狼国精霊説話集其の弐・豊饒のセタル
あるとき飢饉がこの土地を襲い、皆腹を空かせて死んでいった。
なにもできぬ自分を恥じた精霊は自らの胸に刃を突き立てた。
飛び散った血が樹につき、果実となり、飢えた狼たちを潤したという。
――豊饒のセタル
その白い狼と会ったのは昼間で、だからわからなかった。
通行のしやすい場所だったり、強い戦士団がいて治安が良かったり。そういう人の出入りが多い氏族には外部の人間を受け入れる用意がされている。あたしたちが今いるセタル氏族もそういう氏族の一つだ。果樹園が半分を占めるこの氏族はその立地から交通の要所になっている。
食堂の片隅で、あたしは果汁を一口飲んだ。向かいに座っているキズナシはもそもそとその搾りかすを噛んでいる。りんごと呼ばれる赤くて甘くてちょっと酸っぱい果物。このあたりでは「精霊の血」と呼ばれて果樹園でたくさん栽培されている。種類が違うのか、土地が違うからなのか、猫の国で流通しているものより小さくて酸っぱい。種を持って帰ったら値段がついたりしないだろうか。そんなことを考えながら飲んでいたら、コップが空になっていた。
「キズナシ」
黒い手がテーブル脇に積んであったりんごを一つ掴んだ。あたしがコップを差し出すと、その上でキズナシは手に力を込めた。おいしそうなりんごがみしみしと握り潰されて小さくなっていく。コップに半分ほど果汁が溜まったあたりで、キズナシの手は止まった。
「ありがと」
「ああ」
キズナシは果汁でべたべたになった手をぺろりと舐めると、搾りかすを食べ始めた。もう一口だけ飲む。抱えるほど買ったりんごの山が半分くらいになっていた。このままではあたしが食べられる前になくなってしまう。
「ねえキズナシ、どうしたらいいと思う?」
「ああ」
相変わらず、返事にもなっていない。あたしはもうこれを最後と決めて、目の前の地図を睨んだ。
狼の国。山岳地帯を巡回する行商人の数はそう多くない。精霊による魔法の阻害。人を拒む険しい山道。出没する野盗たち。現地の氏族から護衛を雇わなければ生きて帰ることすら難しい。もちろんリターンはある。薬など外部でしか生産できない品の需要は高いし、なんでもないようなものが高値で売れたりする。珍しい装飾品は猫の国まで輸出すれば相当な値がつくこともあるし、狼の金属細工は質が高いことで有名だ。ただ、リスクが高いというだけで。あたしは優秀な商人じゃないし、裕福な商人じゃない。たった二人、しかも有事に備えてキズナシに重い荷物を持たせるわけにはいかないとなれば運べる荷物の量などたかが知れている。自然、他の行商と同じことをやっていては足が出る。だから、あたしは今のところあたしにしかできなさそうなことをやって、どうにか糊口を凌いでいる。物々交換が主で貨幣経済が浸透していないような氏族。規模が小さくて隊商の巡回路から外れているような氏族。そういったところにこつこつ通って信用を得て、彼らから要望を聞いて、次回の訪問でそれに合わせた品を持っていく。もう行商というより配達に近いけれど、それでどうにか二人分食べていけるだけのお金は稼いでいる。
あたしが今悩んでいるのは、新規開拓すべきか否か、だった。荷物の中身から言えばそろそろ狼の都に戻って仕入れた品を売ったり会社に報告を上げたりすべき時期だ。しかし。ここから少し離れたところに閉鎖的だけどとてもいい染料を作るラクカという氏族がある、という話を聞いてしまった。染料は隠れた売れ筋商品だ。流行があるから安定して売れることはないけれど、波が来た場合はどばっと売れる。高値で。ラクカで染められたという布はとても素敵だった。空をこっそり切り取ってきたような蒼。あの色なら、売れる。
初めての氏族では売るよりまず顔を覚えてもらうことが主だから売る物が少ないのはどうとでもなる。問題は閉鎖的というだけあってラクカ氏族の場所がよくわからないという点だ。セタル氏族だけでなく近隣氏族の誰に聞いても明確な答えはなく、長老から写させてもらったこの地図にもはっきりとした場所は記されていない。
