「馴木、おい大丈夫か? 馴木?」

こちらからの呼びかけにも馴木は反応を示さなかった。
その場に座り込んでいる相手に、腰をかがめる視線を合わせる。
見る限り意識がないという訳ではなさそうだが、声に視線すら向けることなく、ただ虚ろな瞳のまま曖昧に何もない空を見つめていた。

「何があったのか」と問うべきか逡巡する。
様子がおかしいのは見るからに明らかだった。
茫然自失としており、その目からは生気という物が感じられない。
わざわざ問うまでもなく、散々な目に遭ってきたのだろう事は見て取れる。

こっちだってそれなりボロボロだが、馴木の在り様は比較にならなかった。
泥や吐瀉物の付着した衣服の汚れもそうなのだが、彼処には不穏な血の跡が見受けられた。
彼女自身に目立った外傷はないようだが、どうやら返り血の様である。
それが付着した経緯について、最悪の想像が頭を過る。

そうなると、その過程について問うのは躊躇われる。
仮にその返り血の意味が想像通りだったとしても、この状況だ。緊急避難として理解はできるし別に彼女を責めるようなマネをするつもりはない。
ノリノリで殺人に目覚めました、と言うのならともかく、その様子から止むに止まれてという状況だったのだろうと予想できるし、同情の余地はある。
その心的外傷を抉るような真似はなるべくならしたくない。

とは言え、彼女が巻き込まれたであろう危険がまだ近くにあるのならば把握しておくべきだろうとも思うが。
今の沙奈に問うたところで答えが返ってくるとも思えない。

「…………錬次郎」

どこを見ているでもない曖昧な視線のまま、絞り出すような掠れた声が女のか細い喉から漏れた。

「錬次郎……? 悪ぃが、三条谷は見てねぇな」

初めて紡がれた意味のある呟きに、とりあえず返答をしてみるが残念ながらそれに対する反応は返ってはこなかった。
何とも打っても響かない相手に自然と溜め息が漏れる。
残念ながらここで辛抱強く問答をしているほど余裕のある状況ではない。

ここでじっとしていては危険だ。
何とか撒いたものの、まだ近くにあの殺し屋のような男がいるかもしれないのだ。
今は現状の確認よりも行動すべきである。
何より、分れた一二三と輝幸の身も心配だ。
速く合流したい所である。

「とにかく一緒行動しよう馴木。危ない奴が近くにいるかもしれないんだすぐにここから離れたい」

危機を伝え退避を促すがやはり反応はない。
このまま黙って動かないままでいられても困るので、ひとまず説得を試みる。

「辛いのは分かる。しんどいのもわかる。けど頼む動いてくれ。
 このままこうしてたんじゃ、三条谷にも会えなくなるぞ」
「……錬次郎に………………遭えない…………?」

人の恋心を利用するようで少しばかりズルいやり方だが、初めてまともに反応を示した。
やはり馴木にとって三条谷は特別なようである。

「そうだ、だから今は立ってくれ」

励ますような言葉を掛けつつ、腕を取って引き上げる。
意外にも抵抗は殆どなく、すんなりと立ち上がってくれた。
と言うより、抵抗する気力もないと言った風であるのだが、まあ今はそれでいい。

ここからなら第二合流地点に指定した探偵事務所がすぐ近くである。
別れてから2時間以上が経過している、一二三たちが既にそこに辿り付いているかもしれない。
いなかったとしても、そこから第一合流地点である温泉旅館に向かえばどこかしらで出会えるはずだ。
何のトラブルもなければ、の話ではあるが。

「とりあえずそこにある探偵事務所に行こう、そこで一二三とあと……」
「嫌っ!!」

突然の大声に驚きに思わず目を見開く。
動き出そうとした足を止め、振り返ると、そこには胸の前で両手をグッと握りながらなわなわと振るえる馴木の姿があった。

「そっちには、行きたくない!」

人形みたいに無気力だった馴木が、突然声を荒げて明確な拒否反応を示した。
何かに怯えるように目を逸らし、歯の根を鳴らして全身を震わせている。
その尋常ではない反応には、追及することを許さない真に迫った迫力があった。

移動を強硬するのは難しそうだ。またここで固まられも困る。
まずは移動することが先決である。
効率は悪いが近場の探偵事務所を諦め、予定通りまずは温泉旅館を目指すべきか。
温泉旅館にいなかった場合はその時だ。その時に考える事にしよう。

「……じゃあ、仕方ない探偵事務所は後回しにして温泉旅館に、」
「嫌…………ッ! そっちも行きたくない、行きたくないの…………」

弱弱しくそう言って両腕で頭を抱えた。
どうやらそっちにも何かトラウマがあるらしい。

いや、さすがにそれは困るぞ。
こっちが頭を抱えたくなる。
状況が状況だけに、これ以上我侭に付き合ってる暇はない。
女相手に強引に出るのは趣味じゃないが、最悪弱った女子一人くらいなら無理やり抱えて連れて行ってしまうことくらいはできる。
だが、それは最終手段だ。
強硬策は心的外傷を強めてしまう可能性もある。

馴木を宥めつつ、どうすればいいか頭を捻る。
こんな状態の馴木をこの場に放置して行くわけにもいかないし、一二三と輝幸を無視するわけにもいかない。
両方やらくちゃならないのがつらいところだ。

馴木が合流地点に行けないという以上、馴木とは別行動をとるしかない。
となると馴木を何処か安全な場所に避難させてから、一二三たちと合流して、馴木を迎えに行く。
これが現状とれるベストだろう。
そう考え、隠れられそうな場所を探すべく地図を広げた。

