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それは、一人の少女が胸に抱いていた、ささやかな願いでした。

愛する故郷が、いつまでもそのままであってほしい。
ただそれだけの、誰にでもあるような願いから、すべては始まっていました。

けれど、その願いは救いにはなりませんでした。
やがてそれは、静かに破滅へと姿を変えていったのでした。

その少女は、かつては純粋無垢なアリスでした。
けれど、その純白は大人たちによって踏みにじられ、穢され、少女の心には深い痛みが残されました。

その怖い家から逃げ延びた少女が、最後にたどり着いたのは、山奥にひっそりと存在する小さな村でした。
そこは、壊れてしまった彼女を拒むことなく、ただ静かに受け入れてくれた優しい場所でした。

だからこそ、少女はその村を誰よりも深く愛していました。
自分を救ってくれたその場所は、彼女にとってかけがえのないものになっていたのでした。

だからこそ、村が終わってしまうという現実だけは、どうしても受け入れることができませんでした。

すべてが死に絶え、村そのものが崩れ去ったあとも、少女はなお、村を終わらせたくないという妄執に囚われ続けました。
失われたものを、失われたままで終わらせることができなかったのです。
壊れた心のまま、彼女はただひとつの願いに、必死にすがりついていました。

そしてその果てに、彼女は決めました。
村を永遠に残せるのなら、何もかも犠牲にしてもよいのだと。

かつて結んだ大切な絆も、愛した人と歩むはずだった未来も。
そして、自らの命さえも差し出して、彼女は『永遠』を願いました。

そうして生まれたのは、失われた幸福だけを閉じ込めた理想郷でした。
それは、生きる者が明日へ進むための世界ではありませんでした。
死者たちが終わることなく踊り続ける、停止した夢の国。

それは美しく、優しく、そしてどこまでもおぞましい。
一人の少女の愛と執着が、世界の理さえねじ曲げた果てに生まれてしまった、歪んだ『永遠』でした。

そして、少女が生み出したその『永遠』は、やがて世界そのものを侵していったのです。


これより始まるは、黒幕たちの思惑すら外れた番外戦。

一つの村の結末にして、一人の男が至る剣の極地。

そして、一人の少女の妄執が辿り着いた永遠の果て。

その結末を、どうか見届けて欲しい。


岩山の中腹は、夜だというのに妙に明るく感じられた。

月光が差しているわけではない。
目の前の空間そのものが、そこだけ薄く裏返っている。
闇の膜の向こうへ、別の空が貼りついている。
そんな錯覚を覚えさせる奇妙な明るさだった。

征十郎とエネリットは、その異様な境目を前に足を止めていた。
眼前に広がるのは、かつてメアリー・エバンスが夢見た世界の残滓。
死してなお現実に噛みつき続ける、何者かの悪意の死骸だった。

禍々しい歪みを境に、世界の理がわずかにずれている。
岩肌は同じ場所にあるはずなのに、輪郭だけが遅れて揺れる。
風は吹いているのに途中で向きを失い、空中でほどけて消える。
砕けた石片のいくつかは地に落ちず、眠ったように宙へ留まり続けていた。

「……死してなお、ここまで世界に爪痕を残すとは。才能とは恐ろしいですね」

エネリットが呟く。
世界最高峰の超力強度を持つ、新世界の寵児。
その残滓ですら、なお現実を侵し続けている。

「領域の拡大は止まっているようですね」

エネリットは中心を見たまま言う。
メアリーの死とともに、侵食の拡大は止まっている。
残されているのは、悪意と超力の残滓だけだ。
だが、それでもなお、この場は十分すぎるほど脅威だった。

征十郎は答えない。
ただ、歪みの奥をじっと見据えていた。

やがて、試すように一歩、前へ出る。
エネリットが止める間もなく、そのつま先が境界を越えた。

その瞬間だった。
征十郎の足裏から、重さが消えた。

いや、消えたのではない。
上下そのものが、唐突に意味を失ったのだ。

地面が遠のき、空が足元へ滑り込む。
岩壁はあり得ぬ角度に折れ曲がり、遅れていた風が刃の群れのように襲いかかる。
踏み込もうにも足場がない。
空間そのものが捩れ、前後左右の距離感までもが狂っていた。

白い光が頬を掠め、服の裾が音もなくほどける。
斬られたのではない。形そのものを書き換えられたのだ。
この世界は、踏み込んだ異物を拒み、あるべきでないものを削ぎ落とそうとしている。

「――っ」

次の瞬間、黒い髪がしなった。
鞭のように伸びた髪束が征十郎の脚へ絡みつき、そのまま領域外へと引き戻す。

征十郎の身体が、転がるように境界の外へ叩き出された。
逆巻いていた重力が途端に元へ戻り、肺に冷たい空気が流れ込んだ。

「なるほどな」

逆さになった体勢のまま、征十郎が呟く。
遅れて、髪を戻したエネリットが肩をすくめた。

「迂闊に踏み込まないでくださいよ」
「体験せねばわからんだろう」

短い応酬の後、征十郎は体勢を戻し、もう一度あの歪みを見た。
不条理な世界を体感しても、そこに怯みや狼狽はない。
むしろ、納得したように静かに頷いている。
征十郎はゆっくりと立ち上がると、準備するように首を鳴らす。

「もう手伝いませんよ」
「構わん。大体わかった」

短く答え、征十郎は刀に手をかける。
鯉口が、静かに鳴った。

「外縁は、ただ溢れた滓に過ぎん。端を斬っても大した傷にはなるまい」

征十郎の視線が、歪みの奥へと向かう。
捻じれた光、遅れて揺れる岩、宙に止まった砂礫。
そのすべてが、ある一点へ向かって、わずかに傾いでいた。

夢の残り香が最も濃く澱んだ中心。
死んだはずの世界が、なお世界であろうとしている核。
斬るのなら、そこだ。

残留する歪みは、直径およそ五十メートル。
中心までの距離は二十五メートルほど。
近くはない。だが、届かぬ距離でもない。

征十郎は境界を見据えたまま、静かに呼吸を整える。
斬るべきものは、そこに在る。

「では、どうぞ」

背後でエネリットが言った。

「軽く世界でも斬ってきてください」

征十郎は答えず、ただ前へ出る。
その足が、再び境界を越えた。

足裏から重さが消え、踏み込んだはずの地面が遠ざかる。
頭上にあった夜空が、ぬるりと足元へ滑り込む。
岩肌は垂直を失い、壁であったものが水面のようにたわみ、次の瞬間には牙を剥いて迫ってきた。

征十郎は刀を抜く。
体は動く。より悪意に特化したからだろう。
身体操作は違和感がある程度でさほど難しくはない。

月光を弾いた刃が、まず眼前の岩を断つ。
裂けた岩は、遅れて、別の方向へ滑っていく。
斬ったはずの断面すら、この狂った世界では素直に崩れない。

横合いから風が殺到した。
ただの冷気ではない。
刃のように細く尖り、明確な殺意を帯びた風だ。

無重力じみた空間の中、征十郎は半歩身を沈め、そのまま滑るように駆けた。
風の軌道を見切り、岩の間を縫う。
捩れた重力に足を取られる寸前、逆にその浮力を踏み台にして跳ぶ。

一息で数メートル。
だが、中心はまだ遠い。

空間が、鳴った。

次の瞬間、征十郎の周囲だけ時間がわずかにずれる。
踏み込んだ先の足場が、遅れて消える。
その隙を狙うように、宙に浮いていた砂礫が唐突に収束し、一本の槍のように尖って胸元へ殺到した。

刀が一閃される。
砂礫の槍は粉々に砕け散った。
だが、砕けた破片は落ちない。
無数の星屑のように征十郎の周囲へ滞空し、その一つ一つが再び刃の角度を取ろうと蠢く。

それでも、征十郎は前へ出た。
崩れた重力の流れすら足場に変え、異常そのものを渡っていく。

中心が迫る。
歪みの密度が増す。
世界全体が、そこを護るように唸っていた。

征十郎はゆっくりと息を吐く。
宙に浮いたまま刀を正眼に構えた。

捩れた空間の中で、ただ一人、静かに沈む。
征十郎の口元が、わずかに歪んだ。

「見えているぞ」

目に見える世界の歪み。
そのさらに奥。
中心の空間が、まるで一枚の布を無理やり捩じ切ったように、薄くめくれ上がっている。

岩と岩の境目でも、空と地の境でもない。
夢が世界へ喰い込んだ、その縫い目。
本来交わるはずのない二つの現実が、無理やり縫い合わされている、その継ぎ目。

剣士としての直感が告げる。

――――あれは斬れる。

そう理解した瞬間、征十郎の中で世界は変わった。
ただ狂って見えていた異常が、一つの太刀筋として収束する。
無限に拡散していた歪みのすべてが、ただ一箇所を断てば崩れる織物として立ち現れる。

夜空そのものが断崖のように征十郎へ倒れ込み、遅れていた重力が一気に牙を剥く。
全身を核へと圧し潰そうとする、世界そのものの敵意。
常人なら、その場で押し潰されて終わっていた。

だが。

征十郎は刀を引いた。

呼吸を一つ、肺の奥まで吸い込む。

それは、ただの斬るためだけの構えだった。
その切っ先が向いているのは、岩でも風でも空でもない。
この場に残された『夢の切れ目』そのものだった。

「――――断つ」

振り下ろされた刃が、虚空を斬る。

空間に、黒い線が走った。

それが何を成したのか、世界の方が一瞬理解できなかった。

まず、音が裂ける。
次に、光がずれる。
そして中心の一点から、夜の景色そのものが真っ二つに割れた。

それは、現実の狭間へ無理やり押し込まれていた傷口だった。
この世に存在してはならぬ継ぎ目が、征十郎の一太刀によって暴かれたのだ。

裂け目は、みし、と鈍い音を立てて広がっていく。
周囲の歪みが一斉に悲鳴を上げる。
まるで、死んだはずの少女の夢が、今度こそ致命傷を与えられたようだった。

「世界切り……お見事でした」

境界の外でその光景を見守っていたエネリットが、乾いた拍手を送った。
その視線は、確かに裂け目へ釘付けになっている。

多くの人間が決死を賭してようやく攻略できた、メアリーの世界。
あの時とは条件が違うとはいえ、その残滓をこうも鮮やかに断ち割ってみせた。
それだけで、十分に称賛に値する偉業である。

征十郎は異界の只中から跳び退る。
切れ目の入った空間を背に、岩の上へ着地した。

これほどの偉業を成し遂げた直後だというのに、その表情に大きな変化はない。
世界を斬るなどという狂気じみた離れ業すら、彼にとっては通過点にすぎない。
この一太刀は、ただ次の敵へ至るための前段にすぎなかった。

裂けた世界の奥から、冷たい闇が滲み出してくる。
それは夜の色よりも濃い、どこか湿った気配を孕んだ闇だった。
ただ暗いのではない。何かがこちらへ滲み出ようとしている、そんな予感を伴う闇だった。