「ねえキズナシ」
「ああ」
「大丈夫かな」
「ああ」
頼りの相方は黙ってりんごの搾りかすをもそもそ噛んでいるだけで、さっきから何一つ役に立つ答えを返してくれない。
またあたしのコップが空になりかけた頃だった。
「ちょっといいかな?」
いつの間に傍に来ていたのか。心の隙間に滑り込んでくるような甘いテノールで話しかけてきたのは白い狼だった。全身余すところなく、まるで穢れを全て拭われたかのように白い。白い身体を司祭服のような純白の服に身を包み、白い杖を持っていた。瞳だけが黒い。
キズナシがそっと立ち上がる。
「君たち、ラクカ氏族に行こうとしてるって聞いたんだけど本当かい?」
黒い狼を意に介した様子もなく、白い狼は聞いてきた。
「いえ、まだ悩んでいるところで……」
ここの氏族の狼ではないはずだ。それどころか多分、普通の狼じゃない。なにかが、違う。触れてはいけない白。怖い白。言葉を交わすことですら、穢してしまいそうで。
「場所が分からないのかい? ここの長老様からそう聞いているよ」
なにが目的なのだろう。あたしが困っていると、白い狼はふわっと笑った。心の中を見透かされたようで頬が赤くなった。
「僕もそこに行こうと思っているのだけど、なにしろ一人旅は怖くてね。どうだろう、一緒に行かないか? 道は教えてあげられるよ」
「あの、でもその、えっと……」
こういう話は何度かあったけれど、あたしたちがいつも二人きりなのには理由がある。口ごもっていると、黒い影があたしを庇うように立ち塞がった。
「俺は尾切りだ」
「うん? ああいいよそういうの。僕気にしないから」
白い狼はひらひらと、なんでもないことのように手を振る。あたしがぽかんとしていると、またふわっと重さを感じさせない笑い方をした。
「そういう狼がいてもいいじゃないか。僕はそうだなあ、シロさんと呼んでくれ」
キズナシはじっと黙って目の前の狼を睨みつけている。それなのに、あたしは白い狼、シロさんの空気に呑まれて頷いてしまっていた。
尾切り。
狼と一部の犬の間における、最高級の加辱刑だ。重要な器官である尾を根元から切り落として氏族から追放する。一般の氏族はもちろんのこと、自ら氏族を捨てた流れにも忌み嫌われ、野盗をやっているような連中にすら見下される。狼の国にいる限りまともな人間として扱ってもらえることは絶対にない。死より重い罰なのだ。そこまでされる狼は当然相応の欠陥を抱えているものなので、一人で破滅に突き進み、一人で飢えて死んでいく。キズナシはその数少ない例外だ。何をやったのかは頑として教えてくれないけれど、あたしから見たキズナシは悪い狼じゃない。おとなしいし、物を盗んだりしないし、あたしをいつも気にかけて守ってくれる。喋らないし自分のことはぜんぜん教えてくれないし……人間をいとも簡単に殺してしまうけれど。
いくらあたしがキズナシはいい狼だって説明したところで、誰も信用してくれない。だからあたしは彼に首輪をつけた。これは狼ではなく奴隷であり、人ではなく物であり、犬以下の存在でありヒトと同等の存在であると、そういう理屈だ。そうすることで、尾切りの黒い狼はやっと存在が許される。
結局あたしたち二人とシロさんが一緒に行くことになって、二日が経っていた。
「ここいらの氏族って年に一回りんごの品評会をやるそうだよ。精霊の血を身体に受け入れようってことでりんご食べ放題になるんだとか。いいよねーりんご。食べ飽きないってのが大事だよね。肉も食べ飽きないけど」
シロさんと名乗った白い狼は、とてつもなく変な狼だった。内心はどうあれキズナシが尾切りであることを気にしている様子は見せないし、猫で女のあたしより歩くのが遅い。最初の触れ難いような雰囲気は消え失せている。なんというかもう、全てが変だ。
