草の海を抜けるにつれ、足裏の感触が少しずつ変わっていった。
柔らかな土と草の抵抗は薄れ、代わりに乾いた礫が靴底の下でかすかに鳴り始める。
岩山の麓へ差しかかったのだ。
夜風もまた、草原を渡るときのなだらかさを失っていた。
今は岩肌を擦ってきた冷たさをそのまま運び、頬や指先を容赦なく撫でていく。
なだらかな斜面を登り、標高が上がっても、月は相変わらず高い。
砕けた硝子片のような雲が静かに流れ、稜線の輪郭を淡く縁取っている。
その中で、ふいに征十郎の足が止まった。
ほんの半歩。
歩みを断つというより、見えない何かにわずかに引っかかったような、短い停止だった。
征十郎は振り返りもせず、ただ視線だけを横へ流す。
その眼差しが、夜の闇を刃のように鋭く撫でた。
「どうされました……?」
異変に気付いたエネリットが問う。
征十郎はすぐには答えず、数秒、何かを測るように沈黙したあと、低く口を開いた。
「……いや」
短く、それだけ言ってから、改めて周囲へ視線を巡らせる。
「獣のような何かが、通り過ぎた気配があった」
言われてエネリットも辺りを見回す。
だが、彼にはそれらしい気配は何ひとつ感じ取れなかった。
「獣? それはおかしいですね。この世界に野生動物などいないでしょう?」
刑務作業の舞台は、囚人たちを閉じ込めるために用意された箱庭だ。
そこに動物などの生態系は存在しない。
征十郎は一瞬だけ黙り、それからあっさりと肩の力を抜いた。
「そうだな。なら、気のせいだったのかもしれん」
それだけ言って、何事もなかったかのようにまた歩き出す。
エネリットはその背を見ながら、わずかに眉を寄せた。
らしくない反応だ。
征十郎が不穏な気配を感じ取りながら、深追いも警戒もせずに流すのは妙である。
征十郎ほどの気配察知能力を持たないがゆえに、エネリット自身はその気配を直接感じたわけではない。
又聞きだったからこそ、エネリットはその反応を不審に思えた。
岩山を登りながら、エネリットは記憶の底から地図を引き上げる。
氷月の地図で確認した、あの時点での参加者配置は頭の中に入っている。
エネリットの把握する限り、生き残りの中で獣人系の超力者は安理くらいだ。
だが、位置が違う。今頃は北西の港湾付近で、氷月の襲撃を受けているはずだった。
ならば別の誰かか。
この近辺、南東側にいたのは、トビ、ジョニー、只野、そしてヤミナ。
この四人は、集団として動いていた。
そのうちの誰かが単独でこの場を横切ったのなら、向こうで何か大きな動きがあったということになる。
誰が離れたのか。
誰が追ったのか。
あるいは、誰かが逃げたのか。
その可能性が高いのは誰か。
征十郎が感じ取った気配がもしヤミナのものだったなら、征十郎のあの反応も縺ゅj縺医k――――いや、ヤミナではないだろう。
あの小悪党が、そんなたいそうな事を出来るはずもない。
何かに引っかかったはずなのに、手応えだけを残して論理が霧散する。
考えかけていた結論は、急にどうでもいいものとして処理され、思考は別の話題へと滑っていった。
「そういえば征十郎さん。僕に繋がってる線って、どっちから伸びているんです?」
世界斬りへ舵を切ったことで、いったん脇へ追いやられた『超力ひも理論』。
ヴァイスマンのタグから超力の接続を辿り、アビスとの接点を探るという第一案だ。
仮にあちらを採用していたなら、どの方向へ向かうことになっていたのか。
そんな興味本位の問いだった。
「そうだな……」
問われた征十郎は足を止め、視線を細めた。
月明かりの下に立つエネリットを、見えない糸を探るようにじっと観る。
「ん? なんだお前。よく観れば、線が複数本繋がっているな」
「それは僕の超力によるものでしょう。お気になさらず。恐らく同じ方向に延びている糸が何本かあると思うのですが」
「ま、構わんがな。そうだな……線が重なって延びているのは」
そう言って征十郎は、ゆっくりと片腕を持ち上げた。
「あちらだ」
征十郎が指さしたのは、北西の方角だった。
しかも指先は平面ではなく、わずかに上を向いている。
エネリットもその先へ視線をやる。
目に入るのは、夜空と稜線、それから遠くに滲む壁のような黒だけだ。
「ブラックペンタゴンの方でしょうか……それとも、もっとその先ですか?」
「さてな。私に分かるのは、お前に繋がる糸の向きまでだ。その先がどこに結ばれているかまでは、ここからでは見えん」
征十郎は肩をすくめた。
ここから北西、やや上方。
ブラックペンタゴンか、あるいはそのさらに奥か。
距離が離れているのなら、もっと高い位置に接続点があるのかもしれない。
閉ざされた世界のどこかにある出口を想像しかけた、その時だった。
ぴり、と乾いた電子音が鳴った。
静まり返った夜にはあまりにも不釣り合いな機械音だった。
エネリットのコートの内側で、通信機が小さく震えている。
その瞬間、エネリットの思考が鋭く張り詰めた。
この通信機を鳴らす相手は、一人しかいない。
氷月だ。
だが、こちらの状況を把握している氷月が、今この場で迂闊に通信を入れるとも思えない。
あるいは、そうせざるを得ないほどの急変が起きたのか。状況は読めない。
音は二度、三度と短く鳴る。
エネリットはすぐには手を伸ばさなかった。
征十郎がそんな彼を見て、怪訝そうに片眉を上げる。
「出ないのか?」
その一言で、エネリットは内心、小さく舌打ちした。
これ以上、通話を躊躇うのは不自然だろう。
「……そうですね」
静かに息を吐き、エネリットは通信機を取り出した。
月光が、黒い筐体の端を白く撫でる。
氷月なら、余計なことは言わない。
そう信じるしかない。
征十郎の視線を受けながら、エネリットは通信に応じた。
■
灯台の入口は、夜の底に開いた傷口のように黒かった。
その闇を前にして、メリリンは一度だけ目を閉じ、浅く息を吸う。
白壁は月光を受けて青く滲み、潮風に晒された石段は骨まで冷やすように冷えきっていた。
ここまで来いと、あれだけのものを託されて送り出されたのだ。
ならば、まず踏み込まなければならない。
耳元の流れ星のアクセサリーが、励ますようにかすかな熱を帯びていた。
サリヤの遺した理論と、自分の手で形にした仕組み。
その試作品が今、理屈を超えるほど確かな手触りで、安理の残響を伝えている。
「……行くわよ」
それが誰への言葉なのか、自分でも分からないまま、メリリンは入口へ足を踏み出した。
だが、その瞬間だった。
「――――ッ!?」
目の前の空間が、わずかに歪んだ。
灯台へ踏み込んだ者に反応する罠か。
そう考えた瞬間には、もう身体が反射で後ろへ引かれていた。
次の刹那、淡い転送光が石段の上にふっと咲く。
硬い音を立てて、何かが石畳へ落ちた。
小型の通信機だった。
