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あかねに会いに

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あかねに会いに



「とりゃー!」
久遠荵の小さな体は夏を待ちに待ったセミの如く木の幹にしがみ付く。
いくらなんでも小柄とはいえ、お年頃の女子高生に太い幹をよじ登ることは無理だろう。
それでも聞き分けの無い子どものように、ちょっと登ってけっこうずり落ちる。しかし走り出したらこの子は止まることが無い。
「久遠、危ないって」
「だって、ほっとけないって!」
「でも危ないって。わたし、先生呼んでくるから……」
同級生である黒咲あかねの頭痛は止まることはない。

演劇部の自主練習として久遠は同級生の黒咲あかねと発声練習をしていた。
ジャージに体操着と完全武装した二人は校内の芝生にて、腹筋を働かせながら腹式発声で声を遠くに伸ばす。
長い髪を一つに結んだあかねが芝生に仰向けに寝転ぶと、小さな荵はあかねの長い脚を押さえ、お腹の底から出るだけの声を出して上体起し。
「あーーーーーー!!!!!」
「あかねちゃん!もっと出るはずだよ!ほら」
「あーーーー!!」
「もっと!おなかから出すんだよ!」
と、ほぼ同じくらいの声でわめく荵に対して、汗一つ顔にかかないあかねは、けっしてこの練習を得意としていなかった。

出来ることなら、やりたくない。でも、舞台に立つならこのくらい声を出さなきゃ……。でも、舞台の上じゃなくて目立つのは……。
泣き言を漏らしそうになると必ず目に浮かぶのは、厳しい先輩・迫の顔だった。それでも、あかねは泣き言を外には漏らすことはなかった。
体を起き上がらせるたびに、荵の丸い目がぴったりと合う。気恥ずかしい。それを荵が吹き飛ばす。
「あかねちゃん、ごめんなさい!席を外す!」
「ええ?ちょ、ちょっと!!」
校庭の木の上でネコがにいにい泣いていた。一人で登って降りられなくなったのか、小さな子ネコが地上の者に助けを求めていた。
いち早くそれに気付いた荵はあかねの両脚を離し、子ネコが待つ木の元へと馳せ参じたのふだが、お陰であかねはバランスを崩す。
真っ白い体操着を芝生の草まみれにしてしまったのは、荵に免じてどうか許して欲しい。

木の根元でやいやい騒ぐハーフパンツをまとう荵のふとももは……まったく眩しくは無いが、その脚で悔しそうに地団駄を踏んでいた。
「あともうちょっとなのに!」
寂しそうに荵を見下ろす子ネコは、未だ泣き止まず。こんな荵でも、子ネコの力になればどんな物語のヒロインよりも輝かしいはず。
ジャンヌ・ダルクよりも、子ネコを救う久遠荵。比べる対象はもしかして間違っているもしれぬが、この日はジャンヌよりも荵の方が眩い。

しかし、物語というものは残酷なものだ。手に掴むことの出来ない空想を見せておいて、現実にはありやしないと悟らせる。
そして、いくら物語でもとんとん拍子に物事が進めば『ご都合主義』の一言で、ペン先をへし折ってしまう。
子ネコが木から下りられなくなりました。助けようと思っても、そこまで届きません。素敵な誰かがやってきました。子ネコを助けてくれました。
めでたし、めでたし。

こんなプロットは落第点。彼女らの先輩の迫なら、そういって怒髪で天を突くだろう。
シンデレラ曲線がどうたら、5W1Hを頭に置けだの……だから、都合がよろしくない自然な展開へと筋書きを整えるのが賢明だ。
「誰か呼んだ方がいいって」
「……うん。あかねちゃん、ごめん」
「あかねちゃんは、やめてよ……」
見慣れた荵の顔を見るのが恥ずかしい。そう言い訳をして、頬を赤らめながらあかねは先生を呼びに校舎へ走った。

