風が草原を渡り、丈高い穂をさらさらと撫でていく。
陽は高く昇り、薄雲を透かした陽が光の筋を落とし、歩く二人の影を短く地面に刻む。

湿った土の匂いと、尖った草の香りが、一歩進むごとに鼻をかすめる。
雲の切れ間から覗く空はどこまでも澄んでいたが、その青にふさわしくない重さが、少年の胸を覆っていた。
迷いは影のように背にまとわりつき、進むべき道を曇らせている。

道を歩むのは、二人。
一人は、青い髪と中性的な顔立ちを持つ少年――北鈴安理。
痩せた肩に囚人服を羽織り、重たい罪と悔いを隠すように、目を伏せながら歩く。

その隣には、同じく囚人服を纏いながらも、不思議と聖職者の気配を帯びる男――夜上神父。
静かな歩みに揺るぎはなく、清らかさと威厳、そして世界そのものに向けた慈愛が滲み出ていた。

彼らの視線の先、草の波が途切れ、地平の果てに黒く異形の建物――ブラックペンタゴンの影がぼんやりと姿を見せ始める。
その入り口は、もうそう遠くない。

神父の歩みは一定で、どこまでも迷いがない。
それとは対照的に、隣を歩く安理の足取りは、その心のように未だに揺れていた。

この数時間で語られたのは、罪と衝動、自己否定と希望――そして生きる意味。
神父は言った。「決めるのは、あなた自身だ」と。

けれど、安理の中では、まだ答えは出ていなかった。
この辺りで進路を北西へと変えなければ、灯台へ向かう道から外れてしまう。
決断の時は、近づいていた。

そのとき、神父がふと足を止め、安理の方へ顔を向ける。

「安理君。己が歩むべき道は、定まりましたか?」

静かな問いかけ。
灯台へ向かい、イグナシオとの再会を信じるか。
あるいは、彼の遺志を継ぎ、世界の真実を追うか。
神父の問いに安理は足元の草に揺れる影を見つめながら、小さく首を振る。

「……まだ、分かりません」

胸の奥で渦巻く思考は、草原を吹き抜ける風のように、どこかへ流れていくばかりだった。
それでも神父は微笑んだ。

「人生において、迷いは決して無意味ではありません。
 悩むことは、成長の種となる。
 若き魂に与えられた試練――どうぞ、存分にお悩みなさい」

その声には、安理の迷いを責める色は一切なかった。
だが次の瞬間、神父の声色がわずかに厳しさを帯びる。

「……ですが、現実というものは、時に容赦なく決断を急かします。
 旧約聖書におけるコヘレトの言葉にはこうあります――『全てのことには時がある』と。
 選ぶべきその時を逃せば、選択肢そのものが、永遠に失われるのです」

一節を語るその声音には、どこか切迫した静けさがあった。
安理は顔を上げる。戸惑いの色が、その瞳に浮かぶ。

「……どういうことですか?」

神父の瞳はまっすぐに空を映し、告げた。

「――まもなく、第二放送が始まります」
「……!」

その一言に、空気が変わった。
張りつめるような緊張が、草原の静寂を裂いた。
安理もすぐに、言葉の意味を悟る。

「放送では、死者の名が読み上げられます。
 もし、イグナシオ・“デザーストレ”・フレスノの名が告げられたなら――君が灯台へ向かう意味は、失われる。
 その時、君の進む道は“自分の意思”ではなく、“結果”によって決定されてしまうのです」

その言葉は、深く安理の胸を刺し貫いた。
確かに、もし彼の死が告げられたなら、灯台に向かう理由は消える。
だが、それは――自ら決断せず、ただ成り行きに身を委ねた結果ではないか。

「……そんなのは、イヤだ」

かすれた声が、草の音に混じって漏れた。

「ボクは……フレスノさんの死を、言い訳にするような真似……したくない……」
「だからこそ、今なのです」

少年の葛藤を、肯定するように。
そして、背を押すように。
決断すべきは今だと。

「選びなさい。今、この瞬間に。
 世界の状況や他人の意志に流されるのではなく、あなた自身の心(かみ)の声に従って」

安理は、目を閉じた。
風が肌を撫でる。
草の音、土の香りが近くなる。

想像する。
これまで想像する事すら避けていた――最悪の未来を。

もし、イグナシオが死んでいたら。
その現実を突きつけられた自分は、果たして立っていられるのだろうか。

ひとりでは、心の軸すら保てない。
誰かに縋ることでしか自分を支えられない、そんな弱さを抱えたままでは……きっと崩れ落ちてしまう。

ようやく芽生え始めた『真実を追い求める』という意志さえ、霧のように溶け、失われてしまう気がした。
その未来を想像するだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。

