荵にわんわん
「返せ!わたしの靴を返せ!」
片足立ちでケンケンしている久遠荵が、木の実のように小さな拳を振り上げて、目の前の敵に威嚇していた。
片足は紺色のハイソックス、片足は今時の女子高生らしいローファー。花も実もあるお年頃。それでも、片足立ちの姿が笑いを誘う。
ヤツは強い。ヤツは見境無い。じっと見つめる瞳は、油断をしていると吸い込まれそうなほどの青さ。
敵もじっと荵の動向をうかがいながら、無駄な動きをせずに構える。果てしない膠着状態が続き、荵も脚に痺れが走る。
「うう……。帰れないでしょ!早く返しなさいよ」
「……」
「だんまり込まないで答えなさい!バカー」
片足立ちでケンケンしている久遠荵が、木の実のように小さな拳を振り上げて、目の前の敵に威嚇していた。
片足は紺色のハイソックス、片足は今時の女子高生らしいローファー。花も実もあるお年頃。それでも、片足立ちの姿が笑いを誘う。
ヤツは強い。ヤツは見境無い。じっと見つめる瞳は、油断をしていると吸い込まれそうなほどの青さ。
敵もじっと荵の動向をうかがいながら、無駄な動きをせずに構える。果てしない膠着状態が続き、荵も脚に痺れが走る。
「うう……。帰れないでしょ!早く返しなさいよ」
「……」
「だんまり込まないで答えなさい!バカー」
大きな敵は耳を立てて荵の大声を聞いているようにもみえたが、果たして理解しているのかどうかは不明だ。
ヤツは荵の靴を咥えている。そして、ふっさふさの尻尾をゆっくりと揺らしている。聴く耳持たないとはこのことだ。
「ハスキー犬は利口なんだぞ!」
いくら荵ががなり立てても、その行動が全てを裏切る。ローファーを咥えたハスキー犬は空き地の端に立つ杭とロープに繋がれたまま、
ゆっくりとその場にしゃがみこみ、荵を冷笑しているような素振りを見せた。
ヤツは荵の靴を咥えている。そして、ふっさふさの尻尾をゆっくりと揺らしている。聴く耳持たないとはこのことだ。
「ハスキー犬は利口なんだぞ!」
いくら荵ががなり立てても、その行動が全てを裏切る。ローファーを咥えたハスキー犬は空き地の端に立つ杭とロープに繋がれたまま、
ゆっくりとその場にしゃがみこみ、荵を冷笑しているような素振りを見せた。
じりじりと蒸し暑い夕方、一体何をしているのだろう。いくら考えても仕方がないが、ただその思考だけが荵を苦しめた。
演劇部の部室の中、一人っきりでアイデアノートを書いていることに飽きて、仔イヌのように飛び出したからだ。
「外の風に当れば充電完了、わたしの筆で数多なる賞をかっさらってやるんだ!ふん」
最近雨続きで、久しぶりの雨上がりの街。すいっと風を受けて歩く。こんな日々がいつまでも続けばいいと思った。
しかし、軽い気持ちでお散歩気分を楽しんでいたのが間違えだった。これだ、これだ!わんわんトラップ!
青い空が気持ちいいもんだから「明日も天気になーれっ」って、靴を飛ばしたことが運のツキ。
わんわんトラップが飛びついて、折角上向きに着陸した靴をアイツが咥えて返してくれないのだ。
「お願い、返してよ……。バカー!」
こんなことなら、辛抱強く部室でカリカリと机にしがみ付いておけばよかったのだ。荵のバカバカ。
そうだ。部室にやって来るかもしれない迫先輩と、もしかして二人っきりになれたかもしれないっていうのに。
二人っきりになって、ちょっと先輩のことを独り占めで着ちゃうかもしれないラッキーガール!でも、荵は泣きません!アイツみたいにわんわんしません!
シベリアンなハスキー犬が荵のラッキー奪ってしまいました!ふう……。と、イヌのせいにして片足ぶらつかせる。
演劇部の部室の中、一人っきりでアイデアノートを書いていることに飽きて、仔イヌのように飛び出したからだ。
「外の風に当れば充電完了、わたしの筆で数多なる賞をかっさらってやるんだ!ふん」
最近雨続きで、久しぶりの雨上がりの街。すいっと風を受けて歩く。こんな日々がいつまでも続けばいいと思った。
しかし、軽い気持ちでお散歩気分を楽しんでいたのが間違えだった。これだ、これだ!わんわんトラップ!
