最澄(767~822)

(1)日本における天台宗の開祖、伝教大師の大師号を受ける。奈良(南都六宗)の僧達に落胆し、十二年間もの間山にこもり、中国智顗が説く天台宗こそ最高の教えであるとして、研究し修業した。その甲斐あってか、最澄は時の天皇である『桓武天皇』の庇護を受ける。
 延暦23(西暦804)年、正式に天台宗を開くため、唐(中国)へと渡る。その際一緒に一留学生として渡った空海もいた。
 最澄は天台宗の本山である天台山を巡礼し、晴れて天台宗の法門へと迎え入れられた。同時に、最澄は最新の仏教であった密教の教典である『大日経』に属した教典数点、『金剛頂経』に属する教典、初期密教教典の『蘇悉地経』に属する『仏頂尊』(釈迦の頭頂をあらわす)を説く教典を持ち帰る事となった。
○一年後、帰国した最澄に求められた物は、天台の教えより本来専門ではない密教の呪法であった。最澄を日本仏教の最高位に付けるため、密教での儀礼である『灌頂』の儀を南都六宗(法相宗・三論宗・律宗・華厳宗・倶舎宗・成実宗の、奈良時代からある、当時日本で大きな宗派)の僧に施したとされる。
○更に一年後、唐から空海が帰国し、当時密教の第一人者であった恵果和尚から直々に得た膨大な量の教典を見て、己の密教は不十分であると考え、空海が日本へ持ち帰った仏典の数々が記された『御錆来目録』を写し取り、さらに空海から密教を学ぶため何度も経本を借り、時には書状に『弟子 最澄』と記している。
812年に最澄は乙訓寺にて空海から結縁灌頂を受け、後に最澄の弟子である泰範・円澄・光定らも空海の手により灌頂を受けている事から、最澄の密教は重要であると言う考えが伺える。
○彼の中で、密教を天台の教えでどう位置づけるか、その答えを出そうとしていたが、空海にとって密教こそ最高の教えであると言うその考えは、最澄にとって受け入れにくい物であった。後、最澄の代わりに空海に教えを扱いていた弟子の『泰範』が、このまま空海のもとに留まりたいと告げ、さらに密教の重要な教典の一つである『理趣経』を借りる事を、空海が拒んだため、二人の仲は決別してしまう。
○最澄が日本の仏教界における最大の事業は、日本の仏教における最大の大乗仏教の大学である延暦寺を建立した事が挙げられている。ここより、『浄土宗』『浄土真宗』『禅宗』『日蓮宗?』といった宗派が誕生時し、また多くの高僧が排出されている。

参考

学研 天台密教の本
ナツメ社 図解雑学 空海 

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最終更新:2007年08月20日 18:21