逃げ出したいという自分がいる。
「放送が終わってから決めればいい」――そう自分に言い訳して、選択を先延ばしにしてしまいたい。
そうすれば、選ばずに済む。責任を負わずに済む。

いつだって、自分はそうだった。
衝動に任せて動き、後悔し、そして逃げる。

だけど。
これまで出会った人たち。共に過ごした時間。
それらが確かに教えてくれた――それでは、もういけないと。
そんな自分を、もうこれ以上、自分自身で見限りたくなかった。

気づけば、拳を強く握りしめていた。
爪が掌に食い込み、じんわりとした痛みが走る。
その痛みが、混乱する思考の濁流を一筋、切り裂いてくれた。

そして、胸の奥――ほんの微かな灯火に気づく。

誰が生きているか死んでいるかではない。
自分は何を選ぶのか。
その一点を見据えて、決めなければいけない。

従うべきは他人の声ではない。
揺らいでも消えない、自分の意志だ。

夜上神父の語っていた『神』とは、きっと、このことなのだろう。
自らの選択であれば、たとえ何があっても、前に進める。
確信はない。けれど、流されるよりは絶対に良いと、今は言い切れる気がした。

顔を上げ、目を開く。
澄んだ神父の瞳と、まっすぐに向き合う。
すべてを見透かしているようなそのまなざしに、震える呼吸を整えながら、安理は言葉を紡いだ。

「ボクは……真実を追い求めたい。
 誰かに、そして……自分に、誇れる自分になるために」

もう、誰かの背中に隠れて歩くのはやめにする。
あの人に再び会えるなら――今度は胸を張って、誇れる自分で会いたい。
でなければ、たとえ灯台に辿り着けたとしても、自分は何者にもなれない。

「だから、ボクは……ボクが、行きます。
 神父さんと一緒に、ブラックペンタゴンへ」

静かな空気を切り裂くように、まっすぐな声が放たれる。
その瞬間、神父の瞳がわずかに細められ、柔らかな光を湛える。
そして、胸の奥に絡みついていた鎖が――ひとつ、確かに外れた。

「――おめでとうございます」

夜上神父の顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
歓喜でも、驚きでもない。ただ、深く静かな祝福の笑みだった。

「あなたは、己の心で道を選びました。
 その選択を、神は祝福します」

そう言って、神父は一歩、前へと歩を進める。

自己嫌悪と罪悪感に苛まれ、曖昧な性認識と獣性を抱え、未熟な正義感と強すぎる承認欲求を抱いた少年。
彼が認められたいと願うのは他者ではなく他ならぬ自分自身だ。

その心が本物であれば、他者に縋る選択肢を取るはずがない。
故にこそ、神父にとっては、少年のその選択肢は予想された結論だった。
もし仮に選択が逆であったなら、その場で彼を不合格として切り捨てていただろう。

安理は知らない。
自らの存在が、いまこの瞬間、生かされるか否かの分岐点に立っていたことを。

安理は、神父に続いて、一歩踏み出す。
そして、肩を並べる様にもう一歩。

「さあ、行きましょう。ブラックペンタゴンへ」

二人は並んで歩き出す。
その先には、この世界の中心にそびえ立つ、黒き異形の建物。

何が待ち受けているのかは、まだわからない。
けれど、今の安理の足取りには、確かに迷いがなかった。

先ほどまでとは違う。
自らの意志で、選び取ったその一歩。
その歩みは、かすかに震えていたが――確かに、前へと進んでいた。


門をくぐった瞬間、二人は息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、静まり返った戦場の残響――激しい破壊の痕だった。

天井から吊り下げられた白色照明は、まだ生きている。
だが、その光を受けるはずの漆黒の大理石は、鏡のような輝きを失い、蜘蛛の巣状にひび割れ、剥がれ落ちていた。
赤黒い染みが点々と床を汚し、その上には鋼の矢やボルトが無造作に突き立ち、あちこちに抉れた穴が口を開けている。