おっと。
でも、一つ忘れちゃいけないことが。

リアルでも、物語でも、あっと言わせる展開が必要なこと。現実ばかり気にしていて、ことなかれ主義のプロットは魅力的ではないと言うこと。
それは、それは、大切なこと。

「西郷くん……?」
校舎に向かって走り出したあかねの前に、まるで台本に書かれたかのように一人の男子生徒が姿を現す。
がっしりとした巌のような体つきに相反して、物腰はヤギのように大人しい少年。第一印象は体育会系。
先日行われた学内演劇会で王を熱演し、観客の拍手をほしいままにした西郷猛・高等部1年生。荵とあかねと同級生である。

ごめんなさい、迫先輩。こんなプロット、だめですよねぇ。基本のキの字もなっていないです。
お決まりばかり並べたプロットノート、迫先輩に見せたらきっとこんな声が帰ってくるだろう。
「お前、本当にこんな台本でいいのか?!甘いぞ!!」

―――「迫ちゃんねぇ、あんた厳しすぎるって」
風通しの良い演劇部部室にて、迫文彦は一人で汗をかいていた。メガネがいつの間にか曇る。夏のためではない。
部室中央の机には、大学ノートに幾ばくかの写真。それらを見ながら迫は携帯電話片手にハンカチで汗をぬぐう。
「そうですか?だって、大事な舞台ですよ。ぼくとしては、このくらい……」
「部員ならまだしもねー。でも、素人相手に舞台の空気悪くしちゃ元も子もないよ」
電話相手の声が漏れる。若い女性の明るい声が電話を通じて花を咲かす。
迫のことをよく知っているような、いい意味で馴れ馴れしい言葉遣いが迫の額に汗を誘う。

先日行われた『学内演劇会』で演じられた『茨姫』が好評を博した。
その監督を任されたのが演劇部・3年生である迫文彦。彼から演劇を取ってしまうことは残酷であるのは誰もが承知。
『演劇』に魅せられた妥協を許さぬ男だが、彼が電話越しに頭を下げぎりりと奥歯をかみ締める。
「遠賀先輩、いつの間にか……見に来てたんですか?」
その名前。その声。
迫の顔を強ばらせる、彼女の名前。
遠賀。おんが……。
お気楽な彼女の声が迫の耳に刺さる。少年のメガネが鈍く光る。
「さあね。でも、『茨姫』って聞いたらゼミどころじゃなくってね。そうそう、あの子いいよね」
「誰ですか……。もしや」

―――「黒咲さん?」
「はいっ、黒咲ですっ。この前の演技……」
体に似合わぬすっとんきょうな西郷の言葉は、あかねの細い足を止めた。
止まった足の代わりにあかねのみどりの黒髪が風になびく。
舞台から下りたあかねの目線はわざと西郷から外されていた。それは目を合わせるのが苦手だから……だが、それはそれでいい。
あかねと目線が違ってよかった。もし、目線が合っていたら、西郷は俯き加減を続けなければならない。
恵まれた身の丈のお陰で、あかねの側に立っても恥ずかしがる様子を周知しなくてよい。
ただ、あかねの髪の香りが風に乗って西郷の鼻腔をいたずらにくすぐった。

「西郷くんに手伝って欲しいことがあるんですっ」
子どものように純粋に、両手を握るあかねの本気。
ただ「ハイ」だの「うん」だの言えばいいのに、その一言を口に出来ない西郷の弱気。
鳥の声さえ聞こえてくる静寂を待ち、あかねは西郷の足元をじっと見た。
「靴、変えたんだ」
「うん」

―――演劇部の部室の窓から、大きな木が見える。
迫は木を見つめながら、電話先の遠賀希見(おんが・のぞみ)に愚痴を話した。だが、遠賀からすればガキの戯言。
この部屋に他のヤツがいなくて本当によかった。しかし、物語ならここに誰かがやってきて「迫先輩!どうしたんですか!!」
だなんて小柄な後輩から呼び止められて、汗が止まらなくなるんだろう。そんな展開、今はいりません。

「先輩は『茨姫』のことになると、もう」
「……わたしもみんなとやりたかったなあ。その演目」
大人に近づいた遠賀先輩の声は幼い子供のものに似ていた。
いままで迫を苦しめた声はもう響かない。迫も遠賀の悔しさを解こうと、舞台の上ではけっして口にしない優しい一声をかける。

