キツネ、ヒト 3.5話
「邪魔するぞー」
「いらっしゃいませ」
「うむ…ん?」
馴染みの店(と言ってもここ最近随分とご無沙汰だったが)である『バー・アルビオン』に入店しようとした矢先、これまでに聞いた事のない声にふと足を止める。
そこにいたのは一人のヒトの少年だった。
(ぬ? いくら繁盛しとるとはいえ、ヒトを…それも若い男を買えるほどの余裕はない筈じゃ)
「D.D。どこから盗んできたんじゃ、このヒト奴隷」
「久し振りに顔見せたかと思えば人聞きの悪い事言うな!」
だろうな、とは思ったが。
ここの店主である牛のD.Dだが、見た目や口の悪さに反して悪人ではない。
「冗談じゃよ」
「冗談でもなんでも人聞きが悪い事に変わりはねぇだろう」
「ごもっとも」
と久し振りのじゃれ合いを済ませると、ヒトが遠慮がちに声をかけてきた。
「おせきは?」
「何処でもよい…と普段なら言うとるんじゃが、なるべく入り口から見えない位置で」
それには理由がある。
恐ろしい理由が。
ぶっちゃけ、カルトに追われているからなのだが。
そう言えば目の前のヒト、態度や風貌はカルトとはまったく異なるが、何と言うか…雰囲気、空気、そういったもので何処となく共通点があるような気がする。
しかも物騒な方向で。
「むう」
「あの、なにか…?」
「いや、ちと脅威を思い出しとるだけじゃ。撒けはしたとは思うんじゃが…」
「???」
「こっちの話じゃ。気にするでない」
頭を切り替える。
噂をすれば…ではないが、考える事でそういう事象を呼んでしまう、という事はありえない事ではない。
だから別の方向に話の流れを変える。
「名はなんじゃ?」
「アキラ、です」
「そうか。良い名じゃの」
見たところ、素直かつ純朴な感じだ。
目の奥に暗い陰は見えるものの、この世界に落ちてきたヒトは多かれ少なかれそんな陰を秘めてしまうものだ。
そこを一々気にしてもきりがない。
(ま、少なくとも悪人ではなかろ)
そう。それだけ解っていれば充分だ。
「んー、と。そうじゃな、スジ肉の煮込みと杏の漬け込み酒でも貰おうかの」
「は、はい」
くんくんと鼻を鳴らすと食欲を沸き立たせる匂いが漂っている。
この匂いは間違いなく煮込み料理、それも随分といい脂が溶け出している匂いだ。
まず間違いなくスジ肉の煮込み。これが今日の目玉だろう。
ついでに以前の収穫量と質を考えると、この時期はいい塩梅に漬かっている杏酒が出回る時期だ。
自分で酒屋を回って探し当てるのもいいが、こういう店で出されるのもそれはそれで味わいがある。
「相変わらずいいのが入った時に限ってピンポイントで注文しやがる」
「これでも狐じゃぞ。気合が入っとる料理ぐらい匂いで解る。それで、ありゃ誰のじゃ?」
と箸で忙しそうに動き回っているアキラを指す。
「要芽んとこのだってよ」
「ほほう、要芽か」
同じ狐という事で以前から多少交流のあった少女だ。
ただ、朱風自身はあまり他の狐と接触したがらないため、数年単位で会話を交わしたことが無い。
疎遠になっていたのはおよそ3年近くにもなる。
その間に買った、とは考えにくいので、拾った、という事なのだろう。
(そもそも猫国にいる狐の数が少ないと言うに、同じ街で二人の狐がヒトを拾うとは、のう。何か縁でもあるんじゃろうか?)
