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先輩とアルミサッシ

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先輩とアルミサッシ


498 ◆46YdzwwxxU [sage] 投稿日:2009/11/23(月) 18:55:36 ID:5tRdnlTs

 あれは確か、オーストラリアの小説だっただろうか。
 憧れの田舎暮らしを始めた都会育ちの女が、結局は虫との戦いにうんざりして逃げ帰った、なんて物語を読ん
だ覚えがある。

(まあ、そうなるだろうな)

 俺は小さな手箒を操り、堆積する土と埃と昆虫の死骸を、区別なく窓枠の外に弾き飛ばした。下に誰もいない
ことは確認済みだ。さすがに風に流される分には責任を負うつもりはない。
 干からびたクモはもう糸を吐かないし、砕かれたトンボの翅はもはや空気を叩かない。甲虫らの纏う金属光沢
くらいのものだ、命あるころと変わらないのは。……そんなことはどうでもいいんだよ。それより取り敢えず何
年間掃除していないのかだけが気になった。マンモス校だけに、なかなかこういうところまでは手が回らないの
かもしれない。
 あらゆる塵が風に煽られて吹き飛んでいく。幾らかは舞い戻って、何の恨みがあるのか俺の顔面を逆襲したり
もする。マスクをせしめてくればよかった。ぺっ、ぺっ!
 気を取り直して携行武器を換装。手箒から雑巾へ。
 初めはいい塩梅に灰色だったのに、既に真っ黒もいいとこだ。これで拭いたらむしろ余計にひどくなりそうに
思える。こっちのは揉み洗い程度では薄くもならない。
 ちょうど指と同じ幅のある溝に布地を押し込み、強めに力を籠めて前後させる。一体化したような土汚れには
歯が立たない。水気が足りない。

(絞りすぎたか)

 溜め息を吐き掛けて、止めた。癖になるといかんからな。
 洗ってきたばかりで、バケツに戻すのは面倒臭い。今回は、ごり押しすることにしよう。
 馬鹿みたいに擦りまくっていると、次第にアルミ形材独特のくすんだ銀色が顔を覗かせるようになる。一時的
に手触りに取っ掛かりが増えてから、すぐに滑らかに変わった。
 隅に隅にと逃げ込んだ汚れを浚って、ここは完了。手を抜けないのは性格か。おかげで作業も遅々として進み
やしない。
 何か飲み物でも啜って一息入れたいが、それより気分が悪かった。昆虫の死骸というものは、どこか金物のよ
うな、妙に鼻につく臭いがする。

「やってらんねえ」

 これで本職の美化委員がサボっていやがるようなことがあったら、チェーンソーをブイブイいわせて覆面の殺
人鬼と化すところだが、あいにくあの潔癖症どもも今日は晴天の下で草むしりに精を出している。はずだ。俺ほ
ど孤独な作業でないところだけがムカツクが。
 何とはなしに窓の外を見やる。そう赤くはない春の夕陽。遠く青春っぽいグラウンドから青春っぽい運動部ど
もの発する青春っぽい声や音が響く。
 放課後だった。
 いつもストーカーまがいのアプローチを仕掛けてくる後輩が家庭の事情で早退し、幽霊部員業界期待の新星で
あるところの俺は、今日は久し振りに自分だけの時間が持てるはずだったのだが。
 俺は今、特別教室を回って窓の桟を掃除している。
 もう小一時間、アルミサッシの汚れと格闘している。
 何故か? 俺が聞きたいわ。
 いいや、答えは分かっている。
 俺がノーといえる日本人であったなら、今頃は行きつけの本屋を冷かしていたかもしれないし、喫茶店で馴染
みのウエイトレスと二、三言交わしていたかもしれない。
 しかし俺は、済まなさそうな顔をして頼まれると、どうにも断れないたちらしい。損といえば損な性分。最近
になってやっと自覚が出てきた。
 今回もそうだ。尊敬しないでもない教諭からどうしてもと。

『おお、先輩くん。センセーお願いがあるんだけどー』
『その呼び方止めてください』

 ……こういうことは、実は割とよくある。
 たとえば数百部の冊子を延々と綴じ込み器で挟んでは留める作業であるとか。
 たとえば社会科資料室の最奥に隠されたというこの世に稀なる秘宝の探索であるとか。
 あるいは神社の境内における落ち葉のことごとくの一掃であるとか。

(いや、最後のは関係ない)

 全然ない。
 とにかく、これは悪さをした罰などではない。これだけは声を大にしていいたい。
 自分でいうのもナンだが、どちらかといえば俺は模範的な優等生で通っている。教職員からの覚えだって悪く
はない。……それでいい思いをしたことはないどころか、こうやって便利屋扱いされているわけだが。
 これは誇るべきなのか嫌がるべきなのか。

(まあ、引き受けておいて愚痴るのも、みっともないか)

 自分達のまなびやでもあるわけだしな、などと殊勝に考えて、俺は次の窓を開く。
 舞い上がる埃、土の膜、ギンハエの胸と腹、乾ききった鳥の糞。そういうものにも、だんだん見慣れてきた。
 俺はもう一回、Yシャツの袖を捲くる。塵まじりの風だろうが涼しいことに変わりはない。
 指定区域のひと通りを綺麗にし終えるまでには、果たして幾日ほど掛かるのだろうか。そういう途方もないこ
とは、努めて気にしないように。
 かの道路掃除夫ベッポの言葉を呟く。

「次の一歩のことだけ、次の呼吸のことだけ、次のひとはきのことだけを考えるんだ」

 せっかくのおしごと、楽しむくらいの気分でいこう。



 終わり


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