城ヶ湾支社 > 智留都城

史跡"智留都城"

  • 平安末期、治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、平家の落人がこの地に隠遁したという伝説がある。 伝説の真偽はともかく、その時代にこの地に移り住んだ貴族達が呼んだ名こそ『智留都(ちるのみやこ)』である。 この地に流れてきた人々は京都を懐かしみ、『散る我の 宮となりにけり』という詩の一節が残されている。 一方で、応仁の乱で京都を追われた公家がこの地に住み着いたとも言われており、遅くとも1468年には"智留都(ちると)"という町が形成されていたと思われる。
  • また南北朝の争乱期に浪人が海賊となり、現在の勝朱鷺沼や外曲輪の周辺を根城に定め、公家の支援を得て勢力を増していったと考えられている。 戦国時代には水軍に発展、大名の合戦に混じり海上封鎖を行うことで、城攻めに貢献したという記録が残っている。 また火縄銃の売買にも関わっていたと言われ、後年沖合いの沈没船より数丁、引き上げられている。
  • 1578年、松永辺伊吉郎が数人の手勢を引連れ強襲、水軍を配下に入れ突如大名を名乗った。 智留都山の中腹に『三田炭館(みたすみのやかた)』を構え、海水を引き入れた堀や曲輪を張り巡らした"智留都城"は、1585年頃には完成したとみられる。 その後大坂冬の陣で、豊臣方から徳川方に鞍替えするも、大した戦功も上げられず、一族は絶えたと伝えられる。

辺伊吉郎と波射烈衆

  • 辺伊吉郎
    • 松永 辺伊吉郎 亞那雲(?〜1612)は、武蔵あるいは南総もしくは三河の出身であると言われている。 今川義元の首を取り損ねたとか、死去直前の武田信玄に面会したとか、織田信長は腹違いの兄・・・などという言い伝えは、明治期の演劇脚本が由来である為正確ではない。 苗字の松永は、大和の戦国大名・松永久秀に仕官していた証拠であると言われ、1576年前後に出奔し77年の信貴山陥落の後より『松永』姓を名乗ったと伝えられている。
    • 1578年、浪人十数名を率いて当時の海賊の頭領を次々に討伐。 10日もかからずに海賊船団を掌握、水軍への再編成と智留都城の縄張りを始めた。
  • 波射烈衆
    • 松永水軍の総称として伝わるが、特に突撃要員の意味合いが大きい。 智留都町周辺の支配を確立した後、海賊や新たに仕官を求めた浪人から選抜して、訓練に励んだ。 主戦法たる高速突撃と相手の船に乗り込む接近戦に特化した彼らは、矢の雨を掻い潜り船首を横腹に激突させ瞬く間に制圧していったという。
    • 軍船の推進力たる櫂(かい)は、特殊な形状を施されており、辺伊吉郎の屋敷跡より形そのままで出土している。 更に軍船自体にも当時の一般的な軍船と比べ、細かな改造が施されており、特に高速で螺旋を描くように相手に接近していく戦法も、波射烈衆と共に伝わるものであった。 近年、各地の競艇場を席巻する『チルト3度』の"源流"こそ、この松永水軍であるとする研究論文が一部で物議を醸しているが、記念館の学芸員は"捏造"と主張している。

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最終更新:2010年08月06日 14:45
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