位置的には灯台がベストだが。
そちらは方向的に殺し屋のような男がいるかもしれない方向だ、できれば避けたい。
少し遠回りになるが、北の多目的ホール当たりにすべきか、と考えたところで。
ふと、馴木の様子がおかしい事に気づいた。

これまでとは違う、明確な何かに怯えるような反応で、どこか一点に視点を向けていた。
その視線を追う。

そこには、見覚えのある死神が迫っていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1997年11月16日。
後にジョホールバルの歓喜と呼ばれる、日本が初めてワールドカップ出場を決めた日本サッカー界の転機。
そんな日に夏目若菜は生を受けた。

親父は元日本リーグの選手で、ワールドカップ初出場を掛けた試合と妻の出産を天秤にかけて、真剣に思い悩んだ挙句。
深夜の病院のロビーでテレビを勝手につけた挙句、熱狂して病院から追い出されるようなサッカーバカだった。

日本リーグの選手だったと言っても、実力はお世辞にも高いとは言えなかったようだ。
代表なんかともまったく縁はないし、下位チームのベンチを行ったり来たりで試合に出てる方が珍しい。
そして念願のプロリーグ元年。当然の如くスカウトからお声がかかることもなくプロになりそこねた、それが親父の実力である。

だからこそ、サッカーに対する情熱は凄まじいモノだった。
悲願だったプロになれず、自分にサッカー選手としての才能がないという残酷なまでの事実を突き付けられても、サッカーを愛し続けた。
指導者としての道を志し順調にライセンスを取得して、現在はプロチームのコーチとしてそこそこ名を馳せているようだ。
現役時代から下手だったからこそ研究を重ね、教え上手で指導者としての才能はあったらしい。

いずれはチーム監督となり、最終的に代表監督となる。それが今の親父の夢である。
だが、それは監督としての夢だ。選手としての夢は当然のように息子である俺へと受け継がれた。

プロ選手となって、日本代表になって、W杯に出場して、あの黄金の優勝杯にキスをする。
サッカー小僧なら誰もが一度は憧れる夢だろう。
だが、それは日本という国で見るにはあまりにも壮大な、現実離れしたバカみたいな夢だった。
それでも俺たち親子は本気だった。

そんなことは無理だと言うヤツがいた。
出来るわけがないと笑うヤツもいた。
そういう輩は全員、実力で黙らせてきた。
一度でも俺のプレーを見て、同じ言葉を吐けたやつはいない。

親父と違って俺には才能はあった、0歳から親父に叩き込まれた英才教育の賜物でもあるだろう。
夢を示し続けて、上り詰め結果を残し、今はもう俺達の夢を笑う人間は日本中のどこにもいなかった。

この夢は親父に強制された夢ではない。
これは紛れもない俺の夢だった。
そして日本中のサッカーファンが俺の背(No10)に同じ夢を見ている。

だけど、結果を残して同じ夢を見るものたちが増えるたびに、日本中の夢を背負った責任と重圧は増していった。
国内では勝って当然。代表に選ばれて当たり前。アジアで負けるのは問題外。国際大会でも実績を残して当然。
いつの間にか俺たち親子の夢は俺たちだけの夢ではなくなっていた。
夢を見せた責任を取らなくてはならない。

どれだけ国内で天才ともてはやされても世界は広い。当然、挫折もあるしキツイこともある。
試合は疲れるし、怪我だってするし、負ければ死ぬほど叩かれた。
どんな天才だって常勝無敗とはいかない、勝利を掲げた代償として敗北の責任は常に俺へと降りかかる。
スポーツが爽やかだなんてイメージは偏見だ、実際は嫌がらせや不幸の手紙めいたものが送られるなんて日常茶飯事だった。
そのしんどさに辟易して嫌になった事だって一度や二度じゃない。

そういう意味じゃ今の学校の居心地は悪くなかった。
中学卒業前にトップチームからのお声はかかってた、公表こそしていないが海外からのオファーもなかったわけじゃない。
正直、俺の将来設計的に高校に進学する必要はあまりなかったのだけど、母さんは当然のように最低限高校は出ておけと口酸っぱく言い続けており。
親父も体の出来きる前に急いで環境を変える必要はないとか、高校生やれるのは人生に一度だけだとか言って反対意見を表明したため進学を余儀なくされた。

まあぶっちゃけ進学するにしてもサッカーはユースでできるし、高校はどこでもよかった。
神無学園を選んだ理由としては、AO入試があったため自分のこれまでの実績からすればほぼ確実に入学できるし、何より家から近い、なんて安直な理由だった。
そんないい加減な動機で選んだ進学先だけれど、今のとなってはサッカーの事を忘れられる数少ない空間だった。

クラスの連中は一癖も二癖もあるおかしな連中ばかりで、俺だけが悪目立ちすることもない。
当たり前だがサッカーに興味のない奴だっているし、そんな奴らとも仲良くなれた。
辛さも苦しさもない、普通の高校生としての生活、それはそれなりに楽しかったけれど。。

ああ、それでも。
それ以上に、フットボールは楽しかった。
辛くとも苦しくともここまで続けてこれた理由はそれだけだった。

ドリブルで敵を躱した瞬間の快感。
パスがイメージ通り繋がった瞬間の達成感。
シュートが決まった瞬間の喜び。
一つのボールを追ってグランドを駆けまわって、勝って、負けて、また勝って。
その喜びや悲しみを仲間たちと分かち合う。

