「………………………………………………」

夜の臭いが混じり始めた温い風が凪いだ。
誰もいない草原で、一二三九十九は立ち尽くす。
鉄の臭いが鼻を衝いて、思わず口元を押さえる。
いつも明るく光り輝いてきた瞳は色をなくし、沈んだ昏い瞳で足元の光景を映し出していた。

それを見つけたのは合流地点である探偵事務所を目指す、その道中での事である。
彼女の足元には一つの終わりが横たわっていた。

腰と胸部は黒くぽっかりと空いた穴を中心に赤く衣服が染め上げられ、周囲の地面は何かを吸ってぐずぐずの赤い土壌を作り上げている。
頭部にも小さな穴が開いており、飛び散った中身が赤とは違うグロテスクな彩となっていた。
末期の顔は苦悶と絶望に満ちたものへと成り果て、いつも自身に満ち溢れていた表情は見る影もない。

何故、という悲しみ。
どうして、と言う困惑。
こんなことができる人間がいる、という恐怖。
許容不可能なほどの様々な感情が入り混じり、少女の心をかき乱す。

だが、少女の中にはそれらの感情を塗りつぶす燃え上がる炎があった。
一二三九十九は怒っていた。
心に灯った炎はぐちゃぐちゃの感情を焼き尽くし、狂いそうなほどに頭を過熱させる。
何に対してではない。彼女はすべてに怒っていた。

睨みつけるように世界を見る。
そこで点々と続く血の跡があることに気付いた。
その道筋を辿るように視線を移す。
そして少し離れたところで、ふらふらとした足取りで立ち去っていく初老の男の後姿を見つける。
それが、自らを撃った男であると理解した瞬間、彼女の足は駆けだしていた。

「ッ…………待って!」

逃げるために立ち去るのではなく、立ち去ってゆく背を追いかけ呼び止める。
呼び止められた男、サイパス・キルラは気だるそうな態度でゆっくりと振り返った。
よほど疲弊しているのか、その態度に覇気はない。
ただその眼光だけが陰る様子もなく、剣呑な光を放っていた。

その鋭さに息を呑む。
鉄火場で打ち据えられた刃のようだ。
彼に撃たれた傷が熱を帯びたように疼いた。
ジワリと背中に汗がにじむ。

だが、ここで怯むようでは一二三九十九はやってない。
彼女は誰にだって言いたいことを言ってきた。
これまでだって、これからだって。

「あなたが、若菜を殺したの?」

真正面から相手の目を見据えて率直に問う。
己が罪科を問われた男は表情を変えず、動くべき感情は見受けられない。

「……そうだが?」

誤魔化すでもなく肯定する。
否定する理由もない。彼にとってはそれだけの事。
次の獲物が来た、それだけだ。

いつでも抜き出せるよう、そっと腰元の銃に手を添える。
殺し屋の目から見て、九十九の立ち振る舞いからは脅威を感じられない、素人のそれだ。
とは言え、ここまでこの地獄を生き延びた参加者であることも確かである。

仇討のつもりかと思ったが目の前の少女からは怒気は感じられるが、殺気らしきものは感じられない。
第一、殺したいというのなら最初にぶつけるべきは声ではなく鉛玉だろう。
一体何を考えているのか、相手の意図を測りかねている。
何か切り札があるかもしれないし、何かの罠かもしれない。
警戒を解く理由もなく、サイパスは慎重に相手の出方を窺っていた。

「どうして、若菜を殺したの?」
「どうして? 下らんな。殺し合いなのだから当然だろう」

どうしてなどと、下らない問いである。
どうして殺すのかなのかなどと、追い詰めた標的にから罵るように幾度も聞いた。
そんな言葉は聞き飽きている。

「当然……そんな訳ないじゃない! 殺しあえって言われたから殺しあうの?
 ちゃんとは考えて行動しなさいよ、バカじゃないの!」

少女は感情を爆発させるように猛った。
だが、罵りも命乞いも殺し屋の耳には届かない。
余りにも無体な相手にこれ以上は無駄かと、サイパスは腰元の銃を抜刀のように引き抜いた。

「あなただって人殺しなんてしたかったわけじゃないんだから!」
「…………なんだと?」

速やかに眉間と心臓を打ち抜かんとするサイパスの手が止まり、思わず問い返す。
それほどまでに少女の言葉は場違いで、的を外れていた。
つい手を止めてしまったのは、その声に嘲りや懇願ではなく、憐憫や悲哀が含まれていからだろう。
男は奇異の目で目の前の女を見る。

「何を……」
「だってそうでしょ、理由もなく誰かを殺したい人なんていない」

一二三九十九の怒りはそういうものだった。
誰かを殺した誰かにではなく。
誰かを殺さなくてはならないこの状況そのものにだ。
この世界に、恨むでもなくただ純粋に怒りを燃やしていた。

だが、それは違う。
その認識は少女の世界が狭いだけの話だ。
血と臓物を好む異常者など吐いて捨てるほどいる。

「あなただって好き好んで人を殺したかった訳じゃない」

バカな話だ。
好きも嫌いもない。
殺す必要があるから殺すだけだ。

「…………黙れ」

彼女の言葉は徹頭徹尾どこまでも見当はずれだ。
だと言うのに。どうしてここまで彼女の言葉に苛立ちを感じているのか。

「本当に、こんなことがあなたのやりたいことなの?
 違うでしょ……! もっと別の、何か、やり方が……!」

感情は言葉にならず涙となって流れた。
整理のつかないまま感情を吐露する。
何が言いたいのか、どうしたのか、恐らく本人にも理解できていないだろう。

そうしたかったから?
違う。そうする事しか知らなかったからだ。
従う従わないの問題ではなく、それ以外の選択肢など彼にはない。

別の選択肢など無い。
別の生き方など知らない。
そんな可能性は最初から奪い取られれている。

……いや、それも違う。
一度だけ、人生においてほんの瞬き程の刹那。
そうではないと言われた瞬間があった。

ああそうか、と。
殺し屋は自らの苛立ちの根源を理解した。
その言葉は、その過去を想起させる。
失われた、もう得られないその過去を。

「私は絶対に認めない。人を殺して当たり前なんて、そんな言葉も、そんな言葉を言い訳にしてるあなたも……!」
「黙れ!」

言葉を断ち切る様に、怒声のような銃声が響いた。

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『…………サイパス』

月の女神も眠るような静かな夜だった。
人通りのない通りの影となった死角に、気配すらなく立つ男が一人。
闇に光る銀の髪。その眼光は刃のような鋭さを湛えている。
全身から放たれる気配はどうしようもない暗闇。
決して日の当たるところでは生きられない影のような男だった。

