ーー蓮さん、復讐についてあなたはどう考えますか?
『珍しいね、君がそんなことを聞くなんて』
ーーそうでしょうか? この手の問答はいつも行っていると思いますが。
『自分の中ですでに答えの出ている事を問うなんて君らしくはない。そうだろう?』
『まあいいさーー』
『興味深いテーマだ』
◆
冷たい夜の風に、エネリットは目を覚ました。
「……寒っ、」
身震いし、上体を起こす。
どうやら芝生で横になってから、少しうたた寝していたようだ。
昼間は照りつける太陽があんなに眩しく、暑かったのに。
傍には、硬直した叔父セルヴァインの屍がある。
今にも泣き出しそうな表情を浮かべて虚空を見上げている。
瞬きをせずすっかり乾いたその目を見て、エネリットは彼が死んだんだと再確認させられた。
「……さて、どうしよう」
復讐は果たした。
これから何をしよう。
自由に、色んなことができる。
だからこそ、何をするかを迷ってしまう。
恩赦など信じていない。
たとえそれが本当だったとしても、今この時点で刑務に携わる受刑者たちはごく僅かで、みな実力者ばかり。
進んで恩赦を取りに行くのは無理がある。
「……」
叔父の屍を見下ろし、エネリットは、恩赦ptを自分のために使うことに決めた。
まずは物言わず倒れる叔父の首輪から、恩赦ptを回収する。
電子音と共に、エネリットのデジタルウォッチの表示に100ptが加算される。
デジタルウォッチを起動し、交換リストをなんとなく見ていく。
味気ないレーションや物騒な銃火器まで、一通り揃っている。
食糧の一部と水はブラックペンタゴンからこっそり持ってきた。
50ptの治療キットを購入することも、決めていた。
逡巡し電子の画面を操作していると、『好きな衣服:10pt』という表示が目に入った。
エネリットは思う。そういえば、今着ている囚人服、汚れて濡れて、気持ち悪いな。
貴重な恩赦ptを消費し衣服を着替えることで、後々何かしらのデメリットはあるのかもしれない。
だが、エネリットは、『とりあえず着替えたい』という今の感情に従い、衣服を購入することを決めた。
寒く、上着がほしかったのもあったし、人生の目的を果たしたので、何かしら自分に褒美を与えたかったのだ。
衣服は好きなコーディネートを組み合わせ、一まとめで10ptらしい。
選択に迷った時のためか、あらかじめ既にまとめられたセットもあった。
エネリットは少し迷ったが、自分で組み合わせを選ぶことに決めた。服を選んでゆき、購入の文字をタップする。
購入できる衣服の中に、ハルトナ王国の礼服や民族衣装もあったが、エネリットには興味がなかった。
治療キットと衣服が転送される。
食糧の残りを食べ切り、説明書の通りにキットを使い、転送されてきた服に、袖を通す。
ほとんど黒一色の組み合わせだった。
チェスターコートとスラックス、首付きのニット。
堅い印象を与えるブーツ。
ささやかな銀の首飾りには、小さな赤い石が散りばめられている。
一見動きにくいようで、開闢以後の特別な技術のためか、しっかり動く分には不自由なかった。
娑婆の一般的な少年が着るような、カジュアルな冬服。
だが、青年がそれを纏うとどこか気品がある。
エネリットは、かつて図書室で読んだモンテ・クリスト伯の挿絵の姿を思い出していた。
新品の服は、やはり心地が良かった。
「………」
暖かい服に着替えた。
だが、またやることがなくなった。
上着のポケットに手を入れ、なんとなく、空を見上げた。
作り物の世界の星空が輝く。
エネリットはそんな星々を見て、かつてマーガレットが誕生日に振舞ってくれたアップルパイのつやを思い出した。
◆
エネリット=サンス・ハルトナは、たった2歳で『王族罪』という罪を着せられアビスに投獄された。
本当の親がどういう人間だったのかも知らず、物心つかないうちから、エネリットにとっての育ての親はアビスに生きる人々だった。
刑務官、看守、囚人。様々な人物がエネリットに関わり、育て、知を授けた。
生まれながらに身についた気品。
監獄で育つ中で得た泥臭さ。
だがエネリット幼い頃から持っていた最大の武器は、何に対しても決して物怖じしない事だった。
囚人たちの嫌う刑務官に人懐こく接し、満更でもない感情を覚えさせた。
裏社会の住人たちや、社会からあぶれこの深淵に来ざるを得なかった者たち。
刑務官たちが疎う彼らにも偏見なく接し、その信頼を勝ち取った。
いつしかエネリットの存在はアビス中に広く知れ渡ることとなりーーこの監獄に関わる全ての者たちが、敬意と畏怖を込めて少年を『アビスの申し子』と呼ぶのに、そう時間はかからなかった。
◆
エネリットは当時8歳だった。
彼は、人工太陽の照らすアビスの中庭にいた。
隣にいる女囚イリア婆さんのハーモニカを聴きながら、ベンチに座り遠くを見ていた。
そこにいるのは、鉄仮面を被った大柄の男だった。
老いた刑務官に付き従われ、重々しい足取りで中庭を歩く。
男が歩くたびに、彼に括り付けられた手錠と鉄球が軋み、引きずられる。
エネリットは、遠くからこの男を見ていた。
バルタザール=デリージュ。記憶を失った物言わぬ大男。
まだ幼い少年は、彼の本名も素性も知らない。
だが、その頃から。ずっと前から。
あの鉄仮面の男こそが、自分をこの監獄に閉じ込めた男だと、誰に言われるまでもなく理解していた。
「こぉらエネリットぉ!!」
しわがれた声が名前を呼び、エネリットは我に帰る。
「聴いてるのかい!!せっかくのアタシの演奏だよっ」
「ええ、聴いていましたよ。『ダイヤモンドは私の親友』でしたっけ」
ぷんぷんと怒るイリア婆さんに、エネリットは申し訳なさそうに謝罪する。
イリア婆さんは若い頃から様々な刑務所を転々とし、エネリットが産まれる前ーーアビス創設時に、最初に収監された受刑者の一人らしい。
エネリットにとっては、親しみやすいお婆さんだった。
「まあまあ……そんなに怒らないでよ」
イリア婆さんとは反対側に座っているエミルが、なんとか宥めようとする。
エミル=ハモンド。最近入ってきたばかりの12歳の少年。
超力が暴走し故郷の町を消し飛ばしたらしく、保護も兼ねてアビスに収監されている。
危険な超力を持っているとは思えないほど、エミルは気弱な少年だった。
「ふふ……ありがとうございます、エミルさん」
「へへ、エネリットはやさしいねえ」
エミルがはにかむ。
エネリットは、エミルの少しとろけるような笑顔を見るのが嫌いではなかった。
その時、微妙に身体を傾けた事によって、エミルの襟が少しはだけた。
「ッッ」
エミルは一瞬ピクリと身震いし、すぐ襟を正す。
だが、エネリットは確かに見た。
エミルのはだけた肩には、痛々しい青痣があった。
「エネリット=サンス・ハルトナ!イリア=スチェンコワ!エミル=ハモンド!!」
