顔を埋められている事、その匂いをかがれている事等が一気に頭に血を昇らせた。
(あ、マズ)
許容量を超えた混乱と物理的な暑さとで意識が混濁する。
何か最近、やけにオチる事が多いのはおかしくないだろうか、などと思いつつも結局オチた。
- 3 -
「…また夢、か」
朝とは違い、飛び起きるほどではなかったが、それでも目を見開いてしまう程度には衝撃を受けた。
どう言えばいいのか。
悪夢、とは言えない。
言えないが、かと言って有益ともいえない。
何せ今、自分の中では孤独感や寂寥感が渦巻いている。
端的に言えば寂しい。
まるで誰か大切な人を失った事を思い出してしまったかのような。
「さて、今回はどうしたもの、か…?」
忘れるか、それとも覚えておくか考えようとした瞬間、それまで気にしていなかったが目の前に妙な物が存在する事に気付いた。
白い肌だ。
鼻が触れてもおかしくないほどの至近距離に、誰かの素肌が見える。
妙に薄暗いし息苦しいから何かと思ったがなんなんだこの状況は。
目の前にあるのは恐らく腹。
臍も見えるしほぼ間違いないだろう。
問題は誰の腹か、という点だが、朱風以外にこんな状況になる要素が見当たらない。
「相変わらず寝相がおかしいな、主人」
溜息をつく。
臍の位置やその他の触れている感触からして、こちらの頭を全身で抱え込むような姿勢になっているらしい。
人を抱き枕にするぐらいだから抱き付き癖があるのかもしれない。
「面倒臭い…」
背中や頭の感触からして、両手足でガッチリと絡み付いている。
気付かれないように引き剥がすのは無理だろう。
起こすのも面倒臭いが、かと言ってこの視界では今がどの時間帯なのかはっきりしないのが困る。
気温も低くなってきているようでそろそろ夕方だろうとは思うのだが。
洗濯物も取り込まなければならないし…仕方ない、起こすか。
「主人。さっさと起きろ」
「んむ…」
幸い、朝ほど眠くはないのか素直に呼び声に反応してもぞもぞと動…
妙だ。
声が聞こえた方向、及び今の動きからして自分が根本的な勘違いをしていた事に気付く。
声は下…横になっているから自分の上下左右を基準としての下だが、そちらから聞こえてきた。
腹が目の前、頭は下。という事は、だ。
(どういう寝相だ、本当に)
お互いに逆さの状態で腹に顔を埋めているかのような体勢になっている、という事になる。
身長差のため、こちらは朱風の臍、朱風は恐らくこちらの胸と腹の境界線あたりが目前に存在している事だろう。
せめてもう少し起伏があれば上下の区別もつきやすいんだが…潔い程に平坦な朱風の体付きのお陰で気付けなかった。
さすがに胸を直接見ていれば多少は違うのだろうが、臍近辺は本当に平坦だからな…と、朱風が目覚めたのか妙な呟きが聞こえてきた。
「穴があれば突っ込むのが本能じゃの」
「いや、それはどうなんだ」
「…?」
何を突っ込むのかは知らないが、臍は一応急所の一つでもある事だし遠慮したい。
と言うか本能なのか、それは?