『どうした? お前の方から話しかけてくるなんて珍しいな、バルトロ』

そんな男が自ら誰かに話しかけるなんて事は珍しい。
それなりに長い付き合いになるが、もしかしたら、サイパスに対して語りかけるのは初めての事かもしれない。
それだけで余程の事態だと察することができる。
少なくとも楽しい雑談などにはならないだろう。

『……俺の子を、お前に託したい』
『なんだと…………?』

それはあまりにも唐突な内容だった。
やはりこの男、圧倒的に言葉が足りない。

バルトロの息子――彼が組織の女に産ませた名はルカだったか。
母となったのは殺人と自傷に依存した心の弱い女だった。
子を産んで、虐待に走る様になり最後には自殺した、そんな女だ。

バルトロは最強の暗殺者として自らの研鑽にしか興味がないような男だった。
人間から殺し以外の機能を取っ払ったような、殺し屋としてしか生きられない男だ。
恐らくあのメンバーの中で人として一番破綻しているのがこの男だろう。

だが、ルカが生まれてからは、憑き物が落ちたように息子の育成に執心しはじめた。
あるいは親が子に自らの夢を託すように。
そんな当たり前のどこにでもあるような行為を、この男が。

『何故だ? ルカの教育はお前がしているだろう?』
『……ああ、そうだ。技術は叩き込んだ、心もどんな時でも平静で居られるよう俺が造り上げたが……まだ足りない。
 アイツはアレに似て心が弱い…………だから、これから最後の試験を課す』
『最後の試験……?』

ああ、とバルトロは冷たく静かに笑う。

『……これがクリアできれば、きっとあいつは誰でも殺せるようになる。最高の暗殺者になれる』

遥か遠く、星々を見上げる様に、彼の視線は空を見ていた。
完成した我が子の未来を夢見るように。

『……だから、その後はお前に頼む』

その言葉で、サイパスはこれから行われる試験がどういった物かを理解した。
それが本人の望みだというのなら止める理由などない。
だかわからない。

『何故、俺に。アヴァンなり、サミュエルなり、頼むのなら他に適任がいるだろう』

何故サイパスなのか。
組織の教育係として定着しつつあるサイパスに育成を任せるのはまだわかる。
だが、バルトロが言っているのはそれだけではないだろう。

こういった手合いを好き好んで引き受けるアヴァンは元より。
サミュエルもあれで、自分の兵隊(みうち)に対しては面倒見がいい男だ。
サイパスとバルトロは特に仲が良かった訳でもない。
子を任せるなら他に誰でもいるだろうに。

『何故、か。そうだな…………』

丁度いい言い回しが思いつかないのか、暗殺者は暫し無言のまま逡巡して、立ち去り際ようやく口を開いた。

『……お前になら託せる、からだ』

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声を殺して泣いている少女を抱え少年が走っていた。
勇者に討たれた邪龍を助けんと少年の拘束から発狂したように暴れていた少女だったが。
距離が離れていくうちに徐々に力を失い、やがて完全に抵抗を止めた。
少女はまた友を失ってしまった。

「…………降ろして」

十分に走った後、涙と共に枯れた声が少年の耳に届いた。
少年はゆっくりと減速して足を止めると、担いでいた少女の身を下す。
少女はその場にペタンと座り込み、俯いたまま地面を見る。

頬に付いた既に乾いた涙の跡を拭う。
少女は、ここに来て少し涙を流し過ぎた。
少女にとってつらいことがありすぎた。
必死に前に進もうとしても、また振出しに戻ってしまう。
己が無力に苛まれ情けなさで死にそうになる。

「ゴメン…………何度もゴメン、私こんなで…………」

気を落とす少女を前に、少年はどうしたものかと困ったように頭を掻く。
無理矢理に引きはがしたのは自分だ。
恨み言を吐かれるくらいは覚悟していたが、沈むように落ち込まれるとどうしようもない。
生憎、優しい言葉を懸けられるほど器用な人間だとも思っていない。

「顔上げろよ、水芭。お前は頑張ってるよ」

気にするなとは言えない。むしろ大いに気にすると良い。
残念だった、なんて言葉で片付けられるものでもないだろう。
ただ己を卑下することはない。

「……ダメだよ、頑張るだけじゃ」

結果が伴わなくては意味がない。
伸ばした手が届かなったのが堪えたのか、ユキは沈んだままだ。

「いいんだよそれで、お前らはそれでいい。諦めなければそれでいいんだ」

少女は雪のように弱く脆い。
それは変えようのない事実だ。
だが、弱くとも、それでも強くあろうとしている。
それだけで十分だろう。

「結果なんてもんは水物だ。求めるなとは言わねぇが拘るな。
 足を止めて落ち込むのは、最後の最後でいい」

足掻き続けろと。
空回っても報われなくとも、足を止めることなく走り続けろ。
まだ求める物があるのならば。
そう、どこまでも残酷で優しく少年は告げていた。

「ほら、立てよ」

へたり込んだ少女に少年が手を伸ばす。
立ち上がるための手を。

「…………新田くん」

少女が手を伸ばす。
また立ち上がって進むために。

だが、その手が取られる寸前、どこかから銃声が聞こえた。

その音にいち早く拳正が反応する。
音の大きさからして、遠くはない。
銃声の方向を見つめる拳正が大きく目を見開く。
それはユキが見たことのない表情だった。

「ゥォオオオ―――――――――ォオオオッ!!」

拳正が叫んだ。
獰猛な獣のように。

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それは病室のような部屋だった。
白い部屋の中心にそびえる巨大なベット。
部屋中に様々な医療器具が所狭しと置かれおり、中央に眠るやせ細った男向かって幾つもの管を伸ばしていた。
これが殺し屋組織の長たる男の自室である。

