~サブキャラ過去話誰得編~
例え話をしよう。
ここに百一匹のイヌがいる。
実際にはそんな人数はいやしないが、いると仮定する。
そいつらはたった一対の目玉から、同じ情景を一斉に見ている。
風通りのいい、板張りの角部屋だ。
階段を上がって突き当たり、開け放したドアをくぐって、部屋に足を踏み入れている。
晴天だ。
窓のむこう、爽やかな青い空に、くっきりと白い羊雲がノンキに浮いている。
例え話だ。
ここに百一匹のイヌがいる。
百一匹もいれば、どんな瑣末な事象も、誰か数人くらいは認識できる。
たいていは、気づく。
たいていは、対処できる。
だが。
百一匹の全員が、一歩も動けない場合もある。
例えばの――――話だ。
とある下宿部屋のドアを、訪問者がノックするやいなや、部屋の住人が窓からダイヴを敢行した場合などには。
百一匹全員が度肝を抜かれれば、ついうっかり、風にむかって『タイトル・待ってられない未来がある』を体現する背中を、
そのまま見送ってしまう時も、たまには、あるのである。
二階の窓の真下は、下宿の女主人の、、ささやかな家庭菜園であった。
つい先日に柔らかく掘り返されたばかりの土は、落下物を優しく受けとめた。
足首をひねって全治二週間のごく軽症で済んだ二階角部屋の住人は、土を落とすために風呂場に連行されながら、青ざめた顔でうわごとを繰り返していた。
「担当さんかと思った担当さんかと思った担当さんかと思ったガタガタガタガタ」
「馬鹿かお前!? 何度でも言うぞ、馬鹿かお前!?」
原稿は、〆切ぶっちぎって印刷所を激怒させたあげく、辛うじて休載を免れたと言う。
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犬と羊タイプライター ~ サブキャラ過去話誰得編 ~
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■妹の場合
「お兄様ったら!」
石畳の通りを、飛ぶ勢いで一台の馬車が疾駆する。
二頭立ての小さな馬車。
黒尽くめの御者が休むことなく鞭を振るっている。
辻馬車【タクシー】ではない。家名を表わすような紋章も、装飾もない。
一見して粗末な、だがよく見れば意図的な没個性と知れる、貴人の御忍び車。
こればかりは隠しようのない職人仕事の車輪周りをもってしても、激走する車内はカクテルシェイカーの 様相を呈している。
たった一人の乗客は、ごっそり積み込んだクッションに埋もれて、可愛らしい声で悪態をついた。
「まったくほんとにもう、お兄様ったら!!」
車輪が石畳に跳ねた。
キャンディのように色とりどりのクッションが宙を舞い、フリルたっぷりのドレスがその中で一回転と半。
馬車の着地に一テンポ遅れ、乗客は頭からクッションの海に飛び込んだ。
「……むぐーーっ!」
埋もれた上半身を引っ張り出そうと、暴れる脚。
ズロースとペチコートの、あられもない百花繚乱の大乱舞。
ようやく頭を引き抜いて、ぷはっと息をつく姿は、上品とは言いがたい。
乱れた裾、乱れた髪、人目を気にしない密室ゆえの歳相応の仕草。
そんな有様であっても、なお、少女は楚々として美しかった。
甘いミルクティー色の髪。
ふわふわとした天然のカールはまるで絵画の中の天使だ。
頭の両側にてろりと垂れるのはツインテールではなく、彼女自身の耳。
黒目勝ちな瞳は可愛らしく、桜色の唇は怒気にとがっていてもなお愛くるしい。
御歳27歳、ヒトで言うとジュニアハイスクールのお年頃、ぴちぴちのイヌミミ美少女である。
黒いゆったりとしたドレスに真銀糸で聖印が縫いつけてある。
黒衣の聖女。
人は彼女をそう呼ぶ。
エリザベティカ。
それが少女の名前。
名前のすべて。
姓はない。
黒衣の聖女。
裏姫さま。
影巫女さま。
敬い崇める二つ名の数は両手に余るほど。
エリザベティカと彼女を呼ぶ者は片手に足りぬほど。