どこかで、見覚えのある形式。
けれど、こんな場所に、こんなタイミングで現れる理由が分からない。
胸の奥を、嫌な予感が冷たく撫でた。
メリリンは数秒だけ動かなかった。
罠かもしれない、という警戒が理性の片隅で警鐘を鳴らしている。
だが、その次の瞬間。
通信機のランプが明滅し、短い受信音が夜へ走った。
その音を聞いた途端、警戒より先に、説明のつかない衝動が身体を動かした。
メリリンは駆け寄るように通信機を拾い上げる。
わずかに震える指先で通話ボタンを押し込む。
「……誰?」
問いかけた声は、自分で思っていた以上に掠れていた。
わずかな沈黙。それから、雑音混じりの向こう側で、聞き慣れた男の不遜な声が響いた。
『よう。まさか数時間会わないだけで声も忘れたとか言わねぇだろ?』
その声を聞いた瞬間、メリリンの喉がひどく詰まった。
「……ローマン」
生きていた、という安堵が一瞬だけ胸に灯る。
けれど同時に、その声の奥にあるものを、メリリンは聞き取ってしまった。
『悪い、オレもうすぐ死ぬわ』
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……は?」
それは問いではなかった。
意味を拒絶するためだけの、空っぽの音だった。
「あんた、何、言って――」
『ルーサー・キングとやり合ってたんだが……あの老害、土壇場でやりやがった。
オレの超力に真っ向からぶつかって、無理やり突破するとか頭おかしいぜ。あの被験体でもそうそうやらねぇだろうよ』
ローマンは止まらない。
こちらに口を挟ませないようにするみたいに、切れ目なく言葉を重ねていく。
その声音は、余りにもいつも通りだったから、それが余計に、メリリンの胸を締めつけた。
「ちょっと……待ってよ」
『後始末含めて大変だろうが、任せた。この島を出てからは……ま、何とかなるだろ』
メリリンは歯を食いしばる。
返事をするためではない。
今にも溢れそうになるものを、どうにか押し止めるためだった。
「待ってってば………!」
『アイアンへの誘いは……適当に流しといてくれや。お前を縛りたくねぇし』
こいつは、いつだってそうだ。
人の話を聞かない時は、本当に聞かない。
押し通すと決めたら、トラックみたいに真っ直ぐ突っ込んでくる。
『メルシニカを再興させるなり、フリーランスをやるなり、手段なんざどうでもいい。生きて、笑え。できんだろ、お前なら』
だから分かってしまう。
今のこれは会話ではない。
別れのための、身勝手な一方通行だ。
『あ、でも、一つだけ注文な。ヤクだけはやるな。もしやったら、地獄から這い上がって殺すぞ』
思わず、喉の奥で笑いそうになった。
笑えるはずがないのに。
こんな時にまで、それを言うのかと。
笑いそうになった拍子に、胸の底から熱いものがせり上がってくる。
そしてローマンは、ほんの少しだけ声を落とした。
『こうしてお前と話すのも最期になると――未練だな』
「何を、勝手に……遺言みたいに……」
掠れた声で、ようやくそれだけが出た。
通信機を握るメリリンの手に、ぎり、と力がこもる。
『二人で、一緒に世界を見て回りたかった。飯食って酒飲んで馬鹿みてぇな話をしまくって』
「やめなさいよ」
その言葉が、勝手に脳裏へ風景を描いた。
路地裏でも、港でも、知らない街角でもいい。
くだらない言い合いをして、喧嘩して、肩を並べて歩く未来。
ついさっきまで、まだどこかで続いている気がしていた未来だ。
『どうも巡り合わせ――運が悪かった……いや、違うな。オレがあの爺より弱かった。男の勝負だ、そこはごまかしちゃいけねぇよなあ』
「やめて。そんなふうに綺麗にまとめるな……!」
気づけば、メリリンはそう言っていた。
掠れて、震えて、あまりにも頼りない声だった。
『――――メリリン』
名前を呼ばれた途端、言葉が止まる。
向こうの声色が変わっていた。
軽口でも、冗談でも、強がりでもない。
そこにあったのは、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな、ひとりの男の声だった。
『約束、守れなくてすまねぇ』
その一言で、胸の奥の何かが、軋むように痛んだ。
あの時。
自分が投げた言葉。
キスに重ねて撃ち込んだ、半ば喧嘩みたいな告白。
生きて、一緒に先を見ろと、そう言ったはずだった。
それに対する答えが、こんな形で返ってくるなんて思っていなかった。
メリリンの唇が、かすかに震える。
「……謝るな」
それだけ言うので精一杯だった。
「謝るくらいなら……戻ってきなさいよ……」
その声は、きっと届いていた。
けれどローマンは、それに応えなかった。
いや、応えられなかったのかもしれない。
向こう側で、一度だけ息を整えるような間が落ちる。
『そんで、まあ、なんだ……』
らしくもなく、言葉に詰まる気配。
その一瞬で、メリリンはすべてを察してしまった。
分かっているのに、受け止める準備なんて何ひとつできていない。
『メリリン、愛している』
灯台の前で、風が止まった気がした。
世界が一瞬だけ遠のく。
波音も、夜気も、痛みも、何もかもが引いていって。
その言葉だけが、恐ろしいほど鮮明に胸の真ん中へ落ちてくる。
『出会って喧嘩を売られた時からずっと、オレはお前に惚れていた』
メリリンは、何も言えなかった。
喉が焼けるみたいに熱い。
何かを返さなければと思うのに、唇がうまく動かない。
返したい言葉は、いくつもあった。
怒鳴りつけたかった。
ふざけるな、と。
今さら何格好つけてるのよ、と。
そんなことを言う前に、自分で生きて戻ってこい、と。
けれど、その全部を飛び越えて。
胸の奥からこみ上げてくるのは、ただひとつだけだった。
『好きだ、メリリン。………………じゃあな』
「待っ――」
止める間もなく、最後の声が落ちる。
『――――Lebe glücklich』
そこで、通信は途切れた。
ぶつり、と。
あまりにもあっけなく。
雑音すら残さず、回線が死ぬ。
「…………ローマン?」
呼び掛けるが、返事はない。
「ローマン……!」
もう一度。
今度は強く呼ぶ。
だが、戻ってきたのは無機質な沈黙だけだった。
メリリンは、その場に立ち尽くした。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸がうまく動かない。
耳の奥では、自分の脈拍だけがうるさく鳴っていた。
『幸福に生きろ』
彼は最後に、そう言った。
「……勝手、言ってんじゃないわよ」
声に出した瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
安理を送り出されたばかりだ。
ようやく灯台に辿り着いたばかりだ。