よく通る女性の大声で、エネリットたちの雑談は打ち消された。
「自由時間を過ぎているぞ。さっさと部屋に戻れ!」
驚いた少年たちと老婆たちに、マーガレット=ステインは警棒を振り翳しながら叫ぶ。
エネリットとイリア、エミルの三人は、いそいそとベンチを離れた。
帰り際、エネリットは横目でステインをちらりと見た。
鉄の女と呼ばれるに値する厳格な顔立ち。
どの囚人に対しても、厳しい姿勢を崩さなかった。
ーー特にエネリットに対しては、尚更そうだった。
日々の刑務作業だけでなく、他の囚人には必要ないであろう教養や礼儀作法など、スパルタめいた厳しい指導を日々受けていた。
彼女の前ではいかなる嘘も許されないだろう。
エネリットは、刑務官ステインが苦手だった。
「……」
ステインから目を逸らし、エネリットは所内へと戻った。
◆
三日後、エミル=ハモンドは物置小屋で痙攣し倒れているのを巡回中の看守に発見された。
彼は医療房に送られた。
『ひどく痛めつけられたらしい』
『重傷だってよ』
『もう動けないだろう』
『医療班も治療できないほど発見が遅れたと』
『やったのはタイガーファングのゴロツキだな』
『看守の目の届かないところで暴力を振るってたって』
『超力も封じられてたんじゃあなァ……』
外に比べ圧倒的に娯楽の少ないアビス内では、監視官や囚人問わず所内でゴシップがあるとすぐに伝播する。
エミルが負傷した件もそうやって一時期騒ぎになったが、また別のゴシップに移り変わりすぐに話題にされなくなった。
その頃、エネリットは。
アビス内を駆け回るエミルの事件の情報を一通り吸収したあと。
「…………」
自分の独房で何かを考え込み、ほんの少しだけ夜更かしした。
◆
機械が多く並んだ作業室。
アビスの囚人と言えど、娑婆への奉仕活動のため、刑務の一環で機械労働などをする。
この部屋には、大抵の作業に対応できるように、様々な用途の器具が置かれていた。
夕方の作業室には誰もいない。
唯一、2m超えの巨漢の男が、機械の間を苦しげにかいくぐる。
「おい、シーダ」
大きな鼻の牛顔。
ランド=ラゴ。
欧州ギャング『タイガーファング』の幹部のゴロツキ。
エミル=ハモンドに日常的に暴力を振るっていたのも、この男だった。
そんな彼は、共に収監された同組織の舎弟に『禁止されている上等な酒を用意した』と呼ばれ、この作業室にやってきた。
「本当にいい酒なんだろうな。こちとらサンドバッグを無くしてイライラしてんだ」
部下を呼ぶ。返事はない。作業室にはランド以外誰もいないようだった。
怪訝な顔をしたランドは苛立ち、太い足で歩を進める。
「ふざけてるならおまえを殴ってーー」
ランドが一歩踏み出した時だった。
床に敷かれていた機械のコードが、ランドの左足に絡みついた。
「ッッ!?」
ランドはつまづき、音を立て思い切り転倒する。
「おい!!テメェなんのつも、ーーーッッ!?」
悪態を吐こうと顔を上げた途端、ランドの巨体が凍り付く。
転倒と同時に彼の足元の機械が突然起動し、そこに取り付けられていた円ノコが彼の足に迫っていたのだ。
「!!、ッッーーーー、……ーーー!!!」
逃れようとあがいても、コードは余計に絡みつく。
そうしている間に機械の円ノコはどんどん接近していく。
「くそった、ーーあ、」
床に多量の血が飛び散り、静かだった空間に絶叫が響いた。
◆
ランド=ラゴは作業室の事故で両足を失い、アビスの医療房へと送られた。
ランドが発見され、担架で医療房に送られる際、ドス黒い血で汚れた作業室には、センセーショナルな刺激を求めて多くの囚人たちが出歯目に来た。
下品にざわめく野次馬たちに混じり、氷月蓮は黒檀の長髪を靡かせ、ランドが倒れていた現場をじっと見ていた。
「……ふむ」
氷月には、誰が犯人なのかこの時すでに分かっていた。
◆
ランド=ラゴが負傷した騒ぎの翌日、エネリットはある囚人から『話がある』と呼び出された。
複数ある面会室のいくつかは、刑務官の許可さえあれば他の囚人も利用できた。
そのため、ギャング間の情報交換から子供受刑者同士のなんてことない会話までーー好きに使う連中が後を立たなかった。
彼らが使うその部屋は幾分煤けていたがーー本当の裏社会のボスが使う取引の場は、刑務官たちへすら圧力を使える立場のためか、常に清潔に保たれていた。
エネリットが呼ばれたのは、そんな清潔な特別面会室だった。
彼がドアを開けると、砂糖と果実の甘い匂いがふわりと出迎えた。
一つだけあるテーブルの上にはオレンジジュースの入った瓶とコップ、貝の形をしたスポンジ菓子。その奥に、壮年の男が座っていた。
髭面の白人の男。茶色の混じった金髪の、少し伸びた部分を後ろにまとめている。
一見すると優しげな風貌だったが、メガネ越しの目の奥には狂気めいた覇気が滲んでいた。
「はじめまして、エネリット=サンス・ハルトナくん。『アビスの申し子』」
男は言った。
「席に座ってくれ。テーブルにあるジュースとマドレーヌは、好きに頂いてもかまわない」
「ありがとうございます」
エネリットは、席に座る。
それを確認したのち、男は言った。
「まず先に言っておくが、ここの監視カメラはオフにさせてもらっている。外にいる刑務官たちも、今この間ここには近づけさせないようにしている。そのうえでーー単刀直入に聞こう」
首をかしげる男の目を、エネリットは静かに見る。
「ラゴを始末したのは、きみだね?」
オルドロス=ティガード。
欧州の新興ギャング『タイガーファング』。
一度キングス・デイの対抗手に届きかけるも、ボスであるティガードの逮捕により瓦解した組織。
ティガードは異形の魔獣に変身する超力を持ち、部下と共にヨーロッパ中を荒らしまわってきた。
「ーーええ。その通りです」
エネリットは正直に言った。
厳密には、エネリット一人だけでやり遂げたわけではない。
彼は監獄内で築き上げた様々な人脈を辿り、彼らの協力でエミルの復讐を成し遂げた。
上等な酒を用意するのが一番大変だった。
武装強盗で収監されたガロウズ・コロンに粘り強く交渉し、隠し持っていた酒を受け取れるまでの信頼を勝ち取った。
あとは『タイガーファング』の下っ端たちを酒で買収し、嘘の待ち合わせ時間を伝えさせ、ランド=ラゴをおびき寄せた。
機械の動作については、娑婆ではメカニックをしていた囚人に協力してもらった。
彼もまた、ランドに暴力的な扱いを受けていた。
エネリットはこれから自分に降りかかるであろう報復を覚悟した。
「部下に危害を加えられたあなたに、隠し事は通用しない。僕がやりました。それでーーあなたは制裁を下しますか?」
ティガードは、少年を見る。
唐突に、大口を開けて笑い出した。
「……?」
エネリットは呆気に取られる。