真偽も定かでないほどの古くに王族の血を引く、継承権ゼロだけど由緒と格式だけは残った、そんな血筋に彼女は生まれた。
物心もつかない幼い頃から、エリザベティカの住処は聖堂の高い塔の上。
政治的な力は皆無。
民衆の支持という力も、さほどには。
貧民や孤児の救済という活動ではむしろウサギの教会のほうが。
だから。
国家から保護を受ける、イヌ国のささやかな国家宗教、その存在の正体は。
貧しさ。
出口のない閉塞。
嵐と吹雪と病と飢饉。死。
個人の裁量で逃れがたい、あらゆる天災と恐怖の擬人化である。
人は恐れ敬い、怒りの通り過ぎるまで待つだけだ。
王都聖堂の、高き塔にてや、聖女様は居ませり。
日々、王家の代行として、人々の安寧を祈り続ける、清らかなる乙女。
王家、国家に対する呪詛あらば、己が身を第一の障壁となし、中核への護りと成す。
そのための無垢。
そのための聖なる血。
誰より最初に穢されるためだけの、清らかさ。
魔術の発展した現代ではほぼ形骸化した、かつての国家的呪的防衛装置。
けれど紙一枚の盾も、怯え震える者には手放しがたい。
王室を守護し、神の名で王の正当性を保障し、見返りとして政治的経済的に擁護される、あべこべの構図。
なんの政治的発言権もなく、王女イリア姫の本当の意味での影武者にも代用品にもなれない、それゆえに。
危険視され潰されることもなく。教会聖堂の深窓におわす、一人の幼女への信仰心はいまも生きている。
"孤独なる幼姫"
"純潔なりし神の白拍子"
"穢れた聖女"
―――――"影姫さま"
………萌えという表現はひとつの発明だが。
てんこ盛りの中二属性に萌え燃えする人心は、どこの世界にもあるのだった。
※
くだんの聖女様、第三二代目のエリザベティカ巫女姫であるが。
前述のような事情から、彼女は現在、世俗から隔絶されて、教会でいと清らかな祈り尽くしの日々を送る、聖なる身の上である。
それが仕事である。
非人道的と言われようが、それなりに必要と需要と文化的価値のある重職なのである。
もちろん、国民へのイメージ戦略だって、とても大事なのである。
まちがっても、御付の従者を脅迫して、夜な夜なお忍びランナウェイなんかしていてはイケナイのである。
「姫さ……お嬢様、これ以上は無理ですじゃ! 車軸が折れちまう!!」
「お館までもてばいいわ! もっとスピードあげて!」
老齢の従者の悲鳴に、エリザベティカはなんだか格好よさげな指示で応じた。
ふたつの月が陰々と、宵闇に沈む王都ル・ガルに鈍く輝く。
古今東西、乙女を狂わせるものは、惚れた腫れたの沙汰と決まっているのだ。
「愛してますわ、お兄様………! いま、エリザベティカが参ります!」
そして往々にして、邪魔する者は馬の脚で蹴り殺すが如くに、恋とは盲目であった。
※
ちいさなエリザベティカは、綺麗なドレスが大好きだった。
ピンクやブルーの服が着られないのはイヤだったけれど、
ぴかぴかの真っ黒だってキライではなかった。
たくさんの大人のひとに、尻尾の先まできれいにしてもらうのが好きだった。
おひめさま、と呼ばれるのがとてもうれしかった。
※
政治力を持たなくとも利用されることはある。
軍部がスラムに溢れる孤児を集めて『処分』し、見込みのある者だけは兵士にとりたてて育てる。
それをいぶかしむ目があった。
軍と貴族と王室と議会。その蚊帳の外に教会。
腹の探り合い、勘ぐり、火のない煙をも口実にした鍔迫り合い。
――――聖女が、世にも哀れな、そして健気な少年兵を慰問する。
そんな抜き打ちのイベントが一方的に通達され。
大半の孤児を「使い切った」直後だった一部の軍部は慌てた。
鋳潰して混ぜて煮詰めて濃縮して――――箱の底に残ったのはたったの一人。
だから慌てて急いで足音忍ばせて、足りない『かわいそうな孤児たち』を揃え直す。
少年兵としてすでに訓練を受けていた者のなかから小柄な者と年少者を。
