草の波が、風に揺れていた。
空は晴れ渡っている。
だが、汽水域の川にほど近いこの草原には、わずかに湿気を含んだ風が吹いていた。
どこか遠く、気圧が崩れているのかもしれない。
風の輪郭に混じる、目に見えぬしこりが、微かに肌を撫でる。
その川を見下ろすような位置に、ぽつんと男がひとり立っていた。
まるで、作り物めいた芸術品のような男だった。
黒曜石のような黒髪は一筋の乱れもなく流れ、雪のように白い肌は体温の気配を拒絶している。
唇は常に薄く引かれ、表情はほとんど揺らがない。
その完成された容姿は、人の生を拒絶する対称性の恐怖を孕んでいた。
自然界には存在し得ない精度で整えられた彫刻のように、彼の容姿にはわずかなズレすら許さない、見る者を不安にさせる恐ろしさがある。
男の名は――氷月 蓮。
この刑務作業において鬼札(ジョーカー)の役割を与えられた男。
運営の中枢に位置する看守長に命じられ、今まさにその任務を実行しようとしていた。
彼は静かに、左腕に装着されたデジタルウォッチを操作する。
投影された立体地図が、薄い光をまとって宙に浮かび上がった。
プロジェクションの淡い輝きが頬を照らし、そこには三つの赤い光点が浮かぶ。
一つは氷月へ向かってくるように南へと緩やかに移動し、残る二つは静止していた。
氷月はしばし黙してそれを見つめ、特に集団から遠ざかってゆく一点の動きを、静かに視線に焼きつける。
「……勇敢だね」
その動きの意図を察したかのような呟きが風に紛れる。
その声は、賞賛とも、皮肉とも取れる曖昧な響きだった。
氷月の操作により地図の投影が消えた。
風の音だけが、再びこの高原を支配する。
空が広がり冷えた風に草がうねる。
氷月の瞳もまた、その風と同じだった。
どこまでも透明で、凍てついていた。
――準備を始めよう。
道具、手段、タイミング。
超力に導かれるように殺意の設計図が、頭の中で静かに展開されていく。
すべてが氷月の脳内で、最適解として構築され、殺害の工程は既にほとんど完成していた。
彼は再びデジタルウォッチに指を走らせる。
後は、足りないものは道具だけ。
それを用意すべくジョーカーとして保有する特権ポイントを消費して物資を申請する。
指先の一動作で、申請は完了した。
数分の沈黙の後。
空間の一点に、かすかな歪みが生じる。
そして目の前に出現した要求物が、草の上に音もなく着地した。
「……ほんの少し、時間がかかったか」
さすがのアビスといえど、これを即座に用意するには時間がかかったのだろう。
だが、それでも数分で用意できたこと自体、評価に値する。
氷月は転送されたそれを一瞥する。
要求を満たすその完成度に、唇の端がわずかに持ち上がる。
殺意の形が、今ここに揃った。
彼は静かに立ち上がり、先ほどの光点があった方角――川の向こうを一度だけ見やる。
その先に、獲物がいる。
陽光が風に砕けて舞い、
その中を、彼の衣の裾が、静かに揺れた。
殺人鬼は、動き出す。
無音のまま、ただ確実に。
■
草が鳴る。
風が鳴る。
胸が、鳴る。
日月は、草原の南へ向かって歩いていた。
背後に、川の匂いが遠ざかっていく。
乾いた土を踏むたびにかすかな光が揺れる。
草を抜けるたび、風が彼女の裾を引いた。
それがまるで、誰かに「やめろ」と引き留められているようで、いっそ腹立たしかった。
けれど、彼女の足は止まらない。
止まるわけにはいかなかった。
日月は、覚悟を決めていた。
日月は、自分の決断がどういうモノなのかを理解している。
一人で氷月に向き合うということの意味を、誰よりも深く知っていた。
その重さと怖さを噛み締めながら、だが、それでも進む。
「……まったく、ね」
自嘲にも似た笑みを浮かべて、口元だけで呟いた。
自分でも、馬鹿だと思う。
けれど、しかたがないじゃないか。
自分が行かねばならないと、そう思ってしまったのだから。
叶苗もアイもまともに動けない。
動けるのは自分だけ、だから自分がやるしかない。
だけど、そんなのは言い訳だと自分でも分かってしまう。
見捨てて逃げてしまう選択肢だってあったはずだ。
そうしなかったのは、きっと。
川辺での叶苗との会話が脳裏に思い出される。
彼女が語った、ごく当たり前の、けれど失ってしまった幸せの記憶。
そのどれもが、日月にとっては余りにも眩しかった。
だからこそ、叶苗が泣いたとき日月は彼女を抱きしめた。
自分でも無意識だった。
「ジャンヌに託されたから」と言い聞かせていたが、本当はそれだけじゃない。
あのとき日月は、叶苗という少女の根っこに触れた気がしていた。
誰かに傷を抉られて、捻じれて、それでも、優しくなろうとしている心に。
絶望の闇の中でも光を失わぬその在り方に。偶像を見たのだ。
(私は……あの子が、救われて欲しいと思った)
誰かのための祈り。
アイドルをやっていた時だって誰かのためじゃなく、自分のためにやっていた。
そんな身勝手で自分本位な自分がこんなことをしているなんて、滑稽すぎて笑ってしまう。
けれど、尊き偶像のためなら死んだっていい。
元より日月はそういう人間だった。
ならば、汚れ役を担うのが日月の役目だ。
『どんな罪を犯そうとも、人は必ず、抱きしめて許してくれる人を求めてるんだって』
叶苗の言葉が蘇る。
あの時は、綺麗事だとすら思った。
けれど今、その言葉は風の中で震えながら、自分の心の奥に残っていた。
(あの子は、今もそれを信じてる。氷月にすら、救いを与えようとするかもしれない)
止めなければ。
それができるのは、もう自分しかいない。
この場にジャンヌはいない。
あの子たちを託された、自分がやらなきゃならない。
胸の鼓動が跳ねた。
それはまるで、ステージ直前の高鳴りだった。
あの頃の自分が感じていた緊張と、期待と、恐怖。
光が射す寸前の、闇の静寂。
(ここが私の――ステージ)
ぽつんと佇む草原で、独り言のように呟いた。
たった一人だけの彼女のステージ。
ステージの上ならばアイドルは無敵だ。
胸の奥で鳴るような、身を震わせるような細かな振動。
日月は足を止め、その鼓動に耳を澄ませる。
緊張と高揚を示すようなその音は、徐々に高まってゆき、そして。
――――日月の隣を、通り過ぎて行った。
(ッ。違う…………!?)
