白く輝く太陽が蒼空の頂点にまで達しようとしていた。
青々とした草原は波のようにざわめき、木々の間を風が抜ける。
そんな自然の領地を踏み鳴らし、三人の少年少女は北の市街地を目指し進んでいた。

持ち前の広い視野で前方を警戒しながら先頭を行くのは夏目若菜である。
適度に後ろを気に掛けつつ、頭の中には完璧にに叩き込んだ地図を思い返しながら道筋のない草原を迷うことなく進んでゆく。
その後ろでは、憮然とした表情をしている背の高い少年斎藤輝幸と、明るく笑う整った顔立ちをした髪の短い少女一二三九十九が話をしながら付いてきていた。

「へー。輝幸くんは文芸部なんだね。私は家業の手伝いが忙しくて部活とか入ったことないから憧れるなぁ。部活動楽しい?」
「それなりに…………です」

あまり積極的に自分の事を話そうとはしない輝幸を気にかけてか、九十九は積極的に声をかけていた。
先ほどまで悲報に気を落としていた少女であったが、他人の世話を焼いている方が性に合っているのだろう、沈んだ様子は立ち消え、少なくとも表面上はいつも通りに振る舞っている。
もっとも世話を焼かれている方からすれば、世話というよりお節介にしかなっていないようで、話していると言うより少女が一方的に捲し立て少年は辟易しているようにしか見えない状況ではあるのだが。
輝幸も輝幸で問えば律儀に答えるので話は続き、何とも相性が悪い。

そんな調子で、行動を共にすることになった三人は、急ぐでもなく安全を重視し適度に休息と食事を取りながら進んでいた。
気を急かしていた九十九も、年下という庇護すべき存在が加わった事により無理に急ぐような言動は控えるようになった。
それだけでも九十九の動きに頭を痛めていた若菜にとっては収穫である。

二人は輝幸から拳正について問いただしたが、その話題に関してはどうに歯切れが悪く、この場に来た直後に拳正と出会って少しだけ行動を共にしたが結局別れたという以上の事は聞き出せなかった。
別れた後、拳正は北方に向かうと言っていたという事だけは教えてくれたものの、拳正との合流という方針にも輝幸は難色を示していた。
その反応は、どうにも拳正自体に思うところがあるというか、苦手意識を持っているような反応である。

これから合流を目指している立場からすれば、その不協和音は気にかかるところではあるのだが、不承不承ながら付いてきている辺り何とも微妙な問題なのだろう。
その辺の事情は深く踏み込まないがお互いのためだろう、と、若菜はその程度の気遣いのできる男ではあったのだが。
残念ながらもう一人の少女はそう言う配慮などからは縁遠い、明け透けな女だった。

「ねえ輝幸くん。拳正となんかあったみたいだけど、あいつが何かしちゃった? 喧嘩したんなら謝らせるからさ、許してあげてよ、ね?」
「……違う。そう言う訳じゃ、」

否定しようとして輝幸が口ごもる。
出会いはそうだったかもしれないけれど、別れの前に喧嘩したとか諍いがあった訳ではない。
何があった訳でもないのにあの男と別れたのは、ただ、

「ただ……ついていけなくなっただけだ」

躊躇いがちに口にしてみて、その表現は酷く適した表現のように思えた。
あの男の進もうとしている先に、きっと輝幸はついていけない。
多分、見ている場所も、住んでいる世界も、目指す先も違う。

「うんうん。わかるよ。あいつデリカシーってもんがないからさ、ついてけないよねー」

などと、見当はずれな相槌を打っている九十九に、若菜は心中でお前がいうなと突っ込みを入れた。
どうもずれてる拳正や九十九にはその感覚は分らないだろうが、若菜にはその気持ちは分からないでもない。

人にはそれぞれ生きる領域(フィールド)がある。
生まれや素行。受験や審査。学力、財力、体力。
様々な要素で振い落された末に、人は行き付き生きる世界を決める。
自らと関わる人間は同じ世界が主となり、自然と近しい次元の人間となって、遠い人間と付きあう機会は少なくなる。

