脱獄王の異名を持つ男、トビ・トンプソンは今、この刑務作業において最大級の謎を秘めた施設、ブラックペンタゴンの2階フロアへと足を踏み入れていた。

鋼鉄とコンクリートが折り重なる階段を駆け上がった直後、彼は肺に入り込む空気の質が変わったことに気づく。
階下の紫色の瘴気に満ちた空間とは打って変わり、この階には乾いた澄んだ空気が満ちており、鉄とコンクリートの無機質な匂いが漂っていた。
皮膚にまとわりついていた毒の重みがようやく剥がれ落ちたかのような錯覚を覚える。

一歩踏み入れた瞬間、空調は快適に保たれており、室温も一定に保たれていた。
この空間が長期滞在を前提に設計されていることが、空気から伝わってくる。

だが、彼は決して安堵などしない。
むしろここからが本番であることを、彼はよく理解していた。

トビには、エンダ・Y・カクレヤマとの間に交わした密約がある。
階段を塞いでいた門番『ネオシアン・ボクス』のチャンピオン、エルビス・エルブランデスの足止め。
その役目をエンダが引き受けた代わりに、トビはこのブラックペンタゴンの上層階の調査と検分を任されたのだ。

この異常な建造物に隠された秘密を、脱獄王の目で見極める。
それが彼に課された役割であり、同時にトビ自身が望んだ仕事でもあった。

さらに、そのついでにもう一つ依頼されたのがヤミナ・ハイドという女の回収。
名前に聞き覚えはないが、エンダの同盟者である以上、単なる小悪党で済まされない可能性がある。
調査のついでではあるが、見つけたら回収する必要はあるだろう。

そしてトビには、もう一つ、別の目的があった。
もしこの階に警備室や監視設備が存在するなら、あの場に残してきた協力者、ヨツハの安否を確認したい。
電子ロックを解除し逃走の手引きはしたが、あのエルビス相手に無傷で逃れられたとは到底思えない。
最悪の場合も想定してはいるが、それならそれで次の行動方針を決めるためにも生死確認だけはしておきたかった。

まずは、フロアの全体構造を把握する所からだ。
声には出さず、唇の裏で小さく転がしたその言葉を胸に、彼はフロアに視線を巡らせた。
階段の踊り場、やや奥まった壁面に取り付けられた案内板が目に入る。
無骨な金属板に、白い文字で記された各区画の構成。
その記述を、トビは慎重に目で追っていく。

■ ブラックペンタゴン2F:施設案内

◆ 北東ブロック
 外周部:仮眠室|中層部:更衣室 🚻|内側部:共用シャワー室

◆ 北西ブロック
 外周部:上り階段|中層部:警備室|内側部:屋内放送室

◆ 南東ブロック
 外周部:食料保管庫|中層部:調理室|内側部:食堂 🚻

◆ 南西ブロック(現在地)
 外周部:ロッカー室|中層部:洗濯室 🚻|内側部:下り階段

◆ 南ブロック
 外周部:健康モニタリング室|中層部:医務室|内側部:診察室


案内板に記された施設構成は、1階以上に監獄らしくないもので埋め尽くされていた。
休息、食事、医療――ブロックごとに生活機能が割り振られており、明確な特色が感じ取れる。

「……まるで、宿泊施設だな」

誰に聞かせるでもなく呟く。
これはもはや、懲罰や闘争のための空間ではない。
仮設の居住区か、あるいは有事に備えた避難施設のような印象すら受ける。

それほどまでに、生活インフラは過不足なく整っていた。
殺し合いという過酷な刑務作業の舞台としては、明らかにミスマッチな空間だ。

だが、この構造はアビス側――ヴァイスマンをはじめとする管理者たちの手によって意図的に設計されたものだ。
であれば、その裏には何らかの思惑があるはずだ。

その思惑がなんであるかは情報もなしに決めつけはできない。
まずは、その意図を探るために、一室ずつ検分する必要があるだろう。
それが脱獄王たる己に課せられた仕事である。

2階探索の行動方針はすぐに定まった。
3階へ続く階段がある北西ブロックは最後に回し、時計回りに各ブロックを調査していく。
まずは現在地である南西ブロックから着手する。

脱獄王は階段を背に歩を進めた。
無音の廊下に、足音だけが硬く響いていく。
生活の痕跡の奥に潜む設計者の意図を炙り出すために。

最初に足を踏み入れたのは、中央区画に設けられた『洗濯室』だった。
無人管理型の次世代ランドリーカプセルが、壁一面にズラリと並んでいる。
その無機質な機械群は、使われるのを待っているように整然と静止していた。

だが、使用者などいないのか、汚れた洗濯物も、使いかけの備品も見当たらなかった。
機械のボディには一切の使用痕がなく、まるで新品のように磨かれている。

トビは一基のランドリーに近づき、運転パネルをタップしてみる。
タップの直後、軽やかな電子音が鳴り、ドラムが静かに回り出した。
紫外線センサーが起動し、無人洗浄モードが展開されていく。

電力は通っている。
水も正常に供給されている。
このフロアが、ただのハリボテではないことを証明していた。

続いて、洗濯室奥のトイレへと移動する。
殺風景な個室とシンクが並んでいる、全体的にやたらと無菌的で冷たい空間だった。
アビスのトイレより管理が行き届いているのではないかとすら思える。