瞬間、気づく。
この音は自分の鼓動じゃない。
外から響く異音だった。
敵が来る方向に集中しすぎて視野狭窄になっていた。
音の正体を探ろうと、遠ざかっていく音の方向を振り返る。
違和感が背中を撫でた瞬間、日月の表情が凍る。
なら、今も鳴り響くこの震えのような音は。
ぱち、と何かが頭の中で点いた。
「……ッ!!」
日月は踵を返し、全力で来た方向へと引き返していた。
足が土を蹴り上げる。
緊張と疲労で心臓が悲鳴を上げる。
呼吸が追いつかず、肺が焼けつくように熱い。
それでも、止まれなかった。
風を裂き、草をかき分けて、ただ走る。
視界の端が白く泡立ち、思考は祈りに近づいていく。
「――間に合って……!」
風を裂いて、日月は走った。
出遅れてしまった事実に血の気が引く。
全身が泡立つような最悪の予感がある。
あの子が信じた赦しという夢。
そして、もう一度自分の人生をステージに戻すという夢。
その全てが、今――奪われようとしている気がしてならなかった。
氷月連という名の悪魔に。
■
エンジン音が、風を裂いていた。
跳ね飛ぶ水飛沫が太陽を受け、空に細く小さな虹を散らす。
川面を鋭く切り裂きながら、黒いゴムボートが疾走していた。
操縦するのは氷月だった。
風に髪をなびかせながら、無表情のまま前を見据えている。
その表情に、一片の迷いも感情もなかった。
吹き抜ける風は殺意の糸を解すように彼の頬を撫でるが、心の温度は一度たりとも揺れなかった。
艇は、2050年製の最新型単座高出力ゴムボート。
この艇は、ジョーカーとして保有する特権ポイント80ptを費やし、氷月が申請・取得したものだ。
やや高価ではあるが、氷月にとってはどうでもいい話だった。
ジョーカーのポイントなど降って湧いた拾い物にすぎない。
殺すために必要な道具があるなら、そこに迷いはない。
それはあくまで「必要経費」。それ以上でも以下でもない。
彼の視線は正面から一度も逸れなかった。
川の中央を滑る艇の軌道は、彼に挑むように立ちはだかろうとした光点をあっさりと迂回していく。
正面からの決闘を選んだ者の決意や覚悟をあざ笑うように。
覚悟、信念、対話。
他者の意思など一切考慮しない。
氷月にとっては、そんなものは目を向ける価値すらない。
今、彼が気にしているのはその視線の先にあるものだ。
その視線の先には穏やかな水面が広がるばかりで、何の障害も存在しない。
だが、そこには目に見えない大きな問題が一つ存在していた。
艇がこのまま直進すれば、川を抜けB-6エリアの湖――すなわち『禁止エリア』に突入することになる。
それは、この流路を選ぶ以上、避けようのないルートだった。
だが、氷月は当然そのリスクを織り込み済みだった。
『警告します。禁止エリアに侵入しました。30秒以内に該当エリアから離脱してください』
首輪が短い電子音を鳴らし、警告のカウントダウンが冷たく響いた。
だが、氷月の瞳には焦りも、急きも、存在しない。
エリアの幅は約500メートル。
警告から爆破までの猶予は30秒。
端をすり抜ける程度ならともかく、現代人の運動能力をしても走って通り抜けられる距離ではない。
仮にそれを可能とする超人がいたとしても、木々の並ぶ森林や高低差のある地形では達成不可能だろう。
だが、障害物のない水上であれば話は別だ。
川の流速、艇の出力、艇体重量、空気密度、風向き、距離。
すべての変数を氷月は即座に把握し、すでに答えを出していた。
このゴムボートは通常モデルではない。
特別仕様として、エンジン出力を50馬力にまで改造されている。
地形からしてゴムボートの用意はされていたのだろうが、転送に時間がかかったのは、おそらくこのカスタマイズの調整が必要だったからだろう。
警告音が耳元で冷たく響く中、彼は何も言わず、ボートの出力を最大に上げる。
轟音とともに水面が割れ、艇は風のように加速する。
最大速度はおよそ時速70km、秒速に換算すれば約19.4メートル。
この特注艇で最高速のままエリアに突入し、最短直線ルートを進めば、25.7秒で通過できる。
それが今、氷月の計算通りに動いている。
これは、年密な計算のもとに構築された、殺人計画。
障害物がなく最短距離で進める水上であればこそ実行可能な横紙破り。
自らの命の綱をギリギリで飛び越えるその所業も、氷月にとっては想定の中に過ぎなかった。
警告音が首元で繰り返される。
風が叫び、艇が風そのものになる。
命の砂時計が、音を立てて落ちていく。
そして――
警告音が、止んだ。
艇は川を渡り切り、禁止エリアB-6を通過したのだ。
氷月の計算通り規定時間内に通過したことで、爆破は起こらなかった。
氷月は無言でボートを減速させる。
波の音が静まり、やがて風が戻ってくる。
草の穂を撫でる音が、世界に溶け込む。
そして彼は、川縁の草陰へ、艇体をそっと寄せ停船させた。
ゴムボートから草原へ、静かに足を踏み入れる。
殺意だけを道標に。
破壊だけを目的として。
静かに、恐ろしい程にいつも通りの足取りで氷月は歩き出す。
草の匂いが、濃くなる。