胸元には死者の熱が残ったままで、そこへ今度はローマンの言葉まで重なってくる。
どこまで背負わせるつもりだと、怒鳴りたかった。
けれど、その怒りは行き場を失い、熱いまま喉の奥で砕けた。
その時だった。
再び、空間が歪む。
「……!」
灯台の前、足元の石畳の上へ、いくつもの物資が転送されてくる。
硬い金属音。布の擦れる音。鈍い落下音。
ローマンの荷物だった。
食糧と酒の詰まったデイパック。
乱雑に押し込まれた武器類。
そしてその中には、未使用の首輪が一つあった。
それが首輪の持ち主であるエンダの結末を知らせていた。
最期の最期まで、あいつは勝手だった。
勝手に告げて。
勝手に押しつけて。
勝手に、未来のための手札だけを置いていく。
メリリンはゆっくりと膝をついた。
通信機を握ったまま、転送されてきた荷物のひとつへそっと触れる。
まだ、熱が残っていた。
ついさっきまで、それがあいつの手の中にあったのだと、嫌でも分かってしまう程度には。
「……ばか」
今度の声は、小さかった。
「ほんとに、どいつもこいつも……」
ジェーン。
サリヤ。
エンダ。
安理。
そして、ローマン。
どうして皆、自分に先を押しつけていくのだ。
どうして皆、自分が止まれなくなるようなものばかり残していくのだ。
メリリンは俯いたまま、胸元のアクセサリーをぎゅっと握る。
流れ星の熱は、まだ消えない。
その熱へ、別の温度が重なっていくような錯覚があった。
安理の送り火。
ローマンの残した声。
幾つもの喪失が、胸の内側でひとつの塊になっていく。
苦しい。
痛い。
泣きたい。
叫びたい。
全部の激情がある。
けれど――。
「……上等じゃない」
メリリンは、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた睫毛の奥で、瞳だけが鋭く光っている。
あのネイ・ローマンが選んだ女だ。
こんなことで、折れる女ではない。
彼女は送られてきた酒の栓を乱暴に抜き、ひと口だけ喉へ流し込んだ。
焼けるような刺激が、胸の奥まで落ちていく。
続けて食糧へ噛みつく。
味なんてしない。
それでも無理やり飲み下す。
止まりかけた身体を、もう一度動かすために。
立ち止まりかけた心を、前へ叩き出すために。
口元を乱暴に拭って、メリリンは低く吐き捨てた。
「背負えって言うなら、背負ってやるわよ」
誰に向けた言葉かは、もう分からない。
死んでいった者たち全員へか。
ついさっき勝手に別れを告げた男へか。
それとも、ここで膝を折りかけた自分自身へか。
「だから見てなさいよ、ローマン」
通信機を切り、デイパックへ押し込む。
転送されてきた荷物も素早く確かめ、持ち出せるものだけを選別してまとめ直す。
手はまだ震えていた。
だが、その震えはもう、崩れるためのものではなかった。
「アンリくんも。サリヤも。あんたも」
立ち上がる。
脚は重い。
それでも、立つ。
灯台の入口は、変わらず夜の奥へ口を開けていた。
その闇の先に何があるのか、まだ分からない。
トビの予測したような脱出の道か。
サリヤが示したシステム崩壊の鍵か。
あるいは、もっと残酷な真実か。
けれど、ここで止まる理由は、もうどこにもなかった。
「全部、拾ってやる」
吐き捨てるようにそう言って、メリリンは灯台の闇へ踏み込む。
背には、託された荷物。
胸には、喪われた者たちの熱。
耳の奥には、最後まで勝手だった男の声。
幸福に生きろ。
そんな命令に、素直に頷いてやるつもりはない。
けれど――生きる。
生きて、見届ける。
掴んで、持ち帰る。
そうしなければ、残された言葉も、死も、何ひとつ終われない。
灯台の内部は、冷たく静かだった。
その沈黙の中へ、メリリンは一歩、また一歩と進んでいく。
もう、振り返らなかった。
■
改めて灯台の内部へ足を踏み入れた瞬間、まずメリリンを迎えたのは、拍子抜けするほどの静けさだった。
入口の内側で一度立ち止まり、浅く息を整えながら周囲を見回す。
白く塗られた壁はところどころ塗装が剥がれ、下地の灰色を覗かせていた。
長年、海風に晒されてきたのだろう。金属の手すりには薄く錆が浮き、窓枠の隅には塩が白く吹いている。
そこに、軍事施設めいた厳重さはない。
あるのは、島の端にぽつんと建つ古びた灯台らしい、簡素で実直な造りだけだった。
重要拠点と呼ぶには、あまりにも普通すぎる。
メリリンはまず、一階部分を調べた。
入口脇には、壁に固定された古い収納棚がひとつある。
扉を開けると、中に残されていたのは、清掃用具の名残らしい朽ちたブラシ、ぼろ布、錆びついた油差しだけだった。
床には砂粒と、潮風が運び込んだ細かな塵が薄く積もっている。
最近になって人が頻繁に出入りしていた気配は、少なくとも見た目にはない。
隠し扉や床下収納の類を疑い、靴先で床を軽く叩いてみる。
石と木の反響を聞き分けるように耳を澄ませるが、返ってくる音はどこまでも素直だった。
空洞らしい響きも、不自然な継ぎ目もない。
一階には何もない。
けれど、この刑務作業を揺るがすような秘密が、入口のすぐ傍に堂々と転がっているはずがないことくらい、最初から分かっていた。
メリリンは一階の探索を切り上げ、灯台中央を貫く螺旋階段へ足をかける。
石と鉄で組まれた階段は狭く、ひとりが通るのにちょうどいい程度の幅しかない。
登るたび、足音が円筒状の内部で重なり、上へ上へと反響していく。
何かあるなら、もっと奥だ。
そう思いながら、彼女は一段ずつ踏みしめた。
二階。
小さな踊り場だった。
メリリンは壁へ指先を這わせ、塗装の厚みや素材の違和感を探る。
ありふれた材質の、ありふれた壁でしかない。
何かを塗り込めたような痕跡も、後から塞いだような歪みも見つからなかった。
三階。
ここはおそらく、休憩か備品置き場として使われていたのだろう。
壁際に簡易ベッドの骨組みがひとつ、折り畳み椅子が二脚、そして古いランプの残骸が転がっている。
メリリンはベッドフレームをひっくり返し、椅子の裏を確かめ、ランプの内部まで覗き込んだ。
配線の一本でも、隠し機構のひとつでも見つかれば、そこから辿れる。
だが、何もない。どれもこれも、ただの古い備品以上の意味を持っていなかった。
四階。
五階。
狭い踊り場と、小部屋と、螺旋階段。
繰り返される構造。
変わらない壁。
変わらない手すり。
窓から差し込む月光の角度だけが、少しずつ変わっていく。
登りながら、メリリンは何度も立ち止まって周囲を見回した。
壁を叩き、床を調べ、手すりの支柱まで一本ずつ確かめていく。
螺旋階段の中心軸を覗き込み、下まで通じる空洞に異物が吊られていないかも確認した。
