ボインボイン物語 序章
自宅へと向かい夢中で歩いていたせいで気付かなかったが、いつの間にか空が白くなり始めている。
じんわりとした蒸し暑さが体を包む。全身が汗ばんでいた。胸も股も蒸れて下着が当たる感触が痒い。
もうかなり長い時間、蒸し暑い夏の夜道を進んだはずだ。ハイヒールを履いた足が痛む。
彼女はウェーブの掛かった金髪を撫で上げる。浅黒い頬に汗が滴り、顎からぽたりと垂れた。
淡い桜色の唇が小さく開き、「はぁ」と、小さなため息が漏れた。どうしてこうなったのか。頭を抱えて舌打ちをする。
お気に入りの白いワンピースはすっかり汗で濡れてしまった。歩き続けたせいで喉も渇く。
終電なんてとっくに過ぎているし、この辺ではタクシーもそうそう通らない。携帯もどうやら忘れてきてしまったらしくタクシーを呼べない。
コンビニも見当たらないし、せめて休む場所ぐらいないだろうか。息を切らして肩を落としながら、彼女は周囲に広がる団地の風景を眺めた。
ようやく見覚えのある景色が見えてきている。このままあと一時間も歩けば我が家に着くだろう。しかし今は休む場所が欲しかった。このままでは靴擦れを起こしてしまう。
だが求めるような場所は中々見つからない。女性にしては長身の彼女も、疲れきってとぼとぼと歩く姿は、どうも小さく見えた。
足の痛みを気にしながら、そうしてしばらく歩き続けるが、不意に足が止まる。自販機の明かりが見えた。小走りで近寄ると、自販機の向こうには公園も見えた。
これで冷たいジュースを飲みながらひと休みできる。彼女は不機嫌そうにへの字にしていた口元に笑みを作り、お洒落な手提げかばんから財布を取り出した。
「……もうっ」
だが、すぐにその表情が忌々しげに歪められる。財布の中には一万円札と十円玉が2枚ずつ。これでは自販機など使えないではないか。
彼女は頭を抱えながら、公園の奥にあるベンチへと向かう。飲み物はなくても休むことはできるのだ。幾らか救われている。
そう思うように心掛けるが、しかし自分がこんな目に遭う原因となった相手たちへの呪詛を心の中で呟かずにはいられなかった。
「はぁ、やってらんないわ……。あいつら死ねばいいのに」
大人びたハスキーボイスで、子供のように悪態をつく。ベンチに座り背もたれによりかかると、彼女は脚を組んで目をつぶった。
座った途端、全身を押し潰すような疲労感がのしかかってきて、立てなくなってしまった。
次会ったら、今日無駄に使わされた代金をきっちり返してもらおう。彼女は大きく息を吐く。
艶やかな唇から熱の篭もった吐息を漏らすその姿は、中々に官能的である。そしてその色気が、この不運の理由の一つでもあった。
スラリと伸びた長い脚や、出る所の出たグラマラスな体つきは、女性的な色気に溢れている。
母方の遺伝を強く残した小麦色の肌やウェーブの掛かった金髪、それに異国の情緒を感じさせる整った顔立ちは、彼女を常に異性からの視線で悩ませてきたのだ。
今日もそのせいであった。たまに話す程度の知り合いから飲みに誘われ、特に予定もなかったので行ってみれば、それは所謂合コンというものだったのだ。
『ハーフの子が来るよ』などと抜かして男を集めたらしい。
それでも普通にお酒を飲んで楽しめればとも考えたが、断っているのに続けられるアプローチに嫌気が刺し、酒の勢いもあって飛び出したのがいつ頃だろう。
酔いが冷め、携帯でタクシーを呼ぼうと思う頃には、もう随分と歩いた後だった。
本当に嫌になる。やっていられない。
心の中で再び悪態をついた。まぶたが重たくなる。疲労感とアルコールから来る眠気が体を包む。
さすがに野外で寝てしまうのはどうかと、頭の片隅にアラート音が聞こえるのだが、しかし今は抗うことができそうになかった。
ゆっくりと、体全体が泥沼に沈んでいくような感覚が広がる。体がとても重たくて、いよいよ眠ってしまいそうなのが自分でも分かった。
世界が一瞬無音になる。まるで地面がなくなるように下へと落ちてゆくような心地が感じられ――
「あだっ!?」
どさりと、盛大に尻餅を付いてしまう。
まさに眠ろうとしていたところであった彼女は、受身すら取れずに臀部を強打し、その痛みに顔を顰めつつなんとも情けない悲鳴を上げてしまった。いったい何がどうなったのだ。
眠気などすっかり吹き飛び、彼女は困惑しながらまぶたを開けた。