もうすぐだ。
もうすぐ、獲物のいる場所に届く。
■
草が、風に揺れていた。
高原の窪地に、ぽつんと沈んだ静寂があった。
陽は高く登っていたが、時折流れる雲が地表にまだらな影を落とす。
色彩を失ったような光景の中、小さな木のそばに、叶苗がぐったりと座り込んでいた。
彼女の生きは荒く、頬にはうっすらと熱を帯びた赤が走っていた。
腕の傷口から滲む熱が体内に籠もって、思考をぼんやりと霞ませている。
隣では、アイが口元を押さえ、うつろな目で袖を噛んでいた。
喉の渇きが、もう限界だった。高く上った日の光すら恨めしい。
乾いた唇が割れ、呼吸は浅く、声も出せない。
ふたりの時間は、風の音だけに支配されていた。
カサ、と草が割れる音がした。
その一音に、アイが動物のようにビクリと反応を示した。
微睡んでいた虚ろな目が開かれ、気だるげだった叶苗も反射的に顔を上げる。
視界の奥、草をかき分けて近づいてくる人影があった。
その姿を認識した瞬間、彼女の表情がわずかに緩んだ。
「……え、氷月……さん……?」
警戒と安堵が、濁った水のように心の中で混ざり合う。
痛みと熱にぼやけた頭では、適切な判断ができない。
日月が警告していた言葉と、叶苗の脳裏によぎった惨劇を予感する直感。
だが、それよりも先に蘇ったのは、あの廃墟で心を和らげてくれた穏やかな彼の姿だった。
(あれ……? この人は……ここにいて、いい人……だったっけ?)
叶苗は自分に問いながらも、はっきりとした答えを出せない。
あの廃墟で過ごした穏やかな6時間が危機感を緩やかに歪めていた。
「…………ぅうぅ」
「……あい、……あいちゃん、大丈夫……?」
叶苗がそう声をかけたとき、アイは口を開けかけて、かすれた音を漏らす。
氷月はその様子をじっと見つめていた。
表情は、いつも通り穏やかだった。
優しげな目、柔らかな声。仮面の下は、何も見せていない。
「やぁ。君たちの様子が、どうにも気になってね」
そう言って彼が取り出したのは、小さなビニール袋だった。
中には、ほとんど残りがないほどの、透明な液体が一口分だけ残っている。
氷月は袋を器用に捻り、掌に小さなくぼみを作ってその液体を注ぐ。
掌の上にこぼされた水は、光を映して静かに揺れていた。
太陽の光がきらめき、ひとしずくの命が彼女の前に差し出されているようだった。
「アイ、喉が渇いてるだろう? これは君の分だよ」
氷月の声はいつも通り穏やかだった。
風に溶けるような微笑とともに、掌をそっと差し出す。
アイは何の戸惑いもなく顔を寄せた。
何故ならアイにとって、氷月は優しい人だったから。
何度も笑ってくれたから。
今も笑っているから。
彼女は迷いなく舌を伸ばし、掌の水を掬おうとした。
――その瞬間だった。
氷月の右手が、空を裂いた。
まるで、指揮者がタクトを振るうような所作だった。
優雅で、洗練されていて、どこまでも流麗な動き。
だが、その手にあった銀の刃は、無慈悲に空気を切り裂き、沈黙を裂いた。
――シャンと、まるでシルクの裂け目を指でなぞるような微かな金属音が、一拍遅れて叶苗の耳に届いた。
動きに一点の無駄もなく、意志の濁りもなかった。
演奏を終えた指揮者のように、氷月が静かに身を翻す。
掌の水が、こぼれ落ち、草の上に飛び散った。
それを、合図とするように。
アイの頸元から、深紅の花が咲いた。
音もなく吹き出した血が、空へ跳ねた。
赤い雨が降り注ぎ、草の海にぽたり、ぽたりと、紅を落としていく。
指揮者が締めくくりのように宙に振るったナイフから、赤い糸が飛び弧を描いた。
穂先を伝って広がる紅。
全てが、あまりにも静かで、あまりにも一瞬だった。
命と、水と、血の区別が曖昧になるほど、全ては溶けて滲んでゆく。
それは、まるで一つの美術作品が、完成した後の静寂だった。
「……っ、あ、……あい、ちゃん……?」
叶苗の掠れてた声は、息よりも小さかった。
目の前で起きたことが、理解できない。
数秒前まで生きていた、小さな命。
無垢で、疑わなかった存在。
その命が、今、沈黙の中で崩れ落ちている。
あまりにも現実味がなさすぎて、脳が理解を拒絶する。
倒れたアイの小さな身体が、風に揺れる。
その頬には、わずかに笑みの名残が残っていた。
鉄の匂いが混じった赤い草が揺れる。
「すばら、しい」
氷月が呟いた。
それは誰に向けた言葉でもなかった。
彼は興味すら失ったように目の前で絶命した少女に視線すら向けていない。
ただ、自分の中に広がっていく感覚を、静かに観察しているようだった。
時間をかけてアイを懐かせ、警戒心を解かせた。
そして、飢えと渇きに気が付きながら黙認し、少女たちに火種を残した。
これは廃墟での6時間。その結実である。
切れ味の鈍った錆びたナイフでも、適切な箇所に、適切な角度で、適切な速度で振るえば肉は裂ける。
人を殺すために生まれた力。人を殺すための己が本質。
その証明を果たした殺人鬼は感激に打ち震える。
彼にとって25年ぶりの殺人。
そして、生まれて初めて振るう超力。
そこまでして実行した殺しは、年代物の美酒のように最高の味わいだった。
