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La trahison des images / René Magritte (1929)

       ●

脇目も振らず階段を駆け上り一階に辿り着いてから、漸っと私は落ち着きを取り戻した。
――怖かった。
幽霊だとかUMAだとか、そんなものは勿論信じていない。
というか、そんなのはどう考えたって、存在しないのだ。
信じる信じない以前の問題である。
有り得ないという事では今の状況だって似たようなものではあるのだが、まあ現実なのだから仕方ない。
私が恐怖の対象としているのは――話が通じない相手、である。
そんな輩がここにいるのは、まあ確実だと思う。
いきなり拉致されたからと言って即座に発砲する奴やら、それを見ても一切動揺しない奴やらがいるのだから。
そういう連中は、拙い。
何せ、交渉の余地も何もないのである。
私にとっては最悪の相手だ。私でなくともヤバいのだが。
で。

あんな所でデカい音を立てる奴なんてえのは、ダメだ。色々と。
仮にゲームに乗っていない人間だったとしても、不用心若しくは粗忽者だろう。
守って貰う相手としては不合格である。
なんだか偉そうな感じではあるが、自分の命がかかっているのだからやむを得まい。
ともかく――今は一刻も早く霊安室から離れるに限る。
私は一度深呼吸をしてから、出口へと向かおうとした。
そこで、私は息を呑んだ。
病院の中へと入ってくる人物を発見したのである。

華奢で小柄で、一見すると少年のようにも見える。
しかしそれは服装と髪型のせいで、よくよく見れば凛とした美人である。
女性だ。
ハンチング帽を被った女性はきびきびとした動作で周囲を見渡した後、まっすぐに階段へと歩き出した。
つまり――私がいる方向に向かっている。
――迷っている暇はない。
ええいままよ、と心の中で叫び、私は両手で銃を構えて女性の前に飛び出した。

「う――う、動かなんで」
噛んだ。
それでも意図は伝わったらしく、女性はあっさりと鞄を地面に落として両手を挙げた。
冷静過ぎて、どうにも不気味ではある。
――だが。
私ならば。
言葉さえ聞けば、如何にポーカーフェイスを装おうと、どんな人物なのかは理解るのだ。
「あなたは――ゲームに乗っていますか?」
言った。

女性は――。
何も答えなかった。
どころか、眉一つ動かさなかった。
――あれえー。
完全に予想外の反応だ。
いや、まあ、よく考えてみれば、銃を突きつけられて、ハッキリとした返事を返せるような人間は中々いないとは思うが。
それにしたってこの反応は如何なものか。
もしやすると、聞こえていないのか。
きっとそうだ。
気を取り直して、もう一度。
「ん、うぉっほん。あなたは――ゲームに乗っていますか?」
「君は、一体何が云いたいのかね」
と――眉間に皺を立てて女性は言った。
犬の糞を両足で同時に踏んでしまったかのような仏頂面である。

「何って、その」
「君の云う、ゲーム、の意味が僕には判らんのだ。生憎僕はその方面には疎くてね。チェスのルールすらよく知らない」
「ぼ、僕ゥ?」
女性は益々不機嫌そうな表情になった。
「突然人に銃を突き付けておいて一人称にまでケチを付けると云うのは、一体どんな了見なのかなこれは。幾ら児童と雖も――」
そこで女性は言葉を切り、やれやれ、とでも言いたげな様子で首を振った。
なんか――凄く腹が立つ。

「――巫山戯てないで、早く答えて」
「だから、君が何を云いたいのか判らないと云ってるじゃないか」
「ああもう――」
これは――わざと私を挑発しているのだろうか。

「だから、この――殺し合いよ。あなたは――やる気は、あるの?」
「殺し合いとは何だね」
「へ?」
「君は目の前で死人が出るのを見たのか? この、首輪が爆発するというあの男の言葉が本当だと証明出来るのか?
 違うだろう。軽挙妄動は慎み給えよ。その物騒な物も手放したがいい。
 万が一君が人を殺すような事があったら大変だ。状況が状況と云っても、緊急避難が適用されるかは怪しいぞ」
――何なんだこいつは。
現実を見ていないのだろうか。

大体ね、と女は続けた。
「要するに君は、僕がこの状況下に於いて殺人を犯すような人間なのかと聞きたい訳だ。
 で、それを聞いて如何しようと云うのかね。殺しませんと云えばそれを全面的に信用するのか? そりゃ危険だと思うがな」
まあ。
これに関しては尤もな疑問かもしれない。
よく喋るこの口を黙らせる為にも――私の能力を喋ってしまうべきか。
その後、改めて質問すればいいのである。
乗っていないなら良し。
何も答えなかったとすれば――それは要するに、喋れば、都合が悪い事を私に知られてしまうと言っているようなものだ。
その場合は、乗っている場合と同じ対応をする。
――完璧ね。
小さく独りごちた後、私は女に言った。

「私は、他人の言葉の真偽が分かるの」
このくらいシンプルな方がいいだろう。
さあ――どう出る。
「はあ――」
心の底からうんざりしたような顔付きで女は深く溜息をついた。
言葉も無い、という感じである。
――想定の範囲内だ。
というか、この段階ですぐに納得してしまうような相手は、それはそれで大層不安だ。

私は、予め用意しておいた科白を言った。
「じゃあ――何か言ってみて。それが本当か嘘か、当ててあげるから」
「児童の遊びに付き合ってはいられない。これでいいだろうか」
女は辛辣な態度で言った。
ムカつくなあ、本当に。
「――今の言葉は、本当ね」
「だからそう云っているだろうに。嘘だと思われたくないから少少キツく云ってやったんだ。判ったのならさっさと解放してくれ」
「あー、いや、その。そうじゃなくって。もうちょっとこう、普通じゃ判らないような事をというか」
もう一度溜息をついてから、女は顔を上げた。
「ζ(s)の自明でない零点sは、全て実部が1/2の直線上に存在する」
「――は?」
「ζ(s)の自明でない零点sは、全て実部が1/2の直線上に存在する。さあ云ったぞ。是か非か、二択しかないんだからすぐに答えられるだろう」