空調がかすかに動いているのか、それとも壁の孔からの隙間風か。
微かな気流が散らばった鋼片を鳴らし、薄い鈴のような音を響かせていた。

「……ふむ」

夜上神父が足を止め、ホール全体を見渡す。
何かに気づいたように一歩踏み出すと、沈黙の中にカツン、と靴音が響いた。
安理も慌ててその背を追う。

「安理君、足元に注意を。矢やボルトの影に、鋭い破片が潜んでいます」
「……はい」

安理は膝をわずかに緩め、慎重に体重を分散させながら、一歩一歩を置くようにして進んだ。
割れた大理石が光を鈍く反射し、足元の影を水面のように揺らしている。
散らばった籠手の破片が照明の光を拾い、ちらりと視界を奪う。

そこに残っているのは、戦いの興奮でも、栄光でもない。
ただ、誰かが選び、そして迎えた結末の温度だけだ。

喉が渇く。
けれど、足は止まらない。

「…………うっ」

次の瞬間、安理は思わず口元を押さえた。

鼻腔を刺す血の匂い。金属の臭い、そして焦げた空気。
ひび割れた床の縁には、赤黒い残滓が乾いて張り付いている。

それは、人の形すら保っていない、砕けた命のなれの果てだった。

夜上神父は無言でその前に進み、静かに跪いた。
そして胸の前で十字を切る。

「御名において、ここに眠る者の魂に、平安あらんことを……」

しばしの黙祷ののち、神父は立ち上がり、安理を振り返る。
その声音に動揺はなく、ただ淡々と、だが確かな意志を込めて言った。

「争いはすでに始まっているようですね。どうやら、我々はかなりの後発のようだ」

その言葉は今からでも引き返すかと、言外にそう問うているようだった。
安理は視線を前に向けたまま、短く答える。

「進みます。そこに真実があるのなら」

夜上は満足げに目を細め、頷く。

ホール正面には、フロアマップが設置されていた。
ひびが走ったその表面に、センサーが反応して淡く光が灯る。
そこに現在地と一階の構造が表示される。

「……階段は南西ブロックにあるようですね」
「そのようですね。ですが、まずはこのフロアの安全確認と探索を優先すべきでは?」
「ボクは、上階に向かいたいのですが……ダメでしょうか?」

安理と夜上の間で意見が割れる。
真実を求める安理は、秘密の眠っていそうな上層へ早く向かいたい。
そこで何かを掴み取って、灯台で胸を張ってイグナシオと再会したい。
その想いが彼を上へと駆り立てていた。

一方の神父は、別の価値基準で動いていた。
より多くの者と相対し、見極め、審判を下したい神父は、受刑者が潜むかもしれないこの階の探索を望む。
二人の方針は根本のところで相いれない。

「構いません。あなたの方針に従いましょう」

だが、意外にも神父はあっさりと折れた。
今の夜上にとって、最大の観察対象は安理である。
彼の選択を見届け、その心の在り方を見極めること。
まずは彼の審判に集中するのもよいだろう。

「行きましょう、安理君。君の歩む道を、見届けるために」

神父がゆっくりと歩き出し、安理もその隣に並ぶ。
かつて静謐だったはずのエントランスホール。
今やそれは、戦場の爪痕が刻まれた門となっている。

階段のある内側部に向かってエントランスホールの奥へと進む。
その内壁に近づいたところで、神父がふと足を止めた。

「どうしました?」

神父は答えず。
何か不穏な気配を感じているのか、厳しい視線で分厚い壁の向こうを見つめ、静かに首を振った。

「…………いえ、気のせいでしょう」

歩き出す。
その先に待つものは、希望か、絶望か。
だが安理の足取りは、もう揺らがなかった。

【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・昼】
【北鈴 安理】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。自分なりに、調査を進め弱い人を助ける探偵として動きたい。
0.夜上神父と共にブラックペンタゴンへ同行することを選択。
1.イグナシオの安否を気にかけてはいるが、依存せず、自分の意志で真実を追うことを優先。
2.バルタザールがまだ破壊の限りを尽くすようなら、被害をできるだけ抑えたい。
3.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
4.常時発動能力に変質できるなら、したい。でも、心がそう納得してくれない。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。
※彼の超力は、子供らしい不安定な状態を未だに抱えています。今後変質していく可能性が高いです。

【夜上 神一郎】
[状態]:多少の擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
0.ブラックペンタゴンに入り、探索開始。同行する安理を最大の観察対象として、彼の「審判」に集中する。
1.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
2.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
3.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
4.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
5.バルタザールの動向に興味。いずれ対話し審判を下したい。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
 ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。

111.Der Freischütz(前編) 投下順で読む 113.第二回定時放送
時系列順で読む
青龍木の花咲いていた頃 北鈴 安理 傍観者
夜上 神一郎

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最終更新:2025年09月18日 20:06