キツネ、ヒト 1話
如月アキラはまだ到底、諦めがついていなかった。身体は泥水の様に重く、この国で紛争が始まってからすっかり持ち馴れたはずの自動小銃も、今日は身体に食い込むスリングが強く痛む気がしていた。
信頼を置く仲間達は、敵と自分達の上官により殺された。撤退の許されない孤児部隊は最前線に立たされ、愚かな上官に突撃を命じられ、壊滅した。
生き残った仲間達は二つの敵に銃弾を浴びながら方々へ逃げ出したが、恐らく絶望的な結末が待っているだろう。
既に足は、前に踏み出す事を拒否している。季節は冬、突き刺さる風が体温を奪っているのが分かる。 反射的に一つ歩み出す。太股に違和感。構わず一歩。遅れて聞こえた銃声と、倒れ込むタイミングは面白い様に重なった。
薄らぐ意識の中、金属の擦れる音と人が近付く気配が感じられた。「きさらぎあきらか」
幼い声で問われ、小さく首を振る。霞む視界には見慣れたAKの銃口。「ころせ」別の幼い声。
別に死ぬのは怖くはない。
ただ、故郷に残した幼い妹への送金が途絶えてしまう事、それだけが恐ろしかった。
柔らかな喧騒と瞼の裏から伝わる優しい光に、少年は目を醒ます。久しく忘れていた深い眠りのせいか、普段ならすぐ覚醒する意識が、この日はまだはっきりとしない。
しかし手をまさぐり、肌身離さず装備しているはずの小銃が手元に存在していない事を確認すると、瞬間的に意識は浮上し、素早く上着から自動拳銃を抜こうと腕を動かす。
だが着慣れたミリタリージャケットは消え失せ、代わりに変な生き物の刺繍が入った上着らしき物が目に入った。
激しく混乱する思考を落ち着かせようと辺りを確認し、素早く今寝ていた何かから降りた時点で、それが写真でしか知らないベッドだという事が解り、混乱に拍車が掛かるのを感じた。
それに立て掛けてある小銃を慌てて掴み、マガジンに弾が装填してある事を確認すると、少しだけ冷静さが帰って来る。
セレクターはフルオート。薬室には一発の弾丸。理解できたのはそれだけで、自分の生死についてはまったく理解できていない。
木の軋む音が聞こえ、反射的に銃口を簡素なドアに向けた。軽やかなノック。返事の代わりにトリガーを引き絞った。
「うごくなっ!」ドアの隙間から覗く半身に怒鳴り付ける。
「目、覚ましたんだね」鈴の様に美しい、少し高めな女の子の声。
「だまれ!ここはどこだおまえはだれだっ。おれをころすのか」
「わっ、オチモノって本当にこんなんなんだ」
「だまれっ!」
「命の恩人に凄く失礼な奴だなぁ・・・・・・とにかくその危なそうなもの降ろして?ご飯用意したから、食べながらゆっくり話そ?」
自分に向けられている銃口にはまるで興味なさそうにアキラに歩み寄る女の子。
「うごくなといっている!」
「まぁまぁ。っこいしょ」
女の子は構わず隣に座り木製のスプーンから何かを掬い取り、ちょっとあっついなと眉をしかめ、結局合点するとそれをアキラの口元に向ける。
「はい!あーん」
「なにをっ」
「あーん」
「ひ、ひとりでたべれるよ」
「それ、手放せないでしょ?冷めちゃうから、あーん」
「・・・・・・」
結局少女に押し切られ、一口。その味は全く知らない味だったが、感想を言わずにいられない味だった。
「これおいしいなっ!すごくおいしい」
「そっ?ならよかったよ」アキラの素直な言葉に少女は顔を綻ばせる。
数え切れない疑問があったが、空腹には耐えられず綺麗に器を空にしたアキラは、少女の言葉に促されるまま生まれて初めて、満腹になるまで食事をした。
「ごちそうさまでした」
「美味しかった?」
「うまれてはじめて、こんなにうまいものたべた」
「素直に言われると照れちゃうな」