意味が分からない。
だが――本当か嘘かは、解る。
私は、答えを口にした。
「ああそうなのか、そりゃあ凄い」
明らかに適当な調子である。

流されてはならない。
――ここで畳み掛けてやる。
「ほら、これで解ったでしょう? 私の能力は、本物」
「それだけ云われてもなあ。それじゃ証明になってないよ」
「あ?」
いかん、地が出そうになった。
「だから、今云った事の真偽は僕にも解らないんだから、その答えが真であると云う証明を君がしてくれなきゃ困る」
「んな――卑怯じゃない、そんなの」
「卑怯も何も、君が勝手に墓穴を掘っただけじゃないか。解らない物は解らないと云えばいいんだ。解らなくて当たり前なんだから」
「な、な――」
なんじゃあそりゃあ。

「今僕が云ったのは、リーマン予想という数学上の未解決問題の一つなんだな。
 数には素数と云って、一とその数自身でしか割り切れないものがある。この素数の出現パターンは不明だ。
 で、その素数の出現する個数が計算出来るんじゃないかと考えられている式がある。
 この式に重大な影響を与えるのがリーマン予想だ。詳しく説明する意味もないから要点だけ云うとだね、ゼータ関数の――」
そこで女は眉を吊り上げて如何にも困ったなと言う表情を作り、
「――まあ要するに、約百五十年間誰も解けていない問題なのだ。数学者でもない僕にとっては理解すら出来ない。
 当然君に解ける訳もない。違うと云うなら数式でも書いてくれ」
と言った。
お前は何を言っているんだと言ってやりたい気分である。

「で、君の証言からは信憑性が失われた訳だがね。まあ最初からそんなものは無いんだが。そろそろ銃を下ろしては貰えまいか」
「な、なんでそうなるのよ」
解らないかなあと女は言った。
解る訳がない。
「途中の計算式を書かずに答えだけ出したってテストの点は貰えないと云う事だ。仮令その答えが正しくても駄目だ」
「他人に証明出来なくたって――私には分かるもん」
「そりゃ一般的には直感とか山勘とか云うものだよ」
こいつ、ムカつく。
「そんなものを当てにしてどうするか。仮に僕が殺人なんか絶対にしないと云って、君がそれを本当だと判断したとしてもだね。
 君の判断が絶対に正しいとは限らないんだから、この問答は全くの無駄だよ。
 何時迄もこうして睨めっこをしている訳にもいかんだろう。いい加減腕が痛くなってくる」
「――駄目」

怪しい。
絶対に怪しい。
屁理屈を並べ立てて、なんか有耶無耶のままにホールドアップを解除させる気なのかもしれない。
「あなたも、最初に集められた時に色々変な事が起こったのを見たんでしょ? あんな魔法や超能力が実在するんだから、心が読めたっておかしくないじゃない」
「ん、君は読心術を使うのか? あれは表情やらを読む技術であって魔法でも超能力でもないんだが。それと他人の言葉の真偽が分かるというのは全く関係ないよ」
「あああああもおおおおお」
揚げ足取りもいい加減にしなさいよと私は怒鳴った。

「ともかく、私には、他人の言葉の真偽が分かる程度の能力があるの。これは確定事項なの」
「無理だよそりゃあ。他人の言葉の真偽が分かる、なんてのは絶対に不可能だ。というか、魔法も超能力も存在しないだろうに」
「実際目の前でビームみたいなの出してる奴がいたじゃない」
「それと『魔法も超能力も存在しない』は矛盾しないよ。そもそも絶対に実現不可能と云う訳でもないしな。君のは無理だが」
「そんなの――」
逆じゃないのか。
「それがそうでもないんだな。まあ何もないところからエネルギーを取り出すのは無理だ。エネルギー保存則に反するからね。
 しかし空気中の分子の熱運動エネルギーを少しずつ貰ってエネルギーを取り出す事ならばどうか。
 この場合はエントロピーの増大が問題になる。エントロピーは分かるかな」
「まあ」
アニメで聞いた事がある程度だし、理解できているかどうかは相当怪しいが。

「結構。これには一応抜け道がある。マクスウェルの悪魔のパラドックスとも関係する話だが――まあ物凄く簡単に云えばだね。
 この世界に関する情報をこの世界の外側と無償でやり取りする方法があれば、第二種永久機関を実現し、熱力学第二法則を覆すことが出来る。
 この世界の外側とは情報のやり取りだけをするので、この世界のエネルギー保存則は破られない。
 ただまあ、この世界ならぬ場所の無尽蔵の情報メモリーにアクセスするなんて事は人間には不可能だと僕は思うが」
「無理なんじゃない」
「だから、人間じゃないのさ。判り易く云うなら、神――かな」
「神ィ」
「判り易く云うなら、だよ。しかし神と云う言葉の定義も中中難しい所があるからなあ。
 日本の神観念とキリスト教の神観念じゃ全然違う。違うんだが、何故かごっちゃになってしまっているし、それを理解できる人は少ない。
 ゴッドを神と訳してしまったのがいかんのだろうな。初期の信者を中心に使われていた天主様と云う言葉を使っておけば良かったと思うんだが――。
 ううん。神じゃどうも好くないな。魔女――も駄目か。日本で魔女と云うと鬼女みたいな一般名詞的な使い方もするからなあ。ウィッチとは違う概念になっている」
「どうでもいいから」
つーか、散々理屈を並べておいて、神ってなあ何だ。
「今の話題とはあまり関係無いけれど、理神論的な神は決して物理法則と矛盾しないと思うがな。
 まあ喩えだ喩え。何でも良いよ。大体、魔法も超能力も定義が曖昧だ。取り敢えず、科学的に説明のつかない能力が魔法や超能力だとしよう。
 本当に科学的に説明のつかない能力が存在するのならば、それを説明する理論が時を待って完成するだろう。
 で――理論が完成すれば、それは科学的に説明のつく能力という事になる。
 つまり、科学的に説明のつかない能力が存在したとしても、それは魔法や超能力ではない。従って、魔法や超能力は存在しない。
 尤もこれ以外の定義を取れば話は変わる。しかしそんな定義が受け入れられるだろうか。ま、慥かに如何でもいいと云えば如何でもいい話ではあるが。
 ああ、一応念の為に云っておくが、先程の僕の説明を本気にするのは止め給えよ。単にごく僅かな可能性が存在すると云うだけの事だ」

