アオとクロ 1話
まえがき
呪い師(まじないし)とは
古く存在する 知られない"稼業"
多くは迷信を扱う紛い物
本物の呪い師とは
精霊を行使し 術と理をも極めた
あらゆるものを操る秘匿の"種族"
幻の一族は 実はその爪を隠して
ひっそりと暮らしています
人知れず欲を満たしながら
■ 逃げ出した夜
「ぎゃあああっ」
視界に鮮明に映る赤。
振りかかる熱い飛沫。
男の断末魔の悲鳴。
「逃げて!」
裸体にナイフを握り締める姉の叫び。
体は無意識に動き出してドアを開ける。
部屋から飛び出す。
足がもつれる。
階段も廊下もけばけばしく薄汚れていて暗く、
所々からけたたましい嬌声や怒声が聞こえている。
暗闇が深まる通路を進むと音が遠くなり、
裏口と思しきドアから外へ飛び出す。
夜の街。
一糸まとわない身に受ける夜風は
むっとするような汗と獣の体臭と一緒に、
血の匂いをまとわりつかせている。
突然、激痛を感じる。
衝撃に思わず体を緊張させる。
体は簡単にバランスを崩して地面に転がった。
足の裏から鋭い痛みが頭に響く。
顔は地面と擦れて熱くひりつく。
足の裏には、何かの破片が食い込んでいた。
思わず涙がこぼれ、乾いた土に落ちる。
猛烈な吐き気に口を開いても、
かすれた嗚咽だけがあふれてくる。
青い光。
顔をあげると、一握りほどの光が舞い降りてきた。
光の粉を零しながらすりむいた顔に触れると、
光は擦り傷に染み込むように消える。
途端に、傷の痛みも消えた。
驚いて顔に手をやる。
砂と混ざった血の感触がしたが、不思議に何も感じない。
そのまま呆然としていると数個の光が近づいてきた。
顔と同じようにすりむいた膝や足に光がとまり、
輝きとともに傷の痛みも薄れ消えていく。
わずかに気分が落ち着き、立ち上がった。
あたりを見回す。
一つだけぽつんと残った光が見えた。
光は誘うように姿を明滅させながら夜の闇を進んでいく。
足が引き寄せられるように光を追い、歩き出した。
■ 青の館
眼を覚ますと昇ったばかりの日の光が目に入る。
館と呼ぶにはずいぶんと大きく感じる建物。
その一角の植え込みの中で夜を明かしたのを思い出す。
体は裸で泥だらけだ。所々は真っ黒なしみになっている。
先に逃がした妹は無事でいるだろうか。
周囲は静謐な朝の街並み。
聞こえてくるのは小鳥の声、わずかに行き交う足音。
「ご注文の品だ。ムネとハラミと……
あと、スープ用の骨もだな」
頭上からの太い声に思わず飛び上がりそうになった。
植え込みのすぐそばにあったドアが開いていた。
白エプロンの恰幅のいい中年猫に応じているのは、
黒褐色のネコ耳と細長い尾を持つ黒髪の少年。
「買い込むねえ。
大先生は珍しくお戻りかい。」
「ええ。ようやく盗賊団掃討の準備に一区切りついたようで」
「料理はどうだい、クロちゃん。」
「まだぜんぜん。先生にもお肉屋さんにもかないません。」
「飲み込みは早いんだ。上達なんてすぐさ。
ほれ、こいつはおマケだ。」
「わあ、ありがとうございます」
少年が代金を支払って礼を言う。
機嫌よく笑う猫おやじはのしのしと遠ざかっていった。
少年は荷物を抱えてドアを閉じる ……と思いきや
くりっと眼だけを動かしてこちらを見る。
「!!」
一瞬、思考が止まった。
すぐさまドアと逆向きに駆け出した。
行く手から声が上がる。
「いたゼ!」
「おぅ!」
前方の通りから男が二人、自分に向かっていた。
見るからに粗暴な男たちはネコとイヌで、
どちらも街並みに似つかわしくない身なりだ。
たたらを踏んで、ぽかんとした少年の方へ駆け戻る。
少年は駆け寄るこちらの姿を確認すると、
呆けた顔のまま閉めかけていたドアを大きく開いた。
そのままドアの内側に走りこむ。
少年も身を滑り込ませる。
ドアの閉まる音。
「コラッ開けろぉ」
「"ソレ"はオレたちのもんだ!」
どしどしと無遠慮にドアが叩かれる。
「ここは私有地ですよー。遺失物なら法的に申し立てして――」
どばん!
