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先輩とショウジョウバエ培養装置

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先輩とショウジョウバエ培養装置


563 名前:投稿日:2010/01/05(火) 20:27:46 ID:85cwe9qw

「こんにちは。おつかれさまです、先輩君」
「……先日もいいましたが、俺にとってはあなたのほうが先輩ですよ、神柚鈴絵先輩」

 無愛想にならぬ程度の淡白さで告げて、俺は手元に神経を集中させる。
 放課後の第一理科準備室は普段以上に静かで、どことなく湿った陰気に満ちていた。暗幕を下ろしているせい
か、蛍光灯の照明も空しく、雑多とした部屋の隅ずみに翳が染みついて見える。

「それ、少しお手伝いしましょうか?」
「もうすぐに終わるので。……ちょっと待っていてください」

 理科準備室なんて、数ある特別教室の中でも特に生徒に縁のない場所のはずだ。神柚先輩はそのままこちらを
見ているし、俺個人に用事と考えるのが自然か。
 教頭から請け負ったのは、理科準備室で埃を被っている実験器具の整理という珍しい依頼だった。
 フラスコ、ビーカー、プレパラートといったガラス製品の洗浄や破損状態を確認。分銅や方位磁針など、デリ
ケートな器具を簡単に検査。リストと照合して薬品類、模型、標本資料、救急用品などの不足分を割り出して報
告。その他もろもろ、シートに記された幅広い項目のチェック欄を完了の印で埋めていく。
 ……何が悲しゅうてこんな管理責任が関わってくることまで生徒に丸投げするのか不思議だったが、よく思い
出すと大里巧教諭初めマッドでディープなうちの理数系教師陣では不安を覚えるのは分からなくもない。中間管
理職も気苦労が絶えなさそうだ。
 そんなどうでもいいことに現実逃避気味に思考を飛ばしながら、残りの仕事を手早く済ませる。あとは教頭に
報告書を提出するだけで俺は晴れて自由の身だ。

「……お待たせしました」

 俺は神柚先輩に向き直り、椅子とパックのコーヒー飲料を勧める。作業の合間にがっつり休憩を入れようと三
本も買っておいたのだが、まだ一本しか空けていない。
 神柚先輩は首を振って辞退した。全男子の憧れの黒髪ロングは、乱れないようにか先端のほうをリボンで束ね
ている。おっとりとした美人なのだが、反面怒らせるとステゴロ上等の阿修羅と化すなんて恐ろしげな噂も耳に
する。

「何か用ですか?」

 真剣な話題なんだろう。安っぽい味のコーヒーで喉を潤してから、俺は臨戦態勢をとる。
 居心地の悪さは、実験用ショウジョウバエの培養装置から伝わって来る微振動のためばかりではあるまい。
 神柚先輩は勿体ぶった前置きなどしなかった。単刀直入だった。

「さっき美術室に“閑花(しずか)”ちゃんが来てくれました」

 わずかに跳ね上がった肩に動揺を自覚する。閑花。それは久しく俺の意識に上ることのなかった名前だった。
努めて失念していたといってもいい。それは俺にとって苦い記憶を呼び覚ますからだ。
 俺の後を付いて回る、彼女。
 俺の後輩であろうとする、彼女。

「私と先輩君がどういう関係なのか、どうしても知りたかったみたい」
「……あのバカ……」

「正直に恋人同士だって答えておきました♪」
「嘘ォ!?」
「もちろん嘘ですけど」
「あ、ああ、嘘か。びっくりした……」

 いろんな意味で心拍数が上がった。……この悪女め。茶目っ気たっぷりにくすくす笑う神柚先輩を、俺は恨め
しげな半眼で睨んだ。
 幾度か神社の仕事を手伝わされただけだしな、実際のところ。色気のある関係ではない。