確率的にも随分と珍しい。
気になったので観察してみる事にする。
ぺこぺこと頭を下げたりちょこまかと駆け回ったりする姿はどこか可愛らしい。
それに加えて初々しい喋り方。
「…良い子のようじゃな」
「どこが。頼りない所だらけだぜ」
「ぬしがそういう扱いをする時点で良い子じゃろ?」
「どういう意味だ!」
などと雑談していると
「やめときなって、お父さん。朱風に口で敵うわけないんだから」
ココナートが来た。
ここの看板娘だ。
「さっき、レダが来てたよ」
「お、そうか。じゃがあやつ、確か小遣いを大分削られてヒーヒー言うとった筈じゃがのう?」
「うん。だから食い逃げしてアキラが捕まえたんだけど、なんか可哀想とかで逃がしちゃったって」
「…何をしとるんじゃ、まったく」
別に自分に何らかの責任がある訳ではないが、何となく頭を抱えたくなる。
「しかしわしの所のに比べて随分優しいんじゃな。カルトにとっ捕まったら…」
ゲンコツを落とされた挙句に強制皿洗いぐらいはさせられるに違いない。
「うぅ、想像するだけで背中がゾクゾクしてくるわい」
あのゲンコツの痛さは食らってみないとわからない。
熱すら感じるほどの痛みで鼻の奥がツンとし、勝手に涙が出てきてしまう。
あ、思い出しただけでちょっとだけ出てきた。
と、周囲が急にざわめきだす。
「む? 要芽か…」
騒ぎの中心には可愛らしい狐の少女がいた。
久し振りに挨拶でもするか、と思ったが、その視線は…
「恋する乙女の目、じゃな。しばらく会わぬ内に随分と育ちよってからに」
という事でやめておく。
それより気になったのは体の成長具合だ。
特に上半身の一部分。
「ま、まだ本性の方は抜かれとらんよな?」
本性、としたのは普段の姿だと明らかに負けているからだ。
これについては仕方ないので負けても全然悔しくない。
本当に全然悔しくないのである。
(逆に本性で負けると悔しかったり…いやいやいや、そもそもそんな一部分の大小だけで勝負が決まるわけでもなし、勝ちも負けもなかろうて)
と自分に言い聞かせておく。
我ながら予防線張りすぎだとは思う。
それにしても
「こっちもこっちで初々しいもんじゃな」
アキラと要芽の視線がぶつかり、一瞬見詰め合ってからまるで示し合わせたかのように同時に離れる。
お互いに意識しているのが傍から見てバレバレだ。
「良いのう良いのう、わしのカルトもアキラくらい可愛らしければ良いんじゃがのう」
と自分が意識している相手を思い浮かべる。
まったくもって可愛げがない。
無愛想。無頓着。朴念仁にして唐変木。
我ながらなんであんなのを好きになってしまったのだろうか。
そりゃ確かに顔はよく見ると格好良いと言えなくもないし、頼りがいのありそうな体をしているし、手先も器用で家事堪能だし、たまに見せる優しさに胸がキュンとしたりはするが。
「まあ良い。今は食って飲んで嫌な事は忘れるとするかの」
「そうか。なら後で好きなだけ忘れろ」
「へ?」
背後から声が聞こえ、その声に身構える間もなく
「あ…っつー!」
(そ、う、言えば、こやつ、隠行がやけに上手かったが…!)
痛みに転げまわりたくなるのをなんとか我慢しつつ思い出す。
カルトに気配を殺されるとこっちが注意していても往々にして潜り込まれる。
ましてや意識が別の方に集中していればなおの事、だ。
襟首を掴まれてずるずると引き摺られる。
恐らく家まで連れ戻され、べあ狐と追いかけっこの末に庭に叩き落してしまった物干し竿にかかっていた洗濯物を改めて洗わされるのだろう。
それについては自分に非があるので半分諦めてはいるが
「こ、これ、カルト! 謝るからせめて注文した分の飲み食いぐらいはさせい!」
せっかくここまで来たのだ。
せめて飲み食いぐらいはしておきたい。
「…面倒臭いが言っておく。これ以上は逃げるなよ?」
「わかっとるわかっとる。あ、ぬしも食べるか? ここの店主の腕は結構なもんじゃぞ」
「食う」
ほ、と一息。
あれだけいい匂いをさせておいて一口も食べれないとなれば一種の拷問だ。
それが回避されただけでもよしとする。
口に入れるとほろほろと蕩けるような柔らかさの肉から、溶け出した脂と煮込んだスープとが渾然一体となって広がる。
そこに甘酸っぱい杏露酒となると合わないように思えるが、これがまた意外と合うのだ。
一緒の皿から取った肉を口に入れたカルトも…
「…かなり脂っぽいな」
「ええい、明日の朝の肌状態が気になるような事を呟くでない。旨いんだからいいじゃろ」
「ん。まあ、確かに旨い」
自分で料理をするためか、意外と味に厳しいカルトではあるが、満足はしているようだ。
(わしも舌だけは肥えとるからのう…腕は練習をしとらんから随分落ちとるが)
せめて得意料理だった豆腐と油揚げの味噌汁だけは昔と同じように作れるようになっておこう、と密かに決意する。
問題は台所を中々使わせてくれないという事だ。
いっそ何処かの店の厨房でも…
「ココナート!お父さん乳が張ってもう駄目だっ」
とD.Dの弱音が響き渡った。
「やれやれ、あやつはあんな厳つい顔をしとるわりに根性が…って」
「?」
ココナートが突然服のボタンを外し、際どい格好になったのが見えた。
首をかしげたカルトがそちらの方向を振り向こうとしたのを見て慌てて押さえ込む。
「これカルト。おぬしは見るでないぞ」
「いや、何の話だ。と言うか物理的に目を塞ぐな。何を見てはいけないのかすら解らん」
「要芽はともかく、ココには惨敗な部分じゃ…って何を言わす!」
「意味が解らん」
いつかココより大きく…は不可能としても、要芽に負けるわけにはいかないと、具体的にどうすればいいのかはまったく思いつかないという根本的な問題を除けば、その決意は固い朱風であった。