太陽と月と星がある 第1.5話
「に……ゅう……」
その冬、新しい家族となった長い黒髪に華奢を通り越して棒のように細い四肢を持つキヨカは、謎の言語を発しぺたりと床に突っ伏していた。
彼女が毎日ピカピカに磨き上げている床に黒絹のような髪が広がる。
艶やかな髪を触りたいのを堪えどうしたものかと思案に暮れていると、しばらくしてもぞもぞと重たげな動きで立ち上がり、髪留めを懐から取り出して手早く髪を巻き上げてしまった。
白い項と、それよりももっと白い無数の傷跡が露わになる。
髪を下しておいた方が色々な意味でいいと思ったが、口には出さないでおく。
「……きゅーぴんくのー むにむにのぷにぷに…… ぅ……」
ぶつぶつと呟きつつのそのそと洗い終わった皿を片付け、肩を回し深く息を吐き出して猫背気味の背を真っ直ぐにしこちらを向いた。
生気の薄い、ついでに色素も薄い瞳が大きく見開かれる。
長い睫が細かく震える様は、羽化したばかりの蝶の如く繊細で。
触れたら甘そうな砂糖菓子のような薄桃色の唇が開かれ
「ご…ッがぐっ!」
思いっきり噛んだ。
何を言おうとしたのか見当がついたが、あえて指摘せず興味のなさそうな表情を取り繕う。
人の失敗を笑うのは、あまり趣味が良いとはいい難い。
それに、最初の頃の言い方に比べれば格段の進歩でもある。
「い、……あ…… ……おかえりなさいませ」
恥ずかしがっているらしく、棒読みだ。
せっかくこうして共に暮らしているのだから、お互いをよく知り合う為に色々と語り、
会話のキャッチボールなどできないものだろうかと思ったものの、奥床しいとか、内気という単語とは縁が無かった自分には到底思いつかず。
「ああ」
いつも通りの、会話しかできなかった。
これは、まだ寒い春の頃の話。
「それでねーみーちゃんがねー」
スプーンをぶんぶんと振り回し熱弁するネズミの子供に、皿を拭きつつそれを窘めるイヌの少年。
隣ではエプロン姿で鍋を洗う黒髪の娘。
後ろで蝶々結びのエプロンの紐を解きたい衝動に駆られつつ、食後のお茶が冷めるのをじっと待つ。
「ねぇねぇキヨちゃん、その格好でオレんちも掃除してよー。ついでにベッドでご奉仕してよーベッド以外の場所でもいいけどむしろここでげぶっ」
ミチミチと頚動脈が締まる快感に浸りそうになり、慌てて離すと黒いウサギがべったりと床に伏せた。
そのままもぞもぞと動き、スカートの下へ向かおうとする。
まさにそれは毛虫の如き軟体的な動き。
「がっくん……」
少年の物言いたげな目線に軽く尻尾で答え、イングさせウサギを殴り倒す前に華奢な足に穿かれたスリッパがウサギ特有の長い耳を踏みつけた。
ぐりっと踵が捻られ、黒い体が小刻みに震える。
「キヨカーこれどこにかたすの?」
「そこの赤い棚の二段目っと……ジャックさん、そんなトコ居たら踏んじゃいますよ」
目線すら落とさない冷静そのものの声だが、……もう踏んでる事にも気がつかないうっかりさんめ、と心の中で呟く。
真剣に気がついていないらしく、無造作に足が移動する。
自由の身になった黒い変態が手を差し上げ、華奢な体を両腕で抱きしめた。
「わははっはああああはあはあハァハァハァハァハァおんなのこおんなのこのにおいハァハァハァ」
笑い声から途中で変な息遣いになり、もぞもぞと毛深い顔を押し付け始める。
耳を踏まれた事で妙なスイッチが入ってしまったらしい。
キヨカは子供向けの優しげな顔から、乾いた表情を浮かべ、片手に持ったままのスポンジを迷わず長い耳の中に突っ込んだ。
思わぬ反撃にジャックが大喜びで反応する。
最初の頃は、なにをされても死体のようにされるがままだったのに比べれば格段の進歩だ。
まさしく、ジャックが言う所の「治療」の成果だった。
どたばたと暴れるジャックにわくわくした表情のチェルが背中に飛びつく。
細い尻尾がぷらぷらと宙に揺れ、それをサフが敏感に反応し尻尾を左右に大きく振りはじめた。
勢いよく飛びつかれ、黒ウサギが大きくよろめく。
耳に嵌っていたスポンジが宙を舞い、どういう加減か足元に滑り込み踏みつけられる。
バランスを崩す。
ウサギとネズミとイヌに押しつぶされても、キヨカは悲鳴1つ上げなかった。
「ところで質問なんですが」