だから、違う世界に生きる人間は異物なのだ。
それは余程鈍感でもない限り誰もが感じる感覚だ。

そして”行き着いた”人間の価値観は他の人間を置き去りにする。
頂点は孤独だと言うがその通りだ。
その領域に辿り着ける人間は限られ、限られた人間が交わることは非常に稀である。
一ジャンルを極めた若菜だって、他の分野のスペシャリストには圧倒されることも少なくない。

そういう意味では若菜の様なスポーツ分野は恵まれているのかもしれない。
強い奴は上に行き、トレセンなどの上の領域に組み込まれてゆく。
上に行った更にその上があり、その先にナショナルチームやビッグクラブが待ち構えており、受け皿は用意されている。
何より、彼の通う学園がそういう連中を集めた特殊学級だ。
他の世界に触れる機会も少なくない。

だが、その中でも拳正の領域は少し特殊だ。
あれに付いて行ける人間はそれこそ限られる。
輝幸の様な普通の感性ではついていけないのは当然と言えるだろう。

だから、そう気にするような事ではないと、そう言葉にすべきかと思案した若菜が少しだけ足を止め。
後方にいる二人を振り返ったところで。

彼の目の前に、朱い飛沫が舞った。

同時に、九十九の体が弾かれたように投げ出された。
地面に倒れ込もうとしていたその小さな体を若菜が咄嗟に抱き留めるが、受けとめた手の内にヌルリとした生暖かい感触が返ってくる。
見れば九十九の腕の辺りが赤く染まり、止めどなく赤い雫が地面に溢れていた。

突然の事態に驚きながらも、輝幸は銃声の先へ振り向き、そこに襲撃者の姿を見る。
そして、それが拳正と変身した自分が二人がかりでも倒せなかった男であることに気付き、彼は固まったように動きを止めた。

襲撃者の名はサイパス・キルラ
冷徹にして冷血なる殺し屋である。

だが、首尾よく九十九を撃ち抜いたはずのサイパスであったが、その成果が物足りなかったのか苛立つように舌を打った。
本来なら頭を撃ち抜き、そのまま連続して3人とも仕留めるはずだったのだ。
それが外れた。

この距離でサイパスが狙いを外すことなどまずあり得ない。
何か原因があるとするならば、サイパス本人ではなく別の要素だろう。
サイパスは自身の握る銃を見る。
その銃は、ゴールデン・ジョイより受けた太陽熱の影響だろうか、銃身がほんの僅かに歪んでいた。

この銃身の歪みにどんな影響があるかわからない。
暴発の危険性がある以上、整備が終わり安全が確認できるまで使用は控えるべきだろう。

唯一の武器の不調に苛立つサイパス。
九十九は撃たれた痛みを堪えるように歯を食いしばり、輝幸は戸惑い動けずにいた。
そんな状況の中で、一番冷静だったのは意外にも夏目若菜だった。

若菜は九十九の体を片腕で支えながら腰元の銃を抜き、襲撃してきたサイパスに向けて撃ち返す。
その銃撃を受けたサイパスは素早い動きで飛び退くと物陰に身を隠した。

「ボッとしてんな輝幸!」

怒鳴りのような声に固まっていた輝幸の体が反応する。
サイパスが身を引いた隙に、九十九の体を抱え上げ若菜が走り出す。
輝幸もその後を追い、近くにあった大木の陰に身を潜めた。
若菜は九十九を地面におろすと、すぐさま身を翻し、敵を近づかせないよう牽制の弾丸を放つ。

「輝幸、一二三の傷を見てくれ」
「傷を見ろ……たって」

若菜は大木の脇から視線だけを走らせ、サイパスの動きを警戒しながら輝幸に告げる。
だが、そんな事を言われても輝幸は戸惑うばかりだ。
傷の治療などという専門的な知識は持っておらず、黒魔術や小説で得た知識などこの場では何の役にも立たない。

「いいから、傷を見た感じだけでも俺に伝えてくれ」

自分ではどうしようもないと項垂れ動けずにいる輝幸に、銃撃を放ちながら若菜が具体的な道を示す。
その言葉に輝幸は唾を飲むと、地面に倒れこむ九十九に向かってしゃがみこんだ。