青い空が気持ちいいもんだから「明日も天気になーれっ」って、靴を飛ばしたことが運のツキ。
わんわんトラップが飛びついて、折角上向きに着陸した靴をアイツが咥えて返してくれないのだ。
「お願い、返してよ……。バカー!」
こんなことなら、辛抱強く部室でカリカリと机にしがみ付いておけばよかったのだ。荵のバカバカ。
そうだ。部室にやって来るかもしれない迫先輩と、もしかして二人っきりになれたかもしれないっていうのに。
二人っきりになって、ちょっと先輩のことを独り占めで着ちゃうかもしれないラッキーガール!でも、荵は泣きません!アイツみたいにわんわんしません!
シベリアンなハスキー犬が荵のラッキー奪ってしまいました!ふう……。と、イヌのせいにして片足ぶらつかせる。
「こらっ。人さまの靴をオモチャにするんじゃない!」
荵の背後から飛んでくる若い女性の声が、ポロリとハスキー犬の口から荵の靴を落とした。大きな尻尾を揺らすのを止めた。
声の主は荵よりもちょっと年上の香り漂う、ほっそりとした脚のきれいなオトナの女性だった。
栗色の髪をサイドで束ね、メイクは自然に、そしてメガネの似合う『文系女子』を体現したお姉さん。
図書館の森から抜け出して、俗世の地上に舞い降りた妖精かもしれない。きっとそうだ。そして、彼女を守るのがこのイヌだ。
ハスキー犬の顎をわしっとさすると、アイツは骨抜きになりお姉さんに甘える子どものような素振りを見せた。
荵の背後から飛んでくる若い女性の声が、ポロリとハスキー犬の口から荵の靴を落とした。大きな尻尾を揺らすのを止めた。
声の主は荵よりもちょっと年上の香り漂う、ほっそりとした脚のきれいなオトナの女性だった。
栗色の髪をサイドで束ね、メイクは自然に、そしてメガネの似合う『文系女子』を体現したお姉さん。
図書館の森から抜け出して、俗世の地上に舞い降りた妖精かもしれない。きっとそうだ。そして、彼女を守るのがこのイヌだ。
ハスキー犬の顎をわしっとさすると、アイツは骨抜きになりお姉さんに甘える子どものような素振りを見せた。
「たつのすけの悪い癖だ」
彼女はハスキー犬を繋いであったロープを解くと、ぐいっと網を上げる漁師のように引っ張った。
大人しく従う『たつのすけ』はお姉さんの実の弟のように荵には見えた。もっとも、イヌとヒトだからそれはあり得ない。
だけども、荵は理屈でそのことを拒否する前に、お姉さんとイヌとの関係を自らの感性でつなげたのだった。首輪につながれたロープが線を描く。
ばつが悪そうなイヌの視線はお姉さんの履く靴に突き刺さり、そして尻尾は勢いを失っていた。
その姿は、荵に少なからず罪の意識を感じさせてもおかしくはなかった、といっても誰もが信じることであろう。
彼女はハスキー犬を繋いであったロープを解くと、ぐいっと網を上げる漁師のように引っ張った。
大人しく従う『たつのすけ』はお姉さんの実の弟のように荵には見えた。もっとも、イヌとヒトだからそれはあり得ない。
だけども、荵は理屈でそのことを拒否する前に、お姉さんとイヌとの関係を自らの感性でつなげたのだった。首輪につながれたロープが線を描く。
ばつが悪そうなイヌの視線はお姉さんの履く靴に突き刺さり、そして尻尾は勢いを失っていた。
その姿は、荵に少なからず罪の意識を感じさせてもおかしくはなかった、といっても誰もが信じることであろう。
「ごめんなさい。この子、小さい頃から靴をひったくる癖があって。もう、ちょっと買い物で目を離していたらこれだ」
「大丈夫ですっ。わたし、イヌは大好きですから、目にいれても痛くありませんっ」
多少ずれた返事をする荵でも、お姉さんはニコリと笑みで返す余裕を見せる。
荵にイヌの尻尾を付けたとしたら、勢いよく揺れていることだろう。嬉しいときは尻尾は隠さない。
『たつのすけ』から靴を奪い返したお姉さんは、荵に手渡すと「いくよ」と声をかけて、彼を散歩へと走らせた。