「……ど、うして……アイちゃんを……」
叶苗の声は震え、掠れていた。
喉が強ばり、言葉にならない。
その問いに、沈黙のまま陶酔に沈んでいた氷月の目が、ゆっくりと叶苗へと移る。
その顔には、何一つ変わらぬ微笑。
ただ、空白と静寂、感情の抜け殻のような存在がそこに立っていた。
氷月は、ほんの一瞬考える素振りを見せると、事もなげに口を開いた。
「アイを先に殺した理由かい? 彼女は僕に懐いていたし、殺すのは簡単だったからね。
傷を負った君を残したほうが、今後も処理しやすいという打算もあった。それに、君には尋ねたい事もあったからね」
ただ効率を求めた答え。皆殺しの最適解。
そこに感情はなく、人間らしさなんてどこにも見当たらない。
だが、叶苗が問うているのはそういうことではない。
「違います……! どうして……人殺しなんか……!」
「どうして? どうしてか……そうだな、本質を問う問いだ……簡単に答えるのは中々に難しいね」
足元の草を靴先でそっとかき分けながら、思案するように呟いた。
命題を与えられた哲学者のような所作で顔だけをこちらに向け、丁寧で優しい声音のまま語りかけるように続ける。
「旧約聖書では、最初に殺人を犯したのはアダムとイヴの子、カインだった。
神に選ばれなかった怒りが、弟アベルを殺す引き金になった。
衝動、嫉妬、支配欲。衝動的であれ計画的であれ殺人とは、己が許容できない倫理を越えたときに発動する、ただの作用だと僕は考えている」
叶苗の視線は震えながらも氷月に向かう。
だが、彼はその視線を意にも介さず、まるで講義をする教師のように語り続ける。
「……ちがう、聞いているのは、そういう事じゃ…………」
呟かれる叶苗の声は、もはや風に溶けそうなほど小さかった。
噛み合わぬ回答。だが復讐者として人を殺した叶苗には刺さるものがあった。
「たとえば、ハンナ・アーレントは言った。『悪とは、深さのない凡庸さである』と。
つまり人が人を殺す時、必ずしもそこに崇高な理由があるという訳ではない。
命令されたから、状況がそうさせたから。あるいは――そこにできそうな隙があったから。
殺人とは特別な行為ではなく、それだけで充分なんだよ」
彼の言葉は、冷たくも理路整然としていた。
知的に語るその態度は、廃墟で共に過ごした時と何一つ変わらない。
「アルベール・カミュは『人間は世界に意味を求めるが、世界には意味などない』と記した。
殺人も同じ。意味をつけようとするから、苦しむ。
僕はそれが滑稽に思えてね。意味がないなら、ただ行えばいいだけさ」
ふと、氷月の口元が微笑みに染まる。
「『人間は、どこまで許されているかを試したい生き物だ』
ドストエフスキーも、そう書いていた……」
「……ッ! そうじゃない…………ッ!!」
言葉を遮るように、叶苗が叫ぶ。
喉から絞り出すような、その声は悲鳴のようだった。
「…………そうじゃ、ない」
まるで、宇宙人と会話しているかのようだ。
理論も倫理も何もかもが何処までもかみ合わない。
そこにあるのは理解不能な悲しみだ。
「君は、こう言っていたよね?」
氷月は急に声を変え、やや芝居がかった調子で繰り返す。
「『どんな罪を犯そうとも、人は必ず、抱きしめて許してくれる人を求めてる』――だったか」
その瞬間、叶苗の顔が上がった。
凍りついたような衝撃がその表情に走る。
「……どうして……それを……」
その問いには答えず、氷月はそっと笑みを深め、優しく、囁くように問いかける。
「なら、叶苗。君は、僕を――赦せるかい?」
にこりと、微笑む。
かつて彼がアイや叶苗に向けた、あの穏やかな笑み。
「僕を……抱きしめてくれるのかな?」
その常と変わらぬ様子が何よりも――――悍ましい。
叶苗はようやく目の前の人間の本質を理解する。
彼にとってはアイの殺害は、廃墟で過ごした時間と変わらぬ日常の些末事。
殺人とは特別な行為ではなく、容認できないモノを排除するための手段でしかないのだ。
脳裏に浮かぶ、赤いリビング。
家族を殺した悪鬼羅刹の鬼畜ども。
理解する。目の前の男は奴ら以上の、この世に存在してはならない悪魔だった。
「…………っっ!!」
涙が浮かぶ。
だが、それは絶望ではない、怒りだ。
全身の血が煮え立ち、胸の奥に蓄積された信頼や赦しが、反転する。
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
獣性をむき出しにして少女が吠える。
家族を殺された理不尽は確かに耐えがたい悲しみだっただろう。
だが、その理不尽を乗り越え、苦しみを抱えながらでも生きていく、辛くともそれが普通の生き方だ。
だが、叶苗はそうではなかった。
ただの少女が当たり前の生き方を選べず、人生全てを燃やしてでも復讐を成し遂げた。
どうしても、大切な人間を殺した相手を許せない。
それが――――叶苗の悪(アビス)。
「ああ……その剥き出しの感情こそ、人間だ」
慟哭めいた叫びを受け、満足そうに死神が笑う。
赦しなどと言う絵空事で、矜持を汚した偽善者。