「いいや、怒ってない。怒ってないんだ。むしろよくやったと思っている。ラゴは個人で暴れすぎて、私の手に負えなかったからね」
ティガードは困った笑いを浮かべながら両手をひらひらと振る。
「なによりも驚くべきはきみの手腕だよ。まだ10にすらなってないのに、たった一人でよくこんな大事を成し遂げたものだ!賞賛に値するね」
「僕だけでない。僕に手を貸してくれた、多くの人たちのおかげです」
「ははっ、謙遜も上手い」
「さて……エネリットくん」
ティガードは手を組み、目を細め微笑む。
その目はまっすぐエネリットを見据えていた。
「うちに来る気はないかい?」
エネリットはその目を見たまま、無表情で黙る。
ティガードは続ける。
「“外”でのタイガーファングは私の逮捕により失速した。だが、まだその勢いを失ったわけではない。アビス内でも力を持っているし、傘下もいるーー何より私が諦めていない。いつかまた外に出た時は、必ずルーサー・キングの首を獲る気でいる。……そのためには、きみの力が何より有用だと確信したんだ」
ティガードは、大袈裟に手を振りジェスチャーする。
「エネリットくん。君の罪ーー私なら晴らしてあげられる。早くに出所できるようにしよう。娑婆での地位を約束しよう。きみならきっとキングス・デイに一矢報いることもーーいや、もっと大きな事を成し遂げることができる」
「……そうですか」
エネリットはその話を静かに聞き、しばらく黙っていた。
「どうかね?一生この深淵で時間を過ごすよりもーー外で我々とのびのび生きる方が有益だろう?」
ティガードは口を歪めた。
「……魅力的なお話ですが」
エネリットはしばらく黙っていたが、口を開く。
「少し、考えさせてください」
「悪くない話、なのにかい?」
「だからこそ、です。少し冷静になりたい。生まれて初めて復讐を遂げた熱で、まだちょっと興奮してるんです」
「……そうか」
「お誘いをすぐに受け入れられず、申し訳ありません」
俯くティガードに、エネリットは言った。
オレンジジュースとマドレーヌには、最後まで手をつけなかった。
「……待ってくれ、エネリットくん」
立ち去り際、ティガードに呼び止められ、エネリットは振り向いた。
「どうしましたか?」
「せっかく君という原石を見つけ、その上邪魔な部下まで始末してもらった。何かをしてやれないのは私にとって癪だ。ーーそこで、だ」
「?」
ティガードは席を立ち、エネリットにそっと歩み寄る。
怪訝な顔をする少年と同じ目線の高さになり、自らの手を出した。
「受け取って欲しいものがある」
手を出してくれ、と言われ、エネリットは小さな右手を差し出した。
そこに、ティガードの大きな手が置かれ、離れる。
エネリットの小さな手の平には、一枚のコインが置かれていた。
「祖父の形見だ。一族で守ってきた財産の一部分にしか過ぎないがーーどうか、持っていてほしい。私の力が必要になった時、部下にこの金貨を渡してくれ」
そう言いながら、ティガードはエネリットに向けウインクする。
「マドレーヌは残念ながら私じゃ処理できないが……どうか、君という希少な宝石に『何かをした』という気持ちにさせてやってくれ」
「………」
エネリットはしばらくティガードを見ていた。
「……わかりました。ティガードさん、もしもの時はよろしくお願いします」
小さい身体で、深くお辞儀をした。
そんな時は来ないだろうと、幼心に薄々わかっていても。
◆
「ラゴの件は我々がなんとかしよう。部下たちにも、けして口外しないよう言いつける」
ティガードとの別れ際、エネリットは彼からそう告げられた。
だが、後日、エネリットは奉仕活動中に持ち場を離れた罰で呼び出された。
ティガードが嘘を付き彼を嵌めたわけではない。
当時、まだ一介の刑務官に過ぎなかったオリガ=ヴァイスマンが、常軌を逸した執念でランドの事件を捜査、検証し、彼の所属する『タイガーファング』すら出し抜いた結果、エネリットが捜査線に浮かび上がったのだ。
ヴァイスマンと彼に付き従う仲間たちは、『彼にも他の囚人たちと同じく平等な裁きを』という声を、刑務官同士の間で高らかに掲げた。
結果的に、表面上はエネリットがラゴ負傷の犯人だと明かされることはなかった。
それは幼い頃から彼を護っていた刑務官たちによる庇護や、常日頃のラゴへの不信、『タイガーファング』の構成員たちの揉み消しもあったのだろう。
だが、アビス内の人々はーー言葉に出すことはなくても、エネリットがラゴを始末した犯人だとうっすら察していた。
それを知りながら、エネリットにその罰が下されることはなくーーただ、なんの罰も受けなかったわけではない。
奉仕活動をサボタージュした件で、懲罰房3ヶ月行きを命じられた。
3ヶ月。
エネリットの今回犯した罪を軽くするのと、少年をヴァイスマンの手から守るためには、これが限界だった。
懲罰房へと向かう当日の朝だった。
「おまえも、他のやつらと同じだからな」
エネリットは汚れた面会室で、当時在籍していた看守に囲まれ、警棒で殴られる折檻を受けた。
「アビスを甘く見るな」
彼を殴った看守は、エネリットがアビスにいながら庇護されるのをよく思っていない人物だった。
彼は、品行方正だったエネリットが、ようやく自分が叩けるボロを出したのを良しと思った。
罰と称した八つ当たりを行っていたのだ。
「………僕は罪を犯した。どんな罰でも受け入れます」
エネリットは警棒を持つ看守を見上げる。
死に別れた父から受け継いだ海色のその目に、男はたじろぐ。
「なんだよ……」
そんな時、部屋の外からよく通る女の声がした。
「マーガレット=ステイン。入るぞ」
軋んだ音を立てドアが開かれる。
マーガレット=ステイン。エネリットの懲罰を担当する刑務官が部屋に入ってきた。
ステインは部屋の状況を見渡すと、少年を囲む看守たちを追い払い、椅子に縛られ座るエネリットと向き合った。
エネリットはステインを見上げる。いつも感じていた苦手という感情が湧き上がってくる。
「エネリット=サンス・ハルトナ」
ステインはエネリットに目線を合わせ、同じ高さになる。
「いや……エネリット」
ここで生まれて初めて、エネリットはステインと目を合わせた。
彼女から常に厳しい指導を受けてきたエネリットは、相手の目を見るこの瞬間まで、ステインは自分を怒るのだろうと思っていた。
「少し、話をしてくれないか」
だが、違った。
眉を吊り下げたステインの眼差しは弱々しく、エネリットを気遣う感情を帯びていた。
ステインは、エネリットの肩を両手でそっと掴む。そこに威圧的な力はない。
「ラゴの件は……本当にやってないんだな?」
「……ええ。その通りです」
「本当だな?」
「はい」
エネリットは返事をする。