「ほんとうに、ごめんなさいね」
「あの!」
両手に拳を作って振りながら靴を履きかける荵の声が、まだまだ青さを保ち続ける空に響いた。
「ちょ、ちょっと待ってください!あ、あのー」
小さな子どもが親に置いていかれないように、必死に駆けつける。と、言っても納得できる走り方。
荵が一人と一匹の後を慌しく付いてゆく。
「あの……。もっと、その」
たつのすけの足が止まる。
「大丈夫ですっ。わたし、イヌは大好きですから、目にいれても痛くありませんっ」
多少ずれた返事をする荵でも、お姉さんはニコリと笑みで返す余裕を見せる。
荵にイヌの尻尾を付けたとしたら、勢いよく揺れていることだろう。嬉しいときは尻尾は隠さない。
『たつのすけ』から靴を奪い返したお姉さんは、荵に手渡すと「いくよ」と声をかけて、彼を散歩へと走らせた。
「ほんとうに、ごめんなさいね」
「あの!」
両手に拳を作って振りながら靴を履きかける荵の声が、まだまだ青さを保ち続ける空に響いた。
「ちょ、ちょっと待ってください!あ、あのー」
小さな子どもが親に置いていかれないように、必死に駆けつける。と、言っても納得できる走り方。
荵が一人と一匹の後を慌しく付いてゆく。
「あの……。もっと、その」
たつのすけの足が止まる。
呼吸を一旦置く。のどを鳴らす。そして、目を輝かせる。
「もっと、たつのすけくんを触っていいですか?」
荵の目。お姉さんの目。そして、たつのすけの目。
誰もがみんな、純粋で。
「いいよ」
足元を止めたお姉さんの言葉は、短くても荵には小さな胸躍らせるもの。俄然、たつのすけのことが愛らしく見えるではないか。
そして、イヌの言葉を解せない人間でも、たつのすけの言いたいことは荵にも分かる気がするのは驚きだ。でも、そうなんだから仕方ない。
「もっと、たつのすけくんを触っていいですか?」
荵の目。お姉さんの目。そして、たつのすけの目。
誰もがみんな、純粋で。
「いいよ」
足元を止めたお姉さんの言葉は、短くても荵には小さな胸躍らせるもの。俄然、たつのすけのことが愛らしく見えるではないか。
そして、イヌの言葉を解せない人間でも、たつのすけの言いたいことは荵にも分かる気がするのは驚きだ。でも、そうなんだから仕方ない。
白い手がたつのすけの顎に伸びる。嫌がることない彼の毛並みに荵の指が潜り込み、生きとし生けるものの温もりが伝わる。
生きているものは温かい。温かいから生きていられる。
哲学でも、理論でも何でもない理由。たつのすけが全てを知っているわけではないが、たつのすけが教えてくれること。
荵は彼の背中を撫でながら、柔らかいじゅうたんに包まれた襟元を頬擦りした。
生きているものは温かい。温かいから生きていられる。
哲学でも、理論でも何でもない理由。たつのすけが全てを知っているわけではないが、たつのすけが教えてくれること。
荵は彼の背中を撫でながら、柔らかいじゅうたんに包まれた襟元を頬擦りした。
「あなた、仁科の学生さんね。懐かしいな、そのリボン」
「もしかして、お姉さんも仁科の?」
荵はたつのすけを「もふもふ」する手を止めて、お姉さんの顔を見上げた。
すっかり初めての夏服にも慣れた荵のリボンが、今はなんとなく誇らしい。
「ごめんなさいっ。足止めしちゃったみたいで」
たつのすけから離れて、リボンを揺らす荵の姿はたつのすけと比べると、本当に小さい。お姉さんは瞳を変えなかった。
言葉は出さないが、荵を許してくれた彼女の優しさに感謝。そのまま、荵は彼女とたつのすけとともに歩く。
「もしかして、お姉さんも仁科の?」
荵はたつのすけを「もふもふ」する手を止めて、お姉さんの顔を見上げた。
すっかり初めての夏服にも慣れた荵のリボンが、今はなんとなく誇らしい。
「ごめんなさいっ。足止めしちゃったみたいで」