これに勝る楽しさを俺は知らない。
結局は、俺も親父と同じサッカーバカなのだ。

夏目若菜にとっての夢とは実現可能な目標でしかない。
この道筋は、確実に夢の彼方へと繋がっている。
そのための努力を続けることは当たり前のことで、多少の辛さや苦しさは当然の対価だ。
その程度は覚悟の上である。

それに、どれほどの重圧がかあろうとも、試合が始まれば足は廻る。
最も重圧のかかるはずのその瞬間だけは、背負った重圧を忘れられた。

震えるほどの高揚感に胸が高鳴り、鼓動を抑えるように深く呼吸をすれば、肺が熱気で満たされる。
周囲からは超満員の客席が生み出す地鳴りのような声援が響き、人々の熱気が白い蒸気となり景色を歪ませた。
空はどこまでも抜けるような深い蒼。
むせ返るような熱を含んだ風が吹き抜け、緑の芝が波のように騒めく。
足には羽が生えたよう。
白いボールを追いかけて、緑のピッチを駆け抜ける。

ここが俺の戦場。

夢へと至る、その道程。
黄金の杯を掲げるその夢に向かって、夏目若菜はこの道を進み続ける。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

現れた死神。
沙奈は純粋に漆黒の殺し屋の放つ殺意に慄いていた。
息を飲んだのは若菜も同じだ。

沙奈とのやり取りに時間をかけ過ぎた。
振り切ったはずの死神が追い付いてしまった。

死神はゆっくりとこちらに近づいている。
まだ距離はあるが、今度こそ逃げられない。

何故なら沙奈がいる。
沙奈はまともに動けない。
任せられるような人間もいない。
かと言って無理矢理沙奈を抱えて走った所で逃げられる相手ではない。
沙奈がいたのではどうしようもない。

「……ああ、くそ、嫌になるね。ホント」

沙奈を庇うように前に出る。
助かる気のない奴を助ける義理などない。何て事は言わない。
正直な話、相手が助かりたいかなんて知った事じゃない。
正義感とかじゃなく助けたいから助けるだけだ。
ここで女を見捨てるような自分が許せそうにない。

自分を裏切るような生き方はできない。
誰よりも器用なくせに、不器用な生き方しか選べなかった。

そんな自分が本当に嫌になるけれど、仕方ない。
だってそれが夏目若菜なのだから。

沙奈が動かない以上、九十九を逃した時のように足止めだけすればいいとはいかない。
敵を制圧する必要があった。

絞め技で落として意識を奪うか、極め技で脚の一本でも折れば追ってこれないはずだ。
この期に及んで殺すつもりがないと言うのは覚悟が足りないのか、それとも殺さないという覚悟の表れか。

格闘経験なんて、体育で選択した柔道くらいのものだが。
その授業内で拳正だって投げ飛ばしたし、黒帯の教師から一本取った事もある。
何にせよ組みつくところまで行かなくては話にならない。

緊張のあまり手足が痺れて吐きそうだ。
恐怖に体の芯が震え、今すぐここから逃げ出したくなる。
まぁ、つまりはいつも通り。ベストコンディションだ。

距離が詰まり間合いに入ったのか殺し屋が銃を構える。
それを合図にして殺し屋に向かって若菜が駆けた。

迎え撃つサイパス。
その脳裏に深夜に繰り広げられた拳正との戦闘が思い出される。
恐らく狙いは同じだろう。
今度はあの時のように出し抜かれぬよう下の動きにも警戒を強める。
奇策はもう通用しない。

走る若菜。視線と踏み込みは右、だが重心は左に偏っている。フェイントだ。
それを見抜いたうえで、左への初動をしっかりと確認してから、サイパスは引き金を引いた。

だがその弾丸は外れた。
若菜は銃弾の逆を突き、鋭い動きで切り返す。
奇策ではなく純然たる駆け引きで殺し屋を上回った。

当然だ。
右か左かの駆け引きなど世界の超一流のディフェンダー相手に毎日のようにやっている。
この分野において一日の長があるのは若菜の方だ。

100mを11秒フラットで駆け抜ける速度で放たれた胴タックルが、トライデントの如く突き刺さる。
サイパスはタックルを切るべく若菜の肩に片手をかけると、跳び箱を跳ぶように跳躍。
肩を支点として伸身のまま弧を描くと、上下逆さの体制で無防備な若菜の後頭部に向けて銃口を構えた。

対して、タックルを躱され背後を取られた若菜は、止まることなく身を捻った。
天を仰ぐような体制で自転車を漕ぐ様に足を空中で回転させ、上空へと足を振り上げる。
ローリングオーバーヘッド。
とあるブラジルの天才が編み出した反転とシュートを同時に行う絶技である。

跳ね上がる様に振り抜かれた蹴り足に、突き出していた銃が蹴り飛ばされる。
空中で繰り広げられたアクロバティックな攻防は互いを喧嘩独楽のように弾き飛ばした。

先に地面に着いたのは体制が下になっていた若菜だ。
受け身を取り瞬時に体勢を整えると、サイパスを狙って再びタックルを仕掛ける。
着地を狙われては然しものサイパスとて躱しきれない。

地面に押し倒され、組みつかれる。
組みつかれてしまえばそう簡単に引きはがすことは出来ない。
若菜は相手の体を滑るように後方に回り込むと、襟元を掴み上げ変則的な送襟絞を完成させる。