嘘をついた。だが自信はなかった。ステインの眼差しが、嘘を見通しているように見えたからだ。
「……そうか」
ステインはエネリットから少し視線を外し、逡巡する。
これから言う言葉を選んでいるようだった。
そして、再び彼に向き直ると、言葉を続けた。
「なら……聞いてほしいんだ」
ステインの声に、鉄の女と呼び表されるような覇気がなかった。
「ラゴはどうしてあんな事になったのか。それに関して、おまえは『関係ない』とはっきりと自供した。それはある意味では正しいのだろう。だが……」
ステインはここで黙り、少し躊躇ったのち続ける。
「私には……おまえという存在に、真相とは別の、隠れた意図を感じてならない。……それが、すごく恐ろしいんだ」
ステインの唇が言葉を紡ぐのに、エネリットは目を細めた。
「エネリット」
ステインは言う。
「おまえに生来ーーあるいはアビスでの暮らしで抜け落ちたものがあったとしても、せめて良心だけはあるふりをして生きてほしい。どうか人の心がわかるふうに振る舞ってほしい。ーー難しいかもしれない。だが、おまえにはできる。聡明な子だと、私はわかっているからだ」
エネリットは、ステインの言葉を聞く。
「ーーそれによってできた縁は、いつかきっとおまえの助けになる」
エネリットに、言いようもない感情が込み上がる。
「エネリットーーおまえ自身の、尊い命のためだ」
ステインは、自分がなぜラゴに手を出したか、察した上で話している。
エネリットは悟った。
一連の言葉を言い終えた後のステインが、そんなはずはないだろうにアビスの懲罰を受けた囚人のような面持ちをしていて、エネリットはその顔が強く印象に残った。
その後のエネリットは、三ヶ月間を懲罰房で過ごした。
エミルの負傷。
ランドへの復讐。
ティガードからの誘い。
狭く汚く、寒い懲罰房にいる間、様々な記憶がエネリットの頭を通り過ぎたが、一番脳裏に反響したのは、ステインとのあのやり取りだった。
懲罰房で過ごすうちに、エネリットは9歳になった。
執行期間が終わり、懲罰房から出たエネリットを最初に出迎えたのは、ステインと他数名の刑務官だった。
「反省はしたか?」
ステインは問う。その手には清潔なブランケットがあった。
「ええ。苦しいほどに」
「もうするなよ」
「はい」
ステインはエネリットの返答を聞くとゆっくり歩み出し、持っていたブランケットで少年の身体をそっと包んだ。
暖かく柔らかな布の感覚に、エネリットは一瞬身震いした。
洗いたての石鹸の香りがした。
「……ステインさん」
見上げると、厳格な眼差しと目が合う。
「嘘だとわかったら、次はないぞ」
その後、エネリットはステインたちと共に歩き、書類の手続きや身体検査を行なってから自分の房へ戻った。
手続きをする間、9歳のエネリットは身を包むブランケットが落ちないように、ずっと端を握っていた。
◆
10歳が終わりを迎える直前、エネリットは刑務官ステインから報せを受けた。
『治療を続けていたエミル=ハモンドが、危篤を迎えている。今夜が山だろう』
『どうか、友達だったおまえの顔を見せてやってほしい』
エネリットはステイン他数名の刑務官の付き添いで、初めてアビスの医療房へ入った。
天井も、床も、壁も、余すことなく清潔で白く、その無機質さはこの世のものではないようだった。
廊下を歩く最中、前方から大男が歩いてきた。
エネリットはチラリと見る。
スヴィアンに付き添いされたバルタザール=デリージュが、鉄鎖を引き摺り歩いていた。
普段よく話す看守の情報で、彼が何かの検査のために定期的にここに通っているという話は聞いていた。
だが、実際見てみると、この空間にはひどく場違いな姿だった。
バルタザールはこちらを見ない。
すれ違うと、鉄球を引きずる大男は、そのまま後ろに消えていった。
「……」
エネリットは、鉄仮面の男から目線を離していた。
誰も、少年の行動に気づかなかった。
エミルのいる集中治療室。
案内され、エネリットは入った。
病室の中心のベッドには、大量のチューブと治療器具に繋がれているエミルが寝かせられていた。
傍で動く機械が、脈拍を示す電子音を鳴らしていた。
「……ぁ、」
エミルは頭を自分で動かせず、看護師たちがその身体をエネリットの方に向かせた。
身体の麻痺は、重傷を負ったあの時よりも進行しているようだった。
エネリットはエミルに向き直り、その目を見た。
「エミルさん」
「ぁ、え、ね」
エネリットと目を合わせたエミルは、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「り、……、と」
エミルはエネリットの顔を見ると、かつて見せたのと同じようなとろけるような笑みを見せた。
「へ、へ」
「……エミル」
エネリットは、エミルに微笑み返した。
30分ほどそこにいて、その後、エネリットは房に帰された。
次の日の朝、エミルが逝った事をステインから告げられた。
その時のエミルは15歳だった。
◆
エネリットが11歳になった誕生日、ルーサー・キングがアビスに収監された。
闇の帝王。
パブリック・エナミー。
世界中に根を張る犯罪組織『キングス・デイ』の首領。
囚人服を纏ったキングが刑務官に付き添われ所内に入った時、アビス中の囚人たちは活気づいた。
エミルやラゴの時と同じように、野次馬根性で多くの囚人たちがキングを見ようと塊になった。
他の刑務官や看守ーーステイン含めーー彼もまた、キング収監によって荒ぶる囚人たちを抑えるため、警棒を、あるいは超力を持って彼らを制御した。
エネリットは、野次馬と化した囚人たちの群れに混じり、ルーサー・キングがどんな人間だろうかと半ば好奇心で見に行った。
集まった囚人たちの合間を掻き分け、囚人たちの隙間から、キングの姿を覗き見た。
最初の印象は、『大きい』だった。
現在アビスに収監されている中にも、キングよりも大きい囚人はいる。
かつて格闘技で鳴らした3m代の大男だっている。
だが、そんな彼らよりも、エネリットが見たキングはとにかく大きい印象を持った。
実際キングは2mほどあり、皺だらけなのに屈強な体躯をしている。
けれど、『大きい』と感じさせる理由はそれだけでなかった。
全身に纏う見えないオーラが、彼を大きく見せているのだ。
ふと、ルーサー・キングが顔を動かした。
彼を見ていた囚人たちが一斉にざわつく。
キングは、小さく隠れて見えないはずのエネリットを見ていた。
キングが、エネリットにニィっと笑った。
刻まれた皺が余計深くなった。
他の囚人も、監視官も、エネリットには気づいていない。
キングが自分から目を離すまで、エネリットは動けなかった。
後に人類追放計画のための刑務作業で、エネリットはふたたびキングと対面する事になる。