大抵は呼吸器をつけて日長眠り続けているが、数日に一度、数時間だけ目をさまし意識を取り戻すことがある。
その間に報告、連絡をまとめ組織の方針を指し示す。それがボスとしての彼の仕事であった。
主にその相手を務めるのはアヴァンの役割だが、月に2、3度だけサイパスが呼ばれることがあった。
だが事務的なアヴァンとのやり取りと違い、彼と彼が話すのは何時だって同じ内容だ。
そもそも彼らに共通する事柄など一つしかない。

『……サイパス……お前は、今の組織をどう思う…………?』

だが、その日だけは少しだけ趣が違った。
老人のように嗄れた声の中には死神すら逃げ出す程の身震いするような凄みがあった。
その言葉に、巨大なナイフで果物の皮を剥き乍ら何でもない声で答える。

『別に、何も』

その連れない返答が気に喰わなかったのか、病人は吐き捨てる様にふんと強く息を吐くと、ごほごほと咳き込み始めた。
震える手で枕元のテーブルに置いてある錠剤を一掴みにすると乱暴に口に放り込み、グラスに注がれた温い水で流し込む。
咳が納まりようやく落ち着いたのか、カイザルは本題を切り出した。

『…………俺が死んだら……組織はお前が継げ』

一瞬、空気が凍ったような沈黙が落ちる。
カイザルはそれ以上何も言わず、サイパスの返答を待っていた。

『なんだ? そろそろ死ぬ気にでもなったのか』
『……バカを言うな、クズめ。ただ……この俺は万が一を考えず、全てを台無しにする無能ではない……というだけだ』

冗談めかしてはぐらかそうとするが、誤魔化しを許さない真剣な瞳に見据えられ、観念したように溜息をつく。

『……無理を言うな。俺にお前のような才覚はない』

カイザルのように学もなければ、才能もない。
人を纏め上げる方法など恐怖しか知らない、組織の運営方法など想像もつかない。
できるのは誰かを傷つけ殺す事だけ、そんな事しか知らない。
そんな己に組織の長などできる訳がなかった。

『未だにアンナに縛られているのは俺とお前だけだ』

思わず言葉を失った。
妄執の中にいるこの男の口から、そんな言葉が出るだなんて意外だった。
それを自分に告げるというのも。

『……自覚していたとは意外だな』

動揺を気取られぬよう皮肉げにそういうと、病人は吐き捨てるように皺枯れた口元だけで笑った。

『…………そうだ。俺は、この執着に執着している』

自覚的な執着を自嘲するのではなく誇る様に。

『お前は違うのかサイパス』
『俺は…………』

違う、と言おうとしたが、どういう訳か喉に詰まったように言葉が出なかった。

『組織の運営などどうでもいいことだ……俺にとっては、そっちの方が重要だ』

組織のボスとして問題発言とも言える言葉を平然と吐く。
そう言う男だ。サイパスも今更問題にはしないが。
彼(カイザル)にとって組織とは彼女(アンナ)だ。
彼にとってはそれが全てで、それ以外はどうでもいい。

『だからお前しかいない。お前がやれサイパス』

答えられず、サイパスは顔を伏せる。
彼には理解できなかった。

何故。
何故なのか。
何故、自分なのか。

だって、自分には、何もないのに。

どいつもこいつも、自分勝手に託してゆく。
何も持たずに生まれ落ちて、何も得られずに生きてきた。
そんな自分に何の期待をかけられるというのだろうか?

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銃弾は少女の首元を掠め、その髪を散らした。
つぅと垂れる首元の血も拭わず、叫びだしたくなるような恐怖を堪えるように口元を結んで、睨み付ける目は逸らさない。
叫んだら負けだ、目を逸らしたら負けだ。
それが何もできない少女の、精いっぱいの戦いだった。

サイパスが銃撃を外したのは疲弊や疲労もあるだろうが。
それ以上に、感情に任せて戦う事に慣れていなかった故か。

だが、それもここまで。
二度目の奇跡はない。
冷静さを取り戻したサイパスがもう一発引き金を引けば終わる話だ。

「ゥォオオオ―――――――――ォオオオッ!!」

だがそこに獣の叫びが響いた。
その雄叫びに中てられた土壇場の二人が反応する。

「――――――――拳正!?」
「ケンショウ―――――ッ!」

同じ名を呼ぶ驚きの声は双方から聞こえた。

その叫びは怒りでも決死の覚悟を示すものでもなかった。
自らに注意を惹きつけるためのである。
いつでも殺せる無力な女と、こちらに迫る戦力持ちの男。
これらを天秤にかけたサイパス・キルラは戦闘機械のように半ば自動的に最適解を選択する。

銃口が駆けだした男へと構えなおされ、タンタンタンとリズミカルに銃声が鳴り響く。
弾丸の雨に晒された拳正は回避などせず、頭部と心臓という致命的な急所だけを両手で覆い最短距離を駆ける。
数発の弾丸が肉体に直撃し、赤い鮮血が飛び散った。

M92FSから放たれた9mmパラベラム弾は多くの国の警察に採用されている規格の弾丸だ。
その主な用途は人殺しではない。
マンストッピングパワーが不足しているため暴徒鎮圧にも数発を必要とする。
つまり受ける、と覚悟を決めた男の足を止めるには足りない。

一切の迷いなく駆け抜けた拳正は、間合いに届く一歩手前で僅かに強く地面を蹴った。
跳躍しながら振り抜かれた蹴り足はサイパスの頭部に向けて放たれる。
サイパスは身を低くしてこれを回避。
しかし、蹴り足を下げる反動で振りあがった逆足が、下がった頭めがけて跳ね上がる。
連環腿。八極拳における二段蹴り。
サイパスは小さく舌を打つと、後方へと飛びのき大きく身を引いた。

「よう」

九十九を守るように身を割り込ませた拳正は目の前のサイパスへと声をかける。
睨み付ける眼光は鋭いが、血まみれの両手はだらりと下げたままである。
悪魔の体皮を持つ少年のように、銃弾を受けて無傷とはいかない。