「ぐ…………っ」

酸素を遮られサイパスの顔色が徐々に紫がかって行く。
サイパスは首元に右腕を差し込み頚動脈洞圧迫に抗いつつ、左腕を何とか自らの腰元まで伸ばした。
その手に捕まれた銀の輝きに若菜が気づく。それと同時に引き抜かれたナイフが一閃される。
若菜は瞬時に拘束を解くと、その場から離れ身を躱した。

組技は基本素手対素手が前提だ。
どれだけ上手く組みついても刃物で脇腹を刺されればそれで終わりだ。
無論、対武器の技術も存在するが授業で習った程度の若菜にそれを実戦しろと言うのは難しい話である。

ナイフの一撃は躱せたものの、間合いが開いた。
立ち上がった敵の腕にはナイフが握られている。
どんな動きも見逃さないように凄まじい集中力でナイフを警戒する。

だが。そのナイフが飛んできた。

唯一の武器を投擲するその奇策に虚を突かれたが、持ち前の反射神経で何とか躱した。
だが、ナイフを注視しすぎた事で、肝心のサイパスの姿を見失った。

瞬間。横合いからの衝撃。
意趣返しの様な胴タックルが若菜の腰ともへと浴びせられた。
スラムで鍛えられた喧嘩術は格闘技などとは違う小奇麗なモノではない。
地面に引き倒すと同時に、倒れこむ勢いを載せた肘が鳩尾に落とされる。

「ぐ…………はっ!?」

肺の空気が胃液と共に吐き出される。
そのままサイパスにマウントポジションを取られた。
口の端から垂れた胃液を拭う事も出来ず、歯を食いしばりながら両手で覆うように顔面をガードするが、上からリズムよく振り下ろされた拳がガードの隙間を縫って突き刺さった。

このままでは嬲り殺しである。
若菜は止まらない拳の嵐に耐えながら、グッと腹の底に力を溜めた。
そして瀑布のように降り注ぐ拳の一瞬の切れ目を見極め、肩を軸としたブリッジで馬乗りになったサイパスを跳ね上げる。
バネの様な背筋力に対して、サイパスも咄嗟に両足で若菜の体を挟んで堪えるが踏ん張りが甘い。
ズルリと滑る様にすっぽ抜け、サイパスの体は宙に放り出された。

サイパスとて超人ではない。
肉体の全盛期はとうに過ぎており、拳正、輝幸、ゴールデン・ジョイ、イヴァンとここに来てからの戦闘回数も多く、体力的にも精神的にも疲労が見える。
平気な顔をして表に出さないようにしているが、実際手合わせした若菜には分かった。
負傷でもしたのか先ほど追いかけっこをした時に比べて随分と動きが鈍い。
そうでなければとっくにやられているだろう。

怪物の様な相手だと思っていたが、相手だっても人間であると今更ながらに実感した。
疲れもあるしミスもする。
イケるかもしれない。

拘束から抜け出した若菜はサイパスが体制を整えるより早く駆けだした。
サイパスに向かってではなく、最初に弾き飛ばした銃の方向だ。
サイパスもその狙いに気づき、駆け出すがもう遅い。
若菜は銃を拾い上げると反転してサイパスへと銃口を突きつけた。

形勢が逆転する。
銃口に晒されたサイパスが駆けだした足を止める。
このまま一発足を撃って、沙奈を抱えて逃げる。
そう心の中で決め、人を撃つ決意を固めた。

サイパスは焦りのような表情を見せ、逃げるように僅かに身を引いた。
逃すまいと若菜はにじり寄るように距離を詰める。
無論、罠の可能性も考慮して目の前の相手に対する警戒は怠らない。

そして銃声が響き、夏目若菜は倒れた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「今日も冷えるわね」

霜の張った窓から外を見つめ、車いすの少女が呟くようにそう言った。
そうだね。と応えながら、端の欠けたカップに茶色の液体を注いだ。
湧き上がった白い湯気が部屋に満ち、心が落ち着くような暖かな香りが辺りに漂う。

二人分の紅茶を入れ、一杯を車いすの少女アンナへと手渡す。
アンナは待ってましたと嬉しそうに両手でカップを持つと、ゆっくりと紅茶へと口をつけた。

アンナは足が悪かった。
継母から階段から突き落とされ、その後遺症で右脚がほとんど動かない。
脚がもう治らないと知るや否や、労働力として使えなくなった彼女を寒空の下に無一文で放り出したらしい。

調子がいい時は歩く事も出来るのだが、今日みたいな冷える冬の日には車いすが必要となる。
その間の身の回りの世話は自分の仕事だった。

「サイパスって何か夢はある?」

紅茶で暖を取り一息ついた頃合いに、突然アンナはそんな事を聞いて生きた。
そんなものあるはずがない。
明日生きているかもわからないこの生活の中で、そんな余分な幻想に思いを馳せる余裕などない。

「あら、夢は大事よ? 明日を生きるための活力になるもの」

活力だとかそう言う精神論は好きじゃない。
そんな不確かなモノこの街で生きるには何の役にも立たないのだから。

そんなこちらのつれない反応が気に喰わなかったのか。
アンナはムッとした顔で車いすを動かすと、こちらの後ろに回り込んできた。

「えいや」

間抜けな掛け声とともに膝裏に衝撃を受けバランスを崩す。
倒れそうになったところを後ろから受け止めれ暖かく柔らかな感触に包まれた。
この温もりに包まれると、母に抱かれた赤子のように心が安らかな気持ちになる。
まあハッキリ言って躱すのは簡単だったが、アンナはしてやったりと得意気なのでいつも甘んじて受けてしまう。