征十郎は、裂け目の奥を見据えたまま立つ。
その双眸には、達成感よりも先に、来るべきものを待つ静かな昂りだけがあった。


世界を断たれた裂け目は、なお空中で脈打っていた。

黒い線として走った傷は完全には閉じず、夜の只中に縦一文字の亀裂として残っている。
その周囲だけ、光がわずかに遅れていた。
風が吹き抜けるたび、裂け目の縁は紙のように薄く捲れ、向こう側にある何かをちらつかせる。

それは、現実の色ではなかった。

夜よりも暗く、闇よりも黒い。
底も奥行きも知れぬ深淵が、裂け目の向こうで静かに揺れている。
覗き込めば視線の方が吸い込まれそうな、輪郭を持たぬ淀み。
生でも死でもなく、時間すら停滞した場所の色だった。

征十郎は、その前に立つ。
乱れた呼吸をひとつ、静かに鎮める。
礼服の裾が風に揺れ、乾いた血の匂いが夜気の中へ薄く溶けた。

やがて征十郎が、すう、と息を吸う。
そして腹の底から響く声で、名乗りを上げた。

「我が名は征十郎・八柳・クラーク!! 八柳新陰流開祖、八柳藤次郎が血を継ぐ者にして、その名を継ぎ、その業を継ぎ、その剣を継ぐ者である!!」

その声が、岩山を打つ。
真っ直ぐに言い放たれた言葉に裂け目の縁がびり、とかすかに震えた。

征十郎は一歩も退かず、裂け目の奥を睨む。
そこに誰かがいると信じるのではない。
いるのなら、届くように叩きつけるだけだ。

「我こそが八柳流最強――その自負に一点の曇りもない!
 この声が聞こえているか虎尾茶子! 永遠にしがみつき、怪異に堕ち果てた今でも、まだ貴様の内に八柳の矜持が残っているなら、出てくるがいい!!
 貴様が最強を騙るつもりなら、この場でその力を示せ! 最強は二人もいらん。どちらが上か、今ここで決めようではないか!!」

征十郎の声だけが、黒い裂け目の奥へまっすぐ沈んでいった。
呼びかけを終え、征十郎はただ裂け目を睨み続ける。

夜が静まり返る。
岩肌に張りついていた冷気すら、息を潜めたように動かない。
草も、石も、裂け目の向こうに覗く白い深淵さえ、一瞬だけ耳を澄ませたようだった。

果たして、挑戦状は届いたのか。
それともこの裂け目は、ただ世界に刻まれた傷口でしかなく、呼びかけは空しく闇へ落ちていったのか。

数秒。

何も起きない。

裂け目はなお空中で脈打っている。
漆黒の深淵は揺れている。
だが、それだけだ。

エネリットは何も言わなかった。
だが内心では、ほとんど失敗だろうと冷静に見なしていた。

無理もない。
世界に穴を開けるところまでは成し遂げた。
だが、その先はあまりにも曖昧だった。
呼びかけが届く保証もなければ、狙った相手だけをこちらへ引きずり出せる道理もない。
この裂け目は、ただ世界に刻まれた傷口でしかなかったのかもしれない。

征十郎は微動だにせず待ち続けている。
その精神に微塵たりとも揺るぎはない。
沈黙が、さらに一拍落ちる。

だが――その時だった。

裂け目の奥で、何かが蠢いた。

深淵がぴたりと静止する。
波も、うねりも、濁りも、すべてが一度だけ息を止めた。

次の瞬間。

ずるり、と。

白い闇が、裂け目の奥からこちらへ滲み出した。

零れた、というより、向こう側の世界そのものが押しつけられてきたようだった。
それは煙のようでもあり、霧のようでもあり、泥のようでもある。
形を持たぬまま、白く濁った何かが、裂け目の奥からこちらの現実へにじり寄ってくる。

夜においてなお白い。
清浄だから白いのではない。
他のすべての色を嫌い、独善的に塗り潰して白く見えている――そんな色だった。

裂け目が、みしり、と鳴った。

風の流れが遅れる。
草の揺れが半拍ずれる。
世界が、彼女を迎え入れるために、時間の方をためらったようだった。

白い闇は地面へこぼれることなく、その場に澱み、絡まり、少しずつ輪郭を結んでいく。
その中に、人の形が浮かび上がった。

「――――まったく。無茶をするわね」

声が、した。

この場に似つかわしくない、ごく当たり前の少女の声。
その声音とともに、白い闇の中からひとりの少女が足を踏み出す。

小さい。
あまりにも小さい。

世界を侵す災厄。
山折の残滓。
永遠のアリス。

そうした名から思い描くものとは、あまりにもかけ離れた、小さな少女の姿だった。

真白いドレス。
月光を吸い込んだような銀白の髪。
手には、白と黒、聖と魔、そのどちらにも見える奇妙な均衡を湛えた一本の西洋剣。

月下に現れたのは、幼い少女だった。
エネリットは一瞬、そこにエンダを思わせる雰囲気を感じた。

その立ち姿だけを見れば、悪夢めいた災厄ではない。
童話から抜け出してきた、どこか儚げな少女にすら見える。

だが、その少女が音もなく地面に足先を付けた瞬間、周囲の空気が変質した。

空間が、彼女を中心にゆっくりと白み始める。
空気は冷えるのではなく、温度そのものが止まった。
岩肌の影が淡く濁り、草の先から色が抜け、時間の流れがひどく鈍くなる。

存在しているだけで周囲の現実を侵す災厄。
その現象が、目の前の少女が紛れもない怪異であると告げていた。

現れた少女は裂け目を一瞥し、軽く眉をひそめた。

「開きっぱなしにするのも危ないわね」

まるで窓でも閉めるような気軽さで、空いた方の手をひらりと振る。
すると、世界に刻まれていた裂け目が、音もなく閉じた。

黒い線が細まり、縫い合わされるように塞がっていく。
世界に穴を開けるという離れ業の果てに生じた傷を、彼女は何でもないことのように閉じてみせたのだ。

「その力は……」

思わず、エネリットの口から声が漏れる。
流石の彼も驚愕を隠せていなかった。
世界を斬る征十郎も規格外なら、それを閉じるこの少女もまた、常識の外にいる。

少女――永遠のアリスは、そちらへちらりと視線を流し、肩をすくめた。

「ああ、これ? これは君たちに宿った異能――今はネオスだっけ? 名づけはハッセさんかなぁ。相変わらず微妙なセンスしてるねぇ。
 ともかく、これはその超力の大元になった『魔法』の力。今の世界でこれをまともに扱えるのはあたしと……まあ、ウイルスの元になったあの男くらいでしょうね」

怪異とは思えぬ余りにもあっけらかんとした口調だった。
それが、あまりにも不気味だった。
征十郎の眉が、微かに動く。

「茶子姉、なのか…………?」

口をついて出たその声に、困惑が滲む。
確かに面影はある。
だが、その姿は征十郎の知る姿よりあまりにも幼い。

その呼びかけに、少女はにこりと笑った。

「ええ。お久しぶり。大きくなったね、征くん」

それは、征十郎が知る以前の姿。
彼の前にいるのは、幼少期の姿をした虎尾茶子だった。
彼女がまだ穢れない『アリス』であった、ただひとりの少女としてそこにいた頃の、遠い名残。

「たしか、6歳のときにアメリカへ行っちゃって……最後に会ったのは、何歳のとき以来だっけ?
 可愛いハーフショタだったのに、ずいぶん厳ついおっさんになっちゃってまぁ」

幼い姿の茶子は、征十郎を頭の先から爪先まで眺めると、呆れたように小さくため息をついた。
まるで親戚のおばちゃんのような物言いだった。
征十郎は眉一つ動かさず、険しい顔のまま返す。

「最後に会ったのは10歳の帰郷の時だ。忘れもしないさ、あの大地震の日だ」
「そうだったかしら。忘れてたわ。いろいろありすぎたから」

あっさり頷いてから、茶子はふと思い出したように首を傾げる。

「そう言えば、椿姫さんはお元気?」
「さてな。壮健だとは思うが、私も逮捕されてここしばらくは母には会っていない」
「逮捕って、何やってんのよあんた……」

茶子が本気で呆れたように眉をひそめる。
征十郎はそんな反応を鼻で笑い、言い返した。

「何をやっているかはこちらの台詞だな、茶子姉。怪異にまでなって、あんたは何をしている?」

その問いに、茶子は躊躇いなく答えた。

「決まってるでしょう。山折村を永遠にする。滅びそうな故郷を護るなんて当たり前の話でしょう? だからここも、ヤマオリ(そう)してあげる」

言葉とともに、彼女の足元から白い泥がじわりと溢れ出した。

それはただの泥ではない。
山折村を埋め尽くし、すべてを『永遠』へと沈めた汚泥。
白く濁ったそれは岩肌を這い、草を呑み、周囲の空気までも鈍く染め上げていく。

この白泥はやがてこの世界を飲み込み、この泥に呑まれた死体たちもやがて起き上がるのだろう。
ただの亡骸ではなく、永遠に囚われたまま動き続ける何かとして。

『永遠』が、今こうして眼前で形を持っている。
その気配だけで、エネリットは背筋に薄い悪寒が走るのを覚えた。
征十郎は冷めた目で白泥を見下ろし、吐き捨てるように言った。

「永遠、ね。こんな馬鹿げたことをいつまで続けるつもりだ? 数億年経って地球が滅んだら永遠もないだろう」
「ガキの屁理屈ね」
「ガキの屁理屈はそちらだろう」

白い泥の向こうで、二人の視線が真正面からぶつかる。
征十郎はゆっくりと刀の柄に手を置いた。

「こちらの呼び出しに応じたということは、私と最強を競うつもりということでいいんだな?」
「まさか」

茶子は心底くだらないとでも言うように鼻で笑った。

「あの痴呆ジジイの作った流派の最強なんて、微塵も興味ないわ」
「では、何故こちらの呼び出しに応じた?」

茶子の瞳が、征十郎の腰の刀へと落ちる。

「その刀。ジジイの刀の贋作ね」
「ああ、やはりそうか」

その一言で、征十郎の中に妙な納得が落ちた。
祖父が持っていた刀が、たしかこんなだった。
古い記憶の断片が、そこでようやく繋がる。

茶子は聖魔剣デセオの切っ先をわずかに下げたまま、冷えた声で続ける。

「あたしがあの馬鹿みたいな呼び声に応じたのは、最強決定戦がしたいからじゃない。あのジジイの全てを根絶やしにするためよ」

その声音には、先ほどまでの親しげな響きはもうなかった。
虎尾茶子は怪異となった今なお、八柳藤次郎を赦していない。
永遠に囚われ、世界を侵し、怪異へ堕ち果ててもなお、その怨みだけは腐らずに残っている。
その血脈である征十郎もまた、赦しの外にあった。