現在刑務作業中のルーサー・キングは、この時のことを覚えていない。
だが、エネリットには、キングという闇の帝王が、ひどく記憶に残った。
キングは刑務官の付き添いで何枚もの書類にサインし、荷物を房に置き、また何か別の手続きがあって刑務官とともにいなくなった。
彼がその場を離れた後も、その熱気は囚人たちの間でしばらく残っていた。
◆
エネリットはその晩、オルカンの出してくれた誕生日の特別メニューも食べられなかった。
キングが自分に向けた笑顔が、ずっと記憶に残っていた。
もし自分が復讐を遂げようとした時、あの男とも関わらなければいけないのだろうか。
そうずっと考えて、エネリットは眠れなかったのだ。
そんな夜更け、彼の房に人影が現れた。
「……?」
エネリットは怪訝に思いベッドから身を起こした。
目が冴え、少しだけナーバスになっていた。
「誰ですか……?」
「エネリット=サンス・ハルトナ」
その声は、自分にとって馴染みのある人物だった。
「……ステインさん?」
そこには、マーガレット=ステインがいた。
ステインは言った。
「少し、ついてきてほしい」
その声に、いつもの棘はなかった。
ステインと二人、誰もいないアビスの通路を歩く。
夜更けのアビスは暗く、青白く頼りない光が点々と付いていた。
ステインは、面会室の前で止まった。
普段囚人たちが雑談に使っている場所だった。
「入れ」
ステインはドアを開き、手招きしてエネリットを誘う。
エネリットは何をされるかもわからず、ただついていき中へ入った。
部屋に入ると、品のいいハーブの香りが少年を出迎えた。
茶葉の入ったガラスのティーポットとカップがあった。
座れ、と促され、わけのわからないままエネリットは席に座る。
それを確認したステインは、ティーポットからカップに、二人分のお茶を注いだ。
「……ステイン、さん?」
「飲んでいいぞ」
「え、でも」
「とりあえず、飲め」
「………」
疑問が残るが、エネリットは促されるままカップを手に取る。
緊張でこわばっていた指先が、ハーブティーの熱で温まった。
湯気を吸うと、ふわりと芳しい香りがする。
飲むのに少し躊躇した。だが、「飲め」と確かに言われたので、エネリットは飲んだ。
「……、……」
全身に、心地の良い熱が行き届く。
キングの事で不安になっていたのが、これを飲んだ事で少しほぐれた。
ステインは立ったまま、エネリットの様子を見守っていた。
二口目を飲む。暖かい。
「……ステイン、さん」
「?」
暖かいハーブティーを手に持ちながら、ステインに問う。
「どうしてこんなことを……?本来、刑務官の間でこう言ったことは禁止のはずでは」
「今日は特別と思ってくれ」
ステインは言った。
「誕生日くらい、受刑者に辛気臭い思いはさせたくない」
「………」
エネリットはうつむき、ハーブティを見下ろす。
ステインは目を細める。
「こんなドブ底だとしても、誕生日くらいは特別な思いで迎えてほしい。たまたまキングの収監が被ってああなってしまったのは誤算だった。……おまえがつらそうにしているのを、見たくなかった」
「ステインさん、やっぱり変です。囚人全体がそうだとしても、僕にばっかり、こんな」
「そうだな。……おまえは、私にとって特別だ」
「………」
ハーブティから湧き立つ湯気が、暖かかった。
「まだ小さいおまえが収監された時、『王族としてふさわしい教育を受けさせるように』と上から言われてはいた。元々子を失っていて、おまえにそれを重ねていたのもあった。……だが」
「……」
「おまえと日々を過ごす中で、『エネリット』というおまえそのものに、夢を見るようになったんだ」
エネリットは答えず、ステインの次の言葉を待った。
「その、……言いにくいが。私がおまえに接する時、一種の夢を見ているんだ。おまえも含め、この深淵の地にいる者には夢など到底見てはいけないものかもしれないーーそれでも」
ステインは続けた。
「こんな場所でも、こんな場所だからこそ。ーー夢を見ずには生きていけない人間も存在するんだ」
「ステインさん」
「?」
「やっぱり、あなたーー変ですね」
「……ふん」
エネリットからそう言われたステインは、ばつが悪そうに顔を背ける。
「これを飲んだら、さっさと戻るぞ」
「マーガレットさん」
「っ、?」
マーガレット=ステインーーマーガレットは、一瞬虚を突かれる。
「……僕、お腹空いちゃいました。夕食が、手につかなかったんです」
「おまえ……ふてぶてしいな……」
「何か食べるものを持ってきてください」
エネリットは言う。
「ーーできたら、アップルパイがいいです」
◆
時間は現在に戻る。
エネリットは、夜の草原を歩いていた。
彼の他には誰もいない。
星に照らされた大地の芝が、着替えたばかりのコートの裾が、風に吹かれて揺れる。
目を閉じて風を浴び、風が止むと、エネリットはふたたび歩き出す。
なぜ歩き始めたのか。深い意味はない。
ただ、なんとなく歩いていた。
少し歩くと、森の入り口が見えてくる。
そういえばもうすぐC-6に入るんだっけと、なんとなく思う。
C-6からもう少し行けば、この刑務でディビットと出会った場所に行くな。
そう思った。
足を止めた。
西の向こうに、ブラックペンタゴンの外壁が小さく見える。
すでに禁止エリアに指定されたその場所は、夕方までの騒乱が嘘だったかのように静かだった。
「……」
エネリットは、前方の森に視線を戻す。
◆
『エネリット、君は『巌窟王』の物語を知っているかな?』
『無実の罪で投獄された男が壮大な復讐を果たす物語だ。あれは人間の怨念と希望、両方を描き出しているね』
『復讐を成し遂げても結局は心に空虚さが残るという描写がありながら、『待て、しかして希望せよ』の言葉で表されるようにこの物語は復讐の先にある希望も描いている。人間の多面性を見事に描いた大デュマの傑作だよ』
『私は復讐は人間の本能的な衝動のひとつだと考えている。だが、理性を持つ我々にとってそれは常に『後悔』と背中合わせだ』
『正義に対する執着や怒りが復讐を生む場合もある。だが、それに囚われればいつしか自分自身が復讐によって支配されてしまう』
『そうなってしまえば、本来の目的であるはずの『償わせる』という意志さえ形骸化して、その復讐は得るものよりも失うもののほうが多くなるだろう』
ーーでは、復讐は行うべきではない、と?
『そうは言わない。大切なのは、怒りを原動力とするか、理性をもって昇華するか、それを見極めることさ』
『復讐は目的のようでいて、実は人が自分の存在を問い直すための道程なのだよ。だからこそ、感情に飲み込まれず、どんな結果を望んでいるのかを冷静に見つめ直すことが大切なんだ』
ーーつまり、復讐もその先を望むための一つの過程にすぎないということですか?