少女は白い肌を少しだけ紅くし、金麦色の毛に包まれた、まるで犬の様な耳をぱたぱたと動かした。
「なんっ!?い、いまうごいたのはなんだ」
女の子はあからさまに慌てた表情に浮かべると、小さな声で呟いた「参ったな」
もう一度小銃を握り、少女に声を張り上げる。
「いったいなにがどうなってんだ!ここはたちかわじゃないのか?おまえは、はんせいふぐんなのか?なにがなんだかさっぱりだっ」
「ん」女の子はぱたぱたと動くそれを細い指で弄りながら
「何から説明したらいいのかな」うんうんと暫く悩み、急に顔を上げた女の子は真っ直ぐにアキラを見詰める。
「覚悟はできてる?」
「もうなんかいもしにかけてる。かくごはずっとまえにすましてる」
「そっか」
少女はゆっくりとこの世界の事を、なるべく解り易い言葉を選びながらアキラに教えていく。落ち物の意味、この世界における生物世界、人間のヒエラルキー。他にも、様々な事が星の数程存在するが、とにかく状況を伝える事に専念した。
「じゃあ、ここは、おれのしってるせかいじゃない。たちかわとかは、ぜんぜんべつのせかい」
「うん。ここは猫の国」
「おれはそこにきて、ひとみたいなキツネとしゃべってる」
「正確には一つの種族だね」
「にんげんは、ものみたいなもの」
「残念ながら」
「たちかわには、かえれない」
「ほぼ確実に」
これを悪い夢だと理解したアキラは素早く銃口を口にくわえ、右足の親指を引き金に掛けた。
「わっ馬鹿!」少女はアキラから小銃を取り上げようとするが、歳不相応に鍛え上げられた彼の力が、それを安易にさせずにいた。
「はなせ!おれはぶたいにもどって、かねをかせいでいもうとにをおくらなきゃいけないんだっ」
「だからこれが現実なんだってば!」
「うそだ!おれががっこうにいってないからうそをついてるんだっ」
「人間って力弱いんじゃないのっ?!もうっ、こうなったら」
とてつもない暴れ方をするアキラをなんとか組み伏せた少女は、突然その唇を少年の荒れた唇に合わせた。アキラは突然の事態にますます混乱し腕を振り回したが、己の唇を割って侵入してきた柔らかい何かが自分の舌に当たると、一度身体をビクリとさせて動かなくなる。
「んっ、ふ」
耳に伝わる甘い声に、アキラは思わずきつく瞼を結ぶ。
これがキスである事。キスが不思議な快楽で出来ている事。コツコツと当たる柔らかい何かは、きっと妹に酷く叱られる原因になる事。この三つだけが、アキラの頭を支配した。
「っはぁ」永遠にも一瞬にも思える口づけを終えた少女が顔を真っ赤にしながら深呼吸。
「っ、なにを」アキラの声が裏返る。
「本物でしょ?」
「・・・」
「このキスは本物でしょ?」
少女の意味深な笑顔がとても魅力的に思え、アキラは咄嗟に目線を外しながら短く一度頷く。
「解ればよろしい。って、なんで泣いてるの?」
「ないてないっ」
「びっくりしちゃったか」少女は言いながらアキラに顔を近づけ、少しだけ溜まった涙を舐め採った。「姫巫女様の気持ちなんてさっぱりだったけど、確かにこれは可愛いかも」
アキラはぼんやりとしながら己の足元でぱしぱしと揺れる、たっぷりと毛を蓄えた美しい尻尾みたいな何かが揺れているのはきっと、キスの余韻みたいな物だろうと考えていた。
クスクスと笑う女の子、目線を絡め取られまいとするアキラ。二人の世界は余りに空気が濃く、新たな来訪者がドアをノックする音も遮断していた。
「うるさいぞ要芽(かなめ)朝からばたばたと・・・・・・あ、はい。早速お楽しみだった様で」
「わっ!?ココ!?違うの違うのっ」
「はいはいはいはい」
アキラは深く溜め息をつきながら、なにがなんだかさっぱりだ。と、心の中で呟い。