「拳正、あんた……腕、血ッ!」
「九十九。俺が来た方向に水芭がいる、合流して隠れてろ」

拳正はちらちと若菜の死体を一瞥し、状況理解すると、振り返らずに後方の少女へと告げる。

「けど…………」
「うるせぇ! とっとと動け。ここにいられちゃ邪魔なんだよ!」

足手まといであるという自覚はあるのか、そう言われては返す言葉もない。

「…………死んだりしたら怒るからね」

そう言って女は去り、残された二人の男が睨み合う。

「腕は、動くのか……?」

腕はだらりと下げられたままである。
先ほどの一撃に足技を使ったのは手が使えないからなのか。
本当に動かないのか、それとも油断を誘うためのブラフか。

「さぁな、試してみろよ」
「そうだな」

サイパスが銃口を傾ける。
拳正に向けてではなく、去っていく九十九の背に向けて。
女を守るべく盾となり自ら射線に入るか、動揺に判断を遅らせるか。
いずれにせよ拳正の隙は作れる。

躊躇いなくサイパスが引き金を引く。
銃声と同時に、拳正が地を蹴った。

放たれた弾丸は九十九の後頭部に吸い込まれるように飛んだ。
もはや一秒先の死を回避することは不可能である。
だが、その不回避の死が、地中から立った氷塊に阻まれた。

拳正はその結果を振り返らず、ただ前へ距離を詰めた。
隙を突かれたのはサイパスの方である。

サイパスは間合いを詰めてきた相手に対して咄嗟に前蹴りを放つ。
だがその場しのぎの一撃など、見切るに容易い。
拳正は紙一重で蹴りを避け、懐に強く踏み込むと大地に深い足跡を刻んだ。
震脚。放たれた掌打がサイパスの脇腹に直撃した。

「ぐ…………ッ!」

衝撃に肺から息が吐き出される。
腕の怪我はやはりブラフ。
だが威力は低い、十全ではない。

サイパスはその場に踏みとどまると、振り上げた銃のブリップで拳正へと殴りかかる。
それを円の動きが絡め取る、拳正の化勁。
受け流しからカウンター気味に顳を打ち、さらに返す手で腹部を強かに打つ。
三迎不門顧。流れるような連撃を見舞まわれ、これにはたまらずサイパスも踏鞴を踏んだ。

超近距離戦では八極拳士たる拳正に分がある。
距離を取らねばならない。

サイパスは手にしていた銃の引き金を連続して引いた。
狙いをつけない適当撃ちだったため弾丸は簡単に回避されたが、牽制にはなった。
獣のような動きでサイパスが後方へ跳び、距離が開く。

素手の間合いではない武器戦の間合いだ。
拳正は無理に間合いを詰めず、狙いを定めさせないための横の動きに徹する。
先ほどとは違い無理をする場面ではない、じっくりと勝機を窺う。

その動きに合わせて銃口を滑らせながら狙いを定めるサイパス。
だが、背後から首筋にヒヤリとした冷気を感じ、銃を撃つ前にサイパスは跳んだ。
次の瞬間、地面から尖った氷山が突き立ち、先ほどまでサイパスがいた位置を串刺しする。
サイパスは空中で身を捻りながら、それを確認すると、競り上がってきた氷山の側面を蹴り飛ばした。

遮蔽物を利用した多角的な動きはサイパスの真骨頂だ。
氷山を蹴ったサイパスは勢いをつけて拳正に向かい、風車のように縦に回転しながら踵を振り下ろした。
拳正は掲げた両手を交差させ、十字受けを行うが、その鉞のごとき一撃は負傷した腕では受けきれない。
何も遮蔽物のない平原こそがサイパスを封じるに最も適した地形だったのだ。
それを崩すような下手な援護は足を引っ張るだけだである。

「く…………っ!」

押し切られ膝をつく。
体勢が崩れ、そこに銃口が向けられる。
拳正は崩れた体制を整えず最速を選択、形振り構わず地面を転がった。
その動きを追うように一発、二発と弾丸が放ち、そこで弾切れしたのか、空となったマガジンを捨て取り換える。
その一瞬の隙に跳ねるようにして立ち上がった。

「引いてろ!」

怒鳴るような声は少年のものだった。
怒声を向けられ氷使いの少女は身を強張らせる。
拳正としてもこの状況に余裕はない。

「わりぃ。けど九十九と一緒に下がっといてくれ。頼む」
「けど……」

そう言われても、ユキは素直に下がることは出来なかった。
一見しただけで危険だとわかる相手である。
諦めずに走り続けると決めた直後だ。
拳正一人に任せて自分だけ隠れるだなんてできない。

それになによりユキは怖い。
喪い続けた彼女はこれ以上何かを喪うのが恐ろしかった。
だが、下手な援護はかえって邪魔になるだけ。
引けと言う拳正の言葉は正しい。
前にも進めず後ろに下がれず立ち尽くす。

「そのバカの世話、頼んだぜ」

返事を待たず拳正は自ら突撃する。
どさくさに取り出したビッグ・ショットを前に放り、それを前に向かって蹴っ飛ばした。

矢を飛ばすのではなく矢のように飛ぶ巨大なボウガンが盾として、その後を追従する八極拳士。
これでは銃で狙い撃つことは出来ない。どころか、このままではサイパスに衝突するだろう。

自らに迫る巨大な飛来物をサイパスは避けるでも受けるでもなく、真正面から蹴り返した。
破片をまき散らしながら跳ね返ってきたビッグ・ショットの残骸を、拳正はその下を潜るようにして躱す。

飛び出すように顔を出した拳正の目の前には銃口が構えられていた。
同時に銃声とマズルフラッシュが響く。
直前で銃口を手首で払い、銃弾は顔面を霞めた。
頬が裂け耳朶の一部が欠けた。

近距離の銃声に耳鳴りがする。
だが、それに怯まず拳正はそのまま銃を持った手首をつかむ。
そのまま空いた逆手で殴りかかろうとして、逆にその手を掴まれた。
互いに互いの手首を握り合い、鍔競りのような押し合いとなる。