センサー式の蛇口に手をかざせば、即座に清水が流れ出した。
無臭、ろ過済み、流量も安定している。
飲用すら可能と判断できるクオリティだ。

試しに個室に入ってレバーを試せば、滞りなく排水音が響く。
詰まりも異常もなく、排水機能は完璧に生きていた。

トビの視線が便器の奥へと向かう。
便器に水が流れると言う事は、ここには下水が通っていると言う事だ。
下水周りは脱獄ルートとして常套手段となるインフラだ。

どれだけ警備を強化しても、水の流れだけは止められない。
もしこの下水に乗ることができれば、あるいは出口にたどり着くかもしれない。
自分の超力を使えば、理論上は可能なはずだ。

もちろん、今は試すつもりはない。
ぶっつけ本番で使うにはリスクが高すぎるし、首輪の解除手段が見つかっていない以上、外に出たところで首輪が爆破されて終わりだ。
何より今はそれを試すよりも調査を優先すべき状況である。

試すにしても、もっと追い詰められたときに切るべき最終手段だろう。
無言のまま、トビはトイレを後にした。

続いて向かったのは、外周部に設置されたロッカー室。
室内に足を踏み入れると自動で点灯した照明が室内を照らし出す。

壁際には、スチール製のロッカーが整然と並び、その数は20を超える。
いずれも新品同様の磨かれたような光沢すら残っている。

試しに一つのロッカーに手をかけ、ダイヤルロックを操作する。
番号を確認しようと試すまでもなく「0000」で解錠された。
念のため別のロッカーも調べてみるが、すべて初期設定のままだった。

これは偶然ではない。
つまり、このロッカーは受刑者が使用することを前提として設置されたということだ。

内部には衣類や備品、サイズ別に仕分けされた警備員用の制服が整然と並べられている。
いずれも折り目も崩れていない未使用状態のまま整列していた。
だが、その中に、ハンガーは傾き、服が抜き取られた痕跡のあるロッカーが一つだけあった。

「……ヤミナ・ハイド、か」

この上階に足を踏み入れた受刑者は、トビを除けば現時点で一人しかいない。
彼女がこれを持ち出したと考えるのが、最も自然な結論だろう。

何を考えているのか。
それは安直に着替えに手を出したヤミナに対してもそうだし、この衣服を用意した看守側、ヴァイスマンに対する疑問でもある。

衣類は本来、恩赦ポイントで購入する報酬である。
囚人服以外の服を着るという事は、それだけ相手の警戒を煽るという事である。
何の考えもなくやっているのなら相当な考えなしだし、考えがあるのだったら意図が読めない。

そして、景品であるはず衣類がこんな自由に取得可能な状態で並べられているのはどういうことなのか。
水回りだってそうだ。ここに来るだけで有償であるはずの飲み水が飲み放題というのはいくなんでもおかしい。

刑務作業の中で本来価値を持つはずの報酬が、こうも簡単に手に入ってしまっていいのか?
刑期という最大の報酬があるにしても、景品に意味がなくなれば、恩赦制度そのものの価値が形骸化してしまう。

「何を考えてやがる、ヴァイスマン……」

トビは、小さく毒づいた。
脱獄王の眼には、こうした親切設計こそが、逆に最も不自然で危険な兆候として映っていた。
明らかに意図的な、行動を誘導する罠だ。
そこまでして、このブラックペンタゴンに参加者を留めたい意図は何だ?

警戒を露にしながら無言でロッカー室を後にするトビ。
南西ブロックの探索は、これで一区切りだ。

次なる目的地は、南ブロック。
足音を残して、彼は静かに移動を開始した。


トビ・トンプソンは次なる調査対象――南ブロックへと歩を進めていた。
このブロックは内側から順に『診断室』『医務室』『健康モニタリング室』の三部屋で構成されている。
名前だけで見る限り医療関連の設備が集約された区域のようだ。

奥から手前へと順番に進むと決めたトビは、まずフロアの最奥にあたる診断室の前に立った。
自動ドアが、かすかな駆動音を立てて開く。
一歩足を踏み入れた途端、柔らかな白色照明が部屋全体を包んだ。

清潔さを誇示するような白を基調とした、無機質な空間。
部屋の端には、診察机と医師用と患者用の二脚のチェアが互いに向かい合う形で設置されている。

まるで、20年前の標準的な医療設備をそのまま保存したような部屋だった。
机の上には聴診器、体温計、耳鏡、血圧計など、いずれも古典的な診察用具。
消毒綿の密閉ケース、未使用の使い捨てグローブまできっちり揃っている。
だが、当然ながら医師の姿はどこにもない。

トビは壁際の収納棚をざっと確認する。
だが、そこにも白衣や業務日誌といった人的痕跡は一切なかった。
備品は完璧に揃いながら、それを扱う人だけが欠けている空間と言う印象だった。

「……医者もいねえのに、どうしろってんだ」

小さくぼやいて、机の上の体温計をひとつ手に取る。
センサーが反応し、小型モニターに「36.8」という数値が表示される。
システムは生きている。それが、むしろ不気味だった。

無言のまま体温計を元の位置に戻し、診断室を出る。
廊下を折れて、次は医務室へと足を進めた。

医務室の中に入った瞬間、鼻を突くアルコール消毒液の匂いにトビは僅かに眉をひそめる。
診察ベッド、包帯、注射器、止血剤、鎮痛剤、抗菌スプレー、皮膚縫合キット。
出血や骨折に対応できる応急処置器具が一通りそろっている。
流石に最新の医療機器は見当たらないが、それでもこの空間には最低限の治療道具が揃っていた。