足りないぶんは、新たに『狩り』集めてまで。
そして、処分か保留かと留め置かれていた一人の少年も、足りない頭数の一人として。
※
女官に抱きかかえられて、かいだんをのぼる。
あたらしい靴のリボンがお気に入り。
エリザベティカは上機嫌でぷらぷらと足を動かして遊んでいる。
今日の「おつとめ」は、カワイソウなコジたちに、カミのシュクフクをイノること。
ちいさなエリザベティカは、並べられた子供たちを見下ろした。
清潔だけど質素な、揃いの服を着たイヌの子供たち。
体格も毛色もまちまちで、そろって痩せて毛並みが悪い。
落ち着きがなく手をもじもじさせている者。
しきりと周囲をうかがい、大人たちの顔をうかがっている者。
歩くのも立ち止まるのも指示されるままの、表情のない者。
ちいさなエリザベティカは、それをはじめてみる不思議な生き物と受け取った。
実際、箱入りで育てられた彼女にとって、並べられた十数人の孤児と彼女とは、違う世界の存在だった。
ちいさなエリザベティカは、わくわくして目をかがやかせた。
ふっくらした頬にえくぼが出来て、天使のほほえみそのものだった。
階段の下の子供たちは、それに見とれた。
もし彼らがあと十年、歳をとっていたら、目をそらしていたかも知れなかった。
けれども今、ただひとり、ちいさなエリザベティカを見てない子供がいた。
ひときわ大きい体格の、エリザベティカより少し年嵩の、少年だった。
少年の表情は明るかった。
ごく客観的に描写するなら、それはようするに馬鹿面であった。
自分が置かれた状況、周りの大人たちの思惑、目の前の愛らしくも冷徹な姫君、すべてまったく眼中になかった。
空気よめない顔だった。
大人たちが育ちの悪い子供たちを大人しくさせるために、式典を終えたらうまいものを食わせてやる、と言った、そのことだけ考えていた。
ご馳走のことを考えているだけで、その顔は五月晴れのヒマワリよりさわやかに開けっぴろげに笑顔だった。
ちいさなエリザベティカの心に、その雑種の少年は、不思議な深い印象を残した。
屈辱と感じることはなかった。
ちいさいエリザベティカは、みんなに可愛がられるお姫様だった。
けれど周囲の大人たちの、ほんのささいな言葉、仕草から、幼子心にも感じるのだ。
毎日が楽しいバースデーパーティーのようで。
それはつまり、この日々は、ふつうの、当たり前のことではなく、お祭りごとの、ごっこ遊びに過ぎないと。
裏姫さま。
影姫さま。
二番目でも、身代わりでもない。
エリザベティカは、王家という名の大事な宝箱の上に、そっと飾られた可愛い野の花。
けれど本当の宝物は、本当のお姫様は、宝石のように、誰の目も届かない、閉ざされた箱の奥にいる。
花と宝石はお互いに逢いまみえることはない。
少年には。
妬みも嫉みも羨望も、敬愛も愛情も義理もなかった。
彼にとって椅子の上の幼女は、なんだかむくむくした服に埋もれた路傍の石だった。
その時その瞬間、世界でエリザベティカという個体を正しく見ていた人間は、彼ひとりだった。
世界に、ただひとりだった。
それは、エリザベティカにとって、屈辱ではなかった。
決して、屈辱などではなかった。
※
そして、二人の出会いから少し経って。
番号で呼ばれていた少年は、名前で呼ばれる権利を取り戻し。
処分を免れ、内密の監視下に置かれた。
さらには、とある貴族の家に、継承権こそないものの、正式な養子として迎えられた。
代々、王室近衛騎士団を勤める、気高くも質素を胸として欲のない家だった。
当主は隠居の歳にさしかかり、遅くに出来た一粒種は女性だった。
男子を養子として迎えるのはごく自然だった。
養子として迎えられて数日も経たぬ頃。
忍びでやってきた身なりのいい少女は、再会第一声、真っ赤になってこう言った。
「わ、わ、わたくしと、この家は、遠い親戚筋にあたります!
です、ですからわたくし、わたくしと貴方は、今日から、きょうだいのようなものです!