「先輩君は、どうして閑花ちゃんのこと名前で呼んであげないの?」

 そろそろ来ると思っていた。
 それでも弛緩した空気を切り裂くように投げ掛けられた質問は、覚悟の鎧を貫いて俺の胸を抉るものだった。

「俺は、下の名前で呼ぶ女の子は恋人だけって決めているんです」
「そうなの。だとしても、“後輩”なんて呼び方するかしら」
「……」

 どことなく微笑ましい弟を見るような目だった。
 名字。あいつの。後輩の。
 くそ、この人、分かってていってやがるな……。

「あいつから名前まで聞いたなら分かるでしょう。後輩は名字、嫌っているから」

 後鬼、閑花。
 それが、俺が“後輩”とのみ呼ぶ、かの少女の姓名だった。
 すべてのはじまり。彼女が俺にべったりになってしまった理由も、出来事の発端もそこにある。
 後鬼なんて名字。他人の弱味を探すことに血眼になっている思春期の中学生が見逃すはずもない。あの時期の
いじめはもう理屈じゃない。なまじ容姿も能力も非の打ち所がないだけに、それはもう執拗に狙われたようだ。
 そんな陰惨な状況に正義感ひとつで首を突っ込んだお節介野郎がひとり。
 それだけの話だ。今の時代そのへんの三文小説でも見られないありがちで安っぽい筋書きの、けれど本人達に
とってはもう少しだけ切実な物語。

「何だかんだいって、やっぱり閑花ちゃんのこと大切なんだ」
「後輩として、ですけどね」

 そこは、さすがに認めないといけないようだ。
 未だに疼く小さな火傷と引き換えに手に入れた、ささやかな平穏と強い絆。

「恋人としては、見られない?」
「そうです。告白を断っているのはね先輩、別にあいつがどうこうっていうのじゃない、俺が、あいつを恋愛対
象として見られないってだけです。興味もなければ、そんな光景、想像もできない」
「それは、……しようのないことなのでしょうね」

 神柚先輩は少しだけ困った顔をした。
 感情の問題ばっかりは、第三者どころか当事者にだってどうこうできるものじゃない。この方向で納得はして
くれそうだ。あとは一気に畳み掛けて、終わりにしよう。

「俺は後輩と、これからもずっと“ただの先輩”という距離を保つつもりです。下手に希望を抱かせるようなこ
とをするのは悪いから」

 もっとも、それが充分に実践できているかというと自信がない。
 部活動見学でも何だかんだで後輩に付き合ってしまった。
 いつか出逢った傷だらけの後鬼閑花が脳裏にちらつくから。今でも根っこのところでは人間なんか少しも信じ
ちゃいない後鬼閑花の絶望に触れてしまったから。
 最後の最後では彼女を突き放せないのだ。どうしても目を瞑り耳を塞いでしまう。本気で向き合って、本音で
ぶつかることで、後輩の心を破壊してしまうのが怖い。
 ……ぞっとする。そんなことを考えられる俺は、なんと自惚れ屋で傲慢な男なのだろう。

「そうですか」

 意味ありげな微笑みに、すべてを見透かされているような錯覚を覚える。

「でもひとつだけ。閑花ちゃんの気持ちは本物です。多分、先輩君が思っているよりも、ずっと真剣。それだけ
は、覚えておいてあげてね?」
「……はい」

 同性らしい切り口の忠告を、俺はありがたく心に仕舞うことにした。
 神柚先輩の用件はそんなところだったようだ。わざわざ伝えに来てくれるとは、よほど面倒見がいいのか、そ
れほどまでに後輩が切羽詰まった様子だったのか。何にせよ、これからも頭が上がらなさそうだ。
 挨拶もそこそこに踵を返した彼女を見送る。

「ああ、そうだ」

 神柚先輩の上履きが、モスグリーンの床と擦れて高音の一節を奏でた。
 俺達の視線は、今一度、交差していた。
 振り向いた彼女は俺の予想だにしなかった言葉を紡いだ。

「私の名前は、神柚鈴絵といいます。高等部三年だから、あなたの先輩ですね。美術部の部長で、得意なのは油
絵。柚鈴天神社で巫女もやっています」

 それらはすべて、とうに俺が知っているプロフィールだった。
 彼女と会話する機会は存外に多い。今更、自己紹介する間柄でもなかろうに。

「あなたのお名前は、何ですか?」

 脈絡もなく名乗ったのは、先輩で通っている俺の本名を聞き出すための前振りだったのか。……そうかもしれ
ない。しかし、それだけではないかもしれない。ただの勘だ。確信があったわけじゃない。
 けれど確かに、神柚先輩のおかげで、再認識できたことが俺にはあったのだ。
 彼女がいつまでも俺の後輩ではいられないように、俺もまたいつまでも彼女の先輩ではいられないのかもしれ
ないということ。
 まだ、全然、そのやり方なんて分からないけど。

「俺は先崎俊輔(さきざき しゅんすけ)。困ったことがあったら、何でもいってください」

 まずは自分自身あたりとでも、心から向き合ってみようと思うのだ。



 おわり


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