トビは棚に並んだ備品を一瞥しながら思案する。
これらの医療品は、本来なら恩赦ポイントを支払い取得する「報酬アイテム」であるはずだ。
だが、ここではそれらが無償で、しかも無制限に取得可能な状態で置かれている。

南西ブロックのロッカー室で確認した制服や整備された水道設備。
そして、この医療資源。

この施設は、報酬制度を崩壊させかねない過剰なサービスで満ちている。
ここに留まらせようとしていると言う仮説が、じわりと現実味を帯びてきていた。

次いで、このブロック最後の部屋、健康モニタリング室へと向かう。
部屋の名称だけでは設備の用途が掴みづらい部屋である。

扉が開くと、中央に円形の操作卓と複数のモニターが配置された空間が現れた。
一見して監視室のような雰囲気だが、どちらかと言うと医療設備のような静謐な雰囲気が漂っている。

トビは操作卓に近づき、試しにコンソールに触れる。
パスコード入力などは一切なく、システムは即座に立ち上がった。

画面が切り替わり、各種データが表示された。
一覧で羅列されるように表示されたのは、刑務作業参加者のバイタルサインだった。
脈拍、呼吸数、体温、血中酸素、筋肉反応。
つまり、全参加者の健康状態一覧がこのコンソールで確認できるようだ。

トビはリストをスクロールしてその中から、『内藤 四葉』の名を見つける。
ステータスは『生存』。
ただし、バイタルは不安定で、呼吸と脈拍が乱れており、深刻な外傷を負っていることが読み取れた。

バイタルだけでは彼女の正確な現在地や周囲状況までは把握できない。
だが、監視室で行うはずだった安否確認がここで叶ったのは、僥倖だった。
ひとまず、彼女が生存している前提で行動を継続してもよさそうだ。

トビは続けて他の受刑者データにも目を通す。
定時放送直後に更新された情報と突き合わせて、そこからの差分も確認可能だった。
放送明けから死亡ステータスに切り替わっていたのは。

イグナシオ・デザーストレ・フレスノ

ドミニカ・マリノフスキ

そして――

「…………メアリー・エバンス」

世界を塗り替える災害の如き脅威。
常識すら塗り替える天災のような存在。
その名前の横に、『死亡』の文字が表示されている。

加えて、もう一人。

ルメス=ヘインヴェラート

トビがかつて助けた、メアリーを救いたいと願った甘ちゃんの怪盗。
それがメアリーと同タイミングで死亡しているというのは因果を感じざるを得ない。
もしかしたら、彼女が命を賭して何かしたのだろうか?
今の彼には、それを確認する術はなかった。

トビは、静かにコンソールから身を離す。
時計回りの探索は、次の区画――南東ブロックへと続いていく。


次にトビが踏み入れたのは、南東ブロック。
ここは明らかに、食事に特化した区域である。
彼はまず、内側部に位置する食堂の調査から始めた。

広さは、中規模レストランに匹敵するだろうか。
白いタイル張りの床に、壁際には大型の空気清浄機と循環フィルター。
中央には長机が何列も並び、それに沿ってスチール製の椅子が整然と配置されていた。

机の上に並べられていたのは、プラスチック製のスプーン、フォーク、ナイフ。
凶器として使えないよう刑務所仕様の食器が標準装備されている。
設備の充実度は一般的な刑務所の食堂を上回っており、どこか企業の社食を思わせる。
しかし――

「……誰が料理して、誰が運ぶってんだ」

医務室と同じく中心がかけている。
トビは小さく眉をひそめ、空の椅子と整然としたテーブルを見渡した。
調理人も給仕もいない状況で、食べるためだけの空間を整備してなんになる。
受刑者がわざわざ料理をして、ここで仲良く食卓を囲むとでも思っているのか?

「……流石に、バカにしてやがる」

口に出した言葉には、苛立ちと同時に警戒が混じっていた。
だが、これが単なる悪趣味の設計ではないことを、トビは本能的に察していた。

食堂を後にし、トビは中層部の調理室へと向かう。
扉を開けた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、病的なまでに清潔なキッチンだった。

すべてのコンロはIH式の電気制御型。
ガス管は見当たらず、火気厳禁の構造。爆発リスクを徹底的に排除している。
刑務所ならではの制限だ。

流し台、冷蔵庫、吊り棚、そして調理器具用の収納。
どれも展示品のように整然と並び、埃一つない。

棚を開けていくと、鍋、ボウル、トレー、皿などが一式揃っているが刃物類だけが完全に姿を消している。
その代わりに、スライサーやカッターなど、怪我や殺傷に繋がりにくい安全設計の道具が整列していた。
当然と言えば当然の配慮だが、ここにだけ配慮が言っているのが逆に浮いているように感じられる。

部屋の奥には、大型の冷蔵庫が設置されていた。
中を開けると、中にはリンゴ、レタス、にんじん、ミニトマトといった、明らかに新鮮な食材がぎっしりと詰まっていた。
恐らく刑務作業の開始時に補されたのだろう。色も艶も申し分ない。温度管理も完璧。傷みの兆候すらない。

トビは棚からリンゴを一つ手に取った。
艶やかで、手にずっしりとした重みがある。
警戒を解かず、ほんのひとかじり。
舌先でじっくりと感触と味を確かめ、毒の痺れを感じたら即座に吐き出せるように数秒噛みしめる