「根絶やしねぇ。その割には、哉太兄を侍らせていたらしいではないか」

タチアナから聞いたヤマオリの顛末。
そこから得た情報を思い返した征十郎は口元を歪め、わざとらしく肩をすくめた。

「聞いているぞ。アニカとかいう少女に寝取られたそうじゃないか」
「――――――あ?」

空気が変わった。

茶子の声が、一瞬で底冷えする。
双眸に宿る熱が、殺意へと反転した。

「口を慎めよ、クソガキ――――殺されてぇか?」

白泥がぶくりと脈打つ。
周囲の空間まで、ぴしりと張り詰めた。

直接向けられてもいないはずのエネリットですら、皮膚の上を氷が這うような感覚に身じろぎする。
怪異としての圧ではない。
もっと個人的で、剥き出しで、幼稚なまでに生々しい怒り。

その殺意を真正面から浴びた征十郎は、むしろ愉快そうに口元を吊り上げた。

「はっ。やる気になったか、姉弟子」

その言葉で、茶子は挑発に乗せられたと気づく。
熱くなりかけた頭を、小さく息を吐いて冷ます。
瞼を閉じ、肩の力を抜く。
次に目を開いた時には、先ほどまでの剥き出しの激情はひとまず引っ込んでいた。

「……はぁ。まあ弟弟子相手に本気になるのも大人気ないか」

言って、デセオを軽く振るうと、周囲の泥が払われた。
いまだ白泥は際限なく溢れており、世界への侵食は止まっていない。
それでも二人の間だけは白泥は晴れ、今この瞬間に限って決闘の場として切り分けられた。

「いいよ。あんたに合わせてこの剣だけで遊んであげる」

その言葉が落ちた瞬間、場の空気がまたひとつ変わる。

災厄と剣士。
二つの顔を持つ虎尾茶子が、今だけは後者を前へ出したのだ。

白と黒を宿したはずの聖魔剣は、今はただの細身の剣として月光を返すだけだった。
応じる様に、口元を歪めた征十郎は無言で祖父の刀を抜く。
白泥の滲む岩山の上で、二人の間合いが静かに定まっていく。

その緊張の中、征十郎は懐へ手を入れた。
取り出されたのは、月光を鈍く弾く黒い首輪。
征十郎はそれを振り返ることなく、背後のエネリットへ放り投げた。

黒い首輪は緩やかな弧を描き、エネリットは片手でそれを受け止める。

「成功報酬だ」

茶子を呼び出すという目的は、これで果たされた。
これでエネリットの役割は終了である。

「ここから先は手出し無用。後は好きにしろ」

エネリットは手の中の黒い首輪を一瞥する。
それは確かに、依頼完了の証だった。

「では、お言葉に甘えて好きにします」

エネリットは微笑を浮かべ、黒い首輪を懐へ収めた。
そして、動くことなくその場にとどまる。
それは、ここに残って、勝負を見届けるという意思表示だった。

征十郎は小さく鼻を鳴らす。
拒絶も、歓迎もない。
好きにすればいいと、そう無言で告げていた。

エネリットは周囲を見る。
この擂台以外の周囲は白い泥に取り囲まれている。
元より逃げ場はなさそうだ。

自然体に聖魔剣を構える虎尾茶子。
刀を携え、静かに間合いを測る征十郎。
その二人の間に、夜風が一本、細く吹き抜けていく。
境界の外に立つエネリットは、わずかに肩をすくめた。

山折の呪いを背負った怪異。
地の底で進化を遂げた剣鬼。
八柳の名を継ぐ者同士が、今、同じ月の下に立っている。

これはただの殺し合いではない。
怪異討伐でもなければ、私怨の清算だけでもない。

これは――八柳の剣、その最強を決める戦いだ。

静寂が落ちる。
白泥が、ぬるりと岩肌を這う。
征十郎の刀身が、わずかに月光を返す。
茶子のデセオが、冷えた光を帯びる。

そして、夜の舞台に見えない幕が上がった。


八柳新陰流・アメリカ分流――――――

       征十郎・八柳・クラーク

        対

八柳新陰流、免許皆伝・虎尾流開祖――

           虎尾茶子


山折に始まり、山折に呪われ、山折に終わるはずだった因縁が、今ここに結実する。


八柳流最強決定戦。


――――ここに開幕。



静寂が、先に裂けた。

先に動いたのがどちらだったのか、境界の外から見ていたエネリットには判別できなかった。
ただ次の瞬間には、二つの刃が月下で交錯し、遅れて甲高い金属音が岩山へ弾けていた。

征十郎は、地を這うように駆けていた。
大地へ身を沈めるような低い踏み込みから、足元を払うのではなく、掬い上げるように刃を跳ね上げる。
『這い狼』から変形の『跳ね鯉』へ。地を舐める低さと、そこから一気に喰らいつく跳躍。
八柳流の起こりとしても鋭いが、その一撃に宿る本質はただの膂力でも斬撃でもなかった。

万物切断の超力――『斬』。

受ければ、受けた剣ごと真っ二つに両断される。
まともな防御など成立しない。
刃を合わせた時点で終わる。
それが征十郎の剣だ。

にもかかわらず。
その一撃を受け止めた茶子の聖魔剣は、征十郎の刀に砕かれなかった。

刃と刃が正面から衝突したのではない。
噛み合う寸前、茶子の切っ先がほんのわずかに角度をずらしていた。

茶子が受けたのは刃の芯ではなく、その僅かに外れた側面。
斬線の中心を、紙一重で外していたのだ。
自らが通った次元斬の痕跡から、その力を推察。
ほんのミリでも見誤れば、受けた刀ごと身体を持っていかれていたはずの一撃を、茶子は呼吸ひとつ乱さず流し切る。

細い手首が、くるりと返る。

八柳新陰流、防御技――『空蝉』。

ただ防ぐための技ではない。
殺すために受け流す技だ。
流した軌道のまま、茶子のデセオが翻った。

「……っ」

返しが、速い。

銀の線が、征十郎の喉笛へ走る。
征十郎はそれを半歩の引きで外した。
だが、茶子の攻めはそこで終わらない。

喉を狙った切っ先が、次の瞬間には手首へ、さらにその次には脇腹へと変わる。
斬り込む角度、踏み替え、呼吸、重心の置き方。
そのすべてが淀みなく連なり、まるで初めから百手先まで定められていたかのように、一分の隙もない。

幼い姿に似合わぬ、いや、幼い姿だからこそ異様な、完成された猛攻だった。
これにはさしもの征十郎も、受けに回らざるを得ない。

火花が散る。
日本刀と西洋剣が、夜の中で何度も噛み合った。

茶子の狙いは明快だった。
征十郎の超力は、斬撃に宿る。
万物切断は、攻めてこそ十全に振るわれる力だ。
打ち込ませなければ、その断絶は機能しない。

ならば、攻撃の隙すら与えず押し込めばいい。
答えは単純。
だが、それを征十郎相手に成し遂げるには、どれほどの卓越した技術が要るのか。

「ほらほら、どうしたの征くん」

その声の軽さとは裏腹に、茶子の剣は軽くない。
一歩。半歩。さらに一歩。
前へ、前へと責め立てる。

その細腕から放たれる連撃は、ただ速いだけではなかった。
防御を一枚ずつ剥がし、呼吸の置き場を奪い、これから生まれるはずの反撃の芽まで先回りして摘み取っていく。
八柳流の理に従った、苛烈にして精密な攻めだった。

征十郎の刀が横薙ぎの一閃を弾く。
そのまま下から跳ね上げるように切り返そうとした瞬間、茶子の剣が蛇のように潜り込み、刀の峰を叩いて軌道を殺した。
直後、顎を狙った突き。

征十郎は首を傾けてそれを外す。
頬に浅い線が走り、血が一条、夜へ散った。

「っ…………!?」

僅かな驚きが、今度は茶子の方に浮かんだ。

隙間なく流れ落ちる瀑布のような攻め。
その只中に、征十郎はねじ込むように一撃を差し込んできたのだ。

『秋津狩り』による最小限の動きで防ぎ、最小限の動きで返す、八柳流の切り返し。
征十郎はあえて回避を半歩遅らせ、頬を切らせるだけで済む位置に顔を置き、そのわずかな被害と引き換えに軌道を見切った。
茶子がさらに踏み込もうとした、その重心移動の先まで読んでいたからこそ成立した返しだった。

「へぇ」

感心したような声。
茶子の眸が、わずかに細まる。
ごつい体躯に似合わぬ、繊細な駆け引きだった。

「見た目に反して、ずいぶん細やかじゃない」
「それはどうも」

吐き捨てるように返し、征十郎が一歩踏み込む。
今度は、征十郎の攻め番だった。

上段からの振り下ろしと見せかけ、途中で手首を切り返す。
斬撃の軌道が変わる。
本命は肩口ではない。
茶子が『空蝉』で流しやすい角度を、あえて餌として晒し、そのさらに外を刈る一閃。

茶子がそれを読んで身を捻る。
だが、征十郎の刀はそこで終わらない。
返しのまま足運びが滑り、今度は『乱れ猩々』による乱撃が舞った。

速い。

重さを削ぎ落とし、ただ斬るためだけに最適化された剣。
その太刀筋は、茶子の知る山折の八柳流とは微妙に違っていた。

八柳流の技の中でも、とりわけ使い手の性質が色濃く出るのが、『乱れ猩々』による乱撃である。
開祖・八柳藤次郎の猩々は、定められた軌道を強力な斬撃が豪快に踊った。
哉太の猩々は、格子を描くように規則正しい軌跡を刻む。
茶子の猩々は、相手が嫌がる箇所へ斬撃の濃淡を的確に落とし込んでいく。

そして、征十郎の猩々の特色は――隙間のないほどの手数。

開祖たる八柳藤次郎の薫陶を山折で受けた茶子たちとは違う。
征十郎は幼くして山折を離れ、その後に剣を仕込んだのは、開祖の娘にして征十郎の母、八柳椿姫だった。
そこへ異国での実戦が積み重なり、その剣はもはや我流に近い変質を遂げている。

そして何より、その剣は超力を前提としていた。

万物を断てるのなら、腕力はいらない。
断てるのなら、要るのは速さと、当てるための技だけだ。

必然、その剣は通常の八柳流よりなお鋭く、速く、狡猾になる。
茶子の笑みが、少し深くなった。

「なるほどね」

さすがの茶子でも、この手数すべてを芯を外しながら受け切るのは不可能だ。
できても数度。
ならば、その一度を最大効率で使う。

細かな乱撃の流れを見切った茶子は、あえて前へ踏み込み、『鹿狩り』の強烈な一打で流れそのものを叩き潰した。

火花が弾ける。
力いっぱい弾かれ、征十郎の刀が浮く。
その隙間へ、『抜き風』の足運びから茶子の剣が滑り込む。
風のように、起こりすら見せず間合いへ入り込んでくる。