『その通りだ。罰の執行者になろうとするとき、人はしばしば自分の良心を押し殺す必要がある』
『人は完全には悟れぬ生き物だ。復讐を強く意識するなら、まずはその衝動を言葉にして整理すること。感情を知に変え、昇華する余地を探る』
『そうして初めて、人は復讐の呪縛を良きものとして受け入れられるのだろう』
◆
時が経った。
エネリットも、17の誕生日を迎えた。
刑期満了を長らく願っていたフランクおじさんは、出所した一週間後に王の子供たちの抗争に巻き込まれて死んだ。
エネリットが生まれる前からいたハーモニカ吹きのイリア婆さん。認知症になり、石屑を大量に飲み込み死んだ。
ランド=ラゴは高性能の義足を手に入れたとエネリットは15の時聞いたが、直後ぷつりと消息を絶った。
タイガーファングのボスであるオルドロス=ティガード。ーーキングがアビスで勢力を広げる最中、忘れられたように食物アレルギーで死んだ。
この15年間、色々な人間がアビスに来て、また消えていった。
希望を持ったままアビスから離れられる人間など、エネリットが見てきた中ではほとんどいなかった。
誕生日の朝、いつものようにレーションの朝食を終えた後、人工太陽が輝く中庭にいた。
エネリットは高く白い壁に寄りかかり、当てもなくティガードの金貨を弄んでいた。
「……」
金貨を見下ろす。
このコインも使い道がなくなった。
意味のないものをずっと持っておくのは、エネリットの性分に合わなかった。
コインから、隣に目を移す。
汚れ切った囚人用のゴミ箱があった。
エネリットは、中庭の遠くを見る。
中庭の離れた場所では、アビスに入ったばかりのネイティブが中心にたむろし何か騒いでいた。
端では行き場のない老いた囚人が座り込んでいる。
いつものアビスの光景。
ゴミ箱に視線を戻す。
少し逡巡したのち、歩み寄り、蓋を開ける。
すえた悪臭が広がる。
それにも構わず、コインを掲げ、
「おい」
後ろから何者かに呼び止められ、手を止める。
「その金貨、いらないなら俺に渡せ」
エネリットは振り向く。
そこに、彼を呼び止めた男がいた。
金糸を思わせる髪を後ろに撫で付け、囚人服を見事に着こなす。
眉間に皺が寄っていても、整ったその顔立ちは美形と呼ぶには充分だった。
エネリットは、男の素性を知っていた。
「……どうしましょう」
困ったように微笑むエネリットに、男は顔を顰める。
「捨てた方がいいドブ金もある。だが、ティガード一族の財産でもあるそれは、まだ使いようのあるやつだ。俺とその部下ならそのコインを有用に扱える。捨てるなら、それを渡せ」
男の言葉を最後まで聞いたエネリットは、
「……くすっ、あははっ」
思わず笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「ふふっ……いやです」
「何……」
苛立った顔のディビットに、エネリットはまだ笑う。
「ただ『渡せ』とだけ言われていたら、僕は勧んでコインを渡していたでしょう。でも、あなたはこれの有用性を打ち明けてしまった。そうなると、渡すわけにはいけません」
「こいつめ……」
男は目を細め、顔を顰める。
「あなたの立場を知っているからこそ、その話には信用が増す。そうでしょう?」
エネリットは微笑み、
「ディビット=マルティーニさん」
名前を呼ばれた男ーーディビットは一瞬だけ呆気に取られたような顔をする。
「あぁ……おまえは、本当に油断ならないガキだ。バンビーノ(坊や)」
男は続ける。
「……エネリット=サンス・ハルトナ」
名前を呼ばれたエネリットは、意地悪そうにニッとした。
そんな時、壁に取り付けられたスピーカーから、音楽と共にアナウンスが流れる。
奉仕作業の時間だ。
「そろそろ時間だ、俺は行かせてもらう。ーー今度会った時は、覚悟しろよ」
ディビットはエネリットに別れを告げ、踵を返す。
「ええ。……また、会えた時に」
エネリットはディビットに挨拶し、同じようにする。
エネリットにとって、これがアビス所内での最初で最後のディビットとのやり取りだった。
アビスは規模の大きさに合わせて囚人も多くいる。
こうやって会って話すのは、二度と望めない可能性が高いだろう。
エネリットが関わってきた、他の多くの囚人たちもまたそうだった。
だが、多くの別れがあるからこそ。
こういった出会いが、エネリットの人生に確かに花を添えるのだ。
◆
外部との接点を遮断されたアビス内では、中庭の人工太陽と、所内各所に取り付けられた壁時計が、今の時刻を知る主な手段だった。
誕生日当日。ディビットと出会った直後。
壁時計は、朝の11時を指していた。
ディビットとの束の間のやり取りを思い出しながら、エネリットは所内の廊下を歩く。
その最中、慌ただしく動く刑務官の何人かとすれ違った。
リネンの床が刑務官たちの革靴に踏まれ、騒がしい足音を立てる。
「……」
離れ、遠くへ消えてゆく刑務官の後ろ姿を、エネリットは見る。
ここ最近、彼らの動きが妙だ。
アビスにとっての大きな行事の際、刑務官達は様々な仕事を片付けようと忙しなく動き回る。
物心つかない内からエネリットは何度もその様を見てきた。
だが、近頃彼らの動き方は、エネリットも感じたことのない独特の雰囲気を纏っていた。
近々、このアビス全体をーーいや、アビスだけでない。
まるで、エネリットも知らないはずの外の世界をも巻き込むようなーー
再び別の刑務官数名が現れ、すれ違い、遠くへ行く。
やはり、妙だ。
エネリットは思った。
だが、青年はすぐに興味を無くし、奉仕作業の部屋へ向かった。
遅刻してまた懲罰房に入れられたらたまったものではない。
理由はそれだけでなかった。
エネリットは諦めていた。
刑務官たちがどんなに非道な計画を考えても、自分たち囚人は彼らに従う他ないと。
◆
その晩、エネリットはマーガレットに呼び出しを受けた。
場所は掃除の行き届いた特別面会室。
かつてティガードの誘いを受けた場所だった。
エネリットが部屋に入ると、甘く芳しい匂いがした。
そのテーブルの上にはアップルパイと紅茶のティーポットが置かれており、側にはエネリットを迎えるようにマーガレットが立っていた。
11のあの時から、マーガレットは毎年エネリットを誕生日の夜にこっそり呼び出し、ケーキを振る舞っていた。
当日に祝えない時もあったがーー後日、空いた日を見つけてエネリットを誘った。
他の刑務官たちは、知っていて黙っていた。
面会室に入りマーガレットを見つけると、エネリットは笑顔をこぼした。
「僕の誕生日、よく覚えていてくれますね」
「……囚人の情報を覚えているのは、刑務官の責務だろう」
ぶっきらぼうにマーガレットは言うが、エネリットの言葉は満更でもないようだった。
つやめいたアップルパイを、エネリットは手に取った。
何回目かの誕生日に初めて作ってくれた時より、幾分か形が整っている。
「また、あなたが作ったんですか?」
「……オルカンに習ってな」
「上達しましたね」
「どこ目線だ」
そんなやり取りをして、お互いくすぐったく笑った。
アップルパイを皿に取り分けてもらい、フォークですくって食べる。
以前と同じく、甘くサクサクと口の中でとろけた。
「ふふ」
エネリットはまた笑みをこぼした。
「プレゼントもあるぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