「……どうした? 一対一にこだわる性質でもないだろう。
 友の仇でもとりたいのか? それとも、それほどまでにあの女が大事か?」
「さてな。あんたの知ったこっちゃ、ねえだろうが……!」

密着した状態で掴んだ手首に打を放った。
寸勁と呼ばれる技術。
勁とは気などという不可思議な力などではなく、力の流動、伝達である。
振りかぶる必要もなく密着した状況からでも放つことが可能な打の総称だ。

寸勁により一時的に握力が失われ、手からこぼれた銃が二人の間に落ちる。
同時に互いに掴んでいた手を放して、相手より早くと素早く手を伸ばす。

いち早く銃に触れたのは拳正だった。
手の甲で遠くに向かって思い切り弾き飛ばす。
銃は遠く明後日の方向へと跳んで行った。

だが、サイパスは最初から銃など見ていなかった。

伸ばした手は拳正の顔面、右目へと向かう。
ズブリと人差し指が拳正の眼球に突き刺さった。
サイパスは突き入れた指を抜かず、そのままゼリーをかき分けるように眼球の中で釣り針のように指を曲げる。
そして頭蓋に引っ掛けるようにして、地面に向かって叩きつけるように引く。
激痛と予想外の圧力に、体勢を崩され拳正の体が流れる。

「っ……ああぁぁぁぁぁぁぁああああああッ!!!」

拳正が叫ぶ。
眼球に指を突っ込まれたまま、相手の動きに合わせて両手で抱えるようにして腕の関節を取る。
そしてそのまま自らの眼球に指を突き入れられた状況すらも利用して、一息でサイパスの腕をへし折った。

「ぐ、ぉ…………ッ!?」

ボキンという何かが壊れた低い音が響いた。
サイパスの右腕の関節が逆方向へと折れ曲がる。
そのまま二人の体は揉みくちゃになりながら地面へと倒れこみ、離れた位置に転がった。

片腕と片目。痛み分けと呼ぶにはあまりにも被害が違う。
腕は折れたとして、後遺症は残るだろうが、適切な治療を施せば少なくとも動かせる程度には治るだろう。
それに対して完全に破壊された眼球はもう元には戻らない。不可逆な損傷だ。

だというのに失明という取り返しのつかない喪失を負いながら、それに怯むどころかその状況を利用して関節を破壊する。
多くの猛者と戦ってきたサイパスの目から見ても異常だ。
これは鍛錬や経験で身につくものではない。先天性の異常性。

サイパスは座り込みながら苦悶の表情で破壊された腕を押さえる。
五体は健在である拳正は、いち早く何事もなかったようにすくりと立ちあがった。

「……おら、どうしたよ? 立てよオッサン。
 まだ腕が折れただけだろ、まだ闘れんだろ? これで終わりな訳がねぇよなぁ、こんなもんじゃねえよなぁ…………!」

喪った左目から涙のように大量の赤い血を流しながら、一片も闘気を衰えさせることなく拳正は吼える。
その顔には、傍から見ているだけで寒気がするような笑みが浮かんでいた。
修羅。この極限の状況で、少年の中で押し留めていた箍が外れかけていた。

「……なぜ笑う」

片膝をついたまま暗殺者は問う。
弾丸を喰らい両手を血で染め、片目を失い、友の仇を前にして、何故笑えるのか。

「別に、大した理由じゃないさ。あんたは許せねえし、ここで決着をつける。
 けど、それとこれとは話が別だろう? あんたと闘るのは単純に楽しい」

拳正とて人間だ、怒りも憎しみも抱かないわけではない。
だが、彼にとってそれらと闘争は別物だ。
彼はそれらを切り離すことができる、というより切り離れすぎている。
彼にとって戦いとは、より純粋な何物にも侵されない結晶体のような物だ。
怒りや憎しみは、目的にはなれど、そのものにはならない。

「…………やはり、お前はこっち側の人間だよケンショウ」
「こっち側って、そう言うあんたどうなんだ? 笑ってないぜ、オッサン」

笑う拳正とは対照的にサイパスは眉間に皺を寄せ、常に変わらぬ陰鬱とした表情である。
思えばこの男は最初からそうだった。
殺し合いを、あるいは戦いを楽しんでる様子はない。

「そうだな。生憎、一度たりとも殺しが楽しいと思ったことはない」

相手を威圧するための笑みを浮かべることはあっても。
組織に属する多くの殺し屋と違い、その行為を彼は楽しいなどと思ったことがない。
好きでやってきたことではない。必要だから、してきた事だ。

「お前はどうだ、ケンショウ。お前にとって世界は、生きづらくはないか?」

人間には生きるべき世界がある。
水の中でしか生きていけない魚のように、生きる世界を間違えるというのはそれだけで苦しい。
今こうしている瞬間が楽しいというのなら、平和で温い日常は生き辛いのではないかと、息ができないのではないかと。
そう、修羅にならねば生きていけなかった男が、修羅として生まれた少年に問う。

「…………そうかもな」

拳正はその言葉を否定しなかった。
師に出会い、心の底から歓喜したのはその強さに憧れたからという理由だけではない。
始めてこの世界で同じ修羅に――――同類に出会えたと思ったからだ。

嘗てそれと同じ匂いをクラスメイトの朝霧舞花にも感じたことがある。
けれど彼女は違った。別物だった。
彼女は修羅などではなく、人間になろうとている怪物だった。
諦めず頑張り続ける怪物だった。

「ならば来い、お前の生きやすい世界はこちらにある」

一度は断られた手を再度差し伸ばす。
生きやすい世界はこちらだと。
彼にとって相応しい世界がある。

自分が世界に一人ではないという事は救いだ
同類が世界に存在するという事実は、ただそれだけで救われる。
その救いを提供するのが組織という受け皿だ。

「けど、行かねえよ。あいつにドヤされちまう」

そう言って、離れた場所にいる少女を想う。
世間とどうしようもなく折り合いが付けられない。
どこに行っても異物でしかない少年が孤独でいられなかったのは、お節介な幼馴染とその家族のお蔭だ。
それらを裏切れない。裏切るつもりもない。

