カフェ・ル・タンブランの扉には、“Closed”の札が掛かっている。
今日は、課員全員が招集され、会議が執り行われる。
しかし、そこに森島京の姿はない。──セレンディピター号において行方不明となったことは、既に共有されている。
その意図についても、説明されるだろう。彼には“餌”になることが課長によって命令されていた、と。
各々、反発やその逆はあるかも知れないが、この場ではそれを収めるべきことも理解している筈だ。
そして同時に、課長からのメッセージも伝達される。近々の内の襲撃を想定しておくように、と。
森島の身柄が向こうに渡った以上、この場が三課の棲家であることが露見していても、おかしくない。
仮にそうなれば──、そのときは、迎え撃つ。襲撃者の拘束は、同時に敵の正体を掴むことに繋がりうる。
森島の不在と代わりに、二名の新顔があった。
1人は、“エヴァンジェリン・ダルハイト”。その名も姿も身上も、課員が知るところだろう。
マルコ・ダルハイトの娘にして、重要参考人。──そして、情報提供の見返りに身許の保護を求めてきた少女。
彼女は暫く前から、この建物の2階で寝起きしている。昼には「暇なんです。」と言って、カフェの仕事を手伝う姿も見られた。
彼女の持つ情報から、マルコ・ダルハイト、そして“パトロン”達の多くが機関と繋がっていたことが、明らかになった。
本来ならばそれでお役御免、なのだが、彼女自身はまだ危ないからここに残りたいです、貴方達強いんですよね、と言う。
確かに、ダルハイトの娘というだけで狙われる理由は十分だった。
それに、彼女に関しては普段辛口な百家とリーイェンの評価が高い。後方支援人員に向いている、という。
事情聴取を担当した両名によれば、記憶力が抜群に良く、肝が座っている。更に、医療技術も持ち合わせていた。
いずれにせよ保護が必要なら、積極的に関わらせた方が“使い途”がある──とのことだ。
黎が課長に照会したところ、返答としては問題ない、ということだった。
もう1人は、エヴァンジェリンとは打って変わって表情の少ない、夜色の髪をした少女だった。
百家と黎を除いては初対面だろう。彼女は自分の名を、“初”と名乗った。姓は名乗らない。
自己紹介が終わると、百家が口を開く。まずはコイツと森島のことを説明する、と。
──
百家羅山が黎子豪に呼び出されたのは、“船”での任務を終えた次の日だった。
呼び出されたと言っても、そのときはル・タンブランの2階でエヴァンジェリンの尋問を行っていたので、下から呼ばれた、が正しい。
黎の指示は、“入り口から回って客のふりをして入って来い”とのものだった。百家は反駁したが、とにかく来い、の一言で通話が切れる。
指示に従って、入り口から扉を開ける。からん、と来客を告げる風鈴が鳴る。
店内に目を向けると──カウンターに座っていたのは、“警察署襲撃脱走事件”の重要参考人。夜色の髪をした少女だった。
余りの予想外に、百家の動きが止まる。それは捜査書類の隅から隅までを読み込んでいる彼だからこその反応でもあったが。
少女は、横目で捉えたその反応を逃さなかった。 ナイフを引き抜き、目にも留まらぬ疾さで百家の首元に切っ先を迫らせ──
「…… 、 貴方、私になにか用かしら。」
その後、大捕物が行われたのは言うまでもない。
──
こうなった以上は全てを説明するしかあるまい、と、黎は覚悟した。
百家が何とか少女を取り押さえ、二階へ連れて行ったのを確認すると、“課長”に打電する。
即座に返ってきた答は“是”。それに続いて追伸があった。相も変わらず無理を言う、と嘆息する。
カフェの扉に鍵をかけ、エプロンを外し、丸眼鏡の代わりにサングラスを掛ける。
階段を登り、森島が半ば私室として使用していた部屋に向かうと──扉の前には、所々に軽い傷を負った百家が立っていた。
「どうした。」
「エヴァンジェリンに追い出された。手当てするんやと。」
「……。」
「心配すんな。拘束して窓は閉めとる。」
「何故ここに来たかは、言っていたか。」
「知り合いに評判聞いたらしい。」
「……セレンディピティ、か。」
「はっ、冗談言うとは珍しいな。次は客商売やめるか、もうちょい手ぇ抜いてくれや、オッサン。」
黎も倣って、廊下の壁に身を預けた。
“動かないでくださいね、ちょっとチクッとしますから。”
“…… ぇ、ちょっと、そこは大丈 ──~~ッ!!”