「くれませんか。」
少年がしゃべっている合間にドアがこじ開けられた。
無理に開けられたノブが少しひしゃげている。
安心しかけていて体がとっさに動かなかった。
入ってきた大猫の腕がこちらの腕を掴む。
とす、 とす。
「あべっ!」「おがっ!?」
こちらにのしかかるように迫っていた男たちの脳天に
ものの見事にインクペンと……ペーパーナイフ?が立っていた。
たまらずこちらの腕を放り出して慌てふためく。
少し遅れて血が二人の顔からたれてくる。
「他人の住まいで早朝から大声を上げないでもらえますか」
ホールと続いている吹き抜けの階段から声が降りてきた。
全く気付かなかった。紳士な身なりをした長身の山猫の男。
声の穏やかさとは裏腹な鋭い眼で騒いでいる二人を睨む。
「不当なお客様には、次はナイフでいきますよ」
そう言ってニヤリと笑ってみせる。
ひっ という情けない声を出し、闖入者はドアから出て行く。
危機が去ったのを見届けると、床にへたりこんだ。
少年は荷物を奥の大きな長方形の食卓へ降ろす。
「クロ、戻りましたか。」
「はい先生。ただいま戻りました。
すみません、お休みのところを」
「目覚ましを一杯頂けますか」
「はい、すぐに」
クロ、と呼ばれた少年は山猫に一礼する。
山猫は眼の鋭さはそのままに、笑みを消した顔をなでつける。
そうしてようやく、こちらを見た。
「あなたも一応、不当なお客様なのですがね」
機嫌の悪そうな眼を向けられると悪寒が走った。
肉食獣特有の威圧感だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
少年が食卓においたティーカップを口へ運ぶ。
その間中、山猫の鋭い視線は自分から外れない。
香ばしいお茶の匂いをかぐとふいに、お腹がなった。
山猫が眼を和らげて再び口元に笑みを戻す。
「クロ、彼女を風呂に案内してもらえますか。
彼女が着られるものも用意してください。
食事は私が用意しましょう。」
■ 幻の蝶
足がもつれて、うまく動かない。
夜通し走り続けて重くなった手足。
それでも地面を蹴る素足を止められない。
捕まれば再び恐ろしい目に合う。
そして二度と抜け出せない。
昨夜、茂みで見つけたシャツをかぶっただけの姿で
石と砂の街路を息を切らして走る。
からりとした暑さに強い日差しを受ける道は
砂利すら敷かれておらず、土埃が舞いあがる。
路地を吹き抜ける風が白い裾をはためかせる。
点々とたたずむ街路樹の緑に眼を向ける余裕もない。
追いかけてくる足音が鼓動よりも大きく耳に響いてくる。
"もう、だめ――"
限界を超えた疲労についに体を前のめりに崩す。
それでも目立たないように、建物の隙間に身を倒れ込ませる。
心臓は爆発しそうだ。息はどれだけ吸っても苦しさが取れない。
足音はすぐそばまで迫っている。
濃い日かげの中で、記憶に新しい青い光を見る。
目の前から舞い上がるその光は蝶の形をしていた。
透き通った青い蝶は通りの日向に飛び出していく。
すると、日に当たった途端蝶は形を変えた。
その姿は、今の自分と瓜二つだ。
「!!」
幻の少女は、振り向くとこちらに向けて微笑みかける。
そのまま、軽やかな足取りで駆け去っていく。
耳に響いていた足音は、そのまま白い幻を追っていく。
長い間、風の音に聞き入ってようやく息が落ち着いてきた。
冷静さが戻ると、すぐに不安が襲ってくる。
自分を逃がしてくれた姉の事。
自分たちを襲った獣がヨダレをたらしながら聞かせた話。
頭部の横に耳を持ち、尾も生えてはいない。
"ヒト"と呼ばれる種族はこの世界では非常に珍しく、
男女を問わず高価な、性的な愛玩奴隷として扱われる。
このままでは自分たちはいずれつかまる。
あの大きな犬や猫の、おぞましい慰み者になる。
体と心を踏みにじられ、散々苦しんだ後すべてが終わる。
姉の部活が終わるのを、学校の裏門で待っていた。