どうでもいいのである。
つーか、長いよ。
「因みに――本当に無理矢理だが、あの場で起こった出来事を科学的に説明する事は出来ないでもない。聞きたいか」
「聞きたくない」
多分、聞いても絶対に理解できない。
そもそも、何を言いたいのかも分からない。
私に理解るのは、本当か嘘か、それだけである。
「僕が主張してる事はずっと同じだよ。その銃を下ろして欲しい」
「いや、だから」
だったら、ゲームに乗っているかと言う質問に答えればそれで済むのだ。

「残念ながらそれは駄目だな。君が妙な事を言い出すおかげで僕はこんな長話をしなきゃならんのだ」
「妙な事って――」
「君の云う、他人の言葉の真偽が分かる程度の能力の事だよ。苦呶いようだが、そんなものは無い。
 無いのだが、君はそれがあると固く信じているらしい。だから、それは違うという事を説明してあげているんじゃないか」
「んな事言われたって、あるものはあるから」
「だからその証明が出来ないと云っている。堂堂回りだなあ。せめて根拠の一つくらいは出せないのかね」
根拠――。
あるには、ある。
でもなんか、言ったら言ったで馬鹿にされそうで嫌な感じもするが。
しかし、話が一向に進まない事も確かである。
仕方があるまい。
私は、自分の能力について知る限りの事を女に語った。

女はまるで興味がないと言う様子を剥き出しにして、加えて面白く無さそうに話を聞いた後、なんだかなあ――と呟いた。
「君ね、そういう事は最初に云うものだよ。ただ他人の言葉の真偽が分かると云うだけじゃ言葉足らずだ。
 他人の思考を音声として認識して、その結果として嘘を云っていると判る――とするべきだろう」
言わなくたって判るだろう、普通そのくらい。
「判らないよ。あらゆる命題に対して必ず的中する答えを出す事はゲーデルの不完全性定理に矛盾するから絶対に実現不可能だ。
 他人の思考を知る事は、まあ、絶対に不可能とは云い切れないからな。全然違う」
「そうなの?」
基準が判らない。
「テレパシーやらの研究は一定の成果を上げていると云うしなあ。臓器移植の際に起こる記憶転移というのも聞いた事くらいはあるだろう。
 あると証明する事も出来ていないし僕自身も全く信じちゃいないしまず間違いなく不可能だろうが、完全に否定するだけの材料もない」
「はあ」
いちいちまわりくどい。
て言うか、その何とかの定理とやらを最初に言っとけば良かったと思うのだが。
そう言うと、ありゃ説明が難しいんだと真顔で女は言った。
今までのは簡単なのか、おい。

いやもうそれはいい。
「えーと――とりあえず、これで私の能力を信用するって事でいいのよね? だったら、改めて質問に答えてくれない」
「何故そうなるんだ?」
「は?」
いやほんとに、なんなのコイツ。

「君が本当に他人の思考を聴く事が出来るというのは、まあ取り敢えず真だと云う事で話を進めよう。
 でもね、そりゃ余計に良くない。君の判断が正しいとは限らないからだ」
「意味分かんない」
「君は飽く迄も意識的な思考を聴く事が出来るだけだろう。それで嘘か本当かを判断しているだけだ。
 現在の状態は、まあ無意識にプロセスを省略しているのだろうな。
 僕の言葉全てに反応している訳でもなし、ある程度意識する必要もあるらしい。これは予測だが、脳にかかる負担が――ああ話がズレた。
 だからまあ、判断しているのは君なんだ。君は単なる児童である訳だから、判らない事も沢山ある。
 事実、一度頓珍漢な答えを返してしまっているじゃないか。判断が付かない事を無理矢理判断してしまう能力なんて無い方がマシだよ」
「それは――あんな訳の判らない事言うからよ。もっと、日常的な事だったらあんな事にならないし。
 例えば、昨日の夕食とかなら大丈夫よ。言ってみてよ」

女は顰めっ面のまま口を開いた。
「昨日は剃刀を喰ったな」
「は?」
ふ――。
「ふざけないでよもう。真面目に答えて」
「真面目に云っている」
そんなのは決まっている。
これは――嘘だ。
「嘘ね。そう囁くのよ、私の能力が」
「残念乍ら本当だ。外れだな」
「はあ?」
コイツ、ムキになってないか?