だが、征十郎は防御に回るのではなく、そこに斬撃を合わせた。
弾かれた刀の浮き上がりをそのまま利用し、大地を踏みしめ、『天雷』を落とす。
強引な対応だったが、超力が乗る以上、征十郎にとって攻撃そのものが最良の防御になる。

この斬撃と真正面から噛み合えば、こちらが断たれる。
一瞬でそう判断した茶子は剣を引き、身を躱した。
天雷が地面に落ち切った事を確認し、茶子が再び攻めに出た。

攻防が、目まぐるしく入れ替わる。
刃と刃が噛み合うたび、夜の空気が震えた。

茶子が攻め、征十郎がいなし、征十郎が斬り込み、茶子が流す。
一手ごとに主導権が移り変わる。
間合いの奪い合い。呼吸の奪い合い。起こりの読み合い。

それはもはや尋常の立ち合いではなかった。
八柳流という一つの流派が持つ技術の限界を、互いが互いにぶつけ合っている。
達人同士でなければ成立しない、地獄じみた精度の応酬だった。

征十郎の刀が大きく弧を描く。
茶子も同時に横薙ぎへ移る。

剣の起こりは、ほぼ同時。
だが、届いたのは征十郎の剣が先だった。

茶子の瞳が、わずかに細くなる。
最初の数合では誤魔化せていた。
だが、読み合いの密度が増し、互いの技が噛み合えば噛み合うほど、その差が露骨に浮かび上がる。

それは技量の差ではない。
純粋な体格差に伴う、間合いの差だった。

征十郎の一太刀を『空蝉』で流し切った、その直後。
さらに半歩、征十郎が前へ滑り込む。

幼い肉体では、どうしても八柳流本来の間合いを維持しきれない。
『空蝉』で流し、捌き、読み勝ってなお、最後の半歩だけ、届く前に噛まれる。
攻め切る前に征十郎の間合いが先に成立してしまう。

届く。

次の一撃は、技で外せても、距離で食いつかれる。
その事実を、茶子は誰より早く理解した。
だから、そこで素直に大きく背後に下がった。

す、と間合いの外へ退き、くるりとデセオを回す。
月光の下、幼い少女の姿のまま、彼女は小さく肩をすくめた。

「少し、征くんを嘗めてたよ」

声音は明るい。
だが、その奥には先ほどまでより一段深い真剣味が混じっていた。

「流石にこのリーチ差はキツイ」

その言葉と、ほとんど同時に。

ごきり、と。

最初に鳴ったのは首だった。
細い骨が内側から軋み、続いて肩、背、腰、脚へと、乾いた音が連鎖していく。
幼い輪郭が、見えない手に引き延ばされるようにほどけていった。

白い肌の上を、成長というにはあまりに無遠慮な変化が走る。
腕が、脚が、すらりと伸びるたび、その存在そのものが塗り替わっていく。
首筋が伸び、鎖骨が開き、胸元と腰の線が少女のものから年頃の娘のものへと滑らかに移り変わる。

白いドレスが、膨張する肉体に裂けることなく寄り添い、その輪郭だけを静かに変えていく様は、成長というより変態に近かった。
まるで、最初からそこに在った別の茶子が、薄皮を脱ぐように現れてくる。

やがて、音が止んだ。

月下に立っていたのは、もう幼い少女ではない。
山折を離れる前、征十郎が見上げていた頃の虎尾茶子。
彼にとって最も見覚えのある、女子高生時代の虎尾茶子の姿だった。

茶子は新しい身体の具合を確かめるように、軽く首を鳴らす。
長くなった髪が、肩の上で揺れた。
そのまま、くるりとデセオを弄ぶ。

そして、試すように空を切る一振り。
鋭い風切り音を立て、夜に線を刻む。

その鋭さは、先ほどまでとは明らかに違っていた。

「うん。やっぱこっちの方が技が手に馴染む」

それだけで分かる。
ただ手足が伸びただけではない。
八柳流が最もよく馴染むよう、身体そのものを合わせ直したのだ。

すらりと伸びた手足。
踏み込みの幅。
そして何より、八柳流が最も美しく、最も凶悪に機能する間合い。
茶子はようやく、自分の剣が最も自然に届く位置へ戻ってきたのだ。

茶子が、静かにデセオを構え直す。
先ほどまでの軽さは、まだ残っている。
だが、その奥に潜む圧は、もはや別物だった。

「――さ。ここからは、ちゃんと斬り合おうか、征くん」

茶子がゆっくりと一歩、前に踏み込む。
それだけで、戦場の空気が変わった。

攻めさせてはならぬ。
その直感に従い、征十郎が先手を取って動いた。

征十郎の刀が走る。
この状況でも無駄な力みはない。
ただ斬るためだけに最適化された一閃。

万物両断の超力を宿した刃は、あらゆる受けを否定する。
真正面から受ければ、それで終わる。
だからこそ征十郎は、ここまで押し切ってきた。

だが。

茶子は受けなかった。

半歩。
いや、それよりさらに僅かな重心移動だけで、刀身の通る線から身体を外す。
刃は白いドレスの胸元だけを浅く裂き、その奥の肉には届かない。
裂けた布片が、ひらりと月下を舞った。

完璧な見切りだった。
その軌跡を眺めながら、茶子の口元がわずかに笑う。

だが、征十郎は止まらない。
初太刀の回避先を刈るように、返しの横薙ぎが奔る。
避けた先まで含めて断つ、合理の一閃。

それすらも、茶子はするりと抜けた。
避けるというより、最初から斬線の外にいたかのような動き。
征十郎の刀がどこを通るかを見てから動いているのではない。
起こりの時点で、その先の流れごと読んでいるのだ。

刀の風圧が頬を撫でる。
その目前を掠めながら、茶子の身体は水のように、征十郎の攻撃の隙間を流れていく。

「足りないねぇ」

声が近い。
いつの間にか、茶子は征十郎の間合いの内側へ滑り込んでいた。
『抜き風』の足運び。その滑らかさは先ほどまでの比ではない。
デセオの切っ先が、征十郎の喉へ真っ直ぐ伸びる。

征十郎は首を沈め、ぎりぎりでそれを外した。
切っ先が黒髪を数本、夜へ散らす。

だが、茶子は止まらない。
腰を捻り、独楽のように身を回す。
その回転のまま、横薙ぎの二撃目が走った。

「くっ……!」

征十郎は刀で受け止めながら、たまらず数歩退く。
その様子を見て、茶子がくすりと笑った。

「ダメダメ。今のは『抜き風』から『蠅払い』に繋げるのを読んで、初撃を避けるんじゃなく『空蝉』で返すところでしょ」

言いながら、さらに一歩。
突きが払いへ、払いが逆袈裟へ、逆袈裟が柄元を狙う絡めへと変わる。

技が連なっているのではない。
呼吸そのものが剣になっている。
あまりにも自然に剣劇が舞うように変化していく――『三重の舞』。

征十郎はそれを捌く。
『三重の舞』である以上、大枠の流れは読める。
刀の角度を変え、身を捻り、最小限の動きで致命だけを外していく。

だが、その読みを嘲笑うように、茶子の剣質がさらに切り替わった。
横一文字が、途中で袈裟へと変わる。
肩口が浅く裂け、黒い礼服が音もなくほころぶ。

「『三重の舞』を放たれたら派生を警戒すべし。こんなの、基本中の基本なんだけどねぇ」

男と女の体格差。まして欧米の血を引く征十郎の体躯は大きい。
間合いによる優位は、なお征十郎の側に残っている。
だが今、押しているのは確実に茶子だった。

茶子の間合いが戻ったことで、技の切れそのものが増している。
それだけでも脅威だったが、茶子が先を取っている理由はそれだけではない。

征十郎が踏み込む。
両断を狙った大振りではない。
デセオへ刀身を引っかけるように振り下ろし、そのまま絡めて抑え込む。
合気の理で相手の武器を封じ、同時に二本差しにしていた腰の刀へ手を伸ばす。

初撃で相手の動きを縫い止め、本命を別の刀で差し込む。
抜刀による変則の『朧蟷螂』。

だが。

「『秋津狩り』と見せかけて、変則の『朧蟷螂』」

茶子が、征十郎の動きを言い当てる。
そのまま抜刀しかけた柄頭へ、指先をそっと添えるように押さえた。
たったそれだけで、抜き打ちが殺される。

その一瞬の滞りを逃さず、切り返された茶子の剣先が胸元を裂いた。
黒いスーツが裂け、浅い血が滲む。

「実戦はそれなりに積んでるみたいだけど、足りない。対八柳流の経験がまるで足りていない」

征十郎の眸が、わずかに細まる。
同門との戦いなら、手の内が読まれるのは当然だ。
だが、その読みにも深さの差がある。

茶子は山折の八柳道場で、哉太や他の同門と幾千、幾万と打ち合ってきた。
それに対し、征十郎は異国の地で母から基本を継ぎ、あとは実戦の中で他門相手に削り出してきた。

技の起こり。癖。見せ技。虚実。呼吸の置き方。
流れのどこで人が欲を出し、どこで誘いを入れ、どこで我慢しきれず切り返すか。
茶子はそれを、頭ではなく体と経験で理解している。

対八柳流の経験値の差。
それこそが、この同門対決において、先読みの深度に違いを生んでいた。

だから、征十郎の剣がどれほど速くとも。
そこに八柳流の文脈が残っている限り、茶子には読める。
読める以上、後の先を取れる。

「姉弟子のご高説、痛み入る」

征十郎は一歩退き、刀を中段へ戻した。
呼吸は乱れていない。
だが、このまま正攻法では押し切れていないことは自分でも理解していた。

「お返しに、こちらも一つ教授してやろう」

茶子が、面白そうに片眉を上げる。

「へぇ、何を?」

お前如きが何を説くのか。
その表情は如実にそう語っていた。
征十郎の口元が、ほんの僅かに歪んだ。

「何が飛び出すかわからない――――超力を前提とした現代戦をだ」
「!?」

次の瞬間。
征十郎の刀が、一閃された。

斬られたのは、茶子ではない。
足元の岩盤だった。

音もなく、岩山が裂ける。

さらに二閃。
今度は背後の岩壁。
周囲の地形そのものへ、万物両断が叩き込まれる。

砕けた岩が宙へ舞い、砂塵が噴き上がる。
月光を受けた破片が、ばらばらと夜空へ散った。

崩れる足場の上で体勢を整えながら、茶子は素早く視線を走らせる。
周囲は舞い上がった砂塵で、一時的に視界不良。

足場崩しか。
目くらましか。
あるいは退路封じか。

幾つもの意図が、瞬時に脳裏を走る。
だが、その程度の陽動に対応できない虎尾茶子ではない。
剣先が静かに持ち上がり、どの方向から来ても捌ける位置へ収まる。

その刹那。

砂塵を切り裂き、天より征十郎が降った。

現れたのは上。
散った瓦礫を蹴り台に、征十郎の巨躯が猿のように空中を渡っていた。
空中に散った瓦礫を利用した『猿八艘』。
常人なら着地のたびに勢いを殺すはずのその動きが、征十郎の脚ではむしろ加速へ変わっている。