本物の母の記憶は殆どない。
娼婦だった母は5歳の頃に息子を捨てて客の男と高飛びした。
それまでだったまともに育てられた覚えがない。
家には殆ど帰ってこず、たまに返ってきたと思ったら代わる代わる男を連れ込み、その間外に追い出されるような生活だった。
互いに親子としての情など無い。
互いを疎んじながらも血と言う下らない柵に囚われていただけの関係だった。

アンナと出会ったのは母に捨てられ、一人ストリートチルドレンとして生きていたスラム街でのことだった。
片足を引き摺った女が、逞しくもゴミ箱から食料を漁っていた。
こちらに気づき、ゴミ山から見つけた腐りかけの林檎を片手に悩んだ声でこう言った。

『ねぇ少年。これ食べられると思う?』

それが出会い。
聞けば、女は家を追い出された直後であり、行く宛もなかったため、とりあえずの宿と食料を探していたらしい。
だが、法律なんて適応されないこの地区で女一人で出歩くなど、犯されも殺されても文句は言えない立場である。
女を犯すにはサイパスはまだ幼かったし、殺しを楽しむ趣味もない。
最初に出会ったのがサイパスだったというのは互いにとって幸運だったのだろう。

「サイパスは不愛想だけど意外と面倒見がいいし、教えるのも上手いから、ひょっとしたら先生なんか向いてるんじゃないかしら?」

何を、馬鹿な。
学校に通うどころか碌な教育すら受けた事のないドブネズミが人にものを教えるだなんて、あり得ない話だ。
それこそ夢物語だろう。

「えー、そうかなぁ。似合ってると思うけどなー」

拗ねるように口をとがらせる不満を垂れる。
そのとても年上とは思えない子供じみた態度に呆れてしまう。

自分のことなんかよりも、そう言うアンナはどうなのかと問い返す。
アンナは「そうだねぇ」と呟き、柔らかくこちらの頭を撫でた。

「私はみんながちゃんと生きて大人になれる世界が見たいかなぁ」

アンナの周りには不思議と多くの人が集まった。
それは己も含め、社会から見捨てられ打ち捨てられたような人間の集まりだったけれど。
彼女が偏見や差別とは無縁な、どんな人間にも平等に、あるがままを受け入れる女だったからだろう。
自分を虐待していた養父母にすら恨み言を吐かず、足が動かなくなったことも運命と受け入れ、地の底に落ちても夢を語るそんな女だった。
昨日話した人間が次の日に死んでいるなんてことは珍しくない世界だった。
そうではない世界が、どこかにあるのだろうか。

「だから、サイパスがどんな大人になりたいのか、知りたいな私は」

話を引き戻された。
けれどやっぱり、そう言うのは己とは無縁な話だ。

夢なんてものは贅沢品である。
そんなものはまともに生きている連中が見ればいい。
ただ何事もなく、彼女と共に生きていければそれだけで十分だった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

呆然とした表情で、引き金を引いた体制のまま沙奈は動きを止めていた。

これまで曖昧な態度だった沙奈だったが、決して考えを放棄したわけではない。
むしろ、ずっとずっと考えていた。
これまでの事。
そしてこれからの事を。

普通は人は人を殺さない。

この地獄に招かれて最初に出会ったミュートスは沙奈にそう言った。
それはその通りだと思う。
沙奈も望んで人を殺そうだなんて思わない。
誰かが誰かを殺すなんてことは異常な事だ。赦される事ではない。

けれど、状況が普通じゃなければどうなのだろうか。
状況が異常なんだから人が人を殺しても仕方ないのではないか。
それは戦争と同じだ。
異常な状況で異常な行動をとるのは、むしろ普通のことなのではないだろうか。

それでも赦される殺人などないと、ミュートスは言った。

本当にそうか?

カルネアデスの板という命題がある。
紀元前2世紀のギリシアで一隻の船が難破した。
その船から海に投げ出された一人の男が、波に飲まれながらもなんとか壊れた船の板切れにすがりついた。
するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。
しかし板は小さく、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうかもしれない。
そう考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。
その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。

生きることは生命の本分だ。
緊急避難や正当防衛という法(ルール)が認められている事から示すように。
自らの生命を守るためならば殺人とて正当化される。

彼女はこれまでずっと錬次郎を見てきた。
そして錬次郎を通して多くの人間を目の当たりにしてきた。
直接その愛欲と悪意に晒される彼ほどではないけれど、彼を通して私も人間の黒い欲望を見てきたのだ。

それ故か、彼女は人の本質を見抜くのが得意だった。
惚れ薬と言う異常性が加わったとはいえ、人の本質など一皮むけばどれもこれもが同じだった。

人の本質は己の欲望を叶えるためならば、どのような犠牲も問わない身勝手な獣だ。

そしてここに来るまで自分もその獣の一人であると気づくことができなかった。
そんな事にもっと早く気が付けばよかったのに。

生を勝ち取り、己の願いを叶えるためになにをすべきか。
その手段は既に彼女の手の中にあった。

「…………がぁ……ッ! くっ…………!」

地面に転がった若菜が歯を食いしばりながら腰を押さえた。
弾丸は腰元に直撃し骨に食い込みめり込んでいた。

その弾丸は別段、若菜を狙ったわけではなかった。
そもそも銃なんてものは素人が狙ったところでそう簡単に当てられるようなものではない。
沙奈は勝つために銃を撃つというプロセスをこなしただけに過ぎない。
ただ、いち早く殺気に気付いたサイパスが射線から弾丸の軌道を読んで若菜の動きを誘導した、程度の事はあったのかもしれないが。