女は哀れむような視線で私を見た。
「剃刀と云うのは鮎の事だよ。魚の鮎だ。知らないか?」
聞いたことがない。
いや、鮎は知っているが、剃刀なんて呼び方はしないだろう。
「するよ。主に僧侶の間で使われる、まあ隠語だな。『まんが日本昔ばなし』でも取り上げられた事があるメジャーな隠語なんだが」
知らなかったそんなの――。
って。
「や――やっぱりインチキじゃない」
「だから、そのインチキに引っ掛かる時点でその能力は信用出来ないんじゃないか。
 インチキでなくとも本人がそう思い込んでいるだけで実は違うだとか、間違いが発生する原因は多くあるだろうに」
それに、と女は付け加えた。
「僕はまあ、騙すつもりでやった訳だが、騙すつもりがなくったって君は判断に失敗するだろう。
 魚の鮎と剃刀はまるで別物、無関係だが、言葉の上では同じものになってしまう。かみそりの四文字の上で区別はない」

簡潔に言って欲しい。
「同じ言葉でも個人によって想像するものは違うと云う話だよ。そうだなあ。
 富士山は高いというのは、大抵の人間は肯定するだろう。しかし『富士山』は兎も角『高い』と云う言葉に明確な定義はないからな。
 八千米峰以上の高さでなければ高いとは認めないという人間だったら否定する。
 まあこれは極端な喩えだが、どうとでも取れる言葉、文章なんてのは幾らでもあるよ」
言いながら、女は両手を下ろして鞄を手に取った。
「あ、ちょっと」
「何もしないよ。この状況で反撃したって僕の方が早く撃たれてしまう」

腰を下ろした女は鞄の中から四角い紙を取り出し、広げてみせた。
絵――のようである。
大きなパイプが一杯に描かれている。
その下には、何やらアルファベットで書かれた文章がある。
他には――何も描かれていない。
実にシンプルな絵である。
「これはマグリットの『イメージの裏切り』だ」
勿論本物じゃないが、と女は付け加えた。
「で?」
だから何だと言う話である。

「何に見える」
「何って」
パイプである。
どこからどの角度でどう見てもパイプである。
「違うよ」
これはパイプではないのだと女は言った。
「じゃあなんなのよ」
「さあね。とにかく、パイプではない事は慥かだ。そう書いてあるんだから」
「書いてある?」
「書いてあるだろう。仏語だが」
そうなのか。
英語なら一般的な中学生程度には出来るが、他はさっぱりである。
――いや。
「いや、だから何なのよ」
「これはパイプではない。『これ』は何を指しているのかで意味が変わる。
 これはそう云う――こんな云い方は誤解を招きかねんのだが――まあ、そう云う絵なのだ」
さっぱりである。
「『これ』が上方に位置するパイプの図像を指示している場合、この文は『それはパイプという文字ではない』と解釈できる。
 下方に位置する文章を指示すると仮定した場合、この文は『下方の文章は、上方の絵と同じではない』と読むことができる。
 勿論解釈は他にも沢山ある。『これはパイプの絵であって、パイプそのものではない』とかな」
とりあえず、理解し難い事は理解出来る。

「芸術とか意味不明だし。こういうのって、なんか偉そうな学者みたいなのが決めるんじゃないの」
「作者の意図なんて、一体どうすれば判ると云うんだね」
「判らないの?」
「判らないからあれこれ詮索を重ねるんだよ。判るなら歴史の研究はもっと進んでいる。どんな解釈だって所詮は推測だ」
私には女の言っている事の方が判らなかった。

「でも――専門家は一般人よりは上手いんじゃないの、評価とか」
「そんな訳が無いだろう。そうだな――喩えば、君が小説を書いて、それを発表したと思え」
「何でよ」
「喩え話だと云っているだろうに。で、だ。君の書いた小説が、まあそれなりに売れたとする。
 それで、大層有名な書評家三人に取り上げられたとしよう。で、君の小説は三人全員に襤褸糞に書かれた。どう思う」
書いてないしなあ、小説。
「まあ――誰だって自分の作った物を貶されたなら、嫌じゃないの」
「正当な評価なら仕方ないだろう」
「でも悪く言われちゃ気になるでしょう」
「そんなもの気にする方がおかしいんだ。何せ反論の仕様がない。批評は皆正しいのだからね。
 テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、読んだ者の勝手なのであって、作者が口を出せる類のものじゃない。
 小説は読まれる為に書かれるものだし、読んだ者の解釈は凡て正解だ。小説の場合、誤読と云うものはない。
 作者の意図と違う読み方をされたなんて小説家が文句を云うのはお門違いも甚だしい事だよ」
だから正しいのだと女は念を押した。

「勿論――作者である君には君なりの制作意図があるのだろう。だが、書評家は君の事なんて知らないからな。
 親切に指導をしてやる義理など一切存在しない。だから君から見て的外れな意見であっても仕方がないのだ。
 君にそんなつもりは無くったって、その書評家が読者を馬鹿にした作品だと思えば、書評家の中ではそれは正しい」
「指摘されてるとこを直さなきゃいけないって事?」
どうしてそうなるんだと女は呆れたように言った。
「書評は総て正しい。正しいが――いちいち耳を傾けて考え込む程作者の役に立つような評は皆無だ。
 肯定的であろうが、否定的であろうが、だ。残念だがその程度だ。これは仕方のない事だよ。
 書評や感想と云うのは自分の為に書くものであって、作者の為に書く物じゃない。
 世の中には作者の為に書かれた書評など一つもない。悪罵痛罵であろうと、取り上げて貰っただけ有り難いと思えばいいのだ。
 読んで腹立って破いて捨てて踏んだなんて云われた日には小説家冥利に尽きる。たかだか文章でそこまで人を突き動かせた訳だから、凄い事だよ」