だが、茶子の反応も早い。
『雀打ち』による対空迎撃までは間に合わない。
だが、『空蝉』で受け流すだけなら辛うじて間に合う。

瞬間的に、茶子はそう判断した。

だが、その目がわずかに見開いた。

征十郎が振るったのは、刀ではなかった。

巨体が、空中でしなる。
刀を振り下ろすと見せかけ、そのまま腰を捻る。
次の瞬間、征十郎の脚が鞭のように跳ねた。

斬撃ではなく、流星めいた飛び蹴り。
これは中国武術の流れを汲む八柳流体術の一つ。
高地から相手を不意討つ『流燕脚』。

「っ……!」

咄嗟にデセオを盾にそれを受ける。
だが、防いだところで質量そのものまでは殺し切れない。
衝撃が細い両腕を貫き、そのまま茶子の身体が弾かれるように後方へ押し飛ばされた。

茶子は空中で身を翻し、即座に体勢を立て直す。
だが、翻ったその瞳が、その先にあるものを見て大きく見開かれた。

押し流された先にあったのは、空気の色が違う空間。
踏み込めば、あらゆる意味が失われる、壊れた世界の残滓。

なお色濃く澱む、メアリー・エバンスが残した歪んだ領域だった。

茶子の体が境界を越えた瞬間、その身体がふわりと浮く。
同時に、蹴りの勢いのまま征十郎自身も異空間へ踏み込む。

瞬間。周囲の異界が、侵入者へ牙を剥いた。

風が刃の群れとなって殺到する。
浮いた瓦礫が槍のように収束する。
空間そのものが異物を削ぎ落とそうと、無数の死を一斉に押しつけてくる。

これに対して茶子は慌てることなく対処する。
無重力の中、身体を反転させ、重心のない空間でなお最短の軌道を選ぶ。
侵食の理不尽を一瞬で読み、風をいなし、瓦礫を斬り、空間の捩れに自分の軸を合わせていく。

その適応の速さは、圧倒的だった。
無傷のまま全ての対処を終えた茶子は、そこで同じく世界に侵入した征十郎を見る。
征十郎が世界に翻弄されているのなら、次の一手は茶子が速い。

だが、その予想は外れた。

吹きすさぶ風に征十郎の服や頬が裂ける。
脇腹を掠めた砂礫が肉を抉り、血が無重力の中で赤い珠となって散る。
征十郎は、世界に対するあらゆる対処を捨てていた。

ただ、刀を振りかぶっていた。

世界への対応の早さでは、圧倒的に茶子が上だ。

だが、全ての対処を捨てて一撃だけを通すなら――速いのは、征十郎だ。

彼の目に映っていたのは、茶子の身体ではない。
その背後にある世界の歪み。
メアリーという少女の夢と、どこかの誰かの悪意が無理やり縫い合わされた、夢と現実の境そのもの。


――――目に見えるのなら、征十郎は斬れる。


茶子の身体が、その縫い目の上へ重なった。
瞬間、征十郎の中ですべての雑音が消えた。

あるのはただ一つ。
己が世界へ引く、斬撃の音だけだった。

空間に一本の黒い線が走る。

それはもはや斬撃ではなかった。
境界そのものを、あるべき位置からずらす行為。
世界に刻まれる、断層そのもの。

――――――次元斬。

それは、世界そのものに生じた傷だった。

「……あ」

茶子の目が見開かれる。
それは驚愕か。
あるいは、自分が今まさに断たれたのだという理解そのものか。

斬られたのは肉体ではない。
茶子が立っていた『座標』そのもの。
彼女の背後に広がっていた異界ごと、世界がそこで二つに割られたのだ。

白いドレスが、黒い線に沿ってわずかにずれる。
上半身と下半身が、ほんの僅かに噛み合いを失う。
だが肉はまだ、切断の事実に追いついていない。
斬られたという結果だけが、現実より先にそこへ立っていた。

征十郎は、その壊れた世界から跳び出した。
地へ着地した瞬間、膝がわずかに沈む。

世界から受けた傷は浅くない。
頬は裂け、脇腹からは血が流れ、礼服の黒をさらに濃く染めていく。
それでも、その眼だけは揺らがなかった。

肉を断った感触ではない。
もっと深く、もっと硬いもの。
人ひとりの命ではなく、その者が立っていた次元ごと斬り裂いた、確かな手応えがあった。
空間に残る黒い線もまた、その一撃が幻ではなかったことを告げている。

それを見据えながら、征十郎は静かに息を吐いた。
肺の奥に残った熱を、ゆっくりと逃がしていく。
だが、残心は崩さない。刀も、まだ下げない。

征十郎の視線は、黒い断層の向こうへ据えられていた。
断ったはずの座標。裂けたはずの空間。
その奥にある闇はなお閉じず、じっとこちらを見返しているようだった。

脇で立ち会うエネリットの表情もまた、険しいままだった。
むしろ、何かを見極めようとするように目を細めたまま、微動だにしていない。

周囲に溢れる白泥の侵食は止まっていない。
茶子を断ったはずの一撃のあとも、白濁は途絶えることなく岩肌を這い、世界へ滲み続けている。
まるで、斬られた当人だけが不在で、現象だけがその場に残されているかのように。

静寂が落ちる。

そして。

ぱちん、と。

小さく、指を鳴らす音が響いた。

その瞬間、裂かれていたメアリーの残滓そのものが、硝子のように一斉に砕け散る。

黒く濁った空間がひび割れ、闇の破片となって月光を弾く。
砕けた破片は夜の中へ溶けるように消え、その奥から、何事もなかったように一人の女が歩み出てきた。

それは永遠のアリス。虎尾茶子。
永遠を振りまく世界の災厄。
肩を竦めるように、茶子が呟く。

「あーあ。油断したわ。穴を塞ぐだけじゃなくて、ちゃんと消しておくべきだったね」

切断されたはずの身体が、巻き戻るように繋がっていく。
裂けた肉も、骨も、衣も、時間を逆再生するように元へ戻る。
ずれかけていた上半身と下半身が音もなく噛み合い、白いドレスの裂け目さえ、最初から傷などなかったかのように回帰していった。

ルクレツィアや銀鈴を思わせる異常な再生力だが、あれらとも違う。
これは再生ではない。まして治癒でもない。
断たれたという結果そのものを、世界の側から否定している。
それは『治る』のではない、最初からそうではなかったことにされるかのような、不条理な巻き戻しだった。

征十郎の眉が、わずかに動く。
茶子は自分の肩を軽く払うような仕草をした。

「確かに、山折でのたった一日しか知らないあたしと、それが当たり前になった世界で生きてきたお前たちとじゃ、経験が違うか」

白泥が、彼女の足元でぶくりと脈打つ。
岩肌を這う白濁が、呼吸に合わせるようにわずかに揺れた。

その声音に、もはや先ほどまでの軽さはない。
感心と警戒が、同じだけ混じっていた。
姉弟子としての気安さは薄れ、強敵を見る剣士の目がそこにあった。

「認めるわ、征くん。あなたは、人間だった頃のあたしより強い」

征十郎は答えない。
刀を下げず、ただ静かに呼吸だけを整えている。

血が袖を伝い、地に落ちる。
メアリーの異界で受けた裂傷も浅くはない。
それでも、その眼だけはむしろ先ほどよりなお鋭く、深く研ぎ澄まされている。

「随分と、あっさり認めるのだな」
「言ったでしょう。あのクソジジイの流派の最強なんて興味がないと」

茶子はその視線を受けて、今度ははっきりと笑った。
だが、その笑みはもう年長者の余裕ではない。
強敵を前にした者だけが見せる、愉悦と歓喜の笑みだった。

白泥が、彼女の足元から静かに広がる。
戦いの舞台だけは払われていたはずの白泥が、再び周囲へ滲み始める。
時間そのものが淀み、腐り、停止へ向かっていくような圧が、じわじわと空間へ満ちていった。

「けれど、それだけ。カビの生えたジジイの考えた棒振りで最強気取ったところで――私(アリス)には届かない」

タチアナを囚えていた『永遠』の元凶。
彼女の存在は、ただの怪異ではない。『永遠』そのものだ。

体を両断したところで、滅びるはずがない。
彼女を滅ぼすには、茶子という存在をこの世に固定している『永遠』そのものを切り裂く必要がある。
それは征十郎も理解していたはずだ。
そこへ刃を届かせるには、まだ一段深く、核を見抜かねばならない。

「懐かしい顔を久しぶりに見たから、少し遊びがすぎた」

声が変わる。
幼さを含んだ高さが消え、静かに響く、よく通る女の声へと沈んでいく。

茶子の輪郭が、ゆっくりと変わり始めた。
先ほどのような、骨が鳴り、肉が伸びるような露骨な変化ではない。
もっと静かで、もっと不気味な変質だった。

少女が大人になるのではない。
今ここに在る『虎尾茶子』という存在そのものが、ひとつ先へずれていく。

征十郎は、その変化を真正面から見据えた。

ここから先は、もはや征十郎の知る姉弟子ではない。
征十郎の知らぬその先にある、より成熟し、より完成され、より深く壊れていた頃の虎尾茶子。
剣士として最も鋭く。怪異として最も濃く。
永遠に囚われた『永遠のアリス』という災厄の、完成形。

茶子は、わずかに首を傾ける。
長くなった髪が肩を流れ、その白さが月光を押し返した。

白いドレスが、彼女の変質に合わせて形を変えていく。
童話めいた柔らかさは失われ、死装束にも似た静かな威容へと変じていく。
布の裾は重く落ち、胸元と腰の線は研ぎ澄まされ、立っているだけでひとつの完成された存在に見えた。

伸びた手足は、もはや華奢ではない。
しなやかさの中に確かな強度を宿し、重心は深く、地を噛むように落ち着いている。
今ここで最も自然に人を殺せる身体があるとすれば、間違いなくこの形だった。

怪異、永遠のアリス。
その皮の下に眠っていたもの。

剣士としての全盛。
そして、永遠へ執着する怪異としての全盛。

二つが、今ここで完全に重なった。

「さぁ、サービスタイムは終わりだよ。ここからはあたしも、本気でいかせてもらうわ」

それは、剣技以外の力も解禁するという宣言だった。
茶子は自らの指を軽く開き、閉じる。
そのまま、デセオを握り直す。

ただそれだけの動作で、周囲の世界が変わった。

いや、空気だけではない。
風向きが変わる。
白泥のうねりが止まる。
月光さえ、彼女の周囲だけわずかに鈍る。

空気そのものが、茶子の呼吸に従い始めていた。

エネリットの喉が、無意識にひとつ鳴る。
征十郎の肌にも、研ぎ澄まされた刃を首筋へ突きつけられたような緊張が走った。
征十郎は覚悟を決め、刀を構える。

「――――来い」

呼び声に応じる様に、茶子が日常の一歩のように前へ出た。
来る、と理解した次の瞬間には、茶子は既に征十郎の真横にいた。

「……っ!?」

動きの起こりすら見えなかった。
消えた――そう錯覚するしかないほどの速度。
踏み込みも、加速も、重心移動すら存在しなかったかのようだった。
距離という過程そのものを、何か別の理で踏み潰して現れたようだった。