腰を押えていた手の平に血がべったりと張り付く。
土を掻く様に地面を握り締める。

痛みには慣れている。
骨折だって一度や二度じゃない。
この程度の痛みで立ち止まったりしない。

それよりも、そんな事よりも。
彼にとって何より絶望的なのは

「…………あぁ、くそ」

当たり所が悪かった。
弾丸が脊髄を損傷させたのか脚が動かない。

世界を魅了し、世界中に夢を魅せた。
風の様にフィールドを駆け抜け、一振りすればフィールドに美しい虹を生み出す黄金の足がピクリともしない。

手術すれば治るか?
リハビリに何年かかる?
フィールドに復帰するにはどれくらいかかる?
脳裏に浮かぶのはそんな事ばかりだ。

「…………まだだ、まだ、俺の夢は」

諦めない。
諦められない。
何のための戦うのかと問われれば夏目若菜は迷わずこう答えるだろう。
夢を叶えるためだと。
彼の戦いは全てそこに繋がっている。

「生きるんだよ…………生きて、夢を叶えるんだよ俺は!」

歯を食いしばって両手を伸ばして身を起こす。
立って、歩かなくては。
遥か遠く、目指す場所に至るために。

「――――――死ぬんだよお前は」

冷徹な声と共に何かの終わりを告げるように銃声が響いた。
倒れた体に向けて頭部に一発、心臓に二発。
脳症が飛び散り、穴の開いた心臓から漏れだした血液が地面に血だまりを作った。

若菜にとどめを刺したサイパスは残った沙奈を睨みつける。
女の構えた銃口がこちらを向いているが、そんなものは躱すまでもない。
狙いすら定まっていない弾丸は見当はずれの方向に飛んでいった。

沙奈が続けて銃口を引くがカチ、カチと空を告げる音が鳴るだけだった。
デリンジャーは携帯性に優れ暗殺に向いた銃ではあるが、込められる弾数はほんの僅かで威力も低く実戦には向かない。

サイパスは転がったナイフを拾い上げると無造作に沙奈の眼前まで近づいた。
壊れた様に空の引き金を引き続ける沙奈の顔面のを容赦なく蹴りあげる。
怯んだ沙奈のぼさぼさに乱れた前髪を掴み上げ、晒された喉にナイフを宛がう。

沙奈は、抵抗することすら諦めたのか、それとも現状が理解できていないのか。
ぶつぶつと何かわけのわからない言葉を呟いていた。
まるで夢と現が逆転したような、そんな目をしていた。

何の躊躇もなくサイパスはナイフを引き沙奈の喉笛を切り裂く。
だが、次の瞬間、不可解な事が起きた。

女の姿が掻き消えたのだ。
掴んでいたはずの髪の毛もすり抜けるように消えていた。

何が起きたのか? サイパスが辺りを見渡すが影も形もない。
消滅した? それとも瞬間移動だろうか? あの少女も異能者だったというのだろうか。
否。そんな力を持っているのならばとっくに使っているはずだ。ここまでもったいぶる意味がない。
油断を誘うつもりだったと言うのなら、消える前にサイパスに一刺しあるはずなのだがそれもなかった。
そうなると考えられそうな原因は一つ。

「このナイフか」

少女が消えたのはナイフで切りつけた瞬間だった。
そのタイミングからして、イヴァンから奪い取ったナイフが原因とみるべきだろう。
相手をどこかに飛ばす一時しのぎの武器。
あいつらしい小賢しい道具だ。

だが、殺せない道具はいらない。
サイパスはナイフを破棄すると、再び移動を開始した。
終わってしまった少年の亡骸を残して。

【夏目若菜 死亡】

【C-3 草原/午後】
サイパス・キルラ
[状態]:疲労(大)、火傷(中)、右肩に傷(止血済み)、左脇腹に穴(止血済み)、右腰に銃痕
[装備]:M92FS(6/15)
[道具]:基本支給品一式、9mmパラベラム弾×45
[思考・行動]
基本方針:組織のメンバーを除く参加者を殺す
1:ピーターとの合流を目指す?
2:亦紅、遠山春奈との決着をつける
3:新田拳正を殺す
4:決して油断はしない。全力を以て敵を仕留める。

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錬次郎は昔から王子様みたいだった。

小学生になったばかりの男子たちはいつもバカみたいにグラウンドを元気よく駆け回っている。
そんな少年たちを尻目に成熟の早い少女たちは教室の隅で噂話に花を咲かせていた。
アイドルの誰が好きだ。あの先生が好き嫌いだ。クラスの誰がカッコいい。好きな人は誰だ。
かしましくも、そんなとりとめのない話題は矢継ぎ早に流れゆく。

その中にあっても、三条谷錬次郎は話の種になること自体が珍しいような、目立たない存在だった。
稀に話題が上がっても何の特徴もない地味な男子である。というのがクラスの女子たちの評価である。
だけど、そんな評価は間違いであると私――馴木沙奈だけが知っていた。