わた、わたくしのことは、ですから、本当のいもうとと思って、その、よろしいですわね、お兄様!」
姫巫女はある年齢に達すると、座を新たな若い姫巫女に譲り、本来の家柄より数段上の家に嫁ぐ習慣である。
イモウトっすか、と応じた少年が、少女の顔などさっぱり覚えてなかった事を、幸いにして彼女は気づかなかった。
※
かくて馬車は今夜も王都ソティスをひた走る。
向かうは王都郊外、瀟洒な屋敷。
あの日のあの笑顔に見えるために。
■彼の場合
少年は、ただ大人しくさえしていれば教育も、一生そこそこ食っていくだけの財産も与えられるはずだった。
だが少年は、志願して軍に入った。
そもそも軍には、孤児の中から見込みのある者を拾い上げ兵士として仕込む伝統があった。
少年が最初に拾われたのも、表向きその為であったから、人々は恩を知る男だと噂しあった。
事実はこうだ。
――――べんきょーも、だんすも、女子供のすることっす。
――――男らしく剣とかてっぽーとかぶっぱなしたいっす。
――――おれ、きっとちょー強いっす。やる気だせば最強ヒーローっす。
一応は貴族の息子である。
それらしく、特別に将校としての出世ルートが用意された。
だが。
集団生活には、それなりに社交スキルも書類の事務処理仕事も必要で。
あいにく、彼には、他人の気持ちを汲んで物を言うとか、じっと机に齧りついて文字と数字を相手にするとかいったことが、壊滅的に出来なかった。
ゆえに、配属先は、王都警察機関内の『遺失物課』。
やる気ない意味無いお役所仕事で名の知れた、通称「オチモノ課」。
――――「島流し」である。
課内に、真っ当なエリートなど一人もいない。
遅刻して来て定時に帰る、腰痛持ちの中年ブルドック課長。通称「ボス」。
平民出、空回りの正義感、すぐ挑発に載せられる短気なダルメシアン青年。一人称「自分」。
かつては有望な将校、出世街道を転落し、今や女の噂とホモ疑惑うずまく劣化シェパード。通称「先輩」。
課の主な仕事は、交番に届けられた落し物の管理。
加えて、空気読まずにどこにでも落ちてくる「オチモノ」に、ナマモノ無機物問わず対応すること。
空から降ってきた、危険物『かも』しれない謎の道具を回収し、しかるべき対処を行い。
意外とけっこういる野良ヒトを保護して、持ち主を探したり国の研究施設に収容したり。
「なんか落ちてきた」と言われれば汚物だらけの側溝も漁る。
人手が足りないと言われては、他の課に便利屋のように駆り出される。
それが「オチモノ課」の主な毎日だった。
そんな課で――――かつての少年は、立派な「お荷物」と化した。
体格がでかくて腕力だけはあるから、備品や証拠品や犯人をぶち壊しては、未提出の始末書が積み重なる。
仕事を任せるとろくなことにならないから、ずっと始末書を書いていて欲しいというのが周囲の本心である。
ついた渾名が――――百人分の幸運を集めた男。
お貴族様の養子でなければ、とっくに軍を追い出されているだろうに――――。
給湯室と寮の片隅で交わされる陰口はそんなところ。
しかし『無能』として卑下されても、そのかわり幸運を妬まれることはない。
彼が、中二病丸出しのヒーロー妄想を吹くことはあっても、家柄を笠に着て威張ることはない。
………と言うか、彼にとって貴族の養家は、ステーキに添えられた一片のバターに過ぎず、彼は彼自身単体で、素敵で立派な軍人のおれ・イズ・ヒアなので、威張るときに家名など持ち出す必要はないのだった。
その、有り様を。
今や婚期目前、思春期真っ盛りのエリザベティカは、「なんて謙虚な、素晴らしい殿方なのでしょう」と瞳を潤ませて胸キュン(はぁと)するのである。
かくてかつての少年は今夜も始末書の束の持ち帰りを命じられ。
馬車は未来の旦那様の仕事を手伝うために、今夜も王都を駆ける。
なお、「ちょっぴり身なりのいい、とある商家のご令嬢」の、隠密とは名ばかりのストーカーっぷりを配慮して、「オチモノ課」と少年の養子先の屋敷と、聖堂を結ぶルートの治安は、優先的に確保されることになったのだが。
後年、偶然そのルート近隣に居住し、恩恵に預かる事になる、夜の散歩徘徊をシュミとする後の覆面流行作家がいるのだが、それはまた別の物語である。
■姉の場合
イヌの国、ル・ガル王政公国。
万年貧乏、食うにも事欠くイヌの国。