どれだけ綺麗事を唱えようとも、一枚皮を剥げばその本性を露にする。
それが証明できただけ彼の溜飲は下がった。
「私は――あなたみたいな人間を、絶対に赦さない!!」
声が裂けた。
叫ぶと同時に、叶苗の身体が跳ね上がる。
ユキヒョウの獣人としての本能が、その瞬間、臨界を超えて爆発する。
白い影が、風を裂いて走った。
しなやかな筋肉が波のように収縮し、破れた傷口の血管すら一時的に閉ざされる。
獣の跳躍。
地を蹴る音すら残さぬ、刹那の超加速。
常人にはもはや視認すら不可能な速度だった。
草が弾け、爪が閃く。
氷月の目が、すっと細められる。
その視線は、叶苗のすべての動きをすでに見ていた。
重心の移動。肩の回転。空中姿勢。
引き絞られた脚筋、引き起こされる慣性。
彼女の動きは、全て氷月の中で最適解として構築されていた
『殺人の資格(マーダー・ライセンス)』
脳内で導かれる、たった一つの答え。
氷月は、予定されたその形に、自らの動きをぴたりと重ねる。
相手の動きが見えている必要はない。反応すら不要だ。
彼にとって殺人とは予定調和の動きをなぞるだけでいい。
そこに超人的な動きなど必要ない。
彼は、この刑務作業が始まってからというもの、指先一本の動きから呼吸の一つまで、狂いなく意識し続けていた。
今や、脳内の像と肉体の動作はコンマの誤差もなく一致する。
すれ違いざま――銀光が、しなやかに走る。
刃が流れるように宙を滑り、獣の急所を撫でる。
ネコ科獣人特有の、しなやかな肋間の隙間。
筋繊維と神経の継ぎ目。
血管と肺と心臓の境界。
そこに、寸分違わぬ軌道で刃が刺さり、抜け、刺さる。
何度も。迷いなく。美しく。
獣の踏み込みで舞い上がった葉が散る中、前進する叶苗の身体が氷月を通り抜ける。
その軌道は、美と死が融合した、たった一筆の鋭利な線だった。
爪は虚空を裂き、何も掴めないまま。
そして、一陣の風が吹き抜ける。
まるで、すれ違うことすらあらかじめ約束されていたかのように。
氷月の姿は、もう彼女の背後にあった。
背筋を伸ばしたまま、整然と歩くように。
■
――全力疾走の足音が草を踏みしめる。
日月が走っていた。
草原を越え、丘を駆け、風を切り裂く。
逆流する風に目を細めながら、肺を焼くような息を吐き続ける。
一秒でも早く、一歩でも近く。
アイと叶苗のもとへ。
その一心だけで、身体を突き動かしていた。
高原の窪地。
風が旋回する草原の中心。
高い草の隙間を抜けた瞬間、視界が開ける。
「……ッ!」
駆け付けた日月の目の前に現れたのは、近づいてくる叶苗の姿だった。
氷月に攻撃をかわされ、勢いのまま前方へつんのめるように飛び込んできた彼女が、まるで自らを抱き留めさせるように、一直線に駆け寄ってくる。
「叶苗――――!」
間に合った。
そう思った。
走りながらも、その身体を受け止めるように腕を差し出す。
だが――次の瞬間。
赤い飛沫が、叶苗の全身から噴き上がった。
「……ッ……!?」
日月の頬に、その返り血が飛んだ。
熱く、重く、滑るように頬を伝う。
光が、それを照らす。
陽光が、赤をきらめかせる。
――まるで、ステージ照明のようだった。
真紅のライト。
演出のように完璧な血飛沫が、空中で輝いた。
叶苗の身体が、崩れ落ちる。
あまりに軽く。
あまりに脆く。
腕に収まる寸前、重さのないその身が、砂のように崩れていく。
「……叶苗……? ……叶苗っ!!」
抱きとめたその身体は、川辺で抱きしめた暖かで柔らかなものとはまるで違っていた。
硬直と弛緩の入り混じる四肢。
抜けていく体温。
息のない沈黙。
強く抱きしめても、温もりは戻らない。
逆に、腕を伝ってこぼれ落ちていく。
日月の目に、涙はなかった。
けれど、何かが胸の奥でひっそりと崩れ落ちていった。
「やぁ。日月さん」
風に倒された草の向こう側、
赤く陽光の揺らぐ草原の果てに、氷月が立っていた。
人を殺した直後とは思えない、整いすぎた呼吸。
血の気も熱も感じさせない、色のない透明な存在。
それはまるで、感情を持たない凍てついた月。
風が草を撫で、草は一斉に斜めへと倒れる。
ちょうどその隙間に、日月と氷月の視線が一直線に交差する。
穏やかな顔をしたまま、殺人鬼は告げた。
「ようこそ。ここが――君が望んだ、ステージだ」
その言葉に、日月の胸が、静かに震える。
確かに、彼女は望んだ。
一対一で、氷月と対峙するこの状況を。
状況だけ見れば、邪魔者はなく、望み通りであると言えるだろう。
ただ、守るべき者は、もうないけれど。
そして、この状況は氷月にとっても理想的な状況だった。
叶苗とアイの身体能力は、氷月を上回っていた。
だから彼は、真正面からの戦闘ではなく、懐柔と分断を選んだ。
だが、それは警戒心を見せていた日月の存在によって失敗することとなった。
だが、今は違う。
氷月が最も警戒していた獣人の叶苗がアイの暴走によって負傷し。
氷月を最も警戒していた日月が二人の元を自ら離れた。
廃墟で一人ずつ切り崩していくよりも、よほど楽な仕事だった。
日月は精神的に厄介な存在だったが、肉体的には脅威ではない。