「話によると作る場所によって甘さが違うらしいんだよね。僕は甘ければそれでいいんじゃないかなーとか思うんだけど、ほどよい酸っぱさってのが大事らしい。セタルのりんごはどっちかっていうと酸っぱい方らしいんだ」
とにかく、喋る。
「猫の国まで行けばもっといろんな食べ物あるんだろうけど、やっぱり遠いからね。虎の国抜けてー狐の国抜けてーとなるともう面倒で面倒で。犬の国通れば早いんだろうけどやっぱとっ捕まるのが怖いからねー狼だと」
相槌を打たなくても喋っている。
「狼の国生まれ狼の国育ちだとどうも山以外知らなくてね。都の方はだいぶ猫の技術が入ってまた変わったらしいとは噂で聞くんだけど商売柄都にも行けなくて。話だけ聞いて満足してるんだけどやっぱ実物見たいよなーとか思うんだよ」
これだけ殺気を放たれても、喋っている。
「兎の国にも行ってみたいんだけどなんか襲われるんだっけ? あれほんとなんなんだろうね。実のところなんか誇張されてるんじゃないかなーと思ってるんだよ。だって兎の国に行くような狼なんてそういうこと期待して行く奴ばっかりじゃないか。姉にハメたと思ったら弟にハメられていたとかもう嘘だろお前とか思うんだけど」
気付いてないんだろうか。あたしは後ろのキズナシをちらっと振り返った。冷ややかな黒い瞳があたしをちらりと見て、また白い狼を睨む。
シロさん、あたし、キズナシ。道がわかるシロさんが先頭なのは当然として、二番目が誰かでキズナシはだいぶ迷ったようだった。あたしを不審な狼に近づけたくはない。前にいてくれないと素早く反応できない。結局後者になったけれど、キズナシがその気になればいつでもナイフがシロさんの背中に突き刺さるだろう。現に今、キズナシはそうしかねないほどの殺気を放っている。
シロさんも不思議だけど、キズナシも不思議だ。道がわからないくらいよくあることだ。嫌と言えばすぐ別れることくらいわかっているだろうに、黙ってついてきている。彼も彼で何か思うところがあるのだろうか。
思いを巡らせていると、シロさんが振り返って、ふわっと笑った。
「そうだミナさん、何か質問とかある? せっかくだし言っておこうよ」
「質問? シロさんにですか?」
「いやほら、シロって明らかに偽名じゃない?」
「そうだなあって言ってましたしね」
「白いからシロ。シンプルっていいよね。本名じゃないけどいつも使ってるから結構通じるんだこれが」
「はあ」
狼って確か、偽名を使うのはかなり恥ずべき行為じゃなかっただろうか。誇りを気にしない狼。そんな狼、キズナシしか知らない。
「そういえばミナさんってにゃーって言わないね。猫の商人はみんなにゃーにゃー言ってるのに」
「狼の人といることが多いからなんとなく言いづらくって、いつの間にか言わないようになってました」
「えーもったいない。ぶよぶよしたのが言ってるとなんかむかつくけどミナさんならかわいいよ絶対。にゃーって言えば男はいちころだって」
「そ、そうですか?」
「絶対そうだって。ほらにゃーって。にゃーって」
「に……」
「ほら、恥ずかしがらずに」
「に、に、に……」
「休憩するぞ」
キズナシの突き刺すような声であたしは我に返った。シロさんはふわっと笑っている。
「そういえば僕の仕事のことって話したっけ?」
近くの川から水を汲んできたシロさんはそんなことを言った。あたしは火を起こしながら首を振った。キズナシは黙って肉に火が通りやすいように刻んでいる。氏族から出たばかりだから、まだ新鮮な肉が食べられる。とはいえそろそろ不安だから半分は焼いて半分は煮るつもりだった。
「僕のとこの精霊はなんていうかまた変でね、なんだか知らないんだけど困ってる精霊を助けるみたいな感じの精霊なんだよね。でそのとばっちりを受けて僕らもあっちこっち行かされるわけ」
「そんな氏族があるんですね」