お母さんの誕生日。二人でプレゼントを買うと約束していた。
少し遅くなったけど、姉は裏口に早足に駆けてきた。
二人で笑いながら、母の喜ぶ顔を楽しみにして。
途切れる前の最後の記憶。
「おかあさん……」
思わずまた、目がにじんできた。
声を出すことは我慢して、ポロポロとこぼれるに任せる。
泣かないで、頑張って。
姉にそう言って何度も励まされた。
それでも涙を止めることは出来なかった。
ふと、自分を助けてくれる青い蝶の事を考えた。
どうして、助けてくれるのだろう。
たった今目の前で起きた出来事。
思わず悪い夢なのかと思ってしまう。
考えても何もわからなかった。
そのまま膝を抱えて座り込んでいると、あの蝶がまた現れた。
思わず手を差し伸べる。手にまるで本物のようにとまった。
蝶が自分を慰めてくれているように思い、少し安心した。
「みつけたぜ、嬢ちゃんよ」
聞こえてきた声に身体が震える。
頭上に覆いかぶさる大きな影にゆっくりと振り返る。
腕に厚く巻かれた真新しい包帯を示し、
左耳の大きく欠けたネコの男はその眼をギラリと光らせる。
「お前の姉貴に刺されたこの傷の借り、
埋め合わせしてもらおうかなァ、嬢ちゃん?」
背筋が凍りついた。
■ 呪い師
「冷めてしまいますよ。」
そういうと山猫は懐から笛のような細い筒を取り出す。
火をつけてくゆらせるところを見るとタバコのようだ。
吸い込んだ煙を空中にふうと吐いてみせる。
食事に手をつける気になれなかった。
目の前に並べられている料理に、腹は耐え難い空腹を訴える。
だが、目の前にいるのは自分を捉えていたネコと変わらない。
どちらかと言えばより凶悪で残忍そうな顔をしている。
どうしても悪い方へ悪い方へ考えが傾いてしまう。
洗った髪はまだしっとりしていて顔に張り付いてくる。
少年が言った。
「よければ事情とか、話してもらえませんか?」
その言葉に答えたのは、自分ではなかった。
「それは出来ないでしょう」
「なぜですか?先生」
「ヒトの物でない血の匂いがしていました。
恐らく主人に逆らって傷を負わせたのでしょう。
ヒトが傷害を犯せば死罪です」
山猫の言葉が突き刺さる。気を落としてうつむく。
アオは煙をくゆらせながらしばらくこちらを眺めていたが、
飽きたように視線を外すと静かに席を立つ。
「クロ、少し出ます。
彼女をお願いしますよ。」
「承りました。どちらに?」
「野暮用です。夜には戻ります」
優雅な仕草でパイプを布に包み懐にしまう。
こちらを肩ごしに見やると、そのまま玄関から出て行く。
山猫が出て行くと、少年――クロが口を開いた。
「ちょっと失礼しますね」
そういうとさっとスプーンを手にとる。
皿からスープをすくって、口へ入れてみせる。
「ほら、毒とか、入っていませんから
安心して、召し上がってください」
人懐っこい仕草を見て、ようやく食べる気になった。
一度口に入れてしまうと、もう止まらなかった。
まる2日ほど何も食べていなかったのだ。
しかも味は高級レストラン並だった。
「先生はホントなんでも得意な方なんですよね。
僕なんかまだ失敗も多くて。
先生は何も言わず口にしてくださいますけど」
上品とは言えない速度で食事をしていると、少年が言う。
「あなたの……先生はどういう人なの?」
「先生は呪い師です。
迷信でない正真正銘の呪いの一族。」
「呪いって、魔法とは違うの?」
「"呪い"とは言葉、薬物、知己、もちろん魔法。
様々なことを利用することで何か理想の効果を
もたらす術のこと指します。
理解できない者から奇跡と賞されるので
特殊な能力だと誤解されますけど」
「あなたの先生は、魔法が使えるの?」
「一般的なものとは違いますが、使えますよ」
「あなたは?」
「僕は……まだ勉強中です」
えへへ、とちょっと悔しそうに少年が笑う。
「幼い頃から毒をその身に受け続けたり、
厳しい修練で呪いの法を獲得するそうです。