頼みの綱は真銀採掘と魔剣などの二次加工産業。のみ。
職人と魔法使いが丹精込めて作り上げた錆びない欠けない魔剣を、仮想敵国の猫の国がいちばん多く買ってくれているのだから、なんだか泣ける話である。
だがもっと泣ける話は、妙に短剣ばっかり売れると思ったら、セレブな猫マダムたちの間で口コミで評判になって、メンテフリーの料理包丁として、ご愛用されていた。という、もう軍事国家のメンツ涙目の衝撃事実であった。
―――――生活は軍需より強し。
そんな世智辛い国、ル・ガル。
さて、王政公国と名乗るからには、王様がいて、またその取り巻きもいる。
彼女の名を、シャミマ・ディクドロトトス。
白銀の髪を風になびかせて、美しき女騎士は剣を振るう。
演習場は見物人に囲まれていた。
王室近衛団。
軍部とはまた別の、王室を守るためだけに存在する独立戦力。
その鋭剣は王室のためだけに振るわれる。
シャミマは、その近衛団の若きホープである。
まったく同じ、刃を潰した模擬剣と簡素な胸当てだけ身につけて、二人の剣士は軽快に切り結ぶ。
剣が閃いた。
対戦相手の手から剣が弾かれ、宙を舞って地に突き立った。
「それまで!」
審判の旗があがり、とどめの一撃をシャミマは寸前で止めた。
心臓の串刺しを寸で免れた対戦相手は、呆然とへたり込んだ。
その相手、自ら下した対戦相手の男を、白い麗人は冷たく一瞥した。
春を知らない北の湖の、沈むアザーブルーの瞳に侮蔑はない。
ただ、期待はずれだった。と、気落ちする色だけが浮かんで消えた。
「私の勝ちだ」
控えの間で、シャミマは上気した肌を晒す。
肌に密着する稽古着が汗ばんで吸い付き、脱ぐには他人の手を借りないと難しい。
手を貸すのは、シャミマの親と変わらぬ年の壮年のオスイヌ執事だ。
麗しい美女は、使用人相手に恥らうことはない。
波打つ豊かな銀髪だけをまとう、完成した芸術品のような裸体が露わになる。
執事が着替えを支度する合間に、シャミマは今受け取ったばかりの書類をめくった。
王室を守る騎士の仕事とは別に、貴族として家の資産を運営する仕事に関する報告書。
「国境沿いの旅館は連日120%以上の客入りを記録、か……
今冬季のネコ軍の動きは完全に麻痺している。
都市部の有力者までもが首都を離れ、経済政治もマイナス30%の停滞。
その上、宿泊費とおみやげ物の売り上げで研究開発費は今月中にも完済の見込み、と」
氷の印象を保っていた美貌が、はじめて、柔らかに笑み崩れた。
「さすが我が愚弟の策。
我が弟ながら・・・・ふ、恐ろしい男だ。敵にだけは回したくないものだ」
声ははずんでいる。
報告書の表紙には『ネコまっしぐら☆大作戦 コタツでネコホイホイ(極秘)』と、ばかげた文言が、じつに堅苦しい書体で糞真面目に記されていた。
それは何を隠そう、イヌの貴族たちと商人たち、さらには国境警備の国軍まで巻き添えにした、前代未聞にして画期的、躍進的な対・ネコ国戦略の成功を伝える報告書であった。
作戦内容および作戦名について、企画段階での内部反発は尋常ではなかったが、シャミマはあらゆる手段でねじ伏せた。作戦の効果について、本当に期待した者は皆無と言ってよかったが、これもシャミマが強引に押し通した。
主導者はシャミマであったが、本当の発案者が、頑としてタイトル変更を受け入れなかったのだ。
しかし今、結果は出た。
ただひとりその案の効能、いや発案者の才を信じていたシャミマは、己が主導した策の成功より、これで発案者の素晴らしさが世に知られることをこそ、心から喜んでいた。
それは、義理の弟を愛でる、優しい姉の顔と言うより。
自分が春の乙女であることを知らずにいた、硬い蕾の色づく様であった。
※
シャミマは、男に生まれたかったと思ったことは一度もなかった。
男子の養子を迎え入れると聞かされるまでは。
文武両道、すべてにおいて最高の成績を収めてきた。
両親が老いてのちに生まれた一人娘として、賢く優しく。
騎士の家の跡取りとして、気高く強く。
シャミマは完璧な息女であり続けた。
そこらの小娘たちのように装飾や男にはわき目も振らなかった。
清く正しくあることが人生の指針で、それで全てが上手く行くと信じていた。
両親の喜びが彼女の喜び。家と国家の安泰が彼女の使命。
彼女は完璧だった。
非の打ち所なく、高く厳しい目標を達成し続けていた。
―――――なぜですか父上!