キズナシの耳がぴくりと動いた。流浪氏族自体はそう珍しいものでもないけど、精霊を助けるというのは聞いたことがない。あたしたちの反応が気に入ったのか、シロさんはぱたぱた尻尾を振った。
「いろんな氏族を巡ってそこの精霊の声を聞いて、儀式の作法をこうしろとか、ここに家を建てるのは危ないから止めた方がいいとか、祭具を新しくしちゃえとか、そういう専門的なアドバイスをするんだよ」
「シロさん、もしかして凄い人なんですか?」
「ま、ね!」
偉そうなシロさんの手から水桶をひったくって、キズナシは執拗に匂いを嗅いでいる。俺はお前を信用していないぞという意思表示にしたって、あまりにも露骨だ。シロさんはそんなキズナシを華麗に無視して話を進めた。
「まあそれで? 流れの人を精霊に馴染ませる手伝いとか? 精霊に頼まれて氏族同士の諍いを調停しちゃったりとか? もー引っ張りだこで大変なわけですよ」
「……そう言うには、噂を聞かないが」
水と肉と香草を鍋に放り込みながらキズナシがぼそりと言った。シロさんの口がぴたりと閉じる。
「それだけ旅をするには、金がかかるだろう」
「ああいや、それはほら、助けた氏族の方に恵んでもらったりとか、ね?」
「精霊を助けたので金をくれと言われても、誰もが信じるわけではないだろう」
考えなかったけれど、それはそうかもしれない。むしろ精霊をだしに詐欺を働いたと疑われて氏族に殺される方がありそうな話だ。あたしの疑念に気付いて、シロさんの尻尾がぴたりと止まった。
「そういう場合は……ほら、食べ物を持って行ってもよさそうな家を見繕って、住人が寝静まったのを見計らってもらっていったり」
それは泥棒と言うんじゃないだろうか。
「それも駄目なときはまあ、年頃の優しい娘さんとかに声かけて、お金もらったりご飯食べさせてもらったり服洗濯してもらったり」
それはヒモと言うんじゃないだろうか。
「まあほら、あんまり使わない手段なんだけど、信じてくれそうな人たちの場合は精霊が苦しんでいますって言って、ちょっと踊って謝礼貰ったり……」
それは詐欺だ。
「って詐欺師じゃんあんた!」
シロさんはまたふわっと笑う。浮世離れした微笑だと思っていたそれが、一気にうさんくさくなった。キズナシがするりとナイフを抜く。
「ミナちゃん違うよ誤解だよ五回に一回くらいはほんとだよ!」
「四回嘘じゃん!」
「あーいや三回に一回! いや二回! いや全部!」
「全部嘘にしか聞こえないんですけど!」
「いや、ほら、えっと、あ、えあっ、うっ……」
ひたりと首元にナイフを押しつけられて、さすがのシロさんも言葉が出なくなったようだ。と、そこでキズナシはナイフを引いた。
「キズナシ?」
「こいつが精霊と繋がっているのは本当だ」
そう言って、キズナシは鍋から器に汁をよそう。シロさん今更がたがた震えだした。
「し……知ってるの? この人のこと?」
「いや」
焼けた肉もシロさんに渡し、りんごも手渡す。シロさんは曖昧に口の中でなにか呟いてキズナシから大きく距離を取った。
「え、えっと、その、君らのことは騙してないので、置いていかないでほしいなっていうか、できればラクカ氏族までは一緒にいてほしいな、みたいな感じなんだけど、いいでしょうか、なんて思うんですけどどうでしょうか」
「え、ええっと……」
「俺は最初からお前を信用していない」
キズナシはそう言ったきり黙っている。判断をあたしに任せる、ということだろうか。
「氏族に入るとき、あたしたちと一緒に来てない感じにしてくれるなら……」
仕方なくそう言うと、シロさんは首をぶんぶん振って走って逃げて行った。いつも大事そうに抱えていた白い杖を忘れている。
と思ったら、戻ってきた。
「戻ってきてもよくなったら呼んでね!」
また走って逃げていく。やっぱり杖は忘れている。小さくなっていく白い背中を見送りながら、珍しくキズナシがふんと鼻を鳴らした。
「約束は覚えているらしいな」
物を食べるあたしたち二人を、見ない。