学問も堪能で。街の政治の一角も担う方なんですよ。」
先程出て行った山猫男を思い出してみる。
確かに、自分たちを追い回している輩に比べれば
どんなにかスマートで知的な人物だとも思える。
睨まれた時は知性はどうあれ怖かったが。
「私は先生からそれを受け継ぐために
勉強をさせていただいてるんです」
「まるで完璧な先生ね」
「先生の欠点は趣味の悪さが……ごほん」
少年はお茶を濁す。
急に、通っていた学校の担任を思い出した。
国文専門のおっとりとした男の教師。
優しい先生だった。とたんに胸が苦しくなる。
こちらの表情を見てとったのだろうか。
少年がその両耳をつかんで持ち上げる。
すると、黒褐色の耳は少年の頭からすっぽりと外れる。
「あ!」
驚いて、口をあけたまま放心する。
少年は外した耳を抱いて眺める。
「あ……あなた」
「ええ、僕もヒトなんです。
ここでこうしているのは、先生のおかげなんです」
ヒトの少年は、優しい声で言った。
「心中お察しします。
先生はきっと、手を貸してくださると思います。
どうか、安心してください。」
■ 日陰者たち
エヴァンスは不愉快だった。
暗い路地裏の奥。
目の前でぜぇぜぇと荒い息を吐く部下たち。
口から出る息と同様に煩わしい言い訳が不愉快を募らせる。
調教を始めたばかりのヒトの姉妹を逃がし、
あろうことか荒らすには危険が大きい場所、
貴族や政治家が居を構える内街に逃げ込まれ。
おまけにそれを強引に侵入して見つかり、
さらにそれを取り返すことも出来なかった。
別の場所で見つけた妹は怪我をしていた。
だがそれも、突然幻のように姿が消えたという。
二人は額から血をにじませていたが、たいした傷ではない。
少なくとも与えようと思う罰には到底足りない。
密輸や窃盗を生業としていたエヴァンスの一団は、
その稼業を奴隷取引に鞍替えしている最中だった。
一所に長くとどまると地の番人の締め付けが強くなる。
奴隷業は、大抵の国で正統な取引だ。
しかし突然慣れない稼業に転じるリスクも小さくはない。
こんな煩わしい出来事も、今は我慢するしかなさそうだ。
「だ、団長。どうしやしょう」
上目遣いの部下を見下ろして、睨みつける。
咥えた葉巻をそのままに、静かに煙を吐く。
こちらの眼が完全にすわっているのがわかるのだろう。
部下たちはブルブルと震えている。
「お困りのようですね」
がざっ、と前の二人が振り返る。
部下を突き刺していた視線をそのまま声の方へ向ける。
「お望みならば、私が手をお貸しいたしましょう」
現れた長身の山猫。路地の入口の壁にもたれている。
細長いパイプからふかした煙があたりに溶け込むと、
部下のイヌの肩に、青い光――蝶がとまっているのが見えた。
蝶はふいと舞い上がると山猫の男へと近づき、見えなくなる。
「つけられたな。
全くもって救いようのないクズどもだ」
持たれた壁から身を離し正面からこちらを見る男に問う。
「……何だ、お前は」
「あなたの大切な商品、私なら無事にお届け出来ますよ」
相手の姿を見た部下が叫んだ。
「団長、こ、こいつです。オレらの邪魔をしやがったのは」
部下にニヤリと笑い、軽く会釈をしてみせる。
「その節は失礼を致しました。
ご高名なドン・エヴァンスの部下の方々とは知らず
朝方から騒がされたので少々気がたちまして」
「片われを匿ったのはお前か」
「そうです。」
「もう一匹も捕らえたのか」
「ええ、"妹"も。」
「私に買い戻せというのか」
「恐縮ながら、ご随意で結構です。
ただ、別の売り手を探すのも面倒なので」
チッと舌打ちする。
教育前とはいえ、主を証明する「首輪」すらしなかったとは。
部下のいいかげんな仕事に反吐が出そうだった。
「分かった。取引だ。
今夜、外街正門近くのオーレン商会の敷地に3時」
「承りました。伺いましょう。それでは。」
尖った耳をぴっと震わせて会釈する。
そのまま路地裏から出て行く。