体術に心得があるといっても、アビスで通用する域には達していない。
少なくとも氷月でも十分に組み伏せられる相手だろう。
叶苗とアイの二人を排除し、一対一の状況になった時点で氷月の勝ちは揺らがない。
懸念すべきは超力が未だ不明であるという点だ。
これを無視する程、氷月は愚かではない。
だが、今に至っても出していないという事は実戦的なものではないと判断するのが妥当だろう。
時間をかけていたぶるもよし、素手で締め落とすもよし。
正面から組み伏せるのもいいだろう。
日月の殺し方など、それこそ無限に見えている
日月は叶苗の身体を、そっと地面に寝かせた。
震える指先でその髪を整え、額に一度だけ触れる。
それは、別れのキスにも似た祈りの仕草だった。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
かつてのステージで、光を浴びるその直前の緊張と覚悟を思い出しながら。
背筋を伸ばし、姿勢を整え、前髪をかき上げる。
指先が、頬についた血を払う。
赤い指先を、紅を引くように唇に添える。
その所作はまるで、本番前、メイクを整えるアイドルのような仕草だった。
日月は、真正面から氷月を見据える。
その瞳に、確かに炎が灯っていた。
「……ステージと言ったわね――殺人鬼」
氷月にとってはただの皮肉。
だが、もし彼に落ち度があるとすれば、それはその一言だっただろう。
風が鳴る。
草が揺れる。
空が広がる。
誰もいない、何もないただ広いだけの草原。
彼にとっては殺しのフィールドであり、彼女にとっては――。
観客はいない。
照明は太陽。演出は風。
それでも、命を燃やし尽くすためのステージは、確かにそこにあった。
熱を上げる日月の瞳を、何処までも冷めた冷ややかな瞳が見つめ返す。
その殺人鬼の脳内には『殺人の資格』によって提示される幾つもの殺人計画が浮かんでいた。
提示される無限の道筋が、強固な選択に絞られ最適化されていく。
「――決めた」
氷月は、静かに囁いた。
氷月は日月という存在を殺すためのひとつの最適解を選択する。
刃を構える。
整えられた肉体が、計画通りの所作をなぞる。
踏み込み、角度、捻り、距離、タイミング。
全てが寸分の狂いもなく、刃として閃く。
殺人と言う一点において『最適』の超力。
放たれる一撃は文字通りの必殺だ。
発動した以上、何人たりとも逃れようがない『予定された死』の実行だった。
「……!」
だが――その必殺の刃は、外れた。
日月が咄嗟に身を捻る。
ほんのわずか、それこそ紙一重の距離で、ナイフは空を斬った。
だが、『殺人の資格』に失敗はありえない。
避けようがないからこその最適解だ。回避など許されるはずもない。
それが外れたということは、考えられる理由はただ一つ、氷月自身が動作を誤ったということ。
そう結論と反省を瞬きの間に終わらせると、氷月は即座に次の手に移った。
再び、『殺人の資格』が発動する。
失敗した第一案を切り捨て、新たな最適解を選択する。
踏み込み、腕の伸展、草の抵抗、風の流速、視覚誘導。
環境までを含んだあらゆる変数を再調整し、新たなルートが描かれる。
これまで以上に慎重に、確実にその動きをなぞる。
今度こそ仕留めた――その確信と共に、再び刃が閃いた。
だが。
その一撃も、空を斬った。
今度は、日月が動いたわけではなかった。
ただ、氷月の足元、血で濡れた草がわずかに踏み込みを狂わせた。
その偶然により生まれた誤差が、ナイフの軌道を狂わせた。
「……何だ、これは」
氷月の目が、わずかに見開かれる。
最適解の像が脳内で霧散していく。
収束していたはずの殺意が、空転する感覚。
完璧なはずの計画に、ノイズが混ざり始めていた。
「はぁ――――ッ!」
その時だった。
氷月が困惑している一瞬の隙をついて――日月が動いた。
旋回するように踏み込み、
踊るようなステップから、鋭い蹴りを叩き込む。
氷月はとっさに腕を交差し、受け止める。
だが、衝撃は凄まじかった。
腕がしなり、力を殺すように後方へと受け身を取るも、体勢は崩れた。
「……くっ」
凄まじい脚力だ。
衝撃を逃がすように氷月は地を蹴って距離を取る。
(……おかしい)
想定以上の日月の身体能力だけの問題ではない。
それ以上に、氷月の中で警鐘が鳴っていたのは、無数にあった殺害計画が消失しつつあるということだった。
ほんの数秒前まで、彼の脳内には無数の殺害パターンが存在していた。
だが今、それは明らかに時間と共に狭まっていた。
(最適化された? ……違う)
氷月は選択肢が削ぎ落とされることを、洗練が進んだ結果の最適化と解釈していた。
だが、それは初めて超力を使用するが故の勘違いである。
最適な選択肢が絞られたのではない、選択肢そのものが、選べなくなったのだ。
あり得べからざる現象。
現代においてそれが指し示すものは一つ――超力だ。
氷月は息を整え、呟くように言葉を紡ぐ。
「…………条件付きの自己強化、いや運命操作も含むか。厄介だね」
彼の推論は、確信へと至る。