たつのすけから離れて、リボンを揺らす荵の姿はたつのすけと比べると、本当に小さい。お姉さんは瞳を変えなかった。
言葉は出さないが、荵を許してくれた彼女の優しさに感謝。そのまま、荵は彼女とたつのすけとともに歩く。
きょう初めて出会ったのに、同じ学園を過ごしたことのある二人というだけで、荵は気を許すことが出来た。
もっとも「会ったときからお友達」が看板の荵でも、相手が年上だからなのか、例えば観察を始めた朝顔の芽ほどの遠慮だったのだが、
共通点を見い出して蔓で体を寄り添えて、荵は得意気な花を咲かすことが出来たのだ。その上、たつのすけを『もふ』ることが出来たのだから。
さらに小さな胸を押さえきれなくなった荵は、お姉さんと一秒でも長く話したくなり押さえ込んでいた気持ちを打ち明ける。
もっとも「会ったときからお友達」が看板の荵でも、相手が年上だからなのか、例えば観察を始めた朝顔の芽ほどの遠慮だったのだが、
共通点を見い出して蔓で体を寄り添えて、荵は得意気な花を咲かすことが出来たのだ。その上、たつのすけを『もふ』ることが出来たのだから。
さらに小さな胸を押さえきれなくなった荵は、お姉さんと一秒でも長く話したくなり押さえ込んでいた気持ちを打ち明ける。
「先輩!わたし、部活で演劇部やってるんです。あっ!自己紹介忘れてました!名前は久遠ですっ。久しく遠いと書きます!
演劇の台本アイデア考えてたんですけどなかなか思い浮かばなくて『気分転換』がいちばん、って迫先輩が言ってたから散歩に出てたんです!」
「迫先輩?」
「あ……。演劇部の先輩ですっ。優しくて怖いけど、怖くて優しいです」
いつもは学園に通う、学園から帰るでしか歩くことのない街並みを大きなイヌと一緒に歩く。
日常をほんの少しいじるだけで、非日常の出来上がり。白米にふりかけをかけるのと一緒だ。それだけで、彩を増す。『少し』『不思議』を肌で感じる。
お姉さんはただ、荵の話を聞いているだけだったが、荵にはそれだけでも幸せな時間だった。
そのうち、荵が見慣れた、お姉さんが見慣れていた仁科学園の校門へと近づいていた。
「私服でここに来ると、なんだか不思議な気持ちだね」
「そうなんですか!先輩!」
「そうね。荵ちゃん」
ぐるりとお姉さんの足元を廻るたつのすけのロープが捲き付く。ロープを持つ手を挙げて解く。
ここでさようならと、荵はお辞儀をして校舎に向かおうとしたときのことだった。
お姉さんの呼びかけで荵の足が止まる。
演劇の台本アイデア考えてたんですけどなかなか思い浮かばなくて『気分転換』がいちばん、って迫先輩が言ってたから散歩に出てたんです!」
「迫先輩?」
「あ……。演劇部の先輩ですっ。優しくて怖いけど、怖くて優しいです」
いつもは学園に通う、学園から帰るでしか歩くことのない街並みを大きなイヌと一緒に歩く。
日常をほんの少しいじるだけで、非日常の出来上がり。白米にふりかけをかけるのと一緒だ。それだけで、彩を増す。『少し』『不思議』を肌で感じる。
お姉さんはただ、荵の話を聞いているだけだったが、荵にはそれだけでも幸せな時間だった。
そのうち、荵が見慣れた、お姉さんが見慣れていた仁科学園の校門へと近づいていた。
「私服でここに来ると、なんだか不思議な気持ちだね」
「そうなんですか!先輩!」
「そうね。荵ちゃん」
ぐるりとお姉さんの足元を廻るたつのすけのロープが捲き付く。ロープを持つ手を挙げて解く。
ここでさようならと、荵はお辞儀をして校舎に向かおうとしたときのことだった。
お姉さんの呼びかけで荵の足が止まる。
「ところでさ。『ふーくん』って、やっぱり厳しい?」
「ふ、ふーくん??」
「わんっ」
お姉さんの代わりに返事を返したのは、誰でもないたつのすけ。
「演劇部の『ふーくん』よ」
「ふ、ふーくん??」
「わんっ」
お姉さんの代わりに返事を返したのは、誰でもないたつのすけ。
「演劇部の『ふーくん』よ」