「いいんですかい、あんなヤツの言う事を信じて」
「そうっすよぉ団長!」
「だまれ。無能なお前らが言えた台詞か。
別に私は奴を信じたとは言ってない。
こちらの素性も稼業もすでに知られている。
なら商品が戻る可能性を上げただけだ
商品が戻ったら――」
山猫の消えていった先を見たまま続ける。
「その場で始末すればいい、面倒もなくなる」
■ 石の街の長
「また何か企んでおるのか、軍師殿」
静寂に声を響かせる。
聖堂を思わせる大きく荘厳な作りの広間。
神話を描いた巨大な天井を支える柱やアーチ、
落ちかけた夕日の差し込むステンドグラス。
日に焼けたそれらはもう長い間ほとんど変化がない。
青い日陰の中、佇む山猫の姿があった。
「仕事は順調ですよ。
結果は明日にでもご覧に入れましょう」
「咎めはせんから、せめて老いぼれを安心させるだけの
説明をしてはくれんかね」
「終わり次第、真っ先に報告を差し上げますよ」
数枚の書簡を眺めていた男はこちらをちらりと見る。
視線は合わせず、ゆったりとした官職の正装を無意識に撫ぜる。
目の前の男は、この街一番の切れ者だった。
この男が街にやってきた当時、街は穢れにまみれていた。
街の政治は悪い噂の絶えない貴族と王族ばかり。
当然治安も悪く、商業も活発ではなかった。
石の街は生産的な長所もない。
危険と貧困だけは簡単に手に入る場所だった。
今でも、この男の事はあまり分からなかった。
少なくともそれまでの指導者よりは遥かに理に長けていた。
平民出だった私を使い、僅かな間に街を変えてしまった。
おかげで老いさらばえるだけだった私は今や街を治める立場だ。
彼自体は一切、政治的な表舞台には立ちたがらなかった。
彼の働きを知るものすら、自分を含めこの街でたった数人だ。
「それで、どの程度の人数が必要かな。軍師殿」
「一小隊あれば十分です。
あとは私と生徒で片をつけましょう」
「よかろう」
感情も含めずにあっさりとした返事を返すと、
彼は満足げに礼をとりこちらに背を向ける。
その背に言う。
「軍師殿、
そなたが事を仕損じるはずなどあるまいが、
あまり不遜な遊びに度を越して入れ込まぬよう」
そう。この山猫にはおぞましい趣向があった。
私たちネコにすらおぞましく感じられる類のものだ。
今回の仕事とやらでどれだけ"犠牲者"が出ることか。
それでも、石の街に秩序を保っているのはこの男だった。
山猫は肩ごしに目を細めてにやりと笑みを返した。
広間の扉から外の光が差し込む。
■ 弄ぶ猫
「妹さんがいたんですか」
日もすっかり暮れ、星が出始めた夜。
少し早めの夕食後、クロは紅茶を入れてくれた。
親身になってくれる少年に、心配だった妹の事を話していた。
「妹だけでもと思って、逃がしたの。
私も逃げられるとわかっていたら一緒にいたのに……
あの子、臆病だしおとなしいからきっと怖がってる」
「捕まっていないと、いいですけどね」
「うん……」
また気分が滅入ってきたので、お茶をすする。
向かいに座った少年は心配そうにこちらを見ている。
「妹さん、おいくつですか」
「15。私の2つ下」
「おふたりとも、ずいぶんお若いんですね」
かわいそうに、とは言わなかったがクロはそんな顔をしていた。
「あの子泣き虫で、いつも私が励ましてた。
失恋したときとか、なにか失敗をしてしかられた時とか。
中学の時はいじめにあったり……その時も言い聞かせたの。
泣いてないで、どうすればいいか考えなさいって
私も一緒に考えるからって」
「……仲が良かったんですね」
「うん。いつも私の後にくっついてたわ」
この世界に来たヒトは、二度と戻れないと聞いていた。
もし本当なら――妹は、自分に残されたたった一人の家族だ。
失うことは考えたくなかった。
「お話の妹さんとは、この娘ですか」
はっとして声の方を見る。
玄関から、目付きの鋭いあの山猫が入ってきていた。
その片腕に、小柄な少女の身体を抱いている。