“ふふっ、大丈夫じゃないですよ、こんなになっちゃってます。さっ、シャツも脱がせますからね。”
先程までの殺気立った雰囲気が嘘のように、少女達の声が室内から聞こえる。
百家とリーイェンはその能力に着目してエヴァンジェリンを評価していたが──、黎から見ても、向いているところはあった。
彼女は強い。いかなる場においても自分を持ち合わせ、自らの作り上げた雰囲気の中に相手を巻き込むことができる。
ラピスが彼女を連れて来たのも、幾分かは、エヴァンジェリンの“演出”があったからだろう。
「もういいですよ。……あら、盗み聞きしてました?」
「アホ言っとらんで、終わったなら出て行け。」
「それは駄目でーす。年頃の女の子を縛られたまま男二人と置き去りになんて、私にはできません。」
数分して、扉からエヴァンジェリンが顔を出したかと思えば、すぐに引っ込める。
百家と黎も、部屋の中に入った。──埃っぽいが、生活感のある部屋だ。ハンガーには男物のシャツが掛けられている。
その部屋の端。ベッドの上に、夜色の少女は腰掛けていた。拘束は既に解かれている。
それでも、敵意の籠もった野良猫のような眼を彼らに向けた。
──
黎は、森島と彼女の関係について、自らの知る限りを目の前の少女──“初”に告げた。
森島がかつて、彼女と同じ暗殺者組織に属していたこと。
その組織のターゲットとなっていたのは、決まってリベラルな思想の持ち主であったこと。
故に、その裏には“何らかの後ろ盾”があったと推察され、その事件を長年三課は追っていたこと。
そして。彼がそこを壊滅させて去ったとき、助けを求める彼女を置き去ったこと。
三課の勧誘によって彼女の生存を知り、少し前に彼女を漸く保護し、知人に預けたこと。
そして──、彼女の殺害を仄めかされ、“来栖くるる”の元に向かったこと。
「……もういい。」
だが、少女が放った言葉はそれだけだった。苛立ったようにベッドに拳を突き立てる。歯軋りを鳴らす。
百家も、黎も、エヴァンジェリンも。その姿を黙って見届け、続く言葉を待った。
「私が“猫”で、森島は私を置いていったことに負い目があって、とか。
知ったことじゃない。私は別に、私を守ってくれなんて頼んでない。
──、そんな話を聞かされても、私には、遠い誰かの話としか思えない。」
彼女には自分でも、その衝動がどこから来るのか説明できなかった。
本来なら、今の状況に安息するべきなのだろう。覚えのない助けでも、森島には感謝するべきなのかも知れない。
だが、彼女が知りたいのは──そんな、一方的なものではない。自分が、何処から来たのか、何をしてきたのか。
それが知れないことは、恐怖だ。死ぬよりも、何よりも怖い。他人からの親切も何も、吹き飛んでしまう程に。
その双眸が、黎を捉える。怒りにも似た光が、其処には宿っていた。
「私は、私の記憶を取り戻す方法が知りたいの。
……来栖が記憶を失う前の私のことを知っているなら、私がどうして記憶をなくしたのかも知ってる筈。
教えて。貴方達が追ってる“なにか”の話を。」
「道理やな。──やけど、なぁ。俺らがお前に協力する理由にはならんわ。
来栖の情報一切分からんのなら、こっちが媚売る必要もないやろ。お家で待っとけ。」
言葉は悪いが、百家の告げることは事実だった。ギブ・アンド・テイク。協力者と公安との関係はそれに尽きる。
だがそれは飽くまでも“協力者”の場合。だからこそ、黎は彼女に告げる。
「君には2つ、道がある。このまま歩むか、 我々と共に往くか、だ。」
──
“ま、そういう話や。人員が足りん分、コイツには森島の代わりに現場で動いて貰う。”
百家が話を終えると、次に前に出るのはクリシュティナ・レールモントフ。
彼女は、車椅子に乗っていた。──少し前まで正常に動いていた左脚は、今や右脚と同じく運動障害を生じている。