ここまで茶子が剣術のみの勝負につき合ってきたのは、古い馴染みにつき合ったただの遊びである。
身体能力すら、現代人の枠に収まる程度へ合わせて調整していたのだ。
その制限を外し、魔法を解禁し、怪異としての全力を取り戻したならどうなるのか。

理解した時には、もう遅い。

征十郎の身体が、横へ流れた。
遅れて脇腹が深く裂け、血が夜へ扇のように散る。

「が……っ」

斬撃が通ったあとに初めて、斬られたと追いつく。
そんな領域の速さだった。

そこに虫でも払うような気軽さで、デセオがもう一度振られる。
征十郎は本能だけで刀を差し込み、辛うじて受けた。

瞬間、征十郎の巨体が宙に浮く。

「な――」

ただの膂力ではない。
斬撃の衝突に合わせ、見えない何かがまとめて征十郎の全身を打ち上げていた。
その場にある質量そのものを、まとめて弾き飛ばしたような一撃だった。

そこへ茶子は片腕を、すっと掲げる。

すると浮いた征十郎へ向け、炎が走った。

紅蓮の奔流。
だがそれは単なる火球でも火炎放射でもない。
帯のように捻じれて喰らいつく、意志を持った灼熱だった。

征十郎は目を見開き、空中で刀を振るう。
万物両断。
炎の核を断ち、軌道を裂き、迫る魔法そのものを切り開く。

だが、断ったはずのその直後。
征十郎の身体が、不意に横へ引かれた。

「――っ!?」

見えない何かが、体を鷲掴みにしていた。
次の瞬間、征十郎の身体は岩肌へ叩きつけられる。

「がはっ!?」

轟音。
砕けた岩が爆ぜ、衝撃が中腹を揺らす。

茶子の魔法は、現象ごとに名前を分けて対応すること自体が無意味な、万能の力だった。
それらすべてが、ひとつの呼吸の中で同時に成立している。

征十郎は、この刑務作業の参加者、いや世界でも指折りの強者だ。
正面からなら、並び立つものなどそうはいない。

その征十郎が、手も足も出ない。
悪夢のような光景だった。

存在としての次元が違う。
抗うかどうかという発想そのものを置き去りにした、完成された災厄だった。

「懐かしいわねぇ。こうしていると征くんが道場にいた頃を思い出すわ」

茶子が、ゆっくりと歩く。
その一歩ごとに、白泥が彼女の足元で脈打った。
まるで大地そのものが、女王の機嫌を窺っているようだった。

「そう、だな……あんたは、小学生にもなってないガキにも容赦なかった」

咳き込みながら、征十郎が返す。
幼少時代の道場で、一方的に叩きのめされた記憶が脳裏を掠める。
だが、今の力量差はあの頃以上だった。

それでも征十郎は諦めていなかった。
その眼だけは、少しも死んでいない。
負けん気を剥き出しにした、噛みつく獣のような眼で、真正面から茶子を睨みつけている。

茶子はそんな征十郎を見て目を細めた。

「その目。それもあの頃と変わんない。ほんと、ムカつくガキだよ。お前は」

次の瞬間、征十郎が地を蹴った。

万物両断の斬撃。
どれほど格上の怪物であろうと、当たれば終わる絶対の一太刀。
世界そのものを斬るに至った、剣鬼の極致。

だが、その一撃は届かない。

「遅すぎる。止まって見えるわ」

茶子は、事も無げに言った。
速さに特化し、技の冴えを極めた征十郎の剣。
その極致へ至った刃を、茶子はまるで飛んできた木の葉でも摘むように、指先で白刃取りしていた。

征十郎の目が見開かれる。

止められたことだけではない。
摘ままれた剣先が、かたかたと震え始めたのだ。

それは征十郎の震えではない。
ましてや茶子の指先でもない。

刀そのものが、恐怖するように震えていた。

「あたしが全力を出しちゃったからでしょうね。どうやら『永遠』の属性を持つものは、あたしの出現に強く影響を受けるみたいなの」

永遠の大元。
『永遠』という概念そのものに最も近い怪異。
その完成形たるアリスが、今ここに本気で顕現している。
その結果、同じく『永遠』に侵された存在は、存在の根から圧を受ける。

「まずは――あのクソジジイの刀から壊してあげる」

茶子の指先に、ほんの僅か力が籠もる。

たった、それだけで、永遠を付与された日本刀に、ぴし、と細い亀裂が走った。
次の瞬間には、その亀裂が蜘蛛の巣のように刀身全体へ広がっていく。

耳障りな、悲鳴のような音が響き、耐えきれなかったように刀が砕け散った。

誇り高くあったはずの刃が、自ら恐怖に震えた果てに耐久そのものを失ったかのように。
破片が月光を弾き、夜へ散る。

征十郎の呼吸が、一瞬だけ止まる。

だが、それでも意識は止まらない。
咄嗟に征十郎は腰の刀へ手を伸ばした。

だが、それよりも早く。

ずぶり、と。

デセオが腹部を貫いていた。
まるで最初から、その場所に剣が存在していたかのような、あまりにも自然な動作だった。

次いで、引き抜かれる。
血が噴き出し、礼服の黒をさらに濃く染めた。
熱いはずの血が、夜の寒さに触れてやけに冷たく感じる。

「ぐ――が、っ」

征十郎の身体がぐらりと揺れる。
茶子は、もはやその一撃に何の感慨も抱いていないように、すっと視線を外した。
まるで、征十郎への興味は尽きたと言わんばかりに。

岩山の中腹から周囲を見下ろす。

白い泥は、ここからブラックペンタゴン近くにまですでに広がっている。
岩肌を這い、谷を埋め、島そのものを白く塗り潰していく。
この島全体を呑み込むまで、あと一時間とかかるまい。

人より先に、この閉じた世界そのものが終わろうとしていた。

「よそ見を…………するな」

征十郎が、血を吐きながら声を絞る。

鞘から引き抜かれた刀は振り抜かれることなく、杖代わりのように地へ突き立てられていた。
腹を貫かれた傷口から溢れた血が刀身を伝い、柄を握る手からも少しずつ力が抜けていく。
それでもなお、征十郎は倒れまいとしていた。

呼吸のたびに、胸の奥で血の音がした。
喉の裏には鉄錆の味が広がり、視界の端は断続的に明滅する。
誰が見ても明らかな致命傷の積み重ねだった。
普通の人間なら、とっくに何度死んでいてもおかしくない。

茶子は呆れたように溜息をつく。
その眼には、わずかな苛立ちと、どうしようもないものを見るような冷たさが宿っていた。

「まだ立つんだ。素直に倒れれば楽でしょうに」

吐息混じりのその声には、先ほどまでの剣士としての昂りはない。
あるのは、なお足掻く人間を見下ろす災厄の、高みからの静けさだけだった。

「安心なさい。ここで死んでも、あなたは終わらない。あなたもあたしの『永遠』に加えてあげる」

白泥が、彼女の足元から音もなく広がっていく。
それは慈悲のようでもあり、どうしようもない死の宣告のようでもあった。

だが実際には、そのどちらでもない。
人を踏み潰す嵐に善意も悪意もないのと同じだ。
そこにあるのは、ただ抗いようのない災厄の論理だけだった。

「永遠、か」

小さく呟き、征十郎は血に濡れた口元を拭う。

かつて一人の少女が囚われたもの。
笑いながら嫌悪し、刹那に溺れてなお、最後まで胸の奥から追い出せなかったもの。
それを思えばこそ、なおのこと征十郎は問わねばならなかった。

「茶子姉――いや、永遠のアリスよ」

血を吐きながら、それでも征十郎は顔を上げた。
腹を貫かれ、脇腹を裂かれ、刀を杖のように支えにしてなお立ち上がるその姿は、もはや人の執念そのものだった。
白泥が足元を這う。死の気配を孕んだ濁流が、音もなく彼の靴先を舐めていた。

「お前の言う『永遠』とは、何だ?」

茶子は眉をひそめる。
そんなことを今さら問うのか、とでも言いたげな顔だった。
だが、征十郎の眼が本気であることを見て取ると、彼女は薄く息を吐き、まるで当然の理を語るように答えた。

「老いも、別れも、後悔も存在しない。もう何も奪われない、何も失われない世界。そんな理想の永遠の国(ネバーランド)として、山折は残り続けるのよ」

素晴らしきものを語るような、静かな声。
だが、その静けさの奥には、少女の中で煮詰められた執着の澱がある。
白い泥が呼応するようにぶくりと脈打ち、周囲の岩肌へ白濁した膜を広げていく。
征十郎はそれを見下ろしながら、低く言った。

「そんなことをせずとも、残るものはあるだろう。ここに八柳の剣が残っているように」

開祖が死に、山折が沈み、道場が朽ちてもなお、剣の理は征十郎の血肉の中に生きている。
だが、その言葉を茶子は鼻で笑った。

「そんな形のないものは、いつか失われる。そんなものは『永遠』じゃない」
「いいや。それは違う」

征十郎は即座に断じた。
血に濡れ、今にも崩れ落ちそうな身体から発せられたとは思えぬほど、その声には奇妙な強さがあった。

「永遠は、目に見えずとも、そこに在るものだ。お前はそれを、物理的な形にしなければ信じられなかった」

ぴしゃりと言い切られた瞬間、茶子の眉がぴくりと動く。

人も。土地も。約束も。
形を失ってなお、人から人へ渡り、記憶に宿り、技に宿り、想いとして残り続ける。

それを信じられなかったからこそ、茶子は泥で埋めた。
村を。死者を。思い出を。別れを。変わっていくすべてを。

閉じ込めなければ、『永遠』だと信じられなかった。

征十郎の目が、まっすぐ茶子を射抜く。

「お前は『永遠』を愛しているんじゃない。ただ喪失を受け入れられなかっただけだ。
 失われることへの恐怖を、変化も、別れも、死も、全部同じ場所に縫い止めて誤魔化しているだけだよ
 お前のそれは、閉じ込めているだけで何も残らない。どこにも続かない。それのどこに『永遠』がある?」