「切りますよ、もう」
「ちょ、ちょっと待ってよ!一つわたしのお願い聞いて!後生ですっ。それほどのお願い!黒咲さんに会わせて欲しいの」
「え?黒咲?」

―――あかねに呼び止められたことだけで胸が痛い。
お願いだから、振り返って背中を見せて欲しい。何故なら、あかねの顔を真っ直ぐ見つめられないから。
願いよ、届け。届かなくてもいいから、あかねと何でもいいから関わりたい。例えばみんなを辛くさせることでさえでも。

密かに願う西郷の気持ちを察することさえ出来ないあかねの視線は、ずっと大きな足元に降り注ぐ。
「あの……。助けて欲しいんですっ」と精一杯の声で西郷に伝えた後「友達を」と付け加えた。あかねは少し後悔した。
こくりと首を縦に振る西郷に頬を赤らめるあかねは、くるりと踵を返して長い髪を回す。体操服の背中に芝生が付いていた。
よく手入れされた髪は上質な絹に対して見劣ることはない。湖に澪を引くように髪をなびかせるあかねの後を西郷は追った。

理由は何であれ、茨の姫を苦しめるものは自分が全て払いのける。そうだ、おれは漆黒に浮かび上がる剣となろう。
ただ、それを扱うことが出来るかどうかは自信がない。だけど、今はあかねに追いつくことだけ考える。
わざとあかねの走るスピードに追いつかぬよう、西郷は長い脚を開かずに夏の芝生を駆ける。
「久遠っ」
二人は荵がよじ登ろうとしていた木にたどり着き、あかねの足はゆっくりと止めた。
太い幹、小さな命。そして、それを抱える久遠荵。
「……子ネコ?」
「落っこちてきちゃったの!だって、だって子ネコが暴れるから!!」
「久遠が揺らすからっ」
「違う!!」

荵の力で大きな木が揺らぐことは無いのは明白で、怪我一つしていない子ネコを抱きかかえる小さな少女を信じるしかなかった。
子ネコの親のように荵は小さな胸で包み込み、うっすらと目に光るものを湛える。
「あっ!西郷だ!この前はよかったよ!!ウチの部に入ればいいのに」
「いや…おれは」
立派な体型ゆえ、頬を赤らめる西郷の姿は滑稽だ。
しかし、冷や汗の理由をあかねの側にいるからと言うことから、荵から演劇部に誘われたことを恥ずかしがることに
すり替えることが出来て、西郷は荵にほんのわずかなのだが痛み入る。
「西郷も演劇に興味があったら、この久遠荵になんなりと言ってね!!」

―――「じゃあ、何時がいいですか。黒咲に連絡しますから」
「そーだ!思い出した。わたしってさ、もうすぐ大学の前期試験始まるんだっけ!このおはなしはまた今度。ふふふ」
戻ってきた遠賀の声が耳につんざく迫の力が抜けていった。同じ演劇部だった頃を思い出しながら。
それはある人から見ればお笑いにも見えるし、幸せにも見える。
「……そうですか。もう」
「ふふふ。演劇が恋人の迫くんをからかえて楽しかったよ!」
額の汗が引き、真っ白に燃え尽きたように椅子にしゃがみこむ迫の姿が初夏の窓に映った。

―――演劇部の窓に映る雲の真下で子ネコを抱える荵は頭上に電球を光らせる。
「そーだ!思い出した。用務員さんのところに寅ってネコがいたっけ!わたし用務員さんとこ行ってくるね!」
「久遠っ」
西郷猛と黒咲あかねを残して、久遠は子ネコを抱えたまますっとんだ。
あかねはあかねで荵のことは「いつものことだから」とため息をつくだけでよかったが、西郷の方はあかねと二人きりになって
「はじめてのことだから」と足首をぐりぐりと地面で回すことしか出来ない。青い空が憎らしい。
それはある人から見ればお笑いにも見えるし、幸せにも見える。


おしまい。


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