隠し通路、地下へ降りる仕掛け、通信設備、予備電源、搬入口――そうした『重要拠点らしいもの』の痕跡を、ひとつ残らず洗っていく。
けれど、ない。
ない。
何も、ない。
灯台とは、本来、灯りをともすための塔だ。
海へ向けて光を投げるための建築だ。
目に入るものすべてが、そんな建物としての正しさに満ちていた。
だからこそ、始末が悪い。
偽物なら、どこかに綻びがある。
隠し施設なら、どこかに無理が出る。
だがここには、それがない。
どこまで行ってもただの灯台でしかない。
階段を登る足に、少しずつ焦りが滲んでいく。
ここまで来る間に、どれだけのものを背負ったか。
ジェーンも、サリヤも、エンダも、安理も、そしてローマンも。
多くの命に背中を押されて、ようやく辿り着いたのだ。
『何もありませんでした』で済ませられる領域はとうに超えていた。
上へ行けば、何かが変わるかもしれない。
そんな望みに縋るように、メリリンはさらに階段を登り続けた。
やがて、最上部へ辿り着く。
灯室。
巨大なレンズを備えた、灯台の心臓部。
メリリンは息を切らしながら、その空間へ足を踏み入れる。
全面に近い窓ガラスの向こうには、夜の海と島の輪郭がぐるりと見渡せた。
中央には巨大なフレネルレンズ。硝子の稜線は月光を受けて、静かに青白く光っている。
灯火を回転させるための古い機構も、床へ重たく据えつけられていた。
人工物としての密度は、ここが最も高い。
メリリンの目に、ほんのわずかに熱が戻る。
「…………ここなら」
ここなら何かあるかもしれない。
そんな希望とも焦燥ともつかない感情に押され、彼女は邪魔な荷物を足元へ置き、中央へ駆け寄った。
レンズ基部に手を当てる。
歯車の噛み合わせを見て、制御箱を開き、配線の有無を確かめる。
だが、調べていく度に、失望と焦燥が募る。
海へ光を送るための、古く、巨大で、しかし驚くほど単純な装置。
特殊な暗号機もなければ、地下へ繋がる回路もない。
遠隔操作装置も、秘密の通信設備も、空間を維持する中枢に触れられそうな要素はどこにもない。
そこにあったのは、あくまで灯台用の機械でしかなかった。
メリリンは床面を調べ、レンズの台座を確かめ、制御箱の裏板まで外してみた。
それでも、何も出てこない。
肩で息をしながら、彼女は最上部の窓辺へ寄った。
島の夜景が遠くに広がっている。
月光に照らされた海が黒く揺れ、その向こうには闇しかない。
この闇の先に、この作られた世界の端があるのだろうか。
たしかに見晴らしはいい。
だが、見晴らしがいいだけだ。
ここは紛れもなく、どこにでもあるような、何の変哲もない灯台だった。
そもそも、ここは誰でも来られる場所だった。
地図の端という立地の悪さはあっても、つい先ほどまで特別な封鎖があったわけではない。
刑務作業が始まった直後から、理屈の上では誰でも訪れることのできた場所だ。
そんな場所に、本当に刑務作業の根幹を揺るがす設備を置くだろうか。
禁止エリアになった途端に、秘密の装置が突然出現する?
そんな都合のいい話があるわけがない。
少なくとも、そんな機械はここに存在しない。
「……じゃあ、何だったのよ」
メリリンは、ゆっくりその場にしゃがみ込んだ。
最上部まで登りきったせいで脚が震えているのか、それとも別の理由なのか、自分でも分からない。
トビは言っていた。
サリヤの存在こそが、刑務作業に意図的に残された脱獄の道筋なのだと。
サリヤが求めたメリリンの力こそ、このシステムを壊すための鍵なのだと。
だからこそ灯台へ辿り着けば、何かがあるはずだと。
サリヤが託したものの先に、確かな答えがあるはずだと。
けれど、現実はどうだ。
灯台は、ただの灯台だった。
海を照らすための塔。
それ以上の顔を、どこにも見せてはくれない。
見当違いだったのだろうか。
トビの推測も。
サリヤの存在も。
エンダや安理が命を懸けて自分をここへ送った意味も。
宿敵へ挑んだローマンの敗北も。
全部、繋がっているように見えて、ただ自分がそう信じたかっただけだったのか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の内側へ冷たいものがじわりと広がった。
ここまで来た。
失ったものを数えきれないほど背負って、ようやく辿り着いた。
その果てに待っていたのが『何もない』だとしたら。
もう一歩も動きたくないような倦怠が、全身へ染み込んでくる。
このまま座り込んで、何もかも放り出してしまいたい。
そんな衝動が、波のように押し寄せた。
その時だった。
視界の端で、小さな金属が月光を返した。
メリリンの目がそちらへ向く。
床に置いたままのデイパック。
その口から少しだけ覗いていたのは、先ほど押し込んだ通信機だった。
ローマンが残したもの。
それを見た瞬間、心を覆いかけていた絶望へ、細い亀裂が入る。
「……まだ」
メリリンは、自分の頬をぱちんと叩いた。
乾いた音が灯室に響く。
痛みが、少しだけ意識を引き戻す。
「まだ、終わってない…………!」
通信機を取り出す。
手の中に収まる、小さな機械。
ローマンの声が最後に通った、希望とも呪いともつかない置き土産。
その表面を眺めた瞬間、脳裏のどこかに引っかかりが生まれた。
この通信機には見覚えがある。
メルシニカにいた頃ではない。
もっと近い記憶。この刑務作業の中で直接的に見た。
「思い出せ……思い出せ……ッ」
眉を寄せ、通信機を握りしめる。
すぐに思い出せないということは、強烈な印象として焼きついた出来事ではない。
何気なく視界へ入った程度の、小さな記憶なのだろう。
記憶の底を無理やり掻き回すように、思考を潜らせる。
「…………あ」
思い至る。
そうだ。あれは、被験体との戦いが終わった後。
ブラックペンタゴンの中庭でのことだ。
状況報告を済ませ、先んじてひとりブラックペンタゴンから離れていった青年がいた。
名前はたしか、エネリット。
これと同じ通信機が、彼の囚人服のポケットから覗いていた。
たしか、外にいる同盟者、ジャンヌと連絡を取るための回線だとか、そんな話だったはずだ。
ディビット・マルティーニと共に、ブラックペンタゴンでの戦闘方針を取りまとめていた知恵者だと聞いている。
この行き詰まった状況を打開するには、新しい視点が要る。
彼なら何か分かるだろうか。
彼はトビが脱獄の誘いを持ちかける前に、その場を離れてしまった。
彼も同じ立場の囚人である以上、事情を改めて説明すれば、協力を得られるかもしれない。
メリリンは通信機を調べた。
接続先の電波を固定し、対となる通信機との一対一通信だけに限定した仕様。
自由に周波数を開けない、閉じた機械だ。
だが――。
「……私を誰だと思ってんのよ」
絶望を振り払うように、メリリンは不敵に笑う。