―――「あの、遠賀先輩の言いたいことは物凄く分かるんです。はい」
演劇部の部室で迫文彦が携帯電話片手に頭を下げる。どうやら、見えない相手でさえも自分の身振り手振りを抑えられないたちのようだ。
窓際に立っていたかと思うと、喋りながら入り口の方へと向かう。かと思えば、立ち止まる。
「いきなりそう言われましても」
迫の声は舞台の上で、演技指導しているときものと比べ物のならないほど小さい。
いつもはやかましい番犬も、大きなイヌの前では尻尾を丸めちゃうような。迫は尻尾を丸め続けているのだ。
演劇部の部室で迫文彦が携帯電話片手に頭を下げる。どうやら、見えない相手でさえも自分の身振り手振りを抑えられないたちのようだ。
窓際に立っていたかと思うと、喋りながら入り口の方へと向かう。かと思えば、立ち止まる。
「いきなりそう言われましても」
迫の声は舞台の上で、演技指導しているときものと比べ物のならないほど小さい。
いつもはやかましい番犬も、大きなイヌの前では尻尾を丸めちゃうような。迫は尻尾を丸め続けているのだ。
部屋の隅には、じっと迫の姿を見つめる一人の少女。名を黒咲あかねという。
あかねは脚を揃えてじっと椅子に座っていた。長い髪は蛍光灯に照らされて、美しく輝く。
だが、迫に待たされているというわけでもなく、むしろ迫を興味深く見つめているようにも見える。
迫が頷けば、あかねも頷き、迫が右から左に歩けば、あかねの瞳も右から左に。
じっと、あかねに見つめられながら迫はトーンを変えて返事をする。
「え?黒咲ですか?……黒咲は今、席を外してまして」
自分の名前を呼ばれて背筋に電気が走る。
目の色が変わる。
緊張が走る。
息が詰まる。
「あっ。たった今、戻ってきましたので!はい!かわりますよ。黒咲っ、くろさきー!遠賀先輩からだぞ」
携帯電話の送話口を手で押さえた迫が振り返ると、肩を狭くして立っているあかねが居た。
あかねは脚を揃えてじっと椅子に座っていた。長い髪は蛍光灯に照らされて、美しく輝く。
だが、迫に待たされているというわけでもなく、むしろ迫を興味深く見つめているようにも見える。
迫が頷けば、あかねも頷き、迫が右から左に歩けば、あかねの瞳も右から左に。
じっと、あかねに見つめられながら迫はトーンを変えて返事をする。
「え?黒咲ですか?……黒咲は今、席を外してまして」
自分の名前を呼ばれて背筋に電気が走る。
目の色が変わる。
緊張が走る。
息が詰まる。
「あっ。たった今、戻ってきましたので!はい!かわりますよ。黒咲っ、くろさきー!遠賀先輩からだぞ」
携帯電話の送話口を手で押さえた迫が振り返ると、肩を狭くして立っているあかねが居た。
窓の外から「わんっ」とイヌの声が聞こえる。
―――荵は歩き慣れた校庭をいつもと違う興奮で歩いていた。隣には憧れさえ抱かせるお姉さんと、ちょっとカッコいいけど
子どもっぽいハスキー犬がついているからだ。懐かしげに木の一本一本を見渡し、日差しの香りをかぎ分ける。
ハスキー犬は似合わぬ夏の日差しを受けて、べったりと地面に密着し目を細めて船を漕ぎ出した。
草むらの日陰で涼しさを知り尽くしたノラネコが、真夏の日差しを避けて昼寝をしている。
子どもっぽいハスキー犬がついているからだ。懐かしげに木の一本一本を見渡し、日差しの香りをかぎ分ける。
ハスキー犬は似合わぬ夏の日差しを受けて、べったりと地面に密着し目を細めて船を漕ぎ出した。
草むらの日陰で涼しさを知り尽くしたノラネコが、真夏の日差しを避けて昼寝をしている。
「ふーくんは、演劇のことになるとね、素人も玄人も見境がつかなくなるのね。昔から」
ゆっくりとたつのすけのロープを緩めると、お姉さんは遠い雲を眺めながら静かにしゃがんだ。
夏の雲が厚い。綿菓子のようにふんわりと天に昇り、手に届かない彼女らをちっぽけに見せる。
