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夜が深い。
それは闇が降りるというより、世界が意識的に光を手放したかのようだった。

王国があった。名をハルトナという。
地図の上では小さく、歴史の上でも目立たない。
だがその王冠は、滅びの未来と引き換えに、ひとつの真実を受け取っていた。

かつてその王国には、二人の王子がいた。
長子セルヴァインと、次子グランゼル。
力を信じた兄と、対話を信じた弟。
剣と盾のように相容れない在り方でありながら、彼らは互いを否定せず、同じ未来を見ていた――少なくとも、そういう時代が、確かにあったはずだった。

だが、世界は壊れた。
正確には、壊れることが予告されていた。

迫り来る人類滅亡の未来。
王冠と引き換えに託された、あまりにも重い真実。
選ばれた者たちは皆、選択を誤った。

父王は弟を選んだ。
聡明で穏やかなグランゼルを。
兄はそれを『裏切り』と呼び、弟はそれを『対話の始まり』と信じた。

そして――血が流れた。

玉座の間で、弟は逃げなかった。
剣を抜いた兄の前に、ただ静かに立ち、最後まで兄を見つめていた。
恐怖を抱きながらも憎しみを宿さない目。
死を拒まず、それでも世界を諦めていない目。

セルヴァインは、その目を壊した。
だが壊したのは弟だけではなかった。

王位を奪い、血族を粛清し、それでもなお満たされぬ憤怒を抱えたまま。
彼は歴史から切り離され、仮面を被せられ、記憶を奪われ、『バルタザール・デリージュ』として地の底へ落とされた。

そしてまた、王家の中で殺されなかった者が一人だけ、遺された。
グランゼルの血を引く、最も幼い王子。
エネリット・サンス・ハルトナ。

殺さなかったのは慈悲ではない。
生かしたのは赦しではない。
それは『屈辱の継承』だった。

王であるはずだった兄が堕とされた恥辱の道を、弟の血にも歩かせるという、歪んだ復讐。

アビスで育った少年は、王を知らず、家族を知らず、
それでも王族としての気品と、獄中で磨かれた理性だけを身に刻み込んだ。

感情ではなく、手順で考える復讐者。
憎悪ではなく、構造で殺す王子。
皮肉にもアビスと言う環境が、この王子を育み、生み出した。

一方で、仮面の下に閉じ込められた男は、憎悪だけを推進力にして生き延びていた。
復讐の炎を絶やせば、前に進めなくなることを、誰よりも理解していた。

――そして今。
夜の底で、二つの系譜が再び交わろうとしている。

血は断たれなかった。
王家の因果は、まだこの地の底に残っている。

これは救済の物語ではない。
これは和解の物語でもない。

ただ――憎悪を燃料とする怪物と、復讐を計算する王子が、互いの存在を終わらせるために向き合う夜の話だ。

何処でもない創られた孤島で。
静かに鳴る通信機の音を合図とするように。

決着の時は、すでに始まっていた。


夜の草原は、月明かりだけで輪郭を保っていた。
風は弱く、草の穂先を撫でるたび、さざめきが小さな波となって広がっていく。

バルタザール・デリージュ――否。
セルヴァイン・レクト・ハルトナは、その波の中心に立っていた。

音を殺し、気配を沈め、獣のように待つ。
先のない左腕だけが、彼の身体の非対称を告げている。
その欠損を補うように、鎖は右の手元へ偏って束ねられていた。
握れば、いつでも鉄球を呼び出せ、この場を地獄に変えられるだろう。

ほんの少し前。
ポケットの奥で震えた通信機の電子音が、夜を裂いた。
余計な言葉は削ぎ落とされ、ただ待ち合わせ場所だけを指定する言葉だけが告げられた。

月は雲に隠れ、淡い星明かりだけが地平線を縁取っている。
焦げた鉄の匂いも、血の気配も、ここにはない。
戦場から意図的に切り離された場所。

セルヴァインは理解していた。
これは生き別れの親族が再会するような、心温まる物語ではない。

訪れるのは復讐か。挑発か。
あるいは、自ら処刑されに来た愚か者か。

どれであれ、結末は一つだ。
血で血を洗う骨肉の争いとなるだろう。

草の海の向こうから、足音がひとつ分だけ近づいてくる。
乱れがない。躊躇がない。堂々とした足取り。
逃げる者の音ではなく、獲物を探す者の音でもない。

そして影が、月明かりの縁に浮かび上がった。

整った歩幅。真っ直ぐな背筋。
囚人服は戦場の泥に汚れているはずなのに、どこか瀟洒に見える。
顔が見える距離まで来た瞬間、セルヴァインの喉の奥で乾いたものが鳴った。

青年は一定の距離を保ったまま足を止める。
月明かりが、わずかにその顔を照らした。

切れ長の瞳。
眉の形。頬の線。唇の薄さ。
そして――海を思わせる深い瞳。

脳裏に、古い光景が噛みつき、胸の奥が嫌な音を立てた。

真夏の式典。握手の列。血。
刺された弟が見せた、あの目。
怒りと混乱のただ中で、ただ一人、暴漢に手を差し伸べた――あの目。

その面差しはあまりにも似ていた。

弟の顔だ。
否、正確には『弟だった男』の面影。
死に際に見せた、あの穏やかな目を、より研ぎ澄まし、冷やしたような顔。
全てが同じ痛みを呼び起こす形をしている。

セルヴァインの掌に、知らぬうちに力が籠もる。
握っているのは鎖ではない。
鎖に繋がる、目に見えぬ衝動だ。

「――呼び出しに応じていただき、ありがとうございました」

落ち着いた声だった。
恐れも、怒りも、決意の昂りすら感じられない。
決戦を予感し、感情を努めて抑えようとしているセルヴァインとは違う。
感情を抑え込んでいるのではない。最初から感情の揺れなどないかのよう。

「改めまして。エネリット・サンス・ハルトナです。お見知りおきを、叔父上」

礼節がある。
丁寧すぎるほど整った言葉が、草原の夜と噛み合わず、かえって背筋を冷たく撫でた。

「おや、どうされました? 鉄仮面が壊れて記憶は戻っておられるのでしょう?
 まさか、私が何者であるか分からないということもないはずですが」

反応の薄さを揶揄するように、エネリットはセルヴァインの顔をまじまじと見て告げた。

鉄仮面で記憶を封じられていたことを知っている。
当人であるセルヴァインですら、輪郭を掴めなかった事実を。

不気味ではある。
だが本題ではない。

鉄仮面は確かに記憶を封じていた。
だが、記憶は戻ったのではない。
奪われ、削られ、捨てられて――それでも燃え残った灰が、再び火を持っただけだ。

「御託はいい。……本題に入れ」

セルヴァインの声は低く、掠れていた。
喉の奥に残る鉄の匂いが、言葉の輪郭をざらつかせる。

鎖が、微かに鳴る。
セルヴァインは鎖をゆっくり持ち上げた。
闇に溶けていた金属が月光を拾い、鈍い刃のように光る。

問うまでもなく、要件など分かりきっていた。

エネリットを地の底へ押し込めたのはセルヴァインだ。
恥辱を継がせるために、地の底へ押し込めた最後の遺児――その本人が、今こうして目の前に立っている。
セルヴァインは、呼吸の深さだけを一定に保ったまま、青年を睨み据えた。

