~ボインボイン物語 第二話~
あの後、どれだけの時間飛び続けただろうか。未だに吹雪を抜けることは出来ず、寧ろ天候は悪化しているようだった。
大きな雪が体に当たるのを感じながら、トカゲは懐に抱え込んだミツコを寒風から守るように、前かがみの姿勢をとる。
心なしか、その息づかいが小さくなっているようだった。トカゲの縦に割れた瞳孔が不安気に揺れた。
『ここまで来れば多分安心だよ』
そんな彼の所作を察したような口ぶりで、竜が言うと、その翼をバサリと動かし、降下を始めた。
分厚い雪に覆われた地面にふわりと着地すると、竜はその鼻面を器用に使って、雪面に穴を開ける。
トカゲはポケットから魔符を一枚取り出し、それを穴に投げ込んだ。
――ジュッ
投げ出された魔符が、その内に封じられた炎を解き放つ。水を蒸発させるような音が聞こえた。炎は深く積もった雪の中で燃え盛り、跡には調度良い大きさの雪洞が作られている。
トカゲはミツコを抱えたまま、竜の背から飛び降りると、その雪洞へと入っていった。ドラゴンもそれに続き、蛇のように体をくねらせながら雪洞の入り口へと身をねじ込む。
急造の雪洞であるが、竜族にしては小振りな体をした彼ならば、なんとか入れないこともなかった。
「これでやっと楽できるな」
トカゲは「ふぅっ」と小さく息を吐きながら、竜の背に括りつけてある鞍を外した。その鞍には、旅をする上で欠かせない荷物が繋げられている。
食料や毛布や、暖を取るためや料理のために使う固形燃料など、どれも必要なものばかりである。特にミツコは体が冷えているから、なんとか温める必要があった。
「あれ……?」
だが、トカゲが気の抜けた声を出す。鞍に繋げられていたハズの荷物が一つなくなっていた。革のベルトを使って、竜の体に固く固定されており、落とすはずもないのだが。
呆然と鞍から繋がるベルトを目でなぞるが、しかしどうしても荷物が一つ足りない。
先程狙われたときに、魔法弾にかすってしまったのだろうか。トカゲは慌てて他の荷物も開き、点検する。
毛布も食料もちゃんとある。無くなったのは、体を暖めるための固形燃料だった。
『毛布ならあるでしょ? 温めてあげるしかないんじゃない?』
「ちくしょー……。俺がヒト苦手だって分かってて……」
『でも死なせる気はないんでしょ? 僕の体じゃ逆に凍えさせちゃうしね』
竜は愉しげに言うと、長い尻尾を荷物の袋へと突っ込み、厚手の毛布を引きずり出すと、それをトカゲへと渡した。
トカゲはぶーたらと文句を零しながらも、竜の腹に背を預ける形で座り、ミツコを胸に抱き寄せながら毛布にくるまった。
ミツコの体はだいぶ冷えていた様子であるが、毛布に包まれながら相手と密着するうちに、少しずつであるが、その体に熱が戻っていく。
最初は腕の中で小さく震える程度だったその体も、時折もぞもぞと動くようになっている。この調子であれば、程なく意識を取り戻すだろう。
荷物から取り出した干し肉に齧り付きながら、トカゲはなんとなしに考えた。そうなれば……と考えて、彼は小さくため息を吐く。
彼女が目を覚ましたとき、どんな反応を示してくるのか、今から不安になってしまいそうだった。
何度も話したとおり、彼はヒトが少し苦手だった。いや、苦手というよりも、恐怖すら感じている面がある。
この世界において、最下層の知的生物として認識され、奴隷として扱われているヒトであるが、反面その稀少価値は高い。
つまり、ただの奴隷でありながら、自分自身をはじめとした多くの人間たちよりも、固体としての価値はべらぼうに高いのだ。
しかも……と、トカゲは毛布に隙間を作り、その中で寝息を立てているミツコの顔を見下ろした。
彼女はその中でもさらに価値が高い種類の人間に見えた。落ちてくるヒトのほとんどは黒髪に黒目を持っているそうだが、彼女は金髪に碧眼だ。それに目鼻立ちも整っている。