「…………ッぁ…………ハァ……」

端正のとれ花の様に愛らしかった顔が苦しげに歪んでた。
その痛々しい様子に輝幸も釣られて表情を歪める。
意識はあるようだが、息を荒く顔色は青ざめており、手足はぐったりとして力がない。
輝幸は意を決して血に染まりへばりついた服を肩口からサバイバルナイフで引き裂くと、袖を引き剥がし傷口を確認する。

「二の腕辺りを撃ち抜かれてる、貫通してるみたいだから多分弾は残ってないと思う。ただ、血が止まらない!」
「…………二の腕か」

あくまでも視線はサイパスの方からそらさずに若菜が呟く。
流石の若菜も銃で撃たれた傷の治療法など知らないが、スポーツマンとして骨折や怪我の対処くらいは一通り知識がある。
二の腕には太い動脈が流れている、もしそれが切れたのならば相当マズイ状況だが、最初に抱えた感覚から言えばそれにしては流血量がまだ少ないように思える。希望的観測かもしれないが。
どちらにせよ、まずは止血はしなければならないだろう。

「まずその辺の枝と一緒に腕の根元をきつく縛れ、それから枝を捻って固定しろ」

木の影だけあって手ごろな枝はすぐに見つかった。
それを拾い上げると輝幸は言われた通りに、切り取った制服の袖を使って九十九の腕の根元を締め上げる。
大柄な体躯に見合わず手先は器用な方である。焦りながらもつつがなく手を運び、何とか止血を完了させた。

「終わった…………!」
「止血が済んだら傷口を水で洗って、ガーゼか何かで傷口を強めに押さえてくれ」

輝幸は指示に頷き、荷物から飲料水を取り出すと傷口に水を掛ける。
それが傷に響いたのか、九十九が細い喘ぎのような声を上げ、痛みに耐えるようにギリと歯を食いしばった。
その様子に輝幸は何故か申し訳ないような気持になりながらも、何時も持ち歩いているハンカチをポケットから取り出して傷口を押さえつける。
薄い空色をしたハンカチがジワリと赤く染まってゆく。

「できた。次は……!?」
「よし、それじゃ俺はあのオッサン足止めするから、輝幸。お前一二三抱えてここから離れろ」

また一発、銃声を響かせながら若菜が言う。
二人をを逃すため、ここに一人で残ると言っていた。

「…………ちょっと」

そんな若菜の言葉に抗議する様に、これまでぐったりと口を閉ざしていた九十九が口を開いた。
どれだけ肉体が傷つこうともその意思は金剛石の如く揺るがない。
余程痛みが堪えるのか、辛そうに顔を歪めながらも、その瞳にはそんな事は許さないと言う強い意志の光が込められていた。
襲撃者の動きに目を見張らせる若菜にはその目を見返す余裕などなかったが、その気配だけは伝わっていた。

「私は…………大丈夫だから」

九十九は自身の平気を示すように、倒れていた身を起こし気丈に訴えかける。
だが、元から白い肌はさらに青白く血の気が引いており、どう見ても強がりにしか見えない。

「輝幸、とりあえず邪魔になるから俺の荷物は頼むわ。
 ここから離れたら温泉旅館へ向かってくれ、あいつ振り切ったら俺も向かうからそこで合流しよう。
 けど温泉旅館がなんかあってヤバそうなら無理に近づかず次候補の探偵事務所に向かってくれ」

だが、若菜はそんな声にはまったく取り合わず、輝幸へ向けて話を進める。
あくまで無視するそんな態度に九十九が声を荒げた。

「だから……大丈夫だって…………ッ!」
「俺は、お前の大丈夫を信用してねぇんだよ」

打ち切る様に、ぴしゃりと言い放つ。
少年はやはり他人を信じない。

「どっちにせよこのままじゃ全員逃げらんねえよ。んで、この状況で一人でも残っても生き残れるのは俺だろ。
 お前らじゃ逃げらんなくても、俺ならあんなオヤジ振り切って終いだぜ」