そういう約束だ。
食事が終わった。
ミナは飽きられた玩具のように地面に転がっている。赤く上気した頬。力なく投げ出された四肢。虚ろな蜂蜜色の瞳。つい、強姦されたらこんな感じになるのではないか、と不埒な想像をしてしまう。ぽとんと涙が目の端から地面に落ちた。
「ねえ、キズナシ」
「ああ」
「あの人……シロさん、精霊って……?」
心の中で舌打ちする。言うべきでなかった。聞こえなかったふりをしていると、もう一度名前を呼ばれた。
「言いたくない?」
「ああ」
「なら、いい……でも、教えてほしいよ」
抱き起こして、髪についた土を払ってやる。いつまでも軽いのは俺のせいだろうか。違うと思いたい。少しだけ教えることにした。
「深く精霊に関わっている人間独特の匂いだ」
「ん……」
「脅えも演技だ」
「そうなの?」
「ああ」
火の始末をする。もう少し二人きりでいてもいいだろう。
「キズナシ」
「ああ」
「ちょっと……こっち来てくれる」
荷物によりかかっているミナの横に座る。すぐにもたれかかってきた。
「に……」
「ああ」
「に……に……」
「ああ」
「ううぅ……に……」
耳の内側まで真っ赤にしているミナが何を言おうとしているのかわからない。そっと頭を撫でてやる。
「に」
「ああ」
「に……に……にっ……」
小さな唇が、大きく息を吸いこんだ。
「にぎいいぃああああぁあっっっ!」
白い狼の声だ。死んだか。
期待を裏切ってすぐに声が聞こえてくる。
「ひっひひいぃ命だけはお助けくださいましぃこのりんごもあげますぅお願いしますぅ」
哀願の声に混じって荒々しい声が響いている。静かに流れるだけだった空気に砂埃の匂いが混ざっていた。どうして今まで気付かなかったのか。
「ミナ」
まだぼんやりとしている相方に呼びかけると、それだけで察したのかさっと顔を強張らせた。
「山賊?」
「おそらく」
気配からして二十はいる。どうして今まで気付かなかったのか。うかつさを悔みながらミナを抱きあげた。
「野営跡にいてはまずい。逃げるぞ」
「シロさん……」
「……」
「……そうだね」
言いたいことは通じたらしい。ひとまず手近な木の上に隠れて様子を窺う。ここなら下からでもそうそう見えることはないはずだ。
「どうするの?」
「やりすごそう」
「シロさん……」
「なんとかするだろう」
しばらくして野営地跡に山賊の姿が見えた。手に手に剣や槍など獲物を引っ提げ、鎧もしっかり着こんでいる。隊列を組むことこそないものの動きは統制が取れていた。その数二十余、厄介な類の賊だ。鍋などの料理器具こそ置いてきたが、肝心要の荷物は運んできてある。すぐさま探索に散った下っ端どもに向かって剣を振り上げる狼がいた。どうやらあれが集団のリーダーらしい。白い狼はその脇で縮こまっていた。
リーダーが剣を振り上げて何事か怒鳴ると、白い狼はへこへこと頭を下げた。それに満足したようで、リーダーはもう一度何か、今度はおそらく質問をしたのだろう。
「はい。小さな猫の女と大きな狼の男が一緒でした。猫の方は商人なので金を一杯持ってます」
なぜか、その言葉ははっきりと一字一句余さず俺とミナの耳に届いた。
白い狼は、ふわっと笑っていた。
「シロさん……」
「……」
リーダーが何事か叫ぶと、下っ端たちの動きに熱が入った。
殺しておくべきだったと、キズナシは心から思った。
ここに来てはもう迷っている暇はない。隣で震えているミナが危険に曝されているのだ。
「ミナ」
「キ、キズナシ……」
「首輪を」
細い手が躊躇いがちに首へと伸ばされる。
蜂蜜色の瞳が、たまらなく、綺麗だ。
白い首輪がずるりと抜けていく感触。
紅い唇が、名を紡ぐ。
失われた諱。
封じられた諱。
黒い狼の、諱。
ナイフは肉体の一部だ。口を開く。目を閉じる。それと同じことで、ナイフは切り裂く。ナイフは突き刺す。ナイフは殺す。