マーガレットはためらいがちに話す。
彼女から誕生日プレゼントをもらうのは初めてで、嬉しかった。
本来、刑務官から囚人に何か贈るのは規則で禁止されているからだ。
だが……彼女の言葉は妙に歯切れが悪い。エネリットはこの時点で、かすかな不審感を覚える。
「早く見せてください」
気のせいだろう。エネリットは心の中でそう言い聞かせ、マーガレットにプレゼントを見せるように催促する。
「……これだ」
マーガレットは小さな包み紙を取り出した。
おめでたい事のはずなのに。
彼女のその様が、かつて懲罰房で諭された時のそれに似ていると、エネリットは思った。
「ありがとうございます。……どれどれ」
エネリットはアップルパイをテーブルに置く。
包み紙を受け取り、中身を見る。
それは万年筆と小さなメモ帳だった。
その万年筆は、少し前に恵波 流人が使っていたのを見かけ、マーガレットに欲しいとこぼしたモノだった。
だが、アビスの世界しか知らないエネリットには、手に入れようのないモノだと思っていた。
メモ帳は小さいながら、無地の滑らかな紙質が高級感のあるものだった。
「嬉しいです、マーガレットさん」
「……よかった」
エネリットは、思わぬ形で欲しいものを手に入れられたことを喜んだ。
マーガレットはそれを見て、安堵したように微笑んだ。
「早速使ってみてくれるか?」
「これを、ですか?」
「ああ。……名前を書いてみてくれ」
エネリットがペンとメモ帳を掲げると、マーガレットは頷く。
その視線はエネリットから外れていた。
「……わかりました」
メモ帳を開き、万年筆を紙に走らせる。
ペンは軽やかに名前を書き、その書き味は心地よい。
マーガレットは、その間うつむき黙っていた。
「書き上がりました」
エネリットが名前を書いたメモを見せることで、ようやく彼女はこっちを振り向く。
「立派な筆致だ」
「あなたに鍛えられましたので」
「メモを渡して、よく見せてくれないか?」
そこでマーガレットの真意を知った。
エネリットはメモを持ったまま押し黙る。
「……エネリット?」
「マーガレットさん。それはできません」
エネリットはメモ帳から、自分の名前の書いてある1ページを取る。
マーガレットは困惑の表情を浮かべている。
それは、今まで散々アビスで見てきた囚人の苦悶の顔とよく似ていた。
立場の弱い模範囚が、生きるために吐いた嘘を見抜かれた時の顔。
近頃のアビスでの刑務官たちのざわめきの理由。
エネリットはマーガレットのこの行動で、囚人たちの多くが巻き込まれる“何か”が起こるのだろうと確信した。
マーガレットは、エネリットをその“何か”から外そうとしているのだと。
開闢を迎え全人類が超力を持つに至った世界。
社会構造や文明はガラリと変わり、開闢以前の常識の多くは通用しなくなった。
だが、重要書類に署名し、本人確認をするという文化は、開闢を経ても失われることのない確実性を保っていた。
相手の直筆のサインを手に入れてしまえば、偽造書類を捏造して社会的に相手を陥れることができる。
逆も然り。
エネリットを救うために、マーガレットが彼の署名を必要としているのなら。
だが、この事は自分だけでなく、下手すると彼女の立場、最悪命を脅かす事になる。
「このペンも、メモも、あなたからもらったプレゼントです。大切にしたい」
「なら……名前くらい見せてくれたっていいじゃないか……」
「申し訳ありませんが、それはお断りします」
「どうして」
「マーガレットさん。少し、関係ない話をします」
エネリットは、話し始めた。
「僕は、物心もつかないうちにこの深淵に送られました。僕にとってここは生のすべて。あなたにいくらこの場所の不自由を説かれても、それは決して変わらない」
「エネリット、」
「聞いてください」
青年は続ける。
「あなたはかつて僕に言った。こんな場所だからこそ、夢を見ずにはいられない人間がいると。あなた自身がおそらくそうなのでしょう。けれど、あなたは僕と決定的に違う点がある。それは、自分の意思でこのドブ底から出られることです」
「……頼むから、渡せ」
「あなたが夢を見るべきなのは、自分自身に対してです。その対象は、深淵こそがすべての僕ではない。あなたはあなたの人生を歩んでください」
「エネ、リット……」
「自分の夢を、自分で汚すような真似をしてはいけない」
「……房に帰れ」
マーガレットはうなだれて肩を落とし、消え入るような声を出す。
「……帰れッッ!!」
振り絞られたその怒声は、微かに慟哭に聞こえた。
エネリットは無言で彼女とすれ違うと、名前を書いたメモの1ページを手に、面会室を後にした。
廊下に他の囚人たちはいなかった。
すでに就寝時刻を過ぎていたからだ。
エネリットただ一人の足音が、無音の廊下に反響していた。
エネリットは、男子トイレの前で立ち止まり、中へ入る。
個室トイレに入り、手の中にある紙を破こうと手をかける。
「……」
だが、手が止まった。
エネリットは紙を破かなかった。
個室から出て、手洗い場の水道から水を出す。
自分の名前を書いたメモを水で濡らし、柔らかくなったら折る。
柔らかくなった紙を、丸ごと口に入れた。
「………ッ、……」
苦しげにしばらく咀嚼する。
飲み込む時が一番きつかった。
ごくん、と天井を見上げ紙を飲んだ後、エネリットは流し台に手をつきしばらく荒い息を吐いた。
囚人も、刑務官も、その場にはエネリット以外誰もいなかった。
◆
あの誕生日の翌日以降、マーガレットと口を聞くことはなかった。
そこから数日もかからずに、それは唐突に始まった。
暗く冷たい石道に、男女問わず50人ほどの囚人たちが集められる。
子供から獣人、大柄な大人まで、人種も年齢も様々。
共通しているのは、色褪せた青の囚人服を着ていることと、全員にシステムAの手枷が付けられていることだった。
エネリットは、以前から自分が感じていた予感が的中したことを知った。
壇上に、看守長となったオリガ=ヴァイスマンが立っている。
彼は、傲岸に、言い聞かせるように囚人たちに説く。
『諸君らにはこれよりーーーー殺し合いをしてもらう』
ヴァイスマンは、囚人たちに刑務作業の一環として殺し合いをしろと説いた。
そこから、刑務の詳細やルールを無損な態度で説明してゆく。
ヴァイスマンに集められた50人の囚人たちの中に、エネリット=サンス・ハルトナはいた。
エネリットは、静かな態度でヴァイスマンの話を聞いている。
だが、目線だけは。
囚人たちの群れの中の、ある人物を確かに捉えていた。
2m越えの大男。
鉄仮面と鉄球を身につけた、バルタザール=デリージュ。
ここに集められる前、スヴィアンから彼の真相を聞かされていた。
この鉄仮面の男こそが、自らの叔父であり、国と父を滅ぼした『セルヴァイン=レクト・ハルトナ』なのだと。
エネリットのその眼差しに表情はない。
身体、脳、心の芯に至るまで、ひどく冷静に冴えていた。
2歳でこの監獄に送られてからこの時に至るまで、長い下準備をしてきた。
8歳の時にランド=ラゴへ復讐をしたのは、決してエミルへの友情のためではない。
自分が本当に復讐をやれるのか、試したかったのだ。
叔父への眼差しを細める。
恐怖に怯み、眠れない夜もあった。
だが、今はそれを乗り越えた。
大丈夫だ。やれる。
このために、人生のすべてを糧にしてきた。
エネリットは鉄仮面から、視線をヴァイスマンに戻した。
漆黒の闇の中、罪人たちが一人一人消えてゆく。