幼稚園の頃、私はみんなの後ろをいつもカルガモの子供みたいに付いて行くだけの引っ込み思案な子供だった。
元気に駆け回るみんなの背中をおっかなびっくり追いかけるけれど、足の遅い私では付いていけずその内足がもつれて私は転んでしまう。
そんな私に誰も気付くことなんてなくて、みんなの背中が遠ざかって行く。
すりむいた膝は痛くて、置いて行かれた事が悲しくて、世界から置いて行かれた気がして視界が滲む。
私は立ち上がる事も出来ず、その場でわんわん泣きだいてしまった。

だけど、そんな世界から置いていかれた私に、気付いてくれた人がいた。
それが錬次郎だった。
みんなと一緒に先に行ってしまったはずの彼は、私がいない事に気が付き一人引き返して私に優しく手を差し伸べてくれた。
私はどこか呆然としたままその手を取って、その手をつないだまま私はみんなの所に引かれ行った。

彼にとってはただ転んで泣いている少女に気付いて、手を差し伸べただけの特別じゃない行為。
だけど特別じゃないその行為で、彼は私の特別になった。

それから私が何度転んでも錬次郎は一度も見捨てるようなまねはしなかった。
いつだって人好きする屈託のない笑みで、私の手を引いて光のある方に連れて行ってくれる。
それはまるで物語に出てくる白馬の王子様のようで。

錬次郎は誰よりも優しくてカッコいい。
そんな彼の素晴らしさを私だけが知っている。
自分以外の誰かが錬次郎を好きになるのは嫌だからその素晴らしさを誰にも語らず。
その優越感にも似た感情を、宝石箱の奥に隠すように大事に大事に心の奥にしまっておいた。
そから私は錬次郎にべったりだったから、もしかしたら周囲や親なんかにはバレバレだったのかもしれないけれど。

私は錬次郎が大好きだった。
けれど錬次郎にとって私は特別なのだろうか。
そんな不安が幼い小さな胸を締め付ける。
錬次郎が私の事を好きになってくれればいいのに、なんて思ってしまったんだ。
それは幼さ故の、なんて無邪気で残酷な願い。

私は悪い遊びに誘うように錬次郎を彼の祖父の蔵に忍び込もうと誘い出すと。
大人たちがひた隠しにしている美味しいジュースがあるのだと、そんな嘘を並べて惚れ薬を飲むように仕向けた。

その行為に疑いなんてなかった。
何かの物語で読んだ惚れ薬は飲んだ人間が初めて見た相手を好きになるとかそう言う代物だったから、二人きりの倉庫で惚れ薬を飲んだ錬次郎は私の事を好きになってくれると思っていた。
そうなれば彼が私を好きになって物語のお姫様みたいに王子さまとハッピーエンドを迎えられるのだと、ただ純粋にそう信じて疑っていなかったのだ。

けれどのその結末は違った。

その効果は私の思う物とはズレがあった。
そしてそのズレは、彼の人生を歪ませ、私の恋も狂わせた。

錬次郎は女性ならば誰彼構わず惹きつける特異体質となり。
最初から彼の事が好きだった私の心は変わらなかったけれど、彼の世界は革命が起きたように劇的に変化した。

錬次郎は翌日から異様なまでに女子に好かれ小学1年生にして一躍学校一のモテ男となった。
同級生だけではなく上級生を含んだ学校中の女子たちが休み時間の度にわざわざ1年生の教室を訪れては錬次郎を取り囲み醜い争奪戦を繰り広げた。
それだけならまだいい。その影響は生徒に留まらず教師まで巻き込んでいだ。
担任の40を超えた女は授業内外に関わらず露骨な色目を使うようになり、成績も不自然なまでに色がついた。
教師が一人の生徒を贔屓すれば他の生徒から不平不満が噴出するのは当然だろう。
惚れ薬の影響下にないはずの男子たちも錬次郎を疎み始めるのに大した時間はかからなかった。

女子に纏わりつかれ、男子に嫌われ、女教師に贔屓され、男教師には疎んじられる。
彼に向けられる感情にまともな物など一つもない。
それからの彼の学園生活はきっと針の筵だっただろう。

そんな状況に彼を追いやったのは他ならぬ私である。
彼が追いつめられるたび、その責任を幼い心が潰れるほどの重圧を感じていた。
それこそ錬次郎が誘拐されたと聞かされた時は心臓が止まるかと思った。
もう子供特有の短慮では済まされない。

その悪意から彼を守護らねばと決意した。
真実を知る私が、私だけが彼を護ってあげられるのだ。

けれど錬次郎は幼馴染である私すら避け始めた。
近づくことも許されず、守るどころか話す事も出来なくなってしまった。
その間に彼は多くの心の傷を負ってしまい、全てを遠ざけ一人になりたいと引きこもりに近い生活を送る難しい時期もあった。

その間も定期的に彼の両親とは話をしてたため彼の様子は常に把握していた。
学校にすら通わなくなった彼の将来を思い不安になったりもしたけれど、ちゃんと進学を決めたと聞いた時には本当に安心した。
なんでも創立間もない新設の学園で、薬師としての才能を評価されたと聞いている。

既にAO入試は終わっていたけれど、一般入試はまだ募集があり、私は彼を追いかけるように進学先を変更した。
偏差値は県内でも上位に入るような学校だったけれど、周囲に群がる有象無象に負けない様に憧れの王子様に相応しい女になろうと努力を重ねてきたかいがあった。
私は無事、神無学園の受験に合格する事が出来た。