問題はなかった。
ごく普通の、シャキッとしたリンゴだった。
トビは残りを齧り、無言のまま芯まで飲み込んだ。

最後に彼は、外周部の食料保管庫を確認する。
ドアを開けた瞬間、冷気が足元に流れ込んできた。
食品の品質保持のためだろう、ここだけは明確に低温に保たれている。

棚には、保存食、缶詰、乾燥野菜、真空パックの肉類、米、小麦粉、調味料など、長期保存前提の食料がきっちりと分類・整理されて並んでいた。
それは備蓄というより、供給拠点と呼ぶべき水準だった。

トビはしゃがみこみ、棚の下部を観察する。
そこには、スライド式の搬入口ダクトが設置されていた。
下層フロアの倉庫から定期的に補充される設計であるようだ。
この空間の意図が、いよいよ露骨に浮き彫りになってきていた。

ここまでの施設に何の警戒すべき点などない。
本当に何の変哲もない生活区域だ。
だが、トビの警戒は、もはや緩むどころか、ますます研ぎ澄まされていくばかりだった。


南東ブロックを後にし、トビが次に踏み入れたのは北東ブロック。
施設案内によれば、この区画は衣食住で言うところの「住」。
すなわち生活の中核として整備されているらしい。

トビにはここが最も理解不能な区画だった。
食事や医療はまだ分かる。衣服もまあ状況によっては必要だろう。
だが、この極限状況で、ここで生活するという発想に至る人間がいるはずもない。

命を賭けた刑務作業の最中に、シャワーを浴びて、着替えて、眠る?
そんな呑気な馬鹿が、この鉄火場にいるとは思えなかった。

そう、頭の中で悪態をつきながらシャワールームのドアを開けた。
瞬間、かすかに湿った空気の残り香がトビの鼻先を撫でた。

(うそだろ……? 誰か、使った跡がありやがる)

床に目をやれば、濡れた足跡がいくつもタイルの上に残っていた。
それは乾きかけており、使用はごく最近。
足のサイズと重心の位置から見て、女性、それも軽量な人物であると判断できた。
考えるまでもなく、あてはまるのはただ一人、ヤミナだ。

「まさか……この状況で、シャワーを浴びてたのか?」

思わず、驚愕を吐き出すような声が漏れた。
今は刑務作業という名の殺し合いが繰り広げられる最中だ。
命のやりとりが当たり前に行われているこの場所で呑気にシャワーを浴びるなど、正気の沙汰とは思えない。

バカなのか、それとも、よほど大物なのか。
ここまでの軌跡を追う限りまあ前者だろうと、安易に結論付ける。
彼にしては珍しい、相手を軽く見積もる結論だった。

当然の流れであるが、足跡の導線を追っていくとそれは隣接する更衣室へと続いていた。
その流れを追ってトビは更衣室のドアを開け、慎重に中へと入る。

トビは、室内をひと目見渡す。
室内にはスチール製の棚と簡易ロッカーが整然と並び、壁際には全身鏡と簡素なベンチが設置されている。
床は滑り止め付きのゴムマット張りで、転倒防止まで考慮された作りだった。
部屋の位置関係的にシャワーを浴びて、仮眠室で眠る前に着替えるための施設だろう。

(こんな状況で、パジャマにでも着替えて眠るバカがいるってのか?)

通常であればいるはずがないと断ずるところだが、彼の中の自信が僅かに揺らぐ。
苦笑交じりに内心でツッコみながら、棚を一つひとつ確認する。
いずれも中身は空で使用された形跡はない。
だが、ひとつだけ、ハンガーの向きが不自然にズレたロッカーがあった。

(ヤミナが使った跡か。例の警備服にここで着替えでもしたか?)

脱獄王の目に狂いはない。
彼女の足跡は、確実にこの更衣室を経由していた。
念のため、足元や棚の隙間などもチェックするが、特に異常は見られなかった。

それを確認して、更衣室から続く廊下を抜け、トビは仮眠室へと足を踏み入れた。
部屋の中には、シンプルな金属製ベッドが6台。
それぞれに、真っ白なシーツと枕が丁寧にセットされていた。

全体的に清潔で、埃ひとつ見当たらない。
シーツには皺も、枕には使用の痕跡もない。
トビはどこか安心したように静かに息を吐いた。

(……さすがに寝てはいなかったか)

もし本当にこの環境で熟睡していたのなら、もはや正真正銘の大物だと思うしかなかった。
そうならなかった事に心底安心したように胸をなでおろす。
いくらなんでも、この状況で仮眠を取るほどの図太さはなかったらしい。

各ベッドの下、マットレスの隙間、枕の下なども念入りに確認していくが、隠し物や仕掛けは何も見つからなかった。
この部屋は本当に仮眠をとるためだけの空間のようだ。

シャワーで身体を清め、着替えを用意し、清潔なベッドで睡眠をとる。
施設側は、ここで人間らしい暮らしが成立することを前提に設計している。
だが、殺し合いと言う前提がある以上そんなものは成立しない。

逆に、それが成立するとしたなら?