茶子の笑みが、すっと薄くなる。
まるで呼吸を忘れたように風が止み、白泥のうねりがわずかに硬直した。
征十郎は、白を汚すように血の混じる唾を吐き捨てる。

茶子は山折を永遠に残したかったのではない。
ただ、失いたくなかっただけだ。

残すのではなく、腐らせぬよう凍らせた。
継ぐのではなく、閉じ込めた。
生きたまま次へ渡すのではなく、死んだ標本として保存した。

腹の傷口から血が溢れ、礼服の黒をさらに濃く染めていく。
だが、征十郎は続けた。

「お前のやってることは、終わるのが嫌で駄々をこねてるガキの我儘と変わらないよ。いい年なんだ。いい加減大人になれよ、茶子姉」

正面から、少女の『永遠』を否定した。

茶子の目から、温度が消える。
その表情から、笑みが完全に失せた。

「――――ほざけよ、村を捨てて出て行った裏切り者が」

声は静かだった。
だが、その静けさは、もはや余裕の静けさではない。
踏み込まれたくない場所へ踏み込まれた者が、感情を押し殺すときの静けさだった。

「形がなくても残る? 違うね。形がないから、簡単に失くなるのよ」

その眼が、征十郎をまっすぐ射抜く。
そこにあるのは憎悪だけではない。
胸の底で長いあいだ煮詰められ、どれほど時を経てもなお冷えきらなかった、諦めきれない痛みだった。

「人は忘れる。土地は朽ちる。家は潰える。名前は掠れる。約束は反故にされる。どれだけ綺麗事を並べたところで、失くなるものは失くなるのよ」

声は次第に熱を帯びていく。
怒鳴っているわけではない。
それでも、静かだからこそ、その怨念はむしろ濃く響いた。

征十郎の言葉を、茶子は真正面から切って捨てる。

やがて彼女は両手で顔を覆った。
指の隙間から覗く口元に、ふたたび笑みが浮かぶ。
だがそれは先ほどまでの柔らかなものではない。
裂けた傷口のように、痛々しく歪んだ笑みだった。

「そう。あたしは嫌だった。失うのが、終わってしまうのが、どうしようもなく嫌だった。せっかくここにあったものが、どこにも行けず、誰にも届かず、ただ消えていくのが耐えられなかった。
 語る人間が死ねばそこで終わる。覚えている人間が壊れれば、そこで途切れる。どれだけ立派な文化でも、どれだけ尊い記憶でも、人間なんていう脆い器にぶら下がっている時点で、そんなものは『永遠』でも何でもないのよ」

白泥の中から、白く濁った手がいくつもせり上がる。
誰かの腕であり、誰かの指であり、誰かだったものの名残。
それらは祈るように、あるいは救いを求めるように、茶子の周囲へと伸びていた。

「だから残すの。閉じ込めてでも、止めてでも、変わらない形にしてでも。朽ちないように。忘れられないように。誰にも奪われないように。――『永遠』にしてしまえば、それはもう失われない」

白泥の照り返しを受けて、茶子の瞳が異様な光を宿す。

ふっ、と茶子は嗤った。
その笑いには侮蔑と、どうしようもない絶望が混じっていた。

「消えた方はどうなるの? 置いていかれた方は? 忘れられて、薄れて、最後には誰の中にもいなくなる。それが当たり前だから受け入れろって? 冗談じゃない」

吐き出した言葉の端に、押し殺していた激情が滲む。

「失った後にも何かが続くなんて言葉は、失った側が自分を納得させるために口にする慰めに過ぎない。あたしは違う。失わせない。終わらせない。何ひとつ、誰ひとり、取りこぼさない」

白泥が一斉に脈打つ。
まるで彼女の言葉を肯定するように、周囲の白濁がどくん、と生き物めいて膨れ上がった。

「――――私は『永遠の少女(アリス)』。山折の子よ――――貴様は何故、この美しき永遠を否定する?」

失われたものを、仕方ないと割り切って、切り捨てる大人になどならない。
『永遠』に揺蕩う災厄の少女。

問われ、征十郎は何でもないように肩を竦める。
そして、血に濡れた口元をわずかに歪めた。

「永遠の停滞――そんなもの、つまらんだろう?」

いつかと同じ答え。
征十郎は刀を支えに、なお一歩踏みとどまる。
その瞳には、茶子の白とは真逆の熱が宿っていた。

「それでも俺は明日を求める。なにせ停滞なぞ、気持ちがアガらん」

そこで一度、征十郎は息を吐く。
茶子は過去を現在(いま)に縛り付けて、それが『永遠』だと嘯いている。
だが、征十郎は強敵(だれか)に出会える明日を求める。
未来へと続く『永縁』が欲しい。

「爆ぜるからこそ、次へ届くものもある。燃え尽きるからこそ、誰かに焼きつくものもある。そういう一瞬のきらめきを、何と呼ぶか知ってるか?」

人は永遠には生きられない。
未熟で、青く、脆く、二度とは戻らない。
だからこそ、今この一瞬に賭ける。

完成していないからこそ熱がある。
失うからこそ前へ進む。
終わるからこそ誰かに届く。

その一瞬の名は――

「――――――青春だ」

「……は?」

初めて、茶子の顔から完全に調子が外れた。
馬鹿げた答えに茶子が絶句した、その一瞬。
征十郎は血に濡れた口元を歪めた。

その青い瞳は、もう茶子だけを見てはいなかった。

茶子の背後。
白い泥の中から、無数の糸が伸びている。

白い。
白すぎて、かえって闇のように暗い。

過去も、死者も、村も、時間も、記憶も、未練も、後悔も。
あらゆるものをひとつに縫い止め、留め、固定し、茶子という存在へ束ねている無数の糸。
怪異として手札をすべて晒している今だからこそ、そのすべてが目に見える形で露出していた。

そのすべてが、彼女の胸の中心――さらにその奥にある、見えない結び目へと収束している。

怪異『永遠のアリス』をアリスたらしめる、願望機が生み出した魔力の渦。
失われぬようにと、終わらぬようにと、ただ純粋に願った少女の妄執。
それらが係留ロープのように彼女を繋ぎとめていた。

征十郎は、それを観た。

「その妄執を――――この剣が断つ」

杖代わりにしていた刀を、地から引き抜く。
赤く濡れた刀身が、月光を鈍く返した。
血で滑る柄を、骨ばった指が無理やり締め上げる。

征十郎は刀を下げた。
構えとも呼べぬ、ぼろぼろの下段。
今にも崩れ落ちそうな姿勢。
もう、これが最後の一太刀だと、肉体のすべてが物語っていた。

だが、それでも征十郎は笑った。

今日は実に――――死ぬにはいい日だ。

征十郎の足が、大地を蹴る。

八柳新陰流の踏み込み。
血飛沫が背後へ散る。
常人なら一歩目で倒れている。
二歩目など踏めるはずもない。

だが、征十郎は走る。
この一瞬の輝きを、世界へ刻みつけるように。

駆けながら刀を後方へ振りかぶる。
牽制も、虚実もない。
ただ一撃を放つためだけの、無骨な予備動作。

「八柳新陰流・奥義――――」

剣が奔り、奥義が放たれる。

自らの超力と、自らの人生と、自らが見てきたすべてを乗せた、征十郎だけの奥義が。

だが、その太刀筋は、あまりにも遅い。
今の茶子にとって、人間の剣など止まって見える。

だからこそ茶子は、油断ではなく確信として見下ろしていた。

すべてを見極め、茶子が聖魔剣を振り下ろす。
今度こそ終わりの一撃。
後の先でありながら人の域を超えたその一太刀は、当然のように先に届くはずだった。

だが。

刹那。

征十郎の刀が、爆ぜた。

まるで刀身に付着した血そのものが、爆炎へ変わったかのようだった。
一太刀の中に収まりきらない熱量が、刹那へ凝縮され、破裂する。

二度と戻らないからこそ価値がある。
完成していないからこそ熱く爆ぜる。
失うからこそ前へ進む。
終わるからこそ、美しい。

永遠とは真逆の理。
一瞬しかないからこそ輝く、青く未熟な命の爆発。

それは永遠という停滞を断ち切る刹那。



「――――煌き☆青春爆斬(セツナ=アオハル)」



刃が、閃く。



茶子の目が見開かれる。
その一撃は、一瞬のうちに生まれ、燃え、砕け、それでもなお届く、命そのもののきらめきだった。

茶子が咄嗟にデセオを差し込む。
だが、その刃が触れた瞬間、白と黒の聖魔剣が一息に両断された。
永遠の理に寄りかかって在る剣が、刹那の熱に耐えられない。

刃は止まらない。
その奥へ潜る。

胸を通り越し。
白い糸の束へ。
さらにその中心――結び目へ。


――――――――――――斬。


音はなかった。
ただ、茶子の背後に広がっていた無数の白い糸が、一瞬遅れてぶつりと震えた。

次の瞬間。

びん、と。

世界のどこかで張り詰めていたものが、まとめて千切れる音だけが響いた。

「……あ……あぁ…………」

茶子の唇から、かすれた声が漏れる。
その瞳が、信じられないものを見るように揺れた。

胸の奥で、何かがほどけていく。
固定していたはずのすべてが留め具を失い、ばらばらと浮き上がる。

茶子は胸を押さえ、後ずさった。
だが、喪失は止まらない。
押さえた指の隙間から、白い光がこぼれ続ける。

「こんな、こと……そんな、バカな……いや、いやよ……っ」

永遠のアリスを成立させていた理が、確かに崩れ始めている。
彼女の声は、もう先ほどまでの完成された怪異のものではなかった。
失うことを恐れる、ただひとりの少女の声だった。

溢れていた白泥が止まる。
岩肌を這っていた泥が、乾いた土のように固まっていく。
山折を縫い止めていた永遠が、形を保てず、ほどけていく。
止まっていた時間が、ようやく息を吹き返し始める。

永遠のアリスという災厄の終わり。

その結末を見届けて、征十郎の身体がゆっくりと前へ崩れた。

全身の傷は深すぎた。
最後の一撃を放った瞬間、彼の命はすでに尽きていたのだ。

ようやく断つべきものを断てた剣士は、倒れながらかすかに笑う。
それは、ここにいない誰かへ見せつけるような、自慢げな勝者の笑みだった。

【征十郎・八柳・クラーク 死亡】
【永遠のアリス 消滅】


山折に始まり、山折に呪われ、山折に終わるはずだった因縁は、ここでひとつの断絶を迎えた。

茶子の中から、『永遠』が失われた。
『永遠のアリス』という災厄は、この世界から確かに消滅した。

夜風が吹く。
白泥は、もう動かない。
永遠は、断たれた。

――――だが。

茶子は、なおそこに立っていた。

胸を押さえ、呆然としたまま。
『永遠』を失い、その核を断たれてなお、完全には消えない。

怪異として積み重ねてきたものは、もはや『永遠』だけではなかったのだ。
喪失に歪み、幾重にも澱み、世界のあちこちを渡り歩いてきた災厄の残滓が、なお彼女という存在をこの世へ繋ぎ止めている。