「この私に、復讐に来たのだろう」

問う声は低い。
だが、それは質問ではなかった。
『そうに違いない』という結論へ至るための、確認の儀式に過ぎない。

青年は、すぐには答えなかった。
視線をわずかに落とし、セルヴァインの手元。
戦闘に至る前兆を、盤面の配置を確かめるように読み取っている。

そして、ようやく口を開く。

「叔父上が、そう誤解なされるのも……無理からぬことです」

柔らかな声音。
だが、そこに感情の熱はない。

それが、セルヴァインの神経を逆撫でした。

弟には温度があった。
冷静であろうとしても、根底に『人を想う熱』があった。

だが目の前の青年は違う。
目の前の青年は、火ではなく、研がれた硝子のようだった。

「誤解だと……? どういう意味だ」

鎖の輪が、指の間でぎしりと擦れる。
力を込めれば、即座に撃ち出せる。
草原の距離など、踏み潰せる。
その確信が、かえってセルヴァインの呼吸を荒くした。

青年は微笑む。
礼節としての微笑。
心が動いた形跡のない、整いすぎた曲線。

一瞬だけ視線を伏せ――そして。

一歩、前へ出た。

その瞬間、バルタザールの全身を殺意が駆け抜ける。
距離を詰めるという行為そのものが、引き金だった。

だが――意外なことが起きた。

青年は武器を抜かない。
拳を構えもしない。

代わりに、ゆっくりと膝を折り、
夜露に濡れた草原へ、その身を差し出すように跪いた。

頭を垂れ、無防備を晒す。
セルヴァインがその気になれば、いつでも叩き潰せる致命的な隙である。

「……?」

理解が、追いつかない。

青年は深く頭を下げたまま、震える息と共に言葉を紡ぐ。

「――お会いしとうございました。叔父上」

跪く青年の肩が、小さく揺れている。
月明かりに照らされ、地面に落ちる雫。

夜露ではない。
青年の瞳から零れる、熱い涙だった。

「……何の、真似だ」

鎖が、ぎしりと音を立てる。
鎖を握る指先に、さらに力が籠もる。

踏み潰してしまえば終わる。
今すぐ、鉄球を叩き込めばいい。

それなのに――身体が動かない。

弟の生き写しが、涙を流し、頭を垂れている。
その光景が、思考を縫い止める。

セルヴァインの脳裏に、あの夏の記憶が蘇る。
刺傷。血。差し伸べられた手。
あの、深い海のような目。

『怪我はなかったですか』

――あの時、なぜ私は、弟を誇らしいと思ってしまったのか。

思考のノイズを断ち切るように、鎖を一層強く握り直す。
金属が鳴く。
それは、自らの感傷を叩き潰すための音だった。

「お前は、復讐をしに来たのではないのかッ!?」

唸るような声が、夜へ落ちる。
鎖は隠す気もなく鳴り、交戦の意志を露わにする。

自らが背負った恥辱を味あわせるために、地の底へ堕とした。
セルヴァインが復讐を望むなら、同じ地獄を見せられたエネリットが復讐を望むのも、道理である。

「なら、歓迎してやる。ここで――その目を、血の海で濁してやる」

言い終えた瞬間、セルヴァインは気づいてしまう。
それがかつて、弟に向けて吐いた言葉と、同じ形をしていることに。

だが、エネリットは微笑を崩さない。
ただ、その奥に沈む淀みが、一瞬だけ濃くなる。
伏せたまま、目端の涙を拭い、告げた。

「叔父上が警戒なされるのも、当然のことです。
 ですが……どうか、ほんの少し、一時でいいのです。
 哀れな甥子の最後の頼みと思い、私の話に耳をお傾けください」

命乞いでもなく、服従でもない。
対等であろうとするが故の、礼。
その姿は、あまりにも王族的だった。

そして何より――その跪き方が、かつての弟と、酷似していた。

(……やめろ)

胸の奥で、何かが軋む。
セルヴァインの内側に生じたその痛みをよそに、エネリットは、顔を上げないまま、言葉を続ける。

「確かに、私は復讐のためにこの場に馳せ参じました。
 ですが――叔父上がご想像されている形とは、少し異なります」

そう告げて、ほんの少しだけ間を置いた。
草が揺れる。風が擦れる。
夜が、二人の間の空白を丁寧に広げていく。

「叔父上に復讐したいのではありません。
 私は――叔父上と共に、復讐を成し遂げたいのです」

その瞬間。
バルタザールの脳裏に、雷鳴のような衝撃が走った。

警戒は解かない。
己を裏切り、賎しくも王位を簒奪した弟の子だ。
罠や姦計を疑うのは当然であり、むしろ疑わぬ方が愚かだ。

それでも。エネリットの声には、誘導の湿り気がない。
月光の下で、決して急がず、決して迷わない。

「どういうことだ……私を恨んでいるのではないのか?」

低く、探るような声だった。
セルヴァインは、意図せず鎖を強く握ったまま問いを投げる。
それは詰問であると同時に、どこかで『そうであってほしい』という期待を孕んでいた。

親を、兄弟を、家族を。
王家の血筋を。
祖国を。

幼子であったエネリットから、すべてを奪ったのは他ならぬセルヴァインだ。
その行為にどれほどの正義や理屈を積み上げようと、奪われたという事実は変わらない。

そこから目を逸らすほど、セルヴァインは卑怯ではない。
むしろ、その憎悪を抱けと願って、巌窟のような絶望の監獄へと突き落とした。

そこで、何を得たのか。
そこで、どの様な答えを得たのか。
その答えが今、目の前に転がっている。

「恨みなど……ありましょうか」

あまりにも迷いのない否定だった。

「なにぶん、赤子のころの出来事です。記憶など、私にはありません。
 私が知っているのは、残された記録だけです。公文書、当時の資料、そして……断片的な証言」

そこに感情はない。
怒りも、悲嘆も、怨嗟もない。
あるのは、事実を切り分け、整頓するための冷静な声音だけだ。

「私は当事者ではありませんでした。
 だからこそ、自身の境遇を――第三者として、眺めることができた」

セルヴァインの眉が、わずかに動く。

「根回しを怠り、王位継承を急ぎすぎた祖父王にも非はあります。
 対話を怠り強硬姿勢を貫いた父王にも落ち度がある。
 そして……叔父上、貴方の行為にも、当然ながら責があった」

一つ一つ、秤に載せるように並べられる断罪。
偏見はなく、贔屓もなく、忖度もなく、さりとて恨みを晴らす激情もない。

「誰もが間違え、誰もが悪でした。
 その中の一人だけを切り出して『悪』と断じるのは、難しい」

夜風が草を揺らす。
鎖が、かすかに鳴った。

「ですが」

そこで、エネリットは言葉を切った。
そして、初めて顔を上げる。

月明かりに照らされた瞳は、静かだった。
だが、その海の奥底は、澱のような濁りが確かに沈んでいる。

「――明確な愚者は、存在します」

セルヴァインの喉が、ひくりと鳴る。

「……それは、誰だ」

組み込まれた演目のように、自然と答えを問う。

「民衆です」

即答だった。

「王家の内情も、世界の危機も、継承の重さも理解せず。
 ただ煽られ、流され、裏切り、そして――勝者の顔で、祖国を我が物顔で治めている者たち」

その声音に、初めて温度が混じる。
それは激情ではない。
断罪を下す者の、冷え切った確信だ。

「この裏切りは、許しがたい」

草原の空気が、わずかに張り詰める。
エネリットは内向きの笑みを浮かべ、はっきりと言い切った。

「王家の血を踏み台にした愚かな民どもを――私と共に、殺し尽くしましょう。叔父上」

それは宣言だった。
同時に、踏み絵でもある。

ありえたはずの未来。
手を差し伸べる弟の姿が、一瞬だけ幻視される。

セルヴァインの胸奥で、再び何かが軋んだ。

エネリットの恩讐の炎は、叔父である自分には向いていない。
祖父でも、父でもない。
向けられているのは――王家を利用し、裏切り、その果実だけを啜った『国民』そのもの。

その憎悪の形は、あまりにも。
あまりにも、セルヴァインと一致していた。

自分が抱き続けてきた憎悪と、同じ炎。
弟を殺した後も、決して消えなかった、この熱と。

「……続けろ」

鎖を握る手に、無意識のうちに力が籠もった。
鉄が軋む微かな音が、夜の草原に溶けて消える。
エネリットは頷き、促されるまま語り始める。

「この地に降り立った時。私はまず、自力で恩赦を勝ち取り、単独で復讐を果たすことも考えました」

エネリットは、己が計画を語る。
夜風が草を揺らす中、青年の声だけが、異様なほど澄んでいた。

「ですが、私は力不足です。これは単純な武力の問題ではありません。
 私はアビスという穴倉の底で育ちました。世界から隔絶され、外を知らず、人脈も経験もない。
 仮に出獄できたとしても、一国を滅ぼすほどの復讐など、到底成し遂げられないでしょう」

それは冷酷な自己分析だった。
己を卑下するでもなく、飾るでもなく、ただ事実を列挙する。

「しかし――他者に委ねることもできない。
 何故ならこの復讐は、ハルトナ王国の『正統な王家の血』が行うべき行為です」

言葉にわずかな重みが宿る。
王家の誇り。セルヴァインの視線が、鋭く細められた。

「それを成し得る者は、もはや一人しか存在しない。
 先王の兄であり、王権の正統性を最後まで保持している存在――」

跪いたまま、エネリットは真っ直ぐに言い切る。

「叔父上。貴方こそが、その資格をお持ちです」

夜の静寂が、わずかに重さを増した。

「貴方を恩赦によって出獄させる。
 そして――貴方ご自身の手で、王家を裏切った民どもを、皆殺しにしていただく。
 ――それが、私の復讐計画です」

静かに。
あまりにも静かに。

言葉の刃は、感情を帯びていない。
激情の噴出ではなく、綿密に組まれた手順の提示だった。
セルヴァインは言葉を失ったまま、跪く甥を見下ろしていた。

「――叔父上を恩赦するべく、集めてまいりました」

計画の証拠を示すように、エネリットは両手で一つの首輪を差し出す。
月明かりを受け、金属が鈍く光った。

夢見る無垢の怪物、メアリー・エバンスの首輪。

セルヴァインには、それが誰のものかは分からない。
だが、そこに蓄積された重みだけは、一目で理解できた。
幾多の悲鳴と祈りを吸い込み、なお残った結晶。
それを、惜しげもなく差し出している。