仁科学園・校庭での一こま。校舎の濃い影がきょうのの日照りを伝え、二人と一匹は体全体で影を受け止める。
ゆっくりとたつのすけのロープを緩めると、お姉さんは遠い雲を眺めながら静かにしゃがんだ。
夏の雲が厚い。綿菓子のようにふんわりと天に昇り、手に届かない彼女らをちっぽけに見せる。
仁科学園・校庭での一こま。校舎の濃い影がきょうのの日照りを伝え、二人と一匹は体全体で影を受け止める。
「『舞台に立てば、みんな役者』だって。だから、あんなに厳しくなっちゃうんだよ。バカね」
「あの、『ふーくん』って」
「わたしの後輩よ。でも、荵ちゃんから見たら先輩かな」
口を閉ざして荵は頷く。たつのすけは大きくあくびをする。
「ふーくんったら、この間『茨姫』のことで電話したとき、わたしが見えなくってもアイツが緊張してるのが目に浮かんで。
アイツからかうの、面白かったなあ……。ここにいた頃を思い出しちゃったのね。でも、どうして、わたしったらあんなことしちゃったのかな」
「もしかして、この間の『茨姫』!」
「お芝居はみんなでやるのが楽しいに決まっている。でも、みんなが納得しないとお芝居は創り上げられない」
「そうですよね!わたしも同じ学年のあかねちゃんって子と一緒に演劇の台本書いたりしてるんですけど……。
あっ!あかねちゃんって子は背が高いですっ。髪が長いですっ。そして……演技が完璧なんですっ。いいお友達です」
「そっかあ。じゃあ、もう一度ここに入り直したら荵ちゃんやあかねちゃんと同級生になれるかな。
大学なんかほっぽりだして、ゼミなんか忘れちゃって、一緒に荵ちゃんたちと演劇をやって……」
「あの、『ふーくん』って」
「わたしの後輩よ。でも、荵ちゃんから見たら先輩かな」
口を閉ざして荵は頷く。たつのすけは大きくあくびをする。
「ふーくんったら、この間『茨姫』のことで電話したとき、わたしが見えなくってもアイツが緊張してるのが目に浮かんで。
アイツからかうの、面白かったなあ……。ここにいた頃を思い出しちゃったのね。でも、どうして、わたしったらあんなことしちゃったのかな」
「もしかして、この間の『茨姫』!」
「お芝居はみんなでやるのが楽しいに決まっている。でも、みんなが納得しないとお芝居は創り上げられない」
「そうですよね!わたしも同じ学年のあかねちゃんって子と一緒に演劇の台本書いたりしてるんですけど……。
あっ!あかねちゃんって子は背が高いですっ。髪が長いですっ。そして……演技が完璧なんですっ。いいお友達です」
「そっかあ。じゃあ、もう一度ここに入り直したら荵ちゃんやあかねちゃんと同級生になれるかな。
大学なんかほっぽりだして、ゼミなんか忘れちゃって、一緒に荵ちゃんたちと演劇をやって……」
何かに怯えたのか、今まで静かだったたつのすけが前触れもなく吠え出した。
どうやら、たった今草むらのノラネコをたつのすけが発見したらしい。結構前からここに居るというのに反応が遅い。
「うるさいよ!たつのすけ」
どうやら、たった今草むらのノラネコをたつのすけが発見したらしい。結構前からここに居るというのに反応が遅い。
「うるさいよ!たつのすけ」
―――「ほら!演技を止めない!集中力が欠けてるぞ」
外のイヌの声に気を取られたあかねは、迫の怒声で我に帰る。携帯電話をしっかりと再び握り締めると、居もしない相手と電話で話し始めた。
イヌの声はさっき聞こえたものよりも、確実に大きく聞こえてきた。それをも吹き飛ばす声で檄を飛ばす。
迫の厳しい視線が一筋の光を放つと、殺風景な部室がスポットライト眩しい舞台へと様変わりするマジック。
耳をすませば大歓声、目を閉じれば緊張の空気。空気を作るということはこういうことなんだ。と、迫の表情から伺える。
外のイヌの声に気を取られたあかねは、迫の怒声で我に帰る。携帯電話をしっかりと再び握り締めると、居もしない相手と電話で話し始めた。