それはどのような条件が考えられるのか。
脱獄王は僅かに考え込み、仮眠室を後にした。

そして、次は――2階最後となる北西ブロック。
警備室と屋内放送室が存在する。情報の要である。


最後の調査区画、北西ブロック。
これまで巡ってきた2階各所が生活に必要な衣食住を担っていたとすれば、
このブロックは、それらすべてを俯瞰し、管理するための情報の要所と見なすべき場所だった。

まずトビは、ブロック最奥の屋内放送室へと足を踏み入れる。
そこは小さな小部屋だったが、密度の高い機材が整然と配置されていた。
壁には防音パネル。音響調整用のスライダーが並び、
天井には吊り下げ型の放送用マイクとエコー制御システムが組み込まれている。

中央の卓上コンソールには送信スタンバイと記されたタッチパネル。
照明は落ちており、音もない。
だがその整備状況は、これまでの部屋と同様、今すぐにでも使用可能な状態だった。

今この場で放送する必要性はない
だが、念のため使い方だけは把握しておくべきだろう。

トビは一通り操作系に目を通し、手順を頭に入れる。
この放送設備は、全体放送はもちろん、1階・2階の各ブロック単位での個別送信も可能な設計になっていた。
それらの操作法を一通り頭に叩き込んでから、トビは次の目的地、警備室へ移動する。

警備室のドアを開けた瞬間、モニターの群れが視界に飛び込んできた。
壁一面を占めるディスプレイ群の大半は、すでに起動状態。
誰かが使用したまま、席を立ったような痕跡がそのまま残っている。

これまでの御多分に漏れずヤミナによるものだろう。
トビはそう察しながら無人の椅子に腰を下ろし、制御端末に手を伸ばす。

並んだモニターを順に確認する。
階段部屋、工場エリア、配電室はいずれも映像が表示されていない。
腐敗毒の残滓や、超力によってカメラが破損でもした影響だろう。
機能を喪失している可能性が高い。

一方、図書室の映像は生きてはいるが、何かが画面に覆い被さっていて様子がよく見えない。
だが、隙間から人影が動き、争っているような様子がぼんやりと確認できた。

画面を切り替える。
集荷エリア、補助電気室――ここでも明らかな戦闘の兆候があった。
爆炎が走り、影が跳ね、床を転がる人影が一瞬だけ映り込む。

さらに次の映像――物置室を映す画面に視線を移す。
そこには見覚えのある白髪の少女――エンダ・Y・カクレヤマが、ひとりの青年と共にエルビス・エルブランデスと交戦中だった。

(足止めの約定……続行中、ってわけか)

約束が守られていることに、トビは小さく頷いた。

さらに画面を切り替える。
今度はエントランスホール。
そこでは、鎧をまとった内藤四葉の姿が映し出されていた。
どうやら複数の人物と入り乱れた、三つ巴の戦闘が発生しているようだった。

「……何やってんだ、あいつ」

呆れ混じりに小さくつぶやく。
生存はモニタリング室で確認済みだが、どうやらこちらとの合流は放棄し、また別の喧嘩に首を突っ込んでいるらしい。
もっとも――こっちも、彼女を待たずにエンダと契約を交わし、独自に2階の調査を始めてしまっている以上、人のことは言えないのだが。

その戦いを最後まで見届けることなく、トビはモニターの前から立ち上がり警備室を出た。
そして2階最後の調査地点――上り階段へと向かう。

警備室から続く通路を進み、階段室に入る。
構造は、1階から上がってきたときと変わらない。
何の変哲もない鉄とコンクリートで構成された、冷たい上り路。

そこに立ち止まり、トビはふと背後を振り返る。
背後に広がるのは、ブラックペンタゴン2階の全容。
そこに広がっていたのは、あまりにも整いすぎた快適な生活のための空間だった。
トビは全体を見渡して得た結論を口にする。

「……確定だな。こりゃ罠だ」

吐き捨てるような声に滲んでいたのは呆れと、確信と、警戒。

空調、水道、電力、衛生。
衣服があり、医療があり、食料があり、警備設備まで整っている。
すべてが正常に稼働し、今すぐにでも生活できる水準で、このフロアは完璧に仕上げられていた。

衣服がある。
医療がある。
食料まである。
情報も、手に入る。

それらは本来、恩赦ポイントと引き換えに得るべき報酬だったはずだ。
だが、ここではそれらすべてが、無造作に、無料の景品のように提供されている。

これは監獄ではない。
鉄格子で閉じ込めるのではなく、自ら望んで留まるよう誘導する、柔らかな檻。
このフロアがそういう目的として設計されているのは誰の目にも明らかだった。
そして同時に、一見して誰でもそう思うくらいには、あまりにも露骨すぎる仕掛けでもある。

「こんな分かりやすい罠に、引っかかる奴がいるか……?」

一瞬、そう思った。
だが、すぐにその問いを自ら否定する。

極限状態にある人間にとって、最低限の快適さは命綱に等しい。
それは単なる安楽志向ではなく、水と食料、衛生、治療といったものは直接的な死活問題に繋がる。
むしろ、欲望ではなく合理として、罠と知りながらも選ばざるを得ない者もいるだろう。
生きられる場所が提供されたなら、そこに留まろうとする者がいても不思議ではない。

だが、それでもシャワー室や仮眠室まで完備された構造には別の違和感もある。
仮に誰かがここに避難してきたとして、殺し合いの真っ只中の状況で果たして本当にシャワーを浴びたり、眠ったりする者がいるのか?
……実際に、ひとり呑気に浴びていた輩がいたため、強く断言はできないのだが。
殺し合いから24時間を乗り切るための一時的な避難所でそこまで無防備を晒す者などそうはいないはずだ。

ならば、逆にこう考えることもできる。

もし、殺し合いが起きなかったとしたら、この施設も利用される可能性はある、という事だ。

この刑務作業はただ一人の生き残りを決めるデスゲームではない。
受刑者たちが恩赦を諦め争いを放棄すれば、全員で生き残る道もあるのだ。
我欲に塗れたアビス住民がそのような選択をとるのかは別にして、共存の可能性も理屈の上では存在する。

その停滞状態に備えるための用意が、ここなのではないか?