だが――セルヴァインは、それをすぐには受け取らなかった。

疑念が生じるのは当然だ。
あまりにも都合が良すぎる甘言である。

それでも、この申し出を一蹴できないのは――目の前の青年の顔が、在りし日の弟の生き写しだからか。
それとも、自分自身が『自由』という餌に、あまりにも近づいているからか。

鎖が、じゃらりと鳴る。
セルヴァインは慎重に、警戒を隠しもせず鎖を伸ばした。
距離を保ったまま、エネリットが差し出す首輪を絡め取るように引き寄せる。

その間、エネリットは一切動かない。
成すがまま、微動だにしなかった。

首輪は鎖に絡め取られ、宙に吊られる。
セルヴァインはそれを引き寄せ手に取った。
罠の痕跡を探すように表面を、裏側を、刻印を確認した。

これまでに手にしてきた首輪と、何一つ違わない。
何らかの加工の痕跡も、細工も見受けられない。
この刑務作業で用意された、本物の首輪だ。

訝しみながらも、その首輪を自らのデジタルウォッチへとかざす。

短い電子音。
数値が、静かに更新される。

本当に何も罠はない。
ポイントは、確かに加算されていた。

「……」

鎖が、微かに揺れた。
無期懲役犯の100pt。
ここまで過酷な刑務作業を過ごしてきたからこそわかる。
罠として投げ捨てるには、あまりにも貴重な代物だ。

エネリットが、跪いたまま問いかける。

「いかがでしょう? これまで叔父上が獲得してきたポイントと合わせて――恩赦に、届かれますでしょうか?」

恩赦。
その言葉が、セルヴァインの胸奥に沈められていた渇望を揺り起こす。

セルヴァインは答えない。
だが、脳裏で計算は終わっていた。

345ポイント。
恩赦に必要な400ptまで、あとわずか55pt。
それこそ、あと一人殺せば届きうる。
念願の自由が手に入る。

不自由な獄中に閉じ込められた30年。
バルタザールとして人生の大半を獄中で過ごした。
何度も諦め、何度も踏み潰してきた概念。

だが今、それは現実的に手の届く距離にある。

――あと一人。

たったそれだけで、この地獄から解放される。

「もし……足りないのであれば」

そう前置きしてから、その心の隙間にエネリットの言葉がさらに踏み込んできた。

「私の首輪を、お使いください」

そう言って、青年は自らの首元に手をかけた。
頭を垂れ、白いうなじをさらけ出す。

跪いたまま、逃げ場を断つ姿勢。
それは、処刑台に首を差し出す囚人の姿そのものだった。

夜風が、草を揺らす。
月明かりの下で、王家の最後の血脈は、静かに自らの命を差し出していた。

草原に、沈黙が落ちる。
セルヴァイン・レクト・ハルトナは、鎖を握ったまま動かなかった。
眼前には、沙汰を待つように首元を晒し、逃げも抵抗も示さぬまま俯いている甥の姿。

その瞬間、
脳裏に、焼き付いた光景が割り込んだ。

夏の日。
式典の喧騒。
血に染まった石畳。

刺され、倒れながらも、
なお暴漢に手を差し伸べた弟の姿。

『大丈夫ですか』

あの目。
恐怖よりも先に、他者を気遣う、愚かで、眩しい目。

――なぜ、あの時。

なぜ私は、あの男を。
誇らしいとすら思ってしまったのか。

そして今。

その弟の血を引く甥が、
同じ目をして、跪いている。

己が命を差し出すその献身に、弟の姿が重なる。

血に沈んだ夜。
叛意を起こした実の兄の手に掛けられると知り。
素直に首を差し出したあの姿に。

鎖を握る手に、力が籠もる。
この手を振り下ろすだけで、念願の自由が手に入る。

目の前の首輪を得れば、確実に恩赦へ届く。
それで、この地獄から解放される。
ならば、何を躊躇うというのか。

無論、罠の可能性は、常に頭の隅にある。
ここまで都合のいい話など、疑って然るべきだ。
それを無条件に信じるほど、彼は愚かではなかった。

だが。仮に罠だったとして、何だというのか。

セルヴァインは拡張型第一世代(ハイ・オールド)である。
瞬間的な火力においては、第二段階をすら凌ぐ存在だ。

人の域を逸脱した力に対し、小細工を仕掛けたところで何ができると言うのか。

鎖を一振りすれば、この草原も、この夜も、そして目の前の青年も――まとめて砕け散る。
単なる第二世代(ネイティブ)であるエネリットにこれに対抗する力はない。

「どうか、我が首を、お持ち下さい」

執行人の迷いを晴らすように、断頭台の囚人が告げる。
覚悟が、形としてそこにあった。

「そして――どうか復讐を、果たしてください。叔父上」

それがトドメ。
その言葉が、刃のように、セルヴァインの胸を貫いた。

復讐。

それは自分の言葉だった。
自分が、この世界に残した呪いだ。

鎖が、低く鳴る。

理解してしまった。
この青年は、自分と同じ場所に立っている。
違うのは、激情で世界を焼こうとした自分と、冷静に世界を終わらせようとする甥の、やり方だけだ。

セルヴァインは、ゆっくりと鎖を引いた。
鉄球が、地を離れる。

月光を受けて、それは凶器ではなく、まるで断罪の印のように輝いていた。

「……エネリット」

低く、噛み締めるような声。
その呼びかけには、憎しみも、嘲りもなかった。
セルヴァインの視界が、歪む。

「我が甥よ…………ッ!!」

それは自由への渇望か。
それとも、最愛の面影への哀悼か。
知らず、あふれ出た感情は涙となって零れ落ちてきた。

せめてもの慈悲。
せめてもの敬意。

だからこそ――手加減はしない。

一瞬で終わらせるため、ハイ・オールドとしての力を振るう。
それが、王家に残された者として、唯一与えられる『救い』だと信じて。

セルヴァインは、鎖を振り上げる。
そして、己が甥に向けて、全てを断ち切る一撃を、振り下ろした。

風が裂ける。
夜が悲鳴を上げる。

その刹那だった。

エネリットが、ぽつりと呟いた。

「――――――――――――――――届いた」

乾いた金属音が、夜を裂く。

エネリットの頭蓋を粉砕せんと迫っていた巨大な鉄球を、『何か』が弾いた。
叩き逸らされた鉄塊は僅かに軌道を外れ、エネリットの頭部を掠めると、その脇の草原の地面を深く抉る。
爆ぜた土と草が、衝撃波のように周囲へ撒き散らされた。

だが、それは、おかしい。

ハイ・オールドであるセルヴァインは、一切の手心を加えていない。
むしろ、全力で叩き潰すことこそが慈悲だと信じ、理性を失わぬ範囲とは言え出来る限りの出力を限界まで引き上げた渾身の一撃だった。

安定性と継続性を代償とした瞬間火力。
瞬間的な出力に限れば、百パーセントを引き出すハイ・オールドは第二段階すら凌駕する。
それを正面から弾き返せる超力など、少なくともエネリットには存在しないはずだった。

「……ふぅ。危なかったですね。本当に、紙一重でした」

誰に向けるでもなく、やれやれと息を吐く声。
額から流れる血液を指先で拭って周囲に散らす。
そして、まるで作業を一つ終えたかのように、エネリットは立ち上がる。
そこには、死を免れた者の動揺も、恐怖もない。