どうも納得がいかない。
「だったら君は書評を真に受けて作風を変えるのか? 作者の意図はこうですと云う注意書き付きの小説でも書くか?
 それとも貴方は間違っていると指摘し、理解力に乏しいと糾弾するか?」
「それは――そんな事出来ないでしょう」
「するべきではない、だ。君の小説を百人が読んでいるとすれば、百通りの感想がある。皆必ず異なった読み方をしている筈だからね。
 そうしてみると、その書評は百通りの内の三人に過ぎないんだぞ。たった三人、百分の三だ。
 まあ有り得ない事ではあるが――残りの九十七人は現状でいいと思っている可能性だって、全く無い訳じゃない。
 たった三人の云い分を聞き入れて作風を変容させてしまったら、残りの九十七人の立場が無いじゃないか。
 これを入れるなら、当然他の九十七人の意見も聴くべきだ」
「じゃあ、無視するべき?」
「無視しなくてもいいよ。ああ成程ねと思えばいいだけの事じゃないか」
「でも――書評家っていうのは、一般の読者よりも、その、何と言うか、具体的な」
「読書に上手も下手もないよ。感想の価値は皆等しく尊いものなのだ。
 書評家だから読むのが巧みだとか評論家だから読み方が間違っていないとか、そんな事は絶対にない。
 さっき云った通り作者の主張が伝わらないってのは当たり前の事だ。小説は幅があってなんぼの娯楽だよ。高が娯楽だ。
 作者本人がこの作品はこんなつもりで書きましたなんて云っても、それを証明する方法なんて無いからな。
 本人が云った事が何よりの証拠になると云うのなら、犯罪者が自分は犯罪を犯していないと云ったら警察は釈放しなきゃいけなくなるよ。
 もしも君が文章を読んで作者の主張が伝わってると思った事があるなら、そりゃ単なる思い込みだ。
 そもそも文字に具体的も抽象的もない。字なんだからね。読者が字の羅列から何を喚起するかだ。
 良い評論と云うのは面白い評論の事だ。仮令自作が貶されていたって、面白ければああ良く出来ている書評だなあと感心すれば良いのだ」
そういうものなのか。

――いや。
いやいやいやいやいや。

「ぜ――全ッ然関係無いじゃないのこの状況と。今の話、何の意味があったの」
関係はあるよと悪びれもせずに女は言った。
「君以外の人間にこんな事を云ったってそれこそ無意味じゃないか。世の中には絶対的な判断基準など存在しないと云う話をしているんだ。
 強いて云うならば科学がそうだが、それも世俗には無効だよ。俗説だ俗説、世の中は俗説で動いているのだ。
 地球が丸くなかった時代は天動説が正しかったのだ。事実と真実はまるで違うものだ」
「だったらもうちょっと短く言ってよ。わざとやってない?」
「勿論わざとやっている」
「ああ?」
あのなあ――女は居住まいを正した。

「僕は今、銃を向けられている訳だ。撃たれたら、まあ困る。
 君だって前途ある少女から前科ある少女に転身したくはないだろう。ここまでは判るな」
困るて。まあそうだろうが。
「で、僕がこの状況から脱する為の方法は色色あるが、まず手っ取り早いのは君を説得する事だ。
 その為には、最初の質問から察するに、この状況下で自分が殺人を犯すような人間ではないと証明すればいい。
 とは云ってもそんな事を証明する事なぞ不可能だから、要するに君にそう思い込ませればいい」
やな言い方だなあ。
「真実だもの。で――その為には、君の持っていると云う能力が問題になる。
 これは本当に心が読めるかどうかなど保証できない、寧ろ適当に答えを出している可能性が高い。
 そうじゃないのかもしれないが、僕にはそうとしか思えない。だから自分は殺人などしないなどと迂闊に云ってしまう事は極めて危険だ」
「何でよ」
「間違った判定を下されてしまう可能性があるからだ。こうなると、直接質問には答えず、君が僕を解放するように仕向けなきゃならん」
悪戯っぽい口調の割に女は深刻な目つきだった。

「僕は先程からずっと、自分がガチガチの合理主義者で現実主義者であり、尚且つ冷静さを保っているという事を過剰な迄にアピールしている訳だ。
 そんな人間が殺人などするかという事は少し考えりゃ判るだろうと、そう云いたいんだよ僕は。
 無論、それを装って君を騙そうとしている――という可能性も、僕自身否定する事は出来ない。
 だが、先も云ったように、そんな事は当たり前の事だ」
「ううん――」
「判り易く説明できるところをあえて迂遠な話をしたり、論点をすり替えたりしているのも当然意図的だ。
 君には指摘されなかったが、明らかにおかしな事や間違った事を云ったりもしている。勿論嘘も吐いている。
 考えられた嘘の場合は、嘘と云わず作戦と云う。加えてそれが何かの役に立ったのなら、嘘も方便と呼ばれる。
 僕は他人の心なんて読めないが、思考の方向性をある程度コントロールするくらいなら出来るからな。要は印象付けだ。
 そうは云ってもこれは天気予報みたいなものだから、不測の事態というか予測不能の反応と云うのは少なからずある。
 聞き手の中にどんな化学反応が起きるのかは千差万別で、語り手として完全に見切れるもんじゃない」
君はどうだと女は言った。

まあ――。
理屈は判らないでもない。
判らないでもないが。
それでも矢張り――私の拠り所は、自らの能力なのである。

「君も強情だなあ。止むを得ないか。これは反則に近いんだが――君の能力を無効化しない限りは話を進められないらしい」
「何を――」
「これから僕が一度だけ発言をする。それを判定するだけでいい。もしもこれが通じなければ、潔く質問に答えよう」
私が何か言う、その前に――女は口を開いた。