ただの通信機など、第二段階の力を使うまでもない。
『補え、私の愛する人工物質』によって通信機の外装が、かすかに震えた。
固定されたペアリング。
ひとつのチャンネルしか通さない狭い流れ道。
ならば、その道筋を少しだけ拡げればいい。
信号の通り道を読み、微細な歪みを整え、閉じた回路へ新しい抜け道を作る。
表示が一瞬だけ乱れ、通信機は新たな待機状態へ移行した。
これで、固定された対の外側へも通信を飛ばせる。
もっとも、エネリットの持つ通信機にも、本来の接続先がある。
恐らくはジャンヌという事になっているが、それを今、誰が持っているのかまでは分からない。
それはエネリットの通信機も同じである。
正直、どちらの通信機に繋がるのか、それを今誰が持っているのか分からない。
誰に繋がるかは殆ど賭けだ。
それでも、この状況を打ち破る何かが、そこにあるかもしれない。
ローマンが送ってくれた希望だ。賭ける価値はある。
メリリンは灯台最上部の窓辺へ移動した。
少しでも通りのいい位置を選ぶ。
月光が通信機の金属縁を淡く照らす。
彼女は、ひとつ深く息を吸う。
意識を一点へ絞り込む。
そして、細い蜘蛛の糸を手繰るように。
闇の向こうにどこか繋がっているはずの線を探るように。
メリリンは、通信を開始した。
■
『こちらメリリン……メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。どうか応答して』
耳に飛び込んできた名乗りに、エネリットは珍しく目を瞬かせた。
「……メリリンさん?」
反射的にそう漏らしてから、すぐに表情を消す。
氷月に襲撃されているはずの彼女が、なぜ通信機を持っているのか。
返り討ちにして奪ったのか。それとも別の経緯があったのか。
いくつかの可能性が脳裏をよぎったが、今は詮索を優先すべき場面ではない。
「こちら、エネリットです」
内心の揺れを一片も滲ませぬまま、いつも通り穏やかな声で応じる。
『エネリットくん……よかった。聞いて。緊急なの。貴方の知恵を貸してほしい』
返ってきた声は、平静を装ってこそいたが、到底余裕のあるものではなかった。
張り詰めた息遣いと、押し殺された焦燥だけで、向こうが切迫した状況にあることは十分に伝わってくる。
エネリットは一度だけ征十郎へ視線を送った。
征十郎は事情を問うでもなく、面倒そうに肩をすくめる。
「急ぐ道でもない。好きにしろ」
刑務作業の終了までに辿り着ければいい。
目的地である岩山の中腹も、もう遠くはない。
多少足を止めたところで、大勢に影響はなかった。
「ありがとうございます」
短く断ってから、エネリットは再び通信へ意識を戻す。
「落ち着いてください。まずは、そちらの状況を順に聞かせていただけますか?」
『……ええ。ごめんなさい。少し取り乱してた。手短に話すわ』
通信の向こうで、メリリンが一つ深く息を吐く気配がした。
自分を落ち着かせているのだろう。
エネリットにとっても、彼女が今どのような状況に置かれているのかは興味がある情報だった。
それからメリリンは、ブラックペンタゴンを離脱して以降の経緯を、必要な部分だけを拾い上げるように語った。
トビたちと脱獄を目的に手を組んだこと。
キングとの接敵に際し、エンダが足止めに残ったこと。
そして、自身と安理の首輪を解除することに成功したこと。
そこまで聞いたところで、エネリットは小さく息を吐いた。
「……なるほど。首輪を解かれたのですね。それはすごい」
皮肉ではない。純粋な賞賛だった。
首輪は、この刑務作業そのものを支える根幹の一つだ。
そこへ直接手を掛けたというのなら、それは偉業であると同時に、明確な禁忌でもある。
ジョーカーが差し向けられた理由も、これで腑に落ちた。
「ですが、随分と危険な橋を渡りましたね。アビスが黙って見逃すとは思えません」
確認したい情報を引き出すべく、エネリットはそこで相手の続きを待つ。
『ええ。それが理由かは断言できないけれど……その直後に、ジョーカーの襲撃を受けたわ』
「ジョーカー……ですか」
そこまではエネリットの認識通りだ。
氷月の襲撃は行われた。問題は、そこからどう転がったかである。
『アンリくんが相手の正体をジョーカーだと見抜いた。でも、彼は足止めに残って殺されてしまった……。
私はその隙になんとか禁止エリアの灯台まで辿り着くことができた。でも――灯台には何もなかった。何も……見つけられなかったの』
「なるほど。そんなことが」
短く応じながら、その一言の裏でエネリットは思考を巡らせる。
『襲ってきたのはジョーカーでも、特殊な首輪持ちではなかった。少なくとも、あの男がこの先まで追ってくることはないはずよ。
けれど、黒い首輪を持つ被験体が差し向けられる可能性はある。時間がないの』
最後の一言には、疲労と焦燥がはっきりと滲んでいた。
仲間を失い、ようやく辿り着いた先が空振りだった。
その重さが、言葉の裏から伝わってくる。
「事情は分かりました」
エネリットは一度だけ目を伏せ、それから静かに告げた。
「ひとまず、一つ安心材料をお伝えしておきます。被験体:Oについては、すでに討伐を確認しています」
『……本当に?』
通信の向こうで、メリリンが息を呑む気配がした。
被験体は、隣にいる征十郎が討ち果たした。黒い首輪も、今はこの場にある。
最大の懸念が一つ消えたのだろう。通信の向こうで、メリリンがかすかに安堵の息を漏らす。
だが、エネリットはそこで話を終えなかった。
「もっとも、アビスに取れる手段がなくなった、という意味ではありませんが」
『……どういうこと?』
メリリンの声音が、すっと硬くなる。
首輪の爆破はできない。通常の追手も振り切った。
それでもなお、何の脅威が残るというのか。
「極端な話、本当に刑務作業の運営に関わる不測の事態だと判断したなら、それこそ刑務作業自体を中止してしまえばいい。
そこまで大仰な手を打たなくとも、物資の転送が可能なら、囚人の転送だって理屈の上では可能なはずです。
ルール違反を咎めたいのなら、この舞台から引き剥がしてアビスへ戻し、直接処罰する――そういう手段も、考えようによってはあり得るでしょう」
通信の向こうで、メリリンが息を呑むのが分かった。
『……そうしないってことは、まだ私たちは掌の上、ってこと?』
「そうですね。その可能性は高いでしょう」
エネリットはあっさりと認めた。
希望を持たせるための、都合のいい慰めを差し挟む性格ではない。
「ですが」
『……ですが?』
エネリットの視線が、月明かりに白く縁取られた岩山の中腹へ向く。
その先には、世界の歪みがある。
「そうできない理由があるのなら、話は別です」
『…………理由って?』
メリリンが訝しげに問い返す。
アビスはこの刑務作業の管理者だ。