「なんだ…………それは……?」

セルヴァインの口から漏れたのは、怒号ではなかった。
理解の埒外に置かれたものを前にした、困惑そのものの声だった。

「ですが……ギリギリ、届いたようです」

月明かりの下。
立ち上がったエネリットの手には、鎖と鉄球が握られていた。

セルヴァインのそれと、寸分違わぬ形状。
先ほど振り下ろされた一撃と、寸分違わぬ鎖鉄球。

それこそが――鉄球を弾いた『何か』の正体だった。

「……何を、した」

セルヴァインの声が、低く唸る。
理解が追いつかないのではない。
理解すること自体を、拒絶している声音だった。

「おや。気になりますか、叔父上」

エネリットは、微笑む。
あまりにも穏やかで、あまりにも薄い笑み。

「……民衆への復讐は、俺を丸め込むための虚言だったということか」

低く、掠れた声でセルヴァインが問う。
鎖鉄球を握る手は、未だ緩まない。

「当然でしょう。私の復讐対象は貴方です。叔父上」

エネリットは即答した。
躊躇も、言い淀みもない。
そこに罪悪感や後ろめたさといった感情は、微塵も存在しなかった。

だが――それこそが、セルヴァインにとって最も許し難い。

裏切り。
騙し討ち。

弟――グランゼルを殺した理由も、突き詰めればそこにあった。
王位継承という名の裏切り。
信じた相手に背を向けられ、正統性を奪われたという事実。

その裏切りを、
今度は甥が、同じ血の名の下で行った。

憎悪は、即座に殺意へと変質する。
鎖が軋み、鉄球がわずかに震えた。

「この復讐計画において、最大の懸念は、ただ一点でした」

夜風が草を揺らす中。
まるで、事後報告のような落ち着きで説明が始まる。

「――ハイ・オールドである貴方を、どう倒すか」

それは、エネリットの復讐計画における唯一にして最大の障壁。

脳が壊れるという致命的な欠点を抱えているとはいえ、
瞬間的な出力に限れば、ハイ・オールドは第二段階すら上回る。

短期決戦においては、疑いようもなく最強。
そんな怪物を、どう攻略するか。
エネリットは、わずかに肩をすくめた。

「正直に申し上げれば。私の超力は、単独戦闘向きではありません。
 マーガレットさんの黙認に甘えていますが……それでも、叔父上を正面から打ち破るには足りない」

困惑するセルヴァインを余所に、独り言のように続ける。
信頼を媒介に借り受ける力『監獄の王子』。
継承されるたびに劣化し、再現度も出力も純粋な殴り合いには向かない。

「では、どうするか」

エネリットは、一歩踏み出す。

「答えは、単純でした」

見開かれたその瞳が、真っ直ぐセルヴァインを射抜く。

「叔父上が強いなら――叔父上の力を、使えばいい」

一瞬の沈黙。

「……何?」
「お気づきではありませんか? これは叔父上の超力です」

エネリットは、穏やかなまま言葉を続ける。

「我が超力は、信頼を担保に他者の超力を借り受けるもの」

無条件の首輪の献上。
目的への寄り添いと同調。
そして、そのために見せた命を差し出す献身。

それら全てによって、セルヴァインがエネリットに向けた『信頼』は、ぎりぎりで50%に届いた。

超力『監獄の王子』――能力行使段階【徴収】。
同意不要。信頼度50%以上の対象から、超力を強制的に借り受ける。

エネリットの手に握られた鎖鉄球が、重く鳴る。
『徴収』によって借り受けた超力の再現度は、信頼度の半分。
出力にして1/4程度だが、この超力には別の特性もある。

相手の超力出力が、借り受けた分だけ落ちるという点だ。

本来は信頼で繋がれた家臣(なかま)に使用すべき力。
だが、ひとたび敵に使えば、ほらこの通り。
こちらは強化され、相手は弱体化する。

この騙し討ちによって、セルヴァインからのエネリットへの信頼度は底値となっているだろう。
だが、それは後の祭りだ。

解除しない限り、倍率も効力も、借り受けた時点の倍率で維持される。
それは、ここまでの戦いで検証済みである。

そう。己の超力を正しく理解するために、エネリットはあらゆる激戦区に身を投じてきた。

借り、試し、確かめ、記録する。
すべては、自身の能力の仕様を把握するため。
すべては、この復讐を確実なものとするため。

夜の草原に、再び沈黙が落ちた。

「その力で、私に恨みを晴らそうというのだな」

相手の力を奪いその力をそっくりそのままお返しする。
なるほど、いい意趣返しとなるだろう。

だがその言葉に対して、エネリットは呆れたように、小さく溜息を吐いた。

「ですから、申し上げたでしょう。私は、貴方を『恨んで』などいないと」

夜気の中、その声は不気味なほど澄んでいた。

「そもそも、記憶にもない幼子の頃に行われた虐殺を、恨みに思えるはずもないでしょう」

鎖鉄球を構えたまま感情もなく言葉を重ねる。
先ほど語った内容と寸分違わない。
そこに虚偽はない。

「記録を読み、映像を見て、事実としては理解しました。思うところも確かにありました。
 ですが、体感がない。実感がない。血の温度も、悲鳴の重さも、私の中には残っていない。
 そのような空洞を――果たして『恨み』と呼べるのでしょうか?」

切れ長の瞳が、まっすぐにセルヴァインを射抜く。
そこに感情の揺れはない。

「生憎と、私はそこまで情の厚い人間ではありませんので」

ただ事実を述べるだけの声音。
怒りも、哀しみも含まれていない。

「叔父上こそ、現実をご覧になった方がよろしいかと」

ぴしゃりと切り落とすような声音。
棘を含んだその一言は、刃のように鋭かった。

「この地の底に押し込められた環境では、世俗に疎くなるのも仕方のない事ですが……新聞くらいは読まれた方がよろしいのでは?
 それとも――お付きの方に意図的に情報を制御されていたのでしょうか?」

セルヴァインの脳裏に、三十年ものあいだ傍らに寄り添い続けた看守の影が過ぎる。
エネリットは、まるで記録文書を読み上げるかのように、感情を交えず続けた。

「叔父上率いる革命軍が我が父を殺し、旗頭である叔父上を騙し討ちして設立した民主主義国家は、十年と持たず内側から瓦解しました。
 派閥争いと経済破綻を経て、軍部のクーデターによって、軍事主義国家へと生まれ変わっています」

淡々と。
あまりにも淡々と、祖国の末路を語る。
夜風が草原を伏せ、鎖が小さく鳴った。

「そして、その軍事主義国家も――確か、一昨年あたりでしたか。
 隣国に攻め込まれ、首都は陥落。領地は取り込まれ現在は地図上から消滅しています」

セルヴァインの喉が鳴った。
証拠などない、信じるに値しない言葉だ。

だが――嘘だと断じる根拠も、どこにもなかった。

祖国のその後など、不自然なほどに耳に入った試しがない。
世話係の女が、政治の話題を決して口にせず、新聞の切り抜きすら与えなかったのは。
記憶を封じられたセルヴァインを気遣ってのことだったのか、それとも。

小さな違和感が、今になって一つの線で繋がっていく。

亡国の王子は、嗤った。

「とっくに、我らに祖国など存在しないのですよ。叔父上。
 貴方が復讐すべき相手など――すでに、この世界のどこにもない」

夜に落ちるその声は空虚な響きに満ちていた。
ただ、月明かりの下、その瞳は冴え冴えとしている。
鎖鉄球を握るセルヴァインの手に、無意識に力が籠もった。

「無意味なのです、貴方の怒りも憎悪も、復讐も。全てが」

断定。
救いを一切含まない結論。

セルヴァインの胸奥で、何かが、静かに崩れ落ちた。
三十年燃やし続けてきた炎の、向ける先が――忽然と、消え失せる。

鎖を握る腕が、わずかに下がった。
力が抜けたのではない。
行き先を失っただけだ。

怒りを振るう理由も。裁くべき敵も。
王として返り咲くはずだった玉座も。
還るべき祖国すらも。

すべてが、もう存在しない。

ならば。セルヴァイン・レクト・ハルトナという人間は――――もはや、復讐者ですら、ない。

夜の草原に、答えのない沈黙が横たわる。
セルヴァインは、目の前の青年を見た。
弟の面影を宿した血の残滓。

「私の人生は――あの岩窟なる地の底で始まり、終わる。
 そこに恨みも望みもありません」

アビス。
光も、未来もない場所。
そこで朽ちるが彼に課せられた運命。

セルヴァインの自由への渇望は、自由だった人生を知る者のものだ。
だが、元より自由を知らぬエネリットにとって、それは願望にすらならない。
不満もない、不平もない、彼の世界はただ最初からそう在るだけだった。