話すのは、“セレンディピター号難破事件”の経緯について。
──
幾重もの氷の鏃が放たれる。軍人はそれを渦巻く空気の流れで以て吹き飛ばし、鏃は内壁に突き刺さる。
だが、今度は尾の部分が伸び、氷柱として軍人を四方から襲う。軍人は跳躍。切っ先を正確に見切り、避けた。
そして逆に、前方へ伸び切った氷柱を足場に女へと駆ける。不規則な動線に女の対応が一瞬遅れ、接近を許した。
軍人の右腕に装備された黒い鉄甲から微細な金属粒子が吹き出し、渦として形作られる。ドリルだ。
女も、その右肩から紅氷の腕を生やした。粒子ごと氷の内に閉じ込めんと、黒の螺旋に向け振りかぶり──
「……聞こえたか。」
「うん。厭な揺れがあったね。爆発かな。」
互いの牙が互いを捉える直前で、止められた。軍人──ロロケルム・ランガスターが、その軍帽の傾きを戻す。
肩口の通信機を起動し、部下へと退避指示を出した。音と揺れ。間違いなく爆発だ。この船の寿命も長くはないだろう。
一度の爆発で沈むということはないが、退くには良い頃合いだった。軍人の瞳が、女と、その瞳の奥を横目で捉える。
「君も、先程の少女に連絡してはどうかね。心配するな。“戦争”なら兎も角、獣狩りに拘泥する気はない。」
「……へぇ、分かるのかい。」
「言ったろう。“君”は獣だ、と。」
じゃあお言葉に甘えよう、と、クリシュティナ・レールモントフはこめかみに手を当てる。
──、伝えられたのはマルコ・ダルハイトの死と、娘の存在。とにかく連れて来てくれ、と告げて通信を切った。
その瞬間、二度目の爆音。今度は船が大きく揺れる。先程よりも数段、厭な揺れだった。
──
君が原因だな、と軍人から問われると。
桜色より尚白い色の髪をした少女──、エヴァンジェリン・ダルハイトは、細い人差し指を口元に寄せて。
うーん、と窓の外を見た。嵐の中でも分かるほどの濃さで、船尾側から黒煙が上がっている。
「……どうでしょうね。お父様、過保護でしたから。
私があの部屋から連れて行かれるぐらいなら、この船ごと沈めようとしてもおかしくありませんけど。」
今日の天気でも告げるように、少女は半ば、その問いを肯定した。
「まぁ、原因はどうでもいいよ。金狼、この船は沈むのかな。」
「沈むだろう。今上がってきた報告によれば、現に船尾付近の船底から浸水が始まっている。」
「じゃあ、早く逃げないとね。」
「それは同感だ──、が。問題がある。」
そう言って、軍人はエヴァンジェリンを指さした。彼の言によれば、爆発は彼女が部屋から離れる度に起こっている、という。
電磁的手段か魔術か呪いかは定かでないが、仮に彼女を船外に連れ出すなら、その前のどこかで一気に爆発が起こり、船が沈むだろう。
この船の王の妄執は、未だ、この国と姫を縛り続けている。
「なら、どうする。」
「先に爆発物を見つけて止めるしかない。もう1つ案はあるが。」
「無理だね。この船、馬鹿に広いよ。それに後者もダメだ。私達が困る。」
「その通り。 ──そこで、だよ。ときに君。」
“この船を丸ごと凍らせることはできるかね”。 そう、軍人は言った。
──
“で、それから百家に連絡してビリーを操舵室に連れて行かせた。”
“流石に、洋上じゃ無理だからね。底の浅い湾内なら何とかなる。まぁ、結構なしっぺ返しは喰らったけれど。ははは。”
恐らくは、その場の殆ど全員が口には出さずとも同じことを思っただろう。滅茶苦茶だ。
だが、その場での最善手でもある。──彼女にその気はなかったとしても、結果的に、多くの人命が救われた。
しっぺ返し、というのは左脚のことだろうか。あれだけの大規模な能力使用には、相応の代償が伴うのかも知れない。
さて、次に話すのは誰かな──、クリシュティナはそう言って、席に戻った。