氷月はようやく、己が失敗の原因にたどり着く。
日月の超力――『偶像崇拝(アイドラトリィ)』
彼女が自分の立つ場所を『ステージ』と認識したとき、空間そのものが彼女の舞台(ステージ)へと変貌する。
そして日月は、その舞台の主役となる。
神憑りの身体能力。圧倒的な表現力。天運までも味方につける。
それは、まさに偶像(アイドル)としての具現。
人々に希望を齎すアイドルに焦がれながら、裏の世界で穢れた自分は相応しくないと諦めてきた。
そんな日月が立つのは血化粧で彩られた、鮮血の舞台。
闇に生き、光に焦がれる日月にこそふさわしい、彼女のためのステージ。
日月は、舞台の上で成長し続けている。
刻一刻と、最適解は潰され、通用しなくなっていく。
一秒前の彼女を殺せるプランでも、一秒後の彼女を殺せるとは限らない。
それこそが、彼女の超力だった。
(来る――――!)
空気が跳ねた。
次の瞬間には、日月の姿が氷月の視界から消えていた。
ダンスのステップのように軽やかに地を蹴り、足刀が寸分のズレもなく氷月の首を狙う。
それをしゃがんで回避した刹那、日月は空中で回転しながら両足を揃え、着地と同時に回し蹴りを繰り出した。
見惚れるほどにしなやかで華麗。だが、容赦のない破壊のリズム。
氷月はギリギリの間合いで躱し、後退しようとする――が遅い。
すでに、日月は次の技を構築していた。
長い髪がふわりと優雅に翻り、伸びるような掌底が氷月の鳩尾を正確に撃ち抜く。
「……ッ!」
息が漏れた。
刃のように洗練されたすべての動きが、リズムと共に襲いかかる。
それは、まるで舞台の演目のよう。
重力さえ利用したその踏み込みは、まるで舞台照明の中で踊るようだった。
(まさか……本気で踊っているつもりなのか?)
氷月は打撃を受け流しながらも、冷静に相手を観察する。
蹴りの一撃が、氷月の顔のすぐ脇をかすめる。
殺気と刃の交錯。
拳と脚が閃光のように飛び交い、そのたびに草原が震え、土が抉れる。
最適解が見ようとも刃を振るう間すらなく、防御と回避に専念せざるを得ない。
(違うな。踊っているんじゃない――演じているのか)
脳裏に浮かぶ廃墟でのミニライブ。
そう。これは彼女にとってはこれも同じ、ライブなのだ。
風が吹く。
草が舞う。
砂が空を描き、
その中心に、赤く濡れた日月が立っている。
空間と意識を舞台へと変換し、その上で演者としての最適な自己に進化する。
一度乗ったが最後、空間ごと掌握される。
乗せてはならないタイプの超力だ。
そして、すでに――ステージは成立していた。
スポットライトは氷月ではなく、日月を照らしている。
彼女は、今まさに本番中だ。
観客はいない。歓声もない。
けれどこの空間の空気、重力、運命すらが彼女に味方し、パフォーマンスを盛り上げる演出装置へと変わっていた。
彼女は確かに『主役』としてここにいるのだ。
(……勝てないな、これは)
氷月は淡々と戦況に分析する。
最適解は、舞台の上で更新され続ける。
氷月の殺人計画は、輝きを増すアイドルの速度に追いつけない。
理屈でも、技術でもなく、そう認識せざるを得なかった。
「ここは君の勝ちだ日月……仕切り直しさせてもらおうか」
氷月は即断する。
振り返りもせず、背を向ける。
その瞬間にはもう、走り出していた。
何の未練も恥じらいもない、潔い撤退だった。
彼に戦士としての矜持などない。
あるとするならそれは殺せるか殺せないか、それだけを計る殺人者の矜持だった。
「逃がすかッ!!」
日月の怒声が、風を裂く。
脚が音を置き去りにし、草を斬るように駆ける。
今の彼女は――明確に氷月より速い。
だが、その時。
氷月が振り返りもせずに、静かに声を放った。
「その二人の首輪――まだ、ポイントは残っているよ」
その言葉が空気を刺した。
「……っ!?」
日月の意識が、ほんの一瞬だけ逸れる。
叶苗とアイ。自分が守り切れなかった、ふたつの命。
今はもう冷たく横たわる、その遺体にはまだ、首輪が残っている。
『恩赦』を得るために必要な、死を積み重ねるポイント。
日月の胸に、一瞬だけよぎった。
このアビスを――生きて出る、という誘惑。
ほんの僅かでも、それの足しになるのなら――。
すぐに振り払われた一瞬の逡巡。
されど、それは致命的な迷いだった。
「っ……しまった……!!」
その隙に氷月は川岸に転がるようにたどり着く。
彼の足元には、先ほど使ったゴムボートがあった。
迷いなく乗り込み、エンジンを始動させる。
唸りを上げて動き出すボート。
水飛沫が川面に散る。
氷月は振り返ることなく、再び冷たい風を切って逃走を開始していた。
日月は、湖の岸辺で足を止めた。
遠ざかっていくゴムボート。
陽光を浴びながら、波を引き、まるで滑るように水面を進んでいく。
彼女はその様子を奥歯を噛みしめながら悔しげに見つめる。
「……っ、クソ……!」
喉の奥で低く唸るように声を漏らし、拳を握る。
風がその拳を叩き、彼女の髪を荒々しく揺らした。
水上に逃げられては、もう追いつけない。
この逃亡ルートを、氷月は最初から計算していたのか?