「ならば、何故」

セルヴァインに復讐しようというのか。
祖国への想いも、家族への愛も、境遇への恨みすら、何もない。
そんな人間が、何故復讐などしようとしているのか。

「何もないからですよ」

その言葉が、夜に落ちる。

「私はただ、他にすることがないので、貴方に復讐をするのです。叔父上」

あまりにも、軽い。
拍子抜けするほどに、希薄な動機。

だが、復讐というものは、必ずしも重い動機を必要としない。
その軽さのまま、一切緩むことなく、人生のすべてを賭けるように全能力を注げる。

それこそが、この青年の異常性。
それこそが、『アビスの申し子』。

「……それが答えか、エネリット・サンス・ハルトナ?」

セルヴァインの声が、低く震えた。
セルヴァインが突き落とし、地の底に押し込めた果ての答え。

「ええ。これが貴方を殺す――答えです。叔父上」

迷いなく、即答する。
次の瞬間。

「……くっ」

哄笑が弾ける。
押し殺しかけた笑いが、決壊する。
セルヴァインは、腹の底から嘲笑を轟かせた。

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!」

狂気の笑いが、草原を震わせる。
鎖が鳴り、鉄球が地面を抉る。
もはや堪えきれぬとばかりに、巨体が揺れる。

「何という軽薄さ! 何という悪辣さか! 何という、救いようのなさだッ!!
 信じられぬ!! このような空虚が、あのグランゼルの種から生まれたのか!?
 我が叩き落した奈落の底で、お前は生まれたのか!? エネリット・サンス・ハルトナ!!」

とどろくような哄笑の後。
紅蓮の光が、セルヴァインの瞳に宿る。
ゆらりと、巨体が揺らめく。

「ああ…………」

低く、喉の奥で呟く。

「私の憎悪の向き先が――ようやく、見つかったぞ」

月明かりの下、行く先を失っていた紅蓮の殺意が、ただ一点へと定まる。

「ハルトナに残った、最後の種――」

そして、吐き捨てるように。

「――――――ここで消えろ」

訣別の言葉と共に、セルヴァインの剛腕から、鎖鉄球が振り下ろされる。
それに呼応するように、エネリットもまた鉄球を振り上げ、正面から迎え撃った。

――ここまでは、エネリットの想定通り。

セルヴァインの戦力を削ぎ、本来であれば、ここに集めた戦力を投入し、一気に叩き潰す算段だった。
だが、何もかもが上手くいくわけではない。

今は一人きり。援護も陽動もない。
ここから先は、純粋な一対一の力勝負である。

夜の草原で、二つの『恐怖の大王』が激突する。

轟音。
金属同士が噛み合い、衝突の瞬間に無数の火花が弾け散った。
白熱した光が夜気を裂き、一瞬だけ二人の影を鮮烈に浮かび上がらせる。

――打ち勝ったのは、セルヴァインだった。

エネリットの鉄球は押し負けるように弾かれる。
直撃こそ避けたものの、衝突点から伝わる圧倒的な質量差が、腕に鈍い痺れを残した。

25%と75%。
同一の超力を分け合ったとはいえ、埋めがたい出力差は歴然としている。
正面衝突では、致命打を避けるために軌道を逸らすのが精いっぱいだ。

セルヴァインは、弾かれたはずの鉄球を意にも介さず、そのまま前へ出てきた。
鎖が地面を擦り、鉄球が土を抉る。
超力の衝突が終わった直後だというのに、間合いが縮む速度が異常だった。

筋肉の塊のようなセルヴァインの脚部が、地面を踏み込む。
三十年の刑務作業で鍛え上げられた肉体で、質量そのものを叩きつけるように鉄球を前へ。

咄嗟に、エネリットは鎖を引き、鉄球を割り込ませた。
受け止めた鉄球が弾かれ、その反動が、腕を通して骨に直接響く。
空気が裂け、衝撃波が胸を打つ。

「くっ」

セルヴァインは、止まらない。
削がれた出力で、なおこの圧。
正真正銘の怪物だ。

セルヴァインの猛攻が始まる。

一撃、二撃、三撃。
鎖が唸るたび、鉄球が空間を薙ぎ払う。
土砂と草葉が衝撃波に押し上げられ、嵐のように宙を舞った。
一振りごとに地形が削られ、夜の大地が悲鳴を上げる。

全てを吹き飛ばすため、鉄球が荒れ狂う。
セルヴァインには、刑務作業という名の地獄で積み上げてきた練度がある。
鎖の軌道、鉄球の反動、連撃の間合い――すべてが骨の髄まで染みついた、殺しの技だ。

それに対し、エネリットは、手枷から延びる鎖の数を増やした。

一本や二本では足りない、十を超える数で応じる。
単純な選択。エネリットは質の差を、数で補う。

だが、それは悪手だ。
数が増えるほど操るには練度が必要となる。
所詮は借り物の力、どうあっても付け焼き刃となる。
練度の差、それが『監獄の王子』の致命的な欠点だ。

夜空に複数の軌跡が重なった。

火花が連鎖する。
金属同士が噛み合い、弾かれ、ずらされるたびに、白い閃光が瞬いては消える。
衝突は一度きりでは終わらない。
一つの鉄球が弾かれれば、次の鉄球がその先を塞ぐ。

それは真正面からの打ち合いではない。
エネリットは、セルヴァインの一撃をわずかに逸らし、角度を殺し、威力を分散させている。

鉄球同士がぶつかる瞬間、その接触点は常に中心を外れていた。
完全な衝突を避け、力の流れだけを横へ逃がす。
一の衝撃を十に割り、十をさらに百に砕く。

複数の鉄球が、まるで意思を持つかのように互いを弾き合い、
セルヴァインの攻撃軌道を細切れに分断していく。

――何という精密動作。

純粋な練度では、エネリットは劣っているはずだった。
それでも今、この瞬間に限って言えば――鎖の扱いにおいて、彼は明確にセルヴァインを上回っていた。
この一瞬で『恐怖の大王』をセルヴァイン以上に使いこなす天才だったとでもいうのか。

それはない。とその想像をセルヴァインは否定する。
『恐怖の大王』はセルヴァインの超力だ。
セルヴァイン以上に使いこなせる人間などいるはずもない。

何か仕掛けがある。
そう考えたセルヴァインは注意深く思考を巡らす。
思い返してみれば夜闇に紛れて見えなかったが、衝突の一瞬の火花で見えたエネリットの鎖には、何か違和感があった。

雲が晴れた月明かりの下。
その答えがあった。

エネリットから延びる鎖に何かが絡みついていた。
細く、しなやかで、それでいて鋼鉄のような光沢を持つ、無数の黒い糸。

――――髪の毛だ。

『恐怖の大王』単体の練度では及ばない。
だが、複数の超力を併用し、即座に組み上げ、戦場で最適化するその技量は、十分すぎるほど積み重ねてきた。

『鉄の女(アイアン・ラプンツェル)』。
鋼鉄へと変質した髪を自在に操る、マーガレット・ステインの超力。
エネリットが、この刑務作業で借り受けていた力である。

足りない部分は、創意工夫で補うしかない。
練度の差をエネリットは、複数の超力の組み合わせで補っていた。

髪の毛の役割は強度の補強だけではない。
セルヴァインの鉄球は、使用者に重さを感じさせない。
理屈の上では、たとえ髪の毛一本分の力であろうと操れる。

つまり、髪の精密な制御を、そのまま鉄球の挙動へと反映できるのだ。
その精密な操作が、出力の差を埋めていた。

セルヴァインの重い一撃が夜の草原を引き裂く。
丸太のような剛腕から振り下ろされる鉄球は、空気そのものを圧殺する勢いを伴い、一直線に迫ってくる。
エネリットは鉄球同士を打ち合わせ、衝突角度を逸らしながら、わずかに後退する。

同じ『恐怖の大王』でありながら、出力差は三倍。
だが、押されてはいるが、それでも、決して押し切られてはいない。

それは単に『鉄の女』による補強だけが理由ではない。
エネリットの超力は、あくまで出力口を繋げるだけで、借り受けた超力はエネリットから出力されているものではない。
つまり、超力行使の負荷は元の所有者へと負担させられる。

だからこそ、彼の戦術は単純明快だった。
故に、常に全力を出し続けることで、常時25%の負債を相手に押し付けられる。

対してセルヴァインは、理論上100%を扱えるが、上限まで引き出せば脳が耐えきれず壊れる。
だからこそ、ある程度抑えた出力で戦わなければならない。
25%の負債を抱え続けた状態でだ。

実質的な差は、せいぜい倍に届くかどうか。
であれば、複数超力の組み合わせで、十分に抗する余地がある。

そして、セルヴァインの左腕は、すでに存在しない。
欠損した左側は、どうしても攻撃密度が薄くなる。
その偏りは、どれほどの練度があろうと覆せない。

エネリットが草を蹴り、滑り込むように回り込む。
狙いは明確。左側面から、内側へ。

荒れ狂う鉄球の嵐の目を縫いながら、エネリットも自らの鉄球を放つ。
髪の毛によって制御された鉄球が、常識を裏切る軌道を描いた。
直線でも、円でもない。
空間を折り畳むかのように跳ね、反転し、あり得ない角度から――迫る。