自分が一番生き乗る確率が高いというその言葉を、輝幸は内心で否定する。
恐らく生存率が一番高いのは輝幸だろう。
悪魔(オセ)の力を使えば表皮は下手な弾丸を通さず、人知を超えた力があれば離脱することも簡単だ。

だけど、輝幸はこの状況で自分が残るとは言えなかった。
一度交戦したからこそあの男に手も足も出ず転がされた記憶が蘇えり、その言葉がどうしても出ない。
仕方のない事だと思いながらも、何となくバツの悪さを感じて、輝幸は俯き視線を逸らす。

「それでも…………ッ!」

だが、もう一人は違う。理屈で納得する彼女でもない。
九十九は苦しげに息を吐きながら、それでも言葉を続けようとした。
その言葉を遮るように、若菜は口を開く。
他人を信じず生き残ろうとした彼は、他人を信じる彼女に向けて告げる。

「心配すんなよ。俺を誰だと思ってるんだ、世界の夏目若菜だぜ?
 俺は俺を信じてる。だからお前も信じろって、この俺を」

そう冗談めかした声で言って、少年は笑った。
輝幸が顔を上げ、その横顔を見る。
何とかなるんじゃないかと、根拠もなくそう思えてしまうような笑みだった。
何故、この状況でそのような爽やかな笑みを浮かべられるのか。輝幸にはそれが不思議でならなかった。

そうどこか某と見つめていたその視線に、若菜の視線が絡んだ。
ここまで集中力を切らさず最大限に警戒して凝視していた相手から、若菜が初めて視線を切ったのだ。

それは時間にすれば僅かに数秒。
されど、その数秒がどれほどのリスクかを理解したうえで、それでも夏目若菜は斎藤輝幸へと目を向けていた。
その瞳の色に飲まれそうになり、思わず輝幸は息を呑んだ。

「――――任せたぞ」

送られた言葉はその一言。
その一言に何かを托されたのだと、輝幸の胸に拳を打ち付けられたような衝撃が走った。

輝幸は弾かれたように動き出すと、九十九を抱え上げ別れの挨拶もないまま残る少年に背を向け走りだす。
腕に納まる体は小さく、想像以上に軽かった。
抱えられた九十九は力が入らないのか、ろくに抵抗もできず成すがままにされながらも、最期まで若菜の方に血に塗れた手を伸ばしていた。

【E-4 草原/昼】
【一二三九十九】
【状態】:左の二の腕に銃傷(止血済み)
【装備】:日本刀(無銘)
【道具】:基本支給品一式、クリスの日記
[思考・状況]
基本思考:クラスメイトとの合流
1:若菜が心配
2:クリスに会ったら日記の持ち主か確認する。本人だったら日記を返す

【斎藤輝幸】
状態:健康、微傷
装備:なし
道具:基本支給品一式×2、サバイバルナイフ、ランダムアイテム1~5(確認済み)
[思考・状況]
[基本]死にたくない
1:九十九を抱え温泉旅館を目指す、危険な場合は探偵事務所に目的地を変更する
※名簿の生き残っている拳正の知り合いの名に○がついています


サイパスの前方に構える木影から、手負いの少女を抱えた少年が飛び出していった。
同時にこちらに向けて弾丸が数発打ち込まれる。
サイパスは慌てるでもなく物陰に身を隠してそれを躱した。

どうやら二手に分かれたようである。
一人が足止めに残り、手負いを逃すつもりのようだ。
足手まといを抱えた相手など格好の獲物だが、生憎とサイパスにそれを追う手立てはない。
銃撃しようにも銃身が歪んでいるし、下手に動こうとすれば銃弾が飛んでくる始末である。

足止めに残った男は銃の扱いに慣れていないようだが、立ち回り方にはセンスを感じる。
射線はしっかりとしており、それを支える筋肉にもブレがない。何よりこちらの動きに対応して牽制する反応は的確だ。
才能はある。恐らく半年も仕込めばそれなりに使い物にはなるだろう。