殺し合いが成立しなかった場合に備えた空間。
争いを放棄し、共存に転じた受刑者たちを集めるために用意されたもの。
その可能性を想定すれば、このフロアの過剰な設備にも一応の整合性はつく。

だが、そこで新たな疑問が生まれる。
何のために? という点である。

恩赦という報酬を提示し、受刑者に闘争を促すのがアビスの意図のはずだ。
それに反する共存者のために、快適なセーフゾーンを用意するなど、あまりに不自然で、甘すぎる話だ。
断言してもいいが、このアビスに限ってそんな事があるはずがない。

つまり――この場に受刑者を「留まらせること」た先がある。
集まった受刑者を別の用途へ誘導する何かがあると考えるべきだ。

このフロアはそのための餌場。
快適さを報酬にして、対象を一か所に集める罠。
恩赦制度の価値が揺らぐこの無償奉仕の不公平感も、罠のために仕掛けられた釣餌であることが知れれば、それを羨ましがる者はいなくなるだろう。
つまりは、この状況を知った人間が「行かなくてよかった」と心底から口にするような地獄が待っていればいい。

あるいは、それこそ一人もここから逃さなければ、情報が外に漏れることなく完全なる口封じ完了だ。
それほどの罠が待っているのかもしれない。

集めた受刑者をガスでも流して皆殺しにすると言うのはないだろう。
この殺し合いは明らかに何か目的があって行われている。
刑務官たちは受刑者をただ殺すだけなら、いくらでもできる立場にある。
奴らが重視しているのはその過程だ。

どのようなタイミング、あるいは切っ掛けでどのような罠が発動するのか。
トビが調べるべきはその仕掛けだ。

少なくともその答えはこのフロアにはないだろう。
あるとするならば、それはこの先。

トビは視線を上げる。
脱獄王の眼が、階段の先を見据える。

ブラックペンタゴン、最上階。
鉄とコンクリートに覆われたこの建物の頂き。
そこには知られざる秘密が眠っていると、目される場所である。

だが、あからさまに大事な物がここにございます、という場所に本当に大事な物を置くバカはいない。
しかし、それでもそこに何かあるとトビは確信していた。

トビが焦点を合わせるべきは、これを仕掛けたヴァイスマンの思考。
この階層が餌だと分かっていても餓えている者には無視できな場所であるように。
罠だと分かっていても避けられないのが本当に狡猾な罠だ。

闘争を望む者には1階を。
安息を望む者には2階を。
そして、真実を望む者には3階を。

この先に、無視できない程に重要な物を本当に置いているのが一番性格悪い。

脱獄王は足を踏み出す。
ブラックペンタゴン3階。
脱獄を果たすべくその最奥に眠る全貌を暴くために。


――私、もしかして……選ばれし者なのでは?

ブラックペンタゴン3階・展示室前廊下。
ジオラマ、システムA、システムBの模型、そして中庭に浮かぶ黒い球体。
世界の真実に触れた(気になった)女、ヤミナ・ハイドは、扉の前で両手を腰に当て、誰もいない廊下に全力のドヤ顔を投げかけていた。

「ふふっ……あっはっはっはっは!!!」

誰に向けたわけでもない高笑いが、がらんどうの廊下に響き渡る。
そう、彼女は完全に調子に乗っていた。

「これはもう、主役ですわ。舞台に立つ資格、ありますわねぇ私……!」

まるで舞台女優。ふわりと一歩踏み出して、手をくるりと振り、勝者のステップ。
警備服はきちんとボタンまで留められ、どこか制服フェチ向け企業CMの一コマにでも出てきそうな清潔感があった。
もちろん、それは錯覚である。

鼻歌が漏れる。左手を水平に振って、ひとり舞台女優のカーテンコール。
このフロアの秘密も、中庭のモニュメントも、己の掌中にあると信じて疑わない。
実際、現在この秘密を知るのは『この世界』でヤミナ一人だけである。

「この情報を誰に売りつけましょうかねぇ……エンダちゃんあたり、ちょっと悔しがるかなあ? ふふっ」

展示室の扉にそっと手を触れ、陶酔混じりに撫でる。
ヤマオリ、アビス、その構造の詳細、この情報を売れば左団扇である。
写真がないのは残念だが、きっとそれでも口頭で話すだけでも多分それなりの価値にはなるに決まっている。

「いいですね、この存在感。この鍵、この仕掛け、この中にある選ばれし者の特別ゾーン……」

私は、今この瞬間、選ばれてしまったのだ。
背負わされた宿命の重さを吐き出すように、ニヒルにふぅとため息をつく。

――その時だった。

階段の下から、コツ、コツと、鉄と靴が叩き合う硬質な足音が響いてきた。

「……ッ!?」

その時、ヤミナに電流が走る。
油断しているのか、足音を隠す気配はない。
考えるまでもない。上階を訪れた他の受刑者だ。

(ちょ、待って、なんで来るの!? 足止めはどうしたのチャンピオーーーン!?)

