わたしのわるいひと 1話
やってられるかと館を飛び出したのは落ちてきて二年目の冬だった。
とりあえず自分が持てるだけの金目のものは頂戴してきたが、それは半ば腹いせだった。本当は自分の命はそう長くはないだろうなとぼんやりと考えていた。ただそれをすんなり認めるほど、おれは大人ではないのだ。
思えば彼女に出会ったのはとんでもない僥倖で、運命とも言えるものだったかもしれない。
恥ずかしいから言わないが。
「ご主人様」
さわやかな朝。ベッドで寝ている主人を眺める。
野性味あふれる白い髪に、銀のラインが入った尻尾。なかなか美しい光景である。
ご主人様は寝起きが悪い。目覚まし時計はとっくに鳴り終わった。
くるまっている布団をむりやり引っぺがすと、彼女はごろんと床に落ちた。
「ひどいよ。ヨー。痛い……」
ご主人様が頭をさすりながら言ったがイヌはヒトより丈夫だからまあ大丈夫だろう。
「今日は大事な商談ですからね」
「午後からだからまだいいじゃない」
ご主人様は立ち耳をぴこぴこさせながら立ち上がる。どうしてヒトは耳を動かせないんだろう、とどうでもいいことを考えかけて慌ててやめた。
「午前いっぱい予習しますから」
「えー……」
あからさまに嫌そうな顔をするご主人様の尻尾をきゅっとつかむ。
「きゃん」
「働かざるもの食うべからずですよ。ご主人様」
「働いてるのはヨーだけどね」
ご主人様は自嘲ぎみに言った。おれはそれをあっさり肯定する。
「そうですね。だからご主人様の買ってきたプリンはおれが処分しておきました」
「えっ」
「あんなにたくさん食べると太りますよ」
「ちょっと待てこら」
ご主人様にすさまじい顔で睨まれる。ところで言わなければ気づかれないが、ご主人様は半分オオカミである。普通のイヌより野性味を持った彼女の目つきは結構怖い。
けれどおれにとってはとっくに慣れたものなので、へらへら笑いながら言い返す。
「忘れてないでしょうね。おれが買われたんじゃなくて、俺がご主人様を買ったんです」
ご主人様は口をつぐみ、ひとつため息をついて言った。
「本当にお前は悪いヒトだよ」
かつての主人から逃げて、出会ったのはこんな奴だった。
元々はさる貴族の血を引いているらしいのだが、オオカミの母親を持つということはイヌの社会ですさまじく社会的身分を落とすことらしい。おれには両者の区別さえはっきりとはできないが。
「あいのこ」のせいで職を持つこともできず、ただ別宅で飼い殺しにされていた。それなのに、彼女の父が唯一残したものは莫大な借金だけだったそうだ。
あの日彼女も逃げ出していた。ネコの国にでも流れ着くことができればラッキーだが、その前に借金取りに捕まって身売りさせられるだろう。ずっと家に閉じこもっていたから何ができるわけでもなし。絶望の中おれと鉢合わせした。
彼女はおれを見つけたが、何もしなかった。たとえおれを捕まえても、まだ借金は残る。それは彼女の人生を崩壊させるに足りる金額だった。
おれは彼女に親近感を覚えた。別に、人生に値札がついているのはヒトだけではない。それを知るとなんだか愉快な気分になった。
おれは彼女に一本の剣を差し出した。彼女がびっくりしたようにあとじさるので面白かった。
「あんたを助けてやるよ。だから、おれを飼え」
まあその後、持ってきた金目の物を元手に事業を起こして現在に至るわけだ。
正直本当に助けられるとは思っていなかったが、イヌが馬鹿なのでなんとかなった。おれは前科によってそうそう人前に出られないので、ご主人様の行動を逐一操ることで行動した。
哀れな庶子、ライカ・ハッターは貴族の地位を完全に捨て、落ちもの商として身を立てた。
世間ではそういうことになっている。
お得意様との商談を終え、ご主人様はぱたりとソファに倒れた。
「腰が痛い」
「ああ、そうですか」
事実彼女はよくやっている。多少無茶振りしても応えてくる。
「まるでお前がイヌで、私がヒトみたいだな」
「おれはご主人様みたいなヒト飼いたくありませんよ」
「まったくひどい奴だ」