―――――私では、不足ですか!
―――――私が、女であるからですか!
だからシャミマは、養子の話を聞いたとき、初めて自分に激情というものがあると知ったのだった。
けれどそれでも、叫びを声に出すことは出来なかった。
その話が、様々な政治的な理由で、断れないことは充分に知っていたし。
婚期を迎えた娘ひとりの家にとって、またとない良い話だとも理解していた。
まして将来の妻の座は予約済みで、いずれシャミマの入り婿に、という話でもない。
シャミマを脅かす要素は、なにもない。
……かえって、選択肢が広がり、自由になったと言えた。
文も武も家も養子にまかせて、嫁入り先か婿を選び、子を育てる、ごくあたりまえの、女性らしい幸せを選ぶ余地。
それは老いた両親の、親心だと、すぐに察せられた。
だから叫ぶことは出来なかった。
泣くことも、出来なかった。
シャミマは、男に生まれたかったと思ったことは一度もなかった。
その時までは。
養子が迎えられる当日。
シャミマは早朝から遠乗りに出かけた。
乗馬は彼女の趣味であり特技であり、煩わしいこと全て忘れられる、唯一の娯楽だった。
けれどその日、どれだけ馬を走らせても、流れる風景に身を任せても。
一向にシャミマの心は晴れず、苛立ちと理由のわからない焦燥がはやるばかり。
汗だくになった馬から飛び降り、執事の宥め言葉も耳に入らず、シャミマは養子が通された応接室に踏み込んだ。
両親は顔合わせを済ませて、すでに別室に引いていた。
シンプルなチェアに、少年が腰掛けていた。
なぜか右手にスコーン、左手に齧りかけのバナナを握っていた。
口の周りは菓子屑をまぶして、だらしなく舌がはみ出していた。
それはシャミマが忌むべき無作法と食い意地と無知と蒙昧の結晶体であった。
少なくとも一見して外見はそうであった。
そして多分、中身もそのまんまであった。
口の中でのバナナスコーン味の制作に没頭していた少年は、突然踏み込んできた長身の美女に目を見張った。
つかつかと歩み寄り、シャミマは無言で少年の前に立ちふさがった。
殴りたい衝動と、それを許さない矜持の間で、激しい葛藤があった。
数秒の空白。
その沈黙が二人の命運を分けた。
両手の食物を口いっぱいに放り込んで、少年は旬を過ぎたチューリップより大開きしたバカ面でこう言った。
「でっかいおっぱいっすね! 触ってもいいっすか!」
少年は、返事を待たなかった。
食べカスのついた手を自分の服に擦り付けて、立ち上がる同時に『がしっ』と行った。
――――止める暇もなかった。
執事は聖印を切った。
せめて、冥福を。
シャミマは抜く手も見せず、一刀の元、義理の弟を白刃の露とした。
………するはずだった。
乗馬服のぴっちりがっちりした服の下、けしからん質量を誇る女性の象徴を、その頃まだシャミマより 背の低かった養子ががっぷり両手に鷲?む、その様を。
なんだこれ。
………完全にフリーズした状態で、まじまじと見下ろすばかりであった。
―――――なんだ、これ。
それは、完全に彼女の理解の範疇を超えていた。
彼女の知る物理現象に、『義理の弟になろうとする雑種の捨てイヌに、出会い頭にチチをもまれる』というイベントは、存在していなかった。
シャミマが抵抗も拒絶もしないのをいいことに、養子は、絶好調に行為を続けた。
宇宙の真理を探究するようにひたむきに、泥団子をこねる幼児そのもので、わーいおっぱいっすおっぱいっすー、と義姉のチチを左右遠慮なく捏ね繰り回した。回し続けた。ぱふぱふばいんばいんぼいんぼいんぼよよーん。