鈍い衝撃音。
全ての防御を縫って、鉄球がセルヴァインの胸板に直撃する。

巨体が、一歩、後退した。
だが――それだけだ。

「軽いな、エネリット」

鼻で笑うように、セルヴァインは胸の筋肉を隆起させる。
筋肉の隆起した胸板に、致命的な損傷はない。
衝撃はあれど、砕くには至らない。

重さを感じないとはいえ、操っているのは所詮、髪の毛。
そんなもので振るう鉄球など、児戯に等しい。
紗奈の蹴りや、りんかの鉄拳の方がまだ重かっただろう。

「お前は何もかもが――――軽い」

代わりに響いたのは重く地面を踏み砕く音。
セルヴァインは体を捻ることなく、左足を振り抜く。

足首に繋がれた鎖が軋み、鉄球が低空で唸りを上げる。
遠心力を生かした、短く、だが鋭い蹴り撃ち。

エネリットは即座に跳躍する。
低空を薙ぐ一撃を、縄跳びを越えるように回避。

――だが、その着地の直前。

エネリットは、何かに気づいたように空中で鉄球を振るった。
地面へ叩きつけた反動を利用し、着地点をずらすように距離を取って着地する。

セルヴァインは着地点の地中に罠を仕込んでいた。
着地と同時に足を絡め取るための仕掛け。
だが、優れた洞察力によるものか、エネリットはその罠を読んでいたかのようにそこを避けていた。

「小賢しい……!」

吼えながら、セルヴァインは前に踏み込んだ。
その瞬間、枷に結び付いた鎖鉄球が爆発的に増殖する。

数には数で押し潰す。
質で上回っている以上、防ぎ切れまい――そう踏んだ判断だ。

放たれたのは、視界を覆い尽くすほどの鉄の奔流。
前後左右、上下すら逃げ場のない、空間そのものを埋め尽くす鉄の津波が、エネリットへと殺到する。

だが、エネリットは即応した。

『鉄の女』。
鋼鉄へと変じた髪が鎖に絡みつき、鉄球の制御を補助する。
十を超える鉄球が宙へと展開され、壁のように前方へ並んだ。

衝突。
鉄と鉄が打ち合い、衝撃が連鎖する。
無数の火花が夜空に弾け、草原を白く照らし出した。

激しい打ち合いが続く。
鎖が唸り、鉄が軋み、夜の草原は急速に戦場へと変貌していく。

数は互角。
力ではセルヴァインが上。
技ではエネリットが上回っている。

エネリットは鋼鉄の髪を介して鉄球を操り、相手の鉄球を弾き、別の鉄球へとぶつけ、衝突同士で相殺させていく。
針に糸を通すような精密動作を、全方位で同時展開。
一瞬の判断ミスが即死に繋がる攻防を、凄まじい集中力で捌ききる。

だが。鎖鉄球にできるのは、正面からの打ち合いだけではない。

エネリットが襲い来る全ての鉄球を防ぎ切る。
張り詰めていた意識が、ほんの僅かに緩んだ刹那。

地中に仕込まれていた鎖が、獲物を絡め取る蛇のように跳ね上がった。

全方位への対応に意識を割かせた、その足元からの不意打ち。
回避不能の鎖が地を裂き、鋭く跳ね上がる。

だが――。

エネリットは、その瞬間すでに跳んでいた。
まるで、そこに罠が来ると『知っていた』かのような、あまりにも正確な反応。

すべての仕掛けを空かされ、セルヴァインの攻撃の手が、ほんの僅かに止まる。
ここまで来れば、直感や洞察の域ではない。

――これは、超力だ。

「おや。不思議ですか? それとも、タネに気づいたが故の困惑でしょうか」

攻撃の手が完全に止まったことを確認してから、エネリットは口を開いた。

「お察しの通り。これは、超力によるもの」

夜風に揺れる鎖の音の中、当然のような声で説明を始める。
隠すつもりはない。むしろ、明かすことそのものが牽制になると理解していた。

「血液の付着した武器の所在を把握する超力――――スヴィアン・ライラプスの『鉄火の印(マメルティニ)』です」

当然のように告げる声音に、躊躇は微塵もない。
その告白に、セルヴァインの瞳が、僅かに見開かれた。

初撃が掠めた際、セルヴァインの『恐怖の大王』には、確かにエネリットの血が付着していた。
地中に埋めようと、視界外から放とうと、距離を取ろうと、鎖を再構築しようと――意味はない。
セルヴァインの操る『恐怖の大王』という超力自体が、『鉄火の印』の把握対象となる。

いや、最悪それはいい。
問題なのは、何故、エネリットがその超力を使えているのかと言う点だ。

「信頼を担保とする【徴収】によって、彼女から借り受けました。
 お忘れですか、叔父上。スヴィアン・ライラプスは、元より王宮から貴方に遣わされた世話係です」

鎖鉄球を構えたまま、エネリットは一歩、前へ出る。

「王家の遺児である私に信を置く。それ自体、何もおかしな話ではないでしょう」

セルヴァインの脳裏に、老看守の姿が浮かぶ。
無言の献身。
命を賭す覚悟。

それが――自分だけに向けられたものではなかった可能性。
セルヴァインの握る鎖が、軋む。

「彼女は、アビスの獄中で私に接触し、謝罪と共にすべてを話してくれました」

静かな声。
だが、その一言一言が、刃のように胸へと突き刺さる。

「彼女に王宮より与えられていた役割は、叔父上の獄中生活の世話をしながら、貴方が大人しくしているかを監視すること。
 そして、もう一つ。もし仮に、再び叛意を起こしそうだった場合には――貴方を始末することです」

淡々と、事実だけを告げる。
遠慮のない言葉が、長年知りたくて、同時に知ることを恐れていた女の正体を暴き出していく。

「もっとも、結局のところ、彼女は絆されてしまったようですが。それはいいでしょう」

彼女が動けたのは、すべてが終わった後だった。
王族は皆殺しにされ、取り返しのつかない段階に至って、ようやく彼女は『選択』した。

それが、彼女の罪。
その罪悪感から、彼女はエネリットに、すべてを語ったのだ。

「ですから――彼女が貴方に預けた信。あれは本物です。
 そこだけは、疑わないであげてください」

この超力が使えるのは、一度きり。
セルヴァインを殺すために自分の力が使われると彼女が気づけば、流石に信頼度は地に落ちるだろう。
使えるのは、彼女がこちらの意図に気づいていない間だけ。

だからこそ。この一度は――この決戦以外に、あり得ない。

鎖が揺れる。
夜の草原に、再び張り詰めた緊張が満ちる。

理解した。
すべて。

「……べらべらと、よく喋ることだ」
「おや。気に障りましたか?」

セルヴァインは、ゆっくりと息を吐いた。
信頼を置いた女の尊厳が踏みにじられた。

それが最後の一線だった。

「ああ。お前の声は――――癪に障る」

同じ音。同じ声で、もう囀るな。

鉄球が、目に見えて肥大化する。
出力が、明確に引き上げられていく。

怪物が、一歩、前へ出る。
ただそれだけでエネリットは反射的に後退する。
罠の位置。安全域。退路。すべて、頭の中では把握している。

だが、身体が先に拒否した。

先ほどまでとは圧が、違う。

殺意ではない。
威圧でもない。

ただ、そこに在るという事実そのものが、空間を押し潰してくる。

暴走ではない。
彼は初めて、意図的に理性を投げ打ち、全力を出す選択をしたのだ。

そして、エネリットにとっては、ここからが本番だ。

わざわざここまで挑発したのは、このためだ。
拡張型第一世代との戦いは、相手に全力を出させることが前提となる。
そして、その全力を凌ぎ切れなければ話にならない。

死ぬほど軽い理由でも。
殺すほど軽い理由でも。

誰よりもこの男について考えてきた。
何よりも本気で向き合ってきた。

この――――セルヴァイン・レクト・ハルトナと言う男と。

「行、くぞ――――――!」

最後に残った理性を引き絞るように、セルヴァインは死を宣告した。

「――――――――来いッ!」

エネリットはそれを正面から迎え撃つ。

剛球が唸る。
出力を極限まで引き上げたセルヴァインの猛攻は、もはや暴風そのものだった。
複数の鎖鉄球が、うねりながら一つに収束していく。
絡み合い、圧縮され、質量を増し続ける巨大な鉄塊。

もはやセルヴァインに抑制は存在しない。
リミッターを外されたエンジンが、悲鳴を上げながら限界まで回転する。
脳が焼け付くように加熱していく感覚を、本人も理解していた。