有事に大鉈を振るえないのであれば、管理者としての価値そのものが揺らぐ。
「具体的な内情までは分かりませんが……例えば、アビス以外の別の意向が働いている場合、ですね」
その言葉を受けて、短い沈黙が落ちた。
やがて、メリリンが低く言う。
『……アビスには、GPAとは違う目的がある。アンリくんが、そう言っていたわ』
その一言に、興味深げにエネリットの目がわずかに細まった。
「なるほど。アンリさんが過去視で掴んだ情報、ということですね」
エネリットですら聞かされていない氷月の隠し事。
それを暴かれたのが意図しない事故なのか、それとも氷月なりのアビスへの嫌がらせだったのかは分からない。
だが、それが事実なら一つ筋が通る。
「GPAという上位の枠組みがある以上、アビスには独断で刑務作業を中止する権限はないのかもしれません。
介入や懲罰についても、事前に告知したルールの範囲を、大きく逸脱できない可能性がある」
『被験体以外のジョーカーなんて、私ら聞いてないんだけど……?』
「我々に対してではなく、GPA(うえ)に対して、ですよ」
アビスは檻の番人ではあっても、檻そのものを壊す権利までは持たない。
そう考えれば、首輪を失った囚人を即座に排除しない理由も見えてくる。
できないのか、許されていないのか、あるいは今はまだ、その必要がないのか。
「アビスにGPAとは別の意図があるなら、下手に陳情もできないし、動きづらいのも道理でしょうね」
窮屈そうなアビスが妙に可笑しくてエネリットはくっと笑う。
そこに隙がある。
付け入る余地がある。
『そう。だからこそ、その隙を見つけたい。けれど……私には、灯台に何も見つけられなかった』
通信の向こうで、メリリンが押し殺したような声を漏らした。
『首輪は外せた。灯台にも辿り着けた。でも、その先が分からない。
だからお願い……知恵を貸して』
縋るような声だった。
頼れるものなら、何でも頼るしかない。
そんな切迫が滲んでいる。
エネリットはわずかに黙り込む。
メリリンからすれば脱獄への誘いこそがメリットなのだろう。
だが、脱獄に興味のないエネリットにとって、この提案を受ける理由はない。
しかし、安理たちの情報を氷月へ流したのは、他ならぬ自分だ。
ジョーカーの襲撃が首尾よく決まった一因は、自分にもある。
もちろん、それで罪悪感を抱くような性質ではない。
だが、貸しではあるだろう。
そういう帳尻は、なるべく残さない。
それがエネリットなりの流儀だった。
「分かりました。出来る範囲であれば、お力添えしましょう」
一度だけ征十郎に視線をやる。
征十郎は面白そうにこちらを見ていたが、口は挟まなかった。
「とはいえ、現場にいない私に断定はできません。ですから、答えそのものではなく、考え方のヒントだけになりますが」
『それでいいわ。聞かせて』
迷いのない返答だった。
藁にも縋る思いで、すでに頼ると決めている声だ。
エネリットは静かに言葉を選ぶ。
「あるかもしれない物を探すのではなく、あると決めて考えてみてください」
『……ある、と決めて?』
「ええ。当て推量、というやつです。あるという前提で思考を掘り下げる。そうすれば、見えてくるものもある」
月光が岩肌を撫でる。
その冷たさを頬に感じながら、エネリットはさらに続けた。
「ですから、今あなたが考えるべきは、Whodunit(そこに何があるか)ではありません。Whydunit(何故そこにあるのか)です」
通信の向こうで、メリリンが息を潜めるのが分かった。
「この刑務作業の根底を揺るがす『何か』が本当に存在するとして、なぜそれが灯台に置かれているのか。
何のためにそこにあるのか。どうして、灯台でなければならなかったのか。
その理由を逆算していけば、自ずと探し物の輪郭も見えてくるはずです」
しばらく、通信の向こうは静かだった。
考えているのだろう。
やがて、メリリンが小さく息を吐く。
『……探し方を変えろ、じゃなくて。考え方を変えろ、ってことね』
「ええ。その方が今のあなたには向いています」
『分かった。もう一度、考えてみる』
声から感じられる疲労は消えていない。
だが、その声には先ほどまでとは違う、一本の芯が戻っていた。
手探りの闇の中で、ようやく一本の糸を掴んだ者の声だった。
「ええ。それがいいでしょう。ご健闘を」
『ありがとう』
短い礼とともに通信が切れる。
耳元から機械音が消え、夜の風だけが戻ってきた。
エネリットはゆっくりと通信機を下ろす。
「お待たせしました」
そう告げると、征十郎が小さく笑った。
「いや。なかなか面白い話だった。どこで身につけるんだ、あんな口八丁」
「アビスには詐欺師の方もいらっしゃいましたからねぇ。それに、他にやることもありませんでしたので。自由時間は図書館で本の虫でしたから」
エネリットは肩をすくめる。
征十郎は鼻を鳴らした。
「だが、何故答えを直接教えてやらなかったんだ?」
メリリンから詳細を聞いた時点で、エネリットには答えの輪郭が見えていた。
メリリンの現在地と、征十郎が先ほど示した『エネリットへ繋がる線』の方角が重なっていることには、エネリットだけでなく征十郎も気づいている。
それはアビスに不利になる情報を、あからさまに伝えたくなかったからでもあるが、それだけではない。
「カンニングした答えを、そのまま告げるのも無粋でしょう?」
その返答に、征十郎はくつりと笑い、それから視線を岩山へ戻した。
「――さて。それより、近づいてきたぞ」
「近づいてしまいましたねぇ」
嬉々と口元を歪める征十郎と対照的に、嫌そうため息をつきながらエネリットもまた前方へ目を向ける。
中腹では、世界の歪みが夜空をわずかに揺らしていた。
征十郎はその異形の空を見上げる。
エネリットもまた、それに倣う。
草の匂いは、もう薄い。
乾いた岩の匂いと、目には見えない破綻の気配だけが、冷たい夜気の中に満ちていた。
二人の悪童は、改めて世界の歪みに向かって歩き出した。
【F-6/岩山中腹/一日目・夜中】
【征十郎・八柳・クラーク】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大・処置済)、超力第二段階、ヴァイスマンのタグ除去
[道具]:デイパック×2、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(使用済)、漆黒の喪服風スーツ、メモ帳、ジェイ・ハリックの首輪(未使用)、被験体の首輪(未使用)、銘のない贋作の刀(永遠)、日本刀×2
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.――まだ、斬れるものはあるだろう?