加えて、先程から彼の胸板へと当たっている柔らかくも大きな二つの膨らみも、相当のものだ。今はそんな事を考えている状況でもないだろうが、生唾を飲み込まずにはいられなかった。
下半身で何かが固く大きく膨らんでいくのを感じながら、そんな雑念を振り払うように、トカゲは首を左右に振る。
こうも魅力的だからこそ、ヒトは争いの種になってしまうのだ。貴重な物品はそれだけで人間を狂わせる。彼の経験上から来るその認識が、彼にヒトへの恐怖心を抱かせていた。
「ああ、もうこのままじゃもたねぇ」
『君もこんなところで欲情するようになったか』
「ちげぇよバカ。ヒトってのはなんか、落ち着かねぇんだよ」
落ち着かない。とにかくその一言に尽きた。ヒトとは、様々な感情を掻き立てる魔性の生物だ。こんなにも落ち着かない気持ちで、彼女と密着し続けろなどと、気が気ではない。
トカゲは、食料をまとめた袋へと手を伸ばした。仕事が終わった後に飲もうと思っていた酒を取り出す。酔えば気分も落ち着くだろう。アルコールで体温が上がれば彼女を温めてもやれる。
使い古された鉄製のフラスクを右手に持つと、キャップを外して口へと運ぶ。ギザギザの歯が並ぶ大口を開き、中の液体を流し込んだ。
中々強い酒だ。酒そのものの味よりも、酔っ払うことに楽しさを覚える彼は、すぐに酔える強い酒を好んだ。
フラスクの中身を半分にする頃には、彼の緑がかった顔のウロコが、僅かに赤く高潮しているようにも見えていた。
これでなんとかマシになったであろうか。精神の安定を脅かす落ち着かない感覚は、アルコールに押し流されて霧散してゆく。彼はようやく落ち着いた様子で、彼女の体に腕や太い尻尾をまわし、ぐっと抱き寄せて温めた。
だが、アルコールのせいで力加減が利かなかったのだろう。息苦しくなるようなきつい抱擁が、彼女の意識を取り戻させた。
「ん……」
端正な二重のまぶたが、ゆっくりと開く。だが、頭まですっぽりと毛布に包まれ暖められているのだから、真っ暗で何も見えなかった。
今だぼんやりとした眠気と疲労感が体を包んでおり、暖かい毛布の中で味わう微睡みからは、抜け出せない様子だ。
だが、数瞬の間を置いて、心地良さそうにしていた彼女の表情が引き攣る。
「んがっ」
「な、なんだ……!?」
ミツコは反射的に両手で口元を押さえていた。
ちょっと汗をかいたぐらいで、その体臭を気にかけていられるような環境で育った彼女にしてみれば、旅の中でロクな洗濯もせず使われている毛布や防寒具の汗臭さは、耐え難いものがあった。
しかも毛布にくるまれて締め切られた空間の中では、その臭いもさらに強烈なものである。ミツコは何も考えず、トカゲの胸板に手を突いて、その毛布から抜けだそうと身を捩る。
相手がほろ酔い気分でボケっとしていたこともあり、その抵抗は驚くほどあっさりと効果を表し、毛布の抱擁は解け、ワンピースに身を包む瑞々しい体が露になった。
「あ……」
その時になって、ようやく彼女は目の前の相手に気づいた。高所から落下する自分を間一髪助けてくれたトカゲの姿が眼に入る。
そして、さらに数瞬の間を置き、雪洞の中の冷気が、一斉に彼女の体を襲った。
「……ッ」
肌を刺すような寒さに、ミツコの体が強張った。
起きたと思ったら意味不明な行動を見せるミツコに怪訝な表情を浮かべながら、トカゲは彼女の背に回した尻尾に力を込め、体を手繰り寄せると、その背に再び毛布をかぶせた。
「ちゃんとくっついてろよ。俺まで凍死するんだってー」
「あ、ごめん……なさい」
アルコールでヒトへの苦手意識も忘れていたトカゲは、そう言ってミツコへとさらに密着する。
体温を取り戻した今となっては、変温動物の彼よりも、哺乳類である彼女の方が温かい。
いきなりドラゴンの背中へと落ちた時よりは、飲み込みやすい状況であったのだろう。ミツコはすぐに意味を理解し、申し訳なさそうに謝罪をしながら頷いた。
毛布に染み付いた臭いも、顔を突っ込んでいなければ、まあ耐えられる程度だった。