「…って奴隷か、この腹は! どうりでレダにしては腹筋が激しく割れとるし、胸もないと思うたわ!」
「抱き枕になれと言ったのは主人だし、抱きついているのもそちらだ。それより早く退け。起きられない」
「ぬう…ってぬしも何故わしの腹に顔を埋めておる? 変態か? 変態なんじゃな!?」
「違う。主人が(多分)自分でこの格好になったんだ。それよりさっさと退いてくれ」
幸い、寝惚けてはいないらしくそこそこ話が通じなくもない。
相変わらず理不尽だとは思うし人の話を聞いていないのはどうにかならないとは思うがいつも通りといえばいつも通り。
…改めて考えるとどうにもならないな、このダメっぷりは。
「…ふむ」
「何を考えている」
「いや、何と言うかこう…役得?」
「意味が解らん。とにかくさっさと剥がれろ」
「なんじゃ、人をくっ付きお化けのように言いおって」
「なんだそれは」
話にならない。
実力行使で何とかしようと腕を朱風の体に
「あっ、んくっ」
「妙な声を出すな」
「人の尻を撫でておいてそれか! 相も変わらず最悪じゃな朴念仁!」
…なるほど、確かにまずこちらの頭を自由にしようとすれば朱風の下半身を触る事になるな。
だが知ったことではないので、いつものように躾ける事にする。
「うるさい黙れ」
「きゅふんっ」
「ぐっ」
…しまった。
尻尾を握り締めた瞬間、朱風の全身に力が入り、より強くこちらにしがみついてきた。
結果、何と言えばいいのか…こう、顔と腹が密着している。
こちらの鼻が朱風の臍に潜り込んでいるかもしれない程度の密着具合だ。
何とか動こうとするが
「ひ、や、臍は駄目、駄目じゃっ」
「まへ、ほひふけ、ははへろ」
「ふやあああんっ!」
…余計にしがみつかれてしまった。
どうしろと言うんだ。
数分後
「はあ…はあ…っ」
「ようやく剥がれたな」
「ば、か、者ぉ…人の臍を突き回すとはどのような料簡じゃ…」
「うるさい黙れ。そっちから押し付けてきたんだろう」
「ううう…」
涙目で睨みつけてくる。
…俺のせいではない、とは思うんだが。
「…風呂に入って来る」
「随分中途半端な時間だな」
「うっさい! 覗くでないぞ!」
「覗いた事もないし覗く気もない」
失礼な。
人を変質者か何かのように。
自分の方こそ、何故か尺取虫のように床を這って移動するという奇行に走っているくせに。
「移動するなら歩けばいいだろう」
「腰が抜けとるんじゃ」
「…そうか」
「わしとて好きでこんな敏感になっとるわけではないんじゃぞ?」
「敏感なのと腰が抜けるのとなんの関係があるんだ?」
「こ、この…」
と朱風の顔が紅潮した。
何が気に障ったのかは解らないが怒らせてしまったらしい。
そんな積もりは毛頭ないんだが…
が、
「まあ、そういう所も受け入れてこそ、かのう」
「?」
「こっちの話じゃ」
何故かそのまま特になにもせずに風呂場に向けて這っていった。
「…やはり、様子がおかしい」
この状況で何も文句を言わず引き下がるなど有り得ない。
やはり以前の熱で脳がやられたのか、それともまだ調子が悪かったりするのだろうか。
別に大人しい事自体は歓迎すべきなのだが、やはり調子は狂う。
どうしたものだろうか。
とりあえず今夜は好物の油揚げ尽くしにでも…と献立を考えていると。
「この音は…」
ぱらぱら、と庭の方から音が聞こえてきた。
雨音だ。
「…あ」
洗濯物。
それを干しっぱなしにしていた事を思い出す。
「ち…雨の気配に気付けないとは、随分と緩んでいるな」
急いで草履を突っかけつつ庭へ飛び出す。
物干し台は庭の墨。
縁側からは最も遠い位置だ。
幸い、最近はそれほど洗濯物が多くなく、干している量も少ない。
これならばすぐに取り込み終わる筈…
「うひゃあ!」
「主人!?」
庭の反対側、半開閉式の屋根と壁に覆われた偽露天風呂から朱風の悲鳴が響いた。
何があったのかは解らないが、これまでの経験からするとそれなりに危険な声音。
咄嗟に駆け出すが、今から家に入り風呂場まで回り込むのは時間の無駄だ。
何が起きているのか解らない以上、一秒でも早く辿り着きたい。
「ち…仕方ない」
そのまま風呂場の壁へと突進し、その勢いをそのままにおよそ3m程度の高さの壁を駆け上がる。
幸い、屋根の端の部分が潜り込める程度には開いていた。
そこから中に飛び降りる。
すると、朱風が浴槽の中で暴れて…否、溺れていた。
急いで引き上げると咳き込んでいる。
呼吸は問題ないらしい。
「…無事か?」
「け、ふっ、こふっ」
「…水棲生物でもないのに頭から水に入るな、バカ主人」
やや安堵交じりの声になったのは…まあ、どうでもいい事か。
「うう、もう立てると思っとったんじゃが膝から力が抜けてしもうての」
「まったく…とにかく今は上がるぞ。雨も降ってきているしまた風邪でもひかれたらかなわない」
「うむ…ってうええ!?」
「どうした?」
「こ、こここ、これはアレか、所謂一つのぷりんせすほーるど!」
「なんだ、それは」
名前からして関節技か何かか?