1.まずは世界を斬る、そして呼び出した『永遠のアリス』を斬る
※ブラックペンタゴン3Fの機密資料を殆ど閲覧していませんが、要点だけ目を通しているかもしれません。
※タチアナの魂はこの世界から消えています。新世界であろうと、彼が齎した結末は変わりません。
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)、超力『殺人の資格(25%)』
[道具]:マシンガン(弾倉残り1)、リモコン爆弾×1、デジタルウォッチ、通信機、コイン一枚、黒いコート
[恩赦P]:50pt
[方針]
基本.ひとまず氷月に協力する
1.征十郎の世界斬りを見届ける。
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
①マーガレット・ステイン(刑務官)
信頼度:80%(徴収時の超力再現率40%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄の女』
②~④ジョニー・ハイドアウト、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン、只野仁成
信頼度:全て5%前後(10%→5%に減少)
効果上限:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
超力:『鉄の騎士(アイアン・デューク)』、『補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)』、『人類の到達点(ヒトナル)』
⑤スヴィアン・ライラプス
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄火の印(マメルティニ)』
⑥ディビット・マルティーニ
信頼度:100%(徴収時の超力再現率50%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『4倍賭け』
⑦氷月 蓮
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『殺人の資格』
■
通話を終えたあとも、メリリンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
耳元から機械音が消え、灯台最上部の灯室には、再び静寂だけが満ちていく。
窓の外では、夜の海が黒くうねっていた。
灯室の中央には巨大なレンズ機構が静かに鎮座し、月光を受けた硝子の稜線だけが、冷たく青白い光を返している。
吹きつける風は冷たいはずなのに、今の彼女にはそれすらひどく遠かった。
意識の大半が、たった今与えられた言葉の方へ向いていたからだ。
『何があるかではなく、なぜそこにあるのか』
エネリットの助言が、今も頭の中で静かに反響している。
メリリンは深く息を吸った。
乱れた呼吸を押し込み、無理やりにでも思考を整える。
焦りに呑まれたままでは駄目だ。
ここから先は腕力でも勢いでもない。頭で切り開くしかない。
制限時間は、もうほとんど残っていない。
ここに何もなければ、それで終わる。
脱出の道も、サリヤの仮説も、安理が命を懸けて繋いだ可能性も、すべてここで潰える。
ならば、前提そのものを置き換えるしかない。
『ここにある』
それを疑うのではなく、そうだと決めて考える。
ここになければ敗北は確定するのだ。
今は、その仮定に縋るしかない。
ここにあるとするなら――なぜ、ここなのか。
ブラックペンタゴンのような中央施設なら分かる。
あれほど異様で、あれほど露骨に『何かある』と主張している場所なら、秘密が眠っていても納得がいく。
だが、この灯台は違う。
巨大なレンズ。古い機構。海へ光を投げるためだけの設備。
どこをどう見ても、機密を隠すための施設には思えない。
島の先端に建っていても何ひとつ不自然ではない、ただの灯台だ。
だからこそ、最初は重要そうに見えない場所へ、あえて重要なものを隠したのではないか。
思い込みの裏をかくための逆張り。
それは十分あり得る発想だった。
けれど。
もし、そうではないのだとしたら。
メリリンは目を閉じる。
脳裏に、ここまでの断片を一つずつ並べていく。
灯台という場所。
岬の先端。
島そのものの異様さ。
刑務作業のために構築された、閉じた世界。
「ここでなくてはならない事情があった」
もし、そうだとしたら。
何が『ここ』を必要とした?
メリリンの思考が、ひとつずつ可能性を弾いていく。
単なる目印か。
監視地点か。
転送座標の基準点か。
外部との通信補助か。
あるいは――。
そこで、はっと目を開く。
胸の内で、何かがかちりと噛み合った。
「そうか……」
小さく漏れた声が、灯室の中で薄く反響する。
監視なら、もっと露骨な装置があるはずだ。
通信施設なら、もっと機械が残る。
転送の中継点だとしても、設備がなさすぎる。
なら、灯台そのものに意味があるわけではない。
別の何かが先にあって、それを覆い隠すために『灯台』という形が与えられたのではないか。
「……逆、なんだ」
灯台に重要な『何か』を置いたのではない。
重要な『何か』は、最初からここにあった。
それを覆い隠すために、岬の先端にあっても不自然ではない建造物として、灯台が建てられたのだ。
その発想に至った瞬間、それまで噛み合わなかった断片が、芋づる式に繋がり始めた。
この島は、ただの島ではない。
刑務作業のために構築された、『創られた世界』だ。
ならば、その世界にも、創られた痕跡があって然るべきではないか。
メリリンは自分の掌を見下ろした。
そこには、首輪を外した時の感触がまだ残っている。
あの首輪と同じだ。
どれだけ継ぎ目がないように見せかけても、継ぎ目そのものが消えたわけではない。
人が作ったものである以上、組み上げた痕跡はなくならない。
繋ぎ目はなくなったのではない。ただ、見えなくされているだけだ。
見えなくされているだけで、確かにそこにある。
それは、この創られた世界だって同じではないのか。
世界を作った際の始点か終点か。
あるいは、閉じた構造を閉じるための一点か。
全体をどれほど滑らかに偽装しても、風船の結び目のように、どうしても消しきれない痕跡。
それが、ここにある。
「……推測は、できた」
そこまではいい。
問題は、その先だった。
推理の輪郭は見えた。
だが、見えたからといって、すぐに手が届くわけではない。
問題は、それをどう見つけるかだ。
目に見えない世界の縫い目、空間の繋ぎ目。
そんなものを、どうやって探せばいい。
壁の継ぎ目のように指でなぞれるわけではない。
床を剥がせば出てくるようなものでもない。
そもそも空間そのものの境界を、どんな理屈で感知するというのか。
メリリンはその場で静かに瞼を伏せた。
思考は自然と、ひとつの答えへ辿り着いていた。
『鼓動を打て、機械仕掛けの魂(コラソン・デ・イェロ)』