ご主人様は笑う。
彼女がヒトだったらすぐに死んでしまうだろう。彼女は素直すぎる。
おれは友達と一緒に落ちてきた。でも今はもういない。おれよりいい奴だったからだ。
あのとき死ぬべきだったのはおれだったかもしれないと、今でも思う。
「で、あれなんなの? ミシンみたいに見えるけど」
「ミシンですよ。足ふみミシン」
「え? だってミシンって魔洸機械でしょ?」
「こっちでは機械ミシンが先に導入されたからわからないんですねえ。ミシンはもともと人力だったんですよ」
へえ、とご主人様は関心した。
「魔洸が盛んじゃない国ならあっちの方が売れるかもしれないですね」
「儲かるの?」
「それはあのにゃんこ次第ですかね。彼は落ち物グッズをコレクターアイテムとしかみなしてないですから」
ご主人様がベッドからむくりと起き上がって、たずねた。
「ヨーってさ。そんなにお金稼いで何がほしいの?」
虚を突かれた質問だった。おれはしばらく黙ってしまった。それから言う。
「おれは貪欲なんですよ。うまい飯も食いたいし、いい布団で寝たいし」
おまけにもう一つ付け加えた。
「もっと金が稼げたら、もっといい主人でも探しますかね」
ほんの軽口のつもりだった。
ご主人様は、またソファに身を沈めた。
落ち物商にもいろいろあって、ガラクタのようなものを扱っている奴から兵器まで、得意とする商品が違う。
うちは20~21世紀以前の世界から来た落ち物、つまり骨董が多い。扱う人間が少なくて競争が楽である反面、商品を調達するのが難しい。
「従業員にもっとキリキリ回れって言っといてください」
「さ、最近みんなの目が怖いよ。殺意をいだかれてるんじゃ」
「いいからやる」
「わ、わかりました」
しかしなんでどこの馬の骨ともしれないヒトにこのイヌは従っているのか。もう借金は踏み倒したり値切ったり返したりしたのに。
こんな生意気なヒトぶっとばして追い出そうとは思わないのだろうか。
時々不思議になる。
「プリンあげましょうか」
「残ってたの? やだなあヨーわざと意地悪言っちゃって」
ご主人様の尻尾がぱたぱた振られる。わかりやすいな。
「はい」
ご主人様の手のひらに乗せてやる。
「これ、なんかちがう!」
「そうですかねえ。おれは好きですけど。プリンチョコ。こんなもの再現する猫井はすごいですね」
「ヨー」
就寝前に、ご主人様がおれの部屋に顔を出した。
「夜中に男の部屋を訪ねるなんてレディのすることじゃあありませんよ」
ご主人様はおれの言葉を聴いているのかいないのか、おもむろにこう言った。
「ヨーは私のこと嫌い?」
「は?」
「私以外の主人でもいいんだ」
ぽかんとしているおれを置いて、ご主人様の独白は続く。
「そりゃ、さえないしね。私、上の学校にも行かせてもらえなかったから……馬鹿だもん」
ほかにもいろいろ言っていたが、大体似たような意味だったので省略する。
「ご主人様?」
なんだかトランス状態の粋まで達しそうなご主人様を止める。
「よくわからないんですが、つまりはおれに捨てられるのは嫌なんですね」
ご主人様は戸惑いつつもうなずいた。
「おれには理解できませんよ。もう借金がないんだから、好きなところに行けばいいじゃないですか」
「だって、私を必要としてくれる人は誰もいない」
ああ、なるほど。
誰かに必要とされるためなら、ころっと奴隷になってしまう人間というのはいる。特にイヌってその傾向が強い気がする。
しかし……馬鹿だ。馬鹿だなあ。あんたは。
「ご主人様。おれはケチで強欲なので、一回手に入れたものはそうそう手放しません。が……」
そこでおれは言葉を切った。
「忘れてませんか? おれは主人を篭絡して操って思うままにしてる悪いヒトですよ」
するとご主人様は急に笑い出した。今までのはなんだったんだ。
「ねえ、ヨー」
「なんですか」
結局寝るのを邪魔されただけだった。当然声も不機嫌になる。
「ヨーは悪いヒトだけど、ヨーが思ってるほど悪くはないんだよ」
……まったく、やっぱりこのイヌはわからない。