エネリットもまたその中に混じり、石道から消え刑務作業の舞台へ飛ばされる。
消える間際、監獄を統べる獄卒の長が何かを宣言するのを聞いた。
『これは恩赦である』
『これは慈悲である』
『ーーこれは、救済である』
『刑務開始だ』
◆
マーガレットが自分に見ていた夢がなんだったのか、結局聞けずじまいだった。
この刑務を生き残りアビスに戻ったとしても、彼女と自分の間には消えぬ溝がある。
彼女の夢は、自分には決してわからないのだろう。
それが正直少し寂しく、だが、そういうものだったんだ、とすぐに受け入れた。
夢。
かつてマーガレットに夢を説かれた時、自分の夢はなんだろうと、エネリットはずっと思っていた。
叔父への復讐が夢なのだろうと、つい先程まで思っていた。
だが、復讐を完遂させた時、達成感と共に、なんとも言えない空虚な思いが襲った。
氷月がかつて自分に言った『復讐は後悔と背中合わせ』という言葉は、正しかった。
夢。
エネリットは星を見上げ、夜の草の空気を吸う。
そして、この刑務での経験、そこで今まで出会った人々を思い出す。
戦い、傷つき、協力し合った。
自分の持てる力を、最大限活かした。
エネリットは思い、気づく。
あの一瞬一瞬が、自分の夢そのものだったのだと。
考えを巡らせているうちに、エネリットは森の入り口に到着する。
入ろうとした直前、ふと思い立ち、懐から小さい何かを取り出す。
金色に輝くヴィンテージのコイン。
オルドロス=ティガードがかつて自分に与えたものだ。
捨てるタイミングを見失い、ポケットから出し忘れた内に刑務に呼び出され、こうして今に至った。
捨ててしまおうか、とも思ったが。
ふと、何か思い立ち、コインを指先に置き、コイントスをする。
自分の中ですでに答えが出ていたとしても。
願掛けとして、やっておきたかった。
一瞬、澄んだ金属音が小さく響く。
手のひらに落ちたコインは、裏を示していた。
エネリットはその結果に少し考える仕草を見せる。
コインをしまう。月明かりに照らされ一瞬青く煌めく。
エネリットは、森に歩みを進めた。
◆
森の中、ネイ・ローマンとの激闘(リハーサル)を終えた氷月と日月。
ローマンが去った後、氷月が日月を導く形で森の中を移動していた。
「あなたの言う友人って言うのは、本当に信用できるんでしょうね……」
「まぁまぁ。きみにとっても悪い話ではないはずだ」
不満げな日月の言葉を、氷月は飄々と宥める。
「協力を断られる可能性もあるが、その時はその時だ。少なくとも、相手とは理性的な会話が望める」
「フン……」
氷月の勿体ぶった言葉が不服だが、この男のサポートは的確なので、今は従うことが最良の選択だとわかってしまっている。
すべては恩赦のため。そして、ジャンヌの輝きを超えるため。
日月は、それが歯痒かった。
「変な動きをしたら、躊躇なく始末するから」
「今はご遠慮願うよ。まだ、君を殺す方法が見つからないのでね」
森の出口が見える。
出口付近に、人影が見えた。
「あぁ……ようやく、見つかったようだ」
氷月はデジタルウォッチの表示と照らし合わせ、それが探し求めた当人だと確認すると、ほぅ、と小さく唸った。
「半日ぶりだね、探していたよ」
日月はその相手を睨み、氷月は笑いかける。
「エネリット=サンス・ハルトナ」
森の入り口に立つエネリットは、二人を目に捉えると、意味ありげな微笑みを浮かべた。
◆
【C-6/森/一日目・夜】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)
[道具]:マシンガン(弾倉残り1)、リモコン爆弾×1、デジタルウォッチ、通信機、コイン一枚、黒いコート
[恩赦P]:50pt(バルタザールの恩赦pt+100、治療キット-50pt、衣服-10pt)
[方針]
基本.さて、何をしよう?
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
①マーガレット・ステイン(刑務官)
信頼度:80%(徴収時の超力再現率40%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄の女』
②~④ジョニー・ハイドアウト、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン、只野仁成
信頼度:全て5%前後(10%→5%に減少)
効果上限:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
超力:『鉄の騎士(アイアン・デューク)』、『補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)』、『人類の到達点(ヒトナル)』
⑤スヴィアン・ライラプス
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄火の印(マメルティニ)』
⑥ディビット・マルティーニ
信頼度:100%(徴収時の超力再現率50%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『4倍賭け』
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷(傷隠しメイク)、《偶像》
[道具]:アイドル衣装、ワイヤレスイヤホンマイク、化粧品、香水、デジタルウォッチ(楽曲(タイトル不明)DL済み)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.輝く。其の為に生きて、其の為に死ぬ。
1.――――ジャンヌ。
2.氷月蓮と協力して恩赦ptを稼ぐ。使い物にならなくなったら、すぐに棄ててやる。
3.アビスからの出獄を目指す。――――本当の意味で手段は問わない。
4.ルーサー・キングとの接触は可能な限り避ける。
※人生を舞台と見立て、常時超力を高出力で発動させています。
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ、空の金属缶(容積は500mlほど)、ロープ(使い古し)、ワイヤレスマイク
[恩赦P]:0pt(残り特権65pt、ワイヤレスマイク - 5ptt)
[方針]
基本.殺す。其の為に生きて、其の為に死ぬ。
0.エネリットに接触
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.鑑日月と協力して、殺人を行う。輝かなくなったら、すぐに殺してやる。
3.被験体:Oに対抗する為の集団を探し、潜り込む。
4.鑑日月、君を殺したいと心から思ったんだ。
5.エネリットの様子がおかしいな……
※ジョーカーの役割を引き受けました。
恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
デジタルウォッチに全ての参加者の位置情報が表示されます。
また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成済)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。(残り1人)
最終更新:2026年02月20日 22:00