「この発言は嘘である」

そんなものは決まっている。
「それは、う――え?」
――おかしい。
絶対におかしい。
本当か、嘘か。
「え、あ――あ?」
判断が――できない。

この発言が本当だとすると、この発言は嘘だということになって。
この発言が嘘だとすると、この発言は本当だということになって、つまり、嘘だということに――。

「これを自己言及のパラドックスと云う。これの成り立ちは――と、おい」
女の声で、私は我に返った。
「な――なんなの、これ」
「何と言われても、ただの言葉だよ。君の処理能力が追いつかんだけだ」
女は頬を引き攣らせて、頭を掻いた。
「ま、これにも穴はあるんだが――君にはこれで十分らしい。さて」
これから僕はもう一度発言してみようと思うと、何処か加虐的にも見える顔で女は云った。

「僕は嘘しか云わない」

「それは――」
何が本当で。
何が嘘なのか。
「さあ如何する。君はこの状態で真偽を正しく判断出来るか?」

私は――。

       ●

それで結局――と、ベッドに腰掛けた女は首を鳴らしながら、私に問うた。
「一体全体、君は何がしたいんだね」
「いや、だから――」

結局――私は折れた。
まあ実際こんなのは事故みたいなものであって、こんな、けったいな奴に対してムキになることはないのである。
いや、真面目な話。
決められないのなら決められないで別に構わないのであって、他の相手を探せばいいだけなのだ。
それで。
取り敢えず銃は突きつけたまま、一先ず近くの病室に入って休む事にした。
地下まで作られているだけあって、この病院は、大きく、広い。
霊安室にいたであろう奴も、そうそう都合良くここに来たりはしないだろう。多分。
で――。

「私は――こんな能力を持ってたって、か弱い女の子な訳だから。誰かに守って貰おうと思って」
「だったら他を当たってくれ。こんな状況下じゃ、僕は他人と一緒にはいられんからな」
言われなくたってそうする。
つーか、なんか微妙に死にそうな発言だったぞ、今の。
「まあ一応聞いておくけど――あなたがゲームに乗っていないとして、の話だけど――あなたは、これからどうするの?」
「それを君に云う必要があるのか?」
いやまあ、無いのだが。
ほんっとにとことん感じ悪いなあ、こいつ。

「で、もう一度聞くがね。君は何がしたいんだ。誰かに守って貰って、それでどうする」
「それは――」
正直――考えていない。
死にたくないのは確かだし、出来ることなら殺したくもないが、具体的な展望は、無いのだ。
「いや、その、だから――あなたを参考にしときたいの」
私は誤魔化した。
ふうん、と女は如何にも興味なさそうな相槌を打った。
「僕はまあ、何もしない」
「え?」
「何もしない。殺しはしないのは当然として、別段する事もないからな。何もしない、というか、出来ない。
 こんな事件は探偵の出る幕じゃない。だからここに引き籠もらせて貰う。襲って来るような輩がいたら逃げるしかないな。
 君みたいに一応は話が通じる相手ばかりでもないようだし、引き篭もっていれば安全とも云えないが――。
 そんな事は外に出たって変わらんからな。ま、なるべく早くに事態が解決する事を祈るしかないよ」
「い、いや、あなたねえ」
いくら何でも楽観的じゃないのかそれは。
つーか、本格的に死にそうな発言というか旗というか。
それと、なんかさらっと流されたが。

「あなた――探偵なの?」
だったら訳の判らない事を色々知ってそうなのも、少しは納得がいきそうな――。
「漫画の読み過ぎだよ、君。探偵という職業の仕事は調査をする事であって、事件を解決する事じゃないからな。
 僕はまあ、偶発的に事件に関わってしまう事は何度かあったが、そりゃ僕の運が悪いだけだ。
 表彰状なぞ貰っても迷惑だ。記者にも追われる始末だし、おかげで仕事が遣り辛くなってしまった」
「表彰されてるんじゃない」
「その辺の子供だって捜査協力すれば表彰くらいされるよ。そもそも警察は決して探偵を頼ったりしない。
 探偵だろうが何だろうが、民間人に捜査をさせたなんて事が露見したら大問題になるぞ」
なんだかなあ――。

「いや、まあいいけど――何もしないってのはどうなの?」
「何をどうしろと云うんだね」
「それは、脱出の手段を捜すとか」
「まあ船なり飛行機なりはあるかもしれんが、僕は免許を持っていないからなあ。沈めるのがオチだ」
どうしてこう変な所で現実的なのか。
いや、現実なんだけども。

「これは要するに現在進行形の大量誘拐事件であって、僕らはその被害者な訳だからな。
 下手に動いたって状況を悪化させるだけだ。一日二日じゃ無理だろうが、助けは来るよ。それまでじっと待つしかない」
「助け――」
全く想像していなかった。
「そんなの――無理じゃないの。ここが何処かだって判らないのに」
「少なくとも地球上ではある事は疑いない。気候も変わっていないから日本国内、でなくともそう遠くない筈だな」
「異世界――とか、そういうのだったらどうするの」
「超弦理論や膜宇宙理論があるから並行宇宙の存在自体は単純に否定できる物じゃないが、そう簡単に行ったり来たりは出来ないだろう。
 異世界が存在するとしたって、現実世界同様の物理法則は成り立たないと僕は思うがな」
「ちょっとくらいなら変わったっていいんじゃないの、法則」
「馬鹿云っちゃいけない。仮に運動の第三法則が成立しない世界があったとしたら、人は歩けない。建物は崩れる。
 あらゆる物体が形を保つことができない。まず人類が生まれない。それ以前に地球が形成されない。
 僕らが生きている世界の法則が通用しないってのはそういう事だよ」
こういう事を言われてしまうと反論のしようがない。
する必要もないし、それを見越して言っているのだろうとは思うけども。
思うけども、なんか腹立つのである。