新田拳正は一二三九十九が嫌いだ。
おせっかいで、揉め事にすぐ首を突っ込んでは、こっちまで巻き込んでくる
そのくせ大概の事は一晩寝ると忘れるから、悪びれもしないし反省もしない。
はっきり言ってあれを好きになるやつの気がしれない。
その辺は拳正も人のことは言えないが、ともかく拳正は一二三九十九が大嫌いである。

嫌いだけど、世界で一番、彼女が大事で大切だ。
ともすれば自分よりも。

彼女には一生かかっても返しきれない恩がある。
本人にそんな自覚は欠片もないだろうけど。

「ああ、そうか……」

少年は男が得られなかった、何か眩しい物にしがみ付いている。
それに気付いた途端、サイパスの胸の奥でどす黒い感情が湧きあがった。
少年と自分はまるで似てなどいなかった。

「俺とお前は相容れない…………!」
「はっ! 今更気づいたのかよ、ジジィ……!」

サイパスが拳正の視界から消えた。
容赦なく、喪われた右目の死角から攻め込んでいったのである。
だが、その攻め手は当然のように拳正も読んでいる。

俊敏な動きで身を捻らせ、予測軌道に拳を合わせる。
しかし拳は豪と風を切る。敵を捕らえることなく空を切った。
サイパスの実態は腰を深く落とした拳のさらに下。
拳が頭上を過ぎるほどに低い体勢で、地面すれすれを駆けていた。

サイパスは空ぶった腕を掴むと、引き寄せながら鳩尾に肘を一発。
体勢が崩れたところで襟をつかみ片腕で一本背負いの体勢に入る。

「ぐッ…………のォ!」

拳正は完全に体勢を崩し切られる前に、前に自ら地面を蹴って跳んだ。
勢いを増し加速された両足が、叩きつけられる前に地面に着地した。
拳正はそのまま身を捻り片腕だけの拘束を振り切ると、反転して踏み込む。

だが、その踏み込んだ足にサイパスの足が重なった。足の甲が固い踵で踏み抜かれる。
拳正は気にせず裡門を放つが、震脚が不確かでは威力が乗らず。
水月へと突き立てるはずの一撃も急所を僅かに逸れ、相手の肋骨にヒビを入れるに留まった。

「…………ッ!?」

踏み抜かれた足の影響で引くのが遅れた。
拳正は咄嗟に死角である右側を防御するが、衝撃は逆から訪れる。
ほぼ垂直に跳ね上がったサイパスのつま先が蟀谷に突き刺さった。
防御が崩れそこに放たれた大振りのロシアンフックが顎を打ち抜く。
脳が揺れ一瞬前後を失う拳正。

その後頭部を鷲掴みにして足を払う。
そして全体重を乗せ、倒れこむようにしてその額を地面に叩き付ける。
ゴッという堅い音。
頭部は地面に転がっていた小岩へと叩きつけられた。
投げ飛ばしたサイパスも、足元が覚束ずそのまま地面を転がる。

「ッ――――ハァ、ハァッ!」

震える足に鞭うってサイパスが立ち上がった。
意識がないのか拳正は動かない、割れた頭部からジワリと赤い水溜りを広げる。
止めを刺すべく、サイパスがゆっくりと、だが確かな動きで歩を進めた。

だが、目の前に障害を確認し、その足が止まる。
サイパスの前に、二人の少女が立ち塞がったのだ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

『だが、お前はどうなのだサイパス? 変人どもを集めて、お前の望む夢物語に届いたのか?』

何時だったかのサミュエルの問いの続きを思い出す。
その時、何と答えたのだったか。

『俺は――――俺は、夢など見ないさ、これは彼女の夢だ。俺の望みではない』

サミュエルはその答えを表情を変えぬまま聞くと、葉巻を咥え大きく息を吸った。
白い煙が天井に向かって吐き出され、煙草の臭いが部屋に満ちる。

『それは、違うなぁ。それはお前の中のアンナの夢で、結局はお前の夢だ』
『何が違う? 同じことだろう』

ムキなったように少しだけ声を荒げる。
その様子を鼻で笑って、サミュエルは咥えていた葉巻を口から離した。

『お前の中のアンナと、俺の思うアンナは違う、まあこれはアンナに限った話ではないがな』
『彼女の力を利用しようとしていただけのお前が、何を』

サミュエルは彼女のもとに集まる多くの人間の力を利用しようと近づいてきた輩だ。
だからずっとサイパスは彼を警戒し毛嫌いしていた。
そんな男が、彼女の何を語るのか。

『それも違うなぁ。アンナを利用しようとしていたというのもお前の中の俺でしかない。
 まあその一面も否定はしないが、それだけではなかったさ。俺にとってもあの日々はな。
 とどのつまり、真実など本人にしか……いや――――――』

サミュエルが言葉を切る。
手にした葉巻の灰がポトリと灰皿に落ちた。
老兵は少しだけ眉を顰め煙の満ちた天井を見つめ。

『――――――本人にだって分からんのかもしれんなぁ』

どこか寂しげに、そう独り言のように呟いた。

『俺が間違えていると言いたいのか? 彼女の意思を取り違えていると?』
『そんなことは知らんよ、知らん知らん
 あの天真爛漫な少女が何を考えていたか、なんて、俺にはまるでわからんよ。想像もつかん。
 正解も不正解もないのではないか? 正直なところ』

要領を得ないはぐらかす様な物言いにサイパスは僅かに苛立つ。

『何が言いたい?』
『結局、俺たちは自分勝手に生きて自分勝手に死ぬだけだ。
 ならば己が欲(ゆめ)を他人の責任にするな、という事だ。それが後悔しない死に方の秘訣だな』

そう言ってサミュエルはクツクツと喉を鳴らして笑い、空のグラスに琥珀色の液体を注いだ。

『だから安心しろサイパス。儂はお前に託したりなんかせんぞ。
 何しろ、これは俺の抱いた俺の野望(ゆめ)だ。貴様なんぞにくれてやるものか』

高らかに己が夢だと謳うその言葉に少しだけ心がチリつく。
少しだけ悔しさのようなものを感じてしまった。

『それに何より、儂は他の奴らと違って、お前のことが大っっっ嫌いだからなぁ!!』

そう言って一気にグラスを煽ると、旧友は豪快に笑う。
サイパスも釣られて、少しだけ噴出した。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「――――退け」

