~ボインボイン物語 第三話~
『ねぇ、方向は合ってるの?』
ガガーリンは、吹雪の中を飛びながら、自らの背に乗る相手に尋ねるのだが、返事はない。代わりに手綱が僅かに動き、飛ぶ方向をほんの少しだけずらす。
だが、それが合っているのかも、ガガーリンには分からなかった。
彼は腕がそのまま翼になっている、いわゆるワイバーンと言われるような種類の竜なので、飛びながら地図やコンパスを見ることもできず、そういったものは全て相棒のユーリに任せている。
いつもなら安心して任せておける相棒なのだが、しかし今日は違っていた。飛び立つ前に見たあの表情を、彼はしっかりと覚えている。飲み過ぎた次の日、二日酔いに悩まされている時と同じ表情だ。
昨晩の、ミツコと共に行った深酒が相当効いているらしい。加えて、どうやら結局朝まで飲んでいたらしく、寝てもいないようだ。
そんな状態で正常なナビゲーションを期待するというのも無理な相談であった。
同じように酒を飲み過ぎたらしく、毛布にくるまって青い顔をするミツコを膝に乗せながら、ユーリもまたうとうととまぶたを閉じかけたり、時折むせ返るように「うぷっ」と声を漏らして口元を押さえたりだ。
ガガーリンの心配は見事に的中していた。彼らは予定のコースを大幅に外れて飛び続け、今や全く違う場所へと向かっている。
今にも倒れてしまいそうな状態のユーリは、それすらも気づかずにふらふらと手綱を握っていた。
『こっちでいいの?』
やはり返事はなく、言葉に反応するように手綱が僅かに動かされる。恐らく、何も考えずに手綱を動かしているのだろう。
小言でも言ってやりたかったが、とてもそんな言葉を聞きとってくれそうにはなかった。方向が合ってるようにと、祈るほかない。もちろん、その祈りは通じなかったわけであるが。
そのまましばらく飛び続けると、やがてアトシャーマから離れてきたのか、吹雪が引き始める。厚い雲に覆われた空は相変わらずであるが、飛んでいるだけで体にぶつかる雪はなくなった。
雪が止んだことで、真下に広がる一面の雪景色もハッキリと見られるようになっていた。ミツコは未だに頭を抑えて頭痛に苦しんでいる様子であったが、日本では見ることのできぬような光景に、表情を明るくする。
しかし代わり映えのしない雪景色は、自分たちがどこを飛んでいるのかも分からなくさせるものだ。まして二日酔いに苦しむユーリが、それを把握することなど出来るわけもない。
収まったはずの吹雪は再び勢いを取り戻し始め、風も強くなる。近くには雪に覆われた山も見えた。完全に方向を間違えてしまったようだ。
しかし、いまさら軌道修正をするにしても、昨日ユーリとミツコが酒盛りの勢いで予備の食料にまで手を付けているし、暖を取るための燃料もない。どこかで補給する必要がある。
山を越えながら、完全に道を間違ったようだと、ガガーリンが舌打ちするように口元を鳴らした。
目的の場所への途中には、山などなかった筈だ。では、アトシャーマの周辺で雪山が多い場所といえば、ガガーリンは白い熊人たちの住む国に思い当たった。
どうやら目的の進路から、大きく東へとずれてきているらしい。まぁ、何かしらの国へと向かっていることが救いである。一応野垂れ死には避けられる。
『ねぇ、やっぱり間違ってたよ』
ユーリからの返事など当然なく、今度は申し訳程度に手綱を引くことすらない。
ガガーリンは機嫌を悪くした様子で首を小さく振ると、翼を大きく羽ばたき、きりもみ回転を行ってみせる。叩き起こすには調度良いだろうし、今背中に乗っている二人には、突風が来たといえば通じるだろう。
案の定、背中からはミツコの情けない悲鳴が聞こえ、ユーリもかなり驚いた様子で声を上げていた。ガガーリンは小さく笑い声を漏らすと、山沿いに降下してゆき、シロクマたちの住む集落を目指した。
『シロクマたちの国へ来ちゃったよ。どうする?』
「んあ? シロクマ……? ……つぅ……。頭イテェし早く眠りたいのになんだってそんなトコに……」
『君が道案内してくれないからだよ』
ガガーリンは呆れた様子を見せ、これ見よがしにため息を吐く。だが、ユーリの方は二日酔いによる頭痛だけで手一杯の状況らしい。それに気付くことはなかった。
「シロクマの国……? なんだか可愛いわね」
代わりに、ミツコがフォローするように話へ加わる。真夏の日本で毎日のように食べていた、お気に入りのアイスの銘柄が脳裏に浮かんでいた。