「科学自体が正しいって保証はないじゃない」
「いいや、科学は信用できる。論理的整合性があるからこそ、間違っていないからこそ、科学なのだ。
 科学的疑問を持つ事は大いに結構だが、科学的思考自体に不信を抱くと云うのは基礎的な教育がなってないとしか云いようがない。
 疑うべきは科学を用いる人間の側の方だ。例えば、あらゆる物事は科学で説明できる、等と云う人間は信用出来ない。
 説明できない事は数え切れない程あるのだからね。非科学的な発言を科学的に見せかけるペテン師は多いものだ。
 科学は判らない事は判らないままにしておく。仮説は立てられても、完全に証明出来なければ意味は無い。だからこそ科学は信用できる。
 ただ――それでも感情は時に論理に勝るからなあ。執拗いようだが、正しいからといってそれが常に通るとは限らんのだ」
まあ――そうなんだろう。
こいつが、一般人にはついていけないような理屈屋である事は諒解出来たが。

「そんな理屈捏ねられるんだから、脱出手段とかあのテロリストをどうにかする手段とか、思い付かないの?」
「無いことは無いが、上手くいく保証はない。それで事態を悪くするのは御免だな」
「私でなくったって、もっと頼りになるような、積極的にこのゲームを止めようとしてる他の人と協力するとか――いるのか判らないけど」
「嫌だ」
女は片方の眉を吊り上げた。
「出来ない、ではなくて、嫌だ。そんな連中に協力したって状況は絶対に改善しない」
い――。
いくら何でも、それはどうなのか。

「一体何をどうすれば殺し合いを止めさせられると云うんだ? 殺人をしようとしている者を見つけたら説得でもするのか?
 話が通じなかったら力尽くで止めるか? 上手くいくならそれでいいかもしれないが、死人を出す事になったら結局何も変わらないよ。
 いや、その手の連中は自分が正しいと盲信している事が多いからな。尚更悪い」
「それは――その、もっと根本的なルールから変えるとか――そう」
私には切り札がある。
「あの、ワイルドオーダーだかワールドオーダーだか知らないけど、あいつが言ってた事には嘘があるから」
「だから?」
だから――って。
「考えても見給えよ。いいか、仮に――何もかもが嘘だとしよう。あの男が何らかの力を用いている事も、首輪が爆発するというのも、総て嘘だとしよう。
 それでも、突然拉致されて孤島にいるという現在の状況は何も変わらないんだぞ。首輪が爆発しないからって、泳いで内地に渡れるか?
 具体的な脱出手段を提示できるならまだしも、その程度の、本当だろうが嘘だろうが大して変わらないような情報を有難がる人間は少ないと思うよ」
そもそも――女は続けた。
「あの男自体、本物だと断定する事は不可能じゃないか。用意された台本を読んでいるだけだとしたら本当も嘘もない。
 入って、と云われてすぐに現れて、訳の判らない芝居を始めるような協力者がいるんだから、あの男も協力者だとしても怪訝しくはない」
「し、芝居?」
「芝居じゃないか。芝居じゃないのかもしれないが、初対面の人間が初対面の人間の物真似をする所を見せられたって怖くもないし怒りも沸かない。
 笑う事すら出来ない。僕の友人や家族を連れてきてあんな事をするのなら兎も角――いや、特定の人間を挑発している可能性も無いことは無いのか――」
女は何やらぶつぶつと呟き始めた後、急に顔を上げた。

「何にせよ――殺し合いを止めようとしてる人間がいるのなら、まあ本人も必死なんだろうから止めはしない。
 だが、協力は絶対にしない。そいつが殺人を犯しでもして、相手も殺人者だから仕方なかっただとか云い訳をしようものなら」
僕はどうしてしまうのか判らんからなと、今迄で一番兇悪な面相で女はぼそりと呟いた。
ちょっぴり――怖かった。

「でも、だったら――どうしろって言うのよ」
「何もしないのが最良の選択だ。僕が云えるのはそれだけだな」
「そんなの――」
嫌だ。
何だか判らないけど、それは絶対に嫌だ。
「もういい。あなたの事なんて忘れちゃう。もっと頼りになりそうな人、捜すから」
「例の能力を使ってか? 止したがいい。大体、自分の考えている事なんて、自分でも能く判らないものだよ。
 それに、思い通りに身体が動かない事なんてざらにある。煙草も酒も、辞めようと思って辞められるなら依存症なんてすぐに治る」
だから僕は――と、女は何事か言おうとした後、一度口を閉じ、またすぐに開いた。

「一番の問題はね――」
女は顔を曇らせた――ように、見えた。
「殺そうだなんて思わなくったって、人は人を殺せてしまうものなんだ。逆に、殺したい程憎い相手なんてのは、大抵は殺せない。
 動機くらい誰にだってある。いや、実行しないし口に出さないだけで、殺人計画なんて皆立てている。
 殺そうとは思わなくても、殴ってやりたいくらいの事なら君だって一度も考えた事がないとは云えんだろう。
 考えただけで罰せられるなら、殆どの人間は罪人になってしまうよ」
「何が――言いたいのよ」
「却説、それこそ僕にも判らない事だ。あえて理由付けをするなら、昔を思い出した――のかもしれん」
「ムカシ?」