仕事を果たさぬ最強の守護者に内心で文句を垂れながら即座に逃走。
テンキーに『5454』を慌てて入力して、猛ダッシュで展示室に飛び込む。

「ここっ! ここは! 選ばれし者しか! 入れない、特別な、空間ですからっ!」

ドアが閉まる直前、意味のない謎のマウントを叫ぶ。
そう、ここは一万分の一の運命を引き当てた者しか入れない、最高の避難壕。
この分厚い鉄扉が、あらゆる脅威を遮断してくれる。

「……ふふん、別に怖くないですし。来るなら来ればいいじゃないですか」

展示ケースの横で腕を組み、意味もなくジオラマを指差して待ち構える。
相手は入ってこれないという確信を持って。、選ばれし者ヤミナは分厚い扉の先にいる相手を挑発するように舌を出す。

――だが。

その数秒後。
展示室のドアが、あっさりと音を立てて開いた。

「………………え?」

表情が固まる。
口元が引きつり、笑顔が止まる。
ドアの向こうから誰かが現れたのは、ぼさぼさの髪をした野良犬のような不潔気味な小柄な男だった。

「ば、ば、バカな!? こ、ここは選ばれし者にしか入れないはずの場所だったのでは!?」

動揺で言葉を噛みながら、人差し指を突き出すヤミナ。
だが、男はその叫びに対してまったく取り合わず、興味すらなさそうに返した。

「あん? パスワードのことか? 適当に押したら開いたぞ、あんなもん。多分、何入れても開く」
「……あっ、はい。すいませんでした」

ヤミナ、即降伏。

あっという間にしゅんと肩を落とし、先ほどの選民思想は綺麗に蒸発した。
世界から祝福を受けているなどとイキっていた数秒前の自分が恥ずかしい。

でも今のは仕方なくない?
ヴァイスマンの卑劣な罠だったのだ。
むしろこっちが被害者だよ。私悪くないよね?

心の中で責任転嫁を完了し一瞬で立て直す。
ある意味で逞しい女であった。

「ヤミナ・バイトだな?」
「ど、どちら様でしょう?」

名前を知られていた事にびくつきながらヤミナは何とか問い返した。
完全に場の主導権は相手に握られていた。

「エンダに頼まれたんだよ。お前の回収。俺はトビ。トビ・トンプソンだ。ま、協力者ってことでよろしくな」

語気は軽いが、目は冷静にヤミナを値踏みしている。
フロア調査のついでに受けたついでの依頼だったが、先に遭遇してしまった以上、放っておくわけにもいかない。

「へへっ。よ、よろしくお願いしまぁす……!」

声が半音上ずっていたが、ヤミナは思い切り腰を低くし、
先ほどまでの選ばれし者ムーブはどこへやら、完全な低姿勢でペコペコと頭を下げる。
目の前の相手に媚びることしか考えていないような態度であった。

「えっとですね、あの、その……展示室! ご案内しますね!」

今度は急にテンションを切り替え、がんばって有能な案内人っぽく振る舞おうとする。
トビは小さく息を吐きつつ、黙ってその後をついていった。

「えっと……こちらになります、展示室でーす!」

ヤミナ・ハイドは警備員風の制服の裾をひらひらさせながら、これでもかというほど大げさな手振りで展示室の扉を示した。
さっきまで逃げ込むように隠れていた場所を、今度は誇らしげに案内している。
態度だけは、見事なまでに案内人になりきっていた。

「展示室、か」

トビ・トンプソンは短く返し、そのまま中に足を踏み入れる。

「そ、そうです! 私が最初にたどり着いたんです、このフロアの……えーと、最深部? 特別ゾーン?」

どこか浮ついた声で、ヤミナは自らの偉業をアピールする。
振る舞いは軽いが、視線はちらちらとトビの反応をうかがっている。

トビはそれを無言で受け流しつつ、部屋の内部を見渡す。
まず目に入ったのは、部屋の中央に鎮座する巨大なジオラマだった。

「おっ、それに目をつけるとはお目が高い! これ、島全体のジオラマなんですよ! ブラックペンタゴンもちゃんと正五角形!」
「見りゃ分かる」

バッサリとした塩対応。
だがヤミナはめげない。
展示物ではなく、自分自身の価値を懸命に売り込もうとしているようだった。

「それだけじゃないんです! こっちには、ICNCとアビス、それに……ほら、あの山折村のジオラマも!」
「ヤマオリ……?」

その単語に、トビの反応がわずかに変わる。
ジオラマを用意する意味は分からないが、刑務作業の文脈上でICNCやアビスの名前が出てくるのは理解できる。
だが、ヤマオリなどこの刑務作業には関係がないはずだ。
歴史上重要な場所ではあるし、アビスの由来になっているが、そんな理由で?

「そしてこれが……」

次にヤミナが案内したのはガラスケースに入った展示物だ。
白く光る球体が納められたケースには『システムA』と書かれ、隣の空のケースには『システムB』と表示されていた。

「……なんだこりゃ?」
「すごいですよね! たぶん、こう……世界の真実的な? 核心っぽい? アレですよ、アレ!」

自信たっぷりに言いながら、すぐ目をそらす。
説明している本人がどこまで理解してるかは怪しい。
その様でよく情報屋の真似事ができると思ったものだ。

「えっと……」

トビの反応が渋いことに気づいて、取り成すように慌ててヤミナが自分の得た情報を絞り出す。

「あっ。そうだ! この島のジオラマなんですけど、ちゃんとブラックペンタゴンの形も見えるし……えーと、ここ、中庭です!」

ジオラマの中央を指差すヤミナ。
そこには、見覚えのない、黒い球体のようなモニュメントが不気味に浮かんでいた。

「なんだこりゃ……?」
「ああ。それならそこから見えますよ」

ヤミナは展示室の隅にある、控えめな内窓を指さす。
内窓など、1階にも2階にもなかったものだ。
ヤミナは小さな窓の方へと駆け寄り、再びそこから顔を突き出して覗いてみせた。