どこか極めてしまっているのだろうか、と全身を眺めるがどこも極まっていないように思える。
「うむ、それはの…って」
念のため、もう一度全身を眺め回している最中に目が合った。
見る見るうちに顔色が真っ赤に変わる。
…最近、妙にこういう顔を見る事が多いようだが、何か落ち着かない。
「ひぅ」
「どうした」
「さ、さすがにそうじろじろと眺め回されると風呂とは言え恥ずかしくなるんじゃがっ」
「…悪い」
真っ赤に染めた顔を俯き加減にし、肌を隠すためか自分自身を抱き締めるような形で縮こまった。
おかげで滑って落とさないように抱えなおさなければならなくなるが…何故か顔が熱い、ような気がする。
いつもと違う恥らい方の朱風の姿が、こう、むずがゆいような奇妙な感じだ。
…これ以上見ているのも危ないな。
さっさと脱衣所にまで持っていこう。
- 終 -
「体を拭いてくれんか? 腰が抜けたせいかどうにも動きにくくての」
脱衣所に放り込んだ朱風がまたぞろおかしな事を言い出した。
…まあ、ある意味以前と同じなので安心といえば安心…なわけがないか。
内容が内容だけに。
「自分でやれ、面倒臭い」
「顔が赤いぞ」
「何の話だ」
こちらは脱衣所の外にいるから見えてはいない筈だ。
そもそも赤くなってなど…まあ、いるかもしれないが。
「照れるでない。わしもぬしに裸を見られるのはそろそろ慣れてきたというか、むしろ覚悟を決めねばと思うておる所での。良い機会じゃ」
「何を訳のわからない事を…」
と、一つ大事な事を思い出した。
「あ」
洗濯物。
「ぬしもそろそろわしの魅力に気付く頃合…って何処に行くつもりじゃ」
たたた、と足音が廊下を遠ざかっていく。
折角人がこれから存分にからかってやろうと思っていたのに、気が利かない。
「…ぬう。ま、よかろ。あの態度、どう考えても照れておったからのう」
と風呂場から出る時に見上げたカルトの顔を思い出す。
赤面。
珍しい。
少し胸がきゅんとしてしまったのは秘密だ。
「しかし清楚萌えか、あやつ。意外な趣味じゃな。うむ、今度からそちら方面で攻めるとするか」
恐らくあの反応はいつもと違う自分の照れ方が原因、とわかる程度には表情を読める。
まあ実際のところ、アレは多分に素の部分があったりするのだが…意図的に表に出した事はない。
抵抗が無いわけではないが…
「くふ。覚悟しとれよ…カルト」
それよりも、あの顔をもう一度見てみたいという欲求が勝った。
「はあ…」
項垂れる。
目の前には泥塗れになった洗濯物。
取り込んだ分を縁側にでも放り込んでおけばこんな事には、と後悔する。
それもこれもあのバカ主人が添い寝だの風呂場で転倒だの…
…まあ、いいか。
ただ大人しいだけより少しだけこうした騒ぎがあったほうが朱風らしくて、いい。
とりあえず今夜は油揚げを甘く似た物に酢飯を詰め込んだものを主食として出してやろう。
完全に以前と同じになるのは困るが、な。