「!!」
私はすぐさま駆け寄る。
抱かれた少女の顔をみて、安堵と喜びが湧き上がった。
思わず、妹の名を叫ぶ。
「感動のご対面ですね」
「聞こえてたの……」
「これだけ大きな耳がありますからね」
アオはその尖った耳をぴっと立ててみせた。
妹は気を失っているらしい。
身体のあちこちに擦り傷もあるが、無事のようだった。
アオの腕から受け取ろうと手を伸ばすが、押しとどめられた。
「薬で眠っています。このまま寝床まで運びましょう」
頷く。歩き出したアオにそのままついていく。
寝室のベッドに、妹は優しく横たえられる。
どこで見つけたのか、白いシャツだけの姿だ。
「よかった……無事で」
「あなた方を取り逃がしたネコに捕まっていたので、
ちょっと強引な手を使いました。催眠ガス、というやつです」
「ありがとう、助けてくれて」
しおらしくなってそう礼を言う。
山猫はにやりと笑い、少し眼をこちらからそらして巡らせる。
それからこちらに視線をもどして、言う。
「別に助けた訳ではありませんよ」
何か、おかしかった。
目の前がぐわ、と揺れた。
そのままどんどん歪んでいく視界に、
少年の申し訳なさそうな顔が映った。
「すいません、先生の指示で
紅茶に鎮静剤を入れておいたんです」
身体に力が思うように入らなくなり、膝が落ちる。
倒れこむ前に男の褐色の毛に覆われた腕に抱きとめられる。
なんとかつなぎとめている意識に低い笑い声が聞こえる。
「クックック……
あなた方は高額な商品なのです。
取引にも非常に有効なので、欲を出しました」
「あ……ぅ……」
せめて目の前の悪魔に、何か言ってやりたかったが。
口も満足に動かず、ただ喘ぎだけが漏れた。
「檻に戻る前に家族に再会できて良かったでしょう?
奴隷になってもきっとワンセットの商品として扱われますよ。
ヒトが姉妹で落ちることなど滅多にないことですからね」
意識が途切れる。
■ 夜が明ける前に
目を覚ますと、がたがたと揺られていた。
暗い。見回しても何もわからない。
周りを探ろうとして、後ろ手に縛られているのに気づいた。
口と鼻にもきつく何かが巻きつけてある。息が苦しい。
くやしさに苛立つ。じっとしていると不安も強くなってきた。
これからの事が頭のなかに嫌でも浮かんでくるからだ。
無理矢理に身体を動かす。
うつ伏せの右肩が柔らかいものに触れた。
毛のない、小さな身体。妹だ。
苦労して近づくと、妹がこちらを向いたのが分かった。
声を押し殺して身を寄せ合う。
「お二人とも。そろそろ到着しますよ」
山猫の声に身をすくませる。
暗い廃屋の前だった。
天井も壁も大きく崩れており、外と通じてしまっている。
崩れた建物の壁の横手には、大型の馬車がいくつか見える。
馬車から降ろされ、建物の中へと連れられる。
そこにはいくつかランタンがおかれていて、
大勢のネコの男たちが慌ただしく動いていた。
暗がりにいる私たちには気付いていない。
「こんばんは、エヴァンス殿」
全員が驚いてこちらを見る。
驚きに眼を見開く男たちの中から、前に出る老ネコ。
「どういうことだ」
老ネコ――エヴァンスがつぶやく。
アオはゆったりと会釈をしてから言う。
「失礼かとは思いましたが直接出向きました。
熱烈な歓迎のお出迎え、痛み入ります」
エヴァンスは歯噛みしてアオを睨みつけた。
アオは眼を閉じ、そのまま言葉を続ける。
「出迎えにはお礼を致しました。
ええ、それはもうたっぷりとね。
それでこの場所を――あなたの本当の居所を
お聞かせいただいたというわけです」
不敵な笑み。
口元は笑いに歪んでいても、
再び開いてエヴァンスを見るその眼は、暗い。
「フン、負けておいてやろう。
お前のほうが上手だったようだ。
オイ」
その声に手下の猫が重そうなトランクを両手で抱えてくる。
エヴァンスが山猫を見る。その眼からは苛立ちが消えていた。
「確認しろ」