立ち塞がった少女たちに殺し屋が研ぎ澄まされた刃のような冷たい声を浴びせかける。
寒さを感じられないはずのユキの全身が震え、凍えるような悪寒が奔った。

目の前にいるのは異能を持たず、武器も持たない、片腕もへしまがった今にも倒れそうな満身創痍の老人である。
ブレイカーズの幹部連中に比べれば取るに足らないただの人間。
その筈なのに、対峙するだけで、こんなにも怖い。

「退かないよ」

動けないユキに変わるように、九十九がずいと前に出て不退転の意思を示した。
目の前の男が恐ろしくはないのか。
そう思うユキだったが、その手先が震えていることに気付いた。
これは胆力ではなくただの意地のようなものだ。
恐ろしくとも、何の力もなくとも、一二三九十九は引かないのだ。

だが、そんなことは知らぬと、殺意の塊のようなこの男は容赦などないだろう。
何の力をもない九十九がこうしているのに動けずにいる自分の情けなさに、ユキはきゅっと唇をかみしめる。

「……退けよ。九十九」

声は二人の背後から聞こえた。
割れた頭部から目に垂れる血を拭いながら、少年がふらつきながら立ち上がる。
ちぃとサイパスは舌を打つ、ほんの数秒。だが立ち上がれるだけの時間を与えてしまった。

「だから、退かないっての」

少年に対しても少女の意思は変わらない。
意地でもここは動かないと、そういう声だ。

「退かずにどうすんだよ…………なんも考えてないだけだろお前」
「殺されないし殺させない。これ以上、誰かが死ぬのなんて見たくない」

それはそうだろう。
ユキだって、拳正だってそう思う。
だが、それは現実不可能な絵空事だ。子供以下の我儘でしかない。
この地獄でそんな理屈は通らない。

「それに私は、拳正が人を殺すところなんて見たくないよ」
「――――――――」

決着をつけるという事はそういう事だ。
少女はそれを嫌っていた。

「……だったらどうすんだよ。尻尾巻いて逃げろってか?」

逃げようにも簡単には逃げられない。
何より、逃げてはならない相手だ。
そんなことはいくら九十九でも理解している。

「私も戦う、あんた一人に任せない」

そう言って九十九は刀を抜いた。
武芸者に及ばずとも、刀匠の娘として刀の扱いには多少なりとも心得はある。
どうしても避けようのない道ならば、拳正一人に押し付けない。その一部でも自分も背負う。
それが彼女の選択だった。

そしてそれは拳正としては最悪のシナリオだ。
こうならないために体を張ったというのに、この女はいとも簡単に台無しにしてくれる。

「…………ああクソッタレ、そうだったな。お前が俺の言うことを聞くわけがねぇか」

何時だって折れるのは拳正の方だ。
これ以上はいくら言い合っても無駄だと理解しているのなら、全力で肯定する方向で行くしかない。

「わ、私も戦う」

ボロボロの拳正や力を持たない九十九が戦うと決めたのなら、ユキも覚悟を決めるしかない。
怖くとも、ここで逃げるなんて選択肢は選べない。

「悪ぃ。助かる、マジで」

九十九の守りを優先してほしかったが、こうなってはユキの助けは心強い。
少なくとも九十九の云万倍は頼もしい。

「つーわけだ。卑怯とは言うまいね」

素人交じりとはいえ三対一。
絶対的不利ともいえるこの状況で殺し屋は怯むでもなく吠える。

「――――嘗めるなガキども」

サイパスが奔った。
死角を狙うのではなく真正面から拳正に向かう。
拳正も迎え撃つが、それよりも速く素早い掌打が鼻柱を打った。

拳正が真正面からの打ち合いに打ち負けた。
拳正の動きが鈍いと言うより、この状況でここまで動けるサイパスの方こそが異常である。
積み重なったダメージの度合いは互いに臨界に近いはずなのに。

そうなると主力となるのはユキだ。
素早く拳正と打ち合っているサイパスの横合いに回り込み死角から氷の矢を放つ。
だが、当たらない。
殺気を読んでいるのか視線すら向けず回避する。
サイパスの中で今、嘗てないほど全神経が研ぎ澄まされていた。

「てぇやぁ!」

そこに九十九が日本刀を振り下ろした。
当然のようにサイパスの身を捕らえることはできない。
ザクっと切っ先が地面に突き刺さる。
その刀身をサイパスは横合いから蹴り付けた。

「うっそぉ…………!!?」

折れず曲がらずと謳われる日本刀があっさりと中頃から折れた。
いや、刀匠の端くれとしてそんなものは迷信だとはしってはいるのだが。
次いで跳ね上がった蹴りが九十九の胸を打ち、九十九の体が弾き飛ばされる、

「えっ」

九十九の飛んでいく方向にはユキが立っていた。
咄嗟に攻撃準備を解いてその体を受け止めるが、勢いを止めきれず互いに縺れて転がる

「こんの……ッ」

折れた右腕側から拳正が攻める。
対応に振り返るサイパス。
そこに拳正が自らの鼻をつまみ、血まみれの右目から血液を飛ばした。
水鉄砲のような赤い血液がサイパスの目を汚す。

だが、それでも目を閉じず、白目を赤く染め目を見開く。
拳正の裡門を捌き、胸倉を掴んで引き寄せる。
互いの額が勢いよくぶつかり合い、石と石がぶつかるような無骨な音が響く。
拳正の額の傷が開き赤い飛沫となって周囲に散った。