だが、現時点では筋のいい素人に過ぎない。
付け入る隙は幾らでもあった。

相手は木の影からこちらの動きに合わせて牽制する様に銃撃をしてくるが、その技量は世辞にも巧いとは言い難い。
勇敢ではあるが、サイパスから見れば撃つ時に身を乗り出し過ぎである。
仮に銃が万全であれば、とっくにその脳天を撃ち抜いているだろう。

相手の持っている銃をはベレッタM92FS。弾数は最大でも15+1。
残弾を撃ちつくさせるべく、サイパスは先ほどから適度に誘いの動きを見せ、相手に銃弾を消費させていた。
いかに筋はよくともリロードの手際は経験がなければどうしようもない。じき弾切れである。

その隙をつくように、撃ち出された弾数をカウントしていたサイパスがタイミングを見て飛び出した。
リロードに手間取っている間に、距離など一瞬で詰められる。
近づきさえすれば、それこそどうとでもなるだろう。

だが、そのサイパスの思惑は外れる事となる。
その場にリロードをしているはずの敵はおらず。
最期の弾を撃ち終わると同時に少年はサイパスに背を向け駆け出していた。
サイパスの動きを読んでと言うより、自身の弱点を理解し最初からそうするつもりだったのだろう。

サイパスもすぐさま走る軌道を変えその背を追う。
スタートはほぼ同時。距離を詰められるかは純粋な駆け足勝負となった。

先行する夏目若菜は木々の疎らに生えた森林地帯を抜け、なだらかな緑の広がる草原へとその足を運んだ。
多角的な動きを得意とする殺し屋に対して、遮蔽物のないフィールドはアスリートの領域である。
そこを選んだのは純粋な徒競走では負けるはずがないという自信の表れだろうか。

若菜の駆け足は見惚れるほどにしなやかだった。
スプリンターの様に前がかった体制ではなく、上体を開き視野を広く保った体勢で緑のフィールドを駆け抜ける。
それは人類がここまで積み重ねてきた、走る技術の集大成。どんなものであれ完成された技術は見る者に美しいと感じさせる。
そんな完成されたアスリートの走りに素人が追いつけるはずもない。

だが、それも表の世界の常識に過ぎない。
何事にも外法は存在する。
それは走り方ひとつにしても例外ではない。

若菜の走りは長く速くを走るための効率化された走り方である。
サイパスのは違う。
速度を維持する事など端から度外視したような、瞬間的加速のみを求めた走り。
そこに美しさなど欠片もない。
長期戦になれば確実に相手が早いだろうが、一瞬で相手を捕える動きなら圧倒的にサイパスが早い。

爆発的加速。
それを前に二人の距離が一瞬で詰まり、槍の様に伸ばされた殺し屋の魔手が少年の背に届かんとした、

瞬間。サイパス・キルラは夏目若菜を見失った。

一瞬、振り切られたかと思ったが、それはあり得ない。
振り切られるほど速度的に差はなかったはずだし、何よりあの瞬間はサイパスの方が早かった。
支給品を使ったのかとも思ったが、そんな様子もなかった。

ならば、と。結論に達したサイパスが急ブレーキを行い、地面を滑るように削りながら後方へと振り返る。
そこにはすでに静止状態から再スタートを切った夏目若菜が迫っていた。
つまり、若菜が急加速でサイパスを振り切ったのではなく、急停止した若菜をサイパスが追い越したのだ。

単純な速さではなく、動きの緩急で相手を振り切るストップ&ゴー。
全速力で走っていた状態から急停止しても微塵も崩れないボディバランス、そしてアクセル能力とブレーキング能力を高い次元で兼ね備えていなければできないドリブルテクニックである。

普段から彼はこれをボールを操りながら行っているのだ。
ボールコントロールを気にせずともよいこの状況でしくじる理由がない。

自身の急加速に対するブレーキングが終わりきる前のサイパスへと、若菜が距離を詰め滑らかな動きで右足を振り上げる。
夏目若菜は生まれてこの方、一度たりとも喧嘩などしたことがない。
当然だろう。そんな事で怪我なんてしたくないし、暴力騒動など起こせば自分だけではなくチームにも迷惑がかかる。
競り合いやタックルの勢い余って負傷するなんてことは多々あったが、誰かを傷つけるためにこの足を振るったことなど一度もない。