「昔だ。僕にも君のように、何でもかんでも物事をハッキリ二つに分けようとしている時期があったからな。
 君はまあ、子供の頃を思い返すと恥ずかしい、程度で済むようなものだが、僕はもっと酷い病気に罹っていた。いや、今も――だな」
女の言う事は、嘘か本当か――。
何故か、判断する気になれなかった。
「駄目なもの、良くないもの、劣ったもの、危険なもの、好ましくないもの、悪影響があるもの、まあそう云ういかんものは沢山ある。
 それはまあ、なくせりゃ楽だよ。それが理想だ。そんなものはなくしたほうが良いに決まっている。
 だが、世の中はそういうもの込みで回っているのが現状だ。だから一斉になくしてしまえば不具合が出る。
 立場が変われば評価も変わる。なくなったら困る者からは反対意見だって出る。
 利権を貪っているような輩に限った事ではなく、いかんものに頼らざるを得ない弱者である場合も多くある。
 それは切り捨てにくい。下手を打てばよりいかん事になってしまう。ドラスティックに変えてしまおうという意見は、正論ではあるが無謀なんだな。
 そもそも簡単に代用案が見つかるのなら、いかんものと知りながら温存などしてないんだが。
 だからと云って――理想を持つのは駄目だ、などと云う者は馬鹿だ。理想を掲げるのはしなきゃいけない事だよ。
 ただ、中中理想の形に近づかないからといって現実を全否定するような奴は矢張り馬鹿の仲間だ。
 馬鹿の内はまだいいが、酷いものになると理想の為に人命を疎かにするようになるからな。そうなると」
馬鹿ですらなくなると吐き捨てるように女は言った。

「それを自覚した後も、自身の抱えた矛盾をどうにか解決しようとしていた時期もあったがね。
 宗教も科学も、学べば学ぶ程、自分は如何しようもない存在だとしか思えなくなってくる。
 そもそも人間と云う存在そのものが、生物として何処か間違っているのではないか――等と考えた事すらある」
猿の話を知っているかい、と唐突に女は言った。
「年老いた子連れの母猿が嵐に見舞われて、濁流に呑まれたとしよう。
 その猿は泳げない程の幼い子猿と、もう泳げる子猿とを連れていた。流れは速く、大人の猿でも命が危ない。
 助けられる子猿は一匹だけという状況だ。両方助けたら親も死んでしまう。
 そんな時――母猿は迷わず大きい方を助けるんだよ。種を保存する上で一番適切なのは大きい方の子猿なんだ。
 生物の母性とはそういうものだ。そもそも人間で云うところの愛情なんて、猿は持ちあわせていない。
 だが人間は違ってしまった。種を保存する事が唯一無二の目的ではなくなってしまったんだ。
 それを文化と呼ぶか、知性と呼ぶか、人間性と呼ぶか、それは勝手だが――ともかく、人間はもう一つの価値観を生み出してしまった。
 生物としての価値観と人間としての価値観が同じ方向を向いている内はいいが、逆の方向を向いた時、我我は戸惑ってしまう。
 少なくとも、愛だとか道徳だとか、そんな物はただの幻想だよ」
だがね。
「人を殺しちゃいけないなんてのは、当たり前の事なのだ。殺人という行為はどんな価値観や理屈を持ちだそうが絶対に肯定できないし、してはいけない。
 死んでも悲しむ人間はいない、悔しがる人間も怒る人間もいない、寧ろ生きていると多くの人間が苦しむような人間だって、殺していい訳がない。
 殺人の否定に、理由は不要だ」
それは――。
能力を使わなくったって理解る、本当の事である。

「ま――済んだ事を反省するなら兎も角、悔やんだって仕様がない事は慥かだ。
 何をやったって過去は変えられんからな。極力過ちを繰り返さんようにするしかないのだ。
 だからこそ――殺人が容易に発生し得る状況を作り出す、この殺し合いは許されんのだがな。
 だからまあ、僕はなるべくならこんな所で死にたくはない。死ぬならきちんとした手続きを経た上で、責任を取って死にたいからな」
で――。
「何もしないんだ」
「何もしない。何度でも云わせて貰うが、これが最良の選択だ。
 不意討ちされるとかこの病院ごと崩落するとか、僕が死ぬヴィジョンなんて無数に思い浮かぶ訳だが、それでも妙な行動をするよかマシだ。
 出来る事は何もない。仮にあの男を殺して脱出する事に成功したとしても、それは何の解決にもなっていない。
 一つだけ云えることは、我我は自らを律するルールの中で不条理に立ち向かっていくしかないと云うことだ。
 何もせず時を待つ事が、僕に出来る細やかにして最大の反抗だ」

そうなのだろう。
でも。
嘘とか、本当とか、そんなんじゃなくて。
私は――違うと思う。
やっぱり、具体的な展望は思い浮かばないけど、違うと思う。

「じゃ――私、行くから」
それだけ言って、私はドアに手をかけた。
「止めはしない。だが、忠告しておくぞ。僕にやった事を続けるようなら――」
顔の見えない女の声。

「――死ぬよ」

直ぐにドアを閉めて全力で病院の外に駆け出した後。
どうしたらいいのかなあ――と、私は大きく溜息を付いた。


【C-5 病院付近/深夜】
初山実花子
状態:健康
装備:スパス12(22/22)
道具:基本支給品一式、ランダムアイテム1~2
[思考・状況]
基本思考:生き残る。
1:不明

【C-5 病院/深夜】
ピーリィ・ポール
状態:健康
装備:無し
道具:基本支給品一式、『イメージの裏切り』、ランダムアイテム0~2
[思考・状況]
基本思考:殺し合いに一切関わらない
1:病院に籠る

【『イメージの裏切り』】
ベルギー出身のシュールレアリスムの画家、ルネ・マグリットの作品のカラーコピー印刷物。
パイプの絵の下に「これはパイプではない」という言葉が書かれている、自己言及の矛盾を題材とした作品。

033.笑う悪党 投下順で読む 035.俺、美少女になります!
時系列順で読む 049.昏睡放置!空気と化した最強
『嘘喰い』 初山実花子 Yes-No
GAME START ピーリィ・ポール 罪と罰

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最終更新:2015年07月12日 02:30