だが、やはり目の前のトカゲ顔は、気にしないというのも無理なものである。ミツコは再び頭の中に混乱をきたしながら、チラチラとその顔を見た。
『混乱するのは当然かも知れないけど、まぁ悪いやつじゃないから怖がる必要はないよ』
「え……?」
その所作を見てか、竜が彼女を説得するように声をかける。
ミツコはキョロキョロと視線を動かし、その声の主を探した。トカゲが寄りかかっているのが竜の腹だと気付く。その頭を見つけるのもすぐだった。
昔見たアニメや漫画に出てくるようなものより、随分と小さな竜だった。それでもまだ、人間よりはずっと大きい。
ミツコの視線が自分の方へと向いたのを確認すると、竜はニッコリと笑みのような表情を作ってみせた。
やはり、トカゲの方より大人びているというか、思慮深い印象を受けた。というか、トカゲの方は何も考えていなさそうだった。
ミツコが小さく会釈をすると、竜はそれに答えるようにして話し始める。
『彼はユーリ。僕はガガーリン。君が僕の背中に落ちてきたときは驚いたけど、これも縁だからね。
話し相手がユーリだけの生活も退屈だったし、もうちょっと思慮深い相手と話したかったところだったしね。それは素直に嬉しいよ』
「あ、うん。ありがとう……」
ミツコが戸惑いながらも返事をすると、ガガーリンと名乗った竜は、彼女へとこの世界の説明を始めた。
もちろんその内容は、落ちてきたばかりのヒトに理解して飲み込めと言うには、あまりにもな内容である。
説明を聞くほどに、その表情に困惑の色を強くしていくミツコを見つめながら、ガガーリンは「それも当然だ」とばかりに、長い首を振ってみせた。
ヒトは奴隷で、ここは別世界で、元の世界には帰れなくて、そしてこれからはここで生きていかなければならなくて……。
そんな頭が理解を拒絶するような説明を並べられ、ミツコは返す言葉も見つからずに、小さく唸っていた。
ガガーリンの方は、予想した通りの反応に対して無言で返す。時間をかけて受け止めてもらえれば、と考えているらしかった。
深刻な表情でうつむき、考え込むようにしているミツコを、まるで品定めするかのように眺めていた。
どういった人間なのか見極めようとしているかのようでもある。
しかし、うつむく彼女の瞳に淡く涙が溜まった辺りで、巨大な手がその背をポンと叩いた。
「そういう時は、飲むに限るじゃねぇか!」
そう言って彼が差し出したのは、半分ほど酒の入った飲みかけのフラスクだ。ミツコはユーリのトカゲ顔と、そのフラスクを交互に見つめる。
そして、口元に小さな笑顔を作りながらそれを受け取った。キャップを外すと、きついアルコールの匂いが伝わってくる。
「あなたもありがとう」
ミツコは笑顔を浮かべながらユーリへと感謝の言葉を述べると、フラスクに口をつけ、中に残った酒を一気に飲み干す。
蒸留酒らしく、度数もかなり高いようだ。そのまま飲むには少しきついが、これだけ濃いのを一気に飲めば、それだけ酔っ払えるだろう。
「んっ、ぷはぁ……ッ」
結局彼女は、残りの酒を一気に飲み干すと、空になったフラスクを荷物袋へと投げ込んだ。
なにはともあれ、酒の一気飲みは彼女の思考をプラス側に転換することには成功したらしい。
だが……。
「なんだよ、女のくせにいい飲みっぷりじゃねぇか!」
「飲み会の誘いを断ったことないのが自慢よ! ほらー、もっと持ってきなさーい!」
辛い現実を忘れるための、いわば逃避目的のアルコール摂取は、どうやら悪酔いを招いたらしい。
妙にハイテンションのミツコは、同じく酒が入りテンションの上がったユーリと意気投合したかのように、二人してケタケタと笑い始める。
狭い雪洞の中には二人の声が響き、抱き合うように密着しながら、酔っ払って会話する二人の様子は、傍から見ればバカップルの領域だ。
ああ、この子はあいつと同類か……。ガガーリンのため息が聞こえたような気がしたが、二人の笑い声にそれも掻き消されていた。
とにかく、出会ったばかりの二人であるが、その関係は一つ親密になったようであった。
続く