だが、その攻撃に躊躇いはなかった。
躊躇えばどうなるかを彼は正確に理解していたからだ。

逃げの一手を切ったと思われた相手がここで反撃してくるとはサイパスにとっても予想外の事だった。
だが、その程度の予想外で崩れるサイパス・キルラでもない。

サイパスは体勢を崩したまま新田拳正の一撃を躱した時のように、放たれた蹴り足の下を掻い潜らんと地を舐めるほど身を低く沈めた。
目晦ましのマントはゴールデン・ジョイとの戦闘において焼け落ちてしまったが、その身のこなしは未だ健在である。

だがその突飛な動きを、若菜の双眸は正確に捉えていた。
サッカー選手とは、時には横合いから時速140Kmを超える速度で迫るクロスボールをピンポイントで捉える正確性を持っている。
そしてグラウンドの状態によっては直前でイレギュラーバウンドしたボールに反応する瞬間的な対応力をも求められるのだ。

超人魔人の犇めき合うこの世界においてもなお、こと蹴る技術という一点において夏目若菜の右に出る者はいない。

クンと、天才キッカーは体全体を駆使して、勢いを残したまま蹴り足の軌跡を変化させ、身を沈めた敵の動きを逃すことなく追尾する。
回避など不可能。だが敵も然る者。
素直に喰らうを良しとせずインパクトの瞬間、蹴り足と後頭部の間に腕を挟み込みダメージを散らす。
だが想像以上の蹴りの威力にサイパスの体が後退する。

サイパスはその勢いに逆らわず後方へと一回転を決めると、空中で体制を立て直し地面へと着地。
同時に追撃を警戒して身構えるが、相手は蹴りを放った直後にこちらに目もくれず駆け出していた。

「…………チィ」

サイパスが舌を打つ。
彼我の距離は先ほどよりも開いた。
もはや一息で詰められる距離ではない。
足の地力は若菜の方が上である以上、このままでは逃げ切られてしまう。

これまで殺し屋サイパスの仕事から逃れられた人間など数えるほどしかいない。
その数名だってサイパスが標的に対して勧誘癖(わるいくせ)を発揮させた時くらいのものである。

だと言うのに、サイパスはこの場で一人も仕留められていない。
それはこの環境が万全に万全を重ねて行う暗殺稼業とは勝手が違いすぎるからだ。
戦闘は偶発的に発生し、標的の情報はなく、装備は貧弱、整備もままならなず準備もない。

どちらかと言えばそう、この状況は何が起きるかわからないスラムの諍いの方が近い。
求められるのは殺し屋としての戦い方ではなく、それこそアンナと出会う前の生き抜くために駆け抜けていたあの時代の戦い方である。

追うサイパスは地面を蹴り上げると、走りながら宙に飛び散った小石を数個つかみ取った。
そして前方を駆ける若菜の背に向け、それこそ弾丸の様な勢いで石礫を放つ。
その礫は死に至る程のものではないが、喰らえば確実に足は止まる威力を秘めている。
そうなればすぐさま追いつかれて終わりだろう。

だが若菜は、振り返るでもなく、それこそ背中に目があるかのような動きでその礫を躱した。
優秀なサッカー選手は広いフィールドにひしめく敵味方22人の動きを常に把握する空間把握能力を持っている。
その視野の広さに加え、司令塔には常に5秒後の世界を見る力が求められる。
天才と呼ばれたこの少年は当然の様にその能力を兼ね備えており、後方からのサイパスの動きも把握して的確に身を躱したのだ。

だがその回避行動で直線を走っていた足は僅かながらに速度を落とす。
一方、サイパスの方は走りながら礫を放っているにもかかわらず、その速度に変化はない。
僅かながらに距離が詰まる。追撃の手はなおも止まらない。