少年は、まるで飽きるということがないようだった。
傍に控える執事にとって、悪夢の長い長い時間であった。
シャミマは、目の前の光景を理解しようと、その瞬間も賢明の思索を続けていた。
ある意味で厳格で堅苦しいイヌ社会、このようなセクハラを、ましてシャミマのような男勝りの麗人にいたしてしまえば、その場で切り捨てられるが世の道理。自然の摂理。
少なくとも執事は、シャミマを幼いころから見てきた執事は、そう思っていた。
シャミマは男になりたいと思ったことは無かった。
男勝りと言われたかったわけではなかった。
ただ彼女は、貴族の長子として、義務と責任を果たせる人間であろうと、努めてきただけであった。
男性社会であるイヌ国で、その姿が烈女・男装の麗人扱いされるのは、彼女の本意でなくとも当然だった。
彼女は、女のくせにという揶揄も蔑視も、いずれ自分がまっすぐ歩くうちに払拭できると信じていた。
だからシャミマは知らなかった。
自分の、女性である部分が、こんなにも無邪気に熱心に、喜び持て囃される代物だなどとは。
ただの一度も、知らずに生きてきたのだ。
「………そ。そんなに、大きいか?」
ようやく。
まじまじと養子を見下ろしながら、シャミマは口を開いた。
そろそろ谷間に鼻面を突っ込みかねない勢いの少年は、輝く笑顔で「わん!」と肯定した。
「ぼいんぼいっす! すばらしいっす! むちっとがしっとどしっともにゅっとしてるっす! さいこーっす!」
「……そ、そう、か」
同姓のチチのサイズなど気にしたことも無かったシャミマは、初めて聞く事実に、少し困ったように肯くだけで精一杯だった。
乗馬服で押さえ込んでも隠しようのない、女性らしいボディライン。
社会的慣例に負わされた、努力と実績で覆しうる、小さなハンディキャップ。
それが―――――
得がたい、『取り得』だなどとは、よもや夢にも。
いわれの無い蔑視に晒されるのは慣れていた。
でも、敏いつもりで、すっかり騙されていたわけだ。
紳士たちは表に出さないだけで。この身は、蔑視以外の視線を集めていたのか。
――――逆風にまっすぐ立ち向かっているつもりで。
私は、まだ、現実に目をそむけていたのか。
シャミマは天を仰いだ。
チチを猛烈に揉みほぐされながら、祈るように。
そして目を開いたとき、シャミマはいつもの、そして義弟の前ではじめて、麗人の微笑をたたえていた。
「………ようこそ我が家へ。わが弟、我が愛しい愚弟。ところで、淑女の胸元は、人前でそのように触れてよいものではないぞ」
では教えてやろう。鍛えてやろう。躾けてやろう。育ててやろう。
全世界に誇れる男の中の男に、私が磨いて輝かせよう。
貴族社会において、跡継ぎに女児しかない場合。
素質ある男子の養子をとり、将来的には息女と婚姻を結ぶことで、家の存続を図る。
よくある話だった。
であるからこの時この瞬間、シャミマは決めたのだ。
王室が何だ。聖堂教会が何だ。相続権のない養子、要は体のいい食客風情、それがどうした。
この世に我が身を委ねるに足る男はいない。
いないのだから、ならばこの手で育てよう。
我が夫となる男は、この、真実だけを見つけ出す眼を持つ少年であると、シャミマは決めたのだ。
※
そうして数年が過ぎて。
汗を拭いてすっかり着替えたシャミマは、ふと気づいた。
「ん? そういえば、我が愚弟はどこに?