人工的に製造された物質の『意志』を掴み取る力。
形ある人工物の『そう作られた理由』を捉える異能。
ならば――。
メリリンはゆっくりと顔を上げた。
灯台を見るのではない。
その向こうにある、この島全体を俯瞰するように、視線を遠くへ向ける。
ここにあるのは既に構築された世界の完成物。
サリヤとの戦いでメリリンが干渉したのはあくまで異世界構築機構(システムB)の制御装置に対してだ。
完成物に対してではない。
だが、できるはずだ。
ここは人工的に製造された世界だ。
メリリンの超力は、完成した人工物にも作用する。
ならば対象を、この灯台だけでなく、この世界そのものへ広げればいい。
何より、この力はシステムを壊すためにサリヤが求めた力だ。
ならば、届かないはずがない。
メリリンは目を閉じた。
己の感覚を、いつもよりずっと深く沈めていく。
灯台の歯車、レンズ、階段、壁材――そうした分かりやすい人工物を踏み台にして、その外へ、そのさらに外へと意識を拡張していく。
建物ひとつを見るのでは足りない。
この空間全体を、ひとつの構築物として認識しろ。
世界の輪郭そのものを、人工物として捉えろ。
自分だけしかなかった閉じた世界。
その殻を壊して、外側へ、もっと押し広げろ。
「私の中の世界を、もっと――――」
誰に言うでもなく、そう呟く。
自分自身へ命じるように。
己の中の世界を――――拡張しろ。
指先が、そっと空気へ触れた。
視るのではない。
触れるのでもない。
世界に組み込まれた『理屈』へ、自分の感覚を滑り込ませていく。
風が鳴る。
レンズが軋む。
石壁が冷えている。
そうした個々の感触が、ひとつの大きな構造の中へ溶けていく。
だが、メリリンが求めているのはそこではない。
灯台はただの覆いだ。
手を伸ばすべきは、その下にあるもの。その外にあるもの。
この場所でなければならない理由。
それを支点にして、見えない線を逆算していく。
感覚を広げる。
灯台の輪郭から零れ落ち、床下へ、壁の向こうへ、空間そのものへ。
頭の奥がじんと熱を帯びた。
息を吸うたび、胸が焼ける。
無理に感覚を押し広げているせいで、視界の端がわずかに揺れる。
それでも止めない。
ここで止まるわけにはいかない。
すると、不意に。
「――あ」
そこには何も見えない。
けれど、感じられる。
ごく微かな、けれど決定的な『引っかかり』があった。
違和感というほど大きくはない。
だが、均一であるはずの空間の中で、そこだけ何かがわずかに滞っている。
綺麗に塗り潰された絵の上で、最後の一刷毛だけがまだ乾ききっていないような。
何も見えないのに、『そこにある』としか思えない奇妙な手触り。
メリリンはゆっくりと目を開いた。
「……見つけた」
思わず、声が漏れる。
灯室の中央から少し外れた位置。
メリリンの背丈では、わずかに届かない高さの空間。
本来なら、ただ空気があるだけの場所。
そこに、見えない継ぎ目がある。
世界を閉じた痕跡。
風船の結び目のような、誤魔化しきれない一点。
現実の表面に、見えない縫い目が走っている。
「さて……どうしようか」
思わず、そんな言葉が漏れた。
目に見えない空間の縫い目を前にして、メリリンは初めて困ったように眉を寄せる。
見つけたのはいい。
だが、その先が問題だった。
そこにある以上、触れる方法はあるはずだ。
けれど、まだその具体的な手段が見えていない。
首輪のように工具を差し込める相手ではないし、物理的な構造物のように分解の手順を辿れるわけでもない。
『鼓動を打て、機械仕掛けの魂』で干渉までできるか。
分からない。
試すこと自体は、できるだろう。
だが、これはいつもの機械いじりとは違う。
対象は、世界そのものだ。一手を誤れば、何が起きるのか見当もつかない。
繋ぎ目に触れた瞬間、灯台ごと崩れるのか、空間そのものへ裂け目が走るのか、それとも別の何かが噴き出すのか。
博打を打つには、まだ少しだけ早い。
メリリンは、見えない継ぎ目の位置を目に焼きつけた。
中央レンズの台座から何歩。
窓枠の鉄骨からどれだけずれているか。
灯室内の配置と重ねて、正確な位置関係を頭へ刻み込んでいく。
成果はあった。
繋がるものは見えた。
彼らの命に報いるだけの発見かどうかは、ここから先の自分次第だ。
ならば、ひとまずこの発見を持ち帰り、トビたちの別班との合流を考えてもいい頃合いかもしれない。
自分ひとりでは見えない打開策を、彼らが持っている可能性はある。
問題は、襲ってきたジョーカーだ。
安理と相打って倒れた、などという希望的観測はするべきではない。
奴はまだ生きていると考えるべきだろう。
そして、奴がジョーカーだというのなら、被験体だけでなく、奴にもこちらの現在位置が知れていてもおかしくはない。
下手に外へ出れば、待ち伏せの危険がある。
とはいえ、ここへ引きこもっていてはトビたちと合流もできない。
彼らはまだ首輪に囚われている。
首輪を外すためにも、接触は必須だ。
そのためには、奴との再戦は避けられそうにない。
先の戦いで手持ちのストックは失われた。
けれど、ローマンが送ってくれた武器がある。
あれを材料に、新しい兵器を組み上げることはできるだろう。
「……リベンジといきましょう」
その時、胸元の流れ星のアクセサリーが、かすかに熱を返した。
まるで『そこで立ち止まるな』とでも言うように。
メリリンはその熱を指先で確かめると、もう一度だけ見えない継ぎ目を見上げた。
「待ってなさいよ。必ず暴いてみせるから」
小さく、けれど確かな声でそう言い残し、メリリンは灯台の階段へと足を向けた。
そして、螺旋階段を下り始めた。
【A-1/灯台/一日目・夜中】
【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(小)、薄黄色のボイラースーツ、帽子とゴーグル、流れ星のアクセサリー(R)、首輪解除
[道具]:デジタルウォッチ、銀鈴・宮本麻衣・ドンの首輪(使用済み)、ジェーンの首輪(未使用)、北鈴安理の首輪(解除済み)、エンダ・Y・カクレヤマの首輪(未使用)、デイパック×2(催涙弾×2、食料一食分、幾つかの食糧と酒)
[恩赦P]:50pt
[方針]
基本.ローマンの想いと共に、生き延びる。
1.トビたちと合流。成果を共有する。
2.ジョーカーの男(氷月蓮)と決着をつける
※サリヤ・K・レストマンの遺体から「流れ星のアクセサリー(R)」を中心とする物資を回収しました。
北鈴 安理の魂を回収し過去視の超力を使用可能です。
※大金卸 樹魂の破損した首輪の解析、および超力第二段階への覚醒によって、首輪を解除しました。
他の受刑者の首輪も同様に解除できるようになりました。
※超力の第二段階に至った『到達者(プレシード)』です。
形ある無機物に対する極めて高度な解析・改造を行う超力『鼓動を打て、機械仕掛けの魂(コラソン・デ・イェロ)』が使用可能です。
最終更新:2026年06月12日 09:57