こうなると遮蔽物のない草原を選択したのが災いした。隠れるような逃げ場がない。
直撃はせずとも、この調子ではいずれ追いつかれるのは時間の問題である。

若菜は逃げるばかりではなく反撃に転じるべくポケットを弄るとそこから何かを取り出した。
そして上体を捻りながら後方へと向けて一直線に投げつけた。
だが無理な体勢からの投擲だったからか、その投擲には大した勢いがない。
サイパスは向かってくる飛来物を駆ける速度を落とすことなく難なく受けとめると、爆発物である危険性を考えそれが何であるかを確認する。

「…………これは」

手にした物を見てサイパスが思わず声を漏らした。
それはベレッタの弾倉だった。しかも空の弾倉ではなく中身入り。
弾を撃つのではなく投げるなどと、リロードする余裕がない故の愚行だろうか。

そう相手の思考するサイパスだったが相手の愚行はそれだけに留まらなかった。
先を走る若菜が唐突にその足を緩めたのだ。
いや、緩めるどころか、その場にピタリと足を止めた。
サイパスの放った礫によるものではない、自主的なモノである。

何を考えているのか。それとも諦めたのか。
敵の思惑を測れず、サイパスが疑念を過らせるが、その間にも距離は確実に詰まる。
それを気にせず夏目若菜は、その場で大きく振りかぶった。

「取ってこい――――――ッ!!」

そうして、愛犬に向けて投げるフリスビーでも投げるような声と共に、彼は唯一の武器を投げ出した。
野球選手としてもやっていけるのではないかという強肩でレーザービームの如き勢いで飛んでいくのはM92FSである。
緩い弧を描いたM92FSは大きく離れた草原へと落ちて消えた。

使える武器を持っていないサイパスからすれば拳銃は喉から手が出るほど欲しい代物だ。
九十九を撃ち抜いてから以降、サイパスが銃を一度も使わない事から、若菜は何らかの事情で銃が使えなくなっている事を察していた。

故に、最初に投げた弾丸は、空の銃を投げたところで囮にはならないと踏んでの釣餌である。
使える武器ならば回収が頭をよぎるのは当然だろう。

周囲に生い茂る草原は足首ほどの背丈だが、地面に落ちた遺失物を隠すには十分な高さだ。
加えて、辺り一面が風景の変わらぬような草原である。
この調子でいけばサイパスと若菜の追いかけっこは数Kmは続く。
最終的にサイパスが勝ったとして一度見失ったこのポイントを再び探し出すのは非常に困難な作業である。

この場が、一面景気の変わらぬ草原であるのは偶然ではあるまい。
逃亡のルートとして、ここを選んだのは意図的だろう。

敵を仕留めてから探すという選択肢は時間がかかるうえに確実性に欠ける。
この場での数時間のタイムロスは致命的だ。

つまり、あの拳銃を手に入れるのは今しかない。

既に駆け出している少年の背と銃の落ちた草原を見る。
追いつけるかどうかも分らない相手一人を仕留めるか。
それとも確実に銃を手に入れて多くの敵を打倒せるよう装備を整えるか。
追っていたのが合理性を無視するイカれた殺し屋ではなく、合理性を重んじる理性的な殺し屋だったというのは少年にとっては幸運だったのだろう。
突きつけられた選択肢を前にサイパスは頭の中で損得を勘定して、銃の落ちた方向へと駆けて行った。

だがしかし、忘れてはならない。
追っているのはただの殺し屋ではなく、サイパス・キルラである事を。
その事実は少年にとって、最大の不幸であった。

50mほどの距離を駆け抜けたサイパスは草木に紛れ地面に落ちていた拳銃を探し当てると、銃口や引き金に罠がないかの最低限の確認を行い先ほど手に入れた弾倉をリロードする。
ここまでで20秒ほど。この時点で少年の背は遠く離れ、手の平よりも小さくなっていた。

もはやハンドガンの射程ではない。
しかしその事実を気にせずサイパスは銃を構え、斜め上の空に向けって引き金を引いた。

ハンドガンの射程は通常50mほどだが、弾丸を平行ではなく曲線を描く山なりの軌跡で放てば最大射程は300mに至る。
当然命中精度は大きく落ちるし、狙撃というより曲撃ちに近い。
だが邪道撃ちは、サイパスの得意とする所である。