エヴァンスに言われてアオがトランクのロックを外す。
「ウッ」とアオの声が上がった。
何が起こったのだろう。
アオがトランクを取り落とす。
片手で右脇を押さえている。
銀色の細長いものが刺さっていた。
そのまま前かがみに倒れる。
エヴァンスは身体を揺らして笑い始める。
「クッハハハハ……、青二才が。
お前なんかが私をだしぬけるとでも思ったか
思い上がりの報いを受けるがいい」
エヴァンスが歩み寄り、
うずくまった山猫の顔につばを吐いた。
脇腹を思い切り蹴り飛ばす。
山猫の身体は転がり、
そのまま動かなくなる。
アオを見下ろしていた蔑んだ眼差しがこちらを向く。
その顔にはいやらしい笑いが張り付いたままだ。
「必死で足掻いたのに、全部無駄だったなァ。
役立たずでバカなヒトの癖に一人前の夢見やがって。
結局、おまえたちには性奴隷がお似合いだってことだ
私たちに拾ってもらい、売られて衣食住を与えられるだけ
ありがたいと思え」
きっ、と睨みつける。
「……アンタたちに……」
ただただ悔しさだけが溢れてくる。
膝をついたままの身体を、できるかぎり伸ばして。
「汚らしいケダモノに
馬鹿にされる筋合いなんてない!」
先程まで感じていた恐怖がなくなっていた。
希望がないのなら、もう結果を恐れることはなかった。
「どんなに辛くても、耐えて生き抜いてやる!
人はアンタたちケダモノなんかよりも強いんだ。
あたしたちにしたことを、いつか後悔させてやる!」
声の限り、ありったけの悔しさを搾り出して叫ぶ。
獣たちが言葉を返すよりも早く――
声が聞こえた。
「いいですね。気に入りましたよ」
山猫の姿がない。
声のした方を見る。
すらりと立つ影が、頭上に何かを放り投げる。
その何か――銀のナイフに全員の視線が集中したその瞬間。
何かが割れる音がして、周りの明かりが一斉に落ちた。
盗賊の男たちは驚きながらも身を固くして警戒する。
注意深く周りを伺う彼らが"匂い"に気づく頃にはすでに、
あたりに広がっていた白い煙の効果が現れはじめていた。
※
暗い。
わずかな月明かりにも煙が渦を巻いている。
身体が勝手に震え続けている。
姉の身体にすがることしかできない。
そこではじめて、手が――
身体が自由に動くのに気づいた。
姉の縄もすでに切れている。
暖かい手が私を撫でた。
あたりから沢山のうめき声と
バタバタと倒れる音。
それが怖くて、動けないまま。
視界に、何かが映った。
青い光。
羽ばたく蝶。
何度も私を助けてくれた。
青い燐光が暗闇の中に浮かんでいる。
励ますように、強く輝く。
動かない身体に力を入れる。
抱き合っていた姉の手をとって。
輝く蝶を追う。
その輝きに周囲が照らされて
風景が青く浮かび上がる。
転びそうになりながらも、
輝きに向かって走った。
※
エヴァンスは愕然としていた。
「どう……して、……お前……」
霞む眼に山猫の姿を捉える。
「私は毒の効かない体質なんですよ。
幼い頃から培った"耐性"でしてね。」
膝をつく。
山猫は冷たくこちらを見下ろしながら、
先程吐きかけられた唾液に濡れる頬を舐めとっている。
掴み上げられた顎から力が抜けてがくがくと震えはじめた。
獲物の味を確かめるように顔にべろりと舌を這わされる。
と同時に、腹に鋭い痛みが走った。
「がっ……!」
男の手はその体に刺さっていたはずの麻酔針を摘んで、
こちらの腹にゆっくりとねじこんでいた。
山猫は笑みを浮かべていた。
その表情に、私はこれ以上ないぐらい恐怖した。
その場に崩折れる。
※
妹に手を引かれて走っていると、唐突に煙を抜けた。
たどり着いたのは崩れた壁の横手にあった馬車だった。
すでに沢山の荷が積まれている。
食料や酒、宝石箱や硬貨の入った袋、そして檻。
檻には数人の男女が、人間が押し込められていた。
御者台に、妹と飛び乗る。
後ろから声が聞こえる。
咳き込みながら、追いかけてくる数人の影。