さっきまでそこでジャムパンを食べていたはずなのだが」
「・・・・・申し訳御座いません、お嬢様。
試作品をお見せしたところ、プレゼントするっス、と仰って、担いでお出かけになられました。
勝手に持ち出してはお咎めがありますと、我々もお止め申し上げたのですが、お聞き入れにならず」
「・・・・・・・・ふ」
麗しくも凛とした、銀髪の美女は嫣然と微笑んだ。
王女陛下に捧げたレイピアを、流れる動きで腰に留める。
「案内したまえセバスチャン。
あンの赤線、今日こそは微塵も残さず潰す」
「お嬢様、どうぞ気持ちを落ち着けになさってくださいませ」
■彼の場合・2
「ねーちゃんとイモウトっすか?
イヤっすね先輩、おれそんなヘンタイ属性ないっす。ねーちゃんはねーちゃん、イモウトはイモウトっす。
義理のキョーダイにヨクジョーする気が知れないっす。そんなのは夢っす、幻っす、ファンタジーっす。
それより先輩、聞いてほしいっす。桃色バニーのレッドのあの子のことっす。
このまえ初めて同伴出勤したっす、ちょー感動したっす、二人でひとつのクリームソーダに二本のストロー刺してちゅーちゅーしたっす。ゆかりちゃん照れててちょー可愛かったんすッウゴゴゴゴゴ ガハッ………げほっごふっがはっ! な、なんっすか先輩、首が絞まったっす、びっくりしたっす!
え? ゆかりちゃんて言うな? だって源次名でも名前は名前っす、本名は教えてもらったけど内緒だから呼べないっす、ゆかりちゃんはゆかりちゃん って グゴゴゴゴゴゴ …」
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犬と羊タイプライター ~ サブキャラ過去話誰得編 ~ 了
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※おまけ
■訓練された戦士の食事について【GOOD ENDアフター】
唐突ですが僻地で食料が尽きました。
男は負傷しています。
食い物さえあれば超人的な回復力で助かりますが、あいにくパン一片もありません。
なぜか無傷な羊が、倒れて動けない男を覗き込みます。
男は、お前だけでも早く逃げろと言うのですが、羊はいう事を聞きません。
そして羊は、無理矢理にニヤリと笑いました。
「ねえ旦那。訓練された戦士はさ、いざとなったら羊のゲロでも食えるって、ほんと?」
また妙なことを言い始めました。
今度の元ネタは映画ラ●ボーだそうです。
「……口移しなら」
男は真顔で即答しました。
女はバァカと泣き笑いの顔をしました。
そして、指を喉に突っ込むかわりに、細くて白い手首に歯を立てました。
「800mlくらいな。それ以上だと、あんまり生き延びる自信ねぇから」
赤い血潮が、獣の喉を潤しました。
男と女は、無事に生き延びて旅を続けたそうです。
END.
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♪さあ~て、次回の更新は~?
■義理姉妹とタイトミニ保険医とアキバメイドの優劣について
■ウィスキーボンボンの砂糖がじゃりじゃりする件。
■夜中にラーメンが食べたくなる法則、とくに仕事帰りに。
■男150歳、ハードボイルド希望。
■お見舞い羊【DEAD END.】
■悪い魔法使いの簡単クッキング【DEAD END.アフター】
■番外1 巨乳の山羊子とぺた黒ノースリーブの猫
■番外2 ぺた黒ノースリーブの猫受け【※スカグロ触手百合NT女体化男体化輪姦幼女「以外」】
■番外3 山羊とモグラとエレキギター
■番外4 眼鏡で無口な奴隷メイド☆ニーナたん【DEAD END.】
■応援ありがとうございました! 次回から「羊とケダマとタイプライター」がはじまります。
■スクープ! 旦那に婚約者がいた! 恐怖認知請求編
■スクープ! 続・旦那に婚約者がいた! 風雲再会編
■スクープ! 続々・旦那に婚約者がいた! 疾風深夜密会編
■蟲蔵男女四人物語
■いぬの国にさよなら。【ノーマルエンド】
■いぬの国にさよなら。【DEAD END.】
■いぬの国にさよなら。【TRUE END.】
――――の、中から、気が向いた奴をお届けできたらいいなあ。です。んっがっふっふ。