顔には擦り傷、割れた爪先には絆創膏が痛々しいキヨカが、チェルがソファーで眠りについていることを確認しつつ声を潜めた。
「お誕生日って、こちらではお祝いしないんですか?子供のうちだけでも」
「するよ?」
「するにきまってんじゃん」
ジャックとサフがそう答えると、キヨカは小首を傾げた。
煙色の瞳がこちらを向く。
「俺はしないが、するのが一般的だろうな」
そういう事を祝うほどの歳でもなしと付け加えると、奇妙な表情を浮かべる。
乱れ気味の長い髪を指先に巻きつけ捻ってから放し、慎重に唇が開かれた。
「そうですね、孵化したときか、産卵された時か迷いますもんね」
思わず半眼になって見つめると、すっと目が逸らされた。
壮絶な勘違いをどう解けばいいのかわからず思わず考え込む俺を余所に三人は顔を寄せ、真剣に語り続けている。
「キヨちゃんこっち来て四年でしょ?しなかったの?」
当然の疑問に対し、帰ってきたのは平坦な眼差し。
不思議そうな顔をしたサフを見て口元を無理やり笑みの形にした。
「ええ、知らなかったんですけど、チェルのお誕生日会とかするなら前もってみなさんに伺った方がいいかとおもいまして」
意図的な聞き違いには触れず、三人はそのまま誕生日会について計画を練り始めた。
18,9というとヘビであればまだ成人とは認められない。
だが、成長速度が速く、寿命も半分程である事を考えれば、つまり二十代中盤であろうことは察しがつく。
成人を超えているというのに祝う事もないだろうが、とは思う。
ただ
「いまさらたんじょうびぷれぜんと」
平坦な声に妙に心苦しい物を感じる。
「その、女なんだから、色々あるだろう。ついでだ買ってやる」
縁遠い事だが、一応水を向けると開きかけた唇が貝の様に閉じる。
疲れ果てた鳥の翼のように落ちる睫。
「結構です」
素っ気無い答えに、自分でも驚く事に愕然となった。
「いや、なにかあるだろう。服とかなんだ、鞄とか!」
「別に」
「いやあるだろう、何だ言えッ!」
口を挟む余裕すらない否定に思わず襟首を掴み顔を覗きこむと、絞め過ぎたのか、頬が赤くなっているので慌てて手を緩める。
しまった。
目もちょっと潤んでいる。痛かったのか。
気の効いた言葉も浮かばず言い澱む自分を気にしてか、胸元を押さえたキヨカが上目遣いでこちらを見上げる。
意図して落ち着こうとする息遣いがやけに悩ましい。
清潔感が有りながら、ひどく扇情的だ。
「……それなら」
「あ…あの……」
サフの手を握り締め、無心に手を揉み続けるキヨカ。
顔にはうっすら笑みが浮かび、頬には朱が差し瞳は微かに潤み、晴れ間が覗く空のように輝いている。
何故か心臓の辺りに手をやりかけ、慌てておろす。
「がっくん、僕いつまでこうやってればいいの?」
「飽きるまでだ」
がくりと頭が垂れる。
何が不満なのか。
キヨカに手を握られているというのに。
いや、それ以上の事が出来ないのか不満だとでも言うのか、そんな事は許さん。
無意識のうちに打ちつけた尾の先が痛む。
嫉妬する男はみっともない。
嫉妬する男は嫌われるらしい。
ヘビの情感をヘビ以外に持ちこむのは間違っている。
むしろ年上としての器量の広さを見せるべきだろう。ここは。
「その、なんだ。だがなキヨカ」
空回りする思考に渦巻く感情。
水のように流れる心。
「あまりそういう行為はしない方がいい、な。サフもあまり楽しそうではないし」
まぁ自分が苛立っているのを感じたせいもあるだろうが。
手を差し伸べようとして勢いよく振り過ぎ、瞳が一瞬強張る。
しまったと思った。
何事も無かったように手を戻す。
「つまし、その、尻尾なら触ってもいい」
何を言っているのだ。
「……しっぽ」
不思議そうな声色。
自分の尻尾をキヨカがさっきのような表情で触るのを想像しそうになって泡立つ心を必死で宥める。
こちらが触られてるなら、こちらからも触ってもいいのではないだろうか。
たとえば、隣に座ってとか。
「尻尾だ」
ごくりと息を飲み返事を待つ。
しばらく思案し、キヨカはこくりと頷いた。
「そうですね。尻尾もいいですもんね」
「だろう!」
「ありがとうございます」
心臓を槍で貫く笑顔に完全に動けなくなる。
ぎくしゃくと動き出す頃には、今更訂正できないような笑顔でサフの尻尾を撫で回すキヨカの姿。
その晩は久しぶりに痛飲した。