ミナが隠れている木から離れたところで、ようやく行動に移れるようになった。両手にナイフを構える。口元にうっすらと笑みが浮かんでいる。目標は三人で動いている。弓。剣。槍。槍がこの集団を取り仕切っているようだ。草むらをつついている。黒い狼はそれを木の上から見下ろしている。弓と剣が別の方向を向いた隙に、槍の命と肉体は地上から離れていた。そう難しいことをしているわけではない。幹を駆け降り、首の両脇にナイフを突き立て、木に登る。一瞬で、音が出ないようにやればいいだけの話だ。死体と目が合った。痛みを感じる暇もなかったろう。ナイフを勢いよく引き抜く。仲間が消えて戸惑っている二人の前に、ぼとぼとと血が落ちる。それを見ている間に、後ろに落ちてきた黒い影が二人の首を斬り落とす。
ナイフは肉体の一部だ。口を開く。目を閉じる。それと同じことで、ナイフは切り裂く。ナイフは突き刺す。ナイフは殺す。
まだ何も知らない五人組。前を歩いていた狼が突然すとんと崩れ落ちた。胸から黒塗りのナイフを生やしている。ナイフが飛んできたと思しき方向には大きな岩が一つあるきりだ。四人は慌ててそちらに武器を構える。すとん。真ん中の一人が倒れた。最初の一人と同じように、背中からナイフを生やして。三人は慌てて振り向く。すとん。またその内の額にナイフが生える。二人はどうしていいのかわからないまま、叫んだ。すとん。一人になった。黒い狼は姿を現す。ひしりと笑う。一人は無茶苦茶に吼え猛りながら盾を構えて突進を行う。開きっぱなしの口に黒いナイフが吸い込まれていく。すとん。
ナイフは肉体の一部だ。口を開く。目を閉じる。それと同じことで、ナイフは切り裂く。ナイフは突き刺す。ナイフは殺す。
野営跡に集まった狼たちは脅えきっていた。リーダーが怒鳴ろうが殴ろうが彼らの尻尾はだらんと下に垂れたままだ。仲間が五人死んでいた。ここに来ていない三人ももう駄目だろう。
「お前たち! 冷静になれ! 数で勝っているのはこちらだ、奇襲さえ受けなければ勝てる! 同じ狼だ、正面からいきゃあなんとかなる!」
リーダーのその叫びを待っていたかのように、どこからともなく黒い狼は姿を現した。黒い毛皮に黒い外套。黒塗りのナイフを構え黒い瞳を向けてくる。あまりにもわかりやすい死の形。背を向けた者の背には軽い音を立てて黒いナイフが突き刺さった。それを見た皆の脳髄に絶望と理解が染み渡る。もう、逃げられない。自分たちはここで死ぬ。なんの緊張感もなく、誰かが走り出した。釣られて一人。また一人。我先に、黒い狼へと駆け出して行く。能動的な自殺だ。皆誇らしげに声を上げ、喜悦に顔を歪ませる。黒い狼はその黒いナイフで水を切るように人を斬っていく。最後の一人が大地に倒れ伏すまで、さしたる時間はかからなかった。
「全部殺さなくても、よかったのに」
近くの石に腰掛けて、白い狼は呑気にそんなことを言う。俺は黙って投げたナイフを回収する。
「一人か二人ささっとやっちゃえばさ、逃げたでしょ。一旦いなくなればすぐ済むから僕としてはそれでよかったんだけどな」
ナイフを片手に俺が迫っても、白い狼はふわっと笑うだけだった。その傍らには白い杖がある。
「君だってそれでよかっただろ? 結果オーライだからいいっちゃいいんだけど。このあたりにも当分人が寄りつかなくなるだろうしね」
さてと、と白い狼は立ち上がった。
「お姫様を迎えに行ってあげなよ。こんな地獄絵図見せるつもりはないんだろ? その間に終わらせてると思うからさ。都合を見て迎えに来てよ」
その喉元にナイフを押し付ける。それでも、白い狼は喋り続ける。
「このあたりに調整しなきゃいけない魔素の流れがあるんだけど、山賊が巣食ってるせいで立ち入れなくてね。おまけに彼らが乱暴するもんで精霊も弱るし。困ってたんだ、ほんと」
足を払い、地面に押し倒す。白い杖がからころと骨のように軽い音を立てて転がっていく。そうまでされても、白い狼は傲然と微笑んでいた。