それとも、勝ち目のなさに即座に気づいて逃げただけなのか?
いずれにせよ――今の自分は、届かない。
胸を灼くような怒り。
それは氷月に対するものだけではなかった。
一瞬でも、恩赦に心を揺らがせた自分自身に対して。
命を懸けて守ろうとしたあの子たちの前で、
自分がまた、汚れようとしてしまったことに。
お前の勝ちだと殺人鬼は言った。
だが、勝利などどこにもなかった。
残るのは聖女に託され、守護すると誓った少女の死体。
拳が、震える。
自分自身に対する怒りが、日月の胸を焼いていた。
【アイ 死亡】
【氷藤 叶苗 死亡】
【A-5/湖畔の近く(東部)/一日目・午後】
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤、飢えと乾き(小)、自分に対する怒り
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
1.氷月蓮を殺す。
2.ジャンヌと合流する、もしくは水を探す。
3.ルーサー・キングとの接触は可能な限り避ける。
4.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。
「………ふぅ」
対岸へ渡りきった氷月は、大地を踏みしめた。
エンジンを切り、ボートを乗り捨て、何事もなかったかのように風の中を歩き始めていた。
彼は再び禁止エリアを横断し、川を越え別エリアへと到達していた。
空は高く、風は冷たい。
だが、彼の思考はどこまでも平静だった。
ノルマは未達成。
達成には、あと一人殺す必要がある。
氷月はゆっくりと呼吸を整えた。
先ほどの闘いで消耗した様子はなく、むしろ体温も脈拍も静かに均されている。
彼は目の前の現実をひとつずつ再計算していく。
日月を逃がしたことは、戦術的には確かに失敗だ。
何より、自分の本性――殺人鬼としての本質をあの女に知られたことによる損失は小さくない。
だが、氷月の表情に焦りはなかった。
凶悪犯が集うこのアビスにおいて人殺しのレッテルなど、大したデメリットにはならない。
今更このアビスで、誰かに「危険人物」だと噂されても、この場所は信用も正義も役に立たない場所だ。
せいぜい、今までのような潜伏と言う手段が使えなくなるだけで、命そのものを脅かすものではない。
「さて……どうしたものかね」
草の匂いを鼻先で確かめるように立ち止まり、氷月は柔らかく呟いた。
その声に熱はなく、どこか食卓で献立を選ぶかのような冷静さが漂う。
地図を確認する。
氷月の働きにヴァイスマンも満足したのか、日月を示す光点は既に消えていた。
ひとまずは及第点を頂けたようである。
自由となったジョーカーは次に取るべき選択肢を並べる。
引き返して日月を仕留めるか。
大したデメリットではないしても仕留めおくのがベターである。
日月の超力が条件発動型であることがわかった今、戦い方は調整可能だ。
あるいは、日月に固執せずに別の獲物を狙うのもいいだろう。
ブラックペンタゴンからの逃亡者たちが、間もなくこの辺りに到達するはずだ。
ヴァイスマンの目論見に乗って、廃墟に戻って待ち伏せを仕掛けるのも効率的だろう。
それ以外にも、新たな獲物を探して西の方に向かうと言うのも、選択肢として悪くはない。
ここには、無数の命がある。
このゲームが続く限り、殺すべき相手は尽きない。
氷月が歩みを進める。
風が草をなで、足跡だけが静かに痕を残していく。
久しぶりに口にした殺人と言う名の果実は打ち震えるほどに美味だった。
ヴァイスマンから与えられたノルマなどなくとも、また味わいたいとそう思ってしまう程に。
【C-6/川岸の草原/一日目・午後】
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ、空の金属缶(容積は500mlほど)、ロープ(使い古し)
[恩赦P]:0pt(残り特権70pt)
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.集団の中で殺人を行う。
3.被験体:Oに対抗する為の集団を探し、潜り込む。
※ジョーカーの役割を引き受けました。
恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成済)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。(残り1人)
※特別性ゴムボートを特権ポイント80ptで購入しました。
※C-6に特別性ゴムボートが放置されています。
最終更新:2025年10月04日 00:13