煙をぬけ、すぐ側まで迫っていた。
強く青い光が、馬車につながれた馬に溶け込んでいく。
すると、馬がいなないた。
馬車が動き出した。
力強く走り出す。
煙に包まれた廃屋があっという間に遠ざかっていく。
迫っていた影は広がる煙に再びまかれていた。
馬車は疾走する。
空が色づきはじめた。
■ アオとクロ
「首尾はいかがでしたか? 軍師殿」
白みはじめた空。欠けた左耳を風が撫でる。
包帯の巻かれた腕の傷をかばいながら、
敷地の入り口に立って軍師アオ――山猫にたずねた。
やぶにらみの山猫は満足げに笑みを返す。
「上出来です。
これでようやく片がつきましたね。」
「いいんですか。あのヒトらを逃がしてしまって」
「構わないでしょう。
追い剥ぎになる訳でもないのですから。
街で世話を焼くあなたの手間が省けていいでしょう?」
そう言われると、苦笑いして走り去る馬車を眺める。
腕の包帯を何気なくさすると、彼がそれを見て言う。
「刺された傷はいかがですか」
「掠り傷です。
でもまさかあんなか弱そうなメスのヒトが、
こんな反撃をする勇気があるとは思いませんでした
うちの隊にも、あれぐらい根性のある兵が欲しいもんです」
再び山猫の表情を見つめる。
普段は妖しくつり上がっているその眼が
なんとなく、優しさに似た何かを湛えている気がした。
「"火付け役"、作戦は成功ですね」
「彼女らに事情は話ましたか」
「いえ、自分は」
「そうですか。
なら感謝してはもらえませんね。
街に舞い戻って面倒になることもないでしょう」
「子供のお守りもですが、潜入捜査にはまいりました」
「ご助力に感謝します。
礼はいずれ何かの形で」
少し離れたところで、彼の生徒がガスの噴霧器を片付けていた。
「いいコンビですね。
まだ若いのに軍師殿の右腕とは、大したもんだ」
「まだまだ、教えることはたくさんありますがね」
大勢の足音が聞こえはじめてそちらを振り仰ぐと
鐘を鳴らして仲間の警邏隊が近づいてきた。
指揮のための合図を送りながら、隊に駆け寄る。
ゆっくりと、夜が明けていく。
※
「先生、どうして彼女たちを"助けなかった"のですか?」
師である山猫の男を見上げながら、尋ねた。
日はすっかり登っていた。
散らばっていた盗賊たちはあらかた護送車に乗せられ、
そろそろ撤収の準備も整おうとしていた。
「助けなかった、とは」
「彼女たちは街でまともな飼い主を探して
引きとってもらう予定だと伺っておりました」
「そういえば、そうでしたね」
師はそういって笑う。
その笑いに、さらに食い下がって問う。
「あのヒトたちが無事に生きていけるとは思えません。
このあたりの未開地はそれほど大きくありませんし
いくら密輸品を積んでいてもいずれは尽きてしまいます」
「あなたも、ずいぶん彼らを過小評価しているんですね」
「? そうでしょうか」
「いえ、あなたの言うとおりですね。
彼らはこれから山というほど苦労と危険を背負うでしょう」
「では、どうして……」
師はしばらく宙を見つめていた。
はぐらかされたと思い始めた頃、返事が返ってきた。
「気が変わったのです。
その方が……面白そうじゃありませんか」
そういった師の顔をじっと見て、視線を落とし、また見上げる。
師の気まぐれは自分にはまだ理解出来そうにない。
「"まるで自分のことのようで"……胸が痛みますか」
「いえ、そんなこと」
師の言葉でつい、板についてしまった男装を気にしてしまう。
警邏隊の鐘が鳴り響き、隊の撤収を告げる。
ゆるゆると動き出す隊列を眺めながら、師と御者台に登る。
幌の中には、縛り上げた老ネコの身体が転がされていた。
心なしか――その毛だらけの顔は青ざめているように見えた。
手綱を持ち、顎でその老ネコを指しながら師が言う。
「そういえば、申し訳ありませんね。面倒をかけてしまって。
しばらく、この"玩具"の世話を頼みましたよ。」
「はい、先生。」
馬車が動き出す。