「悪かったよ。山賊の情報が君らに届かないようセタルに頼んだのも、わざと山賊がいる方向に走って行ったのも、あの白い杖で声を媒介したのもさ。謝るよ。だからほら、早く行かせてくれよ。お姫様が君のこと待ってるってば」
ミナ。
立ち上がる。まだ何事か言っている白い狼を打ち捨てて、俺は走り出した。
あの後戻ってきた黒い狼に白い首輪を嵌めて。彼はキズナシになった。何が起こったのかはわからない。シロさんは、とも聞けない。キズナシは黙ってあたしを木から下ろしてくれた。
「ミナ」
「キ、キズナシ」
「これだけは言っておく」
「……うん」
「精霊は、敵だ」
血を吐くようにそう言って、キズナシは歩きだした。あたしは何も言えなくてその後に続く。
しばらく森を進んだ木の根元でシロさんが倒れていた。ツンと鼻を突く酸っぱい臭い。
「シ、シロさん!」
「大丈夫だ」
とっさに駆け寄ろうとしたあたしをキズナシが引き止める。と、うつぶせで倒れていたシロさんがごろんと仰向けになった。
「ごめん、実際のところ大丈夫じゃないっていうかこの疲労と嘔吐は別なんだよね。疲れるのはいつものことなんだけど吐いたのはほら、えーとほら、吐いた」
「シロさん!」
「あーうん大丈夫なんだけど、今晩はここで休ませてもらえるかな。できればここで寝たいんだ。アフターサービスしとかないと心配だからね。一日遅れちゃうけど、諦めてよごめんね。そうだ日がある内にもうちょっと向こうに川があるからそこまで連れてってよ。さすがに君らもこの臭いと一緒に寝るの嫌でしょ? 僕も嫌なんだよねーってことで頼むよ一生のお願い」
元気なようで口調に精彩を欠いている。キズナシは問いかけるようにあたしの方を向いた。
「キズナシ、その……いい?」
「ああ」
キズナシはいつも通りだ。判断は任せる。だから、あたしはシロさんを助けることに決めた。
「じゃあ、シロさん川に連れてってあげて。あたしはその間に野営の準備するから」
「ああ」
キズナシはシロさんの首を掴むと、物にするよりひどく引きずって行った。
「川に流しちゃ駄目だからね!」
「ああ」
「ちょっと待って今なんかこの人『あっ、なるほどー』って顔したよミナちゃん! ダメ! もっと強く言ってくんないと僕流されちゃうよ!」
「いいじゃん」
「マジで! ちょっとマジで! っていうか思いついたのミナちゃんかよ! 敬語消えてるし女の子に敬語使われるって貴重だったのにあああああ……」
山賊に襲われて隠れていた後だけど、一人になる不安はない。キズナシがあたしの傍を離れるということは、大丈夫ということだ。
シロさんが寄りかかっていた樹にはたくさんのりんごがなっていた。気のせいか、どれもこれも喜ばしげに輝いている。食べられるようだったら、今日の夕飯はこれにしよう。
夜。
闇の中から、声が流れてくる。
「ねえキズナシ、起きてる?」
「ああ」
「起こしちゃった?」
「ああ」
「……あのね」
「ああ」
「……に」
「ああ」
「にゃー……」
「……」
「にゃー……」
「ミナ」
「はい」
「俺が人間を殺しても君が負い目を感じる必要はない」
「……うん」
「そういうことはそういうときにやってくれ」
「にゃ……にゃー」
聞こえてますよ、お二人さん。そう言いたいのを我慢して、僕はそっと寝返りを打った。
今のところ、魔素の流れは良好だ。この分なら明日の朝までには安定しているだろう。
問題はむしろ精霊の方だ。興味本位で二人を観察していたセタルを宥めすかすのにだいぶ時間を取られた。思い出すだけで吐き気が込み上げてくる。直接見なくてよかった。結構人の醜いものは見てきたつもりだったけど、次元が違う。あんなもの、精霊から共有されたビジョンだけで十分だ。
「ねえ、キズナシ」
「ああ」
「……おやすみ」
「ああ」
お休み、お二人さん。僕も早く寝よう。寝て、忘れてしまおう。
あの二人がものをどんなふうに食べていたかなんて。