ユーリに体を支えられながら眠っているうちに、二日酔いの症状はある程度治ってきたらしい。
『あれが可愛いかなぁ? そりゃぁ小熊のうちはそうかもしれないけどね。行けば分かるよ』
「そうなの? ちょっと残念だわ」
『あと、絶対に一人でうろつかない事だよ。ユーリはあんなだけど、君が一人でいるよりはずっといいだろうし』
「そう……。昨日話しは聞かせてもらったし仕方ないのは分かるけど、やっぱり難儀よねぇ……」
『仕方ないものは仕方ないよ。最初に会ったのが僕らだっただけマシさ』
「そうね。そこは感謝してるわよ。お酒もご馳走になったし。……シロクマの国には地酒とかあるのかしらね」
『君も大概タフな女性だね』
「ありがとう」
ガガーリンに見えていないのは分かっていたが、それでもミツコはそう応えながらニッコリと笑ってみせた。
『山を越えたし、風が少し強くなるかも。しっかり掴まってて』
「ええ。さっきみたいなのはもうやめてよ?」
『それはユーリ次第だね』
彼の言葉通り、風が少し強くなったようだった。ユーリの膝の上に、再び深く座り直し、急造のベルトがちゃんと固定されていることを確認する。
これなら大丈夫そうだと頷きながら、ミツコはユーリへと視線を向けた。痛みの晴れない頭を抱えながら小さく唸っていて、ミツコとガガーリンの話し声などまるで聞こえていなかった様子だ。
なんだ、案外と酒に弱いのか、とミツコはぼんやり考え、毛布から指先を露出して、その鼻面を小突いた。しっかりと起きててもらわなければ、ガガーリンが再び悪ふざけをする。
元々ジェットコースターなどは嫌いではないのだが、今は体の支えが頼りなさすぎる。こんな状態での曲芸飛行などあまりにも心臓に悪いのだ。
ミツコは、うとうとと眠りそうになるユーリをそのたびに小突いて起こし、ガガーリンとの雑談に興じながら、しばらくを過ごした。
『見えてきたね』
「え、まだ私には見えないわよ……」
どうやら竜の眼はヒトのそれと比べ物にならぬほど上等らしい。ガガーリンの合図で前方に目を凝らすミツコだが、雪に阻まれて遠くを見ることができない。
だが、せっかくだから早く見てみたいという思いもあり、ミツコは眉間にシワを寄せて眼を凝らし続ける。程なくすると、彼女の眼にも見えるほどに町は近づいていた。
雪に覆われた平地に石造りの建物が立ち並ぶ様子は、以前にテレビで見たロシアの北にある片田舎の風景に似ていなくもない。
ガガーリンはその町の手前辺りで、ふわりと着地する。ミツコはユーリに肩を貸しながら、ゆっくりとガガーリンの背から降りた。
雪を踏みしめると、その下に硬い石の感触を覚える。足先で雪を掻き回すと、雪の下にはレトロな雰囲気を放つ石畳の路面が見えた。
テレビの海外旅行番組で眺め、心を惹かれるような古風な街の雰囲気は、こんな状況ではあるが、中々楽しい。できる事なら完全な観光目的で来たいものだ。
『僕はちょっと広い厩があれば十分だから、ユーリと一緒に探してきてくれるかな。ユーリはまともに話せる状態じゃないみたいだけど、君が代わりに話してあげてよ』
「ええ。分かったわ」
『うん、よろしい。あと、嫌かもしれないけど、街中でユーリを呼ぶときは、様付けするか"ご主人様"ってね。君はほら、外見がいいからね。一応予防線を張っておいた方がいいよ。今のユーリは本当に居ないよりマシ程度だから』
「まぁ、それがね……。とにかく気をつけるわ」
『気をつけてね。じゃあ、行ってらっしゃい』
ミツコは手を振りながら「行ってきます」と返すと、ユーリの手を引いて町へと歩いていった。見れば見るほど、どこかノスタルジーで落ち着いた街並みだ。
せめて同行者が二日酔いでなければ、もう少し余裕を持って観光できるのだろうが、仕方ない。
町の中で見かける、大柄で屈強な体つきをした白い熊人たちへと珍しげに視線を向け、同時にその視線を感じながら、彼女はユーリにピッタリと寄り添った。
なるほど確かに可愛くない。男も女もやけに大柄で、どうにも威圧感が拭えないのだ。
たまに見かける幼い小熊だけが、くりくりとした真ん丸い瞳やフサフサの体毛を見せつけトテトテと走り回っており、なんとも可愛らしい。ガガーリンの言ったとおりである。
ミツコは新鮮な風景を、感心したように何度も眺め、そして先程から話しかけても中々返事をくれないユーリを引き連れて町の奥へと入ってゆく。
続く