だが、また錬次郎と同じ学校に通えることに安堵したのもつかの間。
いざ入学した神無学園は、どいう訳かこれまでにないほどの個性の塊の様な連中の集まりだった。
三つ編み眼鏡のヤンキー。未亡人女子高生。ボーイッシュシスター。突然現れた謎の転校生。獣耳犬少女。スポーツ図書委員。金髪ツンデレ巫女。酒乱教師。
そして学園を牛耳るお嬢様。
それら全てが錬次郎に心奪われ彼へのアプローチをかけた。
最も、水面下で白雲彩華による工作により大半はすぐにいなくなってしまったが。

個性豊かな恋のライバルに対して、私は普通の少女でしかない。
特別などではなく、あるのは幼馴染という強みだけ。

だけど、私と彼女たちは違う。
彼女たちは所詮、錬次郎ではなく、錬次郎が放つ惚れ薬によるフェロモンに惑わされただけの偽物たちだ。

今は避けられて、冷たい言葉を投げかけられ傷つく事もあったけれど、大丈夫。私はちゃんとわかっている。
錬次郎が本当は優しい人だってことを知っている。
少しだけひねてしまったけれど彼の心根は何も変わっていない事をちゃんと理解している。

私はちゃんと彼の心根をちゃんと理解して、彼を好きになった。
私だけがその素晴らしさを、その暖かさを、その尊さを理解している。
惚れ薬なんて如何わしい物によって拐かさてただけの奴等と私の想いは違う。

だから最後はきっと錬次郎は私を選んでくれる。
だって最後に勝つのは本物の想いでしょう?

特別でなく何者でない、何の特技もない冴えない誰かが、個性豊かな恋のライバルに勝つ。
それはなんだか、少女漫画の主人公のようだ。
私は特別な人間ではなかったけれど、特別な彼の特別にはなれるはずだ。

そんな都合のいい夢を見ていた。

ああ……そう言えば。私が錬次郎のお祖父さんの蔵に惚れ薬があると知っていたのはどうしてだったろう?
誰かに教えてもらったような気もするが、よく思い出せない。

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空間を越え転移した、沙奈の体は地面へと放り出された。
受け身も取れずに転がり、勢いを失ってようやく停止する。

辺りの景色は一変していた。
草原ではあるが、先ほどとは何もかもが違う、沙奈を殺そうした殺し屋のような男もいない。

何が起きたのか、沙奈が辺りを見つめる。
しばらく辺りを見渡していた所で、草原の上に誰かが眠っていることに気づいた。

「錬次郎…………!!」

見紛うはずもない。
それは三条谷錬次郎だった。

これまで氷のように固まっていた沙奈の表情が春に芽吹く花のように綻ぶ。
あれ程求め熱望した想い人との再会を果たし、これまで砂漠のように乾ききっていた沙奈の心が満たされていった。
いつもみたいに冷たくあしらわれたっていい。
この地獄のような世界で巡り合えただけで、ここまでの全てが報われる思いだった。

「錬次郎?」

首を傾げる。
呼びかけるも相手からの反応がない。
錬次郎が沙奈を無視する事は珍しくはないが、それにしたって反応がなさすぎる。

「眠ってるの錬次郎? こんな所で寝てたら危ないし、風邪を引いちゃううよ…………?」

近くに寄って見えたのは、ひどく穏やかなこれまで見たことないような満足そうな寝顔だった。
多少薄汚れているが、身形は整えられており、土の上ではなくやわらかな草原に寝かされている。
腹の上で組まれた両手には一輪の小さな花が添えられていた。

確かめるように、そっとその頬に触れる。
こうして彼に触れられたのは何年ぶりの事だろう。
仄かに温かいのに、なにか。何か大事何かが感じられない。
それが何なのか認めてしまえば。
決定的な何かが壊れてしまいそうで。

「起きて…………起きてよ錬次郎!! ねぇ!!」

掴みかかる様に彼の体を揺すり、顔を近づけ叫んだ。
だが、何の反応もない。

「………………嘘」

そこで気づいてしまった。
彼が呼吸をしていない事に。
恐る恐る心臓に、耳を当てる。
鼓動は、聞こえなかった。

「嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘うそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそよ!!!
 れんじろうれんじろうれんじろうれんじろうれんじろうれんじろうれんじろうれんじろう!!」

チカチカと視界が白く点滅した。
脳を貫くような耳鳴りがして、世界がぐるぐると廻るようだ。
足元はグラつき天と地が逆さまになる。

私の世界の全て。
世界が音を立てて壊れ落ちる。

「……………ぁぁあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

慟哭する。
声にならない嘆きを上げた。

崩壊した世界の修復は不可能だ。
壊れた物は戻らないし、死者は蘇らない。

私の世界は彼と共に崩壊し彼岸の先に行ってしまった。

だったら私は、何のために。
私は、私は何を。
私は。
わたしは。

「――――――ぁっ」

そこで、ふと気づいた。
啓示の様なひらめきだった。

彼に会いに行ける方法は、既に手の中にあった。

それに気づいた瞬間これまでの苦しい気持ちが嘘みたいに軽くなった。
愛しい人に会いに行ける直通列車の切符を手に入れた気分だ。
震えの止まった手で弾倉を開いて弾丸を詰める。

「今、逢いに行くよ錬次郎」

愛しい王子様に逢いに行くお姫様みたいに。
夢を見るようにそう言った。

【馴木沙奈 死亡】

130.Role 投下順で読む 132.世界の中心で愛を叫んだけもの
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Specter of the Past サイパス・キルラ 夢の終り
悲しみよこんにちは 夏目若菜 GAME OVER
馴木沙奈 GAME OVER

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最終更新:2019年10月19日 22:11