強すぎる。
この状況においても圧倒的だった。
肉体を凌駕する何かが、男を突き動かしいている。

サイパスはそのまま膝を踏みつけ拳正の体制を崩す。
猛禽類のように指を尖らせ喉を掻き斬るべく振りかぶった。
体制の崩れた拳正に、これを躱す術はない。

だが、次の瞬間、サイパスの視界に白い何かが横ぎった。

それは目晦ましにもならないくらいの淡雪だった。
何とか少しでも拳正を援護しようとユキが放った次の攻撃のための仕込み、使った本人もそんな意図はないだろう。

だがその一瞬、確かにサイパスの動きが止まったのだ。

白い雪。
男の脳裏に過るのは、華のように折れた女の肢体。
男を絶望に染めた白い闇。

時間にすれば秒にも満たぬほんの刹那、だが決定的な隙。

しかし、その隙をつける者はいない。
ユキの攻撃準備は整っておらず。
拳正の体制は崩れ、今にも倒れそうである。

「ッ! 拳正…………!」

叱咤のような少女の声が響いた。
少女の声に死にかけていた少年の目が見開かれる。
倒れそうになる体を無理矢理に踏みとどまらせ、堪える足で震脚を打つ。

「―――――ぅおおおおおおおおおおおおおおお!」

雄叫びにサイパスが現実に引き戻された時には、すでに懐に八極拳士が踏み込んでいた。
両腕は十全でなく片目では距離は掴めない、足元は確かでなく踏み込みも覚束ない。
故に使える絶技は一つ。超近接による一撃に賭ける。

八極とは八方の極限にまで至る大爆発。
加減など無い。後先も考えない。
全身全霊、拳士の全てを籠めた鉄山靠を叩き込む。

瞬間。サイパスは疾く流れる空を見た。

大きく吹き飛んだ体は地に落ちる。
その一撃は正しく必殺だった。
爆発と称するに正しい破壊は胸骨を完全に砕き、折れた肋骨の破片が肺や心臓にチクチクと突き刺さっている。

確実に致命傷だ。
これで立ち上がれれば人間ではない。
立ち上がれるはずがない、立ち上がれるはずがないのに。

「あぁ……………………」

ユキも九十九も、拳正すらも戦慄する。
なおもサイパス・キルラは幽鬼の様に立ち上がった。

ここまでして倒れないだなんて、正真正銘の怪物だ。
何がその両足を支えているのか。
肉体ではない、別の何かが彼を突き動かしている。

その目は拳正たちではなく、虚ろに空を見ていた。
白い雪が見える。
深々と降り積もる。全てを白く、覆い隠す雪が。

何も恨まず何も憎まず何も考えず。
諦めた様に受け入れて生きていた少年だった。
そうしなければ生きていけない世界だった。

戦いも殺しも、辛い物でしかなかったのに。
何時しかそんな事も忘れてしまった。

けれど、あの瞬間。
白い闇に塗りつぶされた、あの時、彼は確かに恨んだのだ。
やりきれないと、胸を裂く衝動に慟哭したのだ。
こんなのは嫌だと、喚きたくなるような嘆きを叫んだのだ。

誰も彼もを救う聖人君子に為りたかった訳ではない。
そもそも破綻者を救うという事はそれによる被害者を生み出すという事である。
彼が手を差し伸べるのは、誰もが生まれながらに得られるはずだった当たり前を神様に奪われたそう言う連中だ。
修羅道、畜生道を生きる人間道を外れた連中にも、幸せに生きることは出来るはずだと、そう証明したかったのかもしれない。

その道を目指した。
そんな夢を見たのだ。

ああそうだったのかと、この瞬間、今更になって気が付いた。
これは己の夢だったのだ。
誰もが幸せにある様にと願った彼女の夢にかこつけて、己の夢を見た。
彼女の亡霊に憑りつかれているのではなく、この夢が彼女を亡霊にしていたのだ。

今更になってそんな事に気が付いた。
今更だけど、そんな事に気が付けた。

欠落は変わらず、抜け落ちたままで、それでも別の何かが埋まった気はする。
少なくとも、後悔はない。
これまでの日々が楽しかったかと問われれば疑問が残るが、充実していたというのならばそれは確かだった。

ああけれど、残念ながらそろそろ――――夢から醒める頃合いだ。

「…………そこに……いたのか、ア……ナ」

そう懐かしい何かに語り掛ける様に呟いて、糸が切れた様に男は倒れた。
それがサイパス・キルラという男の最期だった。

【サイパス・キルラ 死亡】

静寂と共に風が吹いた。
少女たちと男では生きる世界が違いすぎる。
男が何に殉じたのかなど理解できるはずもない。
語るべき言葉はない。

限界が訪れたのはこちらも同じだった。
サイパスが倒れるのを見届け、しばしの残心の後、ふらりと拳正が倒れた。

「え、ちょっと拳正!?」
「に、新田くん!?」

二人の少女が慌てて駆け寄る。
少年は瞼の落ちてきた片方の目で男の見上げていた空を見つめる。
その奥底に男の見ていた景色を見出すように。

「…………寝る」

そして、意識を失う様にして夢を見た。

【C-3 草原/夕方】
【新田拳正】
状態:睡眠、ダメージ(極大)、疲労(極大)、額に裂傷、右目喪失、両手に銃傷、右足甲にヒビ、肩に火傷
装備:なし
道具:基本支給品一式、ランダムアイテム0~2(確認済み)
[思考]
基本行動方針:帰る
1:寝る

【水芭ユキ】
[状態]:疲労(中)、頭部にダメージ(大)、右足負傷、精神的疲労(中)
[装備]:クロウのリボン、拳正の学ラン
[道具]:ランダムアイテム1~3(確認済)、基本支給品一式、風の剣、朝霧舞歌の死体
    ロバート・キャンベルのデイパック、サバイバルナイフ・裂(使用回数:残り2回)、ロバート・キャンベルのノート
[思考]
基本行動方針:この痛みを抱えて生きていく
1:舞歌を埋葬する
2:悪党商会の皆を探す
3:お父さん(森茂)に会って真実を確かめたい

【一二三九十九】
【状態】:ダメージ(中)、左の二の腕に銃痕
【装備】:なし
【道具】:基本支給品一式×3、クリスの日記、サバイバルナイフ、ランダムアイテム1~5(確認済み)
[思考・状況]
基本思考:クラスメイトとの合流


139.探偵物語 投下順で読む 141.第三放送 -世界の始まり-
時系列順で読む
デッドライン 新田拳正 復讐者のイデオロギー
水芭ユキ
第八次世界大戦を越えて 一二三九十九
夢をみるひと サイパス・キルラ GAME OVER

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最終更新:2017年05月04日 17:21