『永遠のアリス』は消滅した。
だが、虎尾茶子という少女の妄執は、『永遠』を失ってなお怪異として残った。

茶子は、倒れた征十郎を見下ろす。
その顔に、怒りも嘲りもない。

ただ、何か大切なものを初めて失った者の、空白だけがあった。
喪った胸の奥を埋めるように、茶子の指先がゆっくりと震える。

その震えは、痛みから来るものではない。
まして、敗北を認めた者の狼狽でもない。

胸の奥に穿たれた空洞。
『永遠』を断たれたことで剥き出しになった、どうしようもなく深い欠落。
それを前にしてなお、彼女の内側に残っていたものは、あまりにも単純で、あまりにも醜悪な欲望だった。

欲しい。
失いたくない。
埋めたい。
奪ってでも、満たしたい。

その渇きに形を与えるように、足元で固まりかけていた白泥が、今度は黒く染まりながらじわりと動き出す。

『永遠』という秩序を失ったそれは、もはや山折を保存するための泥ではなかった。
ただ周囲から色を奪い、温度を奪い、意味を奪い、喪失そのものを喰らってなお飢え続ける怪異の残滓へと変わっていた。

岩肌が黒く染まる。
砕けた石片は、触れた端から色を失い、乾いた殻のように脆く崩れていく。
草の先はしおれ、夜の冷たささえ、そこへ吸い込まれるように鈍っていく。

何を呑んでも埋まらない。
何を喰らっても満たされない。
失われた『永遠』の代わりを求めて、周囲のすべてを奪い続けるだけの怪異。

虎尾茶子は、もはや『永遠のアリス』ですらなかった。
永遠への執着だけを焼け残らせ、その喪失を埋めるためだけに世界を侵食する、新たな災厄へと変わろうとしていた。

そこに、パチパチという手を叩く音が響いた。

「お見事でした、征十郎さん。この勝負は間違いなく、貴方の勝ちだ」

その怪異の残る舞台へ、ひとりの男が歩み出る。

倒れ伏した征十郎を一瞥し、わずかに目を伏せる。
決闘を最後まで見届けた立会人、エネリットは静かに舞台へ上がった。

ゆらり、と。俯いていた茶子の首が、不自然なほどゆっくりと持ち上がる。
その顔が回り、エネリットを睨みつける。
『永遠』を断たれたことで剥がれ落ちたはずの威容の奥から、なお腐らず残っていた怨念が、じっとりと滲み出した。

「背景でしかなかったモブが、今更しゃしゃり出てきて、何のつもりだ?」

その声は低く、濁っていた。
聞くだけで耳の奥へ黒泥を流し込まれるような、不快な重さがある。
だが、エネリットはいつも通りの調子で肩をすくめた。

「尻ぬぐいですよ。あなたには、ここでご退場願おうかと思いまして。
 勝負が終わった舞台に、敗者がいつまでも居座るのは見苦しい」

あまりにも平然とした口調で言う。
茶子の目が苛立つように見開かれた。

「嘗めるなよ、クソガキが……っ。お前如きが、私をどうにかできるとでも思ったか?」

空気が一段、濃く淀んだ。
その怒気に呼応するように、黒泥がぶくりと脈打つ。

如何に願望機の力や核たる『永遠』を失おうとも。
剣の技量も、生体としての性能も、怪異としての密度も、なおエネリットを遥かに上回っている。
冷静に数値へ置き換えるなら、勝率などほとんどないに等しい。

エネリットはその圧を真正面から受けながら、それでも表情ひとつ変えない。

「確かに、あなたは私より強いでしょう。ですが――」

淡々と、事実を認める。
その海の様な瞳が、まっすぐ茶子を捉えた。

その眼に宿るのは、氷月から借り受け、日月の死によって再び己へ還ってきた超力――『殺人の資格』。
相手を殺せる可能性が一片でもあるのなら、その方法を提示する力。

「――勝ち目は、あるみたいですよ?」

エネリットの口元が、酷薄に歪む。
25%分という不完全な状態ゆえ、その線は薄く、細い。
それでもなお、今の茶子に対して、霧の向こうに灯る針穴ほどの勝ち筋が確かに見えていた。

「ほざけっ!」

それを挑発と受け取ったのだろう。
征十郎の亡骸の傍らに落ちた日本刀を乱暴に掴み、茶子が怨嗟に濁った咆哮とともに襲いかかる。

すべてを超越する災厄『永遠のアリス』と比べれば、動きは確かに落ちている。
それでもなお、一流どころか超一流。
人の域に留まる剣士では到底反応しきれぬ踏み込みで、黒い残滓を引きずるように一直線にエネリットの喉元を穿ちにくる。

だが、その足元が不意に取られた。

黒泥の底から絡みついたのは、鋼鉄製の鎖だった。

「――――――『恐怖の大王』」

その声と同時に、彼の手元で重い鉄の音が生まれる。
否。現れたのではない。
それは貴族服の裾に隠れ、最初からずっとそこに在った。

それは叔父セルヴァインから奪い取った超力の残骸。
『徴収』による簒奪は、対象の死後も維持される。
信頼度が地に落ちた今となっては再取得こそ叶わないが、解除しない限り、この徴収は残り続ける。
エネリットは、あの戦いから一度たりともそれを手放していなかった。

じゃらり、と鎖が鳴る。

ぎゅん、と足を引かれ、茶子がわずかにバランスを崩す。
咄嗟に体勢を立て直し、茶子が前を見上げる。

その瞳が、見開かれた。

その一瞬、彼女の身体が強張るように止まる。
そこには、視界を埋め尽くすほど巨大化した鉄球があった。

『永遠』を失った虎尾茶子に、もはや以前のような絶対的な不死性はない。
ならば、今なら単純に――物理的に叩き潰せる。

叔父セルヴァイン・レクト・ハルトナより徴収した、鎖鉄球を生み出す『恐怖の大王』。
刑務官マーガレット・ステインより徴収した『鉄の女』の髪が、鎖へ絡み付き、強度と制御を底上げする。
ディビット・マルティーニより徴収した『四倍賭け』が、腕力を限界まで増幅する。
そして氷月蓮より徴収した『殺人の資格』が示した、唯一の綻び。

四重の超力が、一撃へ収束され、鉄球となって振り下ろされる。

岩山そのものが呻いた。

その一撃は、全てをまとめて圧し潰した。
衝突の瞬間、空気が圧し潰され、黒泥が四方へ吹き飛ぶ。
まるで処刑台へ落ちる鉄槌のような、情けも救いもない一撃だった。

轟音が夜へ弾ける。
跳ねた黒泥が、ぼたぼたと地へ落ちる。
そこに、もう人の形はなかった。

その場に残った黒く濁った泥の塊が、ひとつ脈打ち、ふたつ脈打ち、そして――

ごぼり、と。

中央から、裂ける。

『あああああああああああああああッッ!!』

喉という器官を通したとは思えぬ、濁流じみた咆哮が夜を引き裂く。

黒泥の山が内側から盛り上がり、砕け、裂け、その中から茶子が這い出してきた。
全身がひび割れ、片腕は半ば潰れ、顔の半分は泥と化してなお、その目だけが濁った光に爛々と輝いている。

潰された怪異の残滓が、最後の執着だけを燃料に無理やり形を取り戻していた。
死に損ないの怨念が、壊れた器の中で暴れていた。

黒泥が周囲から一斉に茶子へ集まり、砕けた腕を補い、潰れた半身を繋ぎ止める。
その姿はもはや人ではなく、喪失そのものが立ち上がった何かだった。
それを、エネリットは感心したような目で見下ろしていた。

「凄まじい執念だ。故郷を想うその気持ち自体は美しものでしょう。ですが――」

山折を『永遠』とする災厄の恐るべき執念。
帰るべき祖国と言うものが存在しない彼にとって、茶子の抱える狂う程の望郷の念は羨ましさすらあった。

「――周りに迷惑をかけるのはよくない。目的を果たすのであれば相互利益がないと。そこは失敗でしたね」

激情の怪物を合理の怪物が諭す。
この二人はどこまで行っても対極だった。

じゃらり、と鎖が唸る。
鉄球が再び持ち上がる。
今度は先ほどよりも確実に。

『あたし……のヤマオリぃぃいぃいいいいいいッ…………!!!!』

茶子が潰れた喉で叫び、黒泥の腕を幾重にも伸ばす。
だが、それらは届かない。
『殺人の資格』が示す最短の死線から、一歩も外れられていない。

妄執の残滓。
少女の夢の残骸に向けて、結論を告げる。

「明日を求める世界に、停滞を是とするあなたの『永遠』は必要がない」

それが結論だ。
悲劇でも、惨劇でも、間違いを生み続ける世界でも。
征十郎のように明日を求め続けることこそが正しい。

その結末も、その決着も、もう終わっている。
今ここで蠢いているのは、喪失にしがみつく残り滓に過ぎない。

ならば、必要なのは慈悲ではない。
終わりを告げる一撃だけだ。

エネリットは、先ほど以上に容赦なく腕を振り下ろした。

鉄球が、茶子の残骸を真正面から叩き潰す。
黒泥の腕が千切れ、怨念の叫びが砕け、核を失ってなおしがみついていた執着そのものが圧壊する。

砕けた黒泥が、夜空へ弾け飛ぶ。
その一片一片が、月光の下で小さく震え、次の瞬間には灰のように乾いて崩れた。

もう、戻ることはなかった。

静寂が戻る。

虎尾茶子という怪異は、完全に消滅した。
世界を『永遠』へと停滞させる災厄は、明日を望む一撃の前に、ここで完全に終結したのだ。

エネリットはようやく自らの超力を解き、その場に立ち尽くす。
夜風だけが、決闘の終わった岩山を静かに撫でていく。
やがて彼は空を見上げ、ふぅと小さく息を吐いた。

周囲を見渡せば、そこかしこに黒く染まった泥の残骸がある。
『永遠』を失い、怪異ですらなくなり、ただ汚れだけを残した成れの果て。
足場は悪く、ここから移動するのも容易ではない。
残り時間も、もうほとんどないだろう。

これで、エネリットの刑務作業も終わりだ。
残った他の連中がどうなるのかは、彼には与り知らぬ話である。

「明日か…………」

エネリットはぽつりとつぶやく。
地の底で尽きる運命だったこの身が、本来体感できない多くの経験ができた。
その中で、思ってもみなかったものまで幾つも見ることができた。

思えば本当に、色々あった。
ディビットとの出会いと別れ。
メアリーを巡る攻略戦。
ブラックペンタゴンでの動乱。
叔父への復讐という当初の目的も果たせた。

そして、そのすべてをひっくるめた上で。
最後に胸へ残った感想は、驚くほど単純だった。

「ああ――楽しかった」

その呟きだけが、夜の終わりへ静かに溶けていった。

【虎尾 茶子 死亡】

【F-6/岩山中腹/一日目・真夜中】
【エネリット・サンス・ハルトナ 刑務作業終了】

164.春のポイントフェア 投下順で読む 166.俺たちに明日はない
167.魂の冒涜者 時系列順で読む
結び目 征十郎・H・クラーク 懲罰執行
エネリット・サンス・ハルトナ 刑務作業終了

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最終更新:2026年05月20日 09:55