この距離では流石に着弾を確認することは難しい。
サイパスが着弾地点に向けて駆ける。

辿り付いたところに少年の影は消えていたが、その代わりに赤い血の跡が芝生の上に残されていた。
残された血液の量から言って、大した傷ではないようだが、転々と目印の様に赤い印が続いている。
サイパスは確実に追い詰めて殺害すべく、この血の跡を追った。

あの少年に対しては、この場で出会ったもう一人の少年の様にスカウトする気にはならなかった。
彼は優秀ではあったが、その才能は真っ当すぎる。
闇にしか生きられないような壊れた連中とは違う、むしろ真逆の存在だ。
サイパスの求める――救いたい――存在ではない。

そうして血の道筋が導く終着点にたどり着く。
そこは島の端だった。
海にでも飛び込んだのか、血の跡はそこで途切れていた。

【E-2 草原/昼】
【サイパス・キルラ】
[状態]:疲労(小)、火傷(中)、右肩に傷(止血済み)、左脇腹に穴(止血済み)
[装備]:M92FS(14/15)
[道具]:基本支給品一式、9mmパラベラム弾×45、歪んだS&W M10(5/6)
[思考・行動]
基本方針:組織のメンバーを除く参加者を殺す
1:周囲の探索を行う
2:亦紅、遠山春奈との決着をつける
3:新田拳正を殺す
4:イヴァンと合流して彼の指示に従う。バラッドアザレア、ピーターとの合流も視野に入れる。
5:決して油断はしない。全力を以て敵を仕留める。

「ぷは…………ッ!」

飛沫を上げて、ずぶぬれの男が飛び出した。
濡れ鼠のままびちゃりと水音のする足音を立て大地へと降り立つ。
必要な荷物は全て仲間に預けていたためタオルもないので、少年は服を脱いて雑巾のように絞る。すると水が滝の様にボトボトと落ちた。
露わになった上半身の肩口は僅かに肉が削げており、そこからは血が滲んでいる様だが大した傷ではではなさそうである。

ある程度水気を絞った所で、水気にべったりと張り付く服を着なおす。
冷たい服を着た少年の体がぶるりと震える。
それは寒さだけが理由ではないだろう。

切り抜けられたが、どうにもギリギリだった。
逃げ切れたと思った瞬間に撃たれたのはマジでビビった。
失敗すれば死ぬような状況だ。怖くないはずがない。

恐怖を感じることは恥ではない。
いつだって戦うという事は怖い事である。
彼は恐怖を否定しない。
重要なのは恐怖とどう向き合うかだ。

オランダ、スペイン、ブラジル、ドイツ。
勝ち目のないと呼ばれた世界の強豪たちと、国の威信を背負って戦ってきた。
奴らの怖さと向き合って、そうやって勝ってきた。
そうやって生きてきた。
こうして今も生きている。

「ふぅ――――」

目を閉じて肺の底から息を吐き出し、心を整える。
止まってる場合ではない。
恐怖に震えるのは家に帰った後のベットの中でいい。

合流地点から引き剥がすため別方向へと向かっていったが、ずいぶんと離れてしまった。
それにまだ近くにはあの殺し屋がいるだろう。
それを警戒しつつ動かなくてはならない。
震えを押し殺して、一先ず合流地点を目指す事にした。

【E-2 海岸沿い/昼】
【夏目若菜】
【状態】:疲労(小)、肩に銃傷(小)、ずぶ濡れ
【装備】:なし
【道具】:なし
[思考・状況]
基本思考:安全第一、怪我したくない
1:九十九たちと合流する
2:クラスメイトを探して脱出するプランも検討

111.田外さん家の鴉天狗 投下順で読む 113.音ノ宮少女の事件簿
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それが大事 夏目若菜 悲しみよこんにちは
一二三九十九 悪魔を憐れむ歌
斎藤輝幸
夢物語 サイパス・キルラ Specter of the Past

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最終更新:2016年01月13日 10:16