思考は濁り、視界は赤く染まり、それでも――止まらない。

圧縮された鎖鉄球が唸りを上げて叩きつけられるたび、夜の草原が悲鳴を上げた。
大地は抉れ、土塊と草葉が宙を舞い、遅れて衝撃波が鼓膜を震わせる。
『鉄塔』呼延 光すら削り殺した、鋼鉄の嵐。

これに同種の力で応じながらも、エネリットは明確に押されていた。
鎖を絡め、弾き、軌道を逸らす。
致命打こそ避けているが、完全には受け止めきれない。

一手ごとに傷が増え、対応が遅れ、確実に後退を強いられる。

「……ッ」

小さく舌を打つ。
無意識のうちに、足が半歩、また半歩と退いていた。

怪物の圧。
理屈では理解していても、身体が拒絶する。
圧倒的な質量と出力が空間そのものを歪ませ、呼吸を奪っていく。

だが。その只中で、脳裏に鋭い警告が走った。
『鉄火の印』が、地中に潜む異物を捉える。

血の付着した鎖。
再構築された罠。
このまま後退すれば、絡め取られる位置だ。

エネリットは即座に判断する。
着地先を、わずかに修正。
軌道をずらし、危険域を避ける。

だが――その瞬間。

修正したはずの着地点へ、圧縮された鎖鉄球が、すでに迫っていた。

背筋を、冷たい理解が走る。
回避方向そのものが、誘導されていた。

罠の存在を見抜くことを織り込んだ策。
こちらが危険地帯を避けることを前提に、その先へ次の一手が置かれていたのだ。

轟音。
着地点を薙ぐ一撃を、足の鎖鉄球を利用した跳躍で辛うじてかわす。

だが、間一髪。
鉄球の風圧が頬を掠め、皮膚が裂けた。

理性を焼き切るほど出力を引き上げ、脳が悲鳴を上げているはずの状態。
それにも関わらず――。

「……随分と、冷静じゃありませんか。叔父上」

怪物は、怒りに任せて振るうだけの獣ではない。
セルヴァインは、罠を読まれることすら計算に入れ、その先を狩りに来ている。

理性を保ったまま、暴走している。この矛盾。
刑務作業という地獄を経て成長したのはエネリットだけではない。
セルヴァインもまた、最も厄介な形の怪物へと進化していた。

次の瞬間。

セルヴァインは、振りかぶるようにして鉄球を投げ放った。

狙いは――エネリットではない。
地面だ。

轟音。

叩きつけられた鉄塊を起点に、大地が砕け散る。
衝撃波が爆発的に広がり、草原が裏返る。
土砂と岩片が弾丸のように跳ね、夜の空気そのものが引き裂かれた。

「……ッ!」

衝撃波が身体を打つ。
弾けた土塊が視界を覆い、世界が一瞬、暗転する。

だが、『鉄火の印』を持つエネリットは、暗闇の中でも鉄鎖の位置を見失わない。
この状況でも鉄球の一撃ならば避けることが出来るだろう。
そう、鉄球の一撃ならば。

見失ったのは――セルヴァイン本体だった。

その事実に気づいた瞬間。
エネリットの側面に圧が、来た。

セルヴァインはすでに側面に回り込んでいた。

空間が歪む。
踏み出された足の下で、大地が悲鳴を上げる。
草原の土が圧縮され、亀裂が蜘蛛の巣のように走った。

「っ――――――!?」

衝撃が弾ける。

鉄球ではない。
鎖でもない。

振るわれたのは、拳だった。

十字にした腕の上から質量そのものが叩きつけられ、エネリットの身体が宙を舞う。
肺から空気が押し出され、視界が白く弾ける。
地面を転がり、跳ね、衝撃が骨を揺らした。

それでも――セルヴァインは止まらない。

吹き飛ばされたエネリットを追い、巨体が踏み込む。
距離が、力任せに詰められる。

――その瞬間。

その足元の地面が裂けた。

夜の草原、その地中。
張り巡らされていた鎖が、一斉に跳ね上がる。

それは吹き飛ばされながら、なお仕込んでいたエネリットの罠。
地中からの奇襲は、セルヴァインだけの専売特許ではない。

むしろ、『鉄火の印』を持たぬ彼には、罠を察知する術がない。
地中から跳ね上がった鎖が、獲物を絡め取る蛇のように、セルヴァインの足首へと巻き付いていく。

一瞬の反応の遅れ。
足を取られた巨体が、わずかに傾いた。
その隙を、エネリットは逃さない。

即座に鎖を引く。
逃がす気はない。
体勢を崩し、距離を詰め、そのまま反撃を叩き込む――はずだった。

「舐ぁぁあああ、めるなああぁぁぁぁぁッッ!!」
「ッ!?」

狂乱の怒声と同時に、鎖が唸る。

鎖が張り詰める。
次の瞬間、引き寄せられたのは――エネリットの方だった。

引き返されたのではない。
力で、ねじ伏せられたのだ。

筋骨隆々の巨躯。
刑務作業という地獄で鍛え抜かれた肉体。
線の細いエネリットとは、あまりにも体格が違う。

如何にネイティブであろうと、単純な力比べでは――分が悪い。

「――っ!」

身体が宙を舞う。
引きずられ、振り回される。

「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉッッッ!!」
「くっ……!」

振り回されたまま、岩山の麓へ叩きつけられる。
背中が削れ、鈍い衝撃が全身を貫いた。
一瞬、息が止まる。

エネリットは引き合っていた鎖を破棄する。
次の瞬間、遠心力の慣性が解放された。
身体はそのまま弾き飛ばされ、夜の草原を滑るように飛翔する。

着地。
勢いのまま地面を削り、土砂を巻き上げながら、どうにか踏みとどまる。

膝をつく。
呼吸を整える暇はない。
追撃を予測し、即座に立ち上がり、セルヴァインを見据える。

――――怪物。
全力を出したハイ・オールドの活動限界まで、あとどれほどか。
果たして、本当に凌ぎきれるのか。
そんな不安が脳裏をよぎる。

だが、夜空を見上げた瞬間――――すべての懸念は吹き飛んだ。

それは戦闘本能か。
あるいは、王として幾多の戦場を潜り抜けた末の経験か。

夜空を覆い尽くすほどの、巨大な鉄球がそこに浮かんでいた。

リミッターを解除し、超力を100%使用可能なハイ・オールド。
その莫大な出力を、余すところなくこの一撃に注ぎ込む構え。

これ以上はない。
これ以上を選ぶ理由も、必要もない。

どれほど理屈を積み上げようと、どれほど策を弄しようと。
真正面からの力比べになれば――確実に、押し負ける。

これはその究極。
小細工を破壊する、技の通じぬ究極の力技。

理性を失いながらなお、セルヴァインは最適解を選んでいた。

夜空を塗り潰す影。
巨大な鉄球が、ゆっくりと、しかし確実に振り上げられる。

エネリットは、それを見上げていた。
これを受けきるには、エネリットには余りにも力が足りない。
この一撃を、振り下ろされればエネリットは確実に――死ぬ。
そんな冷たい事実だけが目の前に広がっていた。

「……力、か」

エネリットは、かすかに息を吐いた。

夜空を覆う100tは下らない大質量。
逃げ場はない。防御も、回避も、不可能。
ここを越えなければ、その先はない。

ならば――踏み越えるしかない。

たった一つ残された、『賭け』を。

「超力【徴収】――――――」

静かな宣言。
だが、その内側で、思考は疾走していた。

エネリットは自身の超力について様々な検証を行ってきた。
だが、まだ一つだけ、試せていない事があった。

エネリットの超力『監獄の王子』。
他者の超力を扱うこの能力には、二つの取得法がある。

『献上』は双方の合意に基づく譲渡。
『徴収』は一定以上の信頼を担保にした、一方的な搾取。

合意に基づく『献上』は、対象が死亡すれば解除され、契約は死と共に消える。

だが――相手の合意を必要としない『徴収』ならば?