「ほらっ、見えますよ。中庭に、黒い球体。あれです」

そう得意げに指さす。
トビも続いて窓に顔を寄せ、黒曜石のように浮遊する球体を確認する。

「確かにあるな……何なんだあの球体は?」
「し、シンボルっていうか、キーっていうか……うん、そういう重要アイテム的な何か……だと思います!」

思います、で締めるなよ、とトビは内心でツッコみながらも、それ以上は何も言わなかった。
この女が何を知っていて、何を理解していないか。
いや、もしかしなくても、何も理解してないかもしれない。

目の前の相手へ期待することを完全に諦めたようだ。
ため息をついて窓から身を引き、トビは展示室全体をもう一度振り返る。

「? ………………ッ!?」

その目が、徐々に驚愕するように見開かれた。

「……ああ、クソッ! そういうことかよ、チクショウ!!」

突然、トビが叫ぶ。
その声音には、驚きと怒りと、何かに気づいたような焦燥が混ざっていた。

「ど、どうしたんですか……!?」

急に声を荒げたトビに、ヤミナはびくりと肩をすくめ、慌てて問いかける。
だが、トビはそれに構っている余裕はなかった。

窓の位置から振り返ったトビの目に映ったもの。

それは、システムBの空ケースに、島のジオラマがすっぽりと収まってる光景だった。
窓の位置から見える展示物の位置関係によって、その光景は生み出されていた。

完全に計算された構図。
それの意味する所を、トビは正しく理解した。

――つまり、この島こそ、『システムB』なのだ。

システムAと同じくシステム化された超力によって生み出された異世界。
それこそがこの刑務作業の舞台となる孤島の正体。

それを理解した瞬間、トビの脳内でバラバラだった断片がひとつに繋がった。
そして同時に、脱獄王たる自分に課せられた役割までもが見えてしまった。

トビが脱獄を目指すことまで含めて、ここまでの行動すべて、ヴァイスマンの掌の上で踊らされていた。
そう気づいたトビの腹底には煮え立つような忌々しさがあった。

ここが超力で作られた世界である事を脱獄王が知るのはヴァイスマンの予定通りの出来事であるはずだ。
そうでなければ、脱獄のアプローチがまるで変わる。
トビの想定した通り、トビがシステムBのテスト要因であるのなら、これは知らねばならない情報である。

だが――本当に、全てがヴァイスマンの計算通りなのか?

大枠ではその通りだろう。
けれど、どんな完璧な計画にも、必ず誤差は生じる。

例えば、トビがこの事実を知るのは想定通りであっても。
このタイミングで3階に到達し、システムBの正体に気づいたことは本当に、想定された順路だったのか?

1階の門番、エルビス・エルブランデス。
あれを配置したのは、明らかにヴァイスマンの手だ。
2階の目的を考えるに、奴を配置した目的は上階への進入を時間的に制御すること――つまり足止め役だ。

あの怪物の抑止力は、そう簡単に突破されることを想定していないはずだ。
だが、トビはエンダの協力を得て、その壁を回避して強引に突破した。

さて、この行動は想定内か?

将棋でもチェスでも、序盤の定石は存在する。
開幕数手の展開なら、最適解が計算可能だ。
だが、中盤以降は局面が指数的に分岐し、正確な予測は困難になる。
変化が連鎖し、思惑を超える偶然が局面を塗り替える。

刑務作業が始まってから、すでに時間は動いている。
受刑者たちの行動、思惑、偶然。
それらが予測不能の歪みを生んでいるはずだ。

たとえ、今の状況が想定内だったとしても、
後半になればなるほど、ヴァイスマンの予測は乱れ始める。
その乱れこそが、勝機だ。

どうせこれも見ているんだろう? ヴァイスマン。

お前の意図も、想定も、思惑もすべて理解した。
俺に求める役割もな。

望み通り脱獄はしてやる。
だが、お前の思惑の中には納まるつもりはねぇ。
お前の想定ごと脱獄してみせるぜ。

期待して待ってろ、くそ野郎。

【D-4/ブラックペンタゴン 3F北西ブロック 展示室/1日目・午前】
【トビ・トンプソン】
[状態]:疲労(小)皮膚が融解(小)
[道具]:ナイフ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.ヴァイスマンの思惑ごと脱獄する。
0.ヤミナを引き連れブラックペンタゴン3Fの調査と検分。
1.内藤 四葉と共闘。彼女の餌を探しつつ、護衛役を務めてもらう。
2.首輪解除の手立てを探す。構造や仕組みを調べる為に、他の参加者の首輪を回収したい。
3.銀鈴との再接触には最大限警戒
4.ブラックペンタゴンには、意味がある。
※他にも確保を見越している道具が交換リストにあるかもしれません。
※銀鈴、エンダが秘匿受刑者であることを察しました。
※配電室へと到達し、電子ロックを無力化しました。

【ヤミナ・ハイド】
[状態]:疲労(小)、各所に腐食(小)
[道具]:警備員制服、デジタルウォッチ、デイパック(食料(1食分)、エンダの囚人服)
[恩赦P]:34pt
[方針]
基本.強い者に従って、おこぼれをもらう
0.トビに媚びる
1.下の階へのルートを確保する
2.エンダと仁成に会ったら交渉、ダメそうなら逃げる
※ドン・エルグランドを殺害したのは只野仁成だと思っています。

090.色褪せた昔話 投下順で読む 092.永遠
089.鋼鉄のブレックファースト 時系列順で読む 000.[[]]
私は特別! ヤミナ・ハイド [[]]
We rise or fall トビ・トンプソン [[]]

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年06月22日 17:35