イヌの声はさっき聞こえたものよりも、確実に大きく聞こえてきた。それをも吹き飛ばす声で檄を飛ばす。
迫の厳しい視線が一筋の光を放つと、殺風景な部室がスポットライト眩しい舞台へと様変わりするマジック。
耳をすませば大歓声、目を閉じれば緊張の空気。空気を作るということはこういうことなんだ。と、迫の表情から伺える。
あかねは携帯電話片手に、再び見えない相手と会話を再開した。
「は、初めまして。わたし、演劇部一年の黒咲あかねと申します」
深くお辞儀をすると一緒に黒髪が揺れる。長い髪を空いた手で掻き上げ、ゆっくりと一歩足を差し出す。
あかねの表情がくるくると回転木馬の如く入れ替わり、見るものを楽しませようと、そしてリアルに嘘をつこうとしていた。
たった一つの小道具だけで、嘘をも本当に存在しているかのように見せてしまう。ただ、それを上手く使いこなせるかどうかは、
無論役者の腕にかかっている。迫の意図していることは、そのことに尽きる。あかねは誰の為でもなく演技を続けていた。
「は、初めまして。わたし、演劇部一年の黒咲あかねと申します」
深くお辞儀をすると一緒に黒髪が揺れる。長い髪を空いた手で掻き上げ、ゆっくりと一歩足を差し出す。
あかねの表情がくるくると回転木馬の如く入れ替わり、見るものを楽しませようと、そしてリアルに嘘をつこうとしていた。
たった一つの小道具だけで、嘘をも本当に存在しているかのように見せてしまう。ただ、それを上手く使いこなせるかどうかは、
無論役者の腕にかかっている。迫の意図していることは、そのことに尽きる。あかねは誰の為でもなく演技を続けていた。
「わん!わん!」
「そうですか。それでは、土曜日の午後にいらっしゃるんですか?」
「わん!」
しびれを切らせた迫は窓際に飛びつくと、イヌの鳴き声の方に視線を向ける。
しかし、迫にとってその行動はバーベルを抱えて見渡す限りの大洋の真ん中に飛び込むようなものだった。
南無三と呟いてみても、もはや体は海の中。バーベルを離しても誰も助けに来てはくれない。たとえ、救助されても
「どうしてそんなことをした!」と相手から首を傾げられて、末代までの笑いものにされるだけ。
背中で事態を語る迫に気付いたあかねは、演技練習を一旦止めた。
「そうですか。それでは、土曜日の午後にいらっしゃるんですか?」
「わん!」
しびれを切らせた迫は窓際に飛びつくと、イヌの鳴き声の方に視線を向ける。
しかし、迫にとってその行動はバーベルを抱えて見渡す限りの大洋の真ん中に飛び込むようなものだった。
南無三と呟いてみても、もはや体は海の中。バーベルを離しても誰も助けに来てはくれない。たとえ、救助されても
「どうしてそんなことをした!」と相手から首を傾げられて、末代までの笑いものにされるだけ。
背中で事態を語る迫に気付いたあかねは、演技練習を一旦止めた。
「荵ちゃん。ふーくんが窓から覗いてきたよ!」
迫文彦・仁科学園高等部三年。演劇部所属……。久しぶりに目を合わせた先輩の顔は、現役時代と変わらなかった。
吠え続けるたつのすけをなだめながら、手を迫に向かって振ってみせ、大きく声を張り上げる。
「あのー。演劇部に入部してもいいですか?」
「あなた、OGでしょ。遠賀先輩」
その名前を聞いたあかねは、携帯電話を閉じ迫の背中の方へと体を向けた。
なびいた長い髪が輪を描いて、夏の風に乗っていた。
迫文彦・仁科学園高等部三年。演劇部所属……。久しぶりに目を合わせた先輩の顔は、現役時代と変わらなかった。
吠え続けるたつのすけをなだめながら、手を迫に向かって振ってみせ、大きく声を張り上げる。
「あのー。演劇部に入部してもいいですか?」
「あなた、OGでしょ。遠賀先輩」
その名前を聞いたあかねは、携帯電話を閉じ迫の背中の方へと体を向けた。
なびいた長い髪が輪を描いて、夏の風に乗っていた。
おしまい。