「対象――――ディビット・マルティーニ」

その名を、呼ぶ。

超力は、魂に紐づく力。
そして、この作られた新世界において、死者の天国も地獄も存在しない。

魂は、消えない。
この会場を彷徨う魂の実例を、エネリットはすでに確認している。

ならば。

導き出される結論は――――。

「『4倍賭け(クワトロ・ラドッピォ・ポンターレ)』――――!!」

――――絆は、死すらも超越する。

宣言と同時に、世界が軋んだ。

天が、堕ちる。

まるでさながら惑星轟。
もはや、この創られた世界そのものを破壊しかねない一撃。
惑星の墜落じみた質量が、夜空を割り、地を砕かんと振り下ろされる。

「――――――はっ」

血濡れで笑う。
身体の内側で、何かが弾ける。
細い身体が、内側から軋む。
骨が悲鳴を上げ、筋が引き裂かれそうになる。

だが、止まらない。

『4倍賭け』により『筋力』を倍加する。
倍率は100%。完全再現。
エネリットは内心で笑う。

ああ――――煙草を供えておいた甲斐があった、と。

エネリットもまた、応じるように鉄球を振り上げた。

衝突。

――――閃光。

音は、遅れてきた。

まるで、恒星同士の激突。
衝撃波が夜の草原を蹂躙し、地平線までを震わせる。

互いの鉄球が砕け散る。

夜空を裂く無数の光が、戦場を照らし出す。
巨大な鉄球が、無数の破片となり、灼熱の流星へと変わる。

兄王と王子。
憎悪と虚無。
そのすべてを呑み込みながら、世界は――なおも、激しく揺れていた。

鋼鉄の降り注ぐ夜。
砕け散った鉄の流星が、雨のように空から落ち続ける。
焼けた破片が大地を穿ち、火花と衝撃音が草原を叩く。

その中を――王子が駆け出した。

鉄球を振りぬた体制を整えぬまま、四つ足の獣のように駆け出す。
互いに最大の力を叩き込んだ、一撃と一撃。
それが同時に砕け散った、その刹那。
衝撃と轟音が去り、世界が一瞬だけ息を止めた空白。

この一瞬だけが、残された唯一の勝機だった。

降り注ぐ鉄片が身体を掠め、叩き、血を散らす。
それでも足は緩めない。
怯みも、迷いもない。

一直線に、敵(まえ)へ。

眩くも瞬く夜。
迷いなく駆け抜けるその姿を見て。
理性を焼き切られ、狂気に沈んだセルヴァインの視界に、あり得ない幻が映る。

記憶の底から引きずり出された、在りし日の面影。

「――――――グランゼルゥゥッ!!」

叫ぶ。
自らの手で殺した弟の名を。

「いいえ――――」

白い夜を駆け抜ける。
喧騒の中でも、はっきりと届く冷静な声。

「――――エネリットです、叔父上」

口端を、僅かに歪めて。
監獄の王子は――迫る。

「エネリットオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォッッ!!!!」

獣じみた咆哮。
セルヴァインが剛腕を突き出す。

掴み潰す。
その一念のみで。

だが――届かない。

エネリットは、掴みに来た腕をすり抜ける。
回避ではない。
すでに、踏み込みは終わっている。

駆け抜けた勢いのまま、跳躍。
身体を捻り、脚を振り抜く。

狙いは――顔面。

否。
さらに、その奥。

額に埋め込まれた、一点。

全力を出し切り、加熱したエンジンが回りきり、すべてのネジが緩み切った今だからこそ届く。

すべては、この一撃のためにあった。

「――ぅおおおおおおおっ!」

鈍い衝撃。

蹴りは、セルヴァインの頭部を正確に捉え、
額に埋設されていた金属片を――蹴り抜いた。

弾き飛ばされる、銀色の破片。
拡張型第一世代手術によって脳内に設置されていた、制御装置。

怪物を怪物たらしめる象徴たるそれを失った瞬間。

セルヴァインの脳は――――――崩壊した。

音はなかった。
あるいは、あったのかもしれない。
だが、それを音として認識する器官は、すでに意味を失っていた。

熱でも、痛みでも、狂気でもない。
ただ、処理しきれぬ情報と出力が一気に雪崩れ込み、脳は『限界』を迎えただけだった。

「――――――!!?」

声にならない声。
叫びにも、呻きにもならない何かを零しながら、巨体がゆっくりと崩れ落ちていく。

膝が折れ、
鎖が地に落ち、
鉄球が力なく転がる。

かつて王子セルヴァインであり、囚人バルタザールであった存在は、何者でもないただの一人の男として、その場に座り込んだ。

焦点の合わない瞳。
燃え尽きた炉のような脳。

脳の奥で何かが弾け、思考が裏返り、時間の向きがほどけていく。
上下も、前後も、因果も、もう判別がつかない。

そこに残っていたのは――記憶の残骸だけ。

理性を縛っていた枷。
暴走を止めていた最後の堤防。
それらが失われ、幻影があふれ出す。

「……あ……」

喉が震える。
誰かの名を呼ぼうとして、言葉にならない。

見えているのは、夜空ではない。
鉄の雨でも、血の匂いでもない。

幼い日の回廊。
石造りの王宮。
並んで歩く、小さな背中。

「……グ……」

視界が白く霞み――その向こうに、ひとりの青年が立っていた。

あり得ない。
分かっている。
それでも、脳は抗わなかった。

「……グラン、ゼル……」

声が、勝手に零れる。

そこに立つ弟は、あの日のままだった。
王冠も、血も、剣もない。
ただ、穏やかにこちらを見ている。

あの目だ。
海を映したような、深く、静かな目。

加熱し、崩壊していく脳が、熱に浮かされた譫妄のように幻影を結ぶ。

取られることのなかった手。
取ることができなかった選択。
選び損ねた未来に向かって、手を伸ばす。

もし、あの時。
もし、あの扉を開いていれば。
もし、互いに対話を拒まずにいられていたなら。

共に歩む道も、あったのかもしれない。

「……すま……」

言葉にならなかった。
謝罪なのか、悔恨なのか、
それともただの独り言か。

幻影の弟は、何も言わない。
責めもせず、赦しもせず、
ただ、そこに立っている。

世界が、遠ざかる。
音が、光が、感覚が、次々に剥がれていく。

最後に見えたのは、
あの目だった。

――海のように、静かな。

伸ばした手が取られる。

その感触だけを残して、景色は、ゆっくりと白に溶けていった。

【バルタザール・デリージュ/セルヴァイン・レクト・ハルトナ 死亡】


自身に向かって存在しない手を伸ばして倒れた叔父の姿を、エネリットは一歩距離を取った場所で見つめていた。

追撃はしない。
鎖も、鉄球も振るわない。

もう――必要がないからだ。

憐憫も、恨みもない瞳で、その最後を静かに見守っていた。

「……どうか安らかにお休みください。叔父上」

夜風が吹く。
砕けた鉄の匂いを攫い、草原を静かに揺らす。

その結末を辱めることなく最期まで見届けた、そのあとで。
エネリットは身体の奥に溜め込んでいたものを、すべて吐き出したような息を吐き出した。

「はぁ―――――――あぁ、疲っれたぁー」

エネリットは、力の抜けた声でそう言い、その場にごろりと倒れ込んだ。
その声には、策略家でも、王族でもない、年相応の少年の響きがあった。

己の中の全てを注ぎ込んだ復讐は達成された。
残されたものはない。

このまま生き延びたところで、待っているのは、アビスでの生活だ。
今さら恩赦を狙うのは現実的ではないし、そもそも信じてもいない。
だから、別に、このまま死んだっていいけれど。

「……さて、何をしようかなぁ」

夜空を仰ぎながら、エネリットは呟いた。

全てをやり遂げ全ては白紙に戻った。
どこかに隠れ潜んでもいい。
誰かに襲いかかってもいい。
誰かを助けたっていい。

地の底に押し込められ、自由を奪われ続けた巌窟王。
だが、今この瞬間――エネリット・サンス・ハルトナは、この世界の誰よりも、自由だった。

【D-6/草原 岩山近く/一日目・夜】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:疲労(極大)、全身にダメージ(極大)、全身に傷、胴体に幾らかの骨折
[道具]:マシンガン(弾倉残り1)、リモコン爆弾×1、デジタルウォッチ、通信機
[恩赦P]:10pt
[方針]
基本.さて、何をしよう?

※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

①マーガレット・ステイン(刑務官)
信頼度:80%(徴収時の超力再現率40%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄の女』

②~④ジョニー・ハイドアウト、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン、只野仁成
信頼度:全て5%前後(10%→5%に減少)
効果上限:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
超力:『鉄の騎士(アイアン・デューク)』、『補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)』、『人類の到達点(ヒトナル)』

⑤スヴィアン・ライラプス
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄火の印(マメルティニ)』

⑥ディビット・マルティーニ
信頼度:100%(徴収時の超力再現率50%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『4倍賭け』

146.ブルース・イン・ザ・ナイト 投下順で読む 148.I Have a Dream
時系列順で読む
夜が来る エネリット・サンス・ハルトナ We Were Friends
バルタザール・デリージュ